第1話

文字数 1,933文字

「この虎を退治して見せよ……」
 将軍は言った。
(ふん。私を試そうとしていますね……)
 逸球は不敵に笑った。屏風の虎が人を襲うはずがない。
「分かりました。では、縄とたすきをお貸し下さい」
「素手で捕まえるつもりか? 槍や刀もあるのだぞ?」
「なんの武器が要りましょう」
 逸球は、たすきを掛け、縄を携えて叫んだ。
「さあ。虎を屏風から追い出してくだされ!!
「……何を言っておる?」
 将軍も家臣衆もぽかんとしている。
「ですから、虎を屏風から追い出して……」
「そのようなことが出来れば苦労はせぬ……」
 将軍は項垂れた。
「え……?と、仰せられますと?」
「螺川真衛門。屏風を槍で突け」
「はっ!!
 一人の侍が進み出た。
 屏風は、あっという間に貫かれ……なかった。
 刺さった瞬間、弾き飛ばされたのは真衛門だったのである。
「ななな……何ですこれは!?」
「見ての通りじゃ。火でも燃えぬ。海へ流しても、翌朝には戻ってきておる……」
 将軍の顔には、濃い隈ができていた。
「そして、夜な夜な屏風を抜け出し人を喰らう……真衛門」
 真衛門が袴をまくると、そこには生々しい爪痕が。
「虎を退治せんとした結果じゃ……」
「虎には、槍も刀も効かなかったのでございます」
 真衛門は悔しそうに呟いた。
「昨夜はついに……城下の民が犠牲に……これ以上放っておけぬ」
「あのその……マジで?」
「殺されたのは、婚礼を控えた若い娘であった……もう城ごと燃やす以外にない、と覚悟した時、お主の噂を聞いた。どうか……」
 将軍は跪き、手をついた。
「逸球殿、何卒、お願いいたす」
 真衛門も、地に頭をすりつける。
 逸球はびびっていた。だが、できないと言える状況ではない。
 逸球は師に助けを求めた。
「和尚様……いかがいたしま……あれ? 和尚様?」
「僧正殿は、急用とかで、今し方お帰りになられました」
「えッ!? マジで?」
「マジで」
 小姓はにっこりと頷いた。
 こうなれば、誤魔化して逃げるしかない。
「わわ……分かりました。必ず退治いたしましょう」
「おお!! ありがたい!!
「さすがは逸球殿!!
 周囲の家臣群も顔をほころばせ、喜び合った。
「つつ……つきましてはっ!!
 逸球は、声が裏返るのを止められなかった。
「なんじゃ?」
「準備をいたしたく……寺に戻ることをお許し願えませんか?」
 将軍は、ほっと頬を緩めた。
「心配は要らぬ。城にはあらゆる武器、道具が揃えてある。無い物があれば、すぐ用意させよう」
「でででは……武器を吟味いたします故、退治は明日、と……」
「……それでは今夜また犠牲者が……あい分かった。今夜は儂がここに残ろう」
 真衛門が、血相を変えた。
「いけません上様!! 拙者が残りまする!!
「ならぬ!! 儂はこれ以上、誰も失いたくないのじゃ!!
「上様……」
 泣き崩れる二人を前に、逸球は何も言えなくなってしまった。
「あの……今夜やります」
「まことか!?」
「逸球殿!! ありがたい!! 我々は邪魔にならぬよう、城下の宿へ行く」
「いえあの、ちょっと待って」
 しかし逸球の声は、安堵の騒めきに掻き消され、誰にも届くことはなかった。
 人の消えた大広間。
 遠くで鳴る鐘。
「そうだ……武器……」
 逸球は、よろよろと立ち上がった。
 とはいえ相手は武器を受け付けない、妖しの虎なのだ。
 戦って勝てるとは思えない。
「……隠れるんだ……ここなら!!
 逸球は床下に潜り込もうとした。
 灯台もと暗し。人間なら盲点だ。だが。
「……獣は臭いで探す。隠れても無駄だ」
 次に、女中衆の布団部屋を探し当てた。
「この女の臭いに混じれば……」
 だが、積み重ねられた布団に潜り込んで数十分。
「暑いッ!! ダメだ……これでは」
 命が掛かっているのだ、暑いくらいは我慢する。
 だが、この汗の臭い。虎が気付かぬはずはない。
「助けて和尚様ッ!! 母上様ッ!!
 恐怖の極に達した逸球は、便所へ飛び込んだ。
「はぁ。はぁ。うう、臭い……おえ」
 先ほど得意げに平らげたご馳走(*ホントのとんち話参照)を、すべて戻した。
「……どうしてこんな事に……そ、そうだッ!!
 目に沁みるアンモニア臭。
 ここなら……激烈な悪臭で誤魔化せる。
 逸球は覚悟を決めた。

 翌朝。
「……まさかこのような方法で……」
 将軍は、感服している。
 虎は、朝になっても屏風に戻らず、白く抜けたまま。
 便所の戸には爪痕。そして糞尿の中には、紙切れが。
 攻撃の効かぬ虎も、アンモニア……アルカリ性の糞尿で顔料が溶けてしまっては、姿を保てなかったのだ。
 手を合わせる真衛門。
「自らを犠牲に……なんと尊い」
 希代のとんち小坊主・逸球は、その顔に恐怖を貼り付けたまま、肥ツボの中でのどを噛み裂かれ、息絶えていたのであった。
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