第零話

文字数 5,549文字


 むかしむかし、背の高い山々が連なる其の奥の、其のまた奥の森に深深と小雪が舞い始めた頃でしょうか、山々に囲まれ日射しのあまり届かないような麓にふらり(・・・)と可愛らしい娘が訪れたことから世間では大騒ぎとなりました。──それはもう狭い世間のことですから(たちま)ち噂が噂を呼び、此の世と言わず()の世も含め(あれ)程の美しさは見たことも聞いたこともないと話に事欠かない事態となったので御座います。

 但し、──ええ、良い噂ばかりでは無かったことも確かで御座います。何せ山深い、他所者が滅多に訪れるぬような処にどのような訳が有って若い娘が来たのか、それも此れから迎える厳しい冬を(かんが)みれば無理からぬことでした。それに、……ええ、根も葉も無い噂話はこの辺で止めておきましょう。だってそれらを吹き飛ばすくらい、それはそれは可愛らしい娘、──だそうです。


 さて、それから数ヶ月、銀の世界が生命溢れる豊穣の季節を迎え、更に恵みの雨が通り過ぎた頃、奥のまた其の奥で密やかに暮らす老年の男性が独り言のように呟いていたそうです。──とは申しましても周囲に近しい者は誰も居ませんでしたから、その独り言は自らを癒す役割も担っていたかも知れません。

「もし、()の娘とやらを一目でも見ることが叶えば……見たからと言ってそれが何になるのだ? いや、別に見るだけなら問題は……何処にも無いだろう。少しだけ、ほんの少しだけ見るだけだ。……それで、それで、……その後はどうする? それで満足? それだけで十分なのか?」

 そう呟いた後、暫く沈黙してしまいました。そして長い溜め息を一つ、また一つ、更に一つと続けてから、

「何を、馬鹿らしいことを考えているのだ。……私は一体何を、期待かそれとも夢でも見ているのか。この老いぼれの私が若い娘に興味を抱くなど、とんだ笑い草だ。……思っただけでも恥ずかしい事ではないのか……、いや、思うだけなら良いのではないか。……そう、心の隅で微かに思い描いたとしてもそれが現実に成るものではない。……それくらい、自由に思うだけでも、……」

 と呟いた後、また溜め息を一つ、また一つ。そして、

「考えるだけ、思うだけ虚しさが(かさ)むだけではないか、……」

 と、小さな声を溢すと風が運び去って行くかのように下から上へと吹きました。するとそれを押し戻す風が別の声を運んできたようです。

「爺さんにまだそんな色気が残っていたとは驚きだ。そんなものは()うに枯れたものだと思っていたが、いやはや、なか/\しぶといものなんだな、色ってやつは。……だから長生きなのか、それが秘訣ってやつだな、そうだろう?」

「何だ、御主か。……さて、何を言っているのか、さっぱり見当が付かないが——」

 ふらりと現れた中年の男性は少し口元を緩めながらお爺さんに声を掛けました。わざわざ山深い地まで足を運んで来たということは、それなりの付き合いが有ってのことでしょう。

「爺さんが恋い焦がれている様は滑稽を通り越して哀れにも見えてな。——いや、これは失敬、(あれ)に歳なぞ関係ないか。……まあ無理もない、こんな奥まで噂が届くほど風が吹き荒れたのだから。……そうだな、そんな季節が巡って来たと言えばそうなんだろう」

「さっきから御主は何を云っているのか、見当違いにも程があるぞ。私は何も言ってはいない、勘違いするな。……それよりも、何か用事でもあるのか、わざわざ立ち寄った理由は何だ」

「おっと、話を逸らさないでくれ。そこら辺に聞こえる、いや、森中に響き渡るくらい、そんな大声を誰が聞き漏らすっていうんだ。嫌でも耳に入るというものだ、……まあいいさ。なあ爺さん、何も恥ずかしい事じゃないんだぜ。老いも若きも(さが)に逆らえるもんじゃない、大いに励めば良いだけさ、大いにな。それに(あれ)は百年、いや千年に一度か二度お目に掛かれるかどうかってくらいだ。噂だけで心を持っていかれても無理はなかろう。なあ、爺さん」

「その言い草だと御主、見たことがあるのだな、その娘を。そうでなければ——」

「ああ、見たとも。それはもう、……。但し遠目からだったが、それでも、……だな」

「……、……、噂だけで十分、興味なぞ無い、少しも、水滴の一粒でさえ持ち合わせていない、いないからな」

「邪魔したな爺さん。まあ、どうであれ、……達者でな」

 そう言い残すと中年の男性は現れた時と同様、フイっと姿を消してしまったのでした。辺りは微風(そよかぜ)が木々の間、枝と葉を、まるで渦を巻くかのようにクルクルと漂う、何とも言い難い生暖かさを伴って吹き(そび)れているよう。



 心の(ざわ)めきを治めようと努める御爺さんです。そこへまた誰かがトコトコと歩み寄って来たようです。その気配に、より一層気持ちを曇らせる御爺さん、出来ることなら今は誰とも会いたくと思いましたが、それが相手に伝わるはずもなく、——というところでしょうか。

「こんにちは」

 声を掛けたのは色白の、まだ若い青年です。その見た目は華奢で頼りなさそうでしたが、目元だけは何処か愛嬌を秘めている、と御爺さんは思ったそうです。

「私に何の用だ。……この辺では見ない顔のようだが以前に会ったことでもあるのか」

「爺さんと話すのは初めてだ。オイラは……用があるのはオイラじゃなくてコッチのほうさ」

「初対面で私を爺さん呼ばわりするとは。なかなか失敬な奴……」

 そう言いかけてピタリと言葉を仕舞い込んだ御爺さんです。何故なら青年の、その背中には可愛らしい娘を背負っていたからです。——そうです、御爺さんにはピーンと分かったようです。その娘こそ噂に聞く(あれ)に違いない、絶対だ、と確信し、全身を襲う急な発熱・震えを覚えたそうな。——しかし、なぜ自分のところに娘がわざわざ訪ねて来たのか、——いいえ、そんな疑念を巡らせる余裕は微塵も無かったようです。何故なら娘が——

「お礼を言いたくて此処まで来てしまいました」

「なに?」

 娘が何を云っているのかとんと(・・・)訳が分からない御爺さんでしたが、これも何かの、見えぬ縁が絡まっているのではないか、とあれこれ昔の思い出を掘り返し始めました。この娘と私との関係、何処かに繋がる糸が必ず有るはずだ、それも運命的な、決して切れることのない見事な糸が、——だ。

「ああ、オイラから説明するよ、爺さん」

 すっかり青年の存在を失念していた御爺さんは、その声でハッと我に返ったようです。序でに夢の迷路を彷徨う心地よさから行き成り追い出されたような気分にも成りましたが、取り敢えず話を聞いてみることに。

「今年の春は短くて直ぐに夏が来ただろう。そんなもんだから山の雪解け水が前より多くてさ、そのせいで河が溢れたってことは知ってるよな、爺さん。それでだ、そん時の水でこの娘が溺れそうになったんだよ。……勿論オイラは助けようとしたんだ。だけどさ、自分の身も危なかったし、……とにかくすっごく危なくて自分を守るのが精一杯だったんだよ。……仕方ないだろう、助けに行ったオイラも一緒に流されたら意味ないじゃん。……それでだ、あぁもうダメだって思ったらさ、オッサンが急に現れて娘を攫って行ったじゃないか。当然オイラは大声で怒鳴ってやったよ。それで弱気になって娘をやっと放したんだ。だから助けたのはオイラなんだけどさ」

「それが礼を云いに来た訳なのか、さっぱり分からないが」

「ああ、オイラもそう思うよ。それどころか文句の一つでも言ってやりたいところだ。だけどさ、あれは溺れたところを助けてくれたんだと娘が云うもんだからさ、仕方なく連れて来たって訳さ」

 青年の言い分を聴き終わった後、更に疑問が募る御爺さんです。長年この地に暮らし、この地を離れたことのない御爺さんにとって誰かと勘違いしていることは明白、それならなぜ私のところに来たのだという思いが膨らむばかりでした。——そこに娘が口を開き、

()の方に礼が言いたくて。()の方は本当に私の身を案じてくださったのです。……私はご覧の通り自分では動けないものですから、この方に無理を言って背負って頂きました。どうしてももう一度会って命の恩人である()の方に礼を言わねばならないのです」

 と言いましたが、()の方とは誰を指すのか、そもそも自分ではないことがはっきりとしたことで気落ちしてしまう御爺さんです。

「話はなんとなく分かったが、……さて、その方と私と、どういう関係があるというのかね。私はそのような者に覚えがないが——」

 と御爺さんが言ったところで青年が割り込んできました。

「あのオッサンだよ爺さん。爺さんとよく話をしてるって聞いたからわざわざこんな(ところ)まで来たんだ。知らないってのは無しだぜ、今、何処に居るんだい、オッサンは。教えてくれよ、爺さん」

 御爺さんの脳裏に中年の男性が浮かびましたが、彼は娘を遠くからしか見たことがないと云っていたので違うと思いました。しかし、他に話し相手が居るかと言えば彼しか知らなかったので困惑しましたが、取り敢えずこの場はそういうことにしておこう、と思ったようです。

「彼奴か、……奴なら、……つい先程まで此処に居たのだが、そんなことは……。まあ、何時になるかは分からないが其の内会えるだろう。だから、また来るといい」

 御爺さんが言い終わると、見るからに悄気(しょげ)てしまった娘です。それ程まで会いたかったのかと胸を痛める御爺さんです。

「すぐにでも会って礼を言いたかったのですが、……私には時が無いのです。今を逃すと次は多分、もう無いと思いますので」

 娘は今にも泣き出しそうな仕草で御爺さんを見上げましたが、こればかりはどうにも出来ない相談です。

(はや)る気持ちも分からなくもないが、気まぐれな彼奴のこと、明日かそれともずっと先のことになるか。……とにかく気長に待つことだ、気長に」

「いいえ、それが出来れば良いのですが、私は、……私は夏を、この夏を越すことが出来ないのです。……だって私は、私はもうすぐ死んでしまうから」

 最後は殆ど聞き取れないくらい小さな声でしたが、

「何を馬鹿なことを! そんなに若いのに! ……向こうも相手にしないだろう。……少しの辛抱だ。何時かは必ず会える、それが縁というものなんだ。それを信じて我慢しなさい、分かったか?」

 と、珍しく声を荒げた御爺さんです。序でに心の中で「死ぬなんて滅多なことをいうもんじゃない」と続けていましたが、それは口にしなかったようです。

 御爺さんの声で驚いたのは娘だけではありません。青年もまた腰を抜かしそうになるくらい目を丸くし、

「居ないなら仕方ないよ、帰ろう」

 と言うのが精一杯のようでした。



 御爺さんの元を離れ帰り道を急ぐ青年と娘です。その青年の背中で遠くを見つめる娘は運命に逆らいたい気持ちで一杯でした。その様子を背中で感じ取った青年は、

「あそこに行きたいのかい? なんならオイラが連れてってあげるよ」

 と、気を利かせたつもりでしたが、娘はそれに応えませんでした。それを承諾したものと思った青年はピョンピョンと跳ねるように山に向かって走りました。——ところがです、途中、狼の遠吠えが聞こえピタリと足を止めたのでした。

「なあに、心配いらないさ。一匹だけなら大したことないんだ。でも、彼奴ら群で動くからな、そうなったら、……いや、大丈夫だ、オイラの方が速いんだから」

 まるで自分に言い聞かせるように言った青年でしたがその矢先、ポツリ/\と雨が降ってきました。これには遠くの狼よりも困ったようです。

「オイラ、雨が嫌いなんだよ。体が濡れるじゃないか、勘弁してくれ」

 と溢したところ、

「私は雨、好きよ」

 と娘が言ったものですからばつ(・・)が悪いったらありゃしません。——そこへ何やらゾワゾワした足音が近づいて来たような、それも複数のようです。これに慌てた青年は急に走り出したのです。それも脱兎のごとくと言いましょうか。その勢いで背中の娘は、……到頭(とうとう)そこから転がり落ちてしまいました。どうやら遠くに居るものと思っていた狼の群が直ぐ近くにまで迫っていたようです。

「待ってぇぇぇ! 私、動けないから」

 と娘は叫びましたが、それに一瞬足を止めたもののそのまま(・・・・)走り続けた青年です。心の中で「すまん。だけど立ち止まって奴等にやられたら? だから、だから——」と娘に詫びたそうです。

 そんな青年とは対照的に覚悟を決めた娘はこれも運命と思い、どうせ短い命なら今日も明日もそう変わらないと、事の成り行きを静かに受け入れることにしたようです。そして複数の足音、草を掻き分け踏み倒していく狼の群が娘の前に現れました。

 ——その時です。あの時の、溢れた河の水で溺れそうになった時と同様に一羽の鷹が娘の元に舞い降り、その脚で娘を掴むとそのまま空へと戻って行ったのでした。その空の、更に上空は晴れており、西に沈みかけていた陽射しが大きな虹を東に描いていました。

「危なかったな、お前さん。もう少しで奴等に踏み潰されるところだ」

 風を受けて高く舞う鷹は娘に話し掛けましたが、そんなことよりも、

「綺麗、なんて綺麗なの。あれは、……初めて見たわ」

 と、虹に心を奪われた娘でした。

「そうかい、初めて見るかい。……それはよかった」

 眼下には千年の長寿を誇る杉の木が空を見上げるように枝を広げ、また別の場所では時折振り返りながら野山を走るウサギの姿が見えました。

「あれはな、虹と言って七色に輝いているんだ。……だけど、これがまた運任せでな、滅多に見られるものじゃ……」

 そう言い掛けたところで口を閉じると、更に風を受け高く高く舞い上がりました。そして頃合いを見て掴んでいた娘を離しました。すると娘はひらひらと風に乗り、ゆらゆらと、どこまでもゆらゆらと風に運ばれて行ったそうです。


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