第1話
文字数 2,560文字
あと二十分がまんの六時間目、数学の授業。黒板の上に並ぶ記号たち。無言でノートに写す難関大学受験クラスの二十三人。ピリピリとした空気。
ぼくもせっせとノートを黒くしている。
「いいか、ここが肝心なところだぞ。わかんないやつは、ここにいる意味なんてないんだからな。とっとと帰っちまいな」
サトウ・ハルノブ先生、通称サトブーの声がする。ここにいる意味?
サトブーは、また新しい記号を書きはじめた。競争しているみたいに、ぼくらのシャープペンも動きだす。
競争は、チャイムが鳴るまで止められない。ぼくらの動きも止められない。「止まれ」という命令がないかぎり。
そう思っていた。
うーん。
ちょっとちがうな。
止まることがあるなんて、思ってもいなかった。こんなかんじ。
でも、魔法がはじまる瞬間なんて、ほんとに突然やってくるんだ。ちゃんとそれを見逃さないでいればね。
暑くなりかけの教室。いくつかの開いている窓。
三階のぼくらの教室に、モンシロチョウが入ってきた。
天井にくっつくようにして、ひらひらと泳いでいく。みんながどんなノートを書いているのか、のぞいているのかもしれない。
どれだけの生徒が、モンシロチョウに気づいただろう。
ちらっと見たやつはいたが、すぐに黒板に目を向ける。ノートを塗りつぶすのに夢中で、まるっきり気がついていないらしいものも多い。
それとも、サトブーみたいに知らん顔してるだけか。
声を上げるものもいない。サトブーか、それともほかの何かが怖いから。
もちろん、ぼくもその一人。ここは授業の邪魔は許されないところ。
いいわけに、こんなのはどうかな?
モンシロチョウなんて、べつにめずらしくもないよ。学校の周りにいくらでもいる。ぼくだって、たまたま後ろの席だったから気がついただけで、大騒ぎする必要なんてまるでないさ。必要?
そう、だから、ぼくがそれを見たのは、まったくの偶然だった。
モンシロチョウは教室を一回りすると、つまらなそうに出ていこうとした。数学、ましてやサトブーの時間じゃね。気持ちはわかる。
けれど、モンシロチョウが向かっているのは、開いていない窓だった。
「あっ、ぶつかる」
そう思っただけで、言葉にしたわけじゃない。黒板の記号をながめつつ、白い翅を追いかけていただけ。窓際の席でも、だれも気づいていないみたい。サトブーは……、たぶん、見えてないんだろう。
モンシロチョウは一度窓にふれたが、おかしいな、というかんじで戻ってくる。そして、また窓へ向かおうとする。
「そっちじゃだめだよ」
もちろん、思っただけ。授業中だったから。わかってるだろう?
モンシロチョウに気づいているのは、ぼくだけなんだろうか。だれも助けようとしない。みんな、ぼくみたいにだまっている。
すると、教室のちょうど真ん中あたりの席から、すうっと、人差し指が伸びてきた。
まっすぐ、ぴんと、一本だけ。
シゲタ・マキだ。
話したことはほとんどない。男子も含めて、学年で一番背が高い女の子。ほかには何も知らない。
モンシロチョウは、教室の真ん中に突然現れた、細くて、白い指に興味をもったようだ。ひらひらと指の周りを舞いはじめる。
ぼくは見ていた。
サトブーも、だんだんと気がついてきたクラスのみんなも、マキの指と、モンシロチョウを見つめていた。
だれも何もいわない。サトブーですら、無言のままだ。
しずかに、マキの指が下がりはじめた。モンシロチョウといっしょに、ゆっくり、ゆっくり。
いつのまにか、魔法がはじまっていた。
うん。ちょっとうぬぼれよう。
ぼくが一番はじめに気がついた、と思う。偶然だけどね。
あるいは、一番はじめに魔法にかかったのか。
止まっていたんだ。
マキと、モンシロチョウ以外は、みんな。時間も、競争も、空気も、何もかも。色までなくなってしまったように見える。
いま、世界中で動いているのは、楽しげなモンシロチョウのダンスと、マキの指だけ。
あともう一つ。どきどきしてる、ぼくの心臓。
マキは、目の前まで、指を下ろした。ちらりと、顔を窓に向ける。
ぼくは席を立った。まだダンスがつづいている。いまのうちに……。
なぜ、あんなことができたんだろう。
いまでも不思議に思うことがある。やっぱり、一番はじめに魔法にかかったからかな。
とにかく、ぼくは立ち上がっていた。
マキの席まで行く。やっぱり、だれも何もいわない。動きもしない。
マキが、踊っているモンシロチョウから、ぼくのほうへ目をうつした。
ぼくは、そっと両手を伸ばし、マキの指をつつんだ。
手のひらにかんじる、かすかなダンス。冷たいマキの指。
そのまま両手を引き上げる。
マキが、ぼくを見てほほえんだ。ちょっと照れくさい。でも、ぼくも笑顔になる。声は出さない。魔法が解けてしまうから。
ぼくは、モンシロチョウをつれて、開いている窓まで行った。両手を窓から出し、なるべく遠くで手を開く。モンシロチョウは、空へ帰っていった。
「またな」
心の中でそういって、ぼくは自分の席に戻った。マキは、もうさっさと黒板の記号を写しはじめている。だけど、口元にちょっぴり、笑顔の残りが見えた。
「……というわけで、この補助線がだな」
何もなかったように、サトブーがしゃべりだす。教室中から、シャープペンを動かす音。魔法は終わってしまった。ぼくも、ノートにつづきを書かなくては。魔法?
マキとは、その後も、ほとんど話すことはなかった。ただ、卒業前に一度だけ、進路のことをきいた。
「わたし、医者になるの」
「そうか、すごいね」
「なれるかわからないけどね、がんばる」
「うん、がんばってな」
「ありがとう」
マキは笑顔で歩いていった。しっかりと自分の足で。マキはいつでもそうだった。どんなに厳しい道でも、マキなら、ちゃんと前を向いて進んでゆくだろう。
「ぼくは先生になるんだ」
あの日、マキにそういった。
ぼくは知りたい。あれが本物の魔法だったのかどうか。マキにきかないで、自分で見つけたい。
だから、先生になると決めたんだ。また、モンシロチョウが教室に遊びにきたとき、きっと、その答えがわかると思うから。
それまでぼくも、マキのように自分の足で歩いていこう。そう、魔法使いの弟子として。
ぼくもせっせとノートを黒くしている。
「いいか、ここが肝心なところだぞ。わかんないやつは、ここにいる意味なんてないんだからな。とっとと帰っちまいな」
サトウ・ハルノブ先生、通称サトブーの声がする。ここにいる意味?
サトブーは、また新しい記号を書きはじめた。競争しているみたいに、ぼくらのシャープペンも動きだす。
競争は、チャイムが鳴るまで止められない。ぼくらの動きも止められない。「止まれ」という命令がないかぎり。
そう思っていた。
うーん。
ちょっとちがうな。
止まることがあるなんて、思ってもいなかった。こんなかんじ。
でも、魔法がはじまる瞬間なんて、ほんとに突然やってくるんだ。ちゃんとそれを見逃さないでいればね。
暑くなりかけの教室。いくつかの開いている窓。
三階のぼくらの教室に、モンシロチョウが入ってきた。
天井にくっつくようにして、ひらひらと泳いでいく。みんながどんなノートを書いているのか、のぞいているのかもしれない。
どれだけの生徒が、モンシロチョウに気づいただろう。
ちらっと見たやつはいたが、すぐに黒板に目を向ける。ノートを塗りつぶすのに夢中で、まるっきり気がついていないらしいものも多い。
それとも、サトブーみたいに知らん顔してるだけか。
声を上げるものもいない。サトブーか、それともほかの何かが怖いから。
もちろん、ぼくもその一人。ここは授業の邪魔は許されないところ。
いいわけに、こんなのはどうかな?
モンシロチョウなんて、べつにめずらしくもないよ。学校の周りにいくらでもいる。ぼくだって、たまたま後ろの席だったから気がついただけで、大騒ぎする必要なんてまるでないさ。必要?
そう、だから、ぼくがそれを見たのは、まったくの偶然だった。
モンシロチョウは教室を一回りすると、つまらなそうに出ていこうとした。数学、ましてやサトブーの時間じゃね。気持ちはわかる。
けれど、モンシロチョウが向かっているのは、開いていない窓だった。
「あっ、ぶつかる」
そう思っただけで、言葉にしたわけじゃない。黒板の記号をながめつつ、白い翅を追いかけていただけ。窓際の席でも、だれも気づいていないみたい。サトブーは……、たぶん、見えてないんだろう。
モンシロチョウは一度窓にふれたが、おかしいな、というかんじで戻ってくる。そして、また窓へ向かおうとする。
「そっちじゃだめだよ」
もちろん、思っただけ。授業中だったから。わかってるだろう?
モンシロチョウに気づいているのは、ぼくだけなんだろうか。だれも助けようとしない。みんな、ぼくみたいにだまっている。
すると、教室のちょうど真ん中あたりの席から、すうっと、人差し指が伸びてきた。
まっすぐ、ぴんと、一本だけ。
シゲタ・マキだ。
話したことはほとんどない。男子も含めて、学年で一番背が高い女の子。ほかには何も知らない。
モンシロチョウは、教室の真ん中に突然現れた、細くて、白い指に興味をもったようだ。ひらひらと指の周りを舞いはじめる。
ぼくは見ていた。
サトブーも、だんだんと気がついてきたクラスのみんなも、マキの指と、モンシロチョウを見つめていた。
だれも何もいわない。サトブーですら、無言のままだ。
しずかに、マキの指が下がりはじめた。モンシロチョウといっしょに、ゆっくり、ゆっくり。
いつのまにか、魔法がはじまっていた。
うん。ちょっとうぬぼれよう。
ぼくが一番はじめに気がついた、と思う。偶然だけどね。
あるいは、一番はじめに魔法にかかったのか。
止まっていたんだ。
マキと、モンシロチョウ以外は、みんな。時間も、競争も、空気も、何もかも。色までなくなってしまったように見える。
いま、世界中で動いているのは、楽しげなモンシロチョウのダンスと、マキの指だけ。
あともう一つ。どきどきしてる、ぼくの心臓。
マキは、目の前まで、指を下ろした。ちらりと、顔を窓に向ける。
ぼくは席を立った。まだダンスがつづいている。いまのうちに……。
なぜ、あんなことができたんだろう。
いまでも不思議に思うことがある。やっぱり、一番はじめに魔法にかかったからかな。
とにかく、ぼくは立ち上がっていた。
マキの席まで行く。やっぱり、だれも何もいわない。動きもしない。
マキが、踊っているモンシロチョウから、ぼくのほうへ目をうつした。
ぼくは、そっと両手を伸ばし、マキの指をつつんだ。
手のひらにかんじる、かすかなダンス。冷たいマキの指。
そのまま両手を引き上げる。
マキが、ぼくを見てほほえんだ。ちょっと照れくさい。でも、ぼくも笑顔になる。声は出さない。魔法が解けてしまうから。
ぼくは、モンシロチョウをつれて、開いている窓まで行った。両手を窓から出し、なるべく遠くで手を開く。モンシロチョウは、空へ帰っていった。
「またな」
心の中でそういって、ぼくは自分の席に戻った。マキは、もうさっさと黒板の記号を写しはじめている。だけど、口元にちょっぴり、笑顔の残りが見えた。
「……というわけで、この補助線がだな」
何もなかったように、サトブーがしゃべりだす。教室中から、シャープペンを動かす音。魔法は終わってしまった。ぼくも、ノートにつづきを書かなくては。魔法?
マキとは、その後も、ほとんど話すことはなかった。ただ、卒業前に一度だけ、進路のことをきいた。
「わたし、医者になるの」
「そうか、すごいね」
「なれるかわからないけどね、がんばる」
「うん、がんばってな」
「ありがとう」
マキは笑顔で歩いていった。しっかりと自分の足で。マキはいつでもそうだった。どんなに厳しい道でも、マキなら、ちゃんと前を向いて進んでゆくだろう。
「ぼくは先生になるんだ」
あの日、マキにそういった。
ぼくは知りたい。あれが本物の魔法だったのかどうか。マキにきかないで、自分で見つけたい。
だから、先生になると決めたんだ。また、モンシロチョウが教室に遊びにきたとき、きっと、その答えがわかると思うから。
それまでぼくも、マキのように自分の足で歩いていこう。そう、魔法使いの弟子として。