第1話

文字数 4,576文字

「いらっしゃいませ」
 蔦の絡まる古風な骨董品店。冬の深まりを感じさせる寒い午後、店に入ってきた男は、黒い皮のロングコートを着た洒落た老紳士。店主は男を見るなり、すぐに声をかけた。男はこの店の常連客で、特に美術品に目のない男だった。
「旦那、気に入りそうな品が入りましたよ。旦那が来るまで、誰にも見せないでおきました」
 小柄で色白、丸眼鏡の店主は、揉み手をしながら男に話す。
「おお、そうかい。しかし、今日はちょっと話したいことがあって来たのだが」
「まずは、一品見てから、でどうです?」
「おお、まあ、そうだな。そうしようか」
 店主は、頻繁に高額な買い物をしてくれるこの男を贔屓にしており、店頭に出す前の商品を、男のために取り置きすることがよくあった。男は、店主のあとについて店の奥へと進む。
「こちらです」
 店主が白い手袋をして恭しく取り出してきたのは、折りたたまれた状態のタトウ紙。開けてみると、水墨画だった。F4サイズの、さほど大きくない絵で、いかにも古そうな趣があった。
「ほほう、これはなかなか、美しい」
 店主は、男が気に入ると予想していたが、想像通りの反応に嬉しくなる。手前に花が描かれており、その奥に茅葺の小さな家。構図も墨の濃淡も素晴らしく、何とも幽玄であった。
「旦那、美しいのはもちろんですが、実はこの水墨画、いわくつきなんですよ」
 店主の、丸眼鏡の奥の細い目がにやりと笑い、男の目が光る。美術品に目がないだけでなく、この男、伝説や伝承といった民俗学的なものに、すこぶる弱いのである。
「そのいわくとは、一体どのようなものなのだね」
 男は興奮を抑えるように冷静を装って話す。
「この絵の中の花が、赤く染まると言われております」
「赤く染まる?」
「はい。水墨画ですから、今はこのように白黒です。しかし、花だけが、真っ赤に染まるらしいのです」
「どうすれば赤くなるのだね?」
 男は興味深げに聞く。
「ここに何か書いてあるでしょう?」
 絵の右上に、文章が書いてある。達筆の習字は解読が難しかった。
「黄泉の国への入り口か曼珠沙華」
「え?」
「そう書いてあります。俳句だそうです」
「ほほう」
 では、手前に咲く花は曼珠沙華、すなわち彼岸花か。その花はくるんと曲線的な花びらと、大きく広がる細い雄しべと雌しべが特徴的で、言われてみれば彼岸花の群生に見えた。
「夜が深まった頃、この俳句を口に出して詠みながら、彼岸花の絵を指でそっとなぞると、真っ赤に染まると言われております」
「ほほう。何か仕掛けがあるのかい?」
「それが、わからないのです」
「わからないって、君は見たことがないのかね?」
「はい。実はこの『いわく』には恐ろしい続きがあります。その真っ赤な彼岸花、あまりの美しさに、魅了された人間は、この絵の中に閉じ込められると言われております」
「閉じ込められる?」
「はい。取り込まれてしまうのです」
 眉唾ものだがおもしろい、と男は思った。そんな「いわく」はおおよそ現実的ではないが、伝承のある品というだけで鑑賞する価値があるではないか。
「それで君は試していないのか」
「はい。見たい気持ちと、恐ろしい気持ち、その葛藤でございます。そのため、タトウ紙を折りたたんで保管しておきました」
 店主は男が絵に惹かれていることがわかった。商人の腕の見せ所である。
「いかがでしょう。これほどに美しく、また謎めいた伝承のある絵というのは、なかなか珍しいと思いますよ」
「そうですな。どこで手に入れたのですか?」
 よく聞いてくれました、と言わんばかりに店主は身を乗り出す。
「それが、私の祖父の家の蔵から見つけてきたのです」
「なんと」
 この店主の生家は、地方の地主で大きな蔵を持っており、古くから代々受け継がれている品がいまだ多く眠っていると聞いている。そのうちの一つということらしい。
「この絵にかつて取り込まれてしまったのは、祖父の代に家政婦をやっていた女だったそうです。彼岸花の赤があまりにも美しすぎて見つめるあまり、絵からも気に入られてしまったのですね」
「そうか」
 どこまで本当の話かわからないが、絵が男の好みであることに変わりはなかった。
「しかし、今日は大事な話をするために来たのだ」
「そうですか。ですが、実はもう一人のお得意様が、この水墨画に大変興味を持っていらして……今日旦那が購入しない場合は、そちらのお得意様にお見せする手はずになっているんですよ」
「なんということだ。絵が美しいことに変わりはない。その方には、少し待ってはもらえないのか?」
「はい。夕方にはお会いする約束になっております。先方は、私の話を聞いただけで、絵を見る前から買う気でいらっしゃいます」
 店主は男に時間がないことを強調する。
「そうか。よし。では、買おうか」
「ありがとうございます」
 男は会計を済ませ、店を出た。今日、話す予定だった話は、こんな素晴らしい絵を買った日にするには無粋である。男はまず絵を持ち帰ることにした。

 帰宅した男は、さっそく床の間に絵を飾る。
 見れば見るほど美しい絵である。茅葺の家からは夕餉の香りがしてきそうな懐かしさがあり、手前で咲き誇る彼岸花は匂い立つような群生。ノスタルジーと妖艶さ、両方を兼ね備えた絵である。この彼岸花が赤く染まるというのなら、やはり見てみたい。
「旦那さま、今日はもう帰りますが、何かありますか?」
 男の家の家政婦が聞いてくる。
「いいや、大丈夫だ。気を付けて帰るように」
「はい。では、失礼いたします」
 まさか絵に閉じ込められることなどないだろう、とは思うが、万が一のことを考えて、男は家政婦が帰ってから試してみるつもりであった。巻き添えにするわけにはいかない。恐怖は感じなかった。オカルトの類の伝承は、眉唾であることが多い。
 夜が更けて、男は日本酒を一献傾けながら絵を愛でていたが、ゆっくり立ち上がり、近付いた。
「黄泉の国への入り口か曼珠沙華……」
 詠みながら、男は彼岸花をすっと指で撫ぜた。

 翌日、骨董品店の店主が男の家にやってきた。
「お邪魔します」
「はい」
 応対したのは、男の家の家政婦であった。
「お買い求めいただいた水墨画を返品したいと言われまして、伺ったのですが」
「そうですか。旦那さまは朝からいらっしゃらないのです。どこかへ出かけるとは聞いていなかったのですが」
「そうですか。しかし、不在でも持ち帰るように言われておりますので、失礼します」
 店主は家にあがり、手際よく床の間から水墨画をはずし、家政婦に絵の代金を返金した。
「旦那が戻られましたら、店主が来て絵を持って帰った、と伝えてください」
「はあ、そうですか。わかりました」
 家政婦はそう言うと金を受け取り、店主を見送った。

 男は目を覚ました。静謐な空気。懐かしいような匂い。ここはどこだろう。
「あ、気が付きましたか」
 仰向けの顔の上を、女の顔がのぞきこむので驚いた。女の顔は、墨で薄めたようなぼんやりとした輪郭で、凹凸もない。平面的な白黒の顔であった。
「わあ、何だい、お前は」
「外が明るくなったと思ったら、やっぱり誰かを閉じ込めるためだったのですね」
「どういうことだい?」
「今はまた暗くなりました。おそらく、もうあの人が、絵を持ち帰ったのでしょう」
 よく見るとその女は、あの骨董品店の店主の妻だった。白黒のぼんやりとした顔であったが、確かにあの店で見たことのある女だった。
「あんた、あの店の奥さんじゃないかい」
「はい。その通りです」
「ここはどこだい?」
 男は、畳の上に寝ころんでいたらしい。体を起こし、外を眺めて唖然とした。そこには、数えきれないほどの白黒の彼岸花の群生が広がっている。それは、まさに幽玄。妙なる景色であった。
「まさか……」
「主人の店で、水墨画をお買いになったのではありませんか?」
「あ、ああ。そうだ。確かに買った」
「やっぱり」
「どういうことだい。伝承は本当なのかい!」
「ええ。信じられないでしょうけれど、本当なのです」
 男は、自分の手を眺めてまた驚く。すっかり色彩を失くし、輪郭も曖昧な、墨で描かれた手をしていた。
「じゃ、あんたもあの店主に、この絵に閉じ込められたというのか」
「はい。私は、主人の浮気に気付いてしまって……まだ閉じ込められたばかりです。外が明るくなったので、タトウ紙を開いたのだと思ったのですが、また暗くなってしまいました。おそらく、お客様の閉じ込めに成功したと確信し、絵をタトウ紙に折りたたんだのでしょう」
「わしも閉じ込められたというのか」
「おそらく。お客様、主人に何か恨まれるようなこと、いたしました? 閉じ込められる心当たりは、ありますか?」
「……ある!」
 男は片手で額を打った。
「あるのですか」
「ああ。あの店は、何年も前からお世話になっておったが、以前購入した絵が贋作だとわかったのだ。かなり高額で買ったものだから、それを店主に相談に行くところだった。しかし、その話をする前にこの絵を見せてもらうことになって……ああ、先に贋作の話をしておくべきであった。店主だって贋作だってわかってて売ったわけではあるまい。彼がそんなあくどい人間なはずはない。贋作を誰かにつかまされたのなら、気を付けるように忠告するつもりで店に行ったのだ」
「……主人や、主人の父、そして祖父は、こうして邪魔な人間をこの絵に閉じ込めて成功をおさめてきた人間です。私も知ってはいたのですが、閉じ込め方を知りませんでした。それで、私が邪魔になった主人は、巧みに言いくるめ私をこの絵に閉じ込めたのです」
「今までも、何人も閉じ込められたのか?」
 女は少し黙ってから、庭のほうを指した。
「あれが、見えますか?」
 女が指した先には、白っぽい細い枝のようなものがたくさんあった。腰の高さほどまで積みあげられている。男はその正体に気付き、鳥肌がたつと同時に、吐き気をもよおした。それは、瓦礫のように積まれた数多の人骨だった。
「今まで閉じ込められてきた人たちです」
「そんな……」
 男は裸足のまま、縁側を越えて外へ駆け出た。目の前には、積み重ねられた人骨。髑髏もある。しゃがみこんで骨を見つめる。
「なんてこった」
 つぶやいた瞬間、男は頭に激しい痛みを感じた。後頭部を抑えると、黒い墨汁のような液体が手にべったりと付着する。血か? と思ったとき、眩暈におそわれ、人骨の瓦礫に倒れ込んだ。遠のいていく意識の中、大きな石を抱えた、白黒の女を見た気がした。
 女は茅葺の家の中へ戻り、床の間に飾ってある絵を眺める。
「黄泉の国への入り口か曼珠沙華」
 唱えながら、指ですっと白黒の彼岸花を撫でた。

「おかえり」
「ただいま」
「うまくいったかい?」
「ええ。いつも通り」
 女は骨董品店に戻っていた。
「やっぱりあのお客さん、贋作のことに気付いていたわ。贋作と知らずにつかまされたんじゃないかって、あなたに忠告するつもりだったらしいわ」
「やはりか。贋作だと見抜けないとでも思っているのか。馬鹿にしおって」
 店主は、色白の丸い鼻をふんっと鳴らした。
「今回もこの絵には世話になったな。これからも、大切に保管しておかなければ」
 店主は、丸眼鏡の中で目を細めてにやりと笑い、恭しく水墨画を神棚に祀る。水墨画から、墨汁が一滴、恨めし気に滴り落ちた。



おわり
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