第1話

文字数 1,991文字

 湖岸の国道を年代物の日産・マーチは快調に走っていた。湖の向こうには青々とした山並みが横たわり、雲一つ無い快晴の空を水鳥が飛び交う。初夏の陽光は湖面で乱反射してキラキラと輝いていた。
 そてにしても、頭は痛いし、吐き気もある。喉は渇くし、とにかくだるい。
 今朝まで同好会の合宿が湖畔の温泉宿で行われていた。湖畔の温泉宿とは何とも雅な響きだが、実態は連日連夜の飲み会だった。部屋の端には青白い顔の友が横たわり、余白一つ無いグラスと飛び交うコール。そして、得体の知れない液体がキラキラと輝いていた。
「まだ調子悪いの?」
 運転席から十六島さんが声を掛けた。
「だいぶマシにはなりました」
 地獄のような合宿を経て僕は二日酔いに苦しんでいたが、十六島さんは快調そうだった。
「十六島さんは結構飲める方なんですか?」
「そうねえ、たしなむ程度よ」
「それはかなり飲める人の言葉ですよ」

 やがてマーチは湖岸を離れ、市街地を通り抜けたかと思えば、果樹園に囲まれた農道を走った。ウィンドウを少しだけ開けると、甘い香りがふわりと入り込んできた。
 そして僕たちは山の麓で西洋の古城を思わせるレンガ造りの建物に辿りついた。
「せっかくだから見学して行こう」
 見上げると入り口の門には「おろちワイナリー」という看板が掲げられていた。

 大人の社会見学と銘打って僕らはワイン醸造所にやって来た。見学と言いつつも解説は専ら十六島さんだった。
 例えば大きなタンクを前に「この中で葡萄を潰すんだけど、中に入っている風船を膨らませて果実を圧搾するのよ」と熱心に説明してくれた。
「村娘が足で潰すんじゃないんですね」
「それはお祭りのイベントよ」
 それぐらいは僕にも想像できる。葡萄を潰すのに村娘に頼っていたら、世界中の醸造所でどれだけ村娘が必要になるというんだ。
 続いて階段に降りると、ひんやりとした地下室に木樽が積み重ねられていた。
「ここでワインを熟成させるのね」十六島さんはそう言ったかと思えば「熟成中アルコールが蒸発して量が少し減るんだけど、そのことを『天使の取り分』って言うのよ。詩的よねぇ」などと矢継ぎ早に話すので僕は相槌を打つ暇さえなかった。今日はいつもより早口だし、目を輝かすというより瞳孔が開いているようだったので、本格的なワインオタクではないかと疑った。

 見学の終盤には試飲コーナーが用意されていた。僕は体調が回復しきっていなかったが、十六島さんに促され香りだけでも体験することにした。
 目の前にお猪口サイズのプラスチックのコップが2つ並べられ、どちらにも白ワインが満たされていた。並べてみると違いは明らかで、一方は透明に近い黄緑、もう一方が濃い黄色だった。僕は黄緑色を手に取り、鼻に近づけた。
「ワインの香りです」
「別のものに例えてみて」
「強いて言うなら、草ですかね」
 我ながらセンスの無い例えだ。
「そう、それがソービニョン・ブランよ。こっちはシャルドネ」
「シャルドネなら聞いたことあります」
 僕は濃い黄色の香りを嗅いだ。ソービニョン・ブランとは全く違っていた。
「バターっぽい。これがシャルドネの香りですか?」
「それはね、樽由来の香りなのよ」
「樽ですか」
「今のは引っかけだけど、品種の違いは分かりやすいわね。品種によって栽培地も決まっているから地域の違いも楽しめるし。ワインってそんなに敷居は高くないのよ」

 施設内の見学を一通り回ると、僕らは葡萄畑に出た。垂直に仕立てられた葡萄の樹が丘陵地に沿って幾本もの列を成していた。
葡萄の樹の間を歩きながら十六島さんが言った。
「この大地に根を張った葡萄からワインが作られるのね」
「そりゃあそうでしょう。宇宙からやってくるわけでもないし」
「面白いこと言うわね」十六島さんは振り返って笑った。「宇宙から人類を二日酔いに陥らせるために来た侵略者って感じかしら」
「僕にとってはそうですよ。昨日までは」
 昨日までは、だ。あんな悪習は断ち切らなければならない。でも、バーでワイングラスを優雅に揺らしながら薀蓄垂れるのが最適解とも思えない。
 葡萄畑の端にたどり着き、振り返ると、ワイナリーを取り囲む景色を見渡すことができた。山地から平野へ注ぐ一本の川は緩やかに蛇行しながら湖へ繋がっていた。川沿いには果樹園や水田、麦畑が広がっている。
「葡萄だけじゃないわ。米も麦も芋も、人類は糖分があれば発酵させてアルコールを得てきたのよね」
 十六島さんの言いぶりには共感しなかったが、確かに、あらゆる酒は大地で育まれた作物から農家や醸造家の手を経て僕らの元へ運ばれて来ている。ワインは葡萄から、日本酒は米から作られ、その土地の味や香りがあるのだろう。その過程に思いを馳せることができれば、もう少し楽しくお酒を飲めるのかもしれない。違いが分からなくたっていい、薀蓄が語れなくっていい。たしなむ程度でいいのだ。
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