第1話

文字数 2,683文字

 夏の気配が残る9月上旬の、放課後の美術室。開け放たれた窓からは運動部員の掛け声が聞こえてくる。美術室特有の画材や油などの匂いは、換気によって幾分か和らいでいる。

 窓際の一番後ろの席に、田上(ゆずる)は座っていた。彼はそっと人差し指で白い机上の凹凸を撫でる。

 4日前、美術部の後輩が自殺した。部員の精神面を考慮して、急遽部活動は1週間の休止となった。

 自殺したのは、板倉(わたる)という1学年下の男子生徒だ。人懐っこい笑顔が印象的な、常に明るい、元気で人当たりの良い少年だった。

 特別親しい間柄ではなかった。どちらかといえば、譲は彼のことが苦手だった。

 基本的に人と関わるのが好きではない譲は、クラスでも部活動でも最低限の人付き合いしかしない。

 反対に板倉は積極的に人と接していきたいタイプのようで、常に色んな部員とコミュニケーションをとっていた。当然、譲の方にもやって来ては時々話を振ってきた。毎回適当にあしらうものの、板倉がめげる様子はなかった。

 できるだけ人と関わりたくないという思いとは裏腹に、彼はお構いなしに近づいてきた。この世の穢れなど知らないような、純粋な後輩の瞳が、譲は何よりも苦手だった。

 さぞかし温かい家庭で育ってきたのだろうと思っていた。だからこそ、板倉の自殺は信じ難いものだった。

 ――先輩は、どうして人の絵を描かないんですか?

 板倉からかけられた、最後の言葉が脳裏を過る。

 譲は風景や動物は描いても、人間の絵だけは絶対に描かない。それには彼の生い立ちが大きく関係している。

「あの時は“何を描こうと、俺の自由だろう”と言ったよな」

 板倉に届くことはないとわかりながらも、譲は口を開いた。

「お前と同じだよ」

 3日前、別の後輩が喋っていた板倉の家庭事情を思い出す。

 板倉は小学生の頃に父親を病で亡くし、以来母親と二人暮らしになった。ところが父の死から1年もしないうちに、母は家に男を連れ込むようになったという。

 板倉の母親は必要最低限の衣食住を息子に与えるだけで、つい最近も男と楽しげに出かける姿が目撃されている。生前の板倉によれば母親は男を取っ替え引っ替えしており、今では何人目の彼氏かもわからないということだった。

 内容までは明かされていないが、息絶えた板倉の傍には遺書があったという情報も入っている。間違いなく、自殺の原因は家庭環境だろうと譲には確信があった。

「お前も、母親に自分を見てほしかったんだろう?」

 もうこの世にはいない板倉に向けて、語りかけるように言った。

「俺にも、そう思っていた時期があったよ」

 フッと譲は乾いた笑みを浮かべる。彼自身、同じ経験をしているからこそわかることだった。

 譲も幼い頃に事故で父親を亡くしている。それからしばらくして、母は男を家に連れ込むようになった。板倉の母親と同様に、見かける男は頻繁に変わっていた。しかし、今にして思えば、その男達はどこか死んだ父に似た雰囲気を持っていた。

「お前の母親がどうだったかは知らないが、少なくとも俺の母親は夫のことが大好きで、夫のことがとても大切な人だったよ。ただ、あくまで大切なのは夫だけで、息子の俺はおまけみたいなものだった」

 淡々と譲は続けていく。

「死別後も、大好きな夫の影を求めずにはいられなかったんだろうな。だから外に男を求めたんだろう。ところが俺が小2の時、母親はこっぴどく男に振られたようだった。ショックからか毎日泣いていたよ」

 今から9年前、ダイニングテーブルに突っ伏しては夜通し泣いていた母の後ろ姿を、譲はしっかりと覚えている。

「子供だった俺は、幼いながらに母親の悲しむ姿を見ているのが辛かった。だから母親を少しでも慰めようと声をかけたんだ。今なら思うよ。それは間違いだったって」

 恐る恐る母に声をかけた後の出来事も、鮮明に記憶している。

 息子の呼びかけに、母はゆっくりと顔を上げた。涙と鼻水で酷い顔だった。彼女はしばし譲の顔を見つめた後、ゆっくりと気味の悪い笑みを浮かべた。

 ――そうよ。あの人はここにいたのよ。どうして気づかなかったのかしら。

 そう言った母の瞳が映したのは息子ではなく、その中にある夫の面影だった。

「そこから母親の暴走が始まった。俺の一挙一動を常に観察しては“あの人はそんなことしない、あの人はこんなことは言わない”なんて言って、俺を父親と同じ人間にしようと画策し始めた」

 ふと机の端に目を向けると、シャーペンで書かれた相合傘があった。傘の左右には男女の名前が書かれているが、生憎(あいにく)実母の影響から、譲は恋愛の類いには嫌悪感しかない。彼はぐりぐりと迷いなく、傘に人差し指を擦りつける。

「ようやく理解したよ。何があっても、母親が俺を見ることはないと。あの人の心の片隅にすら、俺はいやしないんだなって」

 ふぅ……と譲は息を吐いた。

「それから人の絵を描きたいとは思わなくなった。絵を描き始めたきっかけは、幼稚園の頃に描いた絵を父親が褒めてくれたことだった。そこから絵を描くのが楽しくなって、今に至るんだよ。母親の――人間の汚い本質なんかに触れたりしなければ、俺は今でも人の絵を描いていただろうな。その母親も、すでにこの世にはいないが」

 両親の死後、譲は父方の親戚夫婦に引き取られた。人を描くことはないが、現在もこうして絵に触れていられるのは彼らのおかげだ。

「板倉。お前も母親が自分を見ることはないと気がついたんだろう? だから自殺という方法で、嫌でも自分を見てくれる方法を選んだ」

 譲は言葉を続ける。

「今、お前の母親がどんなふうに思っているかはわからない。ただ、お前の心がもう泣いていないことだけを祈るよ」

 そこまで言って譲は椅子から立ち上がった。

 板倉が積極的に人と接したかったのは、彼の生まれ持った性格である一方、母親からの愛情不足による、心の隙間を埋めたいという心理も働いていたのだろうと譲は思う。

「板倉。もう少しだけ、お前とは話してみるべきだった。俺が以前からお前の家庭事情を知っていたなら、本音の捌け口ぐらいにはなれたのかもしれない」

 人付き合いが好きではないとはいえ、今回の一件で他者を知ることの大切さには気づかされた。

「俺が死ぬまでに、また人の絵を描けるようになるかはわからない。だけどもし、それが実現したなら、あの世でお前に再会できたなら……その時は板倉、お前の絵を描こう」

 再び机の凹凸をなぞってから、譲は静かにその場を離れた。

 誰もいない美術室に、開いた窓から風が入り込んでくる。

 相合傘をなくした男女の名前だけが、そこには残されていた。
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