第1話

文字数 3,971文字

「いらっしゃい、久しぶりね。水割りでいい?」
 今日は十時の時点でカウンターに二人、ボックス席に四人、売上二万四千円確保、平日としては悪くはない。これからちょっとずつ客からお酒をいただいて三万円。やっぱり二時間四千円じゃなかなか売上は伸びない。
いくら地方の小さなスナックといっても、テナント代、カラオケ、バイト代、諸々考えたら一日平均最低二万は必要だ。
 二万なら簡単、なんて言うかも知れないけど、誰も客が来ない日を考えれば結構きつい。
 この店が何とかやっていけるのは常連さんのおかげ、でもその人達も年齢と共に夜の街に出る回数が減ってきた。減るぐらいならマシだけど、病気とかで呑みに出なくなる人もいる。
新規のお客さんを、と頑張ってみても、最近の若い人たちはほとんどカラオケボックス、こんな場末のスナックに来るわけないし、そもそも若い人たちが呑まなくなっている。
 「ママ、カラオケ歌うよ」
 「はいはい、マイク持ってく」
 流れる曲は私たちの青春時代の曲、ヘタしたら親の代の曲ばかり。
 私も四十半ば、一人で育てた子供は就職したけれどまだ同居、まして今後、もし私が一人で生きていくことを考えるともう少し働かなきゃいけない。
 午前一時、団体は既に帰り、カウンター客は帰り支度。閉店は二時だけど、バイトの子を帰したあとに客のお見送り、そして後片付けを始める。
 この歳になると、ギリギリまで粘って少しでも売上伸ばそうとか考えなくなる。眠気と腰の痛みを堪え洗い物をしていると、控えめにドアベルが鳴った。
「まだ、いいかい?」
洗い物の手を止めドアを見ると、開店当初からの常連さんがはにかみながら立っていた。
「もう終わりなら帰るよ」
「いいわよ、一人?」
「ああ、落ち着いてきたし出てきた」
彼はカウンターの隅のいつもの席に座る。
このところ、来るときはいつも他の客が帰った頃に一人でやってくる。昔は予約して団体を引き連れて来ることも多かったが。
私はバーボンの水割りを彼の前に置いた。
「あとちょっとで洗い物終わるから、待ってて」
「ごゆっくりどうぞ、適当に歌っとくよ」
彼は慣れた手つきでカラオケのリモコンを弄る。
「やっぱり反応しないや。曲入らない」
私は水のついた手を拭いて、リモコンに曲を入れた。彼の持ち歌、というより、彼は私とほぼ同年代、その頃の曲を入れたら大体歌える。
「お、いいね、この曲」
彼はマイクを持たず、生声で歌う。昔より声が細くなっているが、甘い声だ。
 私は彼の隣に座り、いつの間にか酒が無くなっている彼のグラスをロックグラスに変え、バーボンと氷を入れた。 
「ロックかあ、昔はよく飲んだけど、今大丈夫かなあ」
 「もう大丈夫じゃない?付き合うわよ」
 私は自分のグラスにもバーボンと氷を入れコクッと呑んだ。苦さ、臭さ、アルコールのきつさの後に、ほんのりと甘みがやってくる。
 「この前いつ来たっけ?」
 「一週間前よ」
 「そうかあ、なんかバタバタしてたからなあ。でも、今日で最後かな」
 彼の飲むピッチは早い、あっという間にグラスが空になる。
 「タバコやめたの?」
 「他の煙の方が良くなったかな」
 「え、それってやばい薬とか?」
 「なんだよそれ」
 彼は苦笑いしながらグラスを空ける。
 「ママももっと飲みなよ」
 私はグラスを換え、ビールを冷蔵庫から出した。
 「最近ビールなんて飲むんだ」
 「私もお酒弱くなってね。さすがにもう歳ね」
 「まだまだ、可愛いよ」
 
 彼はこの店がオープンして二日目、店を閉めようかという午前二時過ぎにふらりと現れたのが最初だった。何がどう気に入ったのか、それからこの店をよく使うようになってくれた。もちろん、頼めば同伴出勤もしてくれた。
 ある日、彼が団体貸切で店を使ってくれた。その日は接待だったのか、あれこれと気を使っているようで皆が帰る時には潰れ、ボックスのソファで横になっていた。
 私は起こすのも可哀想なので、後片付けをしながら彼が起きるのを待っていたがなかなか起きない、仕方なくソファに行き、彼の肩に手を掛け耳元で囁いた。
 「皆帰ったわよ。大丈夫?」
 彼はぼんやりと眼を開けると、私の手を掴み、抱き寄せ、覆いかぶさるようにキスをしてきた。私は抵抗せず、彼のなすがままになっていた。というより、私の方が積極的だったかもしれない。店のソファで絡み合い、そして抱き合いながら眠ってしまった。
 元々、私はそんな軽い女ではないと思っている。客に言い寄られることも度々あったが撥ね付けていた。独立前、店の客と一度寝たことがあったが、正直仕事の邪魔だった。男は身体を許すと彼氏面をし、私が他の客と話せば怒る。店でも当然噂になり、と言うかその男が吹聴したのだが、居づらくなり辞めたことがあった。
 彼はそんな男ではなかった。決して彼は所謂「イケ面」ではないが、暖かい雰囲気を醸し出していた。話をしていて安心出来る、きっと抱かれて腕枕してもらえれば、ぐっすり眠れるだろうな、となんとなく考えていた。
 朝五時に目が覚めた時、彼は既に身支度をし、私の髪を撫でていた。
 「起きた?ごめんね、ママ…」
 「いいの、私も抱かれたかったから…」
 そう言って私は彼にキスをした。
 「時間大丈夫?奥さんに怒られない?」
 「まあ、接待でショットバー最後に行って潰れた、とでも言っておく。実際よくあるしね」
 彼は私の頬に口づけると、くしゃくしゃのスーツを抱え帰っていった。
 それからも彼は彼氏面もせず、いつも通りの態度だった。店が忙しくて彼の相手が出来なくても、ニコニコしながら酒を呑んでいた。興が乗れば、他のお客さんに声をかけ、歌い、場を盛り上げ、店のフォローをしてくれていた。逆に、彼がアルバイトの子と楽しそうに話しているのを見ると、私の方が嫉妬してしまうぐらいだった。
たまに彼に待っていてもらい、店を早く閉めホテルに行った時は、ついつい愚痴ってしまう。
「ねえ、私の事好き?」
「うん」
「そっけない返事、ねえ、もうちょっと彼氏面してもいいぐらいじゃない?」
「仕事の邪魔したくないしねえ、縛るのも好きじゃないんだ」
「なんか時々私の事どうでもいいのかと思っちゃう」
「そりゃ好きだけど、君が他の男と寝たいなら仕方ないし、監視してるわけじゃないんだから、止めようもないし」
「なんか冷たい言い方」
「冷たいかなあ、個人の尊重なんだけど」
彼はそう言って私の胸を弄る。
「意地悪…」
他の客には私は少し冷たい女に見えるらしいが、もし、彼とこうしている時の私を見たらどう思うだろう。

「もう当分来れなくなるなあ…」
「そっか…、そろそろ行かなきゃなんないんだね」
「ん…、一年に一回は顔見せ出来るかなあ」
「淋しいなあ…」
「あんまり淋しいなら、いろいろ考えてみるよ」
「無理させたくないな…私が行っちゃおうかな?」
「ダメダメ、子供さん就職したけど、同居してるし結婚もまだだろ」
「うん…」
「もうちょっと頑張らなきゃ」
そう言って彼は四杯目を空けた。
「やっぱり相変わらずペース速いね」
「まあね、でも酔ってるのか酔っていないのか…」
「それは変わらない、突然寝だしちゃうしね」
彼の横顔を見ているうち、やっぱり最後に抱きしめられたい、と思ってしまう。でも、それは、今は叶わない事だ。自然に涙が溢れてくる。
「大丈夫かい?」
「うん…、ちょっと抱きしめて欲しいなって思っただけ。無理なのは分かっているから」
彼は私の方を向くと、ニコッと笑って両手を出した。
「向こうの偉い人に無理言って教えてもらったんだ」
彼は両手をまっすぐ伸ばし、私の胸の前で掌を広げた。暖かく優しい波動が私を包んで行く。
「どうだい?気持ちいいかな?」
彼の手が私の体の中に入り込む…彼に抱きしめられている感覚、またそれ以上に幸せな感覚…涙が止まらなくなった。
「なんか、何もかも包まれてるみたい…」
「よかった、今はこれくらいしか君にしてあげられないから…」
「ねえ、本当に行っちゃうの?私、絶対ついていったらだめ?」
彼は悲しそうな、そして困った顔で私を見つめていたが、ぼそりと呟いた。
「うん…、やっぱりだめだよ。自殺しちゃえば、僕の行くところと違うところになると思うし。僕は事故だったからね。何より、自殺は自縛霊とか変な霊になりやすいみたいだし…」
「だって悲しいよ…突然だったんだもん。一カ月半ぐらいだよね、あなたが亡くなってから…」
「だね…」
「お葬式も行けなかった…すごく辛かったのよ」
「ごめん…でも仕方ないんだ…」
「…わかった。来年まで待つ」
「カウンターの隅にバーボンでも供えてくれれば、時々こっそり飲みに来るよ。その時は見えないと思うけど」
彼は笑いながらそう言って私から離れた。段々と彼の姿が薄らいでいく…
「今日で四十九日、そろそろ行かなきゃ、時間みたいだ。体に気をつけて、僕は…今更か。自分の一周忌にまた来るよ」
苦笑いしながら、彼はスーッと消えていった…。

「ママ、ここの隅の席っていつもバーボン置いてるよね。おまじないかなんか?」
アルバイトの子が私に聞く、彼女は最近働き出したから彼のことを知らない。
「うーん、まあ、そんなもんかな」
「なんかちょっとずつ減ってくんだけど…蒸発かなあ、気味悪くないですか?」
彼が仏様の目を盗んで、チビリチビリ呑んでいるのを想像すると笑いが込み上げてくる。
「大丈夫よ、呑んでるのはきっと、うちの店の守り神だよ。なんとなくグラスのお酒減った時にはお客さんよく入るでしょ」
「へえ、そんなもんなんですかね。座敷わらしみたい」
わらしじゃなくて座敷オヤジだよ、そんなことを思いながら、私は彼の一周忌を心待ちにしている。また、はにかんだ顔でドアの前に立っているはずだ。
そして彼に笑顔で報告したい。
「私ね、末期がんみたい。もうすぐそっち逝けるよ」って…。



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