先輩はコーヒーが好きでした。

文字数 1,968文字

 僕が先輩と出会ったのは大学1年の時のサークル新歓の席でだった。当時先輩は3年でくたびれた緑色に髪を染め、丈の短いタンクトップに臍ピ舌ピと新入生にとって接しづらい格好だった。けれども独特なあの形の瞳と細く貧相であるにも関わらず角度によっては厚みのある体躯が僕の興味を掻き立てた。
 
 そんな先輩のイチバン魅力的なところはコロコロと姿や性格が変異していくところだった。ある時はずっとタバコをふかしながらツナギを着てバイクをいじり散らかしたり、タバコは辞めて登山にハマって山登りのために必修の授業をサボりまくったりとにかく「先輩らしい」というものがなかった。先輩は清楚な箱入り娘にも大学デビューの初々しい若娘にもアバズレた底辺ヤンキーにも人生の深みを知ったマドモアゼルにもなんにでもなれた。


 僕はそんな先輩の世界に入っていきたかった。先輩だけの、唯一無二の先輩だけが見つめている世界へ。
 僕は至って普通の人で、先輩とは違いカメレオンみたいに自分を変えることはできないし、好きな女性のタイプはずっと金髪ショートヘアだし、好きな学食のメニューは入学時から変わらずコロッケ丼と変化していない。
 ただあのコロコロと変化していく先輩を通して感じ取れる、あの人だけが見られる景色はどれも蠱惑的で僕は惑わされていた。

 僕と先輩はなんだかんだウマがあったのか付き合う前に週2回学食を一緒に食べて週1回一緒に呑んで2回ぐらい酔った勢いで軽いキスをして1回だけ先輩の家の洋式便所で吐いた。そして15回デートした。

 先輩はデートの時でも外見や中身を変化させてきた。トラッドアメリカン韓国ナチュラル。頭の左側を刈り上げて耳で光る大きなピアスが強調するようなアヴァンギャルドなときもあった。


 12回目のデートのときは黒髪三つ編みの文学好きで清楚な乙女になっていた。そのくせ官能的な背中をもつ美人になってた。その冬の日は寒かった。待ち合わせに現れた先輩の口元は白いマフラーで隠れていた。


 僕は失望した。

「コーヒーの味って悪魔が教えた最初の味なんだってさ」
 どういうことです?、と僕が聞くと、ふふっとお淑やかに笑って美味しそうにカフェ自慢のホットコーヒーを飲んだ。どうやら最近読んだ小説にそんなことが書いてあったらしい。その日は、神保町を散策してケーキとコーヒーが美味しいというカフェという「文学好きらしい」コースだった。
 ここ最近の先輩は難しそうな小説を読みながら少し苦いコーヒーを飲むことが好きだったようだ。
「ここのコーヒーは舌の奥で甘みが弾けてる感じがしてすき。おいしい」
 雪の結晶のように脆く均整のとれた儚い笑顔の先輩。僅かに口角が上がって絵画のように美しく霞のように消え入りそうな先輩。瞳は小説を読むことで得たイマジネーションとコーヒーの暗さが弾けていた。

 そんな先輩のことは好きではなかった。

 先輩はコロコロと変わるところが魅力的だ。けれども先輩の変わる先のことを必ずしも僕は全て好きだと言うことができない。できなかった。
 僕は小説なんか読まないからそんなもの読むより僕と一緒に適当な映画とかゲームをして笑い合って欲しかった。
 それでもって僕はコーヒーなんか大嫌いだった。だからカフェでは砂糖を沢山入れてグイっと一気にコーヒーを飲み干していた。

 カフェから出ると日が沈んでいて凍えるほど寒かった。帰り道、先輩は僕に質問をした。
「今日の私はどうだった?」

 僕は少しだけ動揺した。初めて先輩が、僕の世界における先輩の姿を、気にしたのだから。僕は正直に答えてしまった。

「あの、まァあの。ぶっちゃけると微妙です」

 返答はなかった。そのときの表情はマフラーのせいでよく見えなかった。

 13回目のデートの後の別れ際、先輩の世界の中に僕の片鱗が漂っている気がした。
 15回目のデートの帰り道、先輩の瞳の中には先輩にとって蠱惑的な僕の姿があった。

 僕は先輩を征服してしまった。
 彼女の世界の中心に僕がいるようになったのだ。

 それからというもの彼女は姿をコロコロと変えることは無くなってきた。彼女の興味ある分野も僕が好きな分野になってきた。
 僕が「好き」と言った先輩像に固定されていった。先輩は僕の大好きな彼女になったけれども、先輩自体の魅力を消してしまったのではないか。なんて。思ってしまう。


 ある朝、彼女の家で友人が旅行土産にくれたミルを使ってコーヒーを淹れてみた。僕が捨ててさせた、僕が好きじゃなかったけれども魅力的だった先輩の面影を、コーヒーのような瞳を、一瞬だけ追って。
 飲んでみると、僕が淹れたせいもあるだろうが、やはり美味しく感じなかった。彼女にも飲ませてみた。

「微妙だね」
 そんなことを言う金髪ショートの彼女の瞳には僕しか映っていなかった。とても澄んだ瞳で...
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