文字数 6,617文字

 蚊である。
 他の個体とは一線を画した優秀な蚊である。
 その所以は、まず命の根幹とも言える生命力の太さにある。どこにでも飛んでいるような極普遍的な蚊ならば、不幸な事故に見舞われる(主に人間による殺害)ことなく生涯を全うできたとしても、私が知っている限りではあるのだが、七週、八週以上は生きられない。蚊という儚い生き物の宿命である。ところが、私はもう既に十週目を迎えようかというほどの高齢だった。これもまた、蚊という強靭な生き物の宿命なのか、私自身、体力や筋力、察知能力などに関しては、全く衰えを感じない。
 そして、産卵回数という点においても私は優れていた。天寿を全うした蚊でも、生涯に行える産卵の回数というは大抵三、四回。多くても五回が限度である。しかし、私はとあるメソッドを確立しているので、八回もの産卵を行うという偉功を成し遂げていた。もはや蚊界の大立者と呼んでも過言ではない。
 交尾を終えた私は再び中村家へと侵入するために便所へと向かっていた。いつもの通り穴の空いた網戸を通り抜ける。本当に人間とは杜撰なものだと思う。
 一部の蚊を除いて、大抵の蚊は滅多に人間の住処へは侵入しない。理由としては二つ。単純に、常に死の危険に脅かされること、そして侵入したはいいが脱出できないことがほとんどであるということ。その点、私は類まれなる察知能力と、この家の構造の理解を兼ね備えていた。
 初めは偶然であった。どこへ行こうと全てが人工物、吐きだしたくなるほど空気が汚い。死を覚悟した。あまりにも途方もない脱出作業を命からがら達成できたのは、ただの僥倖。あの閑古鳥の声が無ければ、私は日も当たらない陰湿な物陰でひっそりと野垂れ死んでいただろう。
 しかし、その結果が今に至る。転んでもただでは起きぬというやつだ。その後の私は先の逆境を手玉にとった。私はこの家の安全な出入り口、安全地帯、人間の定位置など、全てを網羅してしまったのだ。流石に、自らの意志でもって中村家への侵入を果たしたときには言いようもない恐怖と不安を覚えたものだが、そんなものはすぐに忘れてしまった。あまりにも人間の血を吸うことが容易だったからである。私は呆気にとられた。通常、蚊は屋外で他の生物の血を吸うことが多いのだが、こんな暑い中で出歩いている生き物、主に人間はすべからく活発的である。そんな人間を標的にしたものなら、両の手で叩き潰されるか、妙な匂いを発する煙を噴出されて死んでしまうかのいずれかだ。他方、屋内にいる人間は、常に怠惰で呆けた顔をしている。のらりくらりと無気力に風に吹かれているだけの人間からは、まるで生気が感じられない。屋外での苦闘が嘘のように容易に吸血を行うことができる。
 私は廊下を渡っていた。背後に構える広大な壁は、みな透き通った白色なので、その中央を通ろうものならば恰好の的である。踏みつぶされてしまう可能性を考慮しなければならないのは面倒だが、やむを得ない。低空飛行で床の茶色と同化する。
 私たち蚊は、花の蜜などを吸って腹を満たし、色情の突き動かされるままに交尾を行う。そして腹に新たな生命を宿した蚊は、一世五代の(私はこれに限らない)吸血をする。産卵に必要なだけの栄養を得た後は、水場を探す。出来るだけ、静かな水面が良い。寂寂たる水場を見つけたのならば、最後にゆっくりと産卵を施す。この過程を、血を吸うこと以外ではいつも同じように、規則的に行うこと。これが秀でた蚊の条件であり、私の確立されたメソッドだ。人間の巣を自分の領域にしている私にとってはいとも容易い。
 家の中心部の廊下までたどり着く。ここは空気がよく流れる。私は空気中の成分を弄った。空気中に色濃く残る人間が排出する二酸化炭素の流れ。これを辿って私たち蚊は標的を探し出す。屋内なので、排出される二酸化炭素の量はどうしても少なくなってしまうが、そんなことはとうに慣れている。
 私は、三つの異なる二酸化炭素の流れを察知した。恐らく中村家の母親、長男、次女だろう。これは中村家を右往左往する中で身につけた知識に似た勘である。たいてい当たっていることが多いので、やはり経験に依るところが大きい。
 とりあえず私は長男の気配を辿っていくことにした。ここから最も近く、その上彼は中村家の中で最も警戒心が薄い。恰好の的だった。
 彼がいる場所は和室だろうと推測する。今、私がちょうど便所に通じている通路を二回折れ曲がったので、あとは直進するだけだ。思った通り、和室の戸は大きく開いている。
 私は和室までの長い廊下を慎重に羽ばたきながら、昔のことを思い出していた。先ほど、他の蚊は滅多に人間の家へは侵入しないと述べたが、「滅多に」に含まれている例外を私は二匹だけ知っている。名前も、出生も、何も知らなかった戦友。私が出会った二匹の蚊。もしかしたら、その個体は私を産んだ母親だったのかもしれないし、私が産んだ子供であったのかもしれない。蚊という悲壮な生き物の宿命である。
 その二匹のうち、一匹はひどく臆病は蚊であった。人間を発見しても、用心深く周りを窺うだけで一切近寄ろうとしない。恐らく、睡眠だろう、人間は夜になると決まった姿勢のまま死んだように動かなくなることがある。彼女が血を吸いにいくのはまさにその時だけだった。何度も、何度も細かく吸血をしていたことを憶えている。当初は、いくらなんでも警戒のしすぎだろう、と思っていた。しかし実際、彼女の行動からは学べることが多く、以降の私の吸血に大きく貢献した。師とまでは言わないが、今私が生存できているのは少なからず彼女の影響もあるだろう。
 そんな彼女の死体を見たのは七度目の吸血に挑もうかという時だった。ふと、便所の入り口の脇に目をやると、見知った同胞の影。私が近くまで寄ると、既に息はなかった。餓死である。蚊は吸った血の栄養分を全て腹へ宿した命に与えてしまうため、自身の補給はまた別に行わなければならないのだ。私は両の前足を彼女の向けて合わせた。「過度な慎重も毒」これが彼女から受け取った最後最大の教訓である。
 少しだけ感傷に浸ってしまった。私は慎重に和室の戸を抜ける。長男は横になっていた。睡眠をとっているのかと思い、しばらく様子を窺ったが、右手だけが熱心に口元と食物を往復していたので、どうやら起きているらしいと判断する。
 私は慎重を期して彼へと近づく。今よりも更に状況が整うまで待ってもよかったのだが、頭の中で彼女の教訓がよぎった。私は進む。恐らく、これ以上良い状況になるには膨大な時間が必要だろうと思ったのだ。
 私たち蚊は、吸血する生き物から気づかれないよう、様々な工夫を身体に施している。一つ一つ説明するのも手間なので割愛するが、その性能は折り紙付きだ。視覚、聴覚的に気づかれることがなければ、まず見つからない。なので、基本的に顔から最も遠い足元を狙うのが定石となってくる。
 私は彼の足首へと到達する。いくら私たちの身体が高性能だからといって、慢心してはいけない。人間の身体もまた高性能なのだ。私はところどころ生えている毛には触れないよう細心の注意を払って吸血の準備をする。
 針を刺す。そして、ゆっくりと血を吸う。私は周囲の空気の流れに全神経を集中させた。些細な空気の揺れ。それが自分に向けられているものなのか否か、一瞬で判断しなければならない。そして、音だ。人間は私たち蚊が吸血しているところを見たのならば何らかの声をあげるものだ。
 私は針を抜いて即座にその場を立ち去った。なるべく、長男の視界には入らないように旋回しながら彼の意識を撒く。
 私が感じた違和感が強く撤退を命じたのだ。空気の揺れや音に大きな変化があったわけではない。しかし、幾分静かすぎた。定期的な体の揺れや空気の流れが止まったのである。人間が自分の血を吸う蚊を見つけたときの主な行動として、何か声をあげる他に、自分の身体を硬直させるきらいがある。恐らく、自分の血を吸う蚊への興味、叩き潰すための準備あたりが順当な理由だろう。生憎だが、身体や空気の揺れが消え、私を叩き潰そうと心掛けるほどに私は警戒心を強める。これが凡蚊と私の大きな違いだ。この現象を「ラッキー」程度にしか思わない個体から叩き潰されていく。
 長男が立ち上がり和室を後にする。私の存在に勘付いたので何らかの対処をするのだろう。人間が殺意を持って私の前に正対するのであればそれを退避することは可能ではあるのだが、あの奇妙な匂いを発する煙だけはいけない。あの煙に捕まってひょろひょろと落ちていく蚊を何匹も見てきた。人の心を持たない大量殺戮兵器である。あれを回避するには、いっそう空気の流れに敏感になるほかない。少しでも奇妙な匂いがしたのならば、何があっても即刻その場から立ち去るべきだ。それくらいしか、対処法はない。
 私は長男が帰ってくる前に和室を抜け、再び廊下へと戻る。長男の血を吸っていたのはほんの三十秒ほどだ。腹に宿した命のためにも、あと二分相当の量の血液は確保したい。
 二酸化炭素の流れを再び察知する。思うに、私はこの能力に関しても人一倍長けているのではないかと考える。先ほど述べた同胞の二匹の蚊のもう一方、臆病ではない方の個体、彼女もこの能力には長けている方らしかったが、私よりも探知力は低かった。
 階段の上、恐らく次女の部屋だろう。そこに彼女の気配を察知する。母親は動き回っていることが常だ。必然的に、次の標的を次女へと移す。中村家では相当に条件が揃わないと母親を標的にすることは難しい。
 長男の血で、少しだけ身体が重くなっている。私は階段をふわふわと漂いながら、もう一匹の同胞のことを想い浮かべていた。
 彼女を一言で表すならば勇壮活発。いわゆる怖いもの知らずであった。私は今でも鮮明に彼女の羽捌きを思い起こすことができる。華麗で、優雅で、誰よりも敏速だった。その様子はまるで吸血の過程を楽しんでいるかのようにさえ思えた。しかし、どれだけ器用に吸血をこなそうとも、相応の警戒心がないのならば人間による殺戮は免れない。それは私が三回目の吸血を終えたあたりであったと思う。その最期は、実に天晴なものだった。おおよそ、十分間もの間殺意を剥きだしにした人間から逃げおおせたのだ。彼女はまるで揶揄かのように父親の周りを颯爽とくぐりぬけ、自身の背景の色を認識しているが如く保護色の上を飛び回った。どうして、それだけの能力を持ち合わせていたにも関わらず逃げだすことをしなかったのか。わざわざ父親の周りを旋回することもないだろうと思うだろう。実際、その通りだ。標的が私であったのならば、一度意識を撒いた時点で即座に低空飛行に切り替えその場からの脱出を計るだろう。しかし彼女は、蚊という豪胆な生き物の宿命なのか、殺意を退避することに快感を覚えてしまったのだ。足を踏み入れてはいけない禁断の魅惑に憑かれてしまったのである。しかし、だからと言って彼女の最期の飛翔が残念なものだったかと言えば嘘になる。危うく、私は彼女と飛行を共にしてしまいそうになるほどだった。有頂天外愉快的悦。彼女の眼はらんらんと輝き、大きな弧を描くように人間の殺意をかいくぐる姿は、蚊としての究極の美であったと言えるかもしれない。
 私は階段をふわりふわりと昇っていく。このことを思い出すと、気分が高揚すると同時に、憂鬱な気持ちにもなる。
 十分ほどして父親が何やら叫びながらリビングを離れていった。そして戻ってきた父親は、あの毒ガスじみた兵器を手に持っていた。それからは息をつく間もない。呆気なかった。毒ガスを向けられた彼女はひょろひょろと音もなく落下していく。私は思わず目を伏せ居た。どうしようもない虚無感、正々堂々勝負しろ! という悔しさ。そして私は「彼女のようにはなるまい!」と決心したのだ。彼女は私の憧れであり、他山の石でもある。
 次女の部屋の前へと着く。中の様子は伺えないが、ほんの少しだけ隙間が空いていたのでそこを通る。
 中はひんやりとしている。この部屋には冷たい空気を吐きだす仕組みがあるのだ。これだけ涼しい部屋だと、軟弱な人間はよりいっそう怠惰な姿をさらけだす。実に吸血がしやすい環境だ。
 私はベッドの上で横になっている次女へと近づく。彼女は、長男とはまた違った意味で吸血が容易い。肌の露出面積が著しく広いのだ。服で覆われている肢体は二割ほどではないのだろうかと思う。あまりにも無防備である。どこにでも自由に針を刺すことができるというのは大きなアドバンテージだ。
 私は足元へと近づいていったが、そこには小さなタオルが乱雑に掛けられていた。何故、足元にタオルを掛けているのか。疑問には思ったが、人間は理由もなく行動することが甚だ多い。まあ、理由が分かろうが分かるまいが、私がすべきことに変わりはない。私は慎重に彼女の背中へと移動していった。足の次に狙いやすいのが、人間から完全な死角となるこの背中である。普段は背中を出している人間なんてほとんど見ないのだが、この次女だけは別だ。先述したよう、このような際に肌の露出面積は大きな役に立つ。
 私は無事に彼女の背中までたどり着く。ただ、背中は完全な死角である代わりに、足元と違い手が届く場所でもある。きまぐれに背中を掻かれたりなんてしたら一巻の終わりだ。私は先ほど長男の血を吸っていた時よりも更に集中力を磨く。
 血を吸う。いつも、この瞬間が一番緊張する。いくら針に細工をしていたって、気づく人間は気づくものだ。私はじっと目を瞑り集中する。
 時折聞こえてくる次女の小さな笑い声、階下で母親がドタドタを慌ただしい様子で歩き回る音、窓を隔てていても尚聞こえてくる耳障りなセミの鳴き声、頭上から送り出されている冷ややかな風によって揺れる紙束の音、次女の衣擦れ、無音、私の心音。
 同時に、空気の揺れにも意識を割く。冷風がこの部屋の空気の流れを不自然に折れ曲がらせていたが、何ら問題はない。自分に対する空気の震えさえ感知できれば良いのだ。
 あと三十秒。
 私は自身の集中力がじわりじわりと衰えていくのを感じる。しかし、ここで彼女のもとを離れるわけにはいかなかった。次に吸血を行える保証などどこにもないのだ。私は意を決する。
 あと十五秒。
 彼女の行動に異変を感じる。恐らく、数秒後に彼女は立ち上がるだろう。多少の行動ならばくっついたままでいられる。しかし、動きが激しくなればなるほど自身に対する空気の揺れを感知できなくなってしまう。
 あと七秒。
 彼女の身体が大きくうねり始める。彼女から離れるのならば今しかない。しかし、ここで離れれば再び、感知、接近、吸血のサイクルを繰り返さなければならない。吸血をする前の軽い身体のままならば何ら不自由なくそれらを行えるのだが、やんぬるかな今は身体が重い。
 ここで吸血を成功させるほかない。
 あと五秒。
 彼女の起き上がりは想像以上に私の身体に大きな重力をもたらした。私はこの負荷に耐えることで精いっぱいだ。重力、音、身をきる風。私を仕留めるのならば今!

 私は毒ガスを喰らった蚊のようにひょろひょろと地面へとへたりこんだ。吸血は、成功した。これほど死を間近に意識したのは久方ぶりだったなと思う。あたりを見回す。どうやら、私の知らぬ間に次女は階段まで来ていたらしい。階段ならば人もあまり通らないし、空気の流れも察知しやすいので、私はここで少し休息をとることにした。
 否、慢心である。満身創痍だからといって、それが敵の本拠地で休んでもいい理由にはならない。何が起こるか分からないのだ。今日には潜入できたとしても、明日には脱出できなくなっているかもしれない。
 私は重くなった身体を無理やり起こす。最長寿の処世術、判断の鋭さを遺憾なく発揮する。
 空気の流れに異変は感じない。私はもときた道を辿り、階下の便所へと向かった。
 案の定、窓は開いている。網戸が掛かっているが、それは何の意味もなさない。やはり、吸血後の見る空は格段に美しい。こんな、薄汚い空気が蔓延っている人間の巣窟からは一刻も早く抜け出したかった。
 青空に向かい、飛翔。

 パチン

 晩夏の黄昏。一匹の蚊が死んだ。
ただ、それだけのことである。
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