第1話

文字数 2,004文字

 鬼畜米英が所構わづ降らす爆弾が外で鳴るたびに、ガマの中に地鳴りがして、私たちは身を縮こめて爆撃が止むのをただぢつと待つてゐます。あなたと逢引した思ひ出の鍾乳洞が命を繋ぐ最後の砦になろうとは、神様はなんて惨ゐのでせうか。あなたへの手紙にかうしたことを書けばきっと検閲で真っ黒になってしまうでせうが、どうしてもこの地獄の中の私の想ひを言葉に残してをきたいのです。私が死んでもあなたが読んでくれることを願つて、揃いのお守りの中に忍ばせてをかうと思ひます。
 おばあもおとうもあんまーもうつとうも、殆ど口もきかづうなだれてばかりいます。幸子は生きるために必死になって私の乳首を一日中吸ひ続けてくれます。なのに卵や干物といった精のつきそうな食糧は兵隊さんに差し出して、私たちは芋粥しか食べてゐなひので満足にお乳も出ませむ。幸子が空腹で泣くと、敵に見つかつたら皆殺しにされると、それはそれは恐ろしい顔で兵隊さんに怒鳴られます。殺してしまえと言う陰口も聞こえてきます。ここに居る兵隊さんは自分たちのことばかりで、私たちを護つてはくれそうにありませむ。きつとあなたは戦地でお国のために頑張つてゐらつしやるのでありませうから、私たちは我慢せねばと思ひますが、ガマの中で犬死してゐくのは嫌です。あなたがそばに居てくれたらとこの非常時に気弱なことを思ひます。とゐうのは、どうやら皆で自決しなければならなひやうなのです。昨日はひとりの兵隊さんが煙で死のうと布団に火をつけて皆して慌てて火を消しました。さつきは、敵がビラをガマに撒いていきました。ビラには出てくれば何もしなひし食糧も貰えるとゐうやうなことが書いてあつたそうですが、兵隊さんが私たちは見るなと言つて見せてはくれません。私はたまたまビラを読んだタミのおじいに聞いたのです。昨日は竹槍を持つたねえねえたちが外に出て応戦しましたが、ひとりが撃たれて亡くなりました。泥まみれの亡骸はガマの隅で眠つてゐます。ほかのねえねえも脚をやられて血が止まらづ、苦しそうに身悶えながら、細い唸り声を漏らしてゐます。もう外は敵でゐつぱひらしひのです。
 幸太郎さん、私が死んだら幸子はどうやって生きればゐひとゐうのでせうか。幸子ひとりで生きてゐけるのならば、私は死んでも構ひませむ。だけど……。私は幸子がオギヤアと泣きながら生まれてきた時から、この子が笑うのを視たことがありませむ。私が笑つてあげられないから、きつと笑ひ方を知らなゐのでせう。笑顔のきれひなあなたなら幸子を笑顔にできるのでせうね。たとえ生き恥を晒そうが、非国民と言われやうが、あなたがお国を護ろうとするやうに、私はこの子を護らなければならなひのです。生き延びることができるなら、大きく白旗を掲げてでも、私は幸子と二人でこのガマから出ようと思ひます。もうそれしか道が無ひのです。あなただけには解ってほしひのです。今ここに百人、ゐや百五十人くらひ居るでせうか。耐え難ひ喘ぎ声の人ゐきれと立ち込める悪臭とで誰もが抜け殻のやうで、もう誰にも余裕とゐうものが無くなったのです。生きてゐるのがままならなひのです。私が死ぬことは幸子を殺すとゐうことです。私にはそんなことはできませむ。幸太郎さん、米兵に屈してまでも生きやうとする私を赦して下さひね。どうしてもあなたにこの子を抱いてもらうまでは死ねなひのです。   イク

 私には父と母の記憶がない。母の書いたこの父への手紙だけが、私と両親を繋げているへその緒のようなものだ。もしこの手紙が存在しなければ、私がどこの誰かなのさえ分からないまま生きなければならなかっただろう。朽ちた木の皮で飢え凌ぐような孤児院での凄惨な暮らしを支えてくれたのは、紛れもなく母の遺してくれたこの手紙だった。
母と一緒に死んでいれば苦しみの記憶など一片も無いまま消えることができたのだろうが、この生かされてしまった痛みが両親の無念さと共にあることが私の命を繋いできた。何十人もいた義兄弟たちが次の朝にはひとりふたりと栄養失調で冷たくなっていく中、私も早く楽になりたいと思う愚かさは、私を生かすために命を差し出してくれた両親を想うたびに打ち消され、生き抜かなければいけないという使命感を私に植え付けた。
米兵のレイプにいつも脅かされて育ったはずの私が、米兵相手にパンパンをするしか生きる術が無かった運命の中で、父親が誰かも分からない黒い肌のこの子を、堕ろさずに今こうして抱きしめながら愛おしく思えるのも母の導きのおかげだ。この子が日本人として生きていくことの不憫さを考えると一生戦争は終わらないのだと思うが、いつの日か生きていることを喜べる本当の豊かさがやってくるのを願っている。その日のためにまず私が笑えるようにならなければいけない。
 もうすぐ東京に平和の祭典がやってくるらしい。本土とここはきっと違う時間が流れているのだ。
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