風待草と魚座のエゴイスト

文字数 25,775文字

人はいさ 心も知らず ふるさとは
花ぞ昔の 香ににほひける
         〜紀貫之『古今和歌集』


   〻

 梅を見にゆこうよ。
 昨日谷川ユキナから誘われ、自宅で彼女を待つが約束の時間を二〇分過ぎても連絡がない。その間三度LINEを送ったが返事もない。きっとこちらに向かっているんだろう。静かに待つことにした。スマホで格闘ゲームをやり、オンラインの麻雀ゲームをやり時間を潰すが、一〇分経っても連絡がないので、近くまで来ているのではと気になり部屋を出た。
 先週までの寒さが和らぎ、暖かい日差しが街に降り注いでいた。澄んだ青空が広がっていて気持ちの良い午後だった。春らしさを感じながら通りを見渡すが、彼女が運転するクリーム色の日産マーチの姿は確認できなかった。
 スマホが鳴った。急いで画面を見るとユキナからではなく郁也さんからだった。
「潤一郎、今どこにいんの?」
 家だと答えると少し沈黙があってから、今日の夜会えないかと訊いてくる。いつものように急な誘いだった。今日の夜はアルバイトは入っていない。大丈夫です行けますと伝えると、今日は桂子も来るからまた後で、と手短かに要件を言い終えた郁也さんは電話を切った。
 メールなりLINEなりを送ってくれれば良いのに、郁也さんはいつもわざわざ電話をくれる。そしてなぜかその時タイミング良く出られることが多い。どこかで俺のタイムスケジュールを把握しているんじゃないかと思うくらい、いつもどんぴしゃなのだ。
 ひと息ついた直後、またスマホが鳴った。今度はメール受信を知らせる通知音。ユキナではなく郁也さんからだった。
 開くと待ち合わせの時間と店の場所が書かれていた。待ち合わせの場所は渋谷で、メールの本文に添付されたURLをタップするとイタリアンレストランのHPにジャンプした。そこは以前行ったことがある店だと思った。きっと桂子の住む三軒茶屋に合わせたのだろう。郁也さんらしい。桂子も来ると言っていたので今晩は三人で会える。桂子とは去年の年末に最後に会ってそれっきりだったから会うのが楽しみだ。
 茂春さんは去年の暮れに大学を辞めて沖縄に帰った。去年の年末に茂春さんと最後に会った時に、
 ──おれ、今日大学を辞めてきた。大晦日に島に帰るよ。
 いきなり何を言い出すんだと、そんな冗談やめてくれと笑い飛ばそうとしたが、茂春さんは鞄の中から受理された退学届の控えを皆に自慢げに見せてきた。突然の展開に一同驚き、言葉も出なかった。
 別に島に帰る必要はないだろうと郁也さんが説得を試みるが、でもここに残る必要もないよなと茂春さんはきっぱりと言い返した。まとまったお金が必要なら俺の母親に頭下げて頼み込んでみようか? と郁也さんは柔らかい口調で物凄いことを言ったが、そこまでしてお前の世話になる義理はねぇよなと茂春さんは郁也さんの提案をすぐに退けた。まぁその通りで、その後は誰も説得をすることはしなかった。
 ほぼ毎日ように通っているとんかつ屋が閉店するから。それが茂春さんが語った大学を辞めた理由だった。これからの毎日の食事がひどく不安になったと芥川龍之介の名言のように言うものだから、それも冗談だとはじめは思ってしまった。
 そのとんかつ屋は茂春さんの住むアパートに遊びに行った時、一緒にその店に行って夕食を食べたことが一度だけあった。昭和のかおり漂うテーブル席が数席しかないこじんまりとした店だった。
 これ美味いから食ってみろよと勧められたポークソテー定食は塩が効いていて確かに美味しかった。
 ──こんなにシンプルな味つけで美味しい肉はまず他の店じゃ出ないよ。他の店のポークソテーは味付けがどこか洒落てんだよなァ。
 そう自慢げに語っていた茂春さんは店の定休日以外は毎日食べに来ていると言っていた。その店が店主が高齢のため、また配膳をするおばちゃんの足の具合が悪くなったことで、年内で店を畳むことが決まったその秋頃から茂春さんの元気がなくなっていたのも確かなことだった。茂春さんにしてみれば、生活の一部だったものが完全に無くなってしまった気持ちだったのだろう。それは代替の効かないものだったのだ。
 その一方で俺と郁也さんは、茂春さんが島に帰った原因は桂子にまた振られたのではないかとも思っていた。しかし、それはないと桂子は断言したから、じゃあマジでとんかつ屋が店を畳むからなのかと桂子に尋ねると、本当のところは大学での授業がとても退屈でつまらないからだと、桂子は落ち着いた口調で話をした。止めなかったのか? 
 ──茂春がどういう性格なのかって知ってるでしょ? 一度決めたら梃子でも動かない人よ。そんなの説得出来るわけがないでしょ。
 桂子は淡々と話した。
 面白くないならどうしようもない。このまま惰性で学生生活をあと二年も続けられる訳がなく、それなら早く社会に出て稼ぐ方が賢明だと判断した。少しも相談してくれなかったことを水臭く感じたが、桂子の言う通り自分が決断したことに対しては誰が何を言っても曲げないのが茂春さんだとこれまでの付き合いで理解していた。
 家賃生活費等を工面するため、浪人時も受験直前期を除き、アルバイトの日々を送っていた茂春さんだ。大学生になってそこにさらに学費の分が乗ってきたら、もう朝から晩まで働かざるを得なかった。二年近くの学生生活では授業はほとんど出ていなかった。それで授業の単位が取れるはずがなく、カンニングしたのがバレて大学のお偉いさんからこっぴどく怒られたこともあった。むしろ中退する時期が遅かったくらいだ。
 台風の日に神のお告げを聞き上京して始めた茂春さんの大学受験。運もあって合格して大学生活をスタートさせたが、こんな終わり方もあるんだな。茂春さんにとっては大学に合格することがゴールだったのか。
 ──あゝおれの体がもう一つあればなァ。
 それが去年の暮れに直に聞いた最後の茂春さんの言葉だった。

 そんな茂春さんがいなくなってから、俺たちの関係バランスが崩れつつあるような気がしていた。郁也さんと桂子と俺で食事をしていても何か違和感があり会話が続かないのだ。
 これは時間が解決してくれるのだろうとは思うものの、それが一体いつになるのかはわからない。三ヶ月が経って少しずつ茂春さんがいないことには慣れてはきたが、そう思うように自分の気持ちを仕向けている感は未だに否めない。いつも一緒に過ごした誰かがいなくなるのは、とてもとても悲しいことだ。
 空を見上げるとちょうど太陽が雲に隠れそうだった。直後吹いてきた風が頬に当たる。その風には冷たさが含まれていて、その冷たさを暖かい日差しのせいで忘れてしまっていた自分に気づく。春はもう少し先なのだ。
 短いクラクションが二回鳴り、振り返るとマーチがゆっくりこちらに進んでくる。運転するユキナがハンドルから右手を離し手を振っている。はっとしたが左手がハンドルに添えられているのは確認できた。マーチはハザードを点灯させ路肩に停まる。
「ごめ〜ん。道が混んでて」
 ウィンドウを開けてユキナが微笑む。
「毎度のことだけど、遅いから事故ったかと思ったよ」
「もう。それは言わないでよ。あたしはいつも安全運転なんです」
 とユキナは口を尖らせた。
 エンジンを切った後、車から出てきた彼女は白のワイシャツの上に桜色のカーディガンを羽織り、灰色のロングスカートという格好をしていた。足元はコンバースのスニーカーだった。栗色の長い髪が、顔を出した太陽の光を受けて輝いていた。思わずドキッとした。彼女はフレームのない眼鏡のブリッジをくいっと持ち上げて、今日は気持ちの良い天気だねぇと間延びした言い方をし、空を見上げた。太陽が雲の隙間から顔を覗かせている。
 彼女から車のキーを受け取った後、運転席に座った。彼女は助手席に座る。シートベルトをし、エンジンをかけ、カーナビを目的地に設定して、車を発進させようとした時、
「何か私より操作が手慣れてるね」
 彼女は嫌味っぽくそう言うが、もうこの車には何度も乗って運転しているから当たり前のことだった。さぁ行こうか。
 目的地の大倉山公園の梅林まで到着は二〇分とナビに表示されているが、道路の混雑ぶりからして倍の時間はかかるはず。綱島街道へ出たらまたもっと混むんだろうなと思いながら、カーステレオから流れるK-POPの音楽に耳を傾ける。彼女の車に乗る時はいつも彼女の好きなK-POPを流しているが、確かにノリの良い曲が多く、運転時の気分は上がるが、どれも同じように聞こえてしまい、次第に飽きてくる。これならラジオを聴き流していた方がマシだ。でもそんなことは口にしない。
「最近遥から連絡あった?」
 赤信号で停車したタイミングで彼女が唐突に尋ねた。
「あゝあったよ」
 平静を装いながら前を向いて答える。
「そっか。どうなの?」
「どうなのって答えづらいな」
「今度二人で会うの?」
「いや、それはまだ予定していない」
「ホント〜?」
「どうして嘘つくんだよ」
 そうよねと相槌を打ち、彼女は控えめに頷いた。
「遥は真面目で良い子だからさ、あたしは良いと思うけどな」
 一ヶ月前、大学の帰りにユキナからご飯食べようよと急に呼び出され、指定された横浜の駅ビルの飲食店に行ったら、ユキナの隣に知らない女性がいた。そこで紹介されたその女性が遥だった。
 いきなりの展開に焦ったが、小一時間ほど三人で話をした。高校時代の部活のことや変わった友人の話が主だった。二人は高校の時の同級生で三年間同じクラスだったとユキナは言った。
 ほとんどユキナが一方的に話していた。彼女たちの高校は制服がない私服の学校だったらしく、毎日全身黒の服を着ていた同級生の話で盛り上がっていた。まぁ、極端に言うと盛り上がっていたのはユキナだけで、その黒服の人にまつわるエピソードをこれでもかというくらい話していた。彼女は、遥は口静かで笑う時は必ず口元を手で隠した。どこか品がある女性だなという印象を受けた。小さい頃はバレエをやっていたというだけあって背筋がピンとしていて姿勢も良い。ユキナとはとても会話のテンポが合っていて何より相槌が上手かった。俺は完全に蚊帳の外で、二人の話に頷きながら引き攣った笑顔を浮かべていたことだろう。あれほど気が詰まった時間を過ごしたのは久しくなかったように思った。
 何とかその場をやり過ごし、さぁ帰ろうかとなった別れ際にユキナからLINEを交換するように強く言われ、迷惑でなければぜひお願いしますと申し訳なさそうに頭を下げる遥の態度を見たら、交換せざるを得ない状況であった。
 それからしばらくして遥から連絡が来た。ユキナが期待するような進展はないまま、今でもLINEで映画や音楽や小説など、好きなものを探り合っているようなやり取りを交わしている。
 指折り数える程度のそのやり取りで得た彼女の情報は、マクドナルドのフライドポテトとチーズバーガーが好きだということで、その二つは毎日食べても飽きないらしい。また、二葉亭四迷がお気に入りの作家で、特に『浮雲』は読んだ方が良いと強くおススメされた。その本はまだ読んでいない。映画は韓国映画の『国際市場で逢いましょう』をススメてくれたが、それも観ていない。とても泣ける映画らしい。
「彼女まだ就活続けてるんだよね?」
「そうなのよ。内定もらってる会社はあるのに、まだ何社かあたりたいところがあるって言ってね。早く決めちゃえばと良いのにって思うんだけど、そういうところって妥協しないのよ、遥って。自分が決めたことにはとことんやりきる性格なんだよね」
「すごいな」
「でもさ、あたしたちも四月から三年だから今年は早々動かないとだよ」
「え⁉︎ 就活するの? 院に行くんじゃないんだ?」
「そう思っていたんだけどね。あたしだって色々と考えてんのよ」
「そっか。でも俺はまだ就活なんて実感がわかないな」
「わかるよその気持ち。でも動いておかないとだよ。スタートで遅れを取ったら取り返しがつかなくなるから」
「そっか。そうだよなぁ。う〜ん。テンション下がるわ〜。頭痛くなる」
「いつかは働くんだから必要な話だと思うけど。《巧遅は拙速に如かず》って言葉があるでしょ? 色々時間をかけて考えてから良く仕上げていくんじゃなくてさ、とりあえず動く。何事も速いに越したことはないのよ。勉強だって、就活だってさ」
 なるほど一理ある。黙っていると、また遥の話に戻ってゆく。
「遥ね、潤ちゃんのこと気になってるみたい。男の人に対してそんなこと言ったのこれまで一度もないんだよ。だからきっと潤ちゃんのことが好きなんだよ。この前あたしのとこに長〜いLINEが来たんだ」
「そうなんだ? たった一度しか会ってないのに? そりゃ光栄だな。そっかぁ遥ちゃん俺のこと好きなのか〜」
「言い方に心がこもってないよ」
「そうでもないさ」
「遥のこと、好き?」
「うん。嫌いではないよ。でも俺のどこが気になるんだろうね?」
 俺のこと何も知らないのにね、ということは言わないでおいた。そんなことを言って彼女の反応を窺っている自分が嫌だった。こんな駆け引きのようなことはしたくない。信号が青になり車を発進させる。

 彼女とは、谷川ユキナとは予備校時代に知り合い、もうかれこれ四年近くの仲になる。知り合った時の彼女は大学生だったが、仮面浪人をして別の大学に合格した。同じ年に俺も大学に合格した。
 予備校の時は自習室で顔見知り程度だったが、大学一年の時に複数の大学が集まり運営するテニスサークルの新入生歓迎会でばったり再会をする。なぜかそこで意気投合してそこから友人関係を続けている。ちなみにテニスサークルはその年の夏前に二人とも辞めた。
 それ以降、ユキナから連絡が来るようになり、二人でドライブに行ったり、食事をしたりして出かけることが多くなった。彼女に恋心を抱くのにそれほど時間はかからなかった。日に日に膨らむ彼女への想いが抑えきれず、その年のクリスマスに告白した。

 案の定、綱島街道はひどく渋滞していて、時間がかかった。大倉山の交差点で左折をし、商店街を直進していく。カーナビの案内に従い、大倉山駅を過ぎてすぐの道を右折をし、急な坂をそのまま上がってゆく。坂から降りてくる人たちがぱらぱらといた。道幅も狭いので歩行者に気をつけながらゆっくりアクセルを踏む。
 どこかに駐車場があるだろうと踏んでいたのが間違いだった。進むにつれてさらに道幅は狭くなってゆく。このまま進んで大丈夫なの?とユキナは心配そうな表情を浮かべるが、大丈夫だよと根拠のないことを言ってステアリングを握る手に力を込める。内心では対向車が来たらどうしようかとハラハラしていた矢先、正面から宅配便の車が現れ、うおっと思わず声が出た。いったん車をバックし、停車させ、対向車が通り過ぎるのを待った後、またゆっくりと発進させる。
 徐行しながら周囲を見て駐車場を探すがそれらしきものはまったく見当たらず、右側には立派な住宅が建ち並んでいた。さらに進んでいくと右側に開けた場所が見えてきた。そこには白やピンクの梅の花を咲かせた木がたくさん見える。
「ここが梅林かな?」
 ユキナが言う。
「きっとそうだろね」
 と相槌を打つが、余所見できない状況なので前から来る歩行者を気にしながら慎重にハンドルを取る。大通りに出る道を探すが道幅は変わらず狭く、そのうち梅林を過ぎて、さらに狭い道の住宅地へ入ってゆく。右折左折を何度も繰り返して何とか二車線ある道路に辿り着き、安堵の声が出る。
「ずいぶんと駅から離れちゃったね」
 ユキナはカーナビに顔を近づけ、画面を操作して駅の場所を指差した。場所がわかればそこに近づけばいい。しばらく進み、中学校の前の道路を通り、左折して真っ直ぐに進めば駅に出る道を進み、目を凝らして周囲に駐車場がないか探していくと、ちょうど前方右手側に駐車場を見つけた。
「ここに停めるよ」
 駅から少し離れるかもしれないがここなら歩いても大した距離はない。さらに先に駐車場があるかもしれないが、なかったらさらに先まで行かなければ行かない。さっき大倉山の交差点に入る時に見つけた駐車場もあったが、そこだと駅までかなり歩くことになる。ユキナがここで大丈夫だよと言ったので、車を駐車場に入れた。
 腕時計を見たら十五時を過ぎていた。すでに陽が傾いていて夕方のような感覚になる。駐車場を出てすぐ近くにあったコンビニで缶コーヒーを買おうと思った。喉が渇いていた。ユキナは飲み物は要らないと言い、コンビニの前で待っていた。
 ぱっと会計を済ませたいが学校帰りの高校生がレジに並んでいて混んでいる。近くにもう一人店員がいたが、商品の陳列をしておりレジの行列に気づいていない。列をつくっているんだから、今レジを対応している店員が陳列に集中している店員を呼び、もうひとつのレジを開放してくれよと胸中で毒づきながら順番を待っている時、スマホが鳴った。画面には《桂子》の文字。慌てて出る。
「潤一郎、今どこなの?」
「コンビニ」
「え? 今家の前にいるんだけど」
「は? 仕事は?」
「休みだよ」
「だって今日平日だよ?」
「有給。消化しないとうるさく言われるから」
「あゝだから今日夜来られるんだ? 今日来るんだろ? さっき郁也さんから電話あったよ」
「うん。あ、郁也から電話あったんだ? まぁそれは置いといて、で、今どこのコンビニなの?」
 大倉山と答えると、どうしてそんなところにいるのか訊いてくる。ユキナと一緒に大倉山に梅を見に来てると正直に答えると、電話越しでも大げさだとわかるわざとらしい声を桂子は出した。
「ついにユキナちゃんと付き合ったの?」
「そんなんじゃないよ。ずっと友達だよ。わかってるだろ?」
「ふぅん」
 桂子は俺とユキナの関係を知っている。今に至るまでの経緯を桂子には話していた。そもそも桂子はチューター時代、ユキナは勉強のことで桂子によく相談していたのだった。桂子はユキナが入りたい大学の先輩でもあった。だから桂子もユキナのことを良く知っている。
 どうして俺の家前にいるのか尋ねると、頼まれていたものを渡しにきたと桂子は答えた。それが何なのかすぐに思い出せない。そうこうしているうちに、レジの順番が来た。電話をしながら会計を済ませるのが難しかったので、ごめんまた後でかけ直すと謝って電話を切った。
 店を出るとユキナが誰と話していたのかを訊いてきた。
「桂子さん?」
 え〜、あたしも話したかったなぁと顔を綻ばせる。
 目的地へと歩きながら、今日の夜二人と会うことを話した。何年経っても仲が良いねと彼女は羨ましがった。そういう仲間は大切にした方が良いよねと自分には関係が無いような言い方をしたのが癪に障り、じゃあ今日の夜一緒に行くかと誘うが、行かないと即答される。
 いつもの彼女だった。彼女はそういう複数人数で会うのを好まないことが、これまでの付き合いでわかった。何人かで話すと誰かの話を聞くことが多く、自分の言いたいことが言えないのだと前に彼女の口から聞いた。だから彼女は決まって誰とでも一対一で会う。気を遣ってまで友人関係を続けたくないというのが彼女の持論だった。
 そんな持論を持つ彼女が、この前、遥を連れて来た時は正直驚きを隠せなかった。なぜ俺に彼女を会わせたのか。そのもやもやは未だに解消できていない。
「桂子さんって今学校の先生してるんでしょ? きっと生徒に人気あるんだろうね」
「人気があるかどうかはわからないけど、雑務が山ほどあって大変らしいよ」
「そうなんだ。付き合っている人は? いないの?」
 ふと茂春さんの顔が浮かんだ。
「いないと思うよ」
 と俺は頷く。
「綺麗な人なのにね? あたしが男だったら、絶対に放っておかないけどね」
「そう? 女性からみる印象と男性からみる印象は違うだろうから、一概にそうとは言えないんじゃないかな? 俺はこれまでの付き合いで桂子の性格知ってるから、そんな恋愛の対象としてみたことはないな」
 また茂春さんの顔が浮かんだ。
 そうこう話しているうちに大倉山の駅前に着いた。ケンタッキーフライドチキンがある角を左に曲がり、坂道を上がる。車でも急な坂だと思ったが、歩くとさらにその勾配が足腰に効いてくる。日頃の運動不足がたたる。右手側には大倉山駅のホームが見えて、ちょうどそこに電車が入ってきた。電車到着のベルが鳴り響いていた。ホームと今歩く道との仕切りは扉一枚でしかなく、その扉の高さもそれほど高くはない。きっとそこを乗り越えてホームに行った人間がいるんだろうなと一〇人に一人くらいは思うはず。
 坂を登り切った後、振り返ると大倉山の街が見渡すことができた。建物が密になっているその絵をみて、景色の良さよりもここはこんなに高い場所なんだと意外さを感じる人がいるのだろう。大倉山という地名だけあってここは山なんだねとユキナが言ったことは確かに正しい。前方を見ると、まだ登り坂が続いていた。くぅ。
「これ、さっき一度車で通らなかったら、梅林の場所に気づかなかったかもしれないな」
 そう言うと、彼女は、
「そうだね。でもこの時期だったら人の流れに付いてけば、梅林に着くんじゃない?」
 と歩みを進める。ぱらぱらと反対側から歩いてくる人たちは梅林を見に行った帰りなんだろう。

 そういえば、一昨年の秋、茂春さんと二人で横浜の三ツ池公園にキンモクセイの匂いを嗅ぎに行ったことがあった。茂春さんがどうしてもとしつこく言うので、付き合って行く形にはなったが、知っているようで知らなかったというか、あゝこれがキンモクセイの花の匂いなんだと改めて理解したのを覚えている。
 その前の年、確がそれも秋頃だったと思うが、予備校時代に茂春さんがキンモクセイのことをしきりに話していた時期があった。早くしないと花が無くなっちまうと茂春さんは焦っていて、俺や郁也さんや桂子に一緒に行ってくれと頼んでいた。
 結局その年は受験が控えていたのもあり、行かなかった。茂春さんは大学の不合格通知が先に届いたかのようにとても残念がり落ち込んでいた。その姿を気にしていた桂子が引っ越しの際、手伝ってくれたお礼と言って茂春さんに《桂花陳酒》の酒をプレゼントしたのだった。
 いや、桂子じゃない。郁也さんが事の発端だ。郁也さんが買ってきたその酒を、俺から渡すのもあれだから引っ越しのお礼だと言って茂春に渡してくれと桂子に頼んだのだった。
 それを桂子があろうことか帰り際に渡しそびれてしまった。仕方ない。あの時は散々盛り上がっていたから、あれは誰だって忘れてしまう。
 俺たちが桂子の家を出た後、大通りに向かって歩いている途中に、桂子は自転車のペダルをこいで追いかけてきて、茂春さんにだけ《桂花陳酒》を渡したのだ。その時の桂子は役者だった。言葉巧みに茂春さんにあたかも本当に自分が買ってきたかのように話していた。たいしたもんだと思った。
 でもそれも実は郁也さんが仕組んだことだったと俺は思っている。大通りに向かって三人で歩いていた時、郁也さんがさりげなくスマホをいじっていたことを俺は見ていた。郁也さんは何も言わなかったが、おそらくあの時桂子にメールを送っていたのだろう。そのメールに気づいた桂子が後からやってきた。とにかく今考えると桂子が来たタイミングが抜群だったのだ。単純な茂春さんはどうして自分だけが桂子からその酒をもらったのか、深く考えることはなく、意中の桂子からもらったと良い方にしかとらえてなかったのだろう。茂春さんがそういう性格だということも郁也さんは知ってての一連の演出だったのだ。茂春さんにとっては好きな人から渡される最高のプレゼントのシーンとなったのだから。
 本当に郁也さんは優しくて気遣いの男だ。表面上はそうは見えない。それは知り合った時から変わらない。どうしてそんな男に幸運の女神は微笑まないのか。馬鹿な俺と茂春さんが運良く合格して、優秀な郁也さんが未だ合格できないなんて。今年の合格発表の日、自分の番号のない合格掲示板の前で立ち尽くす郁也さんの後ろ姿を思い出したら、切ない気持ちが溢れてきて泪が滲む。
「どうしたの? 目が痒いの?」
 ユキナが顔を覗いてくる。
「ちょっとね。花粉症になったのかな?」
 そんな嘘ついて泪を拭った。視線の先には小さな梅の木があり、緋色の花を咲かせていた。ほら見てごらんよ。
 ユキナはスマホを取り出し、何枚か写真を撮る。嬉しそうな彼女の横顔を見ていると、微かな梅の花の匂いが鼻腔をくすぐった。

   〻

 結局、川崎のベトナム料理屋で呑んでいる。
 大倉山の梅林からの帰り、郁也さんに電話をし、今桂子が鶴見にいることを伝えた。どうして桂子が鶴見にいるのかを郁也さんは尋ねなかった。じゃあ川崎で呑もうかとなり、郁也さんが桂子に連絡をするということで話がまとまった。その一〇分後くらいに桂子に電話をかけると連絡が遅いと怒られた。
 マーチに乗り、野毛のユキナの実家まで運転をしユキナを送った後、ユキナと別れ電車に乗る。移動中に郁也さんからメールがあり、もう桂子と合流したから先に店に入っていることを知らせる文面と店の地図が送られてきた。渋谷の店はイタリアンレストランだったが、今度はベトナム料理屋だった。
 川崎駅に着き、仲見世通りを直進してゆき、路地に入ったところにその店はあった。店に入り狭い廊下を歩くと前掛けをした制服姿の外国人の店員に出迎えられ、二階に案内される。テーブル席はすべて埋まっていた。奥の席に郁也さんを発見し、気づいた郁也さんは小さく右手を上げた。振り返った桂子が、お疲れ〜久しぶりだねと笑顔で言う。
 郁也さんの隣に席に座り、ビールを注文し、着ていたジャンパーを脱いで横に置こうとするとそこにハンガーあるからそこにかけなよ、と桂子が指をさす。郁也さんの手元には白い液体が入ったグラスがあり、それは何なのかと尋ねると、マッコリだと郁也さんは答える。
「ベトナム料理屋なのにマッコリがあるんだよ? おかしくない?」
 周りのことを気にして、桂子は小声で言う。
「逆だよ。ベトナム料理なのにこれをメニューに入れてるってことは美味いんだよ。だいたい違和感のあるものがメニューに入っている場合美味しいことが多いんだよ」
 郁也さんの美食家気取りなコメントに、桂子はなるほどねと感心しているようで、実のところは感心していない。お前も呑んでみろよ。
 勧められるが、後でと断ったら、じゃあ次はデカンタで頼もうかなと郁也さんはメニューブックをぱらぱらとめくる。
「ちょっとこれも気にならないか?」
 そう言って、郁也さんが広げたメニューブックを指差す先にはバウムクーヘンの写真があった。
「これも絶対に美味いやつだよな」
 どうしてベトナム料理屋にバウムクーヘンがあるのか摩訶不思議だ。もう何でもありだねこの店は桂子は呆れているが、運ばれてきた料理はどれも抜群に美味いとも桂子は言っている。テーブルの上にはパパイヤのサラダと揚げた春巻きがあった。その後ビールが運ばれてきたので、三人グラスを合わせ乾杯をする。
「サイゴンビールとかベトナムのビールがあるのに、日本のビールを頼むあたりが潤一郎っぽいわ」
 そんなことを言う桂子に言い返そうとしたが、ほらお前も何か食べ物頼みなよと郁也さんがメニューを差し出してきて、タイミングを逃した。バウムクーヘンだけは注文しないでよと釘をさす桂子からは封筒を手渡され、前に頼まれていたものだと中を見ると教職関係の教材とプリント類が入っていた。
「他にも何かあれば持ってくるから、必要だったら言ってね」
 桂子にお礼を言い、頭を下げた。
「先生目指してんの?」
「まだわからない。でも教員免許は持っておきたくってさ」
「じゃあ来年は教育実習だ」
「そうなんだよ。今からそれ考えると憂鬱だよ」
「頑張ってね」
「ありがとう」
「その時は俺も見に行くよ」
 郁也さんが横槍を入れてきて、その話題は終わった。
 それから今日行った梅林の話になり、梅には沢山の品種があることを二人に語った。梅の花はまだ満開ではなかったが、それでも綺麗だったことを実際スマホに収めた写真を見せながら話した。谷川ユキナが写ったものがその中に入っていたこともあり、話題は彼女のことが中心となる。
「ユキナちゃんまた可愛くなったね。元気そうだ」
 目を細めてみる桂子の姿はかつての教え子を見る眼だった。
「でもあなたたちまだ付き合ってないんでしょ? いっつも一緒にいるイメージがあるけどね」
「まぁいろいろあるんだよ。この間さ、彼女の友人を紹介されたよ」
「えぇ⁉︎ そうなの?」
 桂子は目を大きくする。郁也さんはマッコリをちびちび呑んで、黙ってそれからの俺と桂子の会話を聞いていたが、
「でも好きなんだろ?」
 と強い眼差しで俺の眼を見つめてくる。
「そうっスね。俺には彼女以外いないですね」
 そう答えると、郁也さんはにっと白い歯を見せて頷くだけで、またマッコリに口をつける。その眼にはもう鋭さはなくなっていた。

 あのクリスマスの夜、ユキナと横浜のみなとみらいでディナーをした。奮発してフランス料理のフルコースを食べた。クリスマスプレゼントはお互いなしにしようと決めていたので、その分美味しい料理をと二人で店を決めた。
 料理は申し分なく美味しかったし、高価なワインではないと思うが、五種類のワインが飲み放題のコースでここぞとばかり呑んだ。
 店を出る頃にはすでに酔いがまわっていた。それから二人でわざわざ観覧車の見える場所まで歩いていき、酒の勢いを借りて告白したまでは良かった。しかし肝心の彼女からの答えははぐらかされはっきりともらえず、
 ──今日は最後まで付き合ってくれる?
 そんな言葉を彼女は言ったのだった。
 みなとみらいを後にして彼女の希望で横浜へ出た。駅前の居酒屋で軽く呑んだ後、ショットバーへとはしごした。彼女の終電の時間が気になっていたが、最後まで付き合ってという言葉が頭にあり、そのまま時間を過ごした。次に時間のことを気にした時にはもうすでに終電が過ぎた時間になっていて、次に店に行くお金も無くなっていたのもありもう帰ろうと彼女に告げると、
 ──今日は最後まで付き合ってくれるんでしょ?
 と呂律の回らない言葉で赤ら顔の彼女は完全に酔っていた。終電が過ぎた時のためにタクシー代だけは残していた。もう店で呑むお金がないことを正直に伝えると、彼女は座った眼で俺を睨んだ。これがあるでしょ、と彼女は自分のバッグの中から財布を取り出して俺に投げてきた。大丈夫かよ。そんな言葉は彼女には届かない。中見てみなさいと言われるまま、確認したら彼女の手持ちもほとんどなかった。
 結局、最後の店を出たのは午前一時を過ぎていた。酔ってふらつく足取りの彼女が倒れないかどうかひやひやしながら、時間をかけてタクシー乗り場に向かった。
 その時間でも街は人で賑わっていたのを覚えている。色々な声が聞こえてきた。店のネオンが煌々とまばゆく光っていた。酔っていたのもあるのだろう、そこにいた人たちの姿や光景はネオンの色々に溶けて混濁していた。
 タクシー乗り場に着くと、そこもまた行列をつくっており、乗るまでに四〇分以上は待った。野毛にある彼女の家まで送った後は始発まで駅前のどこかの店で一晩過ごそうと考えていたら、
 ──潤ちゃんのとこに行く。
 と彼女が言い出した。そこでまた呑もうよ。
 いや、もう今日はやめといた方がいい。これ以上呑むと危ないと伝え、ちゃんと家まで送るから今日は帰ろうと説得するが、四の五の言うなとユキナはぶうたれた後、
 ──あたしのこと好きなんでしょ!
 と周囲をはばからない大きな声で叫んだ。
 とても恥ずかしかったし、酔いも一瞬で覚めた。前後に並んでいた人たちが俺たちを見て笑っていた。わかったから大声を出さないでくれと、酔った彼女に俺は立てた人差し指を唇につけ、静かにしてほしいというポーズを示すとようやく収まった。
 結局俺の住む部屋へと向かった。タクシーに乗ると彼女はシートに背をもたれ、程なくして寝息が聞こえてきた。俺はカーラジオから流れるディスクジョッキーの声を聴きながら、しばし今日これまで起こったことを頭の中で順に思い出して整理した。告白の後から彼女の様子がおかしくなったのか。伝えるタイミングが悪かったのか。そもそも言われたくなかったのか。考えれば考えるほどにわからなくなり混乱した。
 
 タクシーを降りると酔った彼女を肩に抱えながら部屋に入った。すでに午前三時を過ぎていた。すぐにエアコンを起動させて部屋を温めた。彼女をベッドに寝かせたら、ようやく一息つくことができ、ふうと安堵の息がもれた途端、思い出したかのように一日の疲れが一気に押し寄せてきた。そのまま眠ってしまおうかとも思った。しかし身体が汗ばんでいて気持ち悪さを感じたので、重たい身体を無理矢理起こし、シャワーを浴びた。 
 髪をドライヤーで乾かし戻ると、彼女はまだベッドに寝ていた。起こさないように物音を立てず、散らかっていた部屋を少しだけ片付けた。こんな部屋を見られなくて良かったと思った。片付けを終えると、エアコンの温度を下げ、ベッドの縁にペットボトルの水を置いた。ベッドはひとつしかないからこたつで寝ようと準備をし、部屋の明かりを消した後、潤ちゃんと彼女のか細い声が聞こえた。飛び上がるほど驚いた。
 ──ごめん、起こしちゃった?
 ──ううん。少し前から目が覚めてた。
 ──気分はどうなの?
 ──大丈夫。ごめんね。迷惑かけちゃったね。
 ──いいよ、そんなことは。無事に帰って来れて良かったよ。喉かいてない? 
 ──ありがとう。飲みたい。
 ──電気点けようか?
 ──大丈夫。あるところわかるから。
 彼女が起き上がる。暗く静かな部屋に彼女の動く様子が感じ取れた。彼女がペットボトルのキャップを開けて、口をつけ、飲んだ。ごくりごくりと喉が鳴り、液体が彼女の食道から胃への流れていく音まで聞こえてきた。
 ──そこで寝て風邪ひかない?
 ──大丈夫だよ。しょっちゅうこたつで寝てる。
 ──こっちで寝る? 一緒に寝た方が暖かいでしょ?
 一瞬何を言っているのかわからなかった。
 ──いいよ、俺はここで寝るから。
 ──私は大丈夫だよ。
 ──付き合ってないんだから、そういうの良くないだろ。
 少し間があり、彼女はふっと笑った。
 ──潤ちゃんは優しいね。
 ──普通だよ。
 ──普通じゃないよ。
 ──いいからもう寝なよ。
 この状況でそういう関係になるのは本意ではなかった。彼女とはきちんと段階を踏んで、関係を築いていきたい。俺の彼女に対する想いは一時の感情に流されるほど薄っぺらいものではないんだと。
 ──意気地なし。
 彼女は小声でそう言ったんだと思う。聞き間違いだったかもしれない。でもその言葉だったら、と思うともう一度は聞けなかった。
 それからしばらく時間が経った。彼女は寝たのだろうか。もぞもぞと彼女が身体を動かす度、いちいち反応してしまい、結局その夜は明け方まで一睡も出来なかった。始発の時間頃、彼女は何も言わず静かに部屋を出ていった。その一時間後、彼女から家に着いたというLINEが入った。
 あの時彼女を抱いていたら、今の状況は変わっていたのかどうかはわからない。それからの彼女は何事もなかったかのように、それまでと何ひとつ変わらず、以前のまま同じように連絡をくれたし、一緒に出かけたりした。始めのうちはもやもやした思いがあったが、それでも彼女のことがやはり好きだったから、一緒に過ごした。今はこの関係は変わらないんだろうと思った。付かず離れずの距離を保ったまま、進展のない関係が続くのだと思ったら、時折気が狂いそうになった。俺は都合良く遊ばれているのか。いっそのこと彼女から離れるべきだ。振られたではないか。未練を断ち切るのだ。次の相手を探すんだ。そんな考えも頭に浮かぶが、すぐに蒸発して消えてなくなるのは、彼女以上の女性がいなく、現れるはずもなく、彼女の笑顔にすべてが打ち消されてしまうからだった。俺は心から彼女を愛していた。大事にしたいという気持ちが裏目に出ることがあるのか。もう少し時間が経てば振り向いてくれるのかもしれない。だから今はこのままでいい。でも一体いつまで待てばいいのだろう。今はいないと思うが、そのうち彼女に意中の人が現れ、二人が結ばれたら俺は笑顔で祝福なんかしているのだろうか。そうなったら哀れな男だ、俺は。そんなにまでしてまだ彼女の近くにいたいのか。深いため息が出る。あゝタイムマシンがあったらあの時に戻ってやり直したい。そんなないものねだりをする自分が情けない。

「私はきれいさっぱりユキナちゃんからは離れた方がいいと思うよ。だって今のままじゃ見込みがなさそうじゃない」
 桂子はそう言う。
 ──何だったら、彼女が紹介してくれたその彼女と付き合ってみたら? 嫉妬して潤一郎の方に振り向いてくれるのかもしれないよ。あまりにも近過ぎると気づかないことだってあるのよ。
 桂子は力説した。でも俺は首を振る。そんなことしたら遥が可哀想だ。
「女心ってころころ変わるからわかんないねぇ」
「お前だって女だろ?」
 すかさず郁也さんは突っ込みを入れるが、
 「だって自分でも自分がわからない時だってあるんだから。他の女の人の気持ちなんかわからないよ。日々変化するからねぇ、女の気持ちって。昨日と今日、そして明日でコロって正反対に変わるものよ」
 「そういうものなんですか?」
 「うん。そうだよ。……あれ? 今潤一郎私に敬語使った?」
 「いや、使ってないよ」
 「前々から君には言ってるけど、どうして郁也と茂春には敬語で、私には敬語じゃないかね?」
 「またそれかよ。もうどうでも良いよ、その話」
 郁也さんが笑い飛ばそうとしたが、
 「どうでも良くないんだって」
 「はいはい終わり終わり。その話をするとこれから一時間はかかるから、勘弁して桂子さん。頼むよ」
 深く頭を下げる郁也さんに、何かを言い返したい桂子だったが、桂子は真っ赤な顔してぐっと飲み込んだ。桂子も大人になったと微笑ましく思ったら、
 「何笑ってんのよ」
 桂子が俺を睨みつける。
 郁也さんは先ほど頼んだマッコリのデカンタがなくなり、店員を呼んで同じものを注文した。
 それから話題は茂春さんの話になった。茂春さんが大学合格を決めた直後に、桂子に告白をしてあっさり振られた時と、俺の今の状況が通ずるものがあるんじゃないかと郁也さんが言い出した。
 
 一昨年の二月、合格発表の日だった。俺と茂春さんは同じ大学を受けた。学部は違ったが、発表日は一緒だったから、茂春さんがみんなで発表を見に行こうと言い出し、みんなで発表を観に行くことになった。一人がダメで一人が合格してたらどうするんだよと不安を覚えたが、結果運良く二人とも合格掲示板に番号があり、合格を手にした俺たちは抱き合い、泪が出るほど喜んだ。
 その直後、絶対大丈夫だからと意気揚々とみんなのいる前で茂春さんは思いの丈を桂子に伝えたが、あっさり断られた。あんなに自信満々で挑んだのに撃沈するという一連の動きが、その告白前後の茂春さんの表情の落差が、どこか喜劇をみているようで、俺は笑いを堪えるのに必死だった。顔を上げないように下を向きなるべく別のことを考えた。郁也さんは肩を落とす茂春さんを大丈夫だよ、まだまだこれからだと優しく真剣に慰めていたからそれもそれでコメディーのようで笑いを堪えるのに必死だった。さらに極めつけは大学のアメフト部の部員たちがぞろぞろとやってきて、茂春さんに合格した?と聞き、頷いた茂春さんが胴上げされていたことだ。わっしょい、わっしょいの掛け声と共に宙に舞う茂春さん。そのシーンは今もはっきりと覚えている。
 その後、確か東白楽の駅前の居酒屋に呑みに行った。おかしかったのがその場に桂子もいたことだった。俺たちは映画の感想でも言い合うように、茂春さんの告白の何がまずかったのかを当事者を交えて、あゝでもない、こうでもない、そうすりゃ良かったなどと真剣に話した。銀河系であなたが一番好きです、という告白をしていたら間違いなく成功していたよと茶化してみんなで散々笑いあったのだった。
 茂春さんは始めのうちは気まずそうな顔をして黙っていたが、途中から酒も入ってきたのか饒舌になり、最後らへんはいつもの変わらない調子で笑ってさよならをした。桂子も変に気を遣わずに茂春さんと喋っていたのが良かったのかもしれない。本当に告白して振られたのかわからない、いつもの呑み会となった。
 その時の別れ際に撮った写真が残っているが、たまに見返すとにんまりしてしまう。俺の記念写真のひとつである。

「あの時はいきなり過ぎてね」
「いきなりではないでしょ? 茂春さんがお前のこと好きだってことはその前から知ってたでしょ?」
「まぁね。始めに気持ちを聞いたのは、引っ越しを手伝ってくれた時かな」
「そうなんだ」
 そのことは茂春さんから聞いて既に知っていたが、あえて郁也さんは知らない素振りで答えた。
「だったらその気持ちに応えてあげればよかったのに。茂春にとっては最高のシチュエーションだったんだぜ」
「何言ってんの。そんな合格直後にいきなりずかずかと前に来て、好きです付き合ってくださいなんて普通言う? もうビックリしたっていうより時間が止まったね。それにその時は茂春のこと好きじゃなかったし」
「その時は好きじゃなかった?」
 郁也さんは桂子の言葉尻を聞き逃さなかった。
 その後桂子は俺たちを跳び上がらせる衝撃的なことを言う。
 それは、今年の春で仕事辞めて、茂春さんの住む島へ行くということだった。
 遊びに行くのではない。そこで暮らすというのだ。意外な方向への展開スピードに頭の処理が追いついていかなかった。それは郁也さんも同じだったと思う。目を丸くさせ、前のめりになって桂子の話を聞いていた。
 結果的には茂春さんを追いかけてゆくことになる。向こうに行ってから住む場所も探すらしい。計画的な彼女がそんな衝動的な行動に出るとはゆめゆめ思わなかった。離れてはじめて茂春さんの想いに気づいたのか。茂春さんが向こうに行ってからは、ここにいた時よりも連絡のやり取りをしていたというから、俺と郁也さんが知らなかっただけで、彼ら二人の恋物語は進んでいたのだ。
 その時ふと俺の頭の中に浮かんだのは、逆転満塁サヨナラホームランを放ち、ガッツポーズをしている絵だった。まさかの逆転劇に球場中がどよめき、歓声で盛り上がる。茂春さんはドヤ顔でゆっくりとダイヤモンドベースを走っている。歓声は鳴り止まない。そしてホームに帰ってくる茂春さんをぼこぼこ叩いたり蹴ったり水をかけたりして、みんなで祝福している様子を鳥瞰している絵だった。

   〻

「終電までまだあるからもう一軒行く?」
 そんな郁也さんの誘いを桂子は断った。明日は休みだが用事があるとのこと。それにもうお腹いっぱいだから入らないと桂子はお腹をさすった。少し風にあたりたいとベトナム料理屋を出た後、仲見世通りに出る途中にあった公園でひと休みすることにした。
 公園の中は誰もいなかった。電灯がなく薄暗い公園だった。少し進んだところにベンチがあったのでそこに座ることにした。桂子はもう要らないよと断ったが、郁也さんは、ちょっとコンビニで何か買ってくるわと来た道を戻っていった。その方向の明るさがこの場所と全然違っている。
「やっぱ夜はまだ冷えるね。一応マフラー持ってきて正解だったよ」
 桂子はそう言って、赤いマフラーを首に巻いた。
「潤一郎、頑張んなさいよ」
「何を頑張んの?」
「色々よ」
「色々って?」
「色々と言ったら色々よ。これから就活だってあるでしょ。それに恋愛もよ。生活は充実させないとね。何かに追われてることって意外とストレスだってことが、この一年でよぉくわかった。仕事ってさ、憧れだけじゃ長くは続かないってこともね」
 桂子の口から白い吐息がもれる。自分自身を納得させているような言い方だった。
「でもいいのか? せっかく先生になれたのに辞めちゃってさ」
「あゝそれ? 別にいいのよ。都の職員を辞めるだけで全然問題ない。また向こうに行って採用試験受ける予定。私頭良いからすぐになれると思うよ」
「それ自分で言っちゃうの?」
「ペーパーのテストは昔から得意なのよ。それに現場での経験も多少は積んだしね。ま、それが叶わなかったら、その時考えるよ。アルバイトでもして過ごすかもね」
「何かふっきれた感じするな」
 茂春さんのおかげだと思った。
「そうだね」
「夏に会った時は眼が死んでたもんな。視線もどこか定まってなかったし」  
「あゝあの時ね」
「確か郁也さんと神宮の花火大会に行った帰りだよ。ハチ公前で待ち合わせてさ、渋谷のイタリアンレストランに行ったじゃん?」
「うん。行った行った。あの時は大変だったのよ〜」
 眉間に皺を寄せてそう語った言葉は、心の底から出たような思いの込められた言葉だった。
「今だから言えるけどさ、あの時ひどくやつれてたよ」
「そうだね。振り返ってみると自分でもわかる。でもその時はわからないんだよね。自分では普通だと思っててもさ、自分以外の人が見れば普通じゃないってすぐわかるもんね? あの時さ、とても二人に気を遣ってもらって感謝してるよ。少しは元気になったもん。やっぱ友達って大事だね。でも郁也はあれ食え、これ食えってうざかったけどね」
「そうそう。テーブルに入りきらない料理を郁也さん注文してさ、テーブルに載らないもんだからみんな皿を手に持ちながら食べたもんな」
 桂子は声を上げて笑った。
「四種類くらいパスタあったよね?」
「あったあった。そんな食えないっつうの。あの人元気ない時は食わそうとするからね。腹一杯食ったら元気になるって考えなんだよね」
 手を叩いて桂子は笑う。
「あれ? あの時も郁也さんマッコリ呑んでなかった?」
「えぇ〜⁉︎ そうだっけ? あ、あゝ確かに呑んでたよ。そうだよ思い出した。どうしてイタリアンレストランなのにマッコリ呑んでるんだよって、潤一郎郁也に言ってちょっと揉めてたもんね?」
「そうだっけ?」
「この人たち超くだらないことで揉めるなぁって思ったよ」
 俺は頷いた。少し前のことなのに忘れてしまうんだな。でもこうして仲間と会っているとそういう昔の些細などうでも良いことでもふと話題に上がり思い出せる。良いもんだな。
「どうしたの? そんな感傷的になって」
「正直言うとさ、俺茂春さんが沖縄に帰ってこの関係が少しずつ壊れてゆくんだろうな、って思ってたんだよ。一人いないだけでも何か違うんだような感じがして。でもやっぱり郁也さんは郁也さんだし、桂子は桂子だわ。三人でも関係ないなって思ったんだよ。やっぱり一緒にいて楽しいわ」
「君の場合は、いつもご馳走になってるのもあるしね?」
「まぁ学生身分であまりお金がないもんで」
「郁也に感謝だよ。いつも飯食わしてもらってるようなもんだから」
「そうだな。……でも約束してるんだ。俺が就職して一番初めの給料の全額郁也さんをもてなすって」
「全額? 郁也は何て?」
「《すげぇ楽しみにしてる》って笑ってたよ」
「君が就職するまで今年入れてあと二年か。きっとあっという間なんだろうね」
「そう思う」
「それまで郁也が医学部合格しててほしいなァ。ね?」
「あゝ本当だよ」
「何か盛り上がってるなぁ〜」
 手を振って郁也さんが戻ってきた。手にはビニール袋を下げている。その中から缶コーヒーを取り出して、熱いから気をつけなと桂子に手渡すが、受け取るなり桂子が文句を言う。
「えぇ⁉︎ ブラックなの?」
「あれ? 無糖派じゃなかった?」
「シュガー派だよ」
「あゝそう? ごめん」
 買ってきてあげたのに何故か謝る郁也さんだったが、何よりも気になるのが桂子の英語だった。欧米か! と突っ込みたくなるのを堪えた。
「贅沢言うなよ」
「ふっ。冗談よ。郁也ありがとう」
 桂子は頭を下げる。すると郁也さんはおもむろにビニール袋の中からペットボトルのミルクティーを取り出した。
「ほら、これに替えなよ」
「さすが郁也〜、ほんっとにわかってるね〜」
 桂子は弾けんばかりの笑顔を浮かべ、郁也さんを褒め称える。
「潤一郎にはこれ」
 と缶ビールをくれる。
 すぐにプルタブを開け、乾杯をした。
「いやぁ〜今日はめでてぇ〜な」
 郁也さんが大声を出した。
「ちょっと茂春に電話しようぜ。いいだろ? 桂子」
「うん。でも今バイト中かも」
 郁也さんはスマホを取り出し、電話をかけた。しかし繋がらなかった。
「あいつ空気読めないな」
 そんなことを毒づきながら、缶ビールをくいっと呷る。
「郁也、来年こそは頑張ってよ」
「あゝわかってるよ」
 郁也さんは目を合わさずに素っ気なく答える。
「郁也が合格したらもうかつてないほど祝杯あげようね」
「ふん。お前茂春と沖縄じゃねぇか」
「何そんなこと言ってんのよ。そんなの速攻で駆けつけるに決まってるじゃない。ねぇ? 潤一郎」
「もちのロンですよ」
「最高級のロマネ・コンティで祝ってあげるわよね?」
「そりゃあ無理だ」
 郁也さんは鼻で笑って天を仰いだ。暗いのか明るいのかわからない色の空が広がっていた。
「ありがとう」
 郁也さんはそれだけ言った。
 郁也さんにこんなことを言えるのは、桂子だけだ。ただ郁也さんに合格をしてほしいという気持ちはみんな同じだから、みんなの気持ちを代弁してくれる桂子の存在には感謝しかない。向こうに行っても喝を入れるメール送るからねと言う桂子には、心からそうしてほしいと願う。
 かつて茂春さんは郁也さんの人生は呪われてる、なんて言っていた。この三年間、郁也さんと付き合ってきて、はっきりとわかる。郁也さんは呪われてなんかいない。呪われた男が俺たち仲間に優しくできるものか。気遣えるものか。郁也さんは誰よりも優しくてずっと崇高な男なのだ。
「沖縄、遊びに行くよ」
 と郁也さんが言った。
「それは合格してからね」
 すぐに桂子が返す。この夏来たら怒るよ。
「俺も行く」
「うん。向こうでみんなで会えたら最高だね。夕暮れの浜辺でさ、沈んでゆく茜色の夕日を四人並んでぼんやり見るのよ」
「何だよそれ、何かの映画?」
「青春って感じがするじゃない。ね?」
 そう言って郁也さんの方を向くが、郁也さんは返答に困ったようでまばたきを繰り返して言葉を濁す。
「でさ、少し薄暗くなってきたらみんなで花火をするの。打ち上げ花火とかじゃないよ。線香花火オンリー。どう、これ?」
「暗くないか? せっかくの沖縄なんだからぱぁっといきたいじゃん。オリオンビールとか呑んでさ」
「東京では食べられないパッションフルーツを食べまくるってのも良いね。絶対にやろうね?」
 完全に自分勝手に話を進めて盛り上がる桂子は、その後ミルクティーをすするように飲むが、すするほどの熱さはもうないと思う。
「あれ? あそこにあるの、梅の木じゃない?」
 桂子が指さす方向には白い花を咲かせた木があった。遠目からでもわかる。桂子は立ち上がり、そこまで歩き、また引き返してくる。元気だなぁ桂子と郁也さんが独りごちる。
「やっぱり梅の木だった」
「梅の木ってどこにでもあるんだな」
 郁也さんが言った後、
「梅ってね、《春告草》とか《匂草》とか《香散見草》とか、もっと他にも色んな呼び名があるんだよ」
 へぇ、と俺たちは口を合わせた。
「それだけ梅が昔から日本人に愛されてきた花だってことなんだよ」
「さすが先生、良く知っていますね〜」
 茶化された桂子はむっとして郁也さんを睨む。
「その呼び名の中で私が一番好きなのは、《風待草》って呼び名。春の風を待ってから咲くからそういう風にいうんだって。何か風情があると思わない?」
「そうだな。でも俺がその漢字から連想したのは、自分の花の匂いを運んでくれる春の風を待っているっていう意味だな」
 と郁也さんは煙草を吸い、白い煙を吐きながら言った。
「うん。その解釈もなかなか風情があるね」
 桂子は頷いている。
 ふと茂春さんが好きだった紀貫之の和歌のことを思い出した。人の心は変わるのに、故郷の花の香りは変わらないという意の和歌だ。普通和歌で使われる花とは桜のことをさすが、この和歌では梅だ。花の香りのように、この先何年も俺たちの関係が変わらなければいいのに、と離れた場所にあるその梅の木に目をやる。
 ──自分の花の匂いを運んでくれる風を待っているのか。
 まるでユキナが振り向くのを待っている俺みたいだなと思った。郁也さんの言葉がじわじわと身に染みてくるようだった。

   〻

 桂子を駅の改札口まで送った後、もう一度駅から離れて少し歩き、路地に入った場所にバーを見つけた。
 散々話したので、そこでは店内に流れる音楽を聴きながらアイリッシュコーヒーをただ静かに呑んだ。郁也さんは最後まで良かったよ、めでたいよと同じことを何度も繰り返し言っていた。店を出る前に茂春さんからLINEが入るが、あまりのタイミングの悪さに郁也さんは苦笑していたが、それでも返信をするところはさすが郁也さんだ。スマホの操作時間が短かかったから、きっと《おめでとう!》とでも送ったのだろう。茂春さんは桂子の言う通りバイト中だった。
 
 川崎駅で郁也さんと別れ、京浜東北線に乗る。終電間際の電車は混雑していた。たった一駅なのに長く感じられた。
 部屋に戻り、シャワーを浴びて、寝る支度をする。手帳をめくり、明日は午後からアルバイトが入っていることを確認した。さぁ寝ようかとベッドに入ろうとした時、スマホが鳴った。毎回飲んだ後家に着いたらメールくれる郁也さんからかと思ったが、ユキナからだった。
 ユキナからのLINEを開くと今日行った梅林の写真が添付されていた。ユキナが撮ったものだった。その一つひとつを丁寧に見てゆく。
 梅の花が綺麗に写真に収められていた。梅は大きく三つの品種系に分類されるらしい。さっき桂子が言っていた。白梅系、緋梅系、あとひとつは何だったか。そんなことを思い出しながら、写真を指でスライドしながら見ていくと、二人で一緒に写る写真があった。一番目立つ枝垂れた梅の木の前で一緒に並んで自撮りしたのだった。ユキナの顔を良くみると、実物の方が良く、相変わらず写真写りが悪いんだなと思った後、胸の鼓動が高鳴ってくる。やっぱり俺はユキナのことが好きなんだなと思ったら、すぐにユキナに電話をかけていた。ユキナは四コール後に電話に出た。
「ごめんこんな時間に」
「ううん。起きてたから大丈夫。どうしたの?」
「写真ありがとう。今見ててお礼が言いたくてさ」
「あぁそうなの? LINEとかでよかったのに」
「いや、直接言いたくてさ。色々撮ってくれたんだね。とても綺麗だよ」
「うん」
 少し間があった。
「遥ちゃんのことなんだけど、どうして俺に紹介したの?」
「もしかしてそれが本題? だからそれは遥が潤ちゃんのこと気になってたからだよ。ちょっと前に潤ちゃんの写真見せたら、遥が《この人に会いたい》って言うから。あれ? 覚えてない?」
「覚えてないよ。もしさ、遥ちゃんと俺が付き合ったら、ユキナどう思う?」
「そうだね〜、きっと嬉しいと思う。二人とも好きな人だから。付き合うの?」
「いや。でも付き合ったら俺はユキナには気軽に会えなくなるよ」
「どうして? そんなことはないでしょ。あたしは潤ちゃんに会うよ」
「そっか。そこがずれてるんだな。普通さ、彼氏が自分以外の女にしょっちゅう会ってたらどう思うよ?」
「遥はそんなこと気にしないよ」
「それはそっちの考えだろ? 遥ちゃんは絶対に嫌だと思うよ。だって俺とユキナが頻繁に会ってたら、私のことよりもユキナのことが好きなんじゃないかって思うでしょ? 付き合ってるのは私なのにって。それで今後の親友関係が壊れちゃうかもよ?」
「そんなんで壊れたら壊れたで構わない。所詮それだけの関係だったってこと。そんなものだったらあたしには必要ない」
 そうユキナは断言する。
「やっぱ、お前はすごいな」
「すごいのかな?」
「あゝすごいよ」
「隣に誰かいるんでしょ? 郁也さんとか? 罰ゲームか、何かなんでしょ?」
「だからそんなんじゃないって」
「桂子さんたちと飲み過ぎた?」
「呑んだよ。けど酔ってない」
「そう? 桂子さん元気だった?」
「桂子のことはいいよ。話をはぐらかさずにきちんと聞いてほしいんだ」
「うん。わかった」
 咳払いをして俺はやっぱりユキナのことが好きだともう一度伝えた。ユキナは黙っている。俺は続けて、
「ゆくゆく結婚はしたいって思ってる」
「結婚⁉︎」
「あゝ結婚」
「ちょ、ちょっと待って。話が飛躍しすぎてない? そんなこと普段言わないじゃん。実は本当に罰ゲームなんでしょ?」
「茶化すなよ。本気で言ってんだよ」
 真剣な声のトーンが伝わったのか、ユキナは笑うのをやめて無言になった。俺は彼女の言葉を待った。胸の鼓動がさらに高鳴る。次の言葉次第ではもう諦めよう。そんな気持ちだった。
「ごめん。あたしはまだ、結婚は考えられない」
「そっか。俺とは付き合えないってことでいいんだよね?」
「そうじゃないって。あたしは付き合うとかそういうので潤ちゃんと会ってるわけじゃない、っていうか、潤ちゃんのことはホントに好きなんだよ。一緒にいて楽しいしさ。それがずっと続けばいいなぁって思う。でも付き合うとかっていうんじゃないんだよね。どう言葉にしていいのか、わからなくって。ごめんね」
「別に謝んなくても良いよ」
「潤ちゃんがはっきりさせたいってのはわかるのよ。でもあたしの気持ちははっきりしてるんだけどな」
 どうも話が噛み合わない。真意が掴めないのだ。この先どう話そうか言葉を選んだいると、ふとありもしない未来の絵が頭に浮かんだ。──俺が遥と結婚していて子どもが二人いて、その子どもは両方とも女の子で、建売の小さな家を買ってそこに住んで、家族四人で一緒に商店街に行って買い物をして、食材がたくさん入ったビニール袋を両手に持つ俺の姿。たまにユキナが家に遊びにやってきて、遥とダイニングテーブルに座り、仲良く話をする姿。ユキナは独身だけど楽しそうに暮らしていて、あたしはこのままずっと独りで良いの、むしろ独りがいいのなんて頬杖をついて遥に話している姿。開けっぱなしになった窓から春の風が吹いてきて、まだ寒いね、春はまだ先だね、なんて言った後、窓の向こうに咲いている梅の花に目をやり、そういえば昔一緒に梅林見に行ったねと哀しそうな微笑みをたたえる。
 ユキナは《風待草なんだ》と未来の俺はふと思うが、それを口には出さない。君は誰をずっと待っているんだ? もう風は来ないんだよ。風は来ないのに君はずっと花を咲かせていたのに、誰にもその香りを届かせることはできない。もどかしいのではない。やるせないでもない。それは俺個人の気持ちだ。ユキナの個人の感情は、ずっと変わっていないのかもしれない。そんなことを考えながら窓辺に立ち、梅の花を見ている俺の姿。風に運ばれてくるであろう梅の花の香りは感じられない。
 あゝ来週桜を見に行こうか? 
 そうだね、もうすぐ桜の季節だもんね。
 満開の桜を今年もまた見たいね。
 そうして君は、君の存在は忘れられてゆく。そこにいたのに。確かにそこに存在したはずなのに。みんな桜のことで頭がいっぱいになる。そこにいるみんな偽善の笑顔を浮かべ、真の想いを隠して、暮らしている姿。そんなのはもううんざりだ。糞食らえだ。そう未来の俺が叫んだ後、何か自分の中でぱぁんと弾けた。
「ユキナ」
「何?」
「もうこれで俺たち最後にしよう」
「え⁉︎」
「もうこれからは電話が来ても出ないし、もう会わない」
「どうして?」
「その方がお互いのためだよ」
「お互いのためじゃない。あたしのためにはならない」
「この関係に未来はないじゃん」
「未来はあるよ」
「どんな未来があんの?」
「今色んなところに一緒に行って、沢山思い出つくってる。それが積み重なってあたしたちだけの思い出になる。それが未来につながってる。そんな未来だよ。そんな未来じゃダメ?」
「それは俺じゃなくて、別の男でもいいわけだろ?」
 突き放すような言い方をした。
「あたしは潤ちゃんとが良い」
「だから、それが訳わからないって言ってんの。言ってることが矛盾してないか? 俺、間違ったこと言ってるかな?」
「ただ一緒にいたいっていう気持ちじゃダメかな? そんなにあたしと付き合いたいの? ねぇどうしてなの? 付き合うことで何があるっていうの? 付き合ってあたしを束縛したいの?」
 ドキっとした。そういう風に考えたことがなかったからだ。確かに俺にはそういう気持ちもあるのかもしれない。
 揺らぐ。決めていた気持ちがゆらゆらと揺れる。でももう決めたんだ。ここを譲ったら現状維持だ。現状維持は何にも変わらないんだ。だからもういいじゃないか、ユキナ。もうこんな関係はやめよう。
「どうして自分勝手決めつけるのよ。私は嫌だよ。潤ちゃんと会えなくなるの」
「ごめん」
「嫌。これからだって会えるよね? 会ってくれるよね?」
「ごめん。自分の気持ちに偽って過ごすのはもう終わりにしたいんだ」
「終わりって何? 自分勝手に決めないでよ。あたしはずっと一緒に潤ちゃんといたいのに」
 彼女の声は震えていた。
「だから付き合えないなら付き合えないで、はっきり断ったら良いんだって。どうして希望を持たせるような言い方をするんだよ。嫌なら嫌で良いんだって……、俺が諦めがつく言い方を罵るように言ってくれよ」
 その後、彼女は黙っていた。その沈黙に耐えきれず彼女の言葉を待たずに一方的に電話を切った。

 スマホが鳴った。画面を見ると郁也さんからのメールだった。
 ──お疲れ。今家に着いたよ。今日は何か桂子と茂春のことでビックリしたけど、まぁめでたいことだから久しぶりに旨い酒が呑めたな? もう流石に家には着いてるよな? ……そういえば今日話すの忘れてしまったけど、お前来週バースデイだよな? 何か欲しいものあるか? あるならメールくれ。ただ値がはるのはやめてくれよ。流石に無理なものはあるぞ。あとバースデイを一緒に過ごすヤツがいなくて淋しいんなら、マッコリの美味い店に連れていってやるからメールくれ。最近花屋の娘と仲良くなったからそこで花を買ってお前にやるよ。その花屋の娘は良い子だから今度一緒に飯でも食おうな。じゃまたな。

 そう言えば、梅林からの帰りの車中でユキナからも誕生日のこと言われていたのを思い出した。
 ──あの店のストロベリーショートケーキを買ってきてあげるね。
 あの店とは、ホイップクリームとイチゴがたっぷりのそのケーキを食べにいつか二人で行った環状七号線沿いの洋菓子店だった。美味しいって感動してたもんね。あたし潤ちゃんの誕生日にはそこに行ってケーキ買ってくるねと彼女は嬉しそうに話していた。でもそのケーキがどんな味だったのか、思い出そうとしてもなかなか思い出せなかった。 
 彼女の誕生日も同じ三月で、俺の三日後だった。手帳をめくり、その日に書いてある《新宿 映画 16:00》のメモをペンで字が見えなくなるまで塗りつぶした。その後で頭に浮かんだのは、桂子の言葉だった。
 ──何だったら、彼女が紹介してくれたその彼女と付き合ってみたら? 
 その言葉を反芻する。
 そうしたら近い将来、遥が俺の隣で笑っているような、そんな気がした。
  

〈了〉
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