いつか嗤える時のために

文字数 4,148文字

 とある港町には浅瀬にもかかわらず海底の見えない場所が一か所ある。
 ボクはろくろを回し、粘土を成形しながら、道路向こうに見える夕暮れの海を見晴るかす。
 この港町は風光明媚を売りにしているだけあって、広く美しいエメラルドグリーンの浅瀬が沖まで続いている。白い砂浜も見事なもので、今はシーズンを過ぎ閑散期であるため人影はないが、夏場には水遊び目的の観光客で賑わうという。
 そんな綺麗が売りの海で、くだんの黒い海はぽっかりと現れるのだ。
 それはバス停の目の前の防波堤のすぐ近くにあった。真っ黒なのだ。よもや重油かと疑いもした。けれど重油特有の臭いはない。ならばそこだけ海底が深いのか。そう思ったのだが地元の人が、そこも浅瀬であると断言した。そして、
「食事場だ」
リヤカーを引いた第一町人のおじいさんは楽しそうに吐き捨てた。
「魚のですか?」
 おじいさんが答えてくれなかった問いを、今、陶芸体験を担当してくれているお姉さんに再度訊ねてみる。
 初めはきょとんとしたお姉さんであったが、すぐに声を上げて笑い出した。
「リアカー引いたおじいさんが言ってたんでしょ」
 頷く拍子に形が粘土の形が少し崩れた。まだ挽回はできるだろう、たぶん。
「ここら辺の陶芸の火入れを一人でやっているおじいさんなのだけど」
「ここで全部をやってないですか?」
「え? そうよ? 私たちの本業は宿業。これは、あれよ、副業ってものね。ほら、今は冬だから海水浴客が少ないでしょ? だからこうやって陶芸体験でバイトみたいなことをしているのよ。粘土は山にたくさんあるしね」
 お姉さんはカラカラと笑い、綺麗なマグカップに口をつけコーヒーを飲んだ。そのマグカップはお姉さんの手作りだといい、初心者でも作れますよのポスター画にもなっている代物である。
 ボクも陶芸は初心者であるが、手の中で回っているのは筒にも見えない、しいて言うならば分厚いボウルのようなもの。
「それで、食事場っていうのは?」
 お姉さんはハッと思い出した様子で、足を組みなおし、首を傾げた。
「それがね、私たちにも分からないのよ」
「油とかではないですよね、臭いはなかったし。調べたりとかしないんですか?」
 お姉さんは片手をひらひらと振りながら、心底いやそうな顔で言った。
「いやよ、気持ちが悪い」
 粘土が暴走し、ボウルのようだったものが、波打つおしゃれ皿に変容した。皿といっても、何ものせることができない飾り専用でしか生きていけないような皿だ。
 ボクは溜め息を吐く。お姉さんはきゃらきゃらと笑う。
「お客さん、マグカップは初心者向けなのよー」
 そして、ろくろの上で円盤になりつつある物を引っ張り上げ、テーブルの上の板に乗せる。
「それってもう修正不可なんですか?」
「ええ、そうよ。これでおしまい。焼きに出しちゃうの」
「えー、それってボクが希望したマグカップじゃないですよ」
「希望はあくまで希望よ。マグカップがお皿になっただけじゃないの」
「お皿っていったって……」
 おしゃれ系飾り皿の面影すら投げ出し、汁物は絶対に乗らない大きな凹凸のある皿もどきなのですが。
「粘土一つに、成形から乾燥、 焼成までがワンセット。何を作るかはお客さんの自由! で、これはお皿として成り立っている」
 お姉さんは皿もどきを棚に置き、ボクを振り返る。底意地の悪そうな笑顔を向けてきた。
「マグカップを作りたいなら、もうワンセット分の料金をお支払いください」
 ボクに手のひらを突き出した。
「結構です」
 ボクはお姉さんの手を突っぱねて工房を出た。背後から「出来上がったら郵送しますねー」とイライラを煽るような緩い声が届く。勢いよく扉を閉めた。
 すっかり空には星がまたたき、綺麗だった海は黒インクを垂れ流したかのような様相になっていた。潮風は冷たく苛んでくる。ボクは工房に来る前に張ったテントへと急いだ。
 テントは町の中心部から少し離れた場所にある。町外へ出るためのバス亭傍にある待合所の小屋の裏に立てた。待合所の裏は山裾で道路側からは見えづらいけど、明り取りはできる。それに木々と小屋の間ということもあって風が入りづらい。火元だけ注意していればいい。
 ただ気がかりなのが、くだんの黒い海が目の前にあるということだ。あこぎなお姉さんは何も知らないという、何かの食事場という場所。
 心霊系は苦手なのだが、人目につかない良い感じの場所がここだったのだ。他の場所にテントを張ろうものなら、土地の貸出料を取られる。別に払うのはいいんだけど、値段が法外だった。それに加えて火をおこすなら火おこし料、テントを張るなら土地への穴あけ料などなど、オプションがつくのだからたまったものではない。
 というわけで、ここになったのだ。町人も気味悪がって近づかない、本数の少ないバス停の待合所。
 うーんと怯えながら、風の当たらない場所で火をおこし、夜ご飯の支度をする。小屋と木々のお陰で火は安定して燃え、風は通り過ぎることも吹き溜まることもない。
 時々風に吹かれて小屋が鳴るたびに肩をびくつかせてはいたが、温かいご飯を食べ、揺れる火を見詰めていると次第に心が落ち着いて来て、うとうとと眠気が訪れる。火の始末をしてテントに入った。
 夢に旅立つまで、悲しげな潮騒がずっと耳に触れ続けていた。
 翌朝、波の音に混じる不快な音によって目を覚ました。ガシャンガシャンと硬質なものがぶつかり、砕けるような音だ。
 目を擦り、頭を上げる。テントの外がほのかに明るい。
「……朝焼け、見れるかも……」
 冬の海で迎える朝焼け。なんとも魅力的な響きだ。
 寝袋から抜け出して上着を羽織る。テントの入り口を開けば、冬の朝の風が入り込み、温まっていた体が芯から冷え縮こまる。
 ぶるぶる震えながら外に出て、小屋からひょっこり顔を出す。防波堤の向こう、水平線から明るくなっている。
 喜びいさんで防波堤に近づいて、ふと足が止まる。
「お、はよう、ございます?」
 先客がいた。
「ああ、おはよう」
 昨日リヤカーを引いていたおじいさんが海に向かって何かを投げ入れる。
 気が引けたがここで引き返すのもおじいさんに悪い気がして、気持ちを奮い立たせて防波堤に寄りかかる。
 思った通り、朝焼けは綺麗だ。太陽は昇る場所からまばゆい光が一直線に海を走り、海面をきらきらと輝かせる。
 ガシャン。
 頭を出してから太陽は昇る速度を一気に早める。すぐに全体を海面から出して海が瞬く間に光のきらめきに覆われる。
 ガシャン。 
 爽やかな風と波の音に不釣り合いな無機質な音が心に針を刺す。やめてくれないかなあ、とおじいさんを見ようとして、目が海面に釘付けとなった。
「……黒くない……」
 バス停の前の海は、昨日まで確かに真っ黒だった。まるで重油のような、あらゆる光を飲み込むブラックホールのような黒い海だったはずだ。
 それなのに今はどうか。周りの海水同様にエメラルドグリーンに光り輝き、高い透明度は海底までしっかりと透かしている。
 場所を間違えたか。いいや、そんなことはない。バス停の目の前だ。バス停が動かない限り、場所を間違うはずがない。
「もうすぐ黒くなる」
 おじいさんが呟く。また何かが海に投げ入れられる。
 ガシャン。
 綺麗な海に目を凝らす。海底の岩肌かと思っていたものは、歪な形をした陶器の山だった。
 ガシャン。
 おじいさんは陶器のない場所に向かって何か——歪な陶器を投げ入れた。
 その陶器は割れることなくふわりと海底についた。しばらくすると、陶器の表面に泡が浮かび、次々と海面い向かって昇る。
 投げ入れられる他の陶器も同じだ。以前からある陶器も、知らぬ間に泡を噴き出していた。どこかの風呂屋で見たバイブラのようだった。
「さあ、今日もたんと喰え」
 おじいさんの合図を待っていたかのように、陶器たちは一つ、また一つと海面に浮上し、突如飛沫を上げてひっくり返った。しかし、すぐに再度ひっくり返る。それを何度も繰り返す。一つの陶器だけではない。数えきれないほどの陶器が同じ動きを行っていた。餌に群がる魚のようだった。そして、陶器たちが飛び跳ね、海面に落ちる傍から黒い海が生まれていく。
 異様だ。異様としか言えない光景だった。それはまるで——。
「光を、食べてる?」
「ああ、喰ってるな」
 防波堤に頬杖をつき、おじいさんが言う。
「なぜ食べるんですか?」
「そんなのアイツらに聞いてくれ」
 ばしゃばしゃと目の前の海だけ騒がせ、光を食べていく陶器たち。綺麗な海がどんどん黒に侵食されていく。いや、光が食べられているのなら、あれは闇か。
 不意におじいさんが声を殺して笑いだした。
「ただ、ざまあみろとは思う」
 おじいさんは朝日に目をぎらつかせている。口元に浮かぶのは怒りと嘲り。復讐者とはこのような顔をしているのかもしれないと、背筋が粟立つ。
「あれはな、工芸体験とかいうけったいな金儲けの産物だ。みなみな、持ち主からいらねえと言われた」
 ボクは昨日作り上げた自身の失敗作を思い出す。そして、さっきおじいさんが海に投げ入れていた歪な陶器も思い起こす。
 闇はどんどん広がっていく。
「いらねえ物はどんどん増える。おらあ、それをここに投げ続ける。いらねえ物は毎日光を喰う。いずれここいら一帯は日のささぬ海底——、黒い海になる」
「風光明媚は失われる」
「新しい名所の出来上がりってなあ」
 昨日までは綺麗だった場所まで闇に覆われ、朝陽が黒い海面を滑り不気味に黒光りしている。
 綺麗な景色で食ってきた観光地、その命綱である景色が失われてこの町は生き残れるのだろうか。
 昨日の工芸体験を思い出し、ボクは首を横に振り、踵を返す。
「もっと見ていけばいい。その内に見れなくなるんだ」
「いや、もういいです」
 道路を渡る手前で足を止め、肩越しにおじいさんをかえりみる。おじいさんはボクに背を向けて海を眺めつづけている。
「昨日、陶芸体験をしたんです」
 おじいさんは聞いているのかいないのか。陶芸だけが海で騒ぎながら答えてくれる。
「引取り拒否しますので、よろしくお願いします」
 おじいさんがひらりと手を振る。
 ボクは彼に背を向けて、光を喰い続ける陶器の賑わいに見送られ、道路を渡った。
 
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