第1話

文字数 1,421文字

元々、早起きは好きな方だった。目覚まし時計の音が嫌いになったのは、彼と付き合い始めてからだ。
金曜日の夜だけ泊まりに来る彼は、どれだけ熱心に愛を交わしあっても、土曜日の朝、目覚まし時計が鳴れば即座に起き上って、帰って行ってしまう。「夜勤という事になっているから、時間通りに帰らないといけないんだ」と彼は言うけれど、実際は、娘のサッカーを見に行く為だと知っている。毎週土曜日の午前中、娘―寧子とかいう名前だ―は地元チームへ、サッカーの練習をしに行く。1度だけ無防備に置いてあった携帯電話の待ち受けは、誇らしげにサッカーボールを抱えた娘の姿だった。
子供の頃は、自分も大人になれば当たり前に結婚して子供を産むのだと信じていた。それが叶わないかもしれないと思い始めたのは、いつからだっただろうか。
私の恋人には、妻と娘が居る。

赤い髪飾りを揺らした女の子が、こちらに向かって歩いて来る。暑い夏の日だというのに、とても元気だ。くるくると跳ね回りながら、歌を歌っている。
その子が、彼の娘であるのを確認して、私は彼女の名を呼んだ。
「寧子ちゃん」
寧子は動きを止めて、不思議そうに私を見た。私と寧子の目が合う。
「覚えてないかな?お父さんの会社で働いてる、真島だよ。真島薫子。ほら、前に寧子ちゃんが会社へ忘れ物を届けに来てくれた時に会った……」
記憶に引っかかるものがあったのか、寧子は、かすかに頷いた。
「寧子ちゃん、この辺の小学校なんだねぇ。たまたま、仕事でこっちに来てて、寧子ちゃんを見かけたから、思わず声をかけちゃった」
彼に似た顔立ちの中に、知らない女の気配が混じっていて不快だ。という本心を隠して、にこやかに笑いかけると、寧子は警戒心を解いたようだった。
「あ―そうだ。さっき行った会社で、美味しいチョコをもらったんだよ。寧子ちゃんにあげる。1つしか無いから、他の人には内緒だよ。今日は暑いから、溶ける前に早く食べた方が良いかも」
そう言って、私は鞄の中から、綺麗にラッピングされたチョコレートを取り出した。
寧子は目を瞬かせて立ち竦んでいる。今時の子供は、「見知らぬ人から物を貰ってはいけない」と教育されているらしい。だけど私は厳密には「見知らぬ人」ではない。だから、寧子も迷っているのだろう。
私は寧子の手にチョコレートを載せると、最後に1度だけ手を振って、その場から歩み去った。

寧子は食べるだろうか?
私が丹精込めて作った、毒入りチョコレートを。
昔から、お菓子作りは嫌いじゃない。この手で色々なお菓子を作り出してきた。たとえ、それが毒入りチョコレートであっても、材料の一部を毒に変えて、いつも通りに作るだけだ。
私が初めて作った、人を害する為のお菓子。だけど私は震えもしなければ、高揚もしなかった。
子どもの好きな物と考えた時、チョコレートにしたのに、深い意味は無い。あえて言うなら、寧子という名前からの連想で、ちょっと面白いなと思ったのだ。
“ねこ”はチョコレートを食べたら死ぬ生き物だから。
だけど、勿論、寧子は“ねこ”ではない。毒入りチョコレートを人に食べさせようとするのは、重い罪だ。
寧子に会う時、私は名前を偽らなかったし、防犯カメラを避けもしなかった。だから、近い内に逮捕されるだろう。それで構わない。それこそが、望むところだ。
まだ豆粒のような我が子が宿った腹を抱えて、私は考える。
私の人生全部と引き換えてもいいと思った、この愛で。あなたの“ねこ”は、きっと死ぬ。
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