悪意

文字数 3,238文字

 午後三時、自宅でのテレワークが早く片付いたので、二歳の娘を保育園へ迎えに行くことにする。

 保育園の駐車スペースに車を停め、娘の教室へと向かう僕の足取りは重い。
 理由は、僕が娘の「お迎え」へ行くと、決まって何か不備がある。それを妻に容赦なくつつかれることになるからだ。着替えやタオルなどの洗濯物だった日には最悪。
「あら、パパぁ」
 もうひとつはこの担任の先生。母親ほどというのは大袈裟だが、僕とはかなり歳の離れた年配の女性。お迎えに不慣れな僕にあれこれとダメを出す先生だった。僕のことを気に入ってくれてのことだろうと内心では理解しているのだが、元々、コミュニケーション力が乏しい僕は、この先生の一言一言に愛想笑いで返すくらいしかできない。
 話が始まってしまったら、帰りたいのになかなか帰してもらえず、息苦しい時間を過ごすことになる。
「こんにちは」
 僕が教室に入ると、娘が目を輝かせ「パパー」と声を上げながら抱きついてきた。
「今日も元気だったよ!」
 そのうしろから、担任の先生も僕に近づいてくる。
「そうでしたか」
 僕は娘の頭を撫でながら、自分でもわかるくらい引き攣った笑顔で返した。
「じゃあ、よろしくね」
 先生はそう短く言うと、もう一人の若い先生が読む絵本に集まる子供たちの輪の中へ戻っていった。
「はい」と僕は肩透かしを食ったような気になりながら、帰りの支度を始めることにする。何か機嫌を損ねるようなことしたかなと頭を悩ませながら、娘の名前のあるロッカーへと進んだ。
「オムツよし。タオルよし。お便り帳よし」
 通園用のリュックサックに荷物を詰め、娘の手を引きながら「ありがとうございました」と教室をあとにしようとすると、「パパ!」と担任の先生に呼び止められる。
「コップ! コップ!」
 担任の先生は巾着袋に入ったコップを手にこちらへ駆け寄ってくる。危なかった、牛乳で濡れたコップを忘れることもなかなかの重罪だったから。
「すみません。助かりました」
 僕が笑って返すと、先生は力強く親指を立てた。
「パパ、しっかり! お疲れさま」とこれまた力強い笑顔で僕と娘を見送ってくれた。決して機嫌が悪いわけではないらしい。

 車に戻るまで、いつも元気過ぎるほど元気な娘は、ひとりでに駆け出したりもせず、大人しく僕の手を握っていた。
「パパだから、心配だよね」
 チャイルドシートに乗せられても、嫌がるでもなくベルトをされる娘に僕は話しかけてみるが、当然の如く娘の返答はない。
「なんか、今日はいいぞ」
 僕は浮かれ過ぎないように、しっかりとバックミラーを確認してから、車を走らせた。

 そう思ったのも束の間、娘は家に帰るなり、妻がいないことに癇癪を起こした。おやつを差し出しても、オモチャを差し出しても、決まって放られてしまう。抱っこしようにも嫌がって身体をくねらせ、すぐに床で大の字になり、全身全霊で不満を主張し続ける。
 困り果てて壁掛け時計を見ると、三時四五分。妻は家からそれほど遠くないスーパーへパートに出ていて、仕事が終わるのが四時。そこで買い物も済ませ、家に帰ってくるのが、四時半過ぎ。それまでのあいだ、娘がこのままではさすがにキツい。
「ママに会いに行く?」
 僕の質問で、床に寝そべる娘の嘘のように泣き止み、「はぁい」と控えめに手を挙げた。

 僕は娘と手を繋ぎながら、反対の手で携帯電話を操作した。
「ギャン泣き。散歩がてら、ママのお迎え行っていい?」
 妻が仕事中で携帯電話を見れないとわかっていながら、事前に許可を取ろうとしたという証拠を残すためメッセージを送信する。
 家からそれほど遠くないと言ったが、妻は自転車でそこまで通っていて、買ったものをカゴに詰めて帰るわけだが、その自転車を家まで押すのが僕の役目になる。
 以前、同じようなことがあり、妻の職場へ行ったとき。
「あのさあ、あんたは自転車押してくだけだからいいけど、私はこの距離をあの子と手繋いで帰んなきゃなんないんだよ」
 そう延々と責められたこともあった。僕は携帯電話片手に大きな溜め息をついた。
「まあ、仕方ないか」
 諦めにも似た感情が自然と口からついて出た。それに、娘が家からスーパーへの往復で疲れて、今夜は早く寝てくれるかもしれない。
 そんな風に自分を納得させようとしていると、携帯電話が震えた。すぐに画面を確認する。
「了解、いいよ」
 何かのタイミングでメッセージを確認できたようだ。素気ない返信だが、これはいつものこと。「了」とか「了解」じゃないだけいい傾向だ。
「ママ、待ってるってさ」
 僕の隣を歩く娘に伝えると、真っ直ぐ前を向き続ける娘の顔に一瞬、力がこもったように見えた。妻のメッセージで俄然気合いが入ったのかもしれない。
「やっぱり、今日はいいぞ」
 携帯電話をポケットに入れながら顔を上げると、視界にあるものを捉えた。それはパチンコ屋の駐車場出口にある、店名を示した大きな縦型の看板だった。
 五メートルほどの高さで、奥行きは二メートルほど。それは僕らが進む歩道の右側にあり、そこから出てくる車は歩道を横切り、僕らの左側の車道に入る。看板は進行方向に向かって手前にあり、その横にも建物があるものだから、駐車場から出てくる車両が非常に見辛い配置になっている。看板に近づくほどそれは増した。
 僕が以前、そこを自転車で通りかかったところ、勢いよく出てきた車にぶつかりそうになり、車はヒステリックなブレーキ音を上げながら急停車した。
「危ねえだろうが!」
 運転席の男は窓を下げてまで、僕を怒鳴りつけた。自転車で歩道を走っていた僕ももちろん悪いが、車が自転車相手にそこまで怒る必要があるだろうか。きっとパチンコに負け、虫の居所が悪かったのだろうと、僕は頭を下げて、その場のあとにした。
 娘と繋いだ手に自然と力が入った。僕の右側を歩く娘をわずかに引き寄せる。
 すると、視界の中に違和感を覚え、娘から目を上げると、車道には対面するようにこちらへと向かってくる国産の黒いSUVが駐車場出口の前で速度を緩めている。ウインカーは出していない。そもそも、出口専用なのだから、車道からその車が進入してくるはずもない。
 僕らは横断歩道を渡って来たから、もしかしたら交差点の信号が赤で、停車しているあいだ、駐車場から車道へ出る車のためにスペースを空けようとしているのかもしれない。デザイン性は良いが比較的安価で人気の高いSUV。きっと運転手は庶民的で親切な人なのだろう。
 そんな風に思いながら歩いていると、僕は咄嗟に看板の存在を思い出し、そちらに目を向けた。
 一瞬、白い影が看板へ吸い込まれるように見えた。
「車が来る!」
 僕は急いで立ち止まり、娘を引き寄せた。突然のことに娘は驚き、怪訝そうな眼差しを僕に向けている。
 娘と手を繋いだまま、しばし待ってみても、車は出てこない。恐る恐る看板の影を覗きながら足を進めると、そこには白い軽ワゴンがきちんと停車していた。
 運転席に座るのは、五、六十代の坊主頭の男性で、一見強面であるのに、その顔には仏のような笑みが浮かんでいた。ハンドルに手をかけながら「どうぞ」と言うように指先で僕らを促していた。
「良かった」と僕は安堵し、軽く会釈をして娘と歩き始めた。車道のSUVも、僕らが歩きだしたタイミングで車を発進させる。
「やっぱり、今日は……」
 歩きながら、突然、先ほど覚えた違和感の正体に胸騒ぎがした。
 パッシング?
 僕がそれに気づき、すれ違いざまに車道を走る黒いSUVの運転席を見た。そこには恰幅の良い四十代後半くらいの男。前を見据えた横顔に屈託ない笑みを携えて、片手でハンドル操作をしている。男は空いた方の手で指をスナップした。
 まるで、惜しいとでも言うように。
 僕の身体は恐怖に捕らえられて、金縛りのように固まった。わずかに動く首で、走り去る黒いSUVの後ろ姿を見送ることしかできない。
 僕の手を、「早く行こう」と娘が引いた。
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