岬の小屋

文字数 2,276文字

 南の海に浮かぶこの小さな島には、不思議な話が一つある。南東の岬にぽつんと建っている朽ちかけた木造の小屋、そこから夜な夜な、歌が聞こえてくるという。

 私は、美沙子。その岬からほど近いところにある、喫茶店の店主だ。島に来る観光客が主な客だが、地元の客も少なくない。白い壁に赤い屋根と言う、いかにも観光客向けの外観でも、地元の人にも評判のよいメニューを手ごろな値段で提供していれば、ちょっとした気晴らしにと足を運んでくれるのだ。

 店は、そこそこ忙しかった。一日働いて閉店時間を迎え、翌日の仕込みを済ませる頃には、大抵夜遅くになっている。一日の仕事を終え、店の窓際の席で、岬とその後ろに広がる暗い海を眺めながらコーヒーを啜るのが、もっぱらの楽しみだった。喫茶店を手伝ってくれている父も、よくそれに付き合ってくれた。

 窓際の席に座って耳を澄ますと、波音に紛れて、かすかに歌声のようなものが聞こえなくもない。子供のころ、父から岬の幽霊について聞いた話を思い出す。

 その昔、岬の小屋には若い夫婦が住んでいたのだが、ある嵐の日、無理をして漁に出た夫が戻って来なくなってしまった。まだ年若かった妻は、帰らぬ夫を思い、他に所帯を持とうとはしなかった。そして今でも、いつか夫が帰ることを夢見て、岬の小屋で、夫が好きだった歌を歌いながら待ち続けているという。

 子供のころ、父からは、岬の小屋には近づかないように言われていた。島の誰も気味悪がって岬には近づかなかったが、小屋が古くて崩れてしまう恐れもあったことから、父は娘に小屋へ近づくことを禁じたのだ。それにも関わらず、私は度々小屋へ遊びに行っていた。幽霊となった妻に会ってみたいと思ったのだ。

 小屋は、長いこと人の手が入っていなかったこともあり、古びてあちこち壊れ、汚かったが、私は今にも幽霊になった妻が現れそうな、その雰囲気が好きだった。小屋の中に残された、壊れかけた椅子に腰をかけて目を閉じると、もの悲しい顔をした妻が、すぐそこにいるように感じられたものだ。しかし、父に叱られることが怖かったこともあり、このことを誰かに話したことはなかった。

 一日の仕事を終えて、いつものように喫茶店の窓際の席で父とコーヒーを飲んでいると、父が最近持ち上がってきている、岬の開発計画について話してくれた。
「あの岬に、灯台を作る計画があるそうだ。まあ、観光客向けだな」

 私は、驚いて父に尋ねる。
「あの小屋は、どうなるの?」
「取り壊すことになるだろう。その方がいい、もう崩れかかってて危ないからな」
 父の言うことは正論だ。私は、気の利いた反論など思いつかず、また岬を眺めながら、ただ黙ってコーヒーを啜っているだけだった。

 その翌日、店に島の役所で働いている薪次さんが昼食を食べに来たので、岬の開発計画について聞いてみた。
「薪次さん、岬の開発計画って、ご存じですか?」
「勿論、知ってますとも! 何しろ、僕の発案ですからね」
 得意げな顔をして、薪次さんが答える。
「島にもっと観光客を呼べるように、目玉になるような建造物を作る必要があると思いまして、岬に立派な灯台を作ろうってわけなんですよ。灯台は、日本最古の木造様式灯台を模したもので……」

 薪次さんは、しきりに自分の発案である灯台をアピールしていたが、私は困ってしまった。とても小屋を残してもらえまいかとは、言い出しづらくなってしまったのだ。

「ありがとうございました」
 薪次さんが帰った後、空を見上げると、大きな嵐雲が広がっていた。父が、私の背中越しに空を覗き込んで言う。
「嵐がくるな。これは、ひどいことになりそうだ」

 島は、最近では珍しいくらいに大きな嵐に見舞われた。雷の音まで聞こえる。店は、家を喫茶店に改築するときに、随分補強したそうなので、大きな嵐でも心配ないそうだ。しかし、私は岬の小屋が気がかりだった。

 その日の仕事を終えるころには、強風で店に叩きつけられる大雨の音が、雷の音とも混じって轟音となっていた。私は、いてもたってもいられず、店を飛びだした。
「こんな嵐の中をどこへ行くつもりだ!」
 父が、怒声を上げて追いかけてくる。

 私は嵐の中、岬に向かって、ずぶ濡れになりながら走った。岬の方へ目をやると、遠くからでも、強風に煽られた小屋が、今にも崩れてしまいそうになっているのが見える。ふと海岸の方を見ると、見慣れない小さな漁船が、浜に流れ着いているのが見えた。随分古い船のようだ。
「まさか……」
 私は、小屋へ向かって走りながら、胸が高鳴るのを感じた。強風が体を押し返し、走りづらかったが、なんとか小屋の前まで行き、朽ちかけた木戸を開けた。すると……。

 小屋の中に、ちらちらと光る稲光に照らされて、向かい合って立っている男女の姿が見えた。嵐の轟音で話し声などは聞こえなかったが、女は目に涙を浮かべ、男にこう言っているように見えた。
「もう、私を……(はな)さないで……」

 私が、夢でも見ているのだろうかと思った、その時だった。
「あぶない!」
 私は、私を追ってきた父に腕を掴まれて、小屋の外に引き出された。と同時に、小屋が、嵐に負けないような轟音を立てて崩れ落ちた。

 翌日は、前日の嵐が嘘のように、よく晴れた日になった。店は、いつものように、そこそこ忙しかった。そして、私は一日の仕事が終わってから、いつものように窓際の席に座って、コーヒーを啜りながら岬を眺めた。

 きっと、もう歌が聞こえてくることはないだろう。妻が長い間待ち焦がれていた待ち人が、やっと岬に帰ってきたのだから……。

Fin.
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