家族の花
文字数 6,173文字
初夏。
――の、ある日。
私は随分と疲れていた。
仕事、家族、お金、夢、人生……、つまりは生きるということに。
太陽が嫌になる朝。眩しくて目が開けられない、いや、開けたくない朝。それでも私は歯を食いしばって自分に鞭を打つ。
家族のため、自分のため、生きるため。
しかし、いくら頑張ってもなにも残らない。仏教でもそう言っている。諸行無常。不変なものなんてなにもない。
都会に住んでいたら余計に感じる。増えるビル、消えるお店、変わる住人、歪む稜線、遠くなる海、低くなる空――。
それでも私は頑張ってきたつもりだ。両親が亡くなってからは特に。今まで何回も、何十回も、何百回も耐えてきた。それなのに、そいつはノックもせずに不死鳥の如くやってくる。
ニヤけた面の厭世感。
すべてを投げ出してしまいたい、がそうはいかない。私は今日も自分に鞭を打って、血まみれになりながら会社に向かう。
いったいなんのために？
そんないつもの出勤途中。
私は慌ただしい大阪の駅構内で突然足を止めてしまった。後ろを歩いていた人の舌打ちが聞こえたが、私の視線は正面の壁に貼ってあるポスターから離れなかった。
そこには大きな文字でこう書かれていた。
「終わりのないノスタルジア、山陰」
鳥取か島根のいかにも田舎らしい田園風景と、最近のモデルだろうか端麗な顔立ちの少女が遠い視線で立っているだけの写真。
それなのに、どうしてこんなにも胸がざわつくのだろう。
私が島根出身だからという理由だけではないように思う。自分でも分からないが、なにか引き込まれるようなそんな感覚に襲われたのだ。
まるで走馬灯。
そうだ、きっとあれのことだ。
私は島根に家を放置していた。その家は両親が最後まで住んでいた持ち家で、今は空き家となっている。
本来はその家を私が引き取り処分しなければいけないのだが、私は忙しさにかまけて見て見ぬふりをしていたのだ。
もう何年になるだろうか。
どうして今まで忘れていたのだろうか。いや、きっと思い出さないようにしていたのだ。だって私は現に今の今までだって忘れたことはなかったのだから。
ふいに私は決意した。
――帰ろう。
☆
一人で車を運転していると、不思議と独身時代の頃を思い出してしまう。鼻歌なんかを口ずさみ、ときには道を歩いている若い女の子に視線を送ったり。もしここにタバコがあれば吸っていたかもしれない。
もちろん、妻には内緒で。
この話をしたとき、彼女はもっと驚くかと思っていた。
「行ってきたらいいじゃない。うん、それがいいわよ」
そういえばいつからだろうか。
私が彼女に自分のわがままを言わなくなったのは。
私は彼女が妻になって、子どもが生まれて、もう夢なんて追わずにきちんとしなければ、と勝手に思い込んでいた気がする。
きちんとした人生？
そんなものは存在しないのに。
彼女は出会った当初から世間と少しずれていたように思う。
当時の私は夢を追うフリーター。親の仕送りを貰って生活していた。彼女は離婚をしたばかりで子供を一人で育てていたシングルだった。
彼女はなにがどうしてこんな甲斐性のない男を選んだのだろうか。
私がうつ病で苦しんでいたとき、彼女は本当に気長に看病をしてくれた。
まるで天使だった。
そんな彼女を幸せにしたいと思うのは、男でなくても思うことではないだろうか。
彼女は私を支えてくれた。夢を応援してくれた。しかし、私はそれに応えることはできなかった。
小説家を諦めたのは、いつだっただろう。
フリーターで生きていくということ。
それはいくら家族の支援と理解力があっても、並外れた神経の太さが必要だった。
私には無理だった。
と、いうことにしているが本当は違う。
私には兄がいた。
その兄が事故で亡くなったときかもしれない。
が、それも本当ではない。
本当はそれからしばらくして、両親が亡くなったから私は夢を捨てたのだ。
☆
大阪から車で約六時間。
長時間の運転はぼんやりする。
昼間なのになぜか信号機の点滅が幻想的に感じられ、私は何度も後ろからクラクションを鳴らされた。
「光りではなく、灯り……」
そんな意味のないようなこと呟く。寝不足のテンションは思わぬ夢を見させることがある。
ふいに私の頭にある花が鮮明に浮かび上がった。
それはハス。
満開に咲いたピンクの花だ。
なぜかどうでもいいうんちくまでも覚えている。
ハスは泥水の中できれいな花を咲かせる。むしろ泥水でないと花は咲かない。仏教では極楽浄土の象徴で、花は午前中しか咲かず、開いたり閉じたりを繰り返す。花の寿命は約四日。つぼみのときは植物には珍しく温度調節をし、なんと人間の体温と同じぐらいあるそうだ。
……なぜ、こんなに詳しく覚えているのだろう。
両親はハスの花が好きだった。
だからだと思う。
兄の葬式のとき。
お墓にハスの花を供えたのを覚えている。
縁起のいい花がちょうど咲いた。よかった。きっと喜んでもらえる、と両親が涙を流しながらお供えをしていた。
そのとき私はまだ三十歳だった。
両親は七十前後だっただろうか。当時の私は小説家を目指すと言って、ろくに働いていなかった。両親と彼女におんぶと抱っこ。
世間を舐めていた。……今思えば必死だったのだろう。
人生に対して、幸せにならなければと、力を入れ過ぎていたのだ。
そんなときに兄は亡くなった。
私は泣かなかった。代わりに今の妻がたくさん泣いていたと思う。
「大丈夫。大丈夫だから。きっと大丈夫だから」
抱きしめられる度に感じる人肌が妙に気持ち悪かったのを覚えている。脈を打つ人間。その体温がどこか常軌を逸しているように感じられ、私は自分はおろか、他の人が生きていることがまるで信じられなくなっていた。
無機質な世界。
「大丈夫だから。私を信じて――」
人間のあまりの弱さと呆気なさに、私はどうしても神さまを信じることができなかった。
急な尿意。
私は車をパーキングに回した。駐車して降りようとしたとき、目の前に駐車してあった車のブレーキランプが赤く点灯して、そのまま発信して走り去っていった。
もう二度と手の届かない場所へ。
兄は交通事故で亡くなった。
そういえば、私の小説を一番おもしろがって読んでくれていたのは、他の誰でもない兄と両親だった気がする。
そんなことすら、もう遠い記憶になっているなんて。
☆
トイレを済ませ再び車を走らせた。
もうすでに島根には入っている。あとは一時間ほど走らせれば目的地に着くだろう。
ちょうど昼過ぎ。
懐かしい風景が目の前に広がる。そのせいだろうか、私の脳裏に両親の顔が浮かび上がってきた。
亡くなる前の父と母。
三人で三瓶山に行ったり、電話で拙い会話をしたり、帰省したときにケンカしたり、そして仲良く旅行したり。
懐かしかった。
涙が出るほど懐かしかった。
できるものなら、もっと一緒にいたかった。
私は心から両親を愛していた。
父は数年前に亡くなった。跡を追うように母も翌年亡くなった。私がようやく仕事に就いて頑張っているときだった。
父と母は仲がよかった。
とくに兄が亡くなってから、二人の絆はむしろ強くなったのかもしれない。
私は兄が亡くなってからひどいうつ病になり、以前にもまして堕落していた。
そのときのことを思うと、いまでも胸が痛くなる。
両親にきつい言葉を浴びせたこともあった。
生きていても意味なんてない。ただ死ぬだけじゃないか、と。
彼女とも破綻しかけた。いくら天使でも限界はある。もう私は人生に希望を見出すことができなかった。
小説家もそのときに諦めたんだっけ。
そういえばあのときは苦しかったな。
と、今では笑って思い出せる。
懐かしい風景を車で走っていると、あのポスターのコピーもまんざら間違いではない気がしてきた。
「終わりのないノスタルジア、か」
自分の声がまるで自分の声ではないような気がする。
私は車を道路わきに止めて電話を掛けた。
彼女の声がどうしても聞きたくなったのだ。
☆
市役所に寄ってから実家に帰ることにした。
晩年、両親はハスの花を育てていた。バケツに泥水を入れて。
私はそれが咲いたところを見たことがなかった。
私は当時帰省しても酒ばかり飲んでいた。目を覚ますとすでに昼過ぎで、ハスの花はいつも閉じた後だった。
「一度でいいから見てごらん。本当にきれいだから」
両親が生きているうちに見ておくべきだった。
と、今さら反省してももう遅い。
市役所での用事が終わり、私はようやく実家に到着した。
変わらない。
なにも変わらない。
庭は草でぼうぼうだが、確かに実家だった。
その変わらなさが、逆に心を穿つように、私はしばらく呆然として中に入ることができなかった。
遠くから電車の音が聞こえ、押されるように玄関に入った私は、小さな声でただいまとつぶやいた。
台所から母が顔を出す気がした。
応接室から父がお帰りと言ってくれる気がした。
もう私は一人なんだ。
そんな気がして、私は玄関から家の中にどうしても上がれなかった。
一度外に出て、庭に回る。
「あっ」
思わず声が漏れた。
庭の隅にバケツが置いてあり、そこにハスがあったのだ。しかもつぼみまでついている。
そんなバカなことがあるはずない。
なぜ生きているのだろうか。
両親がなくなって何年も私はここに帰って来ていないのだから。
――まさか、な。
私は隣の人が世話を焼いていたのかと勝手に思い込み、この件は深く考えないようにした。
別にどちらでもよかったから。
私はハスのつぼみに近寄った。
試しにそっと両手で握ってみると、確かにほんのりとあたたかかった。それはいつの日だった か、両親が愛情を持って手を握ってくれたときのあたたかさだった。
親が子の手を握るとき。
恋人が手を握るとき。
夫婦が手を握るとき。
看病で手を握るとき。
子が親の手を握るとき。
最後に見送るそのとき。
幻でもなんでもない、確かにあった家族との触れ合い、人との絆、次の世代へ繋いでいく命。
私は迷った。
本当は今夜のうちに帰る予定だった。
でも、まだやり残していることがある気がした。
私はそこでようやく家の中に入ると、仏壇に向かって手を合わせた。
☆
夕方の海。
私はなにを迷っているのだろうか。
明日は仕事。
帰らなくては。
昔、いつもここから海を眺めていた。
実家から徒歩五分に海がある贅沢。
そして今日は快晴。
海育ちとはいえ、完璧に海に消えていく夕日は滅多に拝めなかった。どんなに晴れていても、水平線の上には大抵雲が浮かんでいるからだ。
ところが、今日は雲が見当たらない。
このタイミングでここにいること自体そうだが、ハスがまだ生きていたこともしかり、私は今回の帰省をなにか目に見えないものに呼ばれたような気がしていた。
それを人は神と呼ぶのかもしれない。
そう言えば昔、兄が亡くなって数年後のことだった。
私は自分の病気を治すためにありとあらゆることをした時期があった。おかげで体調がよくなったあともスピリチュアルな世界にどっぷりとハマっていた。
ある日。
大阪でたまたま過去に亡くなった人の声が聞けるという人と出会うことがあり、私は兄について訊ねてみた。
「お兄さん、いまは別の世界で自分の道を歩んでいますよ。ええ、後悔はしていませんね。両親に感謝を述べています、そしてあなたには自由に、幸せになってほしいと言っています。……また会えるかですか？ ――その質問に対して、お兄さんはとても喜んでおられますよ。今生では会えないと思いますが、またどこかで必ず会えると、そう言っています――」
それを電話で両親に話したとき、二人は泣いて喜んでくれたのを今でも覚えている。
目の前が光りに包まれてきた。
夕日が沈んでいく。
黄金色の道が海上に浮かび上がり、一本の光が真っ赤に揺らめく太陽へと伸びている。水面がキラキラと反射して、それなのに目を閉じることができない。
美しすぎる。
空はまるで天国か地獄かのように燃えている。その中を鳥が飛んでいる。波の音、風の感触、潮の匂い、広がるテトラポッド。その向こう側に落ちていく夕日の力強い光。
はじめて彼女の子どもを連れてここに来たときだった。
都会育ちの子どもはこの夕焼けを見て言った。
「お日様って熱いから海に入っていくの？」
そのときの父の笑顔は今でも忘れない。
「ああ、そうだね。きっとそうだよ」
まるで幻想的な光景。
テトラポッドが光りに包まれて黒く見える。その形はまるで葉っぱのようだ。
となると、その上にある夕日は花だろうか。
私は決めた。
今夜は泊まろう。
久しぶりに家族みんなで横になろう。
☆
早朝、私は急いで庭に回った。
そこにはハスの花が一論、見事に咲いていた。
やはりそうだった。
そのために私は帰って来たんだ。
気がついたら私は拝んでいた。
そこに仏さまを見たからではなく、私はそこに家族を見たからだ。
花に顔を近づける。
ほのかに甘い香り。
そして私は再度拝んでから家に戻った。
本当はこの家を売ろうと思っていた。家族の思い出は重たいものだと決めていた。それなのに、私は海と夕日とハスの花にすっかりとやられてしまったようだ。
まだ、大丈夫。
私は午前中のんびりと懐かしの我が家でくつろいで、午後になってから車に乗り込んだ。
家族が待っている。
それは祖父母であり、親であり、子供であり、孫であり、いつかの私だ。
庭に咲いていたハスの花は、もう枯れて地面に落ちていた。
都会も田舎も変わっていくが、海も夕日もハスの花も変わりはしない。
それは家族も同じことだ。
私は決意した。
家に帰ったら、妻と子どもたちを思いっきり抱きしめよう。
そしてもう一度、小説を書いてみよう。
きっとまたいつか、誰かが喜んでくれるかもしれない。
☆
両親はきっと自分たちが死んだあと、残された私のことを心配していたように思う。
それほどまでに私は親不孝だったから。
いま、私は大人になって、親になった。
改めて思う。
親の偉大さ、大きさ、優しさ、逞しさ。
ありがとう。
もうぼくは大丈夫。
苦しかったときもあった。
将来に悲観してやけくそになったときもあった。
けれど、いまは本当に心から感謝しています。
この命、きっと大切に使います。
約束します。
愛しています。
またいつか会ったら、力いっぱい抱きしめてほしいです。
子どもの頃のように、たくさん抱きしめてください。
そしてたくさん話を聞いてほしいです。
お前は頑張った。
よく頑張ったよ、と誉めてほしいのです。
お父さん、お母さん、本当にぼくを生んでくれてありがとう。
そして兄、妻、子どもたち、出会ってくれたすべての人たちへ感謝を込めて――。
生まれて来てくれてありがとう。
心から愛しています。
バックミラーになにか人影が写った気がするが、私は振り向かなかった。
初夏。
――私は早く家族に会いたかった。
――の、ある日。
私は随分と疲れていた。
仕事、家族、お金、夢、人生……、つまりは生きるということに。
太陽が嫌になる朝。眩しくて目が開けられない、いや、開けたくない朝。それでも私は歯を食いしばって自分に鞭を打つ。
家族のため、自分のため、生きるため。
しかし、いくら頑張ってもなにも残らない。仏教でもそう言っている。諸行無常。不変なものなんてなにもない。
都会に住んでいたら余計に感じる。増えるビル、消えるお店、変わる住人、歪む稜線、遠くなる海、低くなる空――。
それでも私は頑張ってきたつもりだ。両親が亡くなってからは特に。今まで何回も、何十回も、何百回も耐えてきた。それなのに、そいつはノックもせずに不死鳥の如くやってくる。
ニヤけた面の厭世感。
すべてを投げ出してしまいたい、がそうはいかない。私は今日も自分に鞭を打って、血まみれになりながら会社に向かう。
いったいなんのために？
そんないつもの出勤途中。
私は慌ただしい大阪の駅構内で突然足を止めてしまった。後ろを歩いていた人の舌打ちが聞こえたが、私の視線は正面の壁に貼ってあるポスターから離れなかった。
そこには大きな文字でこう書かれていた。
「終わりのないノスタルジア、山陰」
鳥取か島根のいかにも田舎らしい田園風景と、最近のモデルだろうか端麗な顔立ちの少女が遠い視線で立っているだけの写真。
それなのに、どうしてこんなにも胸がざわつくのだろう。
私が島根出身だからという理由だけではないように思う。自分でも分からないが、なにか引き込まれるようなそんな感覚に襲われたのだ。
まるで走馬灯。
そうだ、きっとあれのことだ。
私は島根に家を放置していた。その家は両親が最後まで住んでいた持ち家で、今は空き家となっている。
本来はその家を私が引き取り処分しなければいけないのだが、私は忙しさにかまけて見て見ぬふりをしていたのだ。
もう何年になるだろうか。
どうして今まで忘れていたのだろうか。いや、きっと思い出さないようにしていたのだ。だって私は現に今の今までだって忘れたことはなかったのだから。
ふいに私は決意した。
――帰ろう。
☆
一人で車を運転していると、不思議と独身時代の頃を思い出してしまう。鼻歌なんかを口ずさみ、ときには道を歩いている若い女の子に視線を送ったり。もしここにタバコがあれば吸っていたかもしれない。
もちろん、妻には内緒で。
この話をしたとき、彼女はもっと驚くかと思っていた。
「行ってきたらいいじゃない。うん、それがいいわよ」
そういえばいつからだろうか。
私が彼女に自分のわがままを言わなくなったのは。
私は彼女が妻になって、子どもが生まれて、もう夢なんて追わずにきちんとしなければ、と勝手に思い込んでいた気がする。
きちんとした人生？
そんなものは存在しないのに。
彼女は出会った当初から世間と少しずれていたように思う。
当時の私は夢を追うフリーター。親の仕送りを貰って生活していた。彼女は離婚をしたばかりで子供を一人で育てていたシングルだった。
彼女はなにがどうしてこんな甲斐性のない男を選んだのだろうか。
私がうつ病で苦しんでいたとき、彼女は本当に気長に看病をしてくれた。
まるで天使だった。
そんな彼女を幸せにしたいと思うのは、男でなくても思うことではないだろうか。
彼女は私を支えてくれた。夢を応援してくれた。しかし、私はそれに応えることはできなかった。
小説家を諦めたのは、いつだっただろう。
フリーターで生きていくということ。
それはいくら家族の支援と理解力があっても、並外れた神経の太さが必要だった。
私には無理だった。
と、いうことにしているが本当は違う。
私には兄がいた。
その兄が事故で亡くなったときかもしれない。
が、それも本当ではない。
本当はそれからしばらくして、両親が亡くなったから私は夢を捨てたのだ。
☆
大阪から車で約六時間。
長時間の運転はぼんやりする。
昼間なのになぜか信号機の点滅が幻想的に感じられ、私は何度も後ろからクラクションを鳴らされた。
「光りではなく、灯り……」
そんな意味のないようなこと呟く。寝不足のテンションは思わぬ夢を見させることがある。
ふいに私の頭にある花が鮮明に浮かび上がった。
それはハス。
満開に咲いたピンクの花だ。
なぜかどうでもいいうんちくまでも覚えている。
ハスは泥水の中できれいな花を咲かせる。むしろ泥水でないと花は咲かない。仏教では極楽浄土の象徴で、花は午前中しか咲かず、開いたり閉じたりを繰り返す。花の寿命は約四日。つぼみのときは植物には珍しく温度調節をし、なんと人間の体温と同じぐらいあるそうだ。
……なぜ、こんなに詳しく覚えているのだろう。
両親はハスの花が好きだった。
だからだと思う。
兄の葬式のとき。
お墓にハスの花を供えたのを覚えている。
縁起のいい花がちょうど咲いた。よかった。きっと喜んでもらえる、と両親が涙を流しながらお供えをしていた。
そのとき私はまだ三十歳だった。
両親は七十前後だっただろうか。当時の私は小説家を目指すと言って、ろくに働いていなかった。両親と彼女におんぶと抱っこ。
世間を舐めていた。……今思えば必死だったのだろう。
人生に対して、幸せにならなければと、力を入れ過ぎていたのだ。
そんなときに兄は亡くなった。
私は泣かなかった。代わりに今の妻がたくさん泣いていたと思う。
「大丈夫。大丈夫だから。きっと大丈夫だから」
抱きしめられる度に感じる人肌が妙に気持ち悪かったのを覚えている。脈を打つ人間。その体温がどこか常軌を逸しているように感じられ、私は自分はおろか、他の人が生きていることがまるで信じられなくなっていた。
無機質な世界。
「大丈夫だから。私を信じて――」
人間のあまりの弱さと呆気なさに、私はどうしても神さまを信じることができなかった。
急な尿意。
私は車をパーキングに回した。駐車して降りようとしたとき、目の前に駐車してあった車のブレーキランプが赤く点灯して、そのまま発信して走り去っていった。
もう二度と手の届かない場所へ。
兄は交通事故で亡くなった。
そういえば、私の小説を一番おもしろがって読んでくれていたのは、他の誰でもない兄と両親だった気がする。
そんなことすら、もう遠い記憶になっているなんて。
☆
トイレを済ませ再び車を走らせた。
もうすでに島根には入っている。あとは一時間ほど走らせれば目的地に着くだろう。
ちょうど昼過ぎ。
懐かしい風景が目の前に広がる。そのせいだろうか、私の脳裏に両親の顔が浮かび上がってきた。
亡くなる前の父と母。
三人で三瓶山に行ったり、電話で拙い会話をしたり、帰省したときにケンカしたり、そして仲良く旅行したり。
懐かしかった。
涙が出るほど懐かしかった。
できるものなら、もっと一緒にいたかった。
私は心から両親を愛していた。
父は数年前に亡くなった。跡を追うように母も翌年亡くなった。私がようやく仕事に就いて頑張っているときだった。
父と母は仲がよかった。
とくに兄が亡くなってから、二人の絆はむしろ強くなったのかもしれない。
私は兄が亡くなってからひどいうつ病になり、以前にもまして堕落していた。
そのときのことを思うと、いまでも胸が痛くなる。
両親にきつい言葉を浴びせたこともあった。
生きていても意味なんてない。ただ死ぬだけじゃないか、と。
彼女とも破綻しかけた。いくら天使でも限界はある。もう私は人生に希望を見出すことができなかった。
小説家もそのときに諦めたんだっけ。
そういえばあのときは苦しかったな。
と、今では笑って思い出せる。
懐かしい風景を車で走っていると、あのポスターのコピーもまんざら間違いではない気がしてきた。
「終わりのないノスタルジア、か」
自分の声がまるで自分の声ではないような気がする。
私は車を道路わきに止めて電話を掛けた。
彼女の声がどうしても聞きたくなったのだ。
☆
市役所に寄ってから実家に帰ることにした。
晩年、両親はハスの花を育てていた。バケツに泥水を入れて。
私はそれが咲いたところを見たことがなかった。
私は当時帰省しても酒ばかり飲んでいた。目を覚ますとすでに昼過ぎで、ハスの花はいつも閉じた後だった。
「一度でいいから見てごらん。本当にきれいだから」
両親が生きているうちに見ておくべきだった。
と、今さら反省してももう遅い。
市役所での用事が終わり、私はようやく実家に到着した。
変わらない。
なにも変わらない。
庭は草でぼうぼうだが、確かに実家だった。
その変わらなさが、逆に心を穿つように、私はしばらく呆然として中に入ることができなかった。
遠くから電車の音が聞こえ、押されるように玄関に入った私は、小さな声でただいまとつぶやいた。
台所から母が顔を出す気がした。
応接室から父がお帰りと言ってくれる気がした。
もう私は一人なんだ。
そんな気がして、私は玄関から家の中にどうしても上がれなかった。
一度外に出て、庭に回る。
「あっ」
思わず声が漏れた。
庭の隅にバケツが置いてあり、そこにハスがあったのだ。しかもつぼみまでついている。
そんなバカなことがあるはずない。
なぜ生きているのだろうか。
両親がなくなって何年も私はここに帰って来ていないのだから。
――まさか、な。
私は隣の人が世話を焼いていたのかと勝手に思い込み、この件は深く考えないようにした。
別にどちらでもよかったから。
私はハスのつぼみに近寄った。
試しにそっと両手で握ってみると、確かにほんのりとあたたかかった。それはいつの日だった か、両親が愛情を持って手を握ってくれたときのあたたかさだった。
親が子の手を握るとき。
恋人が手を握るとき。
夫婦が手を握るとき。
看病で手を握るとき。
子が親の手を握るとき。
最後に見送るそのとき。
幻でもなんでもない、確かにあった家族との触れ合い、人との絆、次の世代へ繋いでいく命。
私は迷った。
本当は今夜のうちに帰る予定だった。
でも、まだやり残していることがある気がした。
私はそこでようやく家の中に入ると、仏壇に向かって手を合わせた。
☆
夕方の海。
私はなにを迷っているのだろうか。
明日は仕事。
帰らなくては。
昔、いつもここから海を眺めていた。
実家から徒歩五分に海がある贅沢。
そして今日は快晴。
海育ちとはいえ、完璧に海に消えていく夕日は滅多に拝めなかった。どんなに晴れていても、水平線の上には大抵雲が浮かんでいるからだ。
ところが、今日は雲が見当たらない。
このタイミングでここにいること自体そうだが、ハスがまだ生きていたこともしかり、私は今回の帰省をなにか目に見えないものに呼ばれたような気がしていた。
それを人は神と呼ぶのかもしれない。
そう言えば昔、兄が亡くなって数年後のことだった。
私は自分の病気を治すためにありとあらゆることをした時期があった。おかげで体調がよくなったあともスピリチュアルな世界にどっぷりとハマっていた。
ある日。
大阪でたまたま過去に亡くなった人の声が聞けるという人と出会うことがあり、私は兄について訊ねてみた。
「お兄さん、いまは別の世界で自分の道を歩んでいますよ。ええ、後悔はしていませんね。両親に感謝を述べています、そしてあなたには自由に、幸せになってほしいと言っています。……また会えるかですか？ ――その質問に対して、お兄さんはとても喜んでおられますよ。今生では会えないと思いますが、またどこかで必ず会えると、そう言っています――」
それを電話で両親に話したとき、二人は泣いて喜んでくれたのを今でも覚えている。
目の前が光りに包まれてきた。
夕日が沈んでいく。
黄金色の道が海上に浮かび上がり、一本の光が真っ赤に揺らめく太陽へと伸びている。水面がキラキラと反射して、それなのに目を閉じることができない。
美しすぎる。
空はまるで天国か地獄かのように燃えている。その中を鳥が飛んでいる。波の音、風の感触、潮の匂い、広がるテトラポッド。その向こう側に落ちていく夕日の力強い光。
はじめて彼女の子どもを連れてここに来たときだった。
都会育ちの子どもはこの夕焼けを見て言った。
「お日様って熱いから海に入っていくの？」
そのときの父の笑顔は今でも忘れない。
「ああ、そうだね。きっとそうだよ」
まるで幻想的な光景。
テトラポッドが光りに包まれて黒く見える。その形はまるで葉っぱのようだ。
となると、その上にある夕日は花だろうか。
私は決めた。
今夜は泊まろう。
久しぶりに家族みんなで横になろう。
☆
早朝、私は急いで庭に回った。
そこにはハスの花が一論、見事に咲いていた。
やはりそうだった。
そのために私は帰って来たんだ。
気がついたら私は拝んでいた。
そこに仏さまを見たからではなく、私はそこに家族を見たからだ。
花に顔を近づける。
ほのかに甘い香り。
そして私は再度拝んでから家に戻った。
本当はこの家を売ろうと思っていた。家族の思い出は重たいものだと決めていた。それなのに、私は海と夕日とハスの花にすっかりとやられてしまったようだ。
まだ、大丈夫。
私は午前中のんびりと懐かしの我が家でくつろいで、午後になってから車に乗り込んだ。
家族が待っている。
それは祖父母であり、親であり、子供であり、孫であり、いつかの私だ。
庭に咲いていたハスの花は、もう枯れて地面に落ちていた。
都会も田舎も変わっていくが、海も夕日もハスの花も変わりはしない。
それは家族も同じことだ。
私は決意した。
家に帰ったら、妻と子どもたちを思いっきり抱きしめよう。
そしてもう一度、小説を書いてみよう。
きっとまたいつか、誰かが喜んでくれるかもしれない。
☆
両親はきっと自分たちが死んだあと、残された私のことを心配していたように思う。
それほどまでに私は親不孝だったから。
いま、私は大人になって、親になった。
改めて思う。
親の偉大さ、大きさ、優しさ、逞しさ。
ありがとう。
もうぼくは大丈夫。
苦しかったときもあった。
将来に悲観してやけくそになったときもあった。
けれど、いまは本当に心から感謝しています。
この命、きっと大切に使います。
約束します。
愛しています。
またいつか会ったら、力いっぱい抱きしめてほしいです。
子どもの頃のように、たくさん抱きしめてください。
そしてたくさん話を聞いてほしいです。
お前は頑張った。
よく頑張ったよ、と誉めてほしいのです。
お父さん、お母さん、本当にぼくを生んでくれてありがとう。
そして兄、妻、子どもたち、出会ってくれたすべての人たちへ感謝を込めて――。
生まれて来てくれてありがとう。
心から愛しています。
バックミラーになにか人影が写った気がするが、私は振り向かなかった。
初夏。
――私は早く家族に会いたかった。
