第1話

文字数 6,454文字

時計の針が午後6時を回ったあたりから教室がざわざわし始める。筆箱のチャックを締める音や狭そうに腕を小さく曲げながらコートを着る人。隣の席の男の子はまだ夢に中にいるようだ。
午後6時10分
「じゃあ、来週は38ページから始めるから読んでくるように」
教授のこの言葉を皮切りに教室から次々と人が出ていく。大学にチャイムはない。
「最悪、俺この後バイト」
「新しくできた居酒屋今日まで安く飲めるらしいよ」
「絶対別れた方がいいって」
授業終わりの教室は何かの膜がはじけたように言葉が飛び交う。それを横目に私はみんなが出る出口から反対の重い扉を開いて教室に出た。扉を開けると雑草が無造作に生い茂り舗装されていない裏道にでる。帰りの駅からは少し遠くなってしまうけど誰にも邪魔されずゆっくり帰ることができるからこの道はお気に入りだ。
外にでるともう真っ暗で11月らしい冷たい風が肌を触った。さっきまで雨が降っていたらしく土の地面を歩くとスニーカーが少し重い。正門から出ていった生徒たちが電車に乗り遅れないように小走りしている姿を遠めに見ながらゆっくりと歩く。五限終わりの電車は急がないと間に合わない発車時刻のうえに、その後の電車は15分以上来ない。踏切を渡って駅に到着する。生徒達で混む電車をわざと乗り過ごして、次の電車が来るまでの間駅のホームのベンチ座った。かじかんだ手を息で温めながら上を見上げると藍色の空に大きな一番星が浮かんでいた。簡単に掴めそうなくらい大きいく見えるのにそれは果てしなく遠いということがわかっていて手を伸ばす気にもならない。最近は空を見上げるといつも夜だ。イヤホンを取り出すために地面に置いたバックの右ポケットに手を入れる。いつもあるはずの紐のような感触がない。ふと思い返してみると4限のゼミでパソコンにイヤホンをつなげたままだったかもしれない。やってしまった。今から戻る気力もないから明日の授業の前にゼミ室に立ち寄るしかない。
「はあ」
ため息をつくと、白い息がもあっとでてきた。もう冬だ。誰もいなかったホームにまた人が増えて騒がしくなってくる。そろそろ立ち上がろうと地面のバックに手をかけた瞬間、急に周りに影ができてなじみのある薄汚い緑のコンバースが目の前にあらわれた。嫌な予感がしてゆっくり顔をあげるとビンゴというような笑顔で立っている男がいた。
「これから帰り?」
「そうです」
「池袋まで一緒だ」
「はい」
「やったあ」
はりつけたような笑顔で話しかけてくる男は私が二週間でやめた旅サークルの先輩で、たまにこうして話かけられる。私はなにを考えているのかわからないこの人が少し苦手でいつもなるべく見つからないようにしていた。他愛もない話をしているとすぐに電車が到着した。さっきの電車は混んでいたけど一本ずらすだけで驚くほど車内は空いていて空席だらけだ。先に乗った先輩はたくさんある空席を無視してドアの横に寄り掛かる。私が席に座るためにわざと一本逃したことなんか考えもしてないのだろうと思いながらその近くのつり革につかまる。
「もう真っ暗ですね」
当たり障りのない会話を投げかける。返事は帰ってこない。
「俺ね、ホストはじめてみようかと思うの」
「急ですね」
「いいと思わない?」
「うーん思います」
先輩はいつも急になにかを始めてみんなを驚かせる。ちょっと前もよくわからない商売を始めようとして失敗していた。穴の開いたコンバースを穿いて「PEACE」とどでかく書かれたニットを着ている目の前の男はどう考えてもホストとは無縁そうにみえるが、先輩が言うとホストになるのだろうと妙に納得した気持ちになった。私には違和感のある笑顔がけっこう女子受けがいいらしいし、誰にでも嘘をつけそうな性格はホストに向いてそうだ。急に電車が揺れてバランスを少し崩す。すぐに「停止信号です」というアナウンスが入った。静かな車内で先輩はずっと窓の外の景色をみている。こういうところがやっぱりよくわからない。突拍子もないことを言ったと思ったら急に壁をつくってそれ以上踏み込ませないようにする。
「俺、夜嫌い」
こっちも見ずにあまりにも小さい声でつぶやくから反応していいのか困る。切れ長の目に少しぷっくりした頬でアンバランスな顔をしているなと思った。こっちが困っているのなんかお構いなしのように話を続ける。
「夜嫌いだからホストになるの」
「どういうことですか」
「夜に一人でいる時の自分嫌いなの。だから女の子といようと思って」
「ちょっとわかります」
「え、お前も女の子好き?」
「そうじゃなくて」
「朝とか昼の俺はかっこいいから好きなんだけどなー」
いたずらそうなくしゃっとした笑顔こっちを見られると、どんな表情をしていいかわからなくなってぎこちなく固い笑顔を返す。私たちが話すといつも表情のやりとりがうまくいかない。自然体とは遠い微妙な空気が流れる。
「次は終点池袋です」
沈黙を破るようにアナウンスが流れる。
「もう着きますね」
「着いちゃうねえ」
ドアが開くとホームは人で溢れかえっていた。先に歩いていく先輩を追いかけながら人の間を通っていく。ちょっとの距離を歩くだけで何人にもぶつかりそうになる。この駅の人の波にはいつになっても慣れないけど、みんな他人って感じはわりと心地いい。先輩の背中がどんどん遠くなって人に飲み込まれていく。ふと我に返るとなんでこの人を追いかけているのだろうと疑問思った。どうせ改札をでたらお別れするだけなのに、急に話しかけてきて歩くペースも合わせてくれないような人を見失わないようにしているのはバカげている。どうでもいいやと端によってわざとらしくゆっくり歩いてみる。すると、背中をむけていた先輩がくるっとこっちを振り向いてかわいらしく両手で手招きをした。あまりにも察しがよくて苦笑いをするしかない。でも、人混みの中で一人手招きをする先輩がちょっとだけ気持ち悪くて笑ってしまった。小走りで先輩のとこまで向かっていく。なぜか人混みの中も上手に走ることができた。
「ごめん早かったね」
「いや、平気です」
その後は今のサークルの話とか、あの先生の授業はつまらないとかそういうどうでもいい話をしていたらすぐに改札についた。改札をでたら私は右に、先輩はまっすぐ進む。
「じゃあ」
と一言だけ言ってお互い違う方向に歩いていく。同じ学科で旅サークルに入っている友達の茜は先輩のことを急にどこか消えちゃいそうな人と言っていた。だけど私はこの人はどこにもいけなさそうだなと思う。ふらふらしていて突拍子もないことをいつも言っているけど、なんだかんだで同じ場所に居続ける感じがする。もしかしたら先輩に感じる苦手意識は同族嫌悪的なものなのかもしれないと思った。ポーカーフェイスを貫いている風にみせて何にもなれない怖さを感じていそうなところとか、壁をつくってすぐ逃げようとするところとか。そんなことを考えはじめた自分に嫌気がさして次のホームまでの階段を早足で登った。
勢いのある風と共に電車が到着する。ここからの電車はラッシュで家まではずっと座れない。さっきの電車で先輩に合わせて立っていたのを後悔した。ちょっと座っていただけでも家に着いた時の疲れ具合が全然違うのだ。ドアが開いてたくさんの人が降りてたくさんの人が乗り込む。その動きの中の一人としててきとうに体を動かして電車に乗り込む。早めに並んでいたから椅子の前のつり革につかまることができた。ここにいればあまり移動はない。コートのぽっけからスマホをとりだして画面に目を落とす。
「どんな音楽きくんですか?」
送信者は最近SNS上で繋がった人だ。色々な映画の感想を投稿していて、その文章があまりにも素敵だったから勢いでメールを送ったらたまにSNSでやりとりをする仲になれた。みずきさんという名前で同い年だけど働いているらしい。はじめてSNS上でやりとりをした時、お互いに敬語はやめましょうと言ったのにタイミングがわからず一か月以上経った今もこうして敬語で話している。でもそれがなぜか心地いい距離感を保っている。
「どんな音楽きくんですか?」私が映画の他に音楽を聴くのも好きだと言ったらこの返信が来た。この質問に返すのは意外と難しくて悩む。好きな音楽を言うのは自分がわかられてしまう気がしてけっこう恥ずかしいものだ。マイナーすぎる曲や暗い曲を送ったら引かれるかもしれないし、かといって大衆すぎるのを言うのもなんか違う気がする。迷いながらバックのポケットのイヤホンに手を伸ばそうとした途中で、イヤホンを忘れたことを思い出す。二回目だ。せっかく音楽を聴きながら吟味しようと思ったのにイヤホンがなければ無理だ。また、大きなため息がでた。窓を見ると真っ黒な町と窓に反射した最悪な自分の顔が映し出されていた。
「俺、夜嫌い」
という先輩の言葉が頭を駆け巡る。私も夜は嫌いだ。
スマホで好きな曲の歌詞を検索しながら頭の中だけで曲を流す。歌詞を見れば頭にメロディーと声が再生される。昔から今までずっと聞きすぎて思い出にもならないような曲ばかりだ。ネットの波を漂っている中でふとある曲の歌詞が頭に浮かんだ。
「やさしい歌が好きで あなたにも聞かせたい」
あまりにも今の私にぴったりな気持ちだった。どこのだれかもわからないけど素敵な文章を書くあなたに聞いてほしい曲がたくさんあった。
この歌詞はTHE BLUE HEARTSの「人にやさしく」という曲の一節だ。私が幼い頃、お酒をあまり飲まない父がたまに酔っぱらって帰ってきた時によく口ずさんでいていつのまにか覚えてしまった。なんども繰り返される「がんばれ」というフレーズが印象的な曲で、真っ赤な顔をしながら上機嫌に拳をあげて歌う父の姿とそれを迷惑そうに笑う母を思い出す。もう引っ越してしまったけど、その頃に住んでいた洗面台が異様に低いアパートが好きだった。
普段は自分からは聞かないような曲なのに、なぜかこのタイミングにこんなぴったりな歌詞が浮かんできたことが不思議だった。人間の頭はよくわからなくておもしろい。
この曲をみずきさんに送ろうかと思ったかどかなり有名な曲だし、会ったこともない人に応援歌みたいな曲を勧められても困るだろうと思ってやめることにした。結局、少しマイナーだけどユーチューブで検索すれば出てくるぐらいの知名度で最近気に入っているアーティストの新曲を送った。
気が付いたら満員だった車内は徐々に空いてきていて次はもう降りる駅だった。

三週間後、先輩は学校をやめた。
お昼休みに茜とご飯を食べた時に教えてもらった。まだ噂の段階だから内情はよくわからないけど手続きはもう済んでいてやめたことは確からしい。あまりにもあっさりと言われて拍子抜けしてしまった。実際いなくなりそうと言われていた人だったからみんなの反応も茜ぐらいなのだろう。だけど、徐々に私はもう今すぐにでもどこかに逃げ込みたいくらい恥ずかしくて食べていたおにぎりも喉をつっかえてうまく飲み込めなくなった。私は先輩のことを同族だとか、なんだかんだでどこにもいけない人だと勝手に思っていた。でもそれは全くの的外れだった。茜は呑気にカップラーメンをすすりながら「ばかすぎるよねあの人」と笑った。笑い返してみる。うまく笑えなかった。
三限の必修と四限のゼミは出たけど、五限の授業はさぼった。文豪の名言を取り上げる授業で私は意外と好きだったけど、周りはほとんど寝てるしたぶん休んでもどうでもいいような授業だ。学校をまた裏道から出た。扉をあけると、埃っぽい土が舞って鼻がムズムズした。
歩いていると色んな考えが浮かんでは消えていく。ほんとうに何もないのは私だけなのかもしれないと思った。みんな先輩のように知らないうちにどこかへ行ってしまって、私が考えたりシュミレーションしたりしている間に気が付いたら誰もいなくなっているのかもしれない。誰もいなくなった部屋で、誰もいないことに気づきながらも生活している自分が想像できてしまってどうしていいかわからなくなる。
「カンカンカン」
子気味よいリズムで踏切が鳴る。この踏切につかまると長いから私はとっさに走り出した。風で巻いていたマフラーがほどけて顔に当たる。少しの距離を走っただけで息が上がった。なんだか悲しくなってきて遠くの空を見上げる。ずいぶん赤い夕陽だなと思ってよく見たら赤信号だった。
いつもこうだ。
エモーショナルな気持ちに浸ってやろうと思って授業を休んだのに踏切が鳴れば走り出すぐらいの元気はあるし、挙句の果てに赤信号と夕陽を間違える。もう自分がかっこ悪くて、泣きたくなるくらいダサくて最悪だ。でも、涙は全然でてこなくて、こんなに最悪なのに笑えてくる。こんな自分を愛おしく思えてきたりもしてくる。
歩いていたら当たり前に駅についた。改札を通ってホームのベンチに座る。ここに座っていると先輩がひょっこり現れてきそうな気がした。ベンチには夕陽がまっすぐ当たっていて眩しくて目を細めた。この時間にこのベンチに座るのは初めてかもしれない。中高生のころは毎日のようにオレンジ色に染まる街を帰っていたのに、大学生になって夕方をあまり見ていなかった気がする。午後はいつも授業が入っているか学校近くのスーパーでバイトをしていたから外にでた時は真っ暗だった。
夕方は色々なことが浮きぼりになる時間なのかもしれない。夜ほど隠してはくれないし朝ほど正直ではないけれど、夕方には嘘がない気がする。ただそこにある事実だけを見せてくれる。ホームに立っている人々から間延びしたヘンテコな人間の形をした影が地面に映し出されている。その影と人に明確な境界線なんてものはなくてどっちが本物かなんてわからない。世の中わからないことが多すぎる。影も先輩も自分自身も全部だ。
思考があっちこっちいって収集が付かなくなってくる。先輩のことを考えていたはずが気が付いたら全然違う場所についていた。この収集のつかなさは「あたま」なのか「こころ」なのか。でもそれは確実に自分の「中」で起こっているということだけはわかる。
夕陽が徐々に雲に隠れていく。もうここに座ってから乗るはずの電車を四本も見送った。黄金色に光っていたレールも元の重々しい鉄色に戻っていた。
「まもなく列車が到着します」
さすがにずっと座っていると寒くなってきて次の電車に乗ることにする。バックからイヤホンを探す。そういえば最後に先輩に会った日はイヤホンがなかった。今日はある。
イヤホンを耳にいれる。何百曲もある中からここであの日を思い出すように「人にやさしく」が流れたらなんて淡い期待を抱きながらシャッフル再生のボタンを押す。ピアノ調の優しいイントロが流れてすぐにその期待ははずれたことがわかった。でも、なぜかホッとした。流れてきたのはあまり聞いてないアルバムのバラード曲だったけど、ちゃんと聞いてみると優しいメロディーなのにどこか冷めた歌詞が意外と好みの曲だった。次の曲が再生されるのを止めてプレイリストの中から「人にやさしく」を選ぶ。再生ボタンを押す人差し指にちょっと力が入った。曲を選ぶなんて何てことないだけど、少しだけ誇らしい気持ちになった。
電車が到着する。少しだけ弾みながら車内に乗り込む。ドアの横に寄り掛かって窓から外を見ると、夕陽は沈んでいて大きな藍色がオレンジ色の空を食べるように広がっていた。
夕方は一瞬で終わってしまった。また夜がきて朝がきてその繰り返しが続いていくことは、救いでもあるし諦めでもあるかもしれない。先輩を連れていった夜がもうすぐくるから私ももう考え事はやめることにしよう。
イヤホンの音量をあげる。音に飲み込まれて景色はすべて映像になった。

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