第1話

文字数 57,678文字

旅人からのメッセージ(東日本大震災編)「震災後の福島を訪れて」
も   く   じ
はじめに
○「過去の旅の思いで」…一九九三年八月◆福島県内国道六号線
その一「小高にコンビニ移動車」・二〇一二年八月一〇日(金)◆福島県南相馬市小高
その二「失われた街」・二〇一二年九月月五日(水)◆東京都
その三「計画的避難区域」・二〇一二年十一月十日(土)◆福島県飯舘村
その四「楢葉南小学校に除染作業車」・二〇一三年二月九日(土)◆福島県楢葉町
その五「小高中学校は(一)」・二〇一三年二月十日(日)◆福島県南相馬市小高
その六「津波の恐怖」…二〇一三年四月十四日(日)◆福島県いわき市四倉
その七「葛尾村立葛尾小学校に鯉のぼり」…二〇一三年四月十五日◆福島県葛尾村
その八「風の碑」…二〇一三年四月十六日(火)◆福島県新地
その九「ファミレスで」…二〇一三年四月二十四日(水)◆福島県内のファミレスで
その十「結いの心」…二〇一三年五月十五日(水)◆福島県南相馬市萱浜地区
その十一「怒り」…二〇一三年六月十七日(月)◆福島県南相馬市小高
その十二「集慈祈りのモニュメント」…二〇一三年六月十七日◆福島県南相馬市萱浜
その十三「相馬野馬追」…二〇一三年七月二十七日~二十九日◆福島県南相馬市
その十四「川内村にファミマオープン」…二〇一三年九月二十八日(土)◆福島県川内村
その十五「ひまわりとおばあさん」…二〇一三年十月二十九日(火)◆福島県南相馬市
その十六「国道六号線は物流の生命線」…二〇一三年十二月二五日◆福島県いわき市四倉
その十七「鹿嶋の一本松」…二〇一四年一月二十二日(水)◆福島県相馬市鹿島
その十八「雪の中に仮設小学校」…二〇一四年二月十日(月)◆福島県川俣町
その十九「相馬港に碑文」…二〇一四年三月十八日(火)◆福島県相馬市
その二十「南相馬市立真野小学校閉校記念碑」…二〇一四年三月十八日◆福島県南相馬市
その二一「除線作業による渋滞」…二〇一四年四月十七日(木)◆福島県いわき市四倉
その二二「夜の森」…二〇一四年四月十七日(木)◆福島県富岡町夜の森
その二三「国道六号線全線通行可」…二〇一四年九月十八日(木)◆福島県国道六号線
その二四「四年目に撤去終了」…二〇一四年十二月二十七日◆福島県南相馬市小高地区
その二五「慰霊碑近くの建物完成」…二〇一五年二月十三日(金)◆福島県相馬市
その二六「解体されていた富岡駅舎」…二〇一五年五月四日(月)◆福島県富岡町
その二七「山田神社」…二〇一五年六月十日(水)◆福島県南相馬市鹿島
その二八「相馬市伝承鎮魂祈念館」…二〇一五年六月十日(水)◆福島県相馬市
その二九「萱浜のヒマワリ畑」…二〇一五年九月二日(水)◆福島県南相馬市
その三十「飯舘村にオープンしたコンビニ」…二〇一六年一月七日(木)◆福島県飯舘村
その三一「松川浦温泉」…二〇一六年三月十二日(土)◆福島県相馬市       
その三二「小高に仮置き場」…二〇一六年三月十三日(日)◆福島県南相馬市小高 
その三三「除染の駅(一)」…二〇一六年四月十五日(金)◆福島県富岡
その三四「両側に除線廃棄物の山」…二〇一六年六月二十一日◆福島県南相馬市小高 
その三五「常磐線に新しい駅舎」…二〇一六年十一月二十一日(月)◆福島県新地町
その三六「除線の駅(二)」…二〇一六年十二月二十七日(火)◆福島県富岡町
その三七「ファミマ小高店営業再開」…二〇一六年十二月二七日◆福島県南相馬市小高
その三八「常磐線運転再開」…二〇一六年十二月二十七日(火)◆宮城県新地町
その三九「建設中の豊間中学校」…二〇一七年三月十日 ◆福島県いわき市豊間
その四十「帰還準備」…二〇一七年三月十四日(火)◆福島県
その四一「小高中は(二)」…二〇一七年七月三十一日(月)◆福島県南相馬市小高
その四二「豊間中は(一)」…二〇一七年十月八日(日)◆福島県いわき市豊間
その四三「までい館」…二〇一七年十月十三日(金)◆福島県飯舘村
その四四「とんやの郷」…二〇一七年十月十三日(金)◆福島県川俣町
その四五「あしたを歩く」…二〇一七年十月十三日(金)◆福島県川内村
その四六「豊間中は(二)」…二〇一八年三月十五日 ◆福島県いわき市豊間
その四七「さくらステーションきのね」…二〇一八年三月十五日 ◆福島県富岡町
その四八「葛尾村立葛尾小学校」…二〇一八年三月十八日(日)◆福島県葛尾村
その四九「海開き」…二〇一八年七月二十九日(日)◆福島県相馬市尾浜
その五十「松川浦大橋通行可」…二〇一八年七月二十九日(日)◆福島県相馬市尾浜
その五一「請戸漁港」…二〇一八年七月三十日(月)◆福島県浪江町請戸
その五二「ここなら笑店街」…二〇一八年七月三十日(月)◆福島県楢葉町
その五三「矢木沢トンネル」…二〇一八年十月二十日(土)◆福島県飯舘村
その五四「葛尾村立葛尾小中学校」…二〇一八年十月二十日(土)◆福島県葛尾村
その五五「奇跡の藤」…二〇一九年三月十二日(火)◆福島県相馬市
その五六「請戸の墓地で」…二〇一九年三月十五日(金)◆福島県浪江町請戸地区
その五七「豊間に新しく建てられた石碑」…二〇一九年三月十六日◆福島県いわき市
その五八「常磐道は、二輪車通行可」…二〇一九年十月十日(木)◆福島県南相馬市
その五九「トーキョーオリンピックトーチラリー」…二〇二〇年三月二十日◆東松島市
その六十「オリンピック聖火リレー」…二〇二〇年三月二十一日(土)福島県新地町
その六一「移動されていた小高の除染廃棄物」…二〇二〇年三月二十一日◆南相馬市小高
その六二「請戸小学校」…二〇二〇年三月二十一日(土)◆福島県浪江町請戸
その六三「常磐線全線開通」…二〇二〇年三月二十一日(土)福島県浪江町
その六四「営業再開、道の駅ならは」…二〇二〇年三月二十一日(土)福島県楢葉町
その六五「走行した国道六号線」…二〇二〇年七月十七日 ◆福島県国道六号線
その六六「道の駅ならは」…二〇二〇年十月四日(日)◆福島県楢葉町
その六七「道の駅なみえ」…■二〇二〇年十月五日(月)◆福島県浪江町
その六八「東日本大震災・原子力災害伝承館」…二〇二〇年十月五日◆福島県双葉町
その六九「探すことができた請戸の慰霊碑」…二〇二〇年十月五日◆福島県浪江町
その七十「釣師防災緑地公園」…二〇二〇年十月五日(月)◆福島県新地町釣師浜
その七一「十年目に走行した埒浜地区」…二〇二〇年十月五日◆福島県新地町埒浜

はじめに
東日本大震災が発生した当時、私は中学校の教員をしていました。岩手県で教員をしている友人がいたので、私は訪れるチャンスがあればすぐに被災地を訪れたいと思っていましたが、そのチャンスは春休みに訪れました。
 三月二十四日より東北道が一般車にも解放され、関東では二週間ほどガソリンが手に入らなくて大変でしたが、三週目からはどこでも手にはいるようになりました。私は、燃料と食料、宿泊場所、トイレの問題が解決されれば問題ないだろうと考えていたので、東北行きを決行しました。                               本当なら二十四日(木)の夜から行きたかったのですが、二十五日(金)残務整理のため職員は全員出勤ということだったので二十五日の夜になりました。IC手前のコンビニで食料を買い込み、高速道路へと合流しました。夜の東北道は、福島にはいると完全な雪になりました。雪道を走ることの多い私は、十一月から四月までスタッドレスタイヤのままでいることが多いので問題はありませんでした。トイレも簡易トイレをセットし、キャンピングカーなので宿泊場所にも問題はありませんでした。唯一心配だったのは、燃料の問題だけでした。私は高速道路なのだから燃料がないと言うことはないだろうと確信していたので、現地での給油だけを心配しての決行でした。               
帰宅すると異動の決まっていた私は離任式に出席し、体育館ステージの壇上で
「東北道は、雪でした。雪の降る東北道を北上し、被災地は・・。私がここで被災地の話をしている時間にも、世界のどこかで苦しい生活をしている人々がいると言うこと・・。」
と、マイクを片手に熱く語っていました。(NGO活動を行っていたので、パキスタンやアフガニスタンの難民キャンプの子ども達のことが頭に浮かんでしまいました。)    今思うと、離任式にふさわしくなかった内容だったと反省しています。ただ胸が熱くなり、「東日本大震災は日本で起きた災害であり、難民キャンプでの生活は終わることなく、地球上の何処かで今でも続けられているという現実」を、目の前にいる生徒達に伝えたかっただけでした。
私は離任式での自分の言葉が頭から離れず、その後も被災地を訪れました。結局、震災から一年後に早期退職をして被災地を訪れ続けました。私はただ訪れるだけではなく、記録をとっていました。その膨大な記録をまとめればまとめるほど、複雑な記録となってしまいました。記録をまとめていると、震災から十年目に入っていました。震災から十年目の年だからこそまとめるまとめ方があると考え、私はテーマ別に記録をまとめることにしました。
今回の「震災後の福島を訪れて」は、震災前の記録として自転車で北海道へ渡った記録の一部を書き添えました。なぜ添えたかというと、震災後の「国道六号線」が復興のバロメーターだと思ったからです。例を挙げれば、国道六号線が前線通行可能になったのは、二〇一四年九月です。このときは、自動車のみでした。                私はやっと今年(二〇二〇年七月)国道六号線をバイクで走行しましたが、いまだに徒歩と軽車両は通行禁止です。理由は、放射線量がいまだに多いからです。又、二〇一一年三月から被災地を訪れていた私でしたが、震災後に福島を訪れたのは二〇一二年八月のことでした。実に震災から一年以上が経過していました。

記号■福島県内の年月日 □その他の年月日 ◆場所 ●石碑など ☆自分の感想など

○過去の旅の思いで
■一九九三年八月◆福島県内国道六号線
 ツーリングの好きな私は、毎年夏は北海道を訪れるライダーだった。いつもならバイクで北上していたが、今回は自転車で北海道に渡る計画を立てた。ショップのすすめで、「ニシキスポルティーフ」を購入した。スポルティーフを購入すると、私はオプションとしてサイドバックを購入した。フロントにするかリアにするか迷ったが、最終的にはリアサイドバックを購入した。旅の私の自転車スタイルは、フロントバッグ、リアサイドバックが二つ、リアキャリアにテントを積むスタイルとなった。
私は購入したばかりの自転車に荷物をくくりつけ、ペダルを踏み出し家を出たのは午前六時頃だった。暑くなってからだと体力の消耗が激しいだろうと、朝早く出たのだった。
ルートは国道六号線を北上するルートと、国道四号線を北上するルートがあった。最終的には、私は勾配が少ない国道六号線を選択した。国道一二五号線を走行し、筑波山の麓を過ぎてからは国道六号線を北上する計画を私は立てた。順調に一二五号線を走行し、土浦からは国道六号線を北上した。水戸手前までは、ハイペースだった。昼の太陽が照りつける時間になると、私は体力の消耗が激しくなってきた。水戸手前で、休憩も兼ねた早めの昼食にする。国道沿いのドライブインにはいるのだが、あまり食欲はなかった。     一時間という長いランチタイムが終了すると、再び国道六号線を走行する。水戸市内を通過する頃から、私はペースが落ちてきた。特に、水戸を過ぎてからは休憩が多くなってきた。食料品店に立ち寄っては、飲み物を購入する回数も多くなってきた。東海村を過ぎ、日立市内手前からは急に引き返すことを私は考え始めた。自転車に乗る時間よりも、考え事をする時間の方が長くなってきた。何故そんなことを考え始めたかというと、私は尻が痛くなってきたからだった。                            尻は痛くなるし、日は暮れてくるし・・・。日立市内では、テントを張ることも出来ない。時たま、「ビジネスホテル四千円」の看板を見かけると、ビジネスホテルに宿泊することも考えるようになってきた。ビジネスホテルに宿泊して、明日は帰宅するというパターンが濃厚になってきた。唯一の救いは、日立を過ぎてからは海が見えるようになってきたことだった。市街地を走行するより、海を見ながらペダルを踏む方が気分的には楽だった。私は、「このままでは帰れない。」という意地だけでペダルをこいだ。
暗くなってきたので、ライトを点灯させながら走行する。足はペダルをこいでいるのだが、頭の中は違うことを考えていた。そんな時間が過ぎると、日立市内を過ぎていた。勿来(なこそ)にはいると、キャンプ場が海岸沿いにあった。キャンプ場と言うよりは、海の家が多かったと言うべきかも知れないが・・・。
 勿来のキャンプ場に到着すると、私は料金のことが不安になってきたので自転車を置いてキャンプ場の受付で確認をした。料金は千円であることが分かったが、私はその「千円」が出せなかった。キャンプ場にテントを張ることを諦め、私は自転車の所に戻った。
 自転車の所に戻ると、私は二人連れの少年に出会った。非行少年には見えなかったが?私は、二人の少年に
「勿来にテントを張るのかい?料金を調べたら千円と高いので俺はこのキャンプ場は諦めたよ。」
と、尋ねた。少年達は、私の話を聞くと
「キャンプ場が千円とは、高いですね。たぶん、僕たちもこのキャンプ場にテントは張りません。」
と、答えた。私は、少年達の答えに対して、
「じゃ、一緒にその辺の公園にでもテントを張るかい?」
と、笑って尋ねた。少年達は、
「それもいいですね。」
と小さく同調したので、私は一瞬返答に困ってしまった。               テントを張ることを考えたら、とにかくトイレと水場だけは必要だ・・・。突然、私はバイクで北陸を旅しているとき中学校の水場を借りたことを思い出した。近くに学校があることを、私はロードマップで確認することが出来た。あったのは、中学校だった。国道六号線を挟んだ、山側にあるはずだ。私が、                    
「ロードマップで調べてみたら、近くに中学校があったから中学校に行ってみるか?」
と、提案すると、少年二人組は
「賛成、僕たちも一緒に行きます。」
と、同意した。私達は、国道を渡ると高台にあった中学校に向かった。
 辺りはもう真っ暗だったので、中学校には誰もいなかった。建物は、校舎の他にプールがあった。中学校の敷地内に建てられていたが、校舎からかなり離れていたので都合が良かった。不審者と勘違いされても困るから(完全な不審者だが)プールが安全と思い、私達はプールに向かった。
プールの出入り口には、鍵がかかっていた。フェンスを越えて中にはいると、トイレと水道は使うことが出来た。とりあえずテントはプールの外に張って、トイレと水場はなるべく使わないようにした。私は見つかったことを考えて、なるべくプールの中には入らないようにしたいと考えていたのだ。私の考えとは裏腹に、少年達はプールのシャワーを使って体を洗っていた。さらに少年達の行動は大胆になり、プールで泳ぎ始めた。私は慌てて
「おい、ちょっとそれはまずいぞ。」
プールの所に行き、低い声で注意をした。冷静に考えたら私の行為自体少年達とかわらないのだが?何故か私は小さな声で注意をしていた。少年達は泳ぎをやめて、すぐにプールから出た。その夜は、中学校のプール前で一夜を明かした。
私は、朝から少年達と旅を共にした。勿来を過ぎると、国道六号線は海岸から暫く離れた。交通量が多かったが、歩道を自転車で走行することが出来たので問題はあまり無かった。四倉にはいると交通量も減り、再び海が見えてきた。四倉の海岸線は、景色が良かった。ただ残念だったのは、景色に反比例するかのように天候が悪くなってきたことだった。 二人の少年達とは、富岡手前あたりからペースが会わなくなってきた。どちらかというと、二人の少年達より私の方がハイペースだった。理由は簡単なことで、私は一人旅で、少年達は二人旅だということだ。二人旅は、二人で計画を立てなくてはならない。意見が合わなくなれば、相談しなくてはならない。私は、相談することはない。私は北海道に渡るという目的があったが、二人組は「出来たら北海道に渡りたい」ぐらいの軽い気持ちだった。 
途中で私は、二人が千葉の高校生であることを知った。二人について分かっていることは、千葉県市原市から旅を続けている高校生と言うことだけだった。同じ高校かどうかは、分からなかった。ただ、自転車が好きで旅を続けるサイクリストであることは確かだった。
富岡を過ぎると、小雨がぱらついてきた。私達は、雨具を身につけるかどうか迷い始めてきたので、ドライブインに入って早めのランチとなった。私はランチを食べながら
「俺は仕事を持っているので、八月十八日までには帰宅しなくてはならない。君たちの予定は?」
と、高校生に尋ねた。高校生達は
「夏休みなので、夏休みが終わるまでに帰宅できれば問題ないと思いますが、その前に金銭的に問題が出てくるので、最終的にはお金が底をついてきたら帰宅するパターンになります。」
と、答えた。私はさらに
「俺は北海道に渡らなければならないのでこれからは一緒に行動することは考えず、自分のペースで進むから・・・。ただ、ペースが合えばそのまま一緒に行動しても良いけれど、あえて一緒に行動することはしない。いいかな?」
と、提案すると、少年二人組は
「いいですよ。」
と、口を揃えて承諾してくれた。
雨は相変わらず、小雨模様で降ったり止んだりしていた。私は、とりあえず山用のヤッケを身につけた。高校生達は、雨具は身につけなかった。双葉町にはいると、雨は強くなってきた。高校生達は、やっと雨具を取り出して身につけていた。私は、もう暫くこのまま走行するつもりでいた。雨宿りできそうな場所を見つけながら、国道六号線を北上した。
 どこまで一緒に旅をしたかは覚えていないが、高校生達が後から追いつくことはなかった。私は左側に公園があることが分かったので、とりあえず公園に向かった。国道を左折すると、十字路になっていた。陸橋になっていたので、雨が小降りになるまで陸橋のしたで雨宿りをすることにした。高校生達のことが心配だったが、今更国道六号線に戻る気にはなれなかった。雨が小降りになってきたら国道六号線に戻るつもりで居たが、いっこうに雨が小振りになる気配はなかった。                       
私が雨宿りしている陸橋下から、公園が見えた。公園には東屋があったので、私は陸橋下より東屋に移動した方が良いと考えた。小降りになったら国道六号線に戻り北上するつもりで居たが、私は小降りになったら東屋に移動する計画に変更した。三十分ほどで雨が小降りになってきたので、東屋に移動した。いい具合に、東屋の近くにはトイレと水場があった。                                     身につけていたヤッケを取り外すと、水場でコッフェルに水を入れた。東屋でお湯を沸かし、ティーパックを取り出して暖かい紅茶を飲んた。雨は、いっこうに止む気配は無かった。小降りになるどころか、さらに強くなってきた。私が時計を見ると、まだ午後三時過ぎだった。これが午後五過ぎであれば、此処にテントを張ることも考えたが・・・。テントを張るには、早すぎた。場合によっては、テントを張らずに東屋の下で野宿するのも一つの選択肢かなと思ったりもした。一時間ほど東屋にいるが、車の往来もほとんど無く、人と出会うこともなかった。私は飽きてきたので、ラジオを取り出してラジオを聞いていた。
午後五時を過ぎても人と出会うことがなかったので、テントを張った。東屋下にテントを張ることも考えたが、テントが東屋下に入らないおそれがあったのでそれは諦めた。東屋下にベンチがあるので、テントが全部はいらなかったことが分かった。ただ、テントの半分が入ったので、テントの半分だけ東屋下に入れた。そうすることにより、夕食の準備などは東屋下で出来た。自転車も、東屋下に立てかけておくことが出来たので濡れずに済んだ。
荷物の整理をすると、暫くテントの中で休んでいた。太陽が沈むのは午後六時過ぎぐらいだったが、雨が降っているので午後六時を過ぎると辺りは暗くなってきた。真っ暗になると夕食の準備が大変なので、すぐに夕食の準備をした。夕食の準備と言っても、此処にテントを張ることを予定していなかったのでラーメンを作った。私は長年の経験から、常に緊急事態が発生しても食事の準備だけは出来るように、ラーメンと登山用のジフィーズを持参していた。
ラーメンを食べ終えると、再びシュラフに入った。午後九時過ぎに、車のヘッドライトの明かりで目が覚めてしまった。目が覚めたと言うより、危険を感じてシュラフから出てしまったのだ。たまたま時計を見たら、午後九時だっただけだが・・・。車はテントに気がついたのか、ほんの数分で移動してしまった。それからというもの、目がさえてしまい寝付かれないので、再びラジオのスイッチをオンにした。私は再びラジオを聞きながら、深い眠りについていた。
早朝、太陽の光で目が覚めた。国道六号線を走行する車の音や振動も気になっていたが、一番気になったのは太陽の光だった。テントから出ると、外は晴れていた。時計を見ると、午前六時前だった。食べるものは緊急用のジフィーズだけだったので、温かい紅茶を沸かして飲んだ後に、テントを撤収して国道六号線に出ることにした。お湯を沸かしていると、ツナ缶が一つあることを思い出した。ジフィーズだけだと食欲がわかないが、ツナ缶と混ぜて雑炊にすればうまいかも知れないと考え、私は急きょ雑炊を作った。雑炊は、思ったよりもうまかった。朝食をとったので、テントの中で食後の休憩をとった。そうすることによって、テントを乾かすことも出来た。出発は、午前六時半だった。国道六号線に出ると、私は再び北上した。                              私が再び国道六号線を北上した頃、国道六号線の車の流れは少なかった。浪江町、小高町と順調に北上した。相馬市にはいると、交通量が若干増えた気がした。山元町にはいると、再び交通量が減り、走りやすくなった。                     私は亘理町で昼食をとると、再び国道を北上した。岩沼市からは、国道四号線と合流し北上を続けた。交通量は、極端に増えた。仙台市内まで、交通量は多かった。さらに問題になったのは、国道四号線を北上するか、国道四十五号線を海岸に沿って北上するかの選択だった。このまま国道四号線を北上することは最初の考えに反することなので、私は海岸線に沿って国道四十五号線を北上することを選択した。
塩釜港にはいると、遊覧船が出ていることに気がついた。松島湾を遊覧して、松島に渡ることも出来た。私は疲れてきたので、出来たら遊覧船に自転車を乗せることが出来ないかと考えた。塩釜港の受けつけに向かうと
「すいません。遊覧船に自転車を乗せることは出来ますか?」
と、尋ねた。受けつけの人は
「大丈夫ですよ。」
と、答えた。私は自転車を遊覧船に乗せ、その後松島から北上を続けた。三陸海岸はオートバイで走行するとコーナーが続き快適だったが、自転車ではアップダウンが多く疲れた。
私はとうとう三陸沿岸でバテてしまい、釜石に住む友人に迎えに来てもらい友人宅に一泊した。最終的には三陸沿岸を北上することを断念し、友人に盛岡まで送ってもらい今度は国道四号線を北上した苦い経験があった。

○その一「小高にコンビニ移動車」
■二〇一二年八月一〇日(金)◆福島県南相馬市小高
 仙台から、海岸線を南下できるところまで南下したいと考えながら走行する。県道十号線から県道三十八号線を走行すると新地方面は通行止めになっていたので、国道六号線を走行する。「相馬港」の案内板があったので、標識に従って左折して相馬港を訪れる。相馬港周辺の瓦礫の撤去は終了していたが、まだ解体されずに残る建物も見えた。また、解体されても基礎は撤去されずに残っていた。                     県道からそれて海岸に沿って走行すると、左側の原釜尾浜海岸には公衆トイレと監視台が津波で流されずに残っていた。監視台の時計は動いていないのか、午後六時半を示したままだった。そのまま海岸に沿って走行したが、「松川浦大橋」は通行止めになっていた。
原釜市内にはいると道路は津波で被災し、アスファルトが流されている箇所もあった。  再び国道六号線を走行し、磯部から県道七十四号線を南下する。左側に見えた「石田浜オートキャンプ場」は、瓦礫置き場になっていた。さらに南下をつづけると、「災害対策基本法により立入禁止」の立て看板が県道を封鎖していた。私は県道七十四号線を右折すると、再び国道六号線を走行した。                         南相馬市から国道六号線を南下していると、私は小高地区に入った。大井交差点を左折すると私は海岸に向かって走行した。建物は残ってはいるが、室内は瓦礫だらけだった。田畑には、津波で流された車が放置されたままになっていた。海岸に沿って走行したかったが、通行止めになっていた。再び国道六号線に戻ると、私は左折をした。国道六号線に沿って走行すると、右側に「ファミマ小高店移動販売車、本日の営業時間十四時まで」の看板と移動販売車を私は発見した。ファミマの敷地にコンビニの建物はあるのだが、移動販売車が営業をしていた。                             南相馬市内のコンビニは通常営業をしていたが、「小高地区」は違っていた。浪江町から富岡方面は通行規制があり入れないが、小高地区は大丈夫だった。昼間の活動は許可されているが、夜の活動が許可されていない地域なので「移動販売車」なのかもしれないと私は思った?
 再び国道六号線を走行して小高に戻ると、私は国道六号線を左折して市街地を訪れた。左側に建っていたローソン小高店を訪れると、「地震のため営業を終了しました」の張り紙が張られていた。更に進むと、右側に小学校が見えた。敷地周りのフェンスの所は、草で覆われていた。更に校舎の窓ガラスにはカーテンが引かれて、校舎内が見えなかった。市内を走行して分かったことは、人の気配がまったく無く、ところどころで見回りをしているパトカーと出会うぐらいだった。再び国道六号線に出ると、私は浪江町方面は通行できないとわかっていたので再び南相馬市に戻った。
帰路を飯舘村にすると、私は国道六号線を左折して県道十二号線を走行して飯館村へと向かった。県道十二号線は、思った以上に交通量が多かった。飯館村内を走行すると、除染作業と除染廃棄物が目に付いた。更に、田畑には黒い袋にまとめられた除染廃棄物が置かれて、ブルーシートで覆われていた。
○その二「失われた街」
■二〇一二年九月月五日(水)◆東京都
 東京で「失われた街」という作品展があるので、私は愛車アフリカツインで見に行った。バイクで向かったのは、駐車場の問題があると思ったからですが・・・?
驚いたのは、その作品(被災地の町並みを再現した模型)でした。真っ白な模型が並べてあったのです。大学生が製作したと言っていましたが・・・。「白一色」というのは、ちょっと不気味な感じがしました。被災地が、まるでSFの世界のような気がしました。
「白い街並み」は、人の気配のない「帰還困難区域」の街並みのようにも思えました。
☆その後模型は色づけされ、各被災地に展示されました。ふと思ったのは、「震災後の福 島の街並みは、白い街並み?」「震災前の福島の街並みは色づけされた街並み?」

○その三「計画的避難区域」
■二〇一二年十一月十日(土)◆福島県飯舘村
十一月八日から三陸沿岸を訪れていた私はいったん宮古から東北道に出ると、パーキングで車中泊をした。福島県内を訪れることがなかったので、早朝の国見ICを降りると国道三九九号線を走行していわき市方面へと向かった。
 迂回路の標識に従って走行していたら、飯舘村立飯樋小学校にでた。人の気配が無く、校庭には雑草が生えていた。校舎は、モダンな作りでとても綺麗だった。時計を見ると、午前九時過ぎだった。私の腕時計で時間を確認したらあっていたので動いていることは確かだった。小学校向かいのそば屋に張り紙があった。近づいて読んでみると、「計画的避難のため本日(六月二十一日)をもって休業いたします。長い間ご利用いただきまして、誠にありがとうございました。原発収束後、開店したいと思います。」と書かれていた。
更に迂回路に従って走行すると、通行止めの看板が国道沿いに立てられていた。赤文字で大きく「長泥方面通行止め」と書かれ、その左には手書きで「国道三九九号線を南下するチャリダーへ七月一日より二キロメートル先通行止め、ここより右折し山木屋方面国道一一四号線へ」と書かれていた。
国道六号線が一部通行できないため、「いわき」と「南相馬」の流れが悪い。迂回路に従って走行すると、川内村に出た。川内村では、除染作業が行われていた。一時間ほど走行すると、やっと「四倉」にたどり着いた。道の駅「よつくら」にトイレ休憩に立ち寄ると、施設内には多くの応援メッセージが書かれていた。また、海沿いには津波で打ち上げられた漁船が積み上げられていた。極端に書くと、瓦礫となった漁船が積み重ねられていた。自分でもどこをどう走行したか分からないが、「国道三九九号線」を走行したことだけは分かった。
時間に余裕があったので、国道六号線を北上する。波立海岸沿いの家は解体されたのか、更地になって基礎だけが取り残されていた。暫く走行すると、左側に道の駅「ならは」があったので、トイレ休憩に立ち寄る。驚いたことに、道の駅は「双葉警察署臨時庁舎」になっていた。トイレ休憩は出来るが、本来の道の駅の機能はなくなっていた。この先は通行止めと分かっていたので、常磐線の木戸駅舎を訪れる。駅舎周辺は草が伸び放題で線路が見えず、周辺の被災した建物や車はそのまま放置されていた。
再び国道六号線を南下して、四倉方面へと走行する。四倉から国道を外れて暫く海岸線を走行していると、被災した「豊間の街並み」が見えた。ほとんどの建物が流されていたが、基礎だけは綺麗に残されていた。更に進むと、寺の近くの壁がカラフルに色づけされていた。震災前から色づけされていたのか震災後に色づけしたのかは分からないが、何故か気持ちが明るくなった。(不謹慎かも知れませんが?)鉄筋コンクリートの建物だけが一棟残っていたので、私は近づいた。建物に近づいて見たら、豊間中学校だった。校舎には、「第四十回東北中学校バレーボール大会出場豊間中学校男子バレーボール部」と書かれた垂れ幕が下がっていた。校舎一階部分はベニヤ板で覆われ、敷地内は瓦礫置き場になっていた。
☆今回の迂回路の経験から、この「国道三九九号線」と「県道十二号線」を走行して、私 は福島県内の様子も記録することが多くなりました。

○その四「楢葉南小学校に除染作業車」
■二〇一三年二月九日(土)◆福島県楢葉町
大洗港周辺の撮影を行うと、私は国道六号線を北上した。四倉を過ぎると、波立海岸周辺は被災していた。国道左側の建物は被災し、すでに建物が解体されて更地になっている場所も見られた。右側には、津波で砕かれた防潮堤が多く見られた。
楢葉町を訪れると、楢葉南小学校は除染作業車の駐車場になっていた。また、向かいに建つ幼稚園には除染廃棄物が積まれていた。町内の敷地内にも、黒い袋の除染廃棄物が積まれていた。
再び四倉に戻ると国道三九九号線を走行して飯舘村に向かおうとしたが、国道が除雪されていないので通行止めになっていた。私は諦めて、国道三四九号線を走行した。途中温泉にはいるために玉川温泉を訪れたが、三件の宿は何処も閉まっていた。

○その五「小高中学校は?(一)」
■二〇一三年二月十日(日)◆福島県南相馬市小高
飯舘村を訪れると、県道十二号線沿いに建つ公民館駐車場に県外からの応援のパトカーが止まっていた。そのまま県道十二号線を走行し、南相馬市から小高へと向かった。昼間の立ち入りが許可されている小高は、まだ人影が少なかった。うろうろしていると、不審者に勘違いされかねない。そんな心配をしながら、私は小高中学校へと向かった。市内の信号機は、すべて点滅だった。
小高中の正門は開いていたが、誰もいなかった。中にはいると、捕まる心配がありそうな気配(誰もいないので中に入りずらい。)だった。車は外に止め、正門から敷地内に入った。
雪がうっすらと積もった敷地内には、枯れ草が生えていた。冬なので、雑草が生い茂るような光景ではなかった。敷地内から見える田畑は、荒れていた。そして、人家には誰もいなかった。女子バレーボール東北大会三連覇を成し遂げた面影は、なかった。私は、小高中との練習試合が思い出された。いったい女子バレーボール部は、どうなっているのだろうか?   
再び国道六号線に戻ると、私は南相馬市立福浦小学校を訪れた。門が閉まっていて、校庭が荒れていた。再び国道六号線を北上すると、ファミマ小高店に移動販売車はなかった。また、国道沿いの水田に流された車は放置されたままだった。国道六号線を北上して南相馬市に戻ると、私は国道を右折して県道七十四号線を北上した。
磯部から松川浦湾に沿って、私は相馬港へ向かった。前回と同じように、相馬港周辺は瓦礫が撤去されていたが被災した建物がまだ残ったままだった。今回、初めて県道三十八号線を走行して新地に入る。防潮堤が流されて、道路をふさいでいる場所もあった。被災した交差点に日の丸が掲げられ、風になびいていた。日の丸には、寄せ書きがしてあった。そのまま県道三十八号線を走行していたら、県道が津波で途切れていた。

○その六「津波の恐怖」
■二〇一三年四月十四日(日)◆福島県いわき市四倉
大洗港から海岸線を走行し、阿字ヶ浦町立磯崎小学校を訪れる。新しく建てられた校舎を撮影すると、私は北茨城市を訪れた。被災地である茨城県は、北茨城市周辺にまだ津波の爪痕が残っていた。私は北茨城市の撮影が終えると、四倉から広野を訪れた。広野町楢葉町とも、除染作業が行われていた。それに伴って、除染廃棄物が町内の各地に積み上げられていた。また、楢葉中学校では敷地内に新しい建物を造っていた。(新しい楢葉中学校?)
再び道の駅「よつくら」に戻ると、車中泊をした。何故か地元ナンバーの車が多く、県外ナンバーは私だけだった。問題はここからだった。時間は忘れてしまったが、地震が起きたのだ。かなりの大きな揺れで、私はとっさに津波のことを思い出してしまった。車外に出るか迷ったが、避難する高台がなかったので揺れが収まるのを待った。揺れはすぐに収まったが、「津波の恐怖」はなかなか抜けなかった。

○その七「葛尾村立葛尾小学校に鯉のぼり」
■二〇一三年四月十五日(月)◆福島県葛尾村
国道三九九号線を走行し、川内村へと向かう。この国道三九九号線は走行したことがあるが、相変わらず規制が多かった。川内村は迷わずに訪れることが出来たが、まだ除染作業を行っているとは思ってもいなかった?川内村を抜け、国道を更に飯舘村へと向かって走行すると、左側に葛尾村立葛尾小学校が見えた。国道から、校舎と橋が見えた。    私は車を路肩に止めると、カメラを片手に橋を渡り葛尾小学校へと向かった。橋には、鯉のぼりが下げられていた。橋を渡って敷地内に入ろうとしたが、誰もいないようなので不審者と勘違いされるおそれがあったので敷地内には入らなかった。取りあえず、鯉のぼりと校舎を撮影して車に戻った。再び国道三九九号線を走行するが、途中で通行止めとなっていたので諦めて国道一一四号線を走行して川俣町に抜けた。国道一一四号線も、除染廃棄物が国道沿いに積み上げられていた。
川俣町から県道十二号線を走行して、飯舘村を訪れる。途中、左側に仮設小学校を見ることが出来た。車を止めて撮影したかったが、県道十二号線は交通量が多く路肩に車を止めるのは不可能だったので諦める。この県道は、道幅を広げる工事が進められていた。
除染作業の行われている飯舘村を訪れ、南相馬市へと向かう。国道六号線に出ると、私は更に小高へと向かった。今回は、更に浪江町を訪れることが出来た。訪れたと言っても、国道六号線沿いだけだったが・・・。
再び南相馬市に戻るとそのまま国道を走行し、相馬へと向かう。国道沿いから右側に学校が見えたので訪れる。相馬市立真野小学校の校庭には、砂がまかれていた。今回は、道の駅「そうま」に車中泊する。何故か、浮浪者が多かった。

○その八「風の碑」
■二〇一三年四月十六日(火)◆福島県新地
早朝の相馬市立中村第二中学校の桜を撮影すると、私は松川浦湾から新地へと向かった。
前回訪れた時にあった十字路の日の丸は、ぼろぼろになっていた。日の丸に書いてあった文字も読めなくなっていた。下の看板には、「詩」が書いてあった。文字が薄くて、はっきりと読むことができない所もあったが?題名は、「風の碑」と読めた?私はこの詩が気に入り、カメラに納めた。
その後新地の嵩上げ工事が行われ、県道三十八号線を走行して新地を訪れることが出来なくなってしまった。新しい新地駅が完成する頃訪れることが出来たが、「風の碑」は無くなっていた。今でも新地を訪れると、私はこの「風の碑」を探すことがある?
 「風の碑」
 天の風となった人達よ
 風車を回して
 便りを下さい
 颯と吹く風になって
 高く高く遠い遠い
 となって
 遠くから吹きわたる
 声をきかせてください
 風の鳥となった人達よ
 風車を回して
 便りを下さい
 春の風光るときも
 さわやかな風薫る
 若葉のときも
 遠くから吹きわたる
 声をきかせて下さい

○その九「ファミレスで」
■二〇一三年四月二十四日(水)◆福島県内のファミレスで
午前六時を過ぎているので、ファミレスでモーニングをとることを考えながら走行、ナビ設定でファミレスがあったので、ファミレスに向かう。ナビに従って走行すると、ファミレスにすぐ到着してしまった。モーニングもやっていた。
すぐに注文をすると、メモ帳を取り出しながら、今回のルート及びその他の確認を行った(四月十三日から三陸沿岸を訪れていた。)。テーブルの上に「復興支援地図」が広がっていた。それを見たウェィトレスが
「震災関係を調べているんですか?」
と、話しかけてきた。早朝と言うこともあり、私以外に客いなかったが、突然の質問に私は戸惑ってしまったが、震災の記録を撮っていることだけは詳しく話した。私の話を聞き、ウェィトレスは立ちながら
「実は、私は原発事故でこちらに避難しているんです。生活費のこともあるので、ここでアルバイトをしているんですが・・・。」
と、様々なことを話し始めた。立ち話だったので、長話は出来なかったが・・・。それに、勤務中?
彼女の一番言いたかったことは、短く書くと「震災復興は徐々にではあるが進んでいるが、原発事故については先が全く見えないので不安だ。」
☆彼女の不安は、「原発事故被害者だけの不安」だけでなく、「日本全体の不安」ではな いだろうか・・・。

○その十「結いの心」
■二〇一三年五月十五日(水)◆福島県南相馬市萱浜地区
川俣町から片側通行が多くなった県道十二号線を走行して、私は南相馬市を訪れた。今回は、南相馬市萱浜地区を訪れた。国道六号線を右折して走行していると、右側に石碑が見えた。石碑は二つあり、片方の石碑には「結いの心」と書かれていた。読んでみると
●結いの心
当地では、過去より人生に失望し自らの命を絶つとい
う不幸な出来事が幾度となくありました
今、大地震、大津波で、築き上げて来たもの、大切なひ
とを失い途方に暮れている方々が大勢居られます
今こそ苦しかったころ、貧しかったころ大切にしてた
結いの心を大切にし
これ以上悲しみに暮れるひとが出ないようにしましょう
平成二十五年二月十一日
        萱浜地区結いの心保存会
石碑を後に再び走行すると、左側に被災した民家が見えた。民家の前の菜の花を見ながら更に進むと、菜の花畑が辺り一面に広がっていた。基礎が残されている場所もあったので、建物が建てられていたことだけは分かった。所々に赤いポピーの花も見られた。菜の花畑をよく見ると、中央では鯉のぼりが元気に泳いでいた。その後、毎年五月にこの萱浜を訪れると、「菜の花畑」が広がっていた。また、元気な鯉のぼりが菜の花畑に泳ぐ姿を見ることもあった。
再び国道六号線に出ると、私は小高へと向かった。小高の交差点にさしかかると、左側に元気に風を受けて泳ぐ鯉のぼりが見られた。私は交差点を左折すると、鯉のぼりに近づき撮影をした。鯉のぼりの所にはプレハブの建物が建てられており、「あすなろ交流館」と書かれた看板が下げられていた。残念だったのは、近くに黒い除染廃棄物が積み上げられていたことだった。除染廃棄物を目の前にして、会話は弾まないと私は思った。    私はこの先が通行できないと分かっているので、この交差点を右折すると再び南相馬市へともどった。小高の田畑には、津波で流された瓦礫や車がまだ放置されたままだった。
☆数ある慰霊碑の中で、「結いの心」の文章が強く印象に残っています。

○その十一「怒り」
■二〇一三年六月十七日(月)◆福島県南相馬市小高
車中泊した道の駅「みなみそうま」で私が歯磨きをしていたら、駐車場でバスに乗り込む生徒(児童)を見かけた。私は慌てて車からカメラを取り出すと、望遠レンズでバスに乗り込む姿を何枚か撮影した。撮影をしていたら、仮設住宅が見えた。私はこのとき、初めて道の駅の近くに仮設住宅があったことを知った。
道の駅から、いつものように小高へと向かう。途中、何度か撮影している小高地区で撮影を行っていると、
「てめぇー、見せもんじゃねえんだ!」
と、突然大声で怒鳴られてしまった。私は、すぐに身の危険を感じたが、逃げるとまずいと思い。
「すいません。私はマスコミ関係でもなければ、不審者でもありません。ただ、被災地の記録を撮っている者で、何度かこの地域も撮っていたので・・・・。」
と、丁寧に謝罪しながら対応し、相手のいる前でカメラのデータを見せ、撮影したデータを消去し、更にまた謝罪した。相手も落ち着き、どうにかその場は収まった。
今まで撮影したときには誰もいなかったが、この日は奥で作業していた人が私に気づき、怒りを私にぶつけたのだろう。今回の件もそうだが、被災地のマスコミに対する感情はあまり良くないし、私自身、そのような場面を何度か見ている。

○その十二「集慈祈りのモニュメント」
■二〇一三年六月十七日(月)◆福島県南相馬市萱浜
小高から国道六号線を走行して、南相馬市に戻る。途中で国道を右折して、前回訪れた萱浜を訪れると、菜の花が終わりポピーの花だけが咲いていた。今回は更に海岸線へと向かった。海沿いの県道二六〇線に出ると、私は海岸に沿って右折した。右折すると、すぐ右側に黄色い立て看板が見えた。黄色い板に、黒の文字で「P集慈祈りのモニュメント」と書かれていた。
道幅が狭かったのでハイエースではいることを躊躇してしまったが、歩くのが面倒なので突き進む(特注の四輪駆動車だから大丈夫だろうという気持ちもあった)。いったん狭い道を下って左折すると、高台に出た。基礎が残っているので、一軒家の敷地内と考えられるが・・・。車を止めて外に出ると、海が見えた。その海と一緒に石碑も見えた。石碑の向こうには、海沿いで作業をするクレーン車を何台も見ることが出来た。石碑には、文字が刻まれていた。また、石碑の後ろには「こけしのような石像」が五体立てられていた。
●集慈祈りのモニュメント
東日本大震災による大津波、及び原発事故により失われし、尊きすべての命に捧ぐ
「慈しみの心 
ここに
集う」
☆ここに、人家があったのだろう。花壇らしき跡と草花、そして建物の基礎が残っていた。 高台であったが、津波の被害を受けた。それを後世に残したく、ここにモニュメントを 作成した?
奥にある場所なのでこのモニュメントに気づく人は少ないと思うが、私はたびたび訪れ るようになった。残念なことに、嵩上げ工事が始まるとこのモニュメントは無くなって しまった。移設されているのかも知れないが、今はどこにあるか私は知らない?ただ分 かっているのは、私はこの場所を撮影し続けてきたことだけは事実だ。中でも、雪景色 の中に、ぼろぼろになった赤い鯉のぼりが写っていたのが心に残っている。

○その十三「相馬野馬追」
■二〇一三年七月二十七日(土)~二十九日(月)◆福島県南相馬市
私は、七月二十三日から福島を訪れていた。「道の駅「みなみそうま」で、私は「相馬野馬追」を知り、是非撮影したいと思った。二十七日からの日程だったので、それに合わせて私は石巻から戻ってきた。「相馬野馬追」は知ってはいたが、見たことはなかった。震災の年も規模を縮小しながら行われたと言うことだった。今回も、規模を縮小しての開催だと言うことも初めて知った。道の駅に早めに車を止め、「相馬野馬追」が終わるまでは車を移動させなかった。移動させると、再駐車できなくなってしまうおそれがあったからだった。
思っていた以上に混んでいた。朝車から出ると、すでに駐車場はいっぱいだった。道の駅で情報を収集し、すべて徒歩で移動した。いつもなら自転車を持ってくるのだが、今回は途中で知ったので自転車の用意はしていなかった。
私はテレビで見たことがある「神旗争奪戦」を見たかったので、道の駅でチケットをあらかじめ購入しておいた。チケットは手に入らないと思っていたが、購入することが出来た。「神旗争奪戦」は思った以上の迫力があり、面白かった。
最終日は、小高神社に移動した。私は、小高神社を始めて訪れた。最後の「野馬懸」が午前中で終わると、私は思わず元小高中女子バレーボール部監督に電話をしてしまった。
受話器の向こうから懐かしい声が聞こえてくると、こみ上げてくる物があった。

○その十四「川内村にファミマオープン」
■二〇一三年九月二十八日(土)◆福島県川内村
嵩上げ工事が行われている道の駅「よつくら」を撮影すると、私は富岡町へと向かった。波立海岸では、国道の右側で防波堤を作るためにクレーン車が作業を行っていた。いつもなら道の駅「ならは」でトイレ休憩をして戻ってくるのだが、今回は富岡を訪れてみたいと思い更に進んだ。                             
楢葉町は除染作業が進んでいるのか、クレーン車で黒い除染廃棄物を積み重ねる光景が多く見られた。正直、こんなに除染廃棄物が増えているとは思ってもいなかった。撮影していると、蕎麦畑の周りに除染廃棄物が並べられている光景に遭遇した。白く蕎麦の花が咲き、その脇には除染廃棄物が並べられていたのだ。あまり気持ちの良い光景では、なかった。
撮影をしていると、小さな看板に「環境省、上小塙大師作仮置き場」と書かれた文字を発見した。看板の向こうには常磐道が見え、その麓には黒い除染廃棄物が高く積まれていた。仮置き場と書かれていたが、中途半端な広さではなかった。
 富岡町にはいると国道を右折して富岡駅を訪れるつもりでいたが、入ることが出来なかった。双葉署を通過して、私は富岡町役場前で戻った。戻るときに国道をゆっくり走行して左折するつもりだったが、左折できずに交差点を通過してしまった。
再び四倉に戻ると、国道三九九号線を走行して、川内村を訪れた。「かわうちの湯」を訪れると、近くにファミマがオープンしていた。私はトイレ休憩も兼ねて、店内に入った。
トイレに入り飲み物とカレーパンを購入すると、店を出た。車の中でカレーパンを食べながら、改めてコンビニの便利さを私は知った。
飯舘村に出ると、私は南相馬市へと向かった。飯舘村の除染廃棄物は、ブルーシートで覆われていた。作業の様子を見ていると、黒い袋につめられた除染廃棄物をクレーンで吊しながら一つ一つ丁寧に積み重ねていた。それが終了した場所から、ブルーシートで覆っていた。
南相馬市に到着すると、時間に余裕があったので萱浜へと向かった。私は、前回訪れたモニュメントを再び訪れた。訪れると、小さな鯉のぼりが立てられていた。撮影が終了すると、車中泊する道の駅へと向かった。

○その十五「ひまわりとおばあさん」
■二〇一三年十月二十九日(火)◆福島県南相馬市
ニュースで「飯舘村仮設住宅に仮設郵便局本日開設」と流れていたので、仮設郵便局を訪れる。仮設住宅と仮設郵便局を撮影すると、私は南相馬市へと向かった。川俣町へ向かう県道沿い右側で、私は「飯舘中」と書かれた建物を見つけた。路肩に車を止めると、高台に建つ仮設飯舘中学校を撮影することが出来た。                  撮影が終わると、私は県道十二号線を走行して南相馬市を訪れることが出来た。更に、私は国道六号線に出ると相馬市へと向かった。国道六号線に出ると、すぐ左側にヒマワリ畑が見えた。私は車を路肩に止めるか迷ったが、国道沿いに車を止めることは難しくヒマワリ畑をいったん通り越した。
左側にコンビニがあったので、私はいったんトイレ休憩を取った。南相馬市は放射能汚染の心配があるためまだ作物を作れない場所があるので、農作物の変わりに「ひまわり」を栽培したのだろうと私は考えた。この時期のヒマワリと言うこともあり背丈はかなり低いが、元気なヒマワリが田畑の中に咲いている光景を見ることができた。
コンビニの駐車場で再びヒマワリ畑に戻るか悩んでいたが、予定のない私はヒマワリ畑の撮影に戻ることを選択した。問題は車を止める場所だったが、あぜ道に車を止めることが出来ると判断するとコンビニの駐車場を出た。思った通り、反対側の田畑にあるあぜ道に車を止めることが出来た。                            カメラを片手にヒマワリ畑の撮影をしていると、田園の中からおばあさんが現れた。あぜ道を歩きながら、こちらに近づいてくる。私が挨拶をしようと考えていたら
「こんにちは、きれいだわー、本当にヒマワリの花がきれい・・・、天気も良し・・・。」
と、逆に挨拶されてしまった。
☆なぜか私の心に残っている「ひまわりの花」と「おばあさん」。たぶん、これはこの場 面に遭遇した人でないとわからないかも・・・?

○その十六「国道六号線は、物流の生命線」
■二〇一三年十二月二十五日(水)◆福島県いわき市四倉
嵩上げの終了した道の駅「よつくら」を撮影すると、富岡へと向かう。国道六号線沿いは、除染廃棄物が積み上げられている場所が拡大していた。また、高く積み上げられた除染廃棄物は、全て厚みのあるグリーンのシートで覆われていた。富岡から再び四倉に戻ると、国道三九九号線を走行して飯舘村へと向かう。四倉は雪道ではなかったが、山間部である国道三九九号線は雪道のおそれがある。タイヤはスタッドレスだが、途中で通行止めのおそれがあるので、私は急きょ磐越道を走行することにした。改めて、「国道六号線は生命線」と実感する。同時に私は、ある宅配便が「警察車両と同じように国道六号線を走行することを許可してほしい。」と政府に要望したことを思い出した。国道六号線が走行できないため、時間と輸送費が会社の負担になっているのだ。宅配業者に限らず、物流に関係する業者はかなり経営を圧迫されていると私は実感した。磐越道にはいると、パーキングで車中泊をする。
翌日、川俣町から県道十二号線を走行して、私は飯舘村を訪れた。飯舘村は、除染廃棄物を相変わらずクレーンで積み上げていた。今まで村内に置かれていた黒い廃棄物を、一箇所にまとめていた。ブルーシートには昨夜雪が降ったのか、白い雪が降り積もっていた。また、その積み上げられた場所が徐々に多くなっていた。いったいどれぐらいの量が積み上げられるのか、私には見当がつかなかった。
国道六号線に出ると、小高に向かう。相変わらず、国道沿いの田畑には流された車が放置されたままだった。南相馬市に戻ると県道七十四号線を走行して、相馬港へと向かった。
県道を外れたところで、観音像と慰霊碑を発見する。
●八沢地区慰霊碑
平成二十三年三月十一日 午後二時四十六分、千年に一度とい言われる巨大地震「東 日本大震災」が発生しました。この地震による津波は、東北地方を中心に関東沿岸の広 い範囲に甚大な被害を及ぼしました。
ここ南相馬市沿岸においても、十五メートルを超す大津波に見舞われ、特に沿岸から 二キロメートルの地内は壊滅的な被害を受け多くの尊い命と家屋が奪われる大災害とな りました。犠牲となられた方々のご冥福とこの八沢地区の復興を切に願い、慈愛の心で 衆生を救済するという聖観世音菩薩像を八沢まちづくり委員会に寄贈いたします。
平成二十五年三月

○その十七「鹿嶋の一本松」
■二〇一四年一月二十二日(水)◆福島県相馬市鹿島
東北道を走行し、川俣町から飯舘村を訪れる。県道十二号線も、川俣町から飯舘村に向かう上りは道幅が広げられ良くなっていた。飯舘村内には、黄色い旗に黒の文字で除染中と書かれた幟が立てられていた。
南相馬市に出ると、私は左折して相馬へと向かった。国道六号線を走行していると、国道沿いに「鹿島の一本松」の立て看板が立てられていた。私は看板に従って、右折の合図を出して国道を右折した。道路沿いに立てられた看板に従って走行していくと、海沿いに一本の松の木が見えた。近くに車を止めて近づくと、白い看板に文字が書かれていた。
●鹿島の一本松
平成二十三年三月十一日の大津波に
耐えた松がある。
大地に根っこを張り巡らし、
生き抜こうとしている。
この松を地域のシンボルとしたい。
      一本松を守る会
☆この一本松を発見してからは、相馬を訪れたときには立ち寄るようになった。ただ、陸 前高田の「奇跡の一本松」のような大きな松の木ではなかった。
 再び国道六号線に向かうと、鹿島球場近くに慰霊碑が建てられていた。
●東日本大震災慰霊の碑 (鹿嶋)
二〇一一年「平成二三年」三月十一日午後二時四六分宮城県沖を震源とする震度六弱、 マグニチュード九・〇の大地震が発生しこの四十分後、海岸で二十メートルにもなる大 津波が発生して南右田部落七十戸の家屋は全て流失し逃げ遅れて尊い命を奪われた方々 は五四名にもなりました。
この惨状を悼みつつ後世に語り伝える
二〇一三年「二五年」六月建立

○その十八「雪の中に仮設小学校」
■二〇一四年二月十日(月)◆福島県川俣町
雪景色の中に設置された仮設郵便局の撮影が終わると、私は南相馬市に向かった。国道六号線が通行止めのため、県道十二号線は相変わらず交通量が多かった。私は、その県道十二号線を走行しながら南相馬市に向かった。
左側に仮設小学校があり、雪の積もった校庭で子ども達が元気に雪合戦をやっていた。それを見ながら「元気がいいなあ・・・。」とつぶやきながら通過したのだが、何を思ったか、私はブレーキを踏んでいた。たまたまUターンできそうな場所があったので、ブレーキを踏んだのだが・・・。 
しばらく考え込んでUターンをすると、私は先ほどの小学校に車を乗り入れた。敷地の中には、駐車場があった。私は前々からこの仮設の小学校を訪れたいと考えていたが、駐車する場所がないので諦めていたのに・・・。車を止めると、私はプレハブ校舎に向かった。職員らしき人がいたので、私は
「すいません。雪景色の校舎を撮影させてもらえませんか?」
と言いながら、名刺を差し出して被災地の撮影を行っていることを説明しながら尋ねた。
職員は困った顔をしながら
「即答できませんので、少々お待ち頂けませんか?」
と、答えた。私はすぐに
「私も教員をやっていたことがありますので、児童の顔が分からないように広角レンズで校舎をメインに撮影しますので・・・。」
と更に尋ねると、
「そうですか、分かりました。今休み時間が終わったので、校舎外からの撮影は自由ですので撮って下さい。」
と、許可をしてくれた。校庭が広くなかったので、雪景色の校舎の撮影はすぐに終了した。 私は、この時始めてこのプレハブ校舎が飯舘村内の統合された小学校であることを知った。この小さなプレハブ校舎に、村内の三つの小学校が入っているのだ。一校だと思っていた私は、改めて村内の児童数が減っていることを知った。
☆五月に再び訪れ、お礼に雪景色の写真を大きく引き伸ばしてプレゼントした。

その十九「相馬港に碑文」
■二〇一四年三月十八日(火)◆福島県相馬市
新地から相馬港を訪れると、慰霊碑が建てられていた。慰霊碑は建てられているのだが、周辺の整備が終わらず作業が行われていた。命日である三月十一日に合わせて慰霊碑だけが建てられたという感じだった。命日後に訪れたので、献花は多かった。私は作業が行われていたので、作業のじゃまにならない場所から撮影を行った。
● 碑 文
平成二十三年三月十一日午後二時四十六分。マグニチュード九・〇の地震が発生した。
震源は宮城県牡鹿半島から東に約百三十キロメートル、震源域は岩手県沖から茨城県 沖までの南北約四百八十キロメートル、東西約百五十キロメートルにも及ぶ広大なもの で、最大震度は七、相馬市では震度六弱の超巨大地震であった。
約一時間後、高さ九メートルを超す真っ黒な大津波が容赦なく集落を破壊し、家々を 呑み込みながら海岸から約四㎞先まで流れ込んだ。
この地は、古くは万葉集にも読まれた風光明媚な松川浦、江戸時代には東回り航路で 名が知れた原釜湊、また近年は外国船も入港する重要港湾相馬港、沿岸漁業基地である 松川浦漁港、海水浴・潮干狩り・魚介類の直売・いちご狩りなどに多くの観光客が訪れ、 本市の産業を牽引してきた地区である。しかし大津波により、一瞬にして原釜・尾浜地 区などの人々二百七名をはじめとする市民四百五十八名の尊い命が失われた。
ここに、この地で犠牲となられた方々のご冥福を哀心より祈念すると共に「東日本大 震災」を後世に語り伝えるために、ご芳名を刻み、この碑を建立する。
            平成二十六年三月十一日

○その二十「南相馬市立真野小学校閉校記念碑」
■二〇一四年三月十八日(火)◆福島県南相馬市
相馬から国道六号線を走行し、南相馬市へと向かう。国道から左側に見える「南相馬市立真野小学校」に立ち寄ると石碑が建てられていた。前回訪れていたときには校庭に砂がまかれ、閉校式を迎えるような雰囲気はなかったが?
石碑には、閉校式を迎えなければならない理由も刻まれていた。
●南相馬市立真野小学校閉校記念碑
平成二十三年三月十一日午後二時四十六分
東日本大震災発生、マグニチュード九(震度七)大津波によ             り、本校舎一階・体育館、真野地区が壊滅的被害を受ける。             加えて、福島第一原子力発電所の事故により、放射線を心配             しながらの生活を強いられる。
平成二十六年二月二二日閉校記念式典挙行(記念誌発行・記念碑の建設)
平成二十六年三月三一日少子化による児童数が減少している中での大惨事により、将             来にわたって真野小学校を継続・存続させることが困難な状             況となり、惜しまれながらも創立一四一年の歴史を閉じる。
☆少子化の波に原発事故が加わり、学校を継続させることが困難になった真野小学校は、 その後解体されました。現在、体育館だけが残っています。
二〇一七年三月十四日に訪れたときには、体育館が「真野交流センター」として活用さ れていました。

○その二十一「除線作業による渋滞」
■二〇一四年四月十七日(木)◆福島県いわき市四倉
 朝から、道の駅「よつくら」前の国道六号線は渋滞していた。私は道の駅に車を置いて、自転車で久之浜へと向かう計画を立てた。渋滞はかなり深刻だったが、午前九時を過ぎると、流れが良くなってきた。ほぼすべての車が「除染作業関係」で、いわき市内の宿泊所から作業場へと向かう車だった。                          今までこの国道六号線を車で走行していたので久之浜に立ち寄ることはなかったが、今回改めて自転車で訪れると被害の大きさに驚かされた。

○その二十二「夜の森」
■二〇一四年四月十七日(木)◆福島県富岡町夜の森
 富岡の交差点を通過すると、左折する場所を探しながら国道六号線をゆっくりと走行する。左折する場所はなかったが、右折する場所はあった。路肩に車を止めて、ナビで確認をする。左折する道は通行止めになっているために、右折して国道六号線にかかる陸橋を横断して向かわなければならないことが分かった。                  私は再び国道六号線を富岡方面に戻り、左折して陸橋を渡り「夜の森」へと向かった。確かに桜並木があった。残念ながら、桜は散りはじめていた。その桜並木には、大きな立て看板が立てられていた。読むと  
●お知らせ                         富岡町
放射線が高い地域になります。      観桜する際は車内から観桜いただきますよう、ご協力お願いします。
 太く書かれた箇所もあり、看板を見て改めて目に見えない放射線の怖さが分かった。桜並木の右側と左側では放射線量が違うため、学校反対側はバリケードで出入りが禁止されているが、学校側は出入りは自由になっていた。放射線量が違うためとは分かってはいるが、目に見えないので・・・。桜の名所「夜の森」で桜を撮影をするつもりで訪れたが、看板を撮影するとすぐに国道六号線に戻ってしまった。                国道六号線を南下して四倉に戻ると、国道三九九号線を走行して、川内村へと向かった。
「かわうちの湯」が営業を開始していた。ただ、仮オープンなので二週間だけの営業だった。

○その二十三「国道六号線全線通行可」
■二〇一四年九月十八日(木)◆福島県国道六号線
九月に入りアフリカツインで五島列島に向かったが、アフリカツインが故障したため丹後半島からどうにか戻ってきた。九月の仕事はなかったので、再びハイエースで五島列島に向かうことも考えたが、知り合いから「国道六号線全線通行可」の情報を得たので、私は福島へと向かった。
国道六号線は富岡市内を過ぎると通行止めであったが、今回は「通行止め」の掲示板が「二輪車・歩行者は通行できません」に変わっていた。車での通行は可能であるが、肌が露出している場合は認められない。そんな解釈かな・・・。
国道六号線の左右にはバリゲートかガードレールが設置されていて、立ち入りが出来ないようになっていた。立て看板には「注意、この先帰還困難区域につき通行規制中です」と書かれていた。大熊町には、すぐに到着してしまった。浪江町から小高にはいると、規制が解除されて車外での活動は自由だった。
☆「二輪車・歩行者は通行できません」という条件付きの国道六号線だったが、富岡から 先に行けると言うことがこんなに便利だとは・・・。二輪車が通行できるようになった ら、千葉県から岩手県までバイクでなくて自転車で沿岸部を旅してみたい。「みたい」 ではなくて、「旅する。」そんな日が早く来ないかな・・・。小高中にも行ってみたい なあ?

○その二十四「震災から四年目に、撤去終了」
■二〇一四年十二月二十七日(土)◆福島県南相馬市小高地区
四倉から、国道六号線を南相馬市方面へと走行する。富岡町の交差点にさしかかると左側にローソンがオープンしていた。撮影するために、駐車場に車を止める。店内で飲み物を購入すると、店舗と周りの老朽化した建物を撮影した。撮影が終えると、私は再び国道六号線を南相馬市へと向かった。
震災から三年が過ぎ国道六号線が「全線通行可」になると、今まで小高地区に放置されていた車が撤去されていた。私が撮影を続けて、四年目のことだった。私は、こんなに長く車が放置されるとは思ってもいなかった。それだけ放射線の影響が大きかったのかもしれないが?
相馬港を訪れると、未完成だった慰霊碑周りが完成していた。一度撮影した慰霊碑だったが、私は改めて完成した慰霊碑を撮影した。フレームを考えていたら、慰霊碑の近くには鉄筋の建物が建設中だった。私は慰霊碑はすでに撮影が終了していたので、あえて建設中の建物をフレーミングしながら撮影を行った。

○その二十五「慰霊碑近くの建物完成」
■二〇一五年二月十三日(金)◆福島県相馬市
東松島でブルーインパルスの撮影を行い、私は国道六号線を南下した。相馬港に立ち寄ると、慰霊碑右側の建物が完成していた。建物は完成していたが、周りが鉄板で囲まれていたので建物の全容は分からなかった。建物の上部だけが見えたが、完成してみると木造作りの建物に見えた。                               南相馬から県道十二号線を走行し、飯舘村を訪れる。村内の田畑に積み重ねられている除染廃棄物は、ビルのように四角い形になり積み上げられていた。シートはブルーシートから、グリーンのシートに変わっていた。

○その二十六「解体されていた富岡駅舎」
■二〇一五年五月四日(月)◆福島県富岡町
南相馬市から国道六号線を南下する。連休中にもかかわらず、国道六号線の流れは良かった?富岡町にはいると、国道六号線を左折して富岡駅に向かった。今まで何度かはいることを試みたのだが、工事中の立て看板が多く入りずらかった。今回は連休中と言うこともあり、作業している場所がなかったのですんなりと入ることが出来た?
狭い道路をゆっくりと走行すると、更地になっている場所と津波で被災した建物が見えた。今まで富岡駅の立地を考えていなかったが、海に面して駅が建てられていたことがはっきりと分かった。富岡駅前に到着すると、すでに駅舎は解体されていた。ただ、駅前の被災した建物は残っていた。海側には、黒い土嚢が高く積み重ねられていた。      震災から五年目を迎えた富岡町では、被災した建物がまだ解体されずに残っていることがわかった。四倉から常磐道を走行して帰宅するために先を急いでいたが、富岡町を過ぎても国道六号線の流れは良かった。渋滞を覚悟していた常磐道も流れていたので、思ったより早めに帰宅することができた。

○その二十七「山田神社」
■二〇一五年六月十日(水)◆福島県南相馬市鹿島
県道七十四号線を走行して、南相馬市から相馬港へと向かう。焼け跡の残る海岸線を走行していると、右側に鳥居が見えた。
●山田神社
山田神社は福島県相馬市にまたがる八沢浦干拓地の総鎮守です。八沢浦の干拓は、岐阜 県出身の実業家山田貞策翁が中心となってね明治四十年から昭和初期にかけて行われま した。昭和十六年に紀元二千六百年を記念して干拓地の安全と五殻豊穣を願って創建さ れました。この地はかっての山田翁邸宅跡で、創建時に山田神社が建てられた場所です。 その後、社殿は相馬市浦庭の排水機場脇にお遷しして、毎年お祭りを行ってきましたが、 平成二十三年三月十一日の東日本大震災に伴う大津波ですべて流失してしまいました。 山田神社の氏子でもある海沿いの通称「港集落」四十戸もすべて流され、四十六人の氏 子さんが亡くなられました。避難場所に指定されていたこの高台も津波に呑まれました。
震災後、南相馬市にボランティアで来られた熊本県苓北町志岐八幡宮宮司宮崎國忠氏と 人吉市阿蘇青井神社のご尽力、並びに熊本県民のご支援により、平成二十四年二月、熊 本県立球磨工業高校伝統建築専攻科の生徒さん達が造った社殿が鳥居二基とともに寄贈 され、この地に設置されました。鳥居の絵は、神奈川県在住の絵師はとさんが、亡くな られた方々の怨霊をお慰めするために描いてくださいました。
今も全国の方々から支援と参詣をいただいています。本殿再建と再生復興に向かって氏 子一同頑張っていこうと思います。
● 碑文
 平成二十三年三月十一日午後二時四十六分。マグニチュード九・〇地震が発生しまし た。
震源は宮城県牡鹿半島から東に約百三十キロメートル、震源域は岩手県沖から茨城県 沖までの南北約四百八十キロメートル、東西約百五十キロメートルにも及ぶ広大なもの で、最大震度は七、相馬市では震度六弱の超巨大地震であった。
約一時間後、高さ九メートルを超す真っ黒な大津波が容赦なく堤防を乗り越えて集落 を破壊し、家々を呑み込みながら海岸から約四キロメートル先まで流れ込んだ。
白砂青松の景勝地、松川浦の南に広がるこの地では日本有数のホッキ貝の水揚げを誇 る磯部漁港山信田古磯部、八沢の各干拓地に広がる美田、丘陵地に連なる梨園等により、 人々の豊かな生活が営まれていた。
大津波は一瞬にして相馬市の海岸部を呑み込んだ。そして先祖伝来この地を守り継ぎ 発展させてきた二百五十一名をはじめ、市民四百五十八名の尊い命が失われた。
ここに、この地で犠牲となられた方々のご冥福を哀心より祈念するとともに、「東日 本大震災」を後世に語り伝えるため、ご芳名を刻み、この碑を建立する。
     平成二十六年三月十一日

○その二十八「相馬市伝承鎮魂祈念館」
■二〇一五年六月十日(水)◆福島県相馬市
南相馬市萱浜から、県道七十四号線を走行すると相馬港を訪れる。海岸沿いから、慰霊碑横に完成した建物が見えた。相馬港に慰霊碑が二〇一四年三月に完成し、二〇一五年に建物が完成した。建物には、「相馬市伝承鎮魂祈念館」の看板がかかっていた。中にはいると、震災前の相馬市の様子と 震災後の様子がパネルとなって掲示されていた。
外から建物を改めて撮影していたら、骨組みが鉄筋だとは思えないような木造の建物に見えた。「放射能」という目に見えない物のために、様々な復興が遅れてしまった「福島県」は、震災から五年目がスタートとなってしまった?

○その二十九「萱浜のヒマワリ畑」
■二〇一五年九月二日(水)◆福島県南相馬市
道の駅「みなみそうま」から、国道六号線を走行して萱浜へと向かう。五月に訪れると菜の花畑が見られた萱浜は、小さなヒマワリ畑になっていた。ヒマワリ畑は、被災した民家の前に作られていた。被災した民家には、鯉のぼりが下がっていた。私は被災した家を撮影するので持ち主に許可を貰うつもりでいたが、持ち主は不在のようだった。望遠レンズでヒマワリを撮影して、被災した家をボカして撮影することにした。
再び国道六号線を走行すると、小高に向かう。小高の交差点を左折すると、海岸沿いを走行する。海岸沿いの道路は久しぶりに通行止めがなかったのか、暫く海を見ながら走行することが出来た。「井田川行政区」に入ると、海岸沿いに慰霊碑が建てられているのが見えた。
●井田川行政区に慰霊碑
慰霊碑建立の意
 平成二十三年三月十一日午後二時四十六分、千年に一度と言われる大津波発生。それ に伴う高さ九メートルの大津波が沿岸部に襲来、結果井田川行政区では、避難を呼びか けた殉職者を含め、二十四名の尊い命が犠牲となり、三十九戸が津波により流失。二十 一戸が多大なる損害を受け、悲惨な状態となりました。
その後の避難生活も多々苦悩の日々の毎日が続きました。個々に、未曾有の大震災の 記録を後世に語り継ぎ、尊い犠牲者達の御霊を見守り、慰霊碑を建立し、ご供養致しま す。
平成二十七年八月吉日
再び国道六号線に出ると、富岡へと向かった。小高と富岡は、除染作業が行われていた。道の駅「ならは」でトイレ休憩にはいると、休憩所がNPO団体の事務室(展示室)になっていた。鈴鹿四時間耐久レース・鈴鹿八時間耐久レースのバイクが展示されていたので、私は興味津々に眺めていた。
 道の駅「よつくら」に立ち寄ると、情報館内に「常磐自動車道全線開通三月一日(日)十五時」の張り紙があった。常磐道が全線開通した嬉しい知らせだが、バイクが通行できるかは書かれていなかった。ツーリングライダーの私としては、バイクが走行できるなら、ぜひ常磐道をバイクで走行してみたいと思った。
四倉から海岸沿いに南下すると、豊間に出た。残念ながら、すでに豊間中は解体されていた。最後の建物である豊間中が解体されてしまったので、完全な更地になってしまった。
この更地に新しい街並みは出来るのだろうか?私がこの豊間の変化も撮影を続けたいと、強く思った瞬間でもあった。

○その三十「飯舘村にオープンしたコンビニ」
■二〇一六年一月七日(木)◆福島県飯舘村                    
国道四号線を北上して、私は川俣町から飯舘村を訪れた。県道十二号線を走行していると、右側にセブンイレブンの看板が見えたので私は右折をして駐車場に車を止めた。トイレ休憩も兼ねて、店内にはいる。トイレに入った後、ホットコーヒーとカレーパンを私は購入した。レジで精算をするときに、思わず私は                  
「このコンビニは、いつオープンしたのですか?」
と、質問してしまった。私の突然の質問に、店員は
「去年の七月です。」
と、答えてくれた。
今までは「県道十二号線」か「国道三九九号線」を走行し、飯舘村を通過しないと南相馬市を訪れることは出来なかった。しかし、国道六号線が全線通行可能になり、私はいわき市から南相馬市を訪れるようになった。国道六号線を走行して南相馬市を訪れるようになってから、私は飯舘村を訪れることが無くなってしまいコンビニの開店を知らずにいたのだった。             
☆飯館村に、セブンイレブンがオープンしていた。県道十二号線は交通量が多いのに、ト イレ休憩のためのコンビニが無くて困っていたがこれで安心だ。          

○その三十一「松川浦温泉」 
■二〇一六年三月十二日(土)◆福島県相馬市                   
亘理町に入ると、県道三十八号線から国道六号線を走行する。国道六号線を暫く走行していると、左側の常磐線新坂元駅(建設中)に、大きな看板が立てられていた。看板には、「常磐線相馬~浜吉田間運転再開!JR坂本駅」と書かれていた。目標は、今年中と言うことだった。
再び国道六号線を南下すると、国道六号線を左折して私は相馬港を訪れた。相馬港では、防潮堤を建設中だった。松川浦大橋に向かうが、大橋が通行止めなので左折して国道六号線へと向かう。時計を見ると午後四時だったが、松川浦温泉に入浴することを思いついた。 このまま国道に出てしまうと、南相馬市のいつもの温泉にはいることになってしまう。考えてみたら、私はまだ松川浦温泉には入っていなかった。日帰り入浴が可能なホテルに向かう。高級なホテルなので料金が心配だったが、二百円と安かった。後で分かったことなのだが、毎年震災が起きたこの時期だけは二百円で入浴が可能と言うことだった。再び国道六号線を走行すると、私は道の駅「そうま」に車中泊をした。           翌朝、私は道の駅から南相馬市へと向かった。暫く国道を走行していると、左側に南相馬市立真野小学校が見えた。左折して小学校を訪れると、校舎はすでに解体されていた。ただ、体育館は解体されずに残されていたが?                    真野小学校から海岸線に向かって走行していると、「鹿島の一本松」の案内板が見えたので左折して「鹿島の一本松」へと向かう。「鹿島の一本松」を訪れると、募金箱が新たに設置されていた。私は再び県道七十四号線に戻り、南相馬市へと向かった。

○その三十二「小高に仮置き場」
■二〇一六年三月十三日(日)◆福島県南相馬市小高                
道の駅から国道六号線を走行して、私は小高へと向かった。南相馬市を抜けると、左側に「うつくしま、ふくしま、農業農村を進めよう」の看板が見えた。看板の前には、除染廃棄物が積み上げられていた。私は路肩に車を止めると、その除染廃棄物の山を撮影した。周りがグリーンのトタン板で囲まれているので撮影が不可能と思い、私はルーフキャリアニ上がって撮影を行った。撮影が終わると、再び国道を南下する。小高の交差点を過ぎると、右側にあったファミリーマートが解体されて資材置き場になっていた。
浪江町にはいると、右側のローソンのシャッターが下りていた。時計を見ると、まだ午前八時過ぎだった。閉店だったら張り紙があるはずだが、それはなかった。右折してはいるのが面倒なので、私はそのまま富岡方面へと向かった。走行しながらも、ローソンのことが気になった。シャッターが下りていたから、放射線のことを考えて店がオープンしていないときはシャッターを下ろしているのかも知れないと自分なりに納得しながら富岡町を訪れる。
富岡駅を訪れると、前回取り壊されずに残っていた建物が取り壊されて更地になっていた。駅舎跡は、前回と同じ更地になったままだった。駅周辺は広大な更地になっていたが、パイプフェンスで囲いがしてあった。作業車のじゃまになると行けないので、私はすぐに国道六号線に戻った。                               再び国道六号線を走行すると、今回は四倉手前を左折して久之浜を訪れた。自転車で一度訪れているが、ハイエースで訪れるのは初めてだった。やはり、道幅が心配だった。久之浜では、嵩上げと防潮堤の復興作業を行っていた。国道沿いには家が立ち並び、海岸沿いは建物が解体されて更地になっている状態だった。
久之浜から道の駅「よつくら」を訪れると、観光客で混雑していた。混雑していたので、私は道の駅での海鮮丼は諦めた。すぐに道の駅を出ると、国道を左折して海岸線を走行する。豊間を訪れると、豊間中は更地のままだった。

○その三十三「除染の駅(一)」                         
■二〇一六年四月十五日(金)◆福島県富岡
昨夜は、道の駅「よつくら」に車中泊をした。国道六号線が通行できるようになってから急に車中泊が多くなったので、車を止める場所を確保するのが大変だった。私は、防潮堤の完成した早朝の道の駅を撮影すると富岡町へと向かった。昨年の四月に訪れた「夜の森」は桜が散っていたので、今回は満開の桜を求めて「夜の森」へと向かった。
 国道六号線を走行していると、私は左側に「とみおか、除染の駅、ほっとステーション」と書かれた建物を発見した。「道の駅」は知っているが、「除染の駅」ははじめてだ。除染作業をする人たちが休む場所なのか?通り過ぎてしまったのでUターンすることも考えたが、私は面倒なのでそのまま「夜の森」へと向かった。
一度訪れているので、今回は迷わずに「夜の森」を訪れることが出来た。願いが叶ったのか、桜並木は満開だった。また、今回は去年のような立て看板は設置されていなかった。逆に、富岡二中には去年無かった看板があった。看板には「双葉地方の未来に光を」と書かれていた。
浪江町にはいると、左側のローソンは営業をしていた。浪江町のローソンはやはり放射線量のことを考えて、営業をしていない時間はシャッターを下ろしていたのだ?浪江から小高にはいると、右側に菜の花畑が広がっていた。私は車を路肩に止めると、菜の花畑の撮影を行った。フレームを考えていたら、菜の花畑の向こう側に新たな除染廃棄物の山が見えた。菜の花畑には、「事業主体ファーム菜の花プロジェクト農耕再生と健康にいい油を」と書かれた看板も設置されていた。
さらに菜の花畑のある国道沿いでは桜の植樹が行われ、「ふくしま浜街道・桜プロジェクト、三十年後の故郷に贈る。満開の桜のように子ども達の笑顔が溢れますように。豊かな福島の復興を心より願っています。」と書かれたしおりが巻き付けられていた。
国道六号線を走行し南相馬市に入ると、右折して萱浜を訪れる。萱浜は、今年も菜の花の迷路が作られていた。県道を走行し、私は萱浜から新地町方面へと向かった。新地は県道三十八号線の嵩上げ工事がおこなわれていて入ることができず、迂回路を走行して国道六号線に出た。国道六号線を走行すると、右側に建設中の「坂本駅」が見えた。

○その三十四「国道の両側に除線廃棄物の山」
■二〇一六年六月二十一日(火)◆福島県南相馬市小高               
昨夜、私は道の駅「そうま」に車中泊をした。松川浦温泉に入ったが、入浴料は八〇〇円と高かった。                                  今朝、道の駅で簡単に朝食を済ませると私は国道六号線を走行して小高へと向かった。道の駅「みなみそうま」を通過し、小高にはいると左側にできた除染廃棄物の山がさらに拡大していた。前回は左側だけだったが、今回は右側にも作られていた。国道の両側に「除染廃棄物」が山積みされている状態だった。小高の仮置き場は思った以上に広く、さらに広げている様子だった。

○その三十五「常磐線に新しい駅舎」
■二〇一六年十一月二十一日(月)◆福島県新地町
昨夜は、道の駅「よつくら」に新しくできた駐車場で車中泊をした。新しい駐車場はかなり広く作られているので、気にせずに車中泊が出来た。道の駅で簡単に朝食を済ませると、国道六号線を走行して相馬方面へと私は向かった。
相馬から坂本方面に向かうと、新しくできた新地駅舎と坂本駅舎を撮影することが出来た。駅舎は完成しているのだが、線路がまだ繋がっていないと言うことだった。また、新しい坂本駅舎にはローソンがオープンしていた。

○その三十六「除線の駅(二)」
■二〇一六年十二月二十七日(火)◆福島県富岡町
嵩上げされて宅地が完成した久之浜を撮影すると、私は富岡町へと向かった。富岡町に入ると、「除染の駅」に立ち寄る。ここは、「除線」関係の掲示物が多かった。道の駅のような休憩所ではなく、「除染作業」を知ってもらう施設だった。担当職員と会話を交わし、室内の撮影を行った。ここで、私の撮影した記録が役立つとは思ってもいなかったが?
☆二つ沼公園のプレハブが撤去され、様々な施設が公園から移動した。その二つ沼公園を 過ぎると、「除染の駅」があった。通り過ぎてしまったのだが、Uターンして入った。 訪れて良かった。(自分の間違えが分かったから)

○その三十七「ファミマ小高店営業再開」
■二〇一六年十二月二十七日(火)◆福島県南相馬市小高
 小高を訪れると、左側に営業を再開したファミマ小高店が見えた。私は早めのランチと思い、店内に入った。コンビニ弁当を購入すると、私は車内で食べた。このコンビニは一度建物が解体されて資材置き場になっていたので営業再開はないと思っていたが・・・。いつ資材を移動させて、建物を建てたのだろう?                   食事が終わると、私は小高市内を撮影した。小高は、様々な施設が営業再開に向けて活動していた。小高から相馬港を訪れると、小浜海岸の整備がおこなわれていた。
☆二〇一七年四月から人々が生活できるように活動していた「小高」と「飯舘村」

○その三十八「常磐線運転再開」
■二〇一六年十二月二十七日(火)◆宮城県新地町
 相馬港から新地に向かう県道三十八号線は嵩上げ工事のため、長くはいることが出来なかった。今回は年末と言うこともあり工事関係者がいなかったので、相馬港から久しぶりに県道三十八号線を走行して新地を訪れることが出来た。新地の県道三十八号線を走行し、私は「新地駅」を訪れることが出来た。新地駅前には、ビジネスホテルなどの建物が造られ始めていた。
国道六号線に出ると、私は坂本駅へと向かった。坂元駅を訪れると、駅舎には「祝十二月十日JR常磐線 相馬~浜吉田間運転再開」の看板が下がっていた。予定通り、年内に運転再開が実現できたことが分かった。全線運転再開まではまだまだ時間がかかりそうだが、私は一歩前進だと思った。
☆新地は、県道三十八号線の嵩上げ工事関係で中にはいることが出来なかった。私はあの 「風の碑」が在るかどうか知りたかったが、その確認が出来なかった。今回は年末と言 うこともあり工事関係者がいなかったので、確認することが出来た。残念ながら、「風 の碑」は見あたらなかった。

○その三十九「新しく建設されていたいわき市立豊間中学校」
■二〇一七年三月十日 ◆福島県いわき市豊間
北茨城市から海岸線を走行して、豊間を訪れる。新しい道路が完成しているので、道路に沿って走行する。すでに道路沿いは、宅地になっていた。ただ、新しい建物は少なかった。ゆっくりと新しく完成した道路を走行していると、「豊間中」の案内板があった。私が案内板に従ってゆっくりと走行していると、豊間小が見えた。更に進むと、右側には新しい豊間中が建てられていた。玄関前で重機が作業をしているので、今年中には開校か?
三階建ての建物を撮影していたら、「豊間中学校」と三階の校舎には書かれていたが、一階左側には「豊間保育園」「豊間潮風児童クラブ」と書かれていた。校舎は豊間中学校で、中学校の中に「保育園」と「児童クラブ」が併設された感じか?
四倉から国道六号線に出ると、私は北上を続けた。南相馬から相馬港を訪れると、嵩上げ工事が終了し海水浴場の整備が行われていた。亘理町にはいると、県道十号線を北上し、私は閖上地区へと向かった。嵩上げされた閖上地区には、建物が建ち始めていた。閖上中は解体されてしまったので、私は「閖上の記憶」を訪れた。プレハブには、鯉のぼりが元気に泳いでいた。慰霊碑も机も置かれていたので、閖上中で撮影を行ったように此処でも撮影を行った。やはり、校舎がないのは寂しい物だと私は感じた。

○その四十「帰還準備」
■二〇一七年三月十四日(火)◆福島県
営業を再開したファミマ小高店で昼食、混んでいた。コメリ小高店の整理整頓は、終了していた。
 富岡には、「除線作業三月十五日まで」の立て看板が見られた。富岡駅前は整備中で、年内には富岡駅の営業再開が実現するという。また、「さくらモールとみおか」が営業中で、駐車場には雨にもかかわらず地元の買い物客が訪れていた。店舗は、おなじみの「ダイユーエイト」「ツルハドラッグ」、命日の日には各テレビ局が放送していた。    ☆除線作業員が多かった地域に、これからは地元の人の姿が見られるかも知れない? 七 年目のスタートは、福島の「小高」「飯館村」「富岡」などの帰還地域で生活が始まる。

○その四十一「小高中は(二)」
■二〇一七年七月三十一日(月)◆福島県南相馬市小高
道路が整備された相馬港から海岸線に沿って松川浦に向かっていると、海水浴場の整備が終了していた。ベンチが新しく設置され、芝と樹木が植えられていた。松川浦大橋がまだ通行できないので、市内を抜けて国道六号線に私は出た。
 国道六号線を走行していると、相馬野馬追のため小高神社周辺の駐車場は満車だった。小高中に向かうと、ローソン小高店が営業を再開していた。「相馬野馬追」のため、小高は人が多かった。三年前もここを訪れたが、これほど混んではいなかった。それに、ローソン小高店は閉店していた。三年前は車を止めることが出来たが、今回は駐車は無理と判断し、小高中学校へと私は向かった。
 小高中学校を、私は懐かしさのあまり訪れてしまった。校長室に通されると、真っ先に女子バレー部の話をした。現在は生徒数が六十人という事で、活動している部活動は個人戦で大会に参加できる部活動のみを残したようだ。震災前は生徒数が四百人以上もいた小高中、現在は六十人となってしまった。校長は、震災前の小高中の栄光を知っているので、なおさら悔しい思いをしていることと思う。原発事故がなければ・・・。誰もがそう思っている。今年の「相馬野馬追」は、小高市内を騎馬武者が七年ぶりに隊列をなしたという。それもあってか、小高市内がにぎやかだったのだろう。
 富岡にはいると、国道右側の建物に注意して走行する。「除染の駅」に立ち寄り、秋に開催する個展の打ち合わせをするつもりでいたのだが?元のホンダディラーになっていた。富岡駅を訪れると、新しい富岡駅が建設中だった。
 四倉から海岸線を走行し、豊間へと向かう。豊間中学校の新校舎を撮影するために、豊間を訪れると、完成した豊間中学校を撮影することが出来た。

○その四十二「豊間中は(一)」
■二〇一七年十月八日(日)◆福島県いわき市豊間
 午前八時出発、高速道を使用して私は大洗港へと向かった。三連休なので、サーファーで混んでいた。海岸線には、防波堤が完成していた。避難施設のような建物が設置されて、「大洗サンビーチ津波避難施設」と書かれていた。北茨城「山海ホテル」跡を訪れ、混雑する大津港から私は豊間へと向かった。
 豊間を訪れてみると、整備が進み公園が完成していた。公園には、トイレと駐車場が出来ていた。駐車場に車を止めると、ナビで豊間中学校を確認して車を降りた。駐車場近くで食事をしている家族が居たので
「食事中すいません、地元の方ですか?豊間中学校はあの辺ですかね?」
と、ナビで確認した方を指さしながら尋ねた。私の質問に対して、お父さんが     「豊間中学校ですね・・・、たぶんあそこだだったと思います。」         
と、私が指さした方を見ながら、応えてくれた。私は家族にお礼を言うと、徒歩で指さした方へと向かった。被災した豊間中学校を撮影してしまったからなのか、それとも教師だったのかは分からないが、何故か豊間中学校跡地が気になって仕方がない自分がいた。
 四倉から国道六号線を北上する。広野は、大きな宿舎が多く建ち並んでいた。富岡駅前の整備が進み、駅らしくなっていた。ビジネスホテルも完成していた。

○その四十三「までい館」
■二〇一七年十月十三日(金)◆福島県飯舘村
 車中泊した道の駅「そうま」から、私は鹿島球場へと向かった。球場の整備は、終了していた。国道六号線に戻るときに、鹿島小学校に立ち寄る。敷地内に仮設小高中があったので、確認する意味で私は立ち寄った。
 南相馬市から県道十二号線を走行し、飯館村に向かう。セブンイレブンでトイレ休憩のつもりが、セブンイレブンが撤去されていた。更に走行すると、右側に道の駅「までい館」ができていた。セブンイレブンは、道の駅に併設されていた。道の駅に、「八月十二日オープン」という垂れ幕が下がっていた。中にはいると、新築なので木の臭いがした。併設されたセブンイレブンは、午前六時から午後八時までの営業だった。敷地内を撮影していたら、田畑の向こうに「相馬農高飯舘校」が見えた。
 更に県道十二号線を走行すると、国道三九九号線と交わる道路沿いの左側にローソンがオープンしていた。ローソンの所を左折して、国道三九九号線を走行する。国道三九九号線は相変わらず通行制限が多かった。複雑で分からないままに、いつのまにか国道一一四号線に私は出てしまった。                            

○その四十四「とんやの郷」
■二〇一七年十月十三日(金)◆福島県川俣町
 国道一一四号線を浪江町方面に向かうと、左側に「浪江町立君津小学校」の看板が立っていた。私は左折したが、目の前にバリケードが現れてしまい通行が出来なくなってしまった。黄色い立て看板に赤い文字で「通行規制中、この先帰還困難区域につき通行止め」と書かれていた。諦めて再び国道を浪江町方面へと向かうと、左側に「浪江町立君津中学校」の看板が立ち、赤いコーンでふさがれていた。赤いコーンの前には先ほどと同じように黄色い立て看板に赤い文字で「通行規制中、この先帰還困難区域につき通行止め」と書かれた看板が立っていた。                             再び国道一一四号線を走行して浪江町方面に向かっていると、国道が封鎖されていて浪江町方面に向かうことが出来なくなってしまった。私は諦めて国道を川俣町方面へと走行した。所々に、白い看板に赤い文字で「注意、帰還困難区域内につき長時間の停車はご遠慮下さい」と書かれた看板も立てられていた。暫く走行すると、国道沿い左側に「とんやの郷」と書かれた道の駅のような施設が見えた。昼食をコンビニでと考えていたが、コンビニが見あたらないので、「とんやの郷」で弁当を買う。食後、カメラを片手に「とんやの郷」を撮影する。出入り口の所に、「山木屋地区復興拠点商業施設、とんやの郷、七月オープン 津波・原子力災害補助金」と書いてある掲示物を発見した。

○その四十五「あしたを歩く」
■二〇一七年十月十三日(金)◆福島県川内村
国道一一四号線を走行して十字路を左折すると、私は国道三四一号線に出た。国道三四一号線を走行し、県道五十号線に出ると県道五十号線を走行して私は葛尾村へと向かった。再び三九九号線に出ると、国道を走行して川内村へと向かう。川内村に到着すると、かわちの湯に石碑が建てられていた。
●「あしたを歩く」
 石の裏面に爪を立て、傷をつけるように刻むことで、震災により故郷を汚された住民 の力強い思いを表現しています。
また、真鍮製品を利用して放射線量を計測する手法があることから、表面には多くの 穴を開け、真鍮製品を針金で縫い留めて、住民の苦難を表現しています。
「あしたを歩く」という碑文は、震災からの復興とあしたに向かい、着実に進む村の 姿をイメージして公募で選ばれたものです。
       平成二十七年七月十五日

○その四十六「豊間中は(二)」
■二〇一八年三月十五日 ◆福島県いわき市豊間
 小名浜港から県道十五号線を走行し、豊間に向かう。海岸沿いに出来た公園に車を止め、豊間中学校跡地を探すと、「石碑」が建っていた。大きな物でなく、小さな石碑だった。石碑には、「福島県いわき市豊間中学校、位置、所在地「豊かな人間性」と、刻まれていた。堤防の所に建てられていた「石碑」だったので、豊間中学校跡地からずれているような気がした。堤防から周りを見回すと、新居に引っ越しをしている地元の老夫婦が見えた。私は堤防から降りると
「すいません。豊間中学校跡地はこの辺ですか?」
と尋ねた。老夫婦は、何を思ったか新しい豊間中学校の方向を指したので、私は再度
「被災した豊間中学校です?」
と尋ねると、私の思っていた場所を指した。全てが緑地公園になっていた。
 豊間から国道六号線に出ると、私は四倉を訪れた。四倉港周辺の整備も進み、緑地公園が作られていた。久之浜も防潮堤が完成し、「久之浜防災緑地公園」が作られていた。私は完成した緑地公園を撮影すると、国道六号線を北上して富岡町へと向かった。    

○その四十七「さくらステーションきのね」
■二〇一八年三月十五日 ◆福島県富岡町
 国道六号線を北上し富岡町にはいると、迷わずに富岡駅に向かう。富岡駅に到着すると、駅舎は完成し、営業をしていた。駅横には、「さくらステーションきのね」が建てられていた。建物の左側には、「夜ノ森公園の桜」の写真が大きく引き伸ばして掲示されていた。 富岡駅前にはビジネスホテルが建てられ、駅周辺はアパートやマンションが完成していたり、建設中だったりしていた。富岡駅~浪江駅はバス代行で運行されていて、復旧はまだ先のことのようだ。更に私は、営業を再開した浪江駅前に向かった。駅は人がいなかったというより、市街地に人の姿はなかった?

○その四十八「葛尾村立葛尾小学校」
■二〇一八年三月十八日(日)◆福島県葛尾村
 早朝の道の駅から、私は仙台港へと向かった。蒲生地区にはいれないことが続いていたので、今回は入れると確信して県道十号線を左折しようと思ったが、「通行止め」の看板、諦めて荒浜地区に向かう。蒲生地区を離れると、諦めきれない気持ちが車のブレーキを踏ませる。いったんコンビニに入り、再びUターンして蒲生地区に戻る。七北田川沿いに入ろうとせずに、コンテナターミナルに向かう道路を進みながら、何度か右折して蒲生地区にはいることを試みる。「日和山」の看板があったので、看板の指示に従いながら、蒲生地区にはいることが出来た。今まで撮影し続けてきた物は全て撤去されて、更地になっていた。正直、ショックだった。
たぶん「日和山」の看板は、「サーフアー」と「バーダー」の為に建てられたのだろうと思われるが?二〇一五年九月一日の撮影を最後に、撮影が行えなかった?気になっていた中野小学校跡地を望遠レンズで撮影すると、嵩上げされていた。はっきりとしないが、嵩上げされたところには石碑と松の木が見えた。
再び県道十号線を南下すると、私は閖上地区へと向かった。閖上地区に到着すると、「名取市立閖上小中学校」が完成していた。ロープが張られていてまだ工事は終わっていなかったが、撮影のみを行う。敷地内に責任者らしき人がいたので、声だけは掛ける。会話が続き、こんな話をしてくれた。
「閖上地区に戻って来た人は半分ほどしかいなく、生徒数も激減したので小中学校になりました。復興住宅も、入居奢は半分以下です。もっと復興に早く取り組んでいたら、また違っていたと思いますが・・・?」
再び県道から国道六号線を走行し、南相馬市へと向かう。南相馬市から県道十二号線を走行すると、私は飯舘村へと向かった。飯館村「までい館」に到着すると、駐車場が満車だった。葛尾村へ向かうので、道の駅で
「葛尾方面に行きたいのですが?」
と尋ねるが、明快な返答がなかった。驚いたことに、店員が地元でない人が多かった。 とりあえず県道十二号線を走行し、川俣町から三四九号線を走行し県道五十号線で葛尾村を目指すプランにした。
 国道三九九号線を走行するのが一番の近道なのだが、途中の迂回路で迷ってしまうおそれがあるので、無難に川俣町から向かう。途中道の駅「東和」で
「すいません、葛尾村に向かいたいのですが・・・、県道五十号線を使うのが善いですかね?私も何度か訪れてはいるのですが、いつも道に迷ってしまうので・・・。」
と尋ねると
「ちょっと待って下さい・・・、そういえばつい最近五十号線を・・・。」
との返答を得たので、県道五十号線を走行して葛尾村にはいる。
思った以上に走りやすく、わかりやすかった。役場前の信号機の所まで来ると、すぐに自分の位置が分かった。とりあえず役場の駐車場に車を止め、小学校に向かう。業者の方が作業をしていたので
「すいません。小学校は授業を行っているのですか?」
と、業者の人に尋ねると
「今年の四月からです。」
と、応えてくれた。
私が初めて訪れたときは鯉のぼりが橋の所にかかっていて、児童は居なかった。校舎は、綺麗だった。突然避難しなければ行けない状態になってしい、児童は困惑したことだろう。町全体に人の気配が全くないが、学校に児童は戻ってくるのだろうか?
 川内村のファミマに向かう。国道沿いに移転されていた。日帰り温泉の所にあったときより、大きくなっていた。コンビニに、「薬局・クリーニング・食堂」が併設されていた。看板には、大きく「ショッピングセンター」の文字が書かれていた。
 何年かぶりに「国道三九九号線」を走行して、私は「いわき市」へと向かった。本当はあの狭いくねくねした国道は走行したくはなかったのだが、地図から読み取ると国道沿いに向かうのが一番良いと判断した。ほとんど、対向車に会うことはなかった。以前と違うのは、トンネル工事が二カ所あったことだった。平日でなくて良かった。これが平日だったら、作業車とすれ違うのに時間がかかるおそれがあった。

その四十九「海開き」
■二〇一八年七月二十九日(日)◆福島県相馬市尾浜
閖上地区から県道十号線を南下して、私は「鳥の海」を訪れた。日帰り温泉「鳥の海温泉ホテル」は、宿泊営業を再開していた。私はまだ明るいので、入浴施設は利用せずに相馬港へと向かった。
相馬港に到着すると、私は整備された海水浴場を訪れた。いつも使用している駐車場は、海水浴客の車で満車だった。海開きと知り、是非撮影したいと思って訪れたが、こんなに混雑しているとは思ってもいなかった。路上駐車は不可能なので、駐車スペースがある場所を探す。ハイエーススーパーロングワイドを考えると、駐車場を出られなく恐れもあったので確実な場所を探した。
やっとの事で車を止めると、すぐに撮影を行った。福島の海は、放射能関係から海開きが遅れていた。整備が済んでも、放射線量を測って安全が確認されないと海開きは出来なかった。今年の夏は、それが可能となった。泳ぐ人も、思ったよりも多かった。ほとんどが家族ずれだった。ハイエースがじゃまになると行けないので、私はすぐに海水浴場の駐車場を出た。

その五十「松川浦大橋通行可」
■二〇一八年七月二十九日(日)◆福島県相馬市尾浜
相馬港から松川浦を通過して国道六号線に出るのがいつものパターンだったが、今回は違っていた。前を走る車が松川浦漁港の交差点を直進したので、私も直進した。前の車についてそのまま松川浦大橋を渡ると、私は左折をして漁港の駐車場に車を止めた。下から松川浦大橋を眺めていると、観光客が多かった。考えてみたら、本日は日曜日だった。道理で海水浴場が混雑していたわけだ・・・?
大洲海岸を走行していると、夕焼けを待つ人たちが多かった。私も夕焼けの撮影を考えたが、一時間ほど待たなければならないので諦めた。大洲海岸は被害の跡が残ってはいたが、素敵な海岸だった。

○その五十一「請戸漁港」
■二〇一八年七月三十日(月)◆福島県浪江町請戸
 ニュースで「浪江町請戸海岸に慰霊碑が建てられました。」と流れたので、私は請戸地区に入ることが出来たら慰霊碑を撮影したいと思った。道の駅から国道六号線を走行しながら、周りの看板に注意を払った。請戸川橋を渡ると、私は左側に注意しながらスピードを緩めた。前の車が左折したので、私も左側を見ながら左折をした。
今までは左折するとバリケードがあったのに、今回はなかったので左折した。道幅が狭くなり交通量も多くなったが、請戸漁港に入ることが出来た。漁港周辺はまだ整備中で、被災したままの建物もいくつか見られた。慰霊碑を探したが、見つからなかった。請戸漁港で作業をやっている人がいたので
「お仕事中すいません。請戸漁港に慰霊碑が作られたと聞いたのですが、どちらにあるか分かりますか?」
と、尋ねると
「悪いけど、私達は地元の人間ではないので分かりません。」
と、仕事の手を休めて答えてくれた。他の場所で尋ねても、同じような答えが返ってきた。
私が諦めて国道六号線に向かっていると、ラジオのニュースで「震災から八年目にして、浪江町から騎馬武者が出陣しました。」と流れていた。私は国道に出ると、浪江駅へと向かった。浪江駅周辺は撮影したが、静かだった。静かではあったが、車も人も見かけることはあった。

○その五十二「ここなら笑店街」
■二〇一八年七月三十日(月)◆福島県楢葉町
 富岡から国道六号線を南下して、四倉方面へと向かった。楢葉町にはいると、左側に「ここなら笑店街」の看板が見えた。新しい建物で、商業施設のようだった。
左折すると、駐車場に車を止めた。早朝だったため、まだお店は開いていなかった。店の反対側にも、新しい建物が建っていた。建物には紅白の垂れ幕が下がっており、館内にはイスも並べられていた。建物には
 「みんなの交流館 ならはキャンパス 二〇一八年七月三〇日十一時三〇分オープン」の張り紙があった。どうやら、これから「セレモニー」が始まるようだ。人が集まる前に撮影を済ませてしまおうと、やたらとシャッターを押してしまった。
 午前十時になると、職員が準備を始めた。私は、職員の一人に           「すいません。これは公共施設ですか?」          
と、尋ねた。職員は
「ええ、そうです。」
と応えてくれた。再び、私は
「今地方の財源が問題になっていますが、財源はどうなっていますか?もう一つお聞きしたいんですが、先ほど富岡町に新しいアパートが乱立していたのですが、たぶん除染作業員のためのアパートだと思いますが、除染作業が終わったらあのアパートはどうなると思いますか?」
と、財源と富岡のアパートについて尋ねた。
 楢原町から再び国道六号線を南下すると、左側に「Jヴィレッジ」の看板が見えてきたので左折した。ここを訪れるのは初めてではあったが、「二十九日オープニングイベント」のニュースが流れていたので立ち寄る。
受けつけで撮影の許可を貰い、施設内の撮影のみを行った。施設を出るときに、「七年四ヶ月ぶりに営業を再開したJヴィレッジ」の新聞があったので、一部を頂いた。

○その五十三「矢木沢トンネル」
■二〇一八年十月二十日(土)◆福島県飯舘村
 南相馬市から県道十二号線を走行し、飯館村に向かう。「矢木沢トンネル」が通行できたので、時間短縮になった。国道六号線が全線通行可能になってからも、県道十二号線の通行量は相変わらず多かった。ただ、国道六号線が放射能汚染関係で通行止めになっていた頃と比較したら、車の流れはやはり少なくなっているが?「矢木沢トンネル」が開通して峠越えが無くなったので、ドライバーの負担が少なくなったことだけは事実だ。

○その五十四「葛尾村立葛尾小中学校」
■二〇一八年十月二十日(土)◆福島県葛尾村
 飯舘村から、葛尾村へと向かう。私は迂回路が多い国道三九九号線は走行せず、国道三四九号線を走行して田村市から県道五十号線を北上した。所々に、除染の廃棄物が積まれていた。葛尾村にはいると、コンビニがオープンしていた?葛尾村の小学校に立ち寄ると、中学校の職員が居た。部活で来たとのことだった。「葛尾村立葛尾小学校」は、「葛尾村立葛尾小中学校」になっていた。今年の四月からと言うことだった。
 川内村は、道路工事が多かった。役場前も工事をしていた。驚いたことに、温泉も工事をしていた。移転したコンビニでトイレ休憩。「ショッピングセンター」の大きな文字が目立った。食堂、薬局、クリーニングを兼ねたコンビニになっていた。

○その五十五「奇跡の藤」
■二〇一九年三月十二日(火)◆福島県相馬市
 先日の夜、私は午後七時に国道四号線を北上した。矢板ICから東北道にはいると、トラックの多い福島・松川PAに車中泊をする。眠りにつくと、私は二本松ICを降りるから安達太良SAに車中泊すべきだったことに気づいた。
 今朝、スマートICを午前六時過ぎに出る。飯館中仮校舎前のセブンで朝食を購入し、私は道の駅「かわまた」で朝食をとる。朝食が終わると、私は忘れ物に気づき再びPAへと戻った。PAを出るときにETCバーが降りたままになり、私は後続車に迷惑をかけてしまった?                                    県道十二号線を走行すると、川俣町に建てられていた飯館村の仮設小学校が解体されていることに気がつく。飯舘村に入ると、私は草野小学校へと向かった。小学校に到着すると、学校は「スクーリング場」になっていた。再び県道を走行し道の駅「までい館」でトイレ休憩をとると、私は飯舘村立飯館中学校へと向かった。中学校を訪れると、役場を中心に新しい町並みが出来ていた。
 再び県道十二号線に出ると、私は南相馬市に向かった。県道十二号線を走行していると、南相馬IC近くに新しくセブンイレブンができていた。よく見れば、バスターミナルが併設されていた。私は慌てて車を路肩に止めると、撮影をした。             国道六号線に出ると、相馬港へと向かう。すでに防潮堤が完成していた「相馬市伝承鎮魂祈念館」を訪れると、慰霊碑近くに「奇跡の藤」があった。立て看板の日付は、平成二十九年三月十一日となっていた。五月に訪れていたら藤の花が見られたのかも知れないと私は思った。
 相馬港から新地に向かったが、入れずに再び国道六号線に出る。駅前にビジネスホテルが三棟建つ新地駅から山元駅を訪れると、駅前に「やまもと夢いちごの郷」ができていた。山元町はいちごが有名なのだと、私は改めて知った。

○その五十六「請戸の墓地で」
■二〇一九年三月十五日(金)◆福島県浪江町請戸地区
請戸地区の慰霊碑を求めて、私は請戸漁港へと向かった。作業車以外走行していなかったので、すんなりと漁港に近づくことが出来た。前回は慰霊碑を探すことが出来なかったので、今回は撮影をしたいと思っていたがやはり慰霊碑が見つからない。とりあえず、墓地があったので墓地に向かってみた。
すでに一人のカメラマンが墓地の撮影を行っていた。私は
「こんにちは、慰霊碑の撮影を行っているのですが請戸地区に出来た慰霊碑の場所をご存じですか?」
と尋ねると、男の人は
「わかりません。」
と、答えた。ここから、二人の会話は「東日本大震災」の会話となった。彼は東京から被災地を訪れているカメラマンだった。
私は震災から三年間頻繁に被災地を訪れ、四年目からは年に数回に減ってしまったことを話した。更に、これまでのマスコミの内容についても疑問があることを話したら、彼は
「私は、真実を残すことを目的としています。」
と、話した。私は更に
「真実を全て残すことは、正しいとは限らない。誰にも話せない真実もある。」
と、話した。彼は
「旧大槌町役場が解体されたが、あれは残しておいては困る人がいるから解体されたのであって、本当なら解体されるべきではなかった。」
と、話した。私も、これについては前々から知ってはいたが触れずに会話を続けた。
私は会話の最後に、
「撮影をしながら記録を残すことを心がけていましたが、私にも徐々に変化が現れました。最初は震災の大きさを撮影していましたが、二年目からは被災地に咲く草花を撮影したり慰霊碑を撮影したりと、震災を残す撮影よりも復興に向けての変化を撮影するようになり、四年目からは撮影することよりも文章にして残すことを心がけるようになりました。文章の持つ力が、最後は永遠に残るのではないかと考え始めたのです。勿論撮影は続けますが、映像だけで残すのではなく文章にして残すことに重点を置くようになってきました。」
と、彼に話すと私は再び慰霊碑を探した。                     ☆風が吹き付ける海岸近くで、激論を交わしている自分に気が付いた。

○その五十七「豊間に新しく建てられた石碑」
■二〇一九年三月十六日(土)◆福島県いわき市豊間
 国道六号線を左折して、県道三八二号線を走行する。工事中が多かった県道も、舗装が完了して全線通行可能だった。豊間を訪れると、前回訪れたときよりも分譲地に家が建っていた。また、緑地公園が広がり防風林も完成していた。そんな分譲地の中で、二つの新しい石碑に出会った。
●「鎮魂碑」
 この地には四百年余の歴史を有すると伝えられる共同墓地があった。しかし、平成二 十三年(二〇一一)年三月十一日、東日本大震災が発生、その災渦は生きる者の身の上 だけではなく、先人達の御霊にも及んだ。
今、私たちは深い悲しみの淵から立ち上がり、皆で力を合わせ、豊かな地域の建設に 向けた取り組みを進めている。そのなかで、この地に眠る御霊には他の安住の地にお移 りをいただいた。
先人たちの御霊と大震災で亡くなられた人々の御霊を慰め、さらには、大震災の記憶 を後世に伝えるため、この碑を建立した。
                    平成三十(二〇一八)年九月二十九日
    豊間共同墓地管理委員会建立
●東日本大震災慰霊碑
私たちには忘れようとしても忘れられない。平成二十三年(二〇一一年)三月十一日、 午後二時四十六分、東日本大震災が発生、豊間地区は、巨大地震に伴う高さ八・五Mの 大津波に襲われ、壊滅的な被害を受けた。流失家屋は四百戸を超え、住民八十五名もの 尊い命が失われた。
ここに、この地で亡くなられた方々の御霊を慰めるとともに、二度とこのような悲劇 が起きないよう、大震災の教訓の継承と安全で住みよい「ふるさと豊間」の再生を願い、 この碑を建立する。
                  平成三十一年(二〇一九年)三月十一日
         豊間区ふるさと豊間復興協議会
再び国道六号線に出ると、日立方面へと向かう。国道沿いの北茨城市に建設中だった防波堤は、完成していた。途中国道二四五号線を走行して、大洗方面へと向かう。
 大洗港に到着すると、自転車でいつものように散策した。相変わらず、公園の時計は午後四時で止まったままだったが、完成した防波堤の所に設置されていた「大洗サンビーチ津浪避難施設」の施設はそのままだったのだが何故か文字だけは消えていた。

○その五十八「常磐道は、二輪車通行可」
■二〇一九年十月十日(木)◆福島県南相馬市                   
 道の駅で昨夜張ったテントを撤収すると、私は早朝の三陸道を走行して仙台北港へと向かった。高速道から県道を走行し、亘理町にはいることが出来た。今日中に帰宅することを考えて、小高から高速道を使用することにする。(帰宅困難区域でも高速道は走行することが出来ると聞いていたので、実際に走行できるか確認することも目的の一つだった。)
 私は南相馬市に到着すると南相馬ICから常磐道にはいることも考えたが、とりあえず道の駅「みなみそうま」で確認をすることにした。施設の中に入ると         
「すいません。二輪車で国道六号線を走行することは出来ないが、常磐道は走行可能と聞いたのですが?」
と、受付の女性に尋ねた。私の問に対して
「そうですね。常磐道は可能ですよ。」
と、女性は答えてくれた。私はこの答えに対して更に
「じゃ、どのインターからも乗り降りが可能なのですか?」
と尋ねると
「いえ、乗り降りできないインターがございます。ただ、どのインターが乗り降りできないかは正確にお答えできませんが・・・。申し訳ございません。」          と、女性は答えてくれた。私はお礼を言うと、道の駅を出た。とにかく、私は小高を訪れてから常磐道にはいることにした。                         国道六号線沿いに出来た除染廃棄物集積所は、除染廃棄物が少なくなっていた所が何カ所か見られた。私は新しい集積場に移動しているのかも知れないと思いながら、撮影だけを行った。小高に正午過ぎに到着すると、ダイユーエイトが営業を再開していたがコメリは被災したままだった。地元の人に常磐道のことを尋ねるつもりでいたが、私は役場で尋ねることにした。左折して役場の駐車場に車を止めると               「すいません。道の駅で常磐道を走行することが確認できたのですが、入れないICが あると言うことなのですが・・・、こちらで詳しいことは分かりますか?」      と、尋ねると                                  「ちょっと、わからないですねー。」                       と言われてしまった。私が諦め掛けていると、その会話を聞いていた男の担当者がインターネットで調べ
「今インターネットで調べたのですが、南相馬ICに戻らないと富岡方面に向かうことが出来ませんね。」
と、答えてくれた。私はお礼を言うと、役場から南相馬市へと戻った。         国道六号線を左折して県道十二号線を走行すると、「南相馬IC」へと私は向かった。南相馬ICはすぐに通過することが出来たが、ETCを付けていないセローはいったん料金所で止まらなくてはならなかった。バイクを購入する予算だけで精一杯だった私には、ETCを取り付ける金銭的な余裕がなかった。ちょっと不満ではあったが、こうして北海道に渡り無事常磐道を走行して帰宅できるのだから幸せではないかと自分に言い聞かせながら、私はアクセルを開けた。                   
 常磐道を走行するライダーはいなかったが、こうして常磐道を走行できることは気持ちが良かった。途中、ならはPAに立ち寄るとパネルがあった。パネルには文字が書かれていた。読んでみると、「思い切なれば 必ず隊ぐるなり(道元) 平成二十七年三月」と書かれていた。

○その五十九「トーキョー2020オリンピックトーチラリー」
■二〇二〇年三月二十日(金)◆東北道から東松島市
 昨夜仕事が終わると準備をして、午後八時に自宅を出発した。やはり仕事をしてからの車の運転は辛い。東北道を走行し、白河を過ぎると眠くなってきたので仮眠を取った。午後十一時過ぎに再び出発した。最終的には「安達太良SA」で車中泊をした。他県のナンバーが多かった。考えてみたら明日から三連休だった。風が強く、車体が揺れていた。
 今朝、私は東松島での駐車場のことが心配だったので午前五時過ぎに目が覚めてしまった。東北道は昨夜から風が強く最高速が五十㎞の制限速度規制になっていたが、私は先を急いだ。朝食は、パーキングで購入したサンドイッチを食べる。東部道路から三陸道まで渋滞はなかったが、混んでいた。矢本ICを降りると、渋滞が待っていた。自転車と徒歩の人が車の脇を通り過ぎるのを見て、私は場合によっては自転車で移動することを考えた。
セブンイレブンの所までたどり着くと、取りあえず撮影場所に近い場所へと向かった。警備の人や警察官が多かったので「駐車場はありますか?」と尋ねると、先にあることが分かったのでそのまま走行する。右側に駐車場はあった。渋滞のことを考えると、駐車場はそれほど混んでいなかった。カメラを持っている人に尋ねると、此処が撮影場所に近い駐車場と言うことだった。
 まだ午前九時前なので、取りあえず車の中で今後の予定を考える。午前十一時を撮影時間と考えると、三時間の余裕があったので、車から自転車を取り出すと偵察に向かう。土手の所に人が多かったので、取りあえず土手に向かった。近くに駐車場らしき空き地があったので、車をこちらに移動させることを考えていたら「予約制の有料駐車場」とわかったので諦める。
 何人かのカメラマンから情報を聞き出すと、松島基地の近くのフェンスに車を止めることが得策と判断し、慌てて車を移動させる。先ほどまでスペースがあった駐車場も一時間ほどで満車になっていた。今ならまだフェンス脇に車を止めることが可能なので、慌てて私移動をした。
 車を移動しても、まだ午前十時前だった。午前十時過ぎには、私の止めてあるハイエースの周りも人であふれかえっていた。車よりも、人が多かった。理由は簡単で、風が強いのでハイエースを風よけに利用して待機する人が多くなってきたのだった。
 車の中で待っていると、午前九時半に雰囲気が変化した。専用機が姿を現したのだった。私は慌ててルーフキャリアに駆け上がり、シャッターを切った。その時慌てていたので、レンズフードを基地内に落としてしまった。だが、専用機の撮影には成功した。赤と白の機体には、「トーキョー2020オリンピックトーチラリー」と文字が刻まれていた。
最終的には、二時間以上車内で待機して、午前十一時過ぎに撮影をすることが出来た。最初の青い機体には、数字の「1」が尾翼に刻まれていた。子ども達の「かっこいいー」という歓声が聞こえた。全部で十二機の機体が青空を飛んだ。この強風では五輪マークはやらないと思っていたが、五輪マークを描いた。ただ風が強かったので、あっという間に消し飛んでしまった。私がこれで終わりと思った次の瞬間、五色のラインが青空に描かれた。目の前で描かれて綺麗な五色のラインはすぐには消えずに残った。
 ブルーインパルスが次々と着陸すると、私はすぐにハイエースを移動させた。大渋滞になる前にこの場所を離れなければと思ったからだ。農道から舗装路に出ると、混んでいた。混んではいたが、大渋滞でまったく動かないというわけではなかった。来賓の車を優先的に走行させていたので、混んでいたようだった。
 大曲地区から門脇地区に向かった。大曲地区も、東松島基地から出てくる車で渋滞していた。建設中だった橋は完成していて通ることが出来た。橋を渡ると取りあえず、いつものファミマで遅い昼食を取った。駐車場で食べていると、テレビ局のロケバスが二台ほど入ってきた。
 門脇地区は人で混んでいた。駐車場を探して、徒歩で人だかりの所へと向かった。途中「復興の火は、午後五時から一般公開」と書かれた看板が立っていた。地元の人に尋ねると、セレモニーがあると言うことだった。セレモニーの場所には、大きなドーム型の建物が建っていた。警備が厳重だったので近づくことは出来なかった。

○その六十「オリンピック聖火リレー」
■二〇二〇年三月二十一日(土)福島県新地町
一部嵩上げが終了した県道三十八号線を走行して、私は中浜小学校へと向かった。 中浜小学校に到着すると、前回建設中だった建物は完成していたが、中にはいることは出来なかった。出入り口には、「開館準備中」の看板だけが見えた。
 国道六号線を走行して新地駅前に向かうと、駅前のホテルに「つるしの湯」ができていた。更に駅前から嵩上げされた新しい県道三十八号線に向かうと、
「交通規制のお知らせ 東京オリンピック聖火リレーのため、三月二十七日(金)七時から十一時まで通行止め」と書かれた立て看板が右側に見えた。新しい県道三十八号線に出ると、「釣り師公園前十字路」には、「ランナバウト」が完成していた。
☆自宅に到着すると、「オリンピック延期」のニュースが流れた。聖火リレーを撮影する つもりでいた私は、門脇で「復興の火」を撮影しなかったことを後悔してしまった。

○その六十一「移動されていた小高の除染廃棄物」
■二〇二〇年三月二十一日(土)福島県南相馬市小高
 小高を訪れると、小高の除染廃棄物仮置き場から廃棄物が移動されていた。あれほどの廃棄物をいつの間に何処に移動させたのかと思うぐらい除染廃棄物はなくなっていた。この仮置き場の撮影も継続して行っていたので、撮影をする。撮影が終わると、再び国道六号線を走行する。                                 私が右側のファミマを横目に走行していると、前方国道六号線沿い左側にセブンイレブンが見えた。撮影することを考えてコンビニを訪れるつもりだったが、私は通過してしまった。

○その六十二「請戸小学校」
■二〇二〇年三月二十一日(土)福島県浪江町請戸
小高から浪江にはいると、右側に見える「浪江ボウル」に足場が組まれていた。足場を組むと言うことは、改装なのか解体なのか?(後で解体と分かった)請戸川を渡ると、左折して請戸を訪れる。請戸を訪れるのは今回で三度目だが、今回私は請戸小学校を訪れることが出来た。小学校は、被災したままだった。海の見える小学校だった。
 国道に戻る途中、「大震災内匠町復興祈念碑」を右側に発見した。車を止めて撮影すると、国道を横切って駅前に向かった。国道を横切ると、左側に役場、右側に新しい建物を発見した。(新しい建物は、後で道の駅と分かった。)

○その六十三「常磐線全線開通」
■二〇二〇年三月二十一日(土)福島県浪江町
浪江駅前には、すぐに到着した。車のエンジンを掛けたまま、駅前で撮影をする。駅前には、大きな看板が下げられていた。読んでみると、「祝!JR常磐線全線開通」と書かれていた。人影のない駅前で数枚撮影すると、私は駅前から再び国道六号線へと戻った。 浪江駅前周辺では建物の解体工事が多くなっていたので、私はエンジンを掛けたままシャッターを切っていた。とても「常磐線全線開通」にふさわしい町並みの様子ではなかった。唯一、国道にでると右側にオープンしたビジネスホテルが見えただけだった。 

○その六十四「営業再開、道の駅ならは」
■二〇二〇年三月二十一日(土)福島県楢葉町
 トイレ休憩でいつも立ち寄る道の駅「ならは」を訪れる。道の駅「ならは」は、温泉が入れるようになっていた。以前のような形態ではなく、元の道の駅としての形態に戻っていた。建物には足場が組まれ、まだ完全営業ではなかったが、温泉に入れるのは有り難い。また、駐車場にはバイクが多く止まっていた。考えてみたら、浪江町のローソンでもバイクを見かけたが・・・。一枚の看板から理由が分かった。今までの看板から「二輪車」を削除したのだ。ただ、徒歩と自転車は今でも通行止めだった。国道六号線にバイクが多いのは、放射能の関係だったのだった。
 大津漁港を訪れると、三連休にもかかわらずひっそりと静まりかえっていた。車から降りてトイレを探していると、出入り口に「お知らせ 新型・コロナウィルス・感染拡大予防のため今月三十一日まで臨時休業とします」の張り紙があった。国道六号線を南下して、私は北茨城市で完成した堤防を撮影すると、状本堂を走行して帰宅した。
 自宅に戻ると、震災から九年目が過ぎた日本は今大変なことになっていた。「非常事態宣言」が出されても、数が減るどころか増加している。(これを書いているのが二〇二〇年四月九日、学校は入学式が中止になり五月六日から新学期がまると言うことだった。)

○その六十五「セロー(ヤマハのバイク)で走行した国道六号線」
■二〇二〇年七月十七日 ◆福島県国道六号線
 早めにテントを撤収して、道の駅の休憩所で朝食をとってから門脇地区へと向かった。門脇小を訪れると、校庭にプレハブ小屋と砂利の山ができていた。今まで気が付かなかったが、閉校記念碑が建てられていたのを発見する。新しく購入したズームレンズで日付を見ると、「平成二十七年五月三十一日」と刻まれていた。
 三月二十日に「復興の火」が置かれていた円形のドーム状型の建物は、まだ完成していなかった。今回は中に入れると思っていたのだが、まだまだのようだ。「がんばろう石巻」のヒマワリを撮影すると、高速道を走行して、蒲生地区へと向かう。
 蒲生地区に建てられた「なかの伝承の丘」に変わりはなかったが、周りの建物が増えていた。嵩上げされた県道十号線を走行して亘理方面へと向かうと、三月に通り過ぎた「海岸公園馬術場」が左側に見えたので訪れる。敷地内に入ると、慰霊碑が建てられていた。石碑には、「東日本大震災で亡くなりし 全ての馬の哀悼の碑」と、文字が刻まれていた。
不審者と思われたのか、責任者が近づいてきたので私が石碑について尋ねると、ここで何頭かの馬が死んだので慰霊碑を建てたことを説明してくれた。             再び県道十号線を走行していると、閖上地区に新しい商業施設「食彩館」が作られていた。私は商業施設の撮影が終えると、中浜小へと向かった。県道三十八号線は、県道十号線と同じように道路のかさ上げ工事がおこなわれていた。片側通行が多くなった県道三十八号線を走行していると、左側に旧中浜小が見えた。旧中浜小学校の遺構施設は、完成していた。トイレも作られていたが、まだ使用できなかった。看板もすべて完成していたが、残念なことに県道からの出入り口の工事が終わっていなかった。
去年と同じように常磐道を走行して帰宅することも可能だったのだが、浪江町から国道六号線を走行する。青森県六戸町から一日で帰宅することが可能だったのだが、あえてこの国道六号線を走行するために二日間の日程で帰宅することにした。その目的が分かるように、私は、「注意 軽車両 歩行者は通行できません。原子力災害現地対策本部」と書かれた看板をバイクと一緒に撮影した。
 トイレ休憩に使用していた道の駅「ならは」は、足場が撤去されていた。全ての施設が使用できる状態に戻されていたので、これからは道の駅「よつくら」に変わってこの道の駅「ならは」を車中泊に使用することが多くなるかも知れない。何せ、日帰り入浴施設が併設されているのだから・・・。。
常磐道四倉ICから高速道に入り帰路につく。残念ながら、水戸を過ぎてからは雨に降られてしまった。今回はコロナ問題があるにもかかわらず、六月末から北海道に渡ることができ、七月半ばに梅雨前線が停滞する三陸沿岸を走行して帰宅することが出来た。

○その六十六「道の駅ならは」
■二〇二〇年十月四日(日)◆福島県楢葉町
 午後二時過ぎに自宅を出発する。常磐道を走行し、四倉ICを降りる。道の駅「ならは」に到着する頃にはすでに日が暮れていた。道の駅の入浴施設に向かったが、入場制限を受け、二十分ほど待たされた。入浴料は、七百円だった。風呂は混んでいなかったが、コロナ対策のために人数を制限しての入浴だった。温泉から出ると、近くのコンビニに買い出しに向かった。道の駅に戻ると、夕食を食べて寝た。車中泊は思ったよりも少なかったが、温泉が併設された道の駅は何度車中泊しても便利だ。

○その六十七「道の駅なみえ」
■二〇二〇年十月五日(月)◆福島県浪江町
 バイクを積んでいるので、車の中での自炊は行わなかった。朝食は国道六号線沿いのコンビニでとった。下小塙の元仮置き場では、稲刈りが終えている場所があった。中間貯蔵施設に廃棄物を移動したので、きちんと農作物が収穫できることが分かった。商店街を過ぎると、国道六号線右側のビルの一階にコンビニがオープンしていた。
 富岡駅を訪れるが、利用者はいなかった?午前七時過ぎだから利用者がいると思っていたのだが・・・。富岡の国道六号線周辺は、ビジネスホテルとアパートが更に増えていた。更地には売り地になっているところもあったが・・・。作業員向けのビジネスホテルやアパートが建てられたおかげで、国道六号線の渋滞は緩和された。(常磐道が全線開通したことも理由にあげられるが)
 帰還困難区域に入ると、「徒歩と軽車両」は前回と同じように通行禁止となっていた。帰還困難区域を走行していると、帰還困難区域内の解体も行われていた。更地には何ができるのだろうか?浪江町にはいると、請戸川橋左手前に新しい建物が完成していた。
 前回訪れたときに建設中だった建物は、道の駅「なみえ」だった。私は、左折して道の駅の駐車場に入った。道の駅の駐車場は広かったが、車は駐車していなかったが?道の駅の施設にはいると、木の臭いがした。様々な掲示物を見ていると、「東日本大震災・原子力災害伝承館」のポスターに興味が湧いた。場所がよく分からないのでパンフレットを探していたら、見つけることが出来た。                      
トイレに入ってから、私は再び駐車場に戻った。

○その六十八「東日本大震災・原子力災害伝承館」
■二〇二〇年十月五日(月)◆福島県双葉町
道の駅の駐車場で請戸の慰霊碑を探すか迷っていたら、再び先ほどの「東日本大震災・原子力災害伝承館」のパンフレットを手にした。近くにある施設だったら、訪れることも計画に入れた。私はパンフレットの住所をナビに登録して、場所を確認した。      もう一度国道六号線を戻らなければならないことが分かったが、「請戸小学校」に近い場所に建てられた施設であることも分かった。請戸小学校と慰霊碑が近くにあるのなら、「東日本大震災・原子力災害伝承館」を訪れてるのもありかなと考え、私は道の駅から伝承館へと向かった。さほど時間もかからず、私は到着してしまった。          午前九時前だったので、周りを散策してから訪れた。入館料六百円を支払って中にはいる。撮影禁止なので、回るのは早かった。二階では質問に長くなってしまったが、「除染廃棄物を入れる黒い袋は元々あった物を利用しただけで、専用に作った物ではなかったこと。」「中間貯蔵施設では分別作業が行われていること。」を初めて知ることが出来た。

○その六十九「探すことができた請戸の慰霊碑」
■二〇二〇年十月五日(月)◆福島県浪江町
 伝承館を出るときに、私は受付で                        「すいません。請戸の慰霊碑を探しているのですが、もし知っていたら教えてほしいのですが?」                                    と、尋ねた。受付の人は                             
「慰霊碑は、大平山霊園に建てられていますよ。」
と教えてくれたので、私は
「請戸漁港周辺を探して、墓地のあるところを訪れたのですが慰霊碑は見つかりませんでしたが・・・・」
と、何度か請戸を訪れていることを伝えた。受付の人は私の言葉を聞いて
「請戸小学校は知っていますか?」
と尋ねてきたので、私は
「知っています。二度訪れているし、近くの墓地も探しました。」
と答えると、受付の人は
「大平山霊園の案内板があるので、間違えることはないと思います。たぶん、お客様は違う墓地を訪れたのでしょう。ここから海岸沿いに走行すれば、請戸小学校が右側に見えますから、小学校の反対側にあるので反対側を見ながらら走行して下さい。」
と、再度教えてくれた。
 工事中の海岸沿いを走行すると、請戸小学校の反対側に大平霊園は見えた。県道二五四号線を案内板に従って左折すると、「大平山霊園」に慰霊碑があった。「母子像」も建てられていた。令和二年三月十一日と文字が刻まれていたので、今年建てられたばかりだったことは理解できた。母子像の近くには、「宇宙桜」が植樹されていた。二〇一八年四月十一日に植樹され、原木は私が何度か訪れている、「山高神代桜」だった。慰霊碑は奥に建てられていた。
●慰霊碑
 平成二十三年三月十一日午後二時四十六分、福島・宮城・岩手を中心に最大震度七の地 震が発生した。この地震により家屋は倒壊し、道路は寸断された。その約四十分後に浪 江町沿岸に津波の第一波が到達した。第二波が襲来した後、さらに高さ十五メートルを 越す大津波が町を襲った。住民にはこれまで大津波被災の記憶はなく、避難が遅れ大津 波に驚愕し、請戸、中浜、両竹、南棚塩の集落は全てのみ込まれた。
 翌十二日には東京電力福島第一原子力発電所の事故により、国から避難指示が発令さ れたため、住民は避難を余儀なくされ、捜索や救助を断念せざるえなかった。この地震 と津波により、住民一八二名の尊い命が失われた。私達は、災害は再び必ずやってくる ことを忘れてはならない。
 ここは太古の昔から人が住み、青い海と白い砂浜を眺望できる所である。この地に、 犠牲者の慰霊を慰めるとともに、先人が愛した豊壌の大地と海を慈しみ、浪江町の復興 を願い、この碑を建立する。
           平成二十九年三月十一日 建立者 浪江町
二つの球について
この碑の両側に配置した二つの球は、農民に恵みを与える太陽と、漁民の指針となる月 を象り、平安で幸福な生活を表現した。
☆慰霊碑も母子像も海に向かって建てられていた。そこには、被災した請戸小学校が見え た。

○その七十「釣師防災緑地公園」
■二〇二〇年十月五日(月)◆福島県新地町釣師浜
 国道六号線から、相馬港を訪れる。相馬港から県道三十八号線を走行していると、「新しい浜田橋」が建設中だった。新しく拡張された県道三十八号線を走行して、私は新地を訪れた。「釣師防災緑地公園」はすでにオープンしていた。              嬉しかったのは、「復興のフラッグ広場」が公園内に設置されていたことだった。「風の碑」を探したが、見つからなかった。「風の碑」は見つからなかったが、フラッグが風になびいていた。
広い公園内を歩いていると、「釣師北畑墓地跡」という石碑が「想いの丘」の階段下に建てられていた。石碑を読んでみると、以前ここが墓地だったことが書かれていた。「想いの丘」を訪れると、右側に建てられたモニュメントに説明が書かれていた。真ん中には、大きな石碑と鐘が建てられていた。左側の石碑には、「未来へ繋ぐ命」と文字が刻まれていた。
●「新地町東日本大震災」
震災モニュメント
二つの大きな石は、人と人とが互いに寄り添い、助け合い、支え合う姿を中心の鐘は、 希望を表現しています。
お互いの胸の位置で「希望」を育みながら、大震災からの復興を願っています。
●「未来へ繋ぐ命」
伝え繋ぐ大津波の教え                              津波が来る前に必ず逃げよ。
そして自分を助けよ。
この地は、大津波により壊滅的な被害を受けた。
多くの命と家を失った。
この記憶を語り繋いでほしい。

○その七十一「十年目に走行した埒浜地区」
■二〇二〇年十月五日(月)◆福島県新地町埒浜
震災当時から、県道三十八号線は「埒浜地区」の走行ができなかった。釣師浜地区はかさ上げ工事が始まると長い期間走行ができなかったが、「埒浜地区」は十年目にやっと走行できた。
 今回は走行することが出来なかった県道三十八号線を走行して、私は中浜小学校へと向かった。県道を走行していると、左側に石碑が建てられていたので私は立ち寄った。石碑台が四基設置されていたが、石碑は三体しか建てられていなかった。左側の石碑台だけには石碑が建てられていなかった。右側の石碑には、「埒浜地区の思いで」と文字が刻まれ、後ろに一本の松の木が植樹されていた。
●埒浜地区(らちはまちく)の思いで
一、黒松
二、防潮林造成記念碑
三、吉村亘徳先生碑
四、ブラジルに移住した荒秀治夫婦の記念碑
                        令和元年十月三十一日
三百メートル前後県道三十八号線を走行すると、再び右側に石碑が見えた。駐車場があったので、私は右折して車を駐車場に止めると石碑に近寄ってみた。石碑は震災には関係ない石碑だった。ただ、石碑の建つところからさらに新しい石碑が駐車場に見えたので、私は再び駐車場に戻った。長方形の黒い石碑だった。高さが三十センチほどの、横に長い長方形だったので目立つものではなかった。黒い石碑には、文字が刻まれていた。
●平成二十三年三月十一日に発生した東日本大震災は、沿岸部の市街地に甚大な被害をも たらした。
いち早い復旧・復興が望まれる中、地方自治法派遣職員の尽力により、着実にその聖火 が収められた。
長期間にわたり福島県を支援した功績を讃え、有志の名を此処に記す。
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