第1話 不思議のはじまり

文字数 3,343文字

「どこか、行きたいところない?」
最初はそんな何気ない会話からでした。
 昼間に仕事に忙殺された日の夜。日曜日の前の日でした。ミイラのような顔をした僕に、ゾンビのような顔になった妻が尋ねてきたのです。
「アイディアが・・・浮かばない。どこか、行きたいところない?」
そういうことか。と僕は、納得しつつ少しがっかりした気持ちになりました。てっきり旅行や出かける話かと思ったからです。
「そうだなぁ。宇宙なんかどう?」
「宇宙か。冥王星のあたり?」
「いや、もっと先。」
宇宙は難しいなぁと言いながら、妻は“ワームホールの謎の謎“という、なんだか訳のわからない本を本棚から引っ張り出していました。
 妻は、売れない物書きの仕事をしています。正確にいうと売れない物書き兼、中学校の非常勤講師。最初はフルタイムで働いていたのに、「もう無理」と言ってからちょうど1年が経ちます。死人のようだった顔が、最近ようやくゾンビのような顔に戻ってきました。家計は苦しいけれど、屍から少しは動ける存在になって何よりです。
「宇宙が難しいなら、なんか畑がいっぱいあるところがいいな。」
「畑?」
「そう。果物とか、野菜とかが取れるところ。で、そこに住んでいるのは少し陽気なドワーフとか小さな人じゃない生物?エイリアンもいいけどね。」
「うーん。」
妻は僕の言葉を聞くと、今度は“指輪物語“と“空想生物図鑑“と“やさしい家庭菜園“という本をとりだしました。
・・・本当に色々な本持っているなぁ。でも、指輪物語はダメだろ。色々な意味で。とか色々な考えは浮かびましたが、とりあえず風呂の湯船に浸かることにしました。

✳︎✳︎✳︎

 「こんな感じになった。」
ヒノキの香の温泉のもとを入れて、ゆったりと入浴して出てくると、妻が原稿用紙を見せてきました。文字がいくつか並んでいます。
「新しいお話?」
「うん。」
「そっか。とりあえず、服着ていい?」
「あ、ごめん。」

 妻をヒノキ風呂に押し込むと、「完成したら読ませて。」と言って、昼間の疲れもあってかすぐに眠ってしまいました。夜中、うとうととまどろんでいる時に妻が原稿用紙にカリカリと書く音を聞いた気がしましたが、また寝落ちしてしまいました。
 明日は日曜日。

✳︎✳︎✳︎

 日曜日の朝。僕にしては快挙なくらい早く目が覚めました。と言っても、8時なので一般的には寝坊なのかもしれません。妻は昨夜遅くまで起きていたのか、珍しくまだ眠っていました。
「焼きたてのパンでも買って、驚かせてみようかな。」
いつもなら、そのまま二度寝をする僕がそう思う、奇跡のような朝でした。簡単な身支度を整えると玄関のドアを開けて外に出ました。
 奇跡のような朝だったからでしょうか。不思議なことが起こってしまったのは。

 僕たちの住んでいるアパートは1階ではありません。なので、外に出てフェンスのそばに行くと空と遠くの山と遠い地面が見えるはずなのです。
なのに、外に出ると土がありました。僕は目を擦って、ドアを閉めました。そしてまた開けました。
「どこだここ?」
土の道でした。石垣がその両端に並んだ土の道。昔、妻に見せてもらった湖水地方の田舎道のようなでした。道の先には何やら果物の木があって、英語で何か書いてあります。さらに先に、煙突がある家からは煙があがっていました。
「・・・うん、夢だな。」
僕は呟きました。どうやらまた二度寝していたようです。
夢なら楽しんでみるか。そう思って、その田舎道に出てみました。
リアルな夢でした。草の湿った匂いから、朝独特の空気まで感じました。
先ほど見えた煙突のある家の前に、パンを何個も運んでいる男性が見えました。籐の籠の中のパンは、焼きたてのように見えました。
日本円しかないけれど、まあ夢だし。そう思って、僕はその人に近づいてみる事にしました。
 しかし、近づいてみて違和感を感じました。どうみても僕より筋肉がありそうなその男性は、僕の身長より少なくとも50cmは小さな人でした。なのにフランスパンのようなものが何本も入った籠を軽々と持ち上げています。
「あのー。」
「ん?なんだい兄さん、旅人か。」
彫りが深い顔のその人は、流暢な日本語を喋りました。
「そんなところですが、そのパンは売り物ですか。」
「朝市に今から持って行くところだ。買うなら、一緒にのせてってやろうか。」
そう言って、男性はすでにパンの籠が幾つも積んである荷馬車を指差しました。
「あ、えーとでもここってこのお金使えますか?」
「なんだこれ?」
日本円を見せたら、怪訝な顔をされてしまいました。どうやら世の中そううまくはいかないようです。
「物々交換もできるぞ。」
「物々交換・・・少し待っていてもらってもいいですか。」
「構わないが、急いでくれよ。」
僕は、早足でもと来た道を引き返しました。幸い、出てきた扉はまだあって開くといつも通りの家の廊下がありました。
「交換できそうな物・・・」
僕は考えて、とりあえず米を1合ずつ、ビニール袋に3袋分。500gのグラニュー糖の袋を持って男性の元に引き返した。
 荷馬車の後ろは、居心地がいいとは言えませんでした。硬いし、揺れるし、何度お尻が痛くなったかわかりません。
 しかし、パンの匂いと澄んだ空気と景色は格別でした。電線や建物のない空の広さと青さは久しぶりでした。

✳︎✳︎✳︎

「朝市って、何があるんですか。」
「今日は、チーズがある日だな。後は、りんご祭りで売れ残ったりんごをジャムにしているはずさ。」
「なるほど。ちなみにこのパン、これと交換できますか。」
私はそう言って、グラニュー糖の袋を取り出しました。
「なんだいこれは?」
「砂糖です。」
「は!?」
男性は大きな声を出した後、耳打ちしました。
「勘弁してくれよ兄さん。本物なら100gで俺のパンが3本買えるぞ。」
「え・・・」
「なんだ、相場を知らないのか。」
「なら、200gでパンを2本ください。残りはここまでの交通費・・・連れてきてもらった代金ということで。」
「いいだろう。ただ、多すぎるのはなんか気持ち悪いから帰りも送ってやろう。」
知らない土地では、最初に会った人がいい人かどうかで良くも悪くもなるというのが僕のイメージでした。僕は幸運を引いた夢を見れたようです。
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、お願いします。」
「おう。」

僕はその後に、葉がついたニンジンを米1合と。チーズ1塊をグラニュー糖100gと交換しました。トマトも赤くて美味しそうなのと米2合を交換しました。はちみつとりんごのジャムは1番高くて1瓶でグラニュー糖120gと交換になりました。
パン屋の男性の元に戻った頃には日もだいぶ高くなってきていました。このままでは、朝ごはんでなくてブランチ確定だな。と妻がまだ寝ていることを祈りながら思いました。
パン屋の男性は、言った通り帰りも送ってくれました。僕は、200gより少し多く残ったグラニュー糖の袋を男性に渡し、お礼を言って例の扉に戻りました。

✳︎✳︎✳︎

扉がなかったらどうしよう。そう考えもしましたが、扉はきちんとそこにありました。恐る恐る開けると、いつもの廊下とその先のリビングへ続く扉が見えました。
「ただいま。」と言って、荷物を下ろしました。重かったので、手が痛くなっていました。こんなところまで再現するなよ、夢。と思いながら、扉の鍵を閉めていると。
「おかえり。どこ行っていたの?」
と妻が寝室から出てきました。
「ただいま。・・・・・ん?」
「どうしたの?」
「いや、リアルな夢だなって。」
「寝ぼけてるの?それと、どうしたのこのパンと野菜と・・・ジャム?」
「え・・・」
僕は、玄関に置いた荷物を見ました。パンが2本、葉がついたニンジンに、チーズにトマト。そして、りんごのジャム。
「え・・・」
「どこかで買ってきてくれたの?外、晴れてた?」
僕が固まっていると、玄関を妻が開けました。
「あ、曇ってるね。」
妻が開けた扉の先には、いつもの風景が広がっていました。
その日の朝ごはんは、パンの上にチーズやジャムを乗せたもの。トマトのサラダに紅茶になりました。妻にどこで買ったの?と質問されましたが、「よく覚えていない。」としか話せませんでした。
秋のある日曜日、朝の8時の出来事でした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み