第1話

文字数 1,952文字

 退職するまでの10ヶ月間。私は毎朝5時に起き出勤時間から逆算して7時にアラームをセットし顔にサボリーノを貼つけて泣きながら、両手からこぼれて二進も三進もいかない案件を放り投げて死ぬかまたは仕事行くかの2択を迫られていた。そしていつも仕事の煩わしさが死の恐怖に負け、アラームを切りサボリーノを剥がしてタオルで目の腫れを消しながら歯磨きをしスーツを着て化粧をした。
 仕事は自分が生きるためにやるものだと言われているが、あの時期の私にとって死を選ばないことが仕事をする事だった。

 今思えば馬鹿馬鹿しい話だ。その場のノリで退職願を書き、仕事に腹痛で休みと電話をかけ、精神科に行き鬱の診断書を貰って、社長の家に内容証明で送って残りは名目ばかりの有給を消化すればいいのだ。
 退職願を社長に手渡ししないのは社会のルールに反する?うるさい。その時期は社長はコロナを理由にたとえ社長自身のミスの謝罪でさえ私だけを現場に派遣して涙ながら謝罪する私に気づきながら、自分は毎日のうのうと私の5倍の報酬を貰いながらソファで横になり相撲を観ていたのだ。
 お察しの通り、私の勤めていた会社はブラック企業だった。平均毎月120時間ほど残業し、最高タイムは210時間だった。みなし残業制が採用されており私の残業時間は20時間で2万と定められていたため、私は最低で時給100円未満で働いていたことになる。私は結局一度も超過残業代を貰わなかった。社内が残業代の請求を許さない雰囲気だった。内勤の同僚が8時間の残業代の請求をしたところ、社長から1時間以上仕事のやり方が悪いと頭ごなしに説教され今月だけだぞと認められた。その直後その同僚と一部ペアを組んで仕事をしていた私を呼び出し1時間以上説教を受けあいつに仕事を回すなと命じた。
 退職する10ヶ月前、崩壊のきっかけとなったのがその頃職場で起こった盗難事件だ。運悪く犯行時刻となる休日に私は出勤しており、容疑者の1人となった。当時の私は気付かないうちにストレスをかかえていた、頭痛が止まらなくなりPCで白い画面を見ると目が見えなくなるためサングラスをかけて仕事していた。犯人はその時期の現場マネージャーだった、彼は会社近くの質屋に質入れしていた。もうこの時点で職場が崩壊していたことが分かる、マトモな人は残っていなかった。1年での退職率は50%を超え、辞めていったのはみんな家族のいるシニア社員だった。経験者が辞めるたびに、新人が補充される。退職する時私の勤続年数2年は役員を除いて上から3番目だった。私たちは使い捨ての兵隊だった。
 何故辞めなかったと聞かれると言葉に詰まる。あの時期の私の中には死ぬか仕事に行くかの二択しか存在しなかった。そして、あろうことか私は幼い頃から死が怖かった、というよりも死を含めてわからないものが怖かった。例えば宇宙の果て、例えば原因不明の病、例えば私が生まれる前の私の意識、例えば私が死んだ後の私の意識。希死願望が明らかに薄い私が仕事に行くか死ぬかの二択で悩むのだから相当だったのだろう。でも結局毎朝死の恐怖に負けて仕事に行き、怒鳴りと無茶振りされた仕事に囲まれ、午前様続きで恋人と別れてそのままの家へ帰り明日仕事に行くためだけに自分に鞭を打って風呂に入り無理やり飯を食べて家族や友達・元恋人からの溜まるLINE通知を横目に睡眠をとっていた。夜中目が覚めて水を飲むと喉に詰まるためマンション前の自販機でアクエリアスを買い、ベッドで横になってしょっぱい水分を啜りながら死の恐怖と戦う朝を待った。

 お世話になったと顧客から私と社長宛てのプレゼントを預かって帰社した途端「君に貰う権利はない」と取り上げられたり、定時から2時間経過した後にかかった社電を受けると息子が帰ってこない晩御飯が出来たと言えと3時間前に直帰した副社長の捜索を依頼されたり、「お前最近太ったな」と身体測定の結果を目の前の顧客に暴露されいじられたり、過ごしていたそんなある日。昼間の公園で荷物を下ろして昼ご飯がわりのコーヒーを飲んでいたら、突然死が怖くなくなった。30年生きてきてはじめての経験だった。あんなに怖かった死が痛くも痒くもない、同時にこの世が馬鹿馬鹿しくなった。私は社長に電話した、昼寝していたらしく不機嫌な社長に「辞めます」と言った。

 退職する時「お前みたいなやつ社会で生きていけない」と社長に言われたが何とも思わなかった。もう、死にも生にも執着がなかった。

 半年が経った。未だに私は死を選んでない。毎日朝7時に起床のアラームをとめて朝食を作って食べて薬を飲み歯磨きをし洗顔し化粧水で顔を引き締めて化粧を施して、仕事に出かけている。
 毎日少しずつやっぱり死が怖いことを思い出している。
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