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 その時咄嗟に思い浮かべたのは、母ではなかった。
 まな板で豆腐を切ろうとして、少し悩んで切らずに手のひらに乗せた。とりあえず引かなきゃいいんだろ、と包丁を慎重に下ろしてそっと抜く。もう少しくらいはさいの目らしく切れると思ったが、完成したものは少し歪だった。まあ、そりゃそうだ。呆れながら鍋に豆腐を入れていく。キッチンに立つことすら多くないのに、ましてこんな味噌汁なんて温かみのある料理を自作する機会なんて年単位で久しいのだから。
 わかめを入れ終えて味噌を溶かす。この味噌を溶かすって工程もかなり温かみがあるよなあ、と思う。料理に対する解像度が低いのか分からないが、豆腐のさいの目切りはともかく味噌を溶かすという工程が発生する料理と言われて味噌汁以外の料理はなかなか思い浮かばない。
 大丈夫だろうけど……。と独り言を呟き少しだけ味見をする。まあいいか。少し薄い気もするが、この味噌汁を飲む奴は意外と薄味が好みだった。
 火を止めてキッチンを離れようとした時、ちょうどカウンターに置いているスマートフォンが鳴った。覗いた液晶には「半には行く!」というメッセージが映し出されている。現在時刻は午後八時二十分、あと十分だ。少々連絡が遅すぎる気もするが、そんなことは想定内だ。
 あいつと会うのは何度目だろうか、と高梨は考える。
 彼、——桃瀬翼と初めて出会った時、自分とは真逆のタイプの人間だと思った。偽物ではなく本物のお人好しだと。意欲もあって真面目で、かと言って抜きどころを知っているが故に堅さの無く、好かれやすい男。いつだったかこの話を桃瀬にしたことがあったが、桃瀬は当時高梨のことをどう思ったかほとんど覚えていなかった。もっとも、本物のお人好しは初対面の人間の腹を探って本質を見抜こうなんてことはしないのだろう。
 ただでさえ学部が違う上、知り合ったのは既に大学生活も折り返しを迎えた頃だ。どうせ長くて二年の仲だと思っていたし、わざわざ自分から連絡を取るつもりもなかった。自分にとって友人とは流動的、可変的なもので、古くからの友人と呼べるほど長く続いた関係はほぼ無かった。
 しかし、想像とは裏腹に卒業してからも連絡が途切れることはなかった。桃瀬が定期的に連絡をしてきて、それに応えているうち自分からも連絡をするようになり、知り合った頃から数えるともう七年が経つ今も数か月に一回は顔を合わせている。特に桃瀬の仕事がフリーランスになって以来はその頻度にも安定感がある。こちらも予定を合わせていないと言えば嘘になるが。とはいえ大体は手頃な居酒屋ばかりで、家に招くのはかなり久しぶりだった。
 炊飯完了を知らせる通知音で我に返った。そうだ、奴がもうすぐ来るのだと思い出し、いそいそと炊飯器の中を覗いて軽く混ぜる。
 桃瀬は大学生以前から料理の習慣があったらしく器用にあれこれ作るタイプで、また自炊を忌避する高梨の食生活を心配してなのか何かにつけて飯を渡してくれる。自宅で飯を食う時なんかは絶対になにかおかずを持ってくることが確定しているから、せめて白米と味噌汁はこちらで用意する、というのが高梨の勝手に決めたルールだった。自宅に招く友人のために料理を作ることがこんなにも落ち着かないことだったのは、完全に誤算だった。
「ちょっと時間余ったか……?」
 壁掛けの時計をちらりと見た後、洗い物に着手しようとしたところでインターホンの音が響いた。ドアを開けると見慣れた
「いらっしゃい」
「酒買ってきた〜。あとこれ、一緒に食べよ」
 桃瀬はにこにこ微笑みながら右手に持った紙袋を持ち上げる。靴を脱ぐために受け取った紙袋を覗くと、中にはおかずが詰められたタッパーがいくつか入っていた。ごとっと重い音を立ててカウンターに置かれたのは左手に持っていたビニール袋で、中身はまあ、酒だろう。好きな酒が飲めると思って、自惚れていることを自覚した。いちいち小さな期待をするタイプではなかったんだけどな。
「すげえ、いつもありがとう」
「今日は食べきれないと思うけど、作り置きだから少しなら日持ちするよ」
「はい………」
 中身を覗きながらキッチンに向かうと、桃瀬はリビングに腰を下ろし、ガラガラ鳴っているビニール袋の中身をテーブルの上に並べ始めた。
「海里もすればいいのに、多分気質的にはハマると思うんだけどなー」
「苦手ってわけじゃないんだけどね。楽しいと思えるまでの技術がないだけで」
「そりゃそうだ、楽して上手くはなれねえよ」
「ほんとにそうだよ」
 食べる分だけのおかずをお皿に移し電子レンジに入れ、来客用の食器の中から一つ、――もうほとんど桃瀬専用になってるものを取り出しながら言った。
「ご飯と味噌汁だけ作ってあるよ」
「お、やったー! いいじゃんいいじゃん。じゃあ酒は飯の後にしよう」
「そんな時間あるか?」
「ないと思うけど、終電に間に合わなかったら泊まればいいだけだし」
 さも当然のように言う桃瀬に、高梨は面食らったあと小さく笑った。
「………まあ、そうだね」

 ご飯と味噌汁に加え、鶏肉のトマト煮、鮭の西京焼き、きんぴらごぼうにほうれん草とベーコンのキッシュ。作り置きにしてはなかなか手の込んだラインナップである。皿や茶碗が着々とテーブルの上に並び、料理の暖かい匂いが部屋に広がる。コップにお茶を注ぐ高梨があ、と呟く。
「前来た時に置いてったタッパー、持って帰ってね」
 それを聞いた桃瀬は大きな声をあげた。
「ここにあったのか! 何か数合わないと思ったんだよな」
「うちに来るのは久しぶりだもんな。……よし、準備もできたことだし」
 向かい合わせになった二人が両手を合わせた。
「いただきます」
「と、一度目のかんぱ〜い」
 桃瀬がにこにこしながら麦茶の入ったコップを持ち、向かいのコップにコツンと当てる。高梨は半ば呆れながらもそれに応えた。ご機嫌だな、と思う。
「確かに、言われてみれば久しぶりって感じするね」
 ふふ、と笑いながら桃瀬が味噌汁をすする。
「そんなこともないよ、会うのが久しぶりってわけじゃないしな」
「それはそうだけど!」
「さあ、食お食お。どれ食べるか迷うな~」
 高梨はテーブルの上を見渡して言った。普段は食事にこだわりがないのもあって、一人でご飯を食べる時はそもそも迷うほどの品数を用意しない。賑やかな食卓を前に頭を悩ませる高梨に向かって桃瀬が溜め息を吐く。
「お前あんまり食生活に関心ないから心配になるよ」
「うーん、結構意識してないとどうしても優先順位が低くなるんだよなー」
「外での飲み会では最低限しか食わないしな、ああいうの飯食ってる気しないから」
「あー、分からんこともないけど、俺は遠慮なく飲み食いするな~」
 ふと、何かを思いついたかのように背筋を伸ばした桃瀬がにやにやしながら酒の入った冷蔵庫を指さす。
「珍しく一気飲みとかしちゃう?」
「柄じゃない、却下。というか俺らもうアラサーだし」
 自分で言葉にして落ち込みうなだれている高梨に追い打ちをかけるようにして桃瀬が話を発展させる。
「アラサーと言えば、最近会社で働いてた頃の同期が入籍してさ、結婚祝い買わないとなんだよね~」
「ああ……結婚か、そんな年か……」
「そうだよ、だってもう二十七歳だもん。やだー! 納期以外の何者にも急かされたくねー」
 結婚という言葉に高梨ははっとする。結婚をするのだろうか。こいつも、俺も。一点を見つめながらしばらく黙り込んだ後で、意を決したように口を開いた。
「……あのさ、来月どっか休みある?」
 高梨の突然すぎる問いに、桃瀬は顔をきょとんとさせた。
「あるよ? さすがに何日かは休みあるから」
「出来れば中旬までがいい。………俺の地元、一緒に行かない?」
「いいよー、……あれ? そういや海里の地元どこだっけ?」
 高梨の提案を受けた桃瀬は快諾したものの、すぐに首を傾げた。
「岩手の田舎の方。多分言ったことないと思う。お前の地元は知ってるよ」
「やっぱり? 聞いたことないと思った! へー、岩手……盛岡……わんこそば?」
「それみんな言うんだよな、逆にみんなそれしか言わない」
 キッシュを取り分けながらあー、と憐憫の混じる声で唸る。あとから大きな声で「待って、じゃじゃ麺もある! 俺はじゃじゃ麺も分かる男だ!」と追加の回答が来るがスルーした。
「岩手の人は麺類好きなの?」
「知るか、そんなこと……。そういや冷麺もよく食ったな。もしかしたらその説あるかも知れない」
 高梨がなんか三大なんとかみたいなのあった気が……と眉をひそめている間に桃瀬は白米を口いっぱいに頬張っており一生懸命咀嚼している。そんな桃瀬を無言でじっと見ながら何やら考え込んでいたが、白米を飲み込み切ると同時に桃瀬が話を戻した。
「なんで上旬なの?」
「繁忙期に入る前がよくて。年末年始、というかクリスマスあたりからはしばらく立て込むんだよ、宿泊客多いから……」
 左手でスマートフォンのスケジュールアプリを確認して呟いた。桃瀬は先ほど口に入れた鶏肉のトマト煮を自画自賛しつつ、同じくスマートフォンで新幹線の予約サイトを開いている。
「なるほど、旅行シーズン。ホテルは稼ぎ時だもんな。確かに。時間ってどんくらいかかるの?」
「盛岡駅までだと新幹線で二時間半ぐらいかな、そこからもう少しかかるけどね」
「へー! 東京から大阪と同じくらい? じゃあもう今予約しちゃおうよ、どうせなら観光したいな」
 高梨が鮭の身をほぐしながら少しだけ言い淀んだ。
「うーん……、観光ならまた今度時間作ってゆっくり行った方がいいかも。俺ん家仙台からも時間かかるし、大した用もないし、今回は日帰りでいい。日にちは……十日とかどう?」
「そっか。日帰りね、オーケー。てか、目的ってなに?」
「じゃあ、それで。東京駅集合でよろしく。時間はまた言います」
「おい、はぐらかすな!」
「はいはい、とりあえず飯食お」
 その後食事を終え、二度目の乾杯をしたのちだらだらと飲み、結局桃瀬はほろ酔い気分のまま終電を逃した。というか、「見送った」の方が正しいくらい間に合わせる気がなかった。
 当然ベッドは一つしかないので桃瀬が寝ればいいという話をしたが、「俺はソファでいいよ〜」と即却下された挙句そそくさと横になり始めた。粘るほどの事でもないしと自分がベットに入ったが、こういう流れになる事は想像できたし初めてではない。
 桃瀬が幸せそうにぐっすり眠っている反面、高梨はなかなか寝付けず天井を見上げていた。結婚、そのワードについて考えると自然と溜め息がこぼれる。
 昔から社交性が高く要領も良かった高梨は、集団や組織の中を上手く器用に立ち回ってきた。優しく明るく気の利く性格で当たり障りなく、敵を作らないように。だからといって、本性が損得勘定でしか動けないような人でなしではない。ただ、賢く生きるべきだと思っていて、それがたまたま出来ただけ。
 表の付き合いはそこそこ上手くやっているため、会社の飲み会や合コンの数合わせ等誘われたものには基本参加している。その中で女性から好意を向けられることも少なくなかったが、実際付き合っても長続きしたことはない。「なんか距離感じるんだよね、付き合う前と変わらないっていうか」「あたしに興味なさすぎじゃない?」というのはフラれ台詞の筆頭だ。それでもそれなりに恋愛経験は積んできた。
 一緒に住まないか、と言いたい相手はいる。ずっと。ただ、ともに伝える気持ちが分からないのだ。
 仮にあいつが結婚してもあいつとの関係は変わらず友達だし、一緒に住むようになったとしても友達のままだ。だけど、まあありきたりかも知れないが、自分に恋人と呼べる存在が出来て、例えば二人同時に救急搬送されたとして、先に心配するのは桃瀬の方だと断言できる。この状態で好きな人作って結婚するのもどうなんだ、と思いもあるにはある。それに気付けたのは幸運だったのかもしれない。
 今でさえ、他の友人とは比べ物にならないくらいかなり近い距離にいる。現状に満足していないわけではないが、ただ一緒に暮らしたいと思っている。異性相手だったのなら一世一代のプロポーズになったのかもしれないけど、桃瀬に対して抱いてる感情は恋愛的なものではない。とはいっても、もしあいつに「恋人になってくれ」と言われたら絶対断らないし、手放したくなさのためなら恋愛感情なんかあることに出来る。卑怯なのかもしれないが。
 ――これ以上踏み込めない、踏み込むところがない。家族みたいだと思っている親友に向かって、「一緒に住んで家族みたいになりませんか」と言うのは少し変ではないだろうか。しかし、何かしらの行動をしないといけないタイミングなのだ。
 にしてもなんであの時、地元に行こうだなんて言ったのか。
 結婚の話題を出された時、焦りからタイミングを求めて咄嗟に口走ったのは地元の話だった。そんな深いルーツや暗い過去なんかははないのだけれど。ようやくやってきた程よい眠気に身を任せながら、そういや友達を地元に連れていくのは初めてだな、とぼんやり考えた。

 十二月十日、当日。朝、東京駅構内。
「おはよ〜」
「なんか、いつもに増して元気だな」
 桃瀬は時間ぴったりに現れた。毎回毎回待ち合わせ時間スレスレに到着するものの決して遅刻はしない人間なので、遅れないとは思っていたが、少し不安になったのは事実だった。当然桃瀬はただの小旅行くらいにしか思っていないだろうが。
「俺はいつもどーりです。お前が元気なさすぎ。眠いの? 朝弱くないでしょ? まさか体調悪かったりしないよね」
 桃瀬は来るなり高梨の心配をした。普段しっかり目を覚ましているはずの高梨は眠気を引きずったまま立っていて、それは高梨にとって珍しいことだった。
「起きてすぐは何時でも眠たいんだよ、お前は寝起きいいよな」
「すぐって言ってももう一、二時間は経つでしょ」
 そうだな~、と呟きながら頭を左右にひねりながら欠伸を一つ。
「寝れてねえの。……なんか落ち着かなくて」
「落ち着かない? ふたりでどっか行くのって初めてではないだろ?」
 言ってから少し口を滑らせた気がした。が、一度言ってしまったことは撤回できまい。珍しいに珍しいを重ねる高梨を見て桃瀬は大げさに驚いた顔をした。
「もしかして、今日なんか起きる……? 天変地異とか……」
「なんもないよ、行こ」
 早々に話題を切り上げ、さっさと歩き出した。桃瀬は特に拍子抜けすることもなく着いてきて、スマートフォンの画面を見せながら楽しそうに話し始める。無邪気なのは結構だが、体格がしっかりしているので少々圧がない気もしないことはない。
「てかさ、あの後調べたんだけどやっぱ盛岡三大麺ってのあるらしいよ。麺大好きさんじゃん」
 眠気が覚めない上に正直気が気でない高梨は付き合うのがめんどくさかったのか、はいはいと軽くあしらった。
「知ってるよ」
「いやなんで教えてくれなかったんだよ」
「別に」
「なんか今日いつもと違うよ~~どうしたの~~?」
「ちょっと……近いな!!」
 のしのしぶつかってくる桃瀬を押しのけようとすると、桃瀬の「お、高梨だ」という声が上から降ってくる。
「何麵食うのがベストか相談したかっただけなんだけど、いざそう言われると離れるの癪だな」
「そんなの新幹線乗ってからでもいいし。てか俺の方に向かってくるな、前に向かって歩け。前に」
「は~い」
 こちらに迫ってきていた桃瀬をどうにか剥がして歩き始める。結局桃瀬は新幹線に乗るまで麺の話をしていて、高梨は身勝手ながら呑気だな、と思ってしまった。

「あれ、今俺ちょっと寝てた?」
 新幹線に乗って一時間と少し経ったころ。窓に頭を預けて寝ていた桃瀬がハッと目を開けて、周りを見渡した。
「ちょっとな、二十分くらい」
 声に気付いた高梨は外を眺めながら答えた。桃瀬はまだ完全に目が覚めていないのか、うつらうつらしながら高梨の目線の先を追う。
「今、多分県内に入ったくらい」
 つい先ほどまで、青々とした木々の中に紅葉の混じる平野がどこまでも続いていたはずの車窓は、たった十数分のうちに一面雪化粧を纏った姿へ変わっていた。桃瀬は寝ぼけ眼でしばらく見つめたあと、ようやく理解したしたのか小さな声で呟く。
「真っ白だ……」
「ほんとにうっすらだけどね。東北って言っても太平洋側はそんなに降らないし。積もってるかは年によるんじゃね」
「1センチ積もっただけでお祭り騒ぎになる愛知と比べたら、どっちもすげえよ……」
 そう言いながら残り少ない缶コーヒーを飲み干す。年明け後、仕事が落ち着いてから来ればもう少しは積もった姿を見せてやれたかと思ったが、しかし勢いがなければこうはなっていなかった気もするし、そんな先の約束にはしたくない。あの時同期の結婚の話をした桃瀬と、結婚した桃瀬の同期に感謝した。
「東京もあんまり降らないしな」
 桃瀬はバッグからペットボトルのお茶を取り出しながら大きな欠伸を噛み殺し、高梨をじっと見たかと思うと、ふと口を開いた。
「そういや。お前は寝てないの。なんか寝不足ぽかったじゃん」
「いや、寝れないから……」
「朝からずっと何にそんな緊張してんの?! なんか隠してる?」
 本日の自身の不自然さには我ながら驚いていたので、まあ勘ぐられてもおかしくはないと思ってはいたが、心当たりが大いにある高梨はわざとらしく視線を泳がせた。
「さあ、なんでだろうね……」
「またはぐらかした! まあ、怪しんでるわけじゃないし、話してくれると思ってるから。真相が分かった暁にはお前のその緊張し様を笑ってやるね」
「え、俺そこまで変?」
「いや、冗談だって!」

 新幹線を降りて、そこから電車に乗り、乗り継いでもう一本乗った二人が目的地に辿り着いたのは正午を回った頃だった。ホームに近づきゆっくりと停車する電車の中に、乗客の姿はほとんど見られない。当時はなんて味気ない土地だろうと思っていたけど、久しぶりに帰れば少しは感慨もあるのだと知った。懐かしさというよりは、俺にとってこの土地は過去になったのだという実感が湧いてくる。全てが勢いで決まった弾丸小旅行だったが、実は帰省は就職前以来だった。
 高梨は「切符貸して、降りるよ」と言って先に席を立つと、降り口にいた車掌に切符二枚を渡した。その光景を見た桃瀬が思わず声をあげる。
「改札じゃねえんだ……バスだ……」
 さっさと歩く高梨の後に続いて降りた桃瀬は、刺すように冷たい風と底から冷える空気に身を震わせた。
「てか、寒くね?!想像の何倍も寒い。俺寒いの好きじゃないんだけど」
 自分たちのみを降ろし、すぐ走り出した電車を見送りながら高梨が白い息を吐く。
「俺も……まあ慣れてはいるけど、好きではないね」
 なんなんだよ、と笑う桃瀬をよそに、高梨は駅の時刻表を見る。ここは田舎だ。電車は1時間に2本走れば良い方で、乗り合わせが上手くいかないことも少なくない。帰りの新幹線の時間に遅れないよう時間を計算していると、桃瀬も隣から覗き込んできた。
「あー、少ないね」
「そうだな」
「まあ、俺の地元も大体こんなもんよ」
 桃瀬は時刻表を見ながらうんうん、と頷いた。
「へえ、意外に田舎なんだね」
「そうだね、愛知と言っても名古屋じゃないし」
 時間の確認をし終わった2人は駅の出口に向かって歩き出した。
 構内は車内と同じく人はほとんど見られなかった。駅、と言ってもほとんど小屋というか、駅員さえいなければ雨宿りに使う程度の機能しかない場所だし、そもそも電車の利用者数が少ないのだから当然だ。
「でもお前肌寒いのは好きでしょ? 秋とか無駄に出かけたがるじゃん」
 マフラーに顔を埋めながらジャケットのポケットに手を突っ込んで歩く桃瀬が聞いた。高梨は一呼吸遅れて反応するが何のことか分かっていない。
「何それ、何の話?」
「さっきの続きだよ! 寒いの嫌いって話!」
「ああ……、東京の秋は好きだよ。でもこっちだと秋も冷えるし、そもそも今は冬だし。学生の頃通学とかすげえ憂鬱だったな」
 高梨は思い出したくない、という風に苦い顔をして語る。
「へえ、意外。寒さには耐性ありそうに見えるのに」
「寒いってレベルじゃないから。痛いから」
「あ〜〜、分からんけど伝わるわ」
「どっちだよそれ」
 無人の改札を通り過ぎて駅を出ると、先ほど車窓から見ていた雪が目の前に現れる。桃瀬は足元に積もる雪を拾って軽く握りながら聞いた。
「これってピーク? もう降らないの?」
「いや? これからが本番だよ、まだ十二月も中旬だし。まあ一メートル降るか降らないかくらいかな……。東北にしたら少ないよね」
「もう分かんねえよ……」
 生まれも育ちも愛知でそのまま関東へ進学して以来住む土地を変えていない桃瀬にとって、雪は降るものであり積もるものではなかったのだろう。メートル単位の雪と言われても見当が付かないのも無理はない。
 自然と思い出された過去の懐かしさに浸りながら歩いていると、いつの間にか隣に桃瀬がいないことに気付いた。後ろを振り向くと、雪の感覚を物珍しそうに楽しんでいる。見飽きた愛着の無い土地に、彼がいる。実家よりも最寄り駅よりも、その風景が何よりも感慨深かった。
「桃瀬、行くよ」
 普段より少しだけ声を張って呼ぶと、桃瀬はは〜いと緩い返事をしつつ走って隣に追いつき、特に悪びれる様子もなく無邪気に笑った。
「いいな、雪って」
「この辺なんか雪しかないからどこでも遊べるよ」
「確かに……」
 桃瀬が周りを見渡す。目立つ建造物がないのも相まって、街並みごと綺麗に雪を被っている。
「ちょっと歩くけど、大丈夫?」
 高梨が目を見合わせて言った。少し、ほんの少し怯えが混じった気がしたが、桃瀬はただ真っ直ぐ頷いただけだった。それが桃瀬だった。
「もちろん」

 吹き付ける北風はかなり冷えるが、幸い雪に降られることはなかった。すれ違った人々は片手に収まるほどの数だったが、皆完璧な防寒装備をしていたし薄く積もった雪でどうにか遊ぼうと錯誤する子ども達なんかも見かけた。東京じゃ初雪すらまだだが、東北ともなるともう立派な冬だ。何度が桃瀬が無邪気に遊ぶ子どもたちをぼーっと眺めて「俺も雪遊びしてーな……」と呟いた時、笑いながら冗談半分で「風邪引いていいなら遊んでこいよ」と言ったところ、本気で雪を手掴みし握り締めだしたので慌てて腕を引っ張りながら歩き続けた。
 二十分程歩いたところで、高梨は住宅街から少し離れた場所にぽつんと立っている和風建築の一軒家の前で立ち止まった。
「ここは?」
「俺の実家」
 豪邸をじっと見ながら呟く高梨に、悴む指先を温めながらぼーっとしていた桃瀬が大きな声を出した。
「……えっ、こんな立派な家?! すげえー……え、目的ってここ? 俺今からお邪魔するの?」
 まさか家族に会うとは想像もしてなかっただろう桃瀬が少し慌てながら聞いてきた。そういうわけじゃないよ、と言うと安心したのかため息をつき、しかしそれでは目的が分からずじまいだと、首をひねりながらも桃瀬が口を開くことは無かった。多分、こいつは俺が言わない限り聞いてこない、と高梨は悟った。桃瀬にはそういう信頼があった。だから彼だった。
「……ここに他人連れてくるの、初めてでさ」
「へえ、なんで俺が?」
 聞かれることなど当たり前に予測できたはずの質問だ。なぜ自分が初めて連れてこられたのか。複雑そうな表情で家を見つめていた高梨は、ゆっくり口を開いた。
「……連れてきたいと思ったのが、お前が初めてで」
 桃瀬はそれを聞きながら、それでもまだ納得いかないのか、きょとんとしている。
「えーと、簡潔だな………他になんかあるんじゃないの?」
 まるで何かを察したようにじっと見てくる桃瀬の視線が痛かった。誠実さが裏返しになった鋭さだった。普段ふにゃふにゃしているくせに、こういう時に限って勘も視線もやけに鋭くなるところを、意外と気に入ってはいる。
「なんか……」
 桃瀬と目を合わせないまま、遠く高くそびえる山を見上げながら高梨が言った。
「何か理由があると思う?」
「質問に質問で返すな! そうやって大事なことだけは言わないの、悪い癖だよ」
「どうにかって………これが俺だし、仕方ないな」
「変なとこ開き直るのもだよ……俺霜焼けになってもいいから……」
 しばらく黙ったまま、時が過ぎていく。何から話すべきか考えてはやり直し、そういうのを続けてもう分からなくなった。こんな感情を理路整然と話そうとするのがバカだった。
「……俺はさ、別にお前のこと好きではないんだよね」
 高梨の口から突然なされたショッキングな発言に桃瀬は口をぽかんと開けたまま硬直した。
「ちょっと……え、今なんて??」
「あ、いや、恋愛対象的な意味でって話」
 高梨が即座に訂正を入れると桃瀬の硬直はすぐに溶けたものの、顎に手を当て少し唸り始めた。なんか今日は振り回されてばっかだな、と恨めしそうに呟いた声はあえて聞こえないフリをする。
「あー、それは…俺もそうかも?」
「でしょ? なのに恋人ってピンとこない気がしない? だから、なんて言うのが一番上手く伝えられるのかずっと考えてたんだけど……」
「……それはそうかもね?? いや待って何の話??」
 桃瀬は全く流れの読めない会話の展開に少々困惑しながら、それでも急かすことなく高梨の言葉をゆっくり待っている。高梨自身の体感では数秒、長くて十数秒くらいだったが、実際のところは分からない。観念したようにようやく口を開く。喉が乾いて張り付いた感覚がするのは乾燥のせいなのか、はたまた緊張しているのか。どちらもだろう。
「……あのさ、一緒に住まない?」
「え?」
 一瞬の沈黙。少し時間を置いて内容を理解した桃瀬は、しかし大きく動揺することもなく落ち着いた様子だった。
「いや、あの、お前の仕事はまだ場所を選ばない方だろうし、俺も東京出る予定はないし……」
 言葉が上手く出てこない。というか、何を喋っても言い訳みたいに聞こえてしまう気がしてならないのだ。後ろめたさもないのに、なんの言い訳なのかは分からないけど。一方で桃瀬は涼やかな顔をしていた。突然友達の地元に連れてこられ、例えば実家の中ですらない道端で脈絡もなく同居の提案をされているというのに。
「まあ、確かにそうだね。俺もずっと東京にいるだろうし、わざわざ予定合わせて会う必要もなくなるし?」
 まさかこんな自然と賛成される流れになると思っていなかった高梨は期待と驚きで一瞬目を見開き、すぐに伏し目がちになって自信なさげに言葉を続けた。
「その、一緒に住みたいっていうのは、単なるルームシェアとは少し違うというか、なんというか……。なんか、恋人になろうとかではないし、いや、お前が恋人って言ってもいいならそれでもよくて。俺はそこには拘りはないから。ただ認識の違いは生みたくないって話で。でも結婚なんかは日本じゃできないし……法的な契約が欲しくないって言ったら強がりになるけど。もちろん断ってくれていいし、振ってくれても……って言ったら告白というか、プロポーズみたいだね」
 話せば話すほど尻込んでしまい、絞り出すような声で申し訳なさそうに呟くことしかできない。こんな弱気になるはずはなかったのに。桃瀬の表情は相変わらず変化することなく凪いでいる。こいつが何を考えているかこんなにも分からないことは、初めてかもしれない。それが自身をこんなにも不安にさせることは知らなかった。
「告白でもそうじゃなくてもなんでもいいし、俺はなんでもちゃんと答える。なんでもいいけど、それ、ただ俺とずっと毎日一緒に暮らしたいってこと?」
 斜め上どころかもう想像を遥かに上回った返事をされて、緊張なんかは吹き飛んで面食らって何も言えなくなった。桃瀬は驚いたままの高梨を無視して話し続ける。
「まあ、そうなったらいいなとは思ってたけど、俺の何倍もしれっと結婚しそうだったから俺から言うつもりは無かったんだよね。これプロポーズとも大差ないじゃん。そういうことにしていいですか? 返事は、もちろんはいで」
 何ヶ月も悩んだ自分はなんだったのか。
「お前も思ってたの……、嘘じゃない? 信じてないわけじゃなくて、優しいから」
 真正面から怯えてしまったことに後から気付く。傷つけたかもしれないことに傷ついて思わず目を逸らして俯いてしまった。さっきから墓穴を掘り続けているような気がする。もういっそのこと穴に埋めてほしい。
 沈黙に耐えられなくなって、俯いたままでいると突如肩を抱かれた感覚がした。焦って目を開けるが視界は桃瀬に覆われていて、声がひどく近くから聞こえる。
「……海里が伝えてくれた本心に、俺は嘘つかないよ」
 そう言われ、張り詰めていた何本もの糸が一気に切れて、安心して力が抜けて涙がこぼれた。俺ってこんなに泣けたんだ、と笑いながら桃瀬の背中におそるおそる腕をまわそうとすると、突然両頬を手のひらで包まれた。
「冷たっ」
「なんで泣いてんの!」
 親指で涙を拭われるも、なかなかそれは止まらない。
「ずっと思ってた、ただ、毎日そばにいてくれたらいいなって……でも、やっぱ結婚とかの可能性もあるし……」
「それに怯えてたのは俺の方だよ……。俺よりずっと結婚や家庭との距離が近い人だと思ってたから」
「……そうじゃない、とは言えないけど、でも、俺はこっちがいい……」
「俺って物かなんか?」
 流れる涙とともにぼろぼろと喋ってしまう自分に正直狼狽えたが、桃瀬の前では、自分らしくない自分さえ愛おしく思えるのだなと、こんな場面でもまた新しく自分のことを知る。
 悪くないはないな、と高梨は笑った。
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