第1話

文字数 2,000文字

 私は目を閉じた・・・
「先生、私は認知症なのでしょうか?」
 施設の廊下でAは担当医に尋ねていた。
「ええ、その可能性が高いと思われます」
「やっぱり。では記憶が無くなる前に話しておきたいことがあるのです。聞いてもらえますか?」
「ええ、どうぞ」
「私には忘れられない友人がいます。えっと、名前は・・・あれ?」
「いいですよ、続けてください」
「あ、はい。その友人と私はバスに乗っていて事故に遭いました。彼は私を庇い、椅子の下敷きになりそうなところを助けてくれたのです。友人は片足を失いました。どう感謝しても足りない、どう償っても償いきれない、そんな気持ちでずっと生きてきました。でもそんな私に会いづらくなったのかいつの間にかいなくなってしまったのです。会うことが叶わなくても、そのことを忘れたくはないのです」
「そうですか。でもその忘れてはならないと思う気持ちはきっとわかってもらえているでしょう」
「そうだといいのですが・・・」
「Aさん、面会の方がいらしたようですよ」
「え?私に面会なんて・・・」
 Aは職員に案内されて、私の方へ来た。
「ええと、どなたでしたかな?」
「Sと申します。お忘れかもしれませんが、あなたと親しくしていたものです。懐かしくて会いにきました。少しお話しませんか?」
「え?はあ、そうでしたか。すみません、最近物忘れがひどくて・・・」
「話していれば思い出すかもしれません。お気になさらずに・・・」
 私は左の義足を持ち上げるようにして、談話室の椅子に座った。私には先ほどの会話も聞こえており、Sに対して愛おしい気持ちになっていた。
 職員と担当医が話す言葉が私の耳に入ってくる。
「あの方ですよね」
「ああ、Aさんはあの話を毎日繰り返しているんだ。Sさんの顔がわからなくても、出来事はしっかりと覚えている。Sさんは気持ちを覚えてくれているならばそれでいいと言っている。どういうことかわかるかい?」
「それはSさんの偽善ではないでしょうか?」
「偽善?」
「Aさんは、Sさんのことがわからないんですよ。SさんはAさんに残ったSさんの行動の記憶にだけ自己満足しているだけなのでは?AさんはSさんの目的もわからず、不安なだけではないでしょうか?」
「偽善か。つまり、二人とも事故のことを忘れたいと思ったことがあるのだろうな」
「どういうことでしょう?」
 私はショックを受けた。そうだ、私はなぜAに会いに来た?自分が犠牲を払い、人を助けたことに優越感を感じているだけではないだろうか?Aに会い、そのAの僅かな忘れられない記憶を確認することで、そこに自分の存在を求めているだけでは?

 待てよ。
私は誰だ?
目の前に座る男は誰だろう?笑顔で語りかけてくる。
丸いテーブルだったはずだが、白い机だ。
ここは一体どこだ?
騙されていたのか?
誰かが何かを仕組んだのか?
「大丈夫ですか?」
白衣を着ているが、さっきの医者ではない。
全ての人が先ほどまで見た顔と違う。
何だ?記憶が混乱する。知らない人間ばかりだ。
焦った私は椅子を倒して立ち上がり、走り出す。だが、義足でもありうまく走れない。体が硬直する。
 そして、声に気付いた。
「起きてください。ゆっくり深呼吸して・・・」
目の前が白く、眩しい。私は発汗し、荒い息をしていた。
「わかるか。終わりだ」
 私の背中に手が入れられ体を起こされた。カプセルの中にいた。左の義足を見た。Aが私を見ている。
「そんなに怖い思いをしたか?君が設定したシチュエーションだぞ。まあ、君の考えまでは設定できないし、一度睡眠して、脳波に同調したあと作動するからリアルな夢をみているような感覚になるけどな」
 それは最新のVRシステムだった。もし、俺が記憶を失ったら君はどう振舞うのか、それを経験してみろと、親友のAからの提案だった。
 現実と信じた世界が突然知らない世界に変わった。記憶を失ったような感覚になった。
 私の行動は偽善だったのだろうか。
 理解できない世界が目の前に広がる不安。そこには相手がどう語ろうと、真実かどうかわからない不安が存在し、相手の優越感により増長される。
 ・・・その夢から覚めた私は、左足を見た。それから、Aが事故のあとに私のために義肢装具士となり初めて作ってくれた傷だらけの義足をあえて選び、少し痛いのを我慢しながらAに会いに行った。
 話を聞いて、しばらく考えた彼は笑いながらも、鋭い瞳でこう言った。
「偽善ではない。夢の中の俺も嬉しかっただろうさ。俺は君を忘れることを怖れた。そして君は自分が忘れられることを怖れた。そういうことだろう?それはどちらもが事故という現実を忘れたいと思ったことがあるからさ。そう考えたという事実が本当は怖かったんだよ。つまり真実からの解放だ。それが可能なら全ての行動は偽善に変わってしまう。解放は不可能なんだ。せいぜい真実を雪に埋葬する程度さ。だからお互いを忘れられないんだ」


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