第5話

文字数 9,807文字

 様子を見続けていた凌が、決断した理由は大沢忍の家族だった。
 こちらの不穏な様子に気付いたのか、親族たちは病院で母親や姉に何かを言っている様子はなくなった。
 だが、見舞いに来るたびにやつれて来る家族を見ると、別な場所でちくちくと攻撃しているように見受けられた。
 特に、姉の焦燥が激しい。
 忍の容態は、ただ眠っているだけという半端な状態だ。
 だから、生命保持の機器を取り外す勇気があればという、生易しい追い詰め方で事は済まない。
 だが、この頃の姉は、その先を行くことができそうな程に、追い詰められてきているようだった。
「枕で鼻と口をふさぐか、それこそ何か刃物で心臓を一突きか……。完全に、刑事事件になる」
 追い詰めた親族は、全く後ろめたい気分になる事なく、大沢家族を慰めるという、優越感を再び得ることができる。
「要は、借金地獄に陥ったくせに、何で保証のある生活が出来るんだというやっかみなんだろうな。追い詰めた事にも気づいていない、一般の人たちの考えだな」
 こういう問題では、勝の方が経験は深い。
 だから、したり顔で頷いたのだが、相談した凌の方は険しい顔だ。
 昔から、この手の話はどの国でも存在する。
 出会う度に、それ相応の報いを与えながら生きて来た大男は、静かに物騒な画策をしていたのだが、勝はきっぱりと言い切った。
「こういう言い方は、お前には不評かもしれんが、追い詰められて更に世間を騒がす方を選ぶ事は、よくある」
「分かっている。弱い個体を敏感に見極めて、犯罪を犯した時にその人間をやり玉に挙げて言い訳にすることを、平気でやる事も勿論知っている」
 この場合の動機は、死人や追い詰めた者たちの中で、比較的優しい事を言って慰めた者に押し付けられる事も、大いにある。
「一家族内で起こる犯罪、だからな」
「……」
「だから、親族たちだけを、一概には責められない。というかこの場合、大元の事件があったうちの会社まで、やり玉に挙げられる可能性があるのが、困るな」
 それは元から覚悟の上だから構わないが、これ以上の悲劇は起こしたくないというのが、松本建設としての本音だった。
「……本当は、事件の全容が世間に晒されるのを待とうと思ったが、これ以上の引き伸ばしは、我慢できないな」
 家族の心の負担も心配だが、凌自身の我慢が限界だった。
 セイとの会話から三週間たったその日の夜、大男は恐ろしく難しい試みを実行した。
 が、失敗した。
「……お前、手先は器用なのに、こういう事は大雑把なんだな」
 呑気な感想を言われたが、子供に宣言してしまった手前、止めるわけにもいかず待たせるわけにもいかないと、銀髪の大男は腹を決めた。
「年を越すまでに、忍はオレが責任を持って起こす。が、それまでに限界が来るかもしれないから、明日から昼間は忍のふりをして過ごしてみよう」
 そうして、本当に少年が起きるまでは親族を牽制する。
 夜は時間をかけて本人に起きるように呼び掛け、不審がられないように昼間は眠ったままの忍の体を、起きているかのようにふるまわせようと、凌は決断した。
 期限を決めたのは、いつまでも退院しないのも怪しまれると思っての事だ。
 言うは易いが、本当に出来るのかと心配されながら、担当医に自分が昼間眠る場所を用意させ、翌日の朝から計画を実行したのだった。

 初日の夜。
 面会時間を終えて、こっそりと少年を歩かせて、自分が眠る病室に向かった凌は、予想以上の大人数に迎えられた。
 相変わらず感情を見せない若者の隣に、弟子の一人の甥っ子が立ち尽くしている。
 その顔は驚愕していた。
「何だ。もう来てしまってたのか」
 担当医とその息子、友人の男の倅を見回し、妙に沈んでいる松本社長に笑いかけた。
「大袈裟にしないでくれと、言っておいたんだが」
「……」
 視線を無言で逸らされ、不思議に思う大男に、セイは無感情に言った。
「取り敢えず、起きて貰ってもいいですか? 色々と訊きたい事もありますので」
「あ、ああ」
 用意されていた車いすに座り、忍に憑依していた形だった凌は、自分の体を目覚めさせた。
 目を開くと、担当医とその息子が、車椅子を押して病室を出て行った。
 それを見送った若者の隣で、脱力した顔でロンが呟く。
「……症状を、代行した訳じゃなかったんですね」
「ああ。もしそんなことができるなら、複雑なやり方の伝授をしてもらう必要自体、ないだろう? この子ができると言っているのに、オレが出来なかったと泣きつくのは、恥ずかしかったんだ」
 だから、大事にはしたくなかったのだと苦笑する大男を見つめ、セイは顔を伏せたままの勝を一瞥してから言った。
「じゃあ、あなたの口車じゃあないんですね?」
「? 口車?」
 無感情な声の言葉に首を傾げる大男から、今度は真っすぐに社長を見据える。
 頭を抱え込んだ勝に、やんわりと微笑んで問う。
「一体、誰が、企んだんですか?」
「す、すみませんっっ。企みと言う程、物騒な話でもないのですっっ」
「……あのですね」
 大きな医師が、溜息を吐いてゆっくりと勝に言う。
「謝ってばかりでは、何も進まないでしょう。時間は有限なんです、セイが素直に訊いている内に、あなたの事情の方を話してください」
 見据えた男が顔を引き攣らせるのに構わず、ゼツはきっぱりと言い切った。
「じゃないと、関係も変わるかもしれないですよ」
 軽い脅しだったが、勝は青褪めた。
「お、お待ちくださいっっ。元祖も呼びますっっ」
「いや、そこまで大袈裟にしなくてもいいけど」
 制止の声をかける若者に構わず、社長は大人らしからぬ慌てようで、携帯電話でどこかに連絡を取った。
 松本家の元祖である大男がやって来るのを待っていたのは、素直な若者らしい律義さだったが、一緒に待っていた狼の息子は冷ややかに鬼の男を出迎えた。
 その目の冷たさと、豪華な面々に目を剝いた男は、青褪めたままの勝を見止めて説明を求める。
瑪瑙(めのう)様っ。申し訳ありませんっっ。私の代で、若との縁が切られてしまいますっ」
「……話が、全く見えないんだが。どう言う状況なんだ?」
 すがって来る中年男を、若干引き気味になりつつ受け止めながら、瑪瑙と呼ばれた男は若者に話を向けた。
「あんたを手伝っている間に、勝が何かやらかしたのか?」
「やらかしたと言えば、やらかしています。詐欺の類を」
「詐欺?」
 代わりに答えたゼツの言葉に目を剝き、瑪瑙は社長を引きはがした。
「犯罪を犯したのか」
「申し訳ありませんっっ」
 あくまでも謝り続けるだけの中年男に辟易しながら、セイがようやく説明した。
「犯罪と言っても、まだ公にはなっていない。被害者もまだ少ないし、今ならばまだ、改善できるよ」
「被害者って、誰を騙したんだ?」
「大沢家の家族、だ」
「ああ、あたしも追加ね。この数時間の衝撃を、返して欲しいわ」
 無感情な答えと、ロンの気楽な声で瑪瑙は目を剝いたまま、口も開け放った。
「あの子供が、目を覚ましたというのは、嘘だったって事かっ?」
「……すまん、それは、オレが悪い」
 話が進まないのを見かね、凌が控えめに声をかけた。
 一連の動きに至った経緯を話し、力なく言う。
「オレがバカみたいな見栄を張って、忍が起きたように見せていたんだ。まさか、こんな大事になるとは」
「ええ。本当に大事になっていますよ。ミヤとエンは、怒り真っただ中です。この上、あなたの状態がただ眠っていただけだと知れたら、火に油を注ぐだけにしかならないほど、すさまじい怒り方です。どうしてくれるんですか」
 そう返した大男も、相当鬱憤が溜まっている。
「あなたが考えた計画は、担当の金田さんに聞いていましたが、こんなに大事にしてこちらまで騒がすなんて、聞いていませんでした。どう言う事だったんですか? そろそろ、話してください」
 セイに心配かけない方向で、極秘に進めると思っていたゼツは、ここまでの話になった事に不機嫌を隠せない。
 その様子に首を竦めながら、瑪瑙が勝に呼び掛けた。
「勝、お前まさか、セイに子供の反応を期待したのか?」
 口を噤んでいる松本氏が、ぎくりと肩を震わせた。
 目を細めるゼツと、首を傾げたセイを見て、鬼の男は苦笑して言う。
「あんたたちも、知ってるだろう? こいつの次男坊の事を」
 繊細な話だった。
 松本勝には、兄がいた。
 継承者が次男だった勝となった事で分かる通り、その兄は他界して既になく、残った妻子が生活苦になる前に、子供だけ引き取った。
 病弱だった細君が、旦那を失くしてから更に気弱になったのを見かねての処置で、戸籍では叔父甥の間柄のままだが、透は成人するまでその事実に気付かないはずだと、そう思っていた。
「まだ物心ついていない頃に、鬼籍に入ったからな。母親の事もあまり覚えていないはずだと思っていたんだが、この間の十回忌の法要で、母親と顔を合わせたら、急に泣きだしたんだ」
 何故泣きたくなったのか、聞いても透は答えなかった。
 だが、何となく予想できる事はあった。
血の繋がりは、そう簡単には切れないのだろうと、様子を見ていた古谷氏もしみじみと言っていた。
「……そのことと、今回の事がどう繋がるんだ?」
 首を傾げたままの若者の問いに、凌とロンが同時に唸った。
「河原さんのお子さんは、血が繋がっていないのに、刺されたと聞いてすぐに駆け付けていました。金田さんの所の朔也君も、きっと同じようにすると言っていました」
 金田親子の方は、比較的仲が良い為あり得るが、河原家は違う。
 寄り付かなかった倅が、すぐに駆け付けたのだ。
 それを話に聞き、昨夜思い出した松本氏は思った。
「だったら、血の繋がりはあるのに、互いに寄り付かない親子でも、もう少し顕著な反応があるのではと、そう思ってしまったのですっっ」
「……」
 口車だの、企みだの、そんな大仰な話ではなかった。
 目を真ん丸にした若者は、無言のままベットに座る大男と、その傍で立ち尽くす大男を見た。
「……よく、意味が分からないんだけど。それは、もしかして……」
 考え考え、導き出された答えを口にするが、恐ろしく懐疑的な声だった。
「私が、眠っているこの人に縋って、泣きだす様を期待した、のか?」
「も、申し訳、ありませんでしたっっ」
「? ?」
 首を傾げ続けるセイに、オキは溜息を吐いて声をかけた。
「余り傾げるな。転ぶぞ」
「いや、でも……何で? ただ眠っている人に縋って泣いても、何の解決にもならないのに」
「まあ、お前の感覚なら、そうだよな」
 本当に息が止まってしまったのなら、もう少し反応も違うだろうが、見ただけで分かった症状だ。
 しかも、先に忍の方を見てしまったために、深い眠りですらないのにも、気づいてしまった。
 これでは、雅やエンもすぐに気づいてしまう。
 その上で、逆に怒り狂ってしまうだろう。
 どう言う事情にせよ、こちらを騒がせてしまった事には、変わりないのだから。
「とはいえ、社長を贄に差し出すのも気が引ける。あの二人の怒りは、オレが甘んじて受けよう。明日の夜にでも、連れて来てくれ」
 事情を聞いてしまえば、凌も困惑しつつ納得するしかない。
 腹をくくった男に首を振り、セイは手にしていた紙の束を無造作に差し出した。
「……少しだけ時間を差し上げますので、これを暗記してください」
「この……十数枚の紙に書かれている文を、か?」
 十数枚の紙に書かれた小さな文字は、上から下までびっしりと詰まっていた。
 目を剝いて見つめるその内容は、どうやら何処かの会社の情報らしい。
「先程、あなたを待っている間に書き出したものです。私が、あの子を見る夜の間、あなたが代わりに動いて下さい。それで、今回はチャラにします」
 手書きで書きだされている所を見ると、意外に怒っているようだ。
 それが、騙されるところだったことが原因ではないと察したロンは、苦笑しながら凌の手から半分の紙束を受け取った。
「手伝います」
「あ、ああ」
「暗記したら、跡形もなく処分しますので、お早めに」
 無感情な声に促され、凌は苦手な暗記をして紙束を若者に返した。
「では、明日の朝、面会時間の前に、戻って来てください。それまで、私があの子を起こす作業をしてみます。あなたが目標としていた、年末までに起こせればいいんですが」
「あ、ああ。すまない、結局任せてしまう」
「こちらも、代わりに仕事を押し付けるんですから、お互い様です。よろしくお願いします」
 無感情な若者の声を背に、二人は夜の街に出て行った。
 昼間は忍として家族や見舞客の相手をし、夜は自分に戻ってセイの代わりに仕事を切り盛りする、そんな日々を続けて来て三日たったその日の夜、凌は久しぶりに間近で、愛弟子を見下ろしていた。

 廊下で騒ぐのもまずいので一旦病室に戻り、一連の話をロンの補足を交えて話した凌は、廊下の角から出て来た男女を見た。
 今は怒りよりも、呆れの方が勝っているらしく、黙ったままこちらを見返す。
「……怒りは、まあ仕方ないと思う。だが、これだけは言い訳させてくれ。オレは、ここまで大事にして、あの子やロンまで巻き込む気は、なかった」
 かと言って、この二人の怒りの矛先に、苦労が絶えなくなった松本社長を立たせるわけにもいかない。
 腹をくくった凌は、二人の怒りを真っ向から受ける覚悟だ。
「だが、発端を作ったのはオレだから、お前たちの怒りは全て受けよう」
「……」
 覚悟を言葉に乗せた大男を、男女は気の抜けた目で見上げた。
「? 何だ?」
「いえ」
 短く返したエンが何かを告げる前に、その前で立ち尽くしていた若者が、低く声を上げた。
「……そうか、いい覚悟だ」
 のんびりとしてはいるが、その低い声音に何かを感じる前に、凌は座ったまま後ろに飛びのいていた。
 その鼻先があった場所の空気を、何かが切り裂く。
 ベットの上に膝立ちする男は、躊躇いもなく抜き払った刀を片手に、舌打ちする若者を見た。
 不意打ちに失敗した鏡月は舌打ちし、金色の目を大男に向けた。
 構えるその刀の刃肌も、同じ色だ。
「……鏡、ちゃん? それ、まさか……」
 驚いて目を剝いたエンの横で、ロンが目を見開いて呟く。
 何かに衝撃を受ける二人から前に視線を投げた雅は、そちらでも険しい顔をした大男を見つけた。
「鏡月、それは、何だ?」
「何だあ? 分からねえんだったら、そのままでいい」
「そのままでいい筈が、ないだろうっ」
 真剣な声にもただ軽く笑い、若者はのんびりと言い切った。
「良いんだよ。あんたには、もう何も期待してねえ」
 永い間、子供の一人すら見つけられず、見つけた後も迷惑しか被らせる事しか出来ないような、最低の男には。
「充分永いこと放置しちまったオレも、同罪と言えば同罪だが、まだやることが残ってるんだ。オレの方はどうとでも言い訳できるが、あんたが消えるのは子供のためになるぜ、確実になっ」
 言葉を返す前に、若者が動いた。
 凌がそれを避けながらも、窓の外へと飛び出していく。
 思わず窓の方へ駆け寄った雅は、本気で斬りかかる鏡月を、おっかなびっくりの凌が何とか止めようと、苦戦しているのが見えた。
 意外な状況になってしまい、困惑する女が振り返ると、呆然としている男二人がそのまま立ち尽くしていた。
 エンが、躊躇いがちに尋ねる。
「……あれ、見覚えがあるんですけど。今はオキが持っている、あの刀と同じ奴じゃあ?」
 作成者が辿れない、妙な感覚のある刀だった。
 昔ランが、守り刀のように持っていたあの刀は、赤黒い色合いだった気がする。
 斧にして持っていた妹のユウも、血生臭い事には使わないと決めていたようだった。
 現在はユウが持っていた分は行方知れずだが、ランが持っていた方は姿を変えて二つに分けられ、その姿を貰ったオキが、分けた片割れを自分の相棒に贈った。
 それと似た感覚をロンも、鏡月の持つ刀から感じたのだが、ゆっくりと首を振った。
「似てはいるけど、全く違うわね。ランちゃんたちのものは、血縁者の依頼でつくられたもので、作り方も全く違う」
 ランとユウの実母は、生前から親しかった作成者に、死後の自分の体を材料に、娘たちを守れる品の作成を依頼していた。
 血肉と骨を全て用いた、完全な逸品だ。
「あれは、紛い物の、真似事で出来た代物よ。だから、血縁者以外の者が使うと、すぐに塵となって消える」
 そんな代物を、鏡月が手に入れる羽目になる事情があったとしたら、一度だけだ。
「……」
 とんでもない事情が発覚したため、あの後すぐに鏡月を撤収させたが、若者の様子がおかしくなった。
 もしかしたら、何か衝撃的な体験をしてしまったのかと、そっとしておいた。
 その後、傍に寄り添っていた水月が別行動をし出した時も、カスミが承認していると聞いていたので、気にしていなかった。
 気にしていなかったからこそ、その後の悲劇もその前触れの悲劇も、今後悔として思い出されてしまった。
 たった一つの、珍しい色合いの刀を見て。
「……この話は、落ち着いてから改めて話しましょう。今は、時間が押してるの」
 昔はなかった忍耐を全て使い、ロンはその感情を押し殺してゆっくりと言った。
 そう、今は時間が押している。
 一晩のノルマを、面会時間が始まる前に全て終わらせるには、人手がいる。
「どちらか一人、こちらの仕事を手伝ってくれない?」
 こうなったら、代わりに少年を起こす作業をしている若者も心配だろうと、ロンは気遣って切り出したのだが、エンは小さく笑って首を振った。
「複雑そうなものは出来ませんけど、オレもお手伝いします」
「蓮も一緒に来たんですよ。先にあの子の方に行ってます」
 そう言えば、連絡してきた若者の姿が、一度も見えない。
 その理由に気付いて、ロンも頷いた。
「そう。……意外に難しい状態なのね。年内に起こせればいいんだけど」
「……」
 穏やかな笑顔を浮かべたままエンが沈黙し、優しい笑顔を浮かべたまま雅は首を傾げた。
「え、何?」
「いえ。何でもないです。書類とやらを見せて下さい。早く動かないと、時間までに終わらないかも」
「そうね」
 何やらおかしい雰囲気の二人に首を傾げながらも、大男は紙束を三等分して自分の分を暗記した。

 病院の裏に、まだ開拓されていない草原がある。
 山の頂上を切り開き、これから憩いの場となる予定の場所だ。
 表の方には駐車場があるが、夜間救急指定もあるこの病院である為、思う存分暴れられるスペースではない。
 それを考慮した凌が、こちら側に鏡月を誘導して逃げて来るのは、分かっていた。
 開けた空間の端に設置されている、プラスチックのベンチに腰掛けて、水月は飛ぶようにやって来た二人を迎えていた。
 ベットの柵らしき鉄の棒を手に、若者の刀をあしらっている凌はちらりとこちらを一瞥したが、鏡月の方は剣戟に夢中でこちらに気付いていない。
 最近の鏡月の様子で分かるように、小さい頃からそう傾向がある子だった。
 真面目で潔癖なのだが、何かに夢中になると途端に、周囲が見えなくなる。
 たまに、足元すらおぼつかない事がある為、それが心配の元だった。
 それがきっかけで、出会いもあったらしいから、悪いばかりの短所ではないのだが。
 ベンチに座ったまま二人を見物していた水月は、手探りで傍に置いた風呂敷包みの中を漁り、缶飲料を取り出した。
 先程、大沢忍の病室の前で、オキから手渡されたものだ。
 中は、挨拶回りで貰った食べ物と飲み物を、小分けにしたものだ。
「喧嘩が収まったら、腹も減るだろう。裏の原っぱで、夜のピクニックでもして、休んでてくれ」
「……真冬にか」
「痛まないから、都合がいいだろう」
 そう言う問題でもないが、病室に入れるつもりのない男を見つめ、水月は目を細めた。
「……あの子も、意外に性格がひねくれてるな」
 緑色の瞳が見返したが、その目には不機嫌な色があった。
「ひねくれていない訳じゃないが、それが理由で、こういう事態になった訳じゃない」
 ただの、偶然だとオキは言い切った。
「だから、曖昧なまま逃げたんですか」
 呆れた声を出したのは、二人を見つめながら黙っていた律だ。
 オキが咳払いする。
「何処まで話すか、迷った結果だ」
「成程、これから、どうするのですか?」
「オレも、仕事の肩代わりをして来る」
 簡単に答える男に、律は微笑んで頷いた。
「私も、手伝います」
「いや、お前は……」
「何だ? 邪魔扱いする気か?」
 慌てた言葉を遮り、水月が優しく尋ねた。
「そんな事は、ないが」
「なら、連れて行ってやれ。こいつはな、早めに仕事納めにして、お前に会いたかったんだ。なのに、お前の方がまだ忙しいとは。こんな事なら、鬼のようなあの量を、全てこなしたあの日々を、返して欲しいもんだが」
 軽く言ったのだが、オキの方は目を見張って律を見た。
「お前、そんな無理をしたのか。大丈夫だったのか?」
「いつまでも、弱い時の私だと思わないでください。それに大丈夫ですよ、大部分は水月に押し付けましたから」
「何だ、それならいいな」
 良くないと、軽く返したくなったが、ぐっとこらえた。
 本当は押し付け自体、問題視していない。
 寧ろ、元気なら際限なく頑張る律から、仕事を大部分奪う事が水月の役目と言っても、過言ではないのだ。
 あまり会う機会のない二人の邪魔を、軽口を叩く事でしてしまう事も遠慮したいが、何よりもこれから始めるであろう最大の見ものを、見逃すのも惜しい。
 揶揄いたい気持ちを押し込め、水月は二人からそっと離れた。
 そうして、裏の草原に待機して、その見ものの出演者を出迎えたのだった。
 昔よりかなり精進し、動きの切れに磨きがかかった鏡月は、見た事のない刃色の刀を手に、凌と競り合っていた。
 美しい色合いの刃なのに、禍々しく感じるのは、血生臭い事にしか使ってこなかったからだろう。
 その理由を知る水月は、何とも言えない気分でその動きを見守っていた。
 対する大男が、妙におっかなびっくりなのは、久し振りに競り合う弟子の動きに翻弄されての事ではなく、恐らくはどの程度の力量で相対したらいいのかを見極めている所なのだろう。
 意外に時間を食っているのは、予想以上の動きを見せる弟子に驚いてか、あの刀の正体に戸惑っての事か、解説する身としてはどちらと判断できずに、少々悔しい。
 不意に間合いを充分に取った凌が、持っていた鉄の棒を放り投げた。
 それ、修理するんだろうと、心の中で突っ込む水月に構わず、大男は真顔で若者を見据えた。
「一日中眠っていると、それだけで固くなるのが、最近は悩みの種だ。年は取りたくないな」
「老害になる前に、人生も終わらせちゃあどうだ?」
「そういう訳にも行かないな。こんな所で地獄に行った日には、気になって舞い戻ってきそうだ」
 子供の事も気がかりだが、今は別な事も大いに気になっていると、凌は真顔のまま言い切った。
「その刀の出所、きっちりと知らんことには、死んでも死にきれない。だが、お前は、簡単には話さないだろうし、捕まえるのも骨がいる」
 ゆっくりと、自分に言い聞かせるようにいい、刀を構えて身構える若者を見つめた。
「まずは、捕まえる事を重点に考えよう。怪我の有無は、気にしない」
 言い切った途端、その巨体が姿を消した。
 鏡月が気づいた時には、目の前で拳が襲う。
 避け切れずに若者の小柄な体が、宙を舞った。
 が、すぐに体制を整えて地面に下りたち、気配を辿って刀を振る。
 攻撃をまともに受けても怯まない若者と、攻撃をしつつも刀の刃を一掠りもしない大男では、勝敗の行方もすぐに見える。
 鏡月は、深く傷を負っても瞬時に治せるほどに、体の治癒力が高い。
 だがそれは、己の体力を削って行っている事で、体力には限りがあった。
 勿論、師匠の凌はそれを分かっていて、敢て攻撃を繰り返していた。
 最小限の力で、目当ての若者を捕まえるために。
 ずるい手だが、これは仕方がない。
 怒り狂った鏡月が頭を冷やし、話ができるまでに落ち着かせるには、暴れるだけ暴れさせたうえで、疲れ果てて動けなくなった所を見計らうしかないのだ。
 その場所を探す手間と、愚痴なりなんなり聞く手間が省けそうだと、水月は凌の急場の判断を止めずに見守ることにしたのだった。
 缶飲料を一本飲み干した時、勝負はついた。
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