最後の紙

文字数 2,762文字

 僕はもう少ししたら死ぬ。1912年4月15日、それが僕の命日になるはずだ。つまり、この駄文は僕の遺書みたいな物だと思ってくれていい。
 ただ、僕の最期はひどく情けないものになりそうだ。みんなの慌てふためいている声が聞こえてくるというのに、僕はひとりでトイレにこもっているのだから。自分の死が目前に迫っていても、腹痛には抗えなかった。まあ、どうせ死ぬのだから漏れそうになりながら死ぬよりはましだろう。
 いまいちはっきりとした状況を把握できていないけれど、どうやら僕が乗ったこの客船は海に沈む運命にあるらしい。海に飛び込んだところで、極地に近いこの極寒の海では助けが来る前に死んでしまうに決まっている。わざわざ苦しい道を選ぶくらいなら、いっそこのままトイレで死を待つのもありなのかもしれない。

 ……ああ、先に書くべきことがあるのを忘れていた。それだけ僕も動転しているということか。
 デービッド・ミラー。それが、アメリカに渡って一攫千金を狙おうとした途中で死ぬ、愚か者の名前だ。今はたまたま持ち歩いていた紙とペンで、誰に読まれるかもわからないこの最後の手紙を書き記している。
 両親ももうこの世にはいないし、親しい友人には……そうだ、ここで謝っておこう。
 親愛なるジェームス。やあ、元気にしているかい? 今思えば、一緒にこの船に乗るはずだった君が借金を作ったせいで行けなくなったのは、ある意味幸運だったのかもしれないね。
 早速だけど、君の彼女の浮気相手は他でもない僕だ。ただ、彼女はもうだいぶ前から君には愛想を尽かしているようだった。だから、誘ったのは僕じゃなくて彼女なんだ。こんな死の間際で嘘をつくようなことはしない。信じて欲しい。といっても、彼女はもう別の男に夢中なようだよ。もしかしたら今頃、そちらの男と修羅場なのかもしれないね。もう僕には関係のないことだけれど。

 なんでだろうか。他に書き残しておかなければいけないことがもっとあるはずなのに、こんなことばかり思い出してしまうんだ。死が目前に迫っているからこそ、日常を思い出してしまうのかもしれないな。まあ、思い出すといってもくだらないことばかりだ。
 小さい頃、好きな女の子にカエルを投げつけてしまったことや、酒に酔って浮気したあげく彼女にぶん殴られたこと。我ながらもう少しまともな思い出がなかったのか、と情けなくなってしまう。
 といっても、幼い頃に両親が他界してからの僕の人生は真っ当なものとはほど遠かったとは思う。食事にありつくために盗みをしたことは何度もあるし、それで捕まったことも一度や二度のことじゃない。とにかくクソみたいな人生だった。だから、この船に乗って夢を掴もうと思ったわけだけれど、当てが外れたわけだ。
 まあ、船が沈むまでにはもう少し時間がある。腹の調子もましになってきたことだし、死ぬまでの間にもっとまともな……ああ、ちくしょう。なんてこった。


 ……最悪だ。この個室を隅々まで見てみたが紙がなかった。今ここで声をあげたとしても、自分の生死がかかっているのに、他人の尻を拭く手助けをしてくれる奇特なやつがいるとは思えない。
 いや、今なら誰もトイレの中に注意を払っちゃいない。情けない姿を晒してでも、他の個室に紙を取りに行くこともできるはずだ。くそ、死に際にそんな姿を晒すなんて最悪だ。万一誰かに見られでもしたら……待てよ、紙なら目の前にあるじゃないか。これを使ってしまえば、全部解決するんじゃ……。

 いいや、ダメだ。一応これは僕の遺書だぞ。遺書で尻を拭くやつがあるか。とはいえ、今読み返してみてもたいしたことを書いているわけじゃない。それならいっそ、こんなもの書いていないということにして、人間の尊厳だけでも守るべきじゃないか?
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 ちくしょう。このままだと尻を洗うどころか全身押し流されて死ぬんだぞ。それなのに、僕はどうしてこんな情けないことで思い悩まなくちゃいけないんだ。最期の瞬間くらい、素敵な女性との別れを楽しませてくれたっていいだろう!
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 ……いいや、待てよ。もしこのまま神が僕の運命に微笑みかけてくれないというのなら、自分で女神を見つけ出して微笑ませるというのはどうだ? このまま汚い最期を迎えるくらいなら、どうせ死ぬんだ。死ぬまでに僕だけの女神を見つけ出して、自分の子孫を残すくらい生き汚い終わりを迎えてやろうじゃないか。
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 よし、そうと決まったら、こんなところでバカなことを思い悩んでいる時間なんてこれっぽっちもない。こんなくだらない紙に執着するのもひどくバカバカしい。さっさとここを出て、次のことに取り掛からなくては。■■■■■■   ■■ ■■■■■■■■
 じゃあ、ここらでおさらばだ。もし僕が生き残れたら、こんなことを書いていたこともいい思い出になるだろう。そうじゃなくても、このバカみたいな遺書を拾ってくれたやつがいたら、僕の顛末を笑ってくれればいい。
 といっても、この紙が読める状態で残っているとは思えないけどね。
 まあ一応、読めるように極力端っこだけ使うようにしておくよ。汚いだろうし、読みにくいだろうけどごめん、それじゃあね!
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