第1話
文字数 1,996文字
叔父が経営する喫茶店を手伝っていた時のことである。
二十人で満席になる店内に客は女子大生の三人組だけ。奥の席で話をしていたその三人が突然、わあっと湧いた。
「書籍化するの? おめでとう」
みんなの祝福を受ける一人は常連客だ。
カウンターで叔父がニコッとして、銀の盆に注文のカフェラテに加えてショートケーキも乗せた。
その盆を黒のカマーエプロンでカフェ店員らしく装う私がきびきびと運ぶ。
「こちらのケーキはマスターからのお祝いです」
「ありがとうございます」
彼女のお礼に、私は柔らかい微笑みで応える。接客の時の表情はカフェラテの泡をイメージして作る。
そして、帰宅して、手回しのコーヒーミルで力いっぱいコーヒー豆を挽く。ぶつぶつ胸の内を吐きながら、堅い豆をゴリゴリと粉砕する。これが私のストレス解消法だ。
「ちょちょいと書いて書籍化かよ。天才か」
私もネットに小説を上げている。無職になった時に始めて、何となく続けていた。
だから店の隅でいつも読書していた彼女が本をタブレットに変えて何かをせっせと書き込み始めた時、あれは創作活動だなとピンときた。
今まで本にするなんて微塵も考えず持て余した時間で自由に書いていたのだが、身近な書籍化話にこんなに動揺するとは……けっこうはまっていたらしい。
そういえば、叔父のバイト要請に乗ったのも、好きなミステリーにカフェが出てくるので私も真似て書こうとしたからだった。
趣味が高じて店を開いただけあって、叔父の珈琲道は細かかった。メニューに合わせて豆の品種や焙煎度合、抽出方法を選ぶのはもちろん、お湯の注ぎ方まで変えてくる。大雑把な私にはとてもついていけなかった。
ジャコウネコに豆を食べさせて作るコピ・ルアクというコーヒーの話を聞いた時「その辺の猫でも作れますか」と尋ねたら、叔父が青くなったっけ。
「君ならやりかねん」
そんな叔父のうんちくも、最初はメモっていたが今は聞き流している。
いつだったか、創作活動に勤しむ彼女の手が止まり煮詰まった顔でコーヒーのお代わりを頼まれたことがある。
私はカウンターに置いてある鉄製のコーヒーミルで豆を挽いた。垂直にハンドルを回すタイプのアンティークで、叔父の自慢の品だ。普段は機械で豆を挽くのだが、叔父の気まぐれや客の要望でこれを使うこともある。これで挽くと店内に香ばしいコーヒー豆の香りが広がり、意識が一気にモダンな洋館の一室かお洒落な通りのテラスに飛んでいく。
「一度あれが動いているのを見たかったんです。いいんですか」
「いいんです。時々動かさないとさびちゃうし」
彼女の手が再び動き出した。ま、がんばってねと心の中で送ったエールには少し先輩風が吹いていた。
今は敵に塩を送った気分だ。
妬みと後悔を全て吸ったコーヒー粉をドリップする。できた液体は怖ろしく苦く濃く重い。なのに喉を通るとさっぱりして、心も軽くなる。
私もどこかの新人賞に応募してみようかな……と、ネットで捜していると、とある新刊情報に目がとまった。
『夢が丘カフェの珈琲男子たち』甘美 もか著
なんだか嫌な予感がする。そういえば彼女はどんな本を書いたのだろう。
予感の的中は、二週間後のお昼前、叔父からの電話で悟った。
「今すぐ来てくれ」
「今日は私のシフトじゃないし、会社の面接もあるんです」
「君に事務職は似合わん。こっちに来たらボーナスを出す」
不確定な合否より目先の収入をとった私は、外に列ができるほどごったがえす店に唖然とした。
あの本が売れ「甘美もか先生がここのカフェで執筆した」「もか先生がここのカフェをモデルにした」という情報が流れ、ファンが押し寄せたらしい。
「叔父さん、注文がたまってます。早くアメリカン入れて!」
「待て。客が多くてもコーヒーの質は落とせん」
「あのう。このラテ、ラテアートがないんですけど」
「それは小説の中だけで、フィクションです」
満員御礼は数日続き、私はその間コーヒーの質を守りたい叔父と物語に浸りたいファンと早く客を捌きたい自分に挟まれ、明日の仕込みをして遅くに帰ってはぐるぐるとミルを回す日々を過ごした。
「疲れた! 眠たい! 執筆時間が取れない!」
おのれ甘美もか。私に書かせないつもりか。
ほんとにその辺の猫でコピ・ルアク作って飲ませてやろうか──
客足が落ち着いたころ、私はボーナスを手にインドネシアへ渡り、本物のコピ・ルアクを仕入れてきた。邪念のクレマ泡立つコーヒーを飲みほした後、なぜその辺の猫ではだめなのだろうと思い、出立を決めた。
その旅行記をネットにあげると、なかなかの高評価だ。
叔父は本場の高級豆が手に入って大喜び。もか先生の次巻には不思議な猫が活躍して、またファンが大勢やってきた。
コーヒー豆を巡る旅も私の性にあっているらしい。
目の前の斜面にはコーヒーの白い花が一斉に咲いていて、とても眩しい。
二十人で満席になる店内に客は女子大生の三人組だけ。奥の席で話をしていたその三人が突然、わあっと湧いた。
「書籍化するの? おめでとう」
みんなの祝福を受ける一人は常連客だ。
カウンターで叔父がニコッとして、銀の盆に注文のカフェラテに加えてショートケーキも乗せた。
その盆を黒のカマーエプロンでカフェ店員らしく装う私がきびきびと運ぶ。
「こちらのケーキはマスターからのお祝いです」
「ありがとうございます」
彼女のお礼に、私は柔らかい微笑みで応える。接客の時の表情はカフェラテの泡をイメージして作る。
そして、帰宅して、手回しのコーヒーミルで力いっぱいコーヒー豆を挽く。ぶつぶつ胸の内を吐きながら、堅い豆をゴリゴリと粉砕する。これが私のストレス解消法だ。
「ちょちょいと書いて書籍化かよ。天才か」
私もネットに小説を上げている。無職になった時に始めて、何となく続けていた。
だから店の隅でいつも読書していた彼女が本をタブレットに変えて何かをせっせと書き込み始めた時、あれは創作活動だなとピンときた。
今まで本にするなんて微塵も考えず持て余した時間で自由に書いていたのだが、身近な書籍化話にこんなに動揺するとは……けっこうはまっていたらしい。
そういえば、叔父のバイト要請に乗ったのも、好きなミステリーにカフェが出てくるので私も真似て書こうとしたからだった。
趣味が高じて店を開いただけあって、叔父の珈琲道は細かかった。メニューに合わせて豆の品種や焙煎度合、抽出方法を選ぶのはもちろん、お湯の注ぎ方まで変えてくる。大雑把な私にはとてもついていけなかった。
ジャコウネコに豆を食べさせて作るコピ・ルアクというコーヒーの話を聞いた時「その辺の猫でも作れますか」と尋ねたら、叔父が青くなったっけ。
「君ならやりかねん」
そんな叔父のうんちくも、最初はメモっていたが今は聞き流している。
いつだったか、創作活動に勤しむ彼女の手が止まり煮詰まった顔でコーヒーのお代わりを頼まれたことがある。
私はカウンターに置いてある鉄製のコーヒーミルで豆を挽いた。垂直にハンドルを回すタイプのアンティークで、叔父の自慢の品だ。普段は機械で豆を挽くのだが、叔父の気まぐれや客の要望でこれを使うこともある。これで挽くと店内に香ばしいコーヒー豆の香りが広がり、意識が一気にモダンな洋館の一室かお洒落な通りのテラスに飛んでいく。
「一度あれが動いているのを見たかったんです。いいんですか」
「いいんです。時々動かさないとさびちゃうし」
彼女の手が再び動き出した。ま、がんばってねと心の中で送ったエールには少し先輩風が吹いていた。
今は敵に塩を送った気分だ。
妬みと後悔を全て吸ったコーヒー粉をドリップする。できた液体は怖ろしく苦く濃く重い。なのに喉を通るとさっぱりして、心も軽くなる。
私もどこかの新人賞に応募してみようかな……と、ネットで捜していると、とある新刊情報に目がとまった。
『夢が丘カフェの珈琲男子たち』
なんだか嫌な予感がする。そういえば彼女はどんな本を書いたのだろう。
予感の的中は、二週間後のお昼前、叔父からの電話で悟った。
「今すぐ来てくれ」
「今日は私のシフトじゃないし、会社の面接もあるんです」
「君に事務職は似合わん。こっちに来たらボーナスを出す」
不確定な合否より目先の収入をとった私は、外に列ができるほどごったがえす店に唖然とした。
あの本が売れ「甘美もか先生がここのカフェで執筆した」「もか先生がここのカフェをモデルにした」という情報が流れ、ファンが押し寄せたらしい。
「叔父さん、注文がたまってます。早くアメリカン入れて!」
「待て。客が多くてもコーヒーの質は落とせん」
「あのう。このラテ、ラテアートがないんですけど」
「それは小説の中だけで、フィクションです」
満員御礼は数日続き、私はその間コーヒーの質を守りたい叔父と物語に浸りたいファンと早く客を捌きたい自分に挟まれ、明日の仕込みをして遅くに帰ってはぐるぐるとミルを回す日々を過ごした。
「疲れた! 眠たい! 執筆時間が取れない!」
おのれ甘美もか。私に書かせないつもりか。
ほんとにその辺の猫でコピ・ルアク作って飲ませてやろうか──
客足が落ち着いたころ、私はボーナスを手にインドネシアへ渡り、本物のコピ・ルアクを仕入れてきた。邪念のクレマ泡立つコーヒーを飲みほした後、なぜその辺の猫ではだめなのだろうと思い、出立を決めた。
その旅行記をネットにあげると、なかなかの高評価だ。
叔父は本場の高級豆が手に入って大喜び。もか先生の次巻には不思議な猫が活躍して、またファンが大勢やってきた。
コーヒー豆を巡る旅も私の性にあっているらしい。
目の前の斜面にはコーヒーの白い花が一斉に咲いていて、とても眩しい。