全話

文字数 8,988文字

 引っ越し後の荷物整理も済んだ日曜日の朝、と言っても十時は過ぎていた。紛れ込まないように別にしておいた一枚の年賀状を引き出しから取り出し、手に取って、私はソファーに腰を下ろした。引っ越し前の荷物整理をしていた時に見付けたものだ。この頃、紙の年賀状など殆ど出さなくなってしまったが、卒業後頂いた小学校六年生の時の恩師からのものだ。何故別にして置いたかと言うと、荷物整理をしていてふと見ると、その人の住所が、私の引っ越し先からかなり近い所だと気が付いたからだ。それを知った時、何故か懐かしさが湧いた。

 よく叱られた。悪戯好きだった私は目を付けられていて、何かと言うと呼び出された。時には全く覚えの無いことで怒られたりもした。この先生、悪さはすべて私の仕業だと思っていたのではないかと思う。「違います。それはやってません」と濡れ衣を否定しようとしても全く信用してくれなかった。尤も私は、授業中に窓の外を見ていて、飽きると勝手に外に出て行ってしまう様なとんでもない生徒だったので、今から考えれば、先生がそう決め付けるのも無理の無いことではあった。先生の説明を諄く感じて、飽きてしまう事が有るのだ。後年考えてみると、あの頃の私には、発達障害が有るのではないかと思われるような行動が目立った。
 集中力が欠如していると言う自覚が有った。成績の方はそんなに悪くはなかったのだが、我ながら行動は常軌を逸していた。後年私は、意識してメモを取ったり、今やらなければならない事を反芻するようになり、そのお陰か自分と言うものが見えるようになり、高校生になる頃には目立った奇行は影を潜めた。件の年賀状の送り主は、私が自分を見詰める切っ掛けを作ってくれた恩師と言える。

 恩師の名は森田健一と言ったが、生徒達は陰では皆、「モリケン」と呼んでいた。モリケンは当時四十代で、中背、痩せて神経質な男だった。お洒落だったのか、ジャージで教壇に立つような事は決して無かった。髪の毛はいつも整髪料でピッチリと固めていて、好んで着ていた紺のスリーピースのスーツにチョークの粉が付くのを気にして、フッと息を吹き掛けて付いた粉を飛ばしたり、人差し指の爪の先で弾いて払ったりしていた。それを見て私は、筆箱一杯になるほどのチョークの粉を集めて、あのスーツに掛けてやったら、モリケンはどんな反応をするだろうかなどと想像して、一人ほくそ笑んだりしていた。しかし、流石に実行はしなかった。チョークの粉が付くのを気にするなら、せめて、それが目立たない服装をすればいいのに、何故そうしないのだろうと私はいつも思っていた。

 モリケンと呼ばれた教師は生徒には厳しく、指し棒で叩くし、授業中喋っている生徒には、チョークを投げ付けたりもした。
 この時代の小学校教員の男女比はほぼ半々くらい。女性教師が増えるのに伴って、教師像も変わりつつあった。しかし、モリケンは古いタイプの教師の典型と言えた。私ではなかったが笑っていた生徒の口の中に、投げたチョークが飛び込んでしまった事があった。チョークを食らった生徒は、やはり悪戯好きな奴だったが、私と違って、道化者で皆に人気が有った。奴は、おどけながら口の中に入ったチョークを取り出し、皆に見せびらかし、皆は笑った。モリケンはそれを無視して授業を続けていた。尻馬に乗ってふざけ出す生徒が増えるのは避けたかったはずなのだが、何故かチョークを翳してふざける生徒を重ねて注意することはなかった。内心、不味いことをしたと思っていたのかも知れない。

 私にはこんな事が有った。ある日、校庭の清掃をしていた時、三人輪になって、立てた竹箒の柄の上に顎を乗せて輪になって無駄話をしていた。サボりだ。あとの二人の目が突然動き、素早く竹箒の柄から顎を外してそっぽを向いた。
 何が有ったのか、私は瞬時に判断出来なかった。脳天に拳骨が降って来た。話に夢中で、モリケンが後ろに来た事に気が付かなかったのだ。地面に付いているのは竹箒の穂先だから、しなって衝撃が緩和されはしたのだが、拳骨を食らったはずみに掌が顎から外れたせいで、竹箒の柄で喉を突いてしまい、私は咳き込んでしまった。今の時代なら教師の暴力として問題になることだろうが、当時は有りがちな事で、ダベリを見付かったことを不運だったと思ったのと、反射的に、モリケンに対して「クソヤロウが」と思っただけだった。やたら怒られるせいで反発はしていたが、実は私は、モリケンをそんなに嫌っていた訳でもなかった。大体、教師なんてそんなものだと思っていたのだ。

 ある時、モリケンに職員室に呼び出された。「説教食らうのか。面倒臭えな」と思いながら職員室に入った。何時もの事なので、他の教師達も関心を示さない。何時も神経質そうな表情をしているモリケンの表情が、何故か柔らかかったのが、却って薄気味悪かった。
 座った私に、モリケンは一冊の新しいノートを差し出した。反省文でも書けと言うのかと思った。モリケンは真っ直ぐに私の目を見て話し掛けて来る。私は圧を感じて視線を反らした。
「その日自分のしたことを毎日これに書いてみろ」
 モリケンは突然そう言った。怒っている素振りは無い。"日記書けってか? 夏休みでもないのに面倒臭せえな。何でだよ" 私はそう思った。
「別に提出する必要はない。人に見せるものじゃないから、上手く書こうなんて思わなくていい。箇条書きでも何でもいいから、とにかく、やったことを全部書いて置いて、後で読んでみるだけでいい」
そう言われたが、モリケンが何を言いたいのか、私にはその意味が分からなかった。
「出さなくていいんですか?」
不思議に思って、視線を上げて聞いてみた。モリケンは笑った。“こっちは真面目に聞いてんだ。笑うところじゃねえだろう"と私は思った。
「提出させても、"校庭でサッカーやっていたので、つい見てしまいました。すいませんでした。これからは、集中してちゃんと授業を聞くようにします" なんて適当な事書くだろう」
 私の目を見て、分かった風な事を言う。確かに、長い説教食らうのは御免だから、そりゃ、取り敢えずは反省しているような事を書くだろうなと思い、頷いた。
「俺に限らず、他の先生方でも普通、それで満足してしまう。"授業がつまんなかった。サッカー見てた方が楽しいから見てました" なんて馬鹿正直に書く奴は居ないからな」
“だから何だっていうの?“と思い、少し苛付いた。モリケンは続けた。
「そんなこと書いたら教師の方だって、"なめてんのか!"って、頭に血が昇って、また呼び付けることになるだろう、人間だからな。皆、自分の指導が生徒に届いたと思いたいんだ。反省の言葉と今後は行動を改めると言う事が書いてありさえすれば、教師はそれで満足してしまう。やるべき事はやったとな」
 そう言った後、モリケンは私に顔を近付けて声を落とした。
「だけどそれは、馴れ合いみたいなもんだ。本当のこと書かないと分かってて提出させても意味無いだろう。教師の言い訳と自己満足のためにやらせているようなもんだからな。意味無い」
 普段、こんな砕けた事を言うタイプの教師ではなかった。それに、私は真剣に聞いていなかったので、正直その時は、何を言ってるのか良く分からなかったのだ。モリケンが独り言を言っているのではないかと思ったくらいだ。
「お前はどうしようもない奴だが、馬鹿では無いと思えるところも有る。だから、届くか届かないか分からないが、言ってみることにした。提出するためでなく、自分で読み返すために書いてみろ」
“は?“と言う感じだ。声を落としたのは他の教師達に聞かれたくなかったからだろう。一瞬、モリケンの意図が分からなかったが、何か言うと長くなるだろうし、提出しなくていいなら問題無いと思って、分かった振りをして、私は「はい」と返事をしてノートを受け取った。
「書いてみたら、そのうち、なんかいいこと有るかも知れんぞ。……多分な」
 そう言ってモリケンは意味有りげに笑う。“何一人で盛り上がっているんだよ“と私は思った。
 立ち上がって黙って礼をして、そそくさと職員室を出た。
 もちろん「はい」は空返事で、書く気など全く無ったから、そのノートは長いこと家の私の机の引き出しに放り込んだままになっていた。それを見ることによって、モリケンに言われた事を思い出すのも面倒なので、貰ったノートを他の目的で使おうとも思わなかった。普段と違う妙な話し方が不思議だった。今改めて考えると、暴君みたいに見えたモリケンも、私をどう指導したら良いか真面目に苦悶して、工夫していたのかも知れない。

 中一の夏休みのある日、ショッピングセンターを一人でぶらぶらしていた。大声を出したりふざけ合ったりしながら、店内の通路を歩いて来る三人組がいた。同学年くらい。他の中学の生徒だ。大声を上げているだけでなく、ふざけて追い掛けたり逃げたりしながら、他の客にぶつかりそうになったりしている。
「なんだ、こいつら」と思って見た。
 相手は直ぐにそれに気付いた。
「おい、何ガン付けてんだよ!」
と一人が絡んで来た。私も突っ張りのような格好をしていた訳では無い。粋がるつもりも無かったので、「いや、別に」と言って避けて通り抜けようとした。しかし、奴らは通してくれなかった。
 三人に囲まれ、「付いて来いよ! 逃げんじゃねえぞ」と言われた。そして、建物の裏側、壁に囲まれたところに連れて行かれた。連れて行かれたと言うよりも、寧ろ面白いと言う気持ちで付いて行ったのだ。
「いい度胸してんな。何俺らにガン付けてんだよ。なんか文句有んのか?」
と言う。突っ張り連中とも見えない。こちらは一人、相手は三人だったので、それで強気になっているだけだろうと思った。奴らの調子に乗る態度にムカッと来たので、黙ってそっぽを向いた。
「なめてんのか、この野郎」
と尚も挑発して来た。一人が拳を握って殴り掛かるようなポーズを見せて威嚇する。本当の突っ張りなら、口より先に蹴りを入れて来る。”格好付けやがって、馬鹿が”と思って、つい睨み返してしまった。向こうも、それで黙っていては面子が立たない。こちらがビビった様子を見せないので、仕方無く殴り掛からなければならなくなったのだろう。喧嘩慣れしていないらしく、大振りでフック気味のパンチを振るって来た。反射的に私は、腰を左に捻って体の重心を前に移動すると共に、右の拳を真っ直ぐに突き出していた。手先だけではなく捻った腰から繰り出された拳は、カウンターとなって相手の鼻にヒットした。相手は、私のパンチのスピードと自分自身の前進エネルギーが合わさったパワーを顔面に受けて、鼻血を吹いてひっくり返ってしまった。後の二人は、それを見て一瞬慌てたらしく、倒れた仲間を起こそうとするでも無く、どうしようかと迷っている。
「何してるんだ!」
と声がした。見ると警備員だった。私達四人の様子を見ていた誰かが通報したに違いない。相手の三人も不良グループと言う訳でも無い。多少制服を着崩してはいるが、ちょっと粋がった普通の生徒に過ぎなかったから、警備員を見て逃げるような事は無く観念してしまった。

 警察を呼ばれ、パトカーに乗せられて警察署に連れて行かれた。
 私と三人は別々の取調室で事情を聞かれた。私は有りのままを話したつもりだった。聴取後、別の部屋で相手方に事情を聞いていた刑事と相談した私の担当刑事が戻って来た。私の顔を見て、
「お前も痣作ってるし、喧嘩だな。お合いこってとこだ。警察も忙しいんだ……詰まんねえことで手間掛けんな。そんなつもりはなくとも、間違って相手が死ぬ事だって有るんだからな。そうなってから後悔したって遅いんだ。刑務所行くような人間になってしまうぞ」
 丸顔で髪の毛の薄い四十年配の刑事はそう言った。言ってる事はドラマと同じだが、その容姿は、テレビや映画で見るデカのイメージとはほど遠く、その辺にゴロゴロ居るおじさんと何にも変わりは無いなと思った。

 説教されただけで、結局無罪放免となった。何故お構い無しになったのかその時は良く分からなかったが、後で知った事だが、その頃、管内で殺人事件が起きていて、実際、警察も忙しかったらしい。
 私は全く殴られてはいなかったのだが、お構い無しになった。私の右目の下には痣が有る。これは"太田母斑"と言って思春期に表れる痣なのだが、刑事は、それを殴られた痣として“おあいこだな”と言ったのだ。何が幸いするか分からないと、その時は思った。
 放免はされたが、帰りはパトカーで送って貰える訳ではない。警察署は駅から遠く、かなりの距離を歩かなければならなかった。三人とは顔を合わせていない。一旦収まった揉め事が再燃する場合も有るので、時差を付けて放免したのだろう。

 私の中に変化が起きたのは、その事件が切っ掛けだった。
“間違いから人を殺す事だって有る"
 そう言われた時は、良く有る説教の一つのパターンとしか思っていなかった。そのつもりだった。だが、一つの光景とともに、その言葉は私の心の奥深いところに忍び込み、息を潜めていたらしい。
 軽くではあったが、倒れた相手がコンクリートの床に頭を打ち付けたのを、私は見た。その映像は、スクリーンショットのように、私の意識の底に保存されてしまったらしい。警察では聞かれなかったので、私は敢えてその事には触れなかったし、相手もそれをアピールしたりはしなかったようだ。
 交通事故などで頭を打った時、その場では何とも無くとも一週間くらいの間に突然死ぬと言うケースが有ると言う事は聞いていた。だから、何ともないと思っても医者に行くべきだし、頭を打っていたら念入りに検査する必要が有ると聞いていた。それが意識に残っていた為、頭を打った生徒が突然死しないか、一週間ほどの間は不安で、正直恐ろしかったのだ。
“もし何かのはずみで人を殺してしまう事になったら、後悔してもそれを消し去る事は出来ない。その時点から普通の人間としての生活は送れなくなってしまう。それだけは嫌だ“と言う強迫観念が生まれた。幸い、何事も無く時は過ぎた。

 いつの間にか、気になる事が有った時、毎日では無いが、それをノートに書く習慣が出来たらしい。書いたものは時々読み返すようにもなった。そんな中でショッピングセンターでの出来事に付いて"何故あんな対応しか出来なかったんだろう"と思うようになった。何事も無く済んだ事ではあるが、トラウマとなっていたのだ。
 もし相手が死ぬような事になっていたら、私は前科者としての一生を送らなければならなかったのだと意識するようになった。
 実際相手は、倒れた拍子にコンクリートに頭を打ち付けた。私は、はっきりとそれを見たのだ。結果として極弱い力で打ち付けただけだったのだろう。運良くその後死んだり重体になったと言う事は無かった。相手の生徒も、頭を打ったと警察には言わなかったのだろう。もし言っていたら、当然病院での検査と言う事になって、例え結果が何ともなかったとしても、頭を打った事が調書に記載されていたら、重大な結果に至る可能性も有ったとして、簡単な取り調べでは済まなかったはずだ。暴行障害として鑑別所に送られていても不思議は無かった。単に運の良さが重なって、私は難を逃れただけなのだ。そう実感した。
 何か有ってから、“そんなつもりは無かった“と言う言い訳で、起きてしまった事を取り消す事は出来ない。ゲームのように人生をリセットすることなど出来ないのだ。起きた事は何処までも背負って生きて行くしかなくなる。もっと考えてから行動しないと、自分はとんでもない人間になってしまうのではないかと考えて恐ろしくなった。他人に言われても何も感じなかった事が、いつの間にか、自分の心の中で増殖していた。

 親にも言わず、部屋で鬱々としている時、モリケンに貰ったノートが引き出しの中に有る事を思い出した。
そのノートを取り出し「絡まれても飽くまで無視し続けていれば良かったんだ。見た目で突っ張りグループなんかじゃ無い事は分かっていたのだから、無視していれば、通行人の多いところで奴らが殴り掛かって来るような事は無かったはずだ。何故人気の無いところまで付いて行ったのか。二言、三言の挑発的な言葉を聞き流せば良かっただけだ。舐められたく無いと言うだけの理由で付いて行っ手しまった。次にこんなことが有ったら、絶対に無視しよう」
 それだけ書いた。毎日とは行かなかったが、心がざわつく時に、形に捕らわれずに正直な想いをそのノートに書き付けるようになった。それで、何となく自分が見えるようになって来たのかも知れない。自分の中に有る野生を消さなければならないと、その時初めて感じた。

 洗濯物を干すため、洗濯篭を持ってリビングを横切る時、
「出掛けるの?」
と妻の実和が聞いて来た。
「うん。天気もいいし、今日、森田先生を訪ねてみようと思ってる」
と私は答えた。年賀状を見付けた時、モリケンのことは"世話になった先生" とだけ実和には話してある。住所は既に確認して置いた。Google Earthで見ると、年賀状に記載されている住所には、それなりの年代を経過した一戸建てがあり、ストリートビューで確認すると、表札は"森田"となっている。年賀状は、私が出さなくてなって途切れているが、少なくとも、時を経て別の建物が立っていたり、住人が他の人になっていると言う事は無いようだった。
「いきなり行って大丈夫かしらね。電話番号も分からないんでしょ」
 干しながら背中を向けたままで実和が聞く。年賀状に電話番号は記載されていなかったし、もちろん、メールアドレスなどは分からない。
「うん。行ってみていらっしゃらなかったら、ご家族の方にご挨拶だけして来るつもりだ。その時、差し支えないようなら、電話番号を伺うとか、俺の連絡先を書いたメモを置いて来るとかするつもりだ。表札はまだ"森田"となっているようだから」
そう説明した。
「うん。お昼はどうするの。食べてから行く?」
 それが聞きたかったのだろう。私のインナーのシャツをハンガーに掛けながら実和が聞いて来た。
「その辺で蕎麦でも食ってから行くからいいよ。蕎麦食いたくなった」
と答えた。
「そう、じゃ私、友香とショッピングセンター行くから、用意しとかなくていいのね」
思惑に合ったと見えて、実和は満足気に念を押す。
「ああ、大丈夫だ」
と私は答えた。実和の関心は私から離れた。
「友香ーっ! ゲームやってないで、ママが洗濯済むまでに支度しときなさーい。買い物行くから」
 何時もの調子で声を上げる。暫くして、実和が洗濯物を干し終わる頃になって、娘の友香が、のそのそとリビングに入って来た。服装はピンクのスエットのままだ。ソファーに座ると直ぐにスマホを弄り出す。
「早く着替えないと、ママに叱られるぞ」
 先を読んで、私は友香に言った。
「あんな事言ってるけど、結局ママの方が遅くなるんですーっ。いつもそうでしょ」
 友香は小学校六年生になる。妻は“グズなんだから……」といちいち言うが、私から見ると結構冷静な娘だ。
「パパは行かないの?」
と聞いて来た。何時ものことだからなのか、友香は実和に叱られる事を余り気にしてはいない。
「うん。他に出掛ける用事が有るから」
 同行しない理由だけ告げれば良いと思った。
「何処?」
と興味が有りそうに聞く。
「昔教わった先生のところに行ってみるつもりだ」
「へえーっ? 何時の先生? 高校?」
と聞きながらも、スマホを弄る手は止めない。
「今の友香と同じ、六年生の時に教わった先生だ」
「ふーん。大人になって会いたいなんて思うこと有るんだ、…… いい先生だったの?」
 今度はスマホから目を話して聞いて来た。
「正直、その時はそう思っていなかったんだけど、後から考えたらいい先生だったような気がする」
「気がするって何? 良く分かんない」
 今の子は、大人の言う事を理解しようと努めたりはしない。自分の感情が優先なのだ。
「友香は、今の先生どう思ってるんだ?」
と聞いてみた。
「うーん、良かったり嫌だったり」
またスマホをいじりながら答える。
「何だそれ……」
 当たり前のことを言ったのかも知れないが、私の考える子供らしい答では無かった。普通、好きとか嫌いとか答えるだろうと思った。
 実和が戻って来た。
「ユカーっ。まだ着替えてないの。ママ忙しいんだから、何度も言われる前にちゃんとやってよね!」
 実和には背を向けたまま、私の方を見て唇をひん曲げて見せた後、友香は「はーい」と素直そうな声で返事をして部屋の方に姿を消した。妙に大人びていて、要領の良い子だ。たまに反抗してぶつかることも有るには有るが、母親の攻撃を上手く透かす術も心得ていて、時に寄って使い分けている。
 

「こんな人生が、私にも有り得たのだ」
 不意に私にとって不都合な現実が頭をもたげた。閉ざされた狭い空間の中で、この頃私は、時々夢想の世界に迷い込んでしまうようになっている。現実の私にそんな人生は無いのだ。由香も実和も妄想の中にしか存在しない。
 モリケンの努力は、私を完全に変えることは出来なかったのか。それとも、本当に運の悪い出来事が起こってしまったと言うだけのことなのか……

 二十七歳の時、絡んで来た奴らと喧嘩になった。こちらもボロボロになりながら夢中で戦い、倒された時に手に触れた石ころを無意識に掴み。立ち上がった私は、殴りかかって来た一人の頭を、その石で殴ってしまった。相手は死んだ。

 結局、私は変われなかったのか? それとも、ただ運が悪かっただけなのか? 実際、分からないのだ。
 遺族宛に手紙を書けと弁護士は言う。
『授業がつまらないから校庭でやっているサッカーを見ていた』と書かなかったように、やはり、お詫びと反省を繰り返し述べるしか無いのかと思う。本音を書いたら、反省が無いと遺族は怒るだろうから。

 シンプルなベッドと高いところに小さな窓が一つ。廊下側には鉄格子。
 私は壁を見詰めて、そこにプロジェクションマッピングのように表れる夢想に、また耽っていく。
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