「こどものための伝記全集シリーズ」

文字数 2,838文字

父の買ってきた「こどものための伝記シリーズ全集」なる本が弟の本棚に整然と並べてある。弟はその伝記シリーズを貪るように読みふけり、モーツァルトを気取ってリコーダーをぴいぴい鳴らしたり、お釈迦様よろしくソメイヨシノの根元にあぐらをかいて瞑想したりと、八歳児特有の感受性を遺憾なく発揮して偉人たちの影響を受けまくっていた。

憲法記念日は朝から澄んだ五月晴れの空が広がっていた。遅い朝食を終えたおれは、リビングのソファに寝っ転がってスマホをいじっていた。YouTubeを観ながらニヤついていたら弟がアイスを持ってやってきておれにくれた。

——おう、気がきくじゃねえか。

おれは包装紙を剥いて一口かじった。弟はなにかを言い出したそうにもじもじしている。

——なんかお願い事か?

空を飛びたいから手伝って欲しい。弟は思い切ったように言って顔を赤くした。こんな事を言い出すのはライト兄弟の伝記でも読んだのに違いないのである。おおめんどくせえ、おれは思った。


おれは弟を近くの河川敷まで連れ出すことにした。玄関を出ると、庭の小屋で寝ていた五右衛門が飛び出してきて、尻尾を振りながら吠え立てるので、一緒に連れていってやる事にした。

河川敷の野球グラウンドではおじさんたちが草野球をしている。若い夫婦がベビーカーを押しながら暖かい陽射しの中を散歩している。自転車に乗った男の子が数人、アスファルトの遊歩道を競争してはしゃいでいた。多摩川の対岸では建ち並ぶビルの窓に高くなりはじめた太陽が反射している。

——いいか、空を飛ぶには強靭な足腰が必要だ。

弟はぽかんと口を開けておれを見上げている。

——こうな、まず右足で空中を踏むだろ、そしたらその足が地面につく前に今度は左足で空中を踏むんだ。これを繰り返すことで人間は空を飛ぶことができる。

おれは口で説明しながらその動作をゆっくりやってみせた。

——やってみろ。

弟はおれのいった通りに足を動かすが、側から見ると死に物狂いで足踏みをしているようにしか見えない。弟は首を傾げたり、苛だたしそうに太ももを叩いたりしながら空飛ぶ足踏みを繰り返した。

——できないだろう。これができるようになるには少なくとも十年は修行が必要だ。
——えぇ、十年も?
——そうだ。なにをするにしても、成し遂げるには最低でもそれくらいの努力は必要なのだ。
——でもモーツァルトは六歳で四つの楽器が演奏できたし、ゲーテが初めて詩を書いたのは八歳の時だよ。

思わず舌打ちが出そうになった。伝記シリーズのせいで余計な知識ばっかり身につけてやがる。

——モーツァルトが演奏できたのはカスタネットとトライアングルとシンバルとカスタネットの四つだ。そんなのはおれでもできる。それからゲーテは架空の人物だ。実在しない。そんなことより空を飛ぶにはまず下半身の強化だ。そのためにはとにかく走りこむことが一番だ。ダッシュ十本、いってこい。

弟は素直におれの指示に従って、アスファルトの遊歩道を走りはじめた。五右衛門はさっきからしきりに地面のにおいを嗅いでいる。おれは五右衛門を引っ張って近くのベンチまでいくと腰を下ろした。

遊歩道の向こうにはやけに大きな木が枝を広げて、揺れる葉が地面に斑らな影を散らしていた。木陰では女の子が三人、しゃぼん玉を吹いて遊んでいる。

初夏の陽射しが川面で輝いている。ボールをとらえた金属音が響いておじさんたちの歓声が上がる。五右衛門はしばらくベンチの脚のにおいを嗅いだり、芝から飛び出たバッタを追いかけようとしたりしていたが、やがて飽きたらしくおれの足元に寝そべってつまらなそうにあくびをしている。おれもつられてあくびをした。

弟は何本目かのダッシュを終えて、肩で息をしながら立ち止まって休んでいる。呼吸を整えると殊勝にもまた走り出す。

遠ざかる弟の背中を眺めていたら、高校の友達のウッチがでかいレトリバーを連れて通りかかった。

——ウッチ、おはよう。
——おや、フクちゃん。

ウッチはにこにこしながら軽く手を振った。

——フクちゃんも散歩かい。
——うん。ウッチのレトリバー、いい体格してるじゃないか。なんて名前だい。
——こいつはアレックスだ。

アレックスと五右衛門がお互いのにおいを嗅ぎあって尻尾を振っている。おれが毛並みの良い金色の頭を撫でると、アレックスはおれの掌をぺろぺろ舐めた。

——おや、飛行機雲。

ウッチがおれの隣に座り、空を見上げて言った。白い雲が一筋、澄んだ五月の空を流れるように伸びていった。川から涼しい風が吹いてくる。太陽が濡れた芝を輝かせて、二匹の紋白蝶が絡み合うようにして飛んでいく。大きなしゃぼん玉が一つ、目の前にふわふわと浮かんできて割れた。

川の流れを眺めながら二人で喋っているところへ、弟が向こうから苦しそうに走ってくる。弟はおれと一緒にいるウッチに気付いて息を切らせながら挨拶した。

——こんにちは。

ウッチが挨拶を返すと弟はまた走って行ってしまった。

——あの子はきみの弟か。いくつだい。
——八歳だ。
——八つ下か、可愛いだろう。かけっこの特訓かい?
——あはは、そうさ。付き合ってやってるのさ。いい兄貴だろう。

ウッチは走る弟を楽しそうに目で追っている。

——ウッチのところはお姉さんがいるんだったか。
——そうさ、人の趣味やら服装やらに口出ししてくるからうるさくてたまらない。僕も弟が欲しかったよ。おや。

ウッチは急に身を乗り出し、目を細めたり何度も瞬きをしたり目をこすったりしだした。

——どうしたんだい。
——いや、気のせいだろうがね、今きみの弟が少し宙に浮いたように見えたから。
——まさか。

おれは弟を見た。ティーシャーツの背中が濡れて黒い染みになり、髪の毛が汗で額にへばりついている。犬のように舌を出して苦しそうにあえぎ、泣きそうな顔でまた走り出す。

——そうだウッチ、すまないが百五十円貸してくれないか。休み明けに返すから。あいつに飲み物を買ってやりたいが財布を持ってきてないのだ。
——おお、構わんよ。

ウッチは三百円貸してくれた。

ウッチにお礼を言ってアレックスに別れを告げると、五右衛門を連れて土手を上がった。道路を渡ると酒屋があり、店先にジュースの自販機が置いてある。おれはコーラを二本買った。

ペットボトルを持ってベンチまで戻ったが、さっきまで走っていた弟の姿が見えない。どこかで休憩でもしてるのかとあたりを見回した。

遊歩道を散歩していた老夫婦が、呆れたような顔で空を見上げている。その横で、自転車にまたがった小学生たちが口をぽかんと開けて上を向いている。グラウンドではおじさんたちが試合を中断して眩しそうに空を仰いでいる。グラウンドの手前ではアレックスを連れたウッチが空を見上げたまま立ちすくんでいた。

五右衛門が空に向かって二度吠えた。ウッチがはっとしておれを見た。困った顔を浮かべながら、ウッチが空を指差す。おれは戸惑いながらその指先をたどった。晴れた空には初夏の太陽、飛行機雲が一筋流れて。〈了〉
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