花ちゃん

文字数 5,000文字

 花ちゃんと初めて会った日、花ちゃんは黒地に黄色と赤の花が散らばった、彼岸花みたいな長いスカートを履いていた。

 花粉症で目がじんわりする代々木公園を、僕はスマホを凝視しながら歩いていた。
 社会人一年目、ほやほやの春の夜。代々木公園はだだっ広くて、花見客で賑わっていて、あちこちで団体の宴会が開催されていた。僕は、ネットの掲示板に貼られた開催場所情報だけを頼りに、歩いた。こんだけ人がいて見つかるわけないだろ。そう途方に暮れそうになった瞬間、視界の左端に、その団体を見つけた。

【★みんなでお花見しませんか?目印は黄色いTシャツ★】

 掲示板に書かれていた今回の集まりの募集タイトルだ。「若者の飲みサークル」みたいなもので、僕は大学を卒業してから、たまにこういう集まりに顔を出した。上下関係も共通の目標もない集まりが、僕には気楽だった。
 掲示板を念のためもう一度確認する。確かに、お揃いの黄色いTシャツを着た人がちらほらいる。恐る恐る、だけど高めのテンションで声をかけた。
「あの、初めまして、星野です」
 ちょっと声が震えたかと思ったが、既に酔いはじめている20人くらいの若い男女は、「待ってたよー」「座って!」「飲も飲も」と次々に言う。僕は適当に空けられたそのスペースに、会釈をしながら座った。
 横にいた大人しそうな赤メガネの女の子が、ガムテープとマジックペンを渡してくる。「ゆっこ」と書かれた、名札がわりのガムテープ。
「お名前書いて、見えるとこに貼ってね。今日は食べ放題に飲み放題」
そういって、「ゆっこ」はお酒より先に、紙皿に乗ったエピマヨのピザを僕に渡す。ちょっと乾びたそれは、紙皿を挟んでひんやりとした温度を手のひらに伝える。
「冷めてるけど、とっても美味しいよ。あ、何飲みますか?」

 その時、ちょうどいいタイミングで女の子が走ってきた。その子は外国産の瓶ビールを器用に5本も両手で束ねて「めっちゃお待たせ!」と叫ぶように言って笑った。スラッとした細身に、猫のような笑顔、高い声。
それが、花ちゃんだった。
「あ、ねえねえ、星野くんにビール渡して!」
「ゆっこ」が花ちゃんに言う。近寄ってくる彼岸花のスカート。「ホッシーね、初めまして!それ天パ?デジパ?」

 正確に言えば、この時点では、花ちゃんは花ちゃんではなかった。僕がそう呼び始めたのはもう少し後のことで、名札のガムテープをつけてなかった彼女はただの「ノリのいい可愛い子」。それ以上でも以下でもない。あ、あと、外国の洗剤みたいな、パキッとした香りがした。そして花ちゃんは、僕の対角線上の女の子に呼ばれ、「久しぶり!」と笑いながらかけて行った。
 飽きるくらい乾杯をし、会話というより飲ませ合いをし、ピザやらチキンやら海苔巻きやらをたらふく食べた。日が傾いた頃、酔った僕はトイレに立った。

 代々木公園の公衆トイレは、この時期だから男子用すら混んでいた。やっと用を済まして歩き出したところに、あの「ノリのいい可愛い子」がいた。花ちゃんだ。
 馬鹿騒ぎから抜け出した花ちゃん。さっきとまるで違う、表情のない顔をして大きな木にもたれスマホを弄っている。
「あ、あの」
花ちゃんの視線と、口角が上がる。
「あ、初参加の。えっと」
「星野です」
「ああ、そう!ホッシー!」
ポンっと手を打ちながら、またホッシーというあだ名を呼んだ。
「大丈夫?」
「え?」
「いや、すんごい真顔でいたから、気分悪いのかなと思っただけ」
「大丈夫、ぜんっぜん大丈夫。」
ちょっと苦笑いで、花ちゃんは僕の頬をつついた。
少し照れた僕は、花ちゃんに話しかけ続ける。
「結構、こういう集まりくるの?」
「んーまあ、結構来る方かな!気が向いたとき」
「ふーん」
「ホッシーは?」
「俺は、社会人なってから、何となく。なんか、このままだと退屈になる感じがして」
原宿の方から、消防車のサイレンが通り過ぎる。沈黙。春の風。
「わかる、すごく」
 沈黙に溶けるような声。僕は何となく、もっと話してみたいと思った。別に後腐れも何もないと思うし、と内心言い訳をしながら、「連絡先教えてよ、また飲もうよ」と言った。
「電話番号ならいいよ!ラインとか、なんか面倒じゃない?ほい、携帯」
白い掌が差し出される。自分の薄汚れたスマホをその手のひらに置くと、テキパキと自分の電話番号を入力し、返してきた。
「気が向いたらかけて!」
「分かった」
「突然でもいいから、来週中にかけて」
そう言って、「ビール追加してくる!」と敬礼のポーズをとり、公園の外に足早にかけて行った。名前を、聞き忘れた。
 

 眠たい新人研修を終えて会社を出ると、すごくいい天気だった。金曜。「来週中に」と、何故か言われたから、花ちゃんに電話をかけてみた。

 二つ返事でOKし渋谷を指定してきた花ちゃんに、僕は最低限の清潔感のある安い焼鳥屋を指定し返した。
 その日、花ちゃんは薔薇柄のワンピースを着ていた。派手だけど、似合っている。
 ウーロンハイを二杯頼んでから、「ね、名前なんていうの」と聞くと、「好きなように呼んで」と言った。
「じゃ、花ちゃん」
「え?何で?」ものすごく可笑しそうに花ちゃんは笑った。
「前会った時も、今日も、花柄きてるから」
そう言うと、ちょっとびっくりしたようにもっと笑った。
「あたしね、毎日花柄着てるよ」
「どうして?」
「そんなん、好きだからだよ。パアッとするでしょ?それだけ!」
お酒が出てきて、とても自然に僕たちは乾杯をした。

 花ちゃんは、相変わらずのハイテンションで、僕に色んなことを聞いた。出身、仕事、大学時代の専攻、サークル、バイト。だけどその質問を花ちゃんにもぶつけると、半笑いで誤魔化す。自分の話は、一切したがらなかった。
 それで、また僕に質問攻めをする。好きなお酒は?初恋は?運動は得意?
 何だか取材を受けてるような気分になったけど、あくまで花ちゃんは興味津々といった感じで、とても楽しそうだった。好きな季節は?最近行った旅行先は?華奢な上半身を乗り出して話を聞く花ちゃん。お酒もお互い4杯目になり、目の前の串立てには空の串が束になって刺さっている。

 セブンとファミマどっち派?渋谷と新宿どっちが好き?
 どんどん、他愛もない会話になるのに、花ちゃんは最初からリアクションのペースを崩さない。楽しそうに笑う白い歯、整った笑顔、安居酒屋の焼鳥を美味しそうに頬張る、花ちゃん。
「ちょっとトイレ行ってくる」
 そう言っておもむろに立ち上がった細い後ろ姿を見ながら、僕はお会計のために店員を呼んだ。4730円。五千円札を出して、端数の小銭がないか財布をまさぐりながら、ふと思う。

あの子って。
花ちゃんって、何を考えてるんだろう。

ほぼ初対面の僕に質問をするテンションの高い声。黄色いTシャツの団体と会話するときのテンションの高い声。初めて登場した時ビールを運んできたテンションの高い声。そして、トイレ前で話したときの真顔。

 「ふうう酔った酔った」
そう言って笑いながら戻ってきた花ちゃんに、僕は聞く。こんだけ自分の話をしたんだからちょっとくらいいいだろう。
「花ちゃん、いっつも笑顔でテンション高いけどさ、何考えてるの?」
口角を上げたまま、不思議そうに固まる花ちゃん。
「めっちゃ楽しそうだけど、笑ってる奥で、どんなこと考えてるの?」
花ちゃんは黙り込んだ。
ああ、食い過ぎたな。最後に頼んだ鶏出汁ラーメンは余計だったかもしれない。

 すると花ちゃんは、テーブルの端に立てかけてあるメニュー表に手を伸ばした。と思ったら、アンケート用のボールペンと、ペーパーナプキンをとった。そして、サササッとペーパーに文字を書いた。
 はい、と唇がかすかに動く。ペーパーを差し出す白い腕。意外と綺麗な教科書みたいな字で、こう書いてあった。

止まれ、止まれ!

「なにこれ?」
「え?」
「どう言うことだよ?」思わず笑って言うと、3秒くらい、花ちゃんは俯いた。厚い二重幅と長い睫毛。
「考えてること。あたしが考えてるのって、これだけ」
そして急に僕の手からペーパーを取り上げ、茶封筒みたいな色をしたそれを適当に三角に折って、立ち上がり、僕のワイシャツのポケットに入れた。
「は?」
「間違ってこのまま洗濯しちゃったら悲劇だね」
ニヤリとした顔。いつもの楽しそうな花ちゃん。
ふざけんなよ!と笑い、本当に洗濯しそうだ、と思いポケットからそれを取り出した。それで、ちょうどそこにあったから財布に入れた。

 店を出て、そのあとは、どうしたんだっけ。二軒目に行ったような、そのまま帰ったような。あんまり覚えていない。

 僕らはそれ以上、連絡を取ることも何もなかった。たった一瞬の、春だった。そして、その年の夏、僕はああいう集まりに結構な頻度で参加し、旅行に行ってはしゃぐような仲間も何人も作った。花ちゃんがいたらいいな、とそわそわ参加したこともあったが、時間が経つにつれて、そんなことを思うこともなくなった。
 あれから、もう五年が経つ。当然、ここ数年は思い出すこともなかった。


 幕張のショッピングモールでその子を見かけた時、花ちゃん?と思ったのは、だから本当に不思議なことだ。
 紺色のワンピースを着たその人は、どこにも花柄を身につけてはいなかったし、足早に飲食店に入っていったから、姿はほとんど見ていない。なのに、僕は咄嗟に「花ちゃんだ」と思った。

 唐突に、思い出す。馬鹿騒ぎばかりし、沢山の人と繋がりたかったあの頃。顔が一致しない連絡先がどんどん増えた。「またね」「お疲れ」で、それ以来会うことのない人たち。そんなのが山ほどいて、でも毎日ゲラゲラ笑って、汗かいて、いっぱい食べて、飲んで。
 それが、何となく、そういう集まりに行かなくなって、たまにかつての同級生と飲むくらいで、それも、昇進がどうとか、結婚はいつがいいとか、保険とか、ローンとか、そんなことが話題にのぼる。
 この春、僕は5つ下の新入社員のトレーナーになった。当たり前だけれどミスが多く、ヒヤヒヤする。トラブルが起こっていないか、休日なのに会社の携帯をチェックしながら、もうすぐ付き合って2年記念日を迎える彼女を待つ。

 いま飲食店に入ったら、花ちゃんと再会できるかもしれないな。コーヒーでも飲みに入ってみようか。なんて思ったけれど、思っただけだった。僕はただ、あの頃毎日花柄を着ていると言っていた花ちゃんと、紺色のワンピースのことを考えた。

 なんて言うんだろう。みんな進んでいく。進まないといけない、と思う。
 それは、よし進もう、と意気込むような前向きなものじゃなくて、例えば、同じワンルームの賃貸に6年住んでいるとまずい気がしてくるような、あまり興味はないけどそろそろちょっといい腕時計をつけなきゃなと思うような、そんな、自分ではない誰かに、何かに、じわりじわりと追い詰められていくような感覚だ。
 そんな風にして時間は経っていくんだと思う。そんなことを、僕は最近知った。
 そうやって、僕たちがおんなじ時間の土台の上にいるんなら、さっきのは、やっぱり花ちゃんなのかも知れない。

 ただ楽しいということ意外、何も思わなかったあの頃。
 「止まれ、止まれ!」
 テンションの高い花ちゃんが一瞬伏し目がちに放ったその言葉を、ようやく、なんか、分かったような気がした。

 今、花ちゃんが紺色のワンピースを着ていようと、僕には、もう関係ない。本当に関係ない。だって、あの頃だって今だって、僕は花ちゃんの本当の名前すら知らないんだから。
 だけど、喉とみぞおちの間の深いところで、その1センチくらいのところで、何故か僕は切に思う。願う。

花ちゃんの中で、何か一つでも、止まってたらいいね。

 ショッピングモールの自動ドアが開くたび、花粉混じりの風が入ってくる。目が痒い。僕は、彼女が来るまで、会社のメールをチェックし続ける。

「止まれ、止まれ!」
覚えているはずのない、だけど確かに花ちゃんの声で、あの綺麗な文字が響いている。








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