第1話

文字数 4,818文字

 大海原を男が一人、舟で行く。乗っている小舟は今にも沈みそうだ。男はそれでも前を見る。

「港町」

 男はそう呟いた。あての無い舟旅だったが、ここに来て行く先が見えた。

「行ってみるか」

 男はそう言って舟の上で動き始めた。小さな帆を張り舟を操る。その途上で男は懐から本を取り出し、ペンで何かを書き込んだ。その本の表紙には名前が記されている。

 キャンバリーニ・ジャッカス

 この男の名前だ。武器も装備も食料もほとんど持っていない。少し前にはそれなりに持っていた。しかし、ここまでの旅でほぼ使い尽くしてしまったのだ。キャンバリーニ・ジャッカスは無計画に旅をしていた。その日の行動や進む方角をサイコロで決める。三つのサイコロを振り、出た目から感じたインスピレーションを自分の意思決定に混ぜ混む。そんなことを続けていれば旅や航海はすぐに行き詰まる。視界に港町が現れたのは、今のキャンバリーニにとって奇跡的な幸運だ。

 キャンバリーニは陸地を目指していた。港に停泊できれば幸いだが、キャンバリーニの身なりを見れば怪しまれることだろう。どう見ても海賊だ。もっとも、キャンバリーニは分類上の海賊行為も働いて来た。警戒心を働かせての行動だ。キャンバリーニは港町からやや離れた海岸に小舟をつけた。

「じゃあな」

 キャンバリーニは小舟に触れ、言葉をかけてから舟に背を向けて歩いていった。あの小舟も、元々はキャンバリーニのものでは無かったのだ。いくつかの巡り合わせの果てに彼のものとなっていた。ここで別れ、必要な誰かが使ってくれたらいい。キャンバリーニは、そんな風に思っていた。

 舟の上から港町を見た時分には、春の午後の穏やかな日差しがあった。舟を漕ぎ、陸地を歩いているうちに夕焼けを見ることとなった。もうすぐ日が暮れる。もう少し歩けば港町に入れる。しかし、キャンバリーニは野宿することにした。これもこの男の気まぐれでもあるのだが、町の中では扱いづらい魔術の儀式を行うためでもあった。ここで持ち物のいくつかを使いきってしまおうとも思っていた。

 キャンバリーニは波の音を聞きながら火を起こしていた。炎を前にしてから、彼は本とペンを取り出し、再び何かを書き記している。書き終えると、キャンバリーニは残っている食料を脇において、火の近くの地面に模様を描いていった。キャンバリーニは何度か呼吸を繰り返しその場に魔力を充填させた。キャンバリーニの呼吸は荒くなり、僅かに汗を吹き出した。暗闇の中の炎は静かに揺れていたが、その揺れが徐々に大きくなってきた。色が赤や橙から紫や青を帯びるようになった。キャンバリーニの周囲に風が巻き起こり、獣の叫び声のような音が溢れた。炎の周囲をグルグルと何らかの力の奔流が駆けていく。空中において力が弾けるのを感じた。辺りには暗闇と静寂が溢れている。キャンバリーニの前には青紫の炎があった。その炎は今、小さな人の形となって揺らめいている。

「まだ生きているようだね」

 小さな炎はキャンバリーニにそう話しかけた。キャンバリーニは「ああ」と答える。その後、本のページを何枚か破り、

「これを頼む」

 と言って炎の前に差し出した。

「はいよ」

 小さな炎はそう言ってページを受け取り、自分の中に取り込んだ。炎の周囲には火の粉が多く舞う。炎はページを食べたのだ。

「ふぅむ。大分マシになったが、まだまだ荒い。これについて渡せるものは……」

 炎の小人は一瞬膨れ上がり、その後体から何かを地面に放出した。

「こんなものだね」

 キャンバリーニは地面に落ちた小さな粒を拾い、凝視する。とても小さな宝石。紫色に輝いているそれを見て、キャンバリーニは少しの溜息を吐き、「わかった」と言ってそれを懐にしまった。

 キャンバリーニは、炎の小人ともう幾つかのやり取りをして再び魔力を充填させその場に溢れさせた。荒い呼吸を繰り返しながら平静へと戻っていく。キャンバリーニは食事の準備を始めた。

 キャンバリーニ・ジャッカスが立った今行った儀式は『リフィービオ』という。これは彼にかけられた呪いを解くための儀式だ。リフィービオとはあの炎の小人の名前だ。キャンバリーニが呪いに苦しみ、もがいた末に現れたものだ。これを繰り返せば、彼にかけられた呪いを解く可能性が生まれる。正式な解呪の法は見つかっていない。キャンバリーニ・ジャッカスにはこの道しか残されていなかった。それ故に、彼に予定されていた幾つかの権利、座るべき席を身内に譲り、こんな旅をしているのだ。

 キャンバリーニは食事を終え、眠ることにしたようだ。その前に懐から本を取り出し、ペンで何かを書き記す。それを終えると、彼は寝転んで目を閉じた。

 キャンバリーニが持っているこの本はリフィービオに必要な道具だ。この本、白紙のノートに何かを書き込み、それをリフィービオに食べさせる。そこから生まれる宝石がキャンバリーニの呪いを押さえる。この儀式を行いながらキャンバリーニは旅を続ける。この旅に終わりは見えない。

 キャンバリーニ・ジャッカスにかけられた呪い。それは、強力な魔力が暴走し、周囲に見境なく攻撃をしかけてしまうものだ。彼の意思とは関係なく、それは起きてしまう。その力は様々な獣の形をとり、魔物の姿となり、周囲の様々なものを襲ってしまう。キャンバリーニ・ジャッカスは自分の家の仕事をこなしながら暮らしていた。ただ、それだけの日々だった。ある日突然、この呪いが現れた。住んでいた街に謎の事件が起こり、それが繰り返された。自分の家にも何らかの被害が現れていった。ある時、キャンバリーニは魔術師に相談し、この呪いのことが明らかになった。解ったことは、次の四つ。

・日常生活をする間に、キャンバリーニ・ジャッカスには呪いの力で負の魔力が溜まる。
・それが限界を超えると、負の魔力がキャンバリーニ・ジャッカスの体から外に出て暴走してしまう。
・この呪いを抑える方法は無い。
・この呪いは、何処かの誰かによってキャンバリーニ・ジャッカスに仕掛けられたもの。

 それを聞かされた時、キャンバリーニは世界の全てを呪った。己自身さえも。この世に生まれた事さえも。

 許さない。

 そう叫んだ。世界を罵った。何度も暴れ、心と体を毒していった。

 そんな時に、キャンバリーニ・ジャッカスの前にリフィービオが現れたのだ。そこから彼は旅を始めた。呪いを抑える術を知り、彼は希望を取り戻した。この世界の何処かには、この呪いを解く方法もあるかもしれない。そんな期待を胸に僅かに忍ばせて、キャンバリーニは旅をしている。これは呪いを解くための旅であり、呪いをかけた者への復讐の旅でもある。
誰が何の意図をもって、どうやってキャンバリーニを呪ったのかは、全くわからないのであるが。

 夜明け前。空に黒と青が混ざっている時間。キャンバリーニは目を覚ました。身を起こし、背伸びをして、小さなあくびを一つ。目をこすりながら今の状況を確認していく。彼は立ち上がり、太陽が昇りそうな方角を見た。そのまま懐から小さな宝石を取り出し、魔力を込めて放り投げ、空中で砕く。自身に浴びせかけ、その力を取り込んだ。

 この宝石を得るための手段の一つ。リフィービオに食べさせるものは、キャンバリーニが記す負のイメージだ。この技法を習得するのも一苦労であった。キャンバリーニはこの技法を嫌っている所もある。しかし、自身の生存の為、目的の為ならばと思い、練習を続けている。

 これも呪いの一つの作用であろうと、キャンバリーニは予測しているのだが、彼には日々を生きる各状況に置いて暴力的なイメージが数多く頭をよぎってしまうのだ。それを押しのけ、忘れようともしている。打ち消すほどに負の魔力は多くたまってしまう。リフィービオはそれを描き表すことを求めた。

 それをより詳細に、力強く描くほどに、キャンバリーニ・ジャッカスに負の魔力を抑える宝石を与えよう。

 そんな取引のもと、キャンバリーニはあの儀式を行っている。先程、リフィービオに言われた通りまだまだのようだ。しかし、確実に上達している。昨日記したいくつかの内容はおおよそこんなものであった。

 舟で陸を目指すうちに海の魔物に襲われ、水中に引きずり込まれたうえ更なる呪法をかけられ、港町を壊滅させる。その方法はとてもゆっくりとしたもので、自分がいやいやそれに関わってしまい、その力には逆らえない。そこから抜け出すためにはさらに多くの困難が待っている。

 陸に上がった直後に、さっきまで乗っていた船が魔物に変化し、後ろからキャンバリーニを襲う。激闘の末に舟だった魔物を倒すものの、腕に傷を負ってしまう。そこへ魔力を帯びた虫が入り込み、内部からキャンバリーニを食い荒らす。それを食い止めるためには、海岸に散らばる舟の残骸を集めなければならない。

 野宿の準備をしていたところ、地中から精霊が現れキャンバリーニを地面に組み伏せる。地面からは恐ろしげな魔物が多く溢れ、キャンバリーニ打ち据え、口から溢れる悲鳴を聞いて楽しんでいる。これを続けられたくなければ、心地いい声を上げてみろ、と言われる。

 眠りに落ちた後、魔神がキャンバリーニの精神を連れ去り、目覚めることが出来なくなってしまう。目覚めたければ、魔神がもたらす試練を突破しなければならない。

 そんなものであった。

 キャンバリーニの懐には、今日も白紙の本がある。昨日リフィービオに食べさせるために破ったが、もうその痕も無かった。ページは復活し、今日も何かを記すしかない。生き残るために。

 空には少しだけ白と赤が混ざって来た。少し早いと思ったが、キャンバリーニは歩き出した。目的があるのは好いが、何も決めずに歩くことをキャンバリーニ・ジャッカスは必要としていた。それも嫌になることもある。そんな時にはサイコロを使う。今もまた地面に転がして出た目から受けた感覚で歩く先を決めている。

 終わりのない旅。行く先の解らない旅。希望があるようで、全く無いかもしれない旅。どうにもならないかもしれない日々の連続。そんな中にあっては、こんなことも必要なのだろう。投げやりの中に適当に決まりを作り、守りながら破りながら、キャンバリーニ・ジャッカスはふらふらと歩いて行く。

「どうにもならんぞ」

 声が響いた。

 キャンバリーニは辺りを見回す。周囲には少しだけ明るくなった世界がある。その一角に黒い姿の四本足の獣が居た。

「希望が溢れるなどと言う謳い文句は嘘だ。お前の中には絶望が溢れているではないか」

 声はその黒い獣が発しているのだ。光る眼を輝かせ、口を開いていた。

「どこに行っても同じだ。我々はお前を追い詰めてやる。あの小賢しい儀式でもどうにもならない程にな」

 キャンバリーニは歯を食いしばり、一歩さがった。その足には何かが触れた。人の拳ほどの石だった。キャンバリーニはその石を掴み黒い獣に向かって言う。

「話の種が増えたよ。お前も俺が喰ってやる!」

 掴んだ石を獣に向かって投げた。何の音もなく、声もなく、周りには世界が広がっていた。キャンバリーニはそんな世界を歩いていた。

 朝の港町。キャンバリーニ・ジャッカスは当面の衣食住を賄うために仕事を探していた。日雇いの仕事、魔物討伐、盗賊退治などの張り紙が溢れる中、彼はあるものに注目した。

 海岸付近に出没する通り魔を始末して欲しい。そいつは投石で攻撃してくる。報酬ははずむ。何としても捕えてくれ。

 キャンバリーニは、その依頼主のもとへ向かうことにした。これもインスピレーションだった。

(終わり)
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