休日の昼下がりのカフェで
文字数 1,944文字
彼女の貧乏ゆすりは、今や店内のテーブルに置かれた全てのカップから中身をこぼれさせている。カフェオレまみれになっている隣に座る温和そうな婦人に、ぼくがさも申し訳ない、という顔をしてテーブルペーパーを手渡す間にも、ガタガタとそれは大きくなる一方だった。彼女がつきあっている男の部屋から飛び出してひと月が経っていた。
「怖くてたまらないの、また、あんな風に拒絶されると思うと」
彼女は言った。ぼくは黙って冷めたコーヒーを飲む。こうして時々呼び出されては話し相手になるぼくに、彼女が助言や慰めなんかを求めていないことは経験上、知っていた。
休日の昼下がり、窓際に座るぼくたちのコーヒーカップは、日の光を浴びて輝いていた。早々と半分ほどを飲んでしまえば、彼女が起こす局所的地震にも、コーヒーはカップ内で波打つだけで耐えられた。あとはゆっくり味わうでもなく、ただカフェから追い出されない程度に消費していくだけだ。
「拒絶、とか言ってる時点でだめなの。彼からしてみれば、私による遺棄かもしれないでしょう? 二人の間で起こったことは、ただ時間と距離があいた、ってことだけ」
視線を落とした先、全く手をつけていない彼女のコーヒーは、半分以上がソーサーの上にこぼれ落ちている。
「彼は、何て言うか……かけがえがないの。他では決して得られない、とにかく特別だった。ずっと居場所がないと感じていた私が、彼と一緒にいる時だけは息をつけた」
彼女の男には、ぼくも何度か会ったことがある。彼女の言うことは、ぼんやりとだがよくわかった。
「だから一方的な言葉では説明できない関係性を、築いてきた自負があったのに」
そう言うと彼女は自虐的に大きなため息をついた。それからしばらくじっと一点、今度はぼくの手元のコーヒーカップを見つめていた。何かを逡巡しているかのようだった。
「自分に自信がなくて、彼に相応しくないんじゃないか、って、辛くなってしまったの。それで私は逃げ出した」
精一杯の勇気を隠し、さりげない風を装って、彼女は些事のように告白した。悲しい色を灯した彼女の瞳が、後悔でくもる。恥を忍んで自らの行いを思い返し、なかったことにはできないと諦め、反省していることが窺われた。
「初めて彼の家に遊びに行った日のこと」
気を取り直したかのように姿勢を正し、彼女は、腹の底から声を出した。風向きが変わったことを察したぼくも姿勢を正す。たとえその対象がその人自身であろうと、誰かをケアしようとする心意気には、敬意を払いたいとぼくは思っている。
「部屋は一点のシミもなくすみずみまで掃除が行き届き、秩序が保たれて。私はすっかり感心したわ。でも気分が落ち着く一方で、居心地の悪さも感じ始めていた。というのも、何も直すべきところがないと、かえって不足が恋しくなるものよ、私だけかもしれないけど」
ぼくが頷くのを待って、彼女は続ける。
「そんな時、彼がコーヒーを出してくれた。まじまじと見るまでもなかった。カップとソーサーがバラバラで出てきたの」
ぼくは不揃いのカップとソーサーを想像する。
「私はそれを見て、救われた気持ちになった。許された気がしたのよ。精一杯のおもてなしなのに、おおっぴらにだらしなく、弱点をさらけ出してるみたいだった。愛おしくてたまらなくなったわ。私もそのままでいいって言われた気がした」
彼女はそっとカップに手を伸ばしたが、またその手を引っ込めた。
「考えないわけじゃないけど、一緒にいようといまいと、関係ないの。別にどこにいようとも私は満たされて幸せよ。彼だってそうでしょう? 私がこうしてテーブルの上のコーヒーをめちゃくちゃにしている間にも、きっと普段通り、一人の時はそうしてたみたいにコーヒーをマグカップに入れて、それで喜びを見出して、少なくとも私は――」
軽んじたり、バカにしたりしていると思われては不本意だ。当然そうするつもりなどなかった。それでもぼくはにやけていたのかもしれない。
ぼくと目が合った彼女ははっ、とした様子で口をつぐんだ。それからおもむろに、目をキョロキョロとさせて肩をすくめ、彼女の方こそ本当ににやりと笑ってみせたのだった。
「いいわ、認めるわ。帰りたい、帰りたいわよ。ただドアを開けてただいま、って言いたい。懐かしくも温かなあの部屋で、またちぐはぐなカップに入ったコーヒーを飲みたいと思ってる」
もうコーヒーはゆらりとも波立っていなかった。貧乏ゆすりをやめた両足の裏をしっかりと地面につけ、彼女は立ち上がる。
出口に向かう彼女の背中を見送りながらぼくは、完璧に思えた世界に見つけたほころびについて考える。照れくさそうに、ちぐはぐなカップとソーサーでコーヒーを飲む彼女の姿こそ、ぼくの頭の中で完璧な世界を作っている。
「怖くてたまらないの、また、あんな風に拒絶されると思うと」
彼女は言った。ぼくは黙って冷めたコーヒーを飲む。こうして時々呼び出されては話し相手になるぼくに、彼女が助言や慰めなんかを求めていないことは経験上、知っていた。
休日の昼下がり、窓際に座るぼくたちのコーヒーカップは、日の光を浴びて輝いていた。早々と半分ほどを飲んでしまえば、彼女が起こす局所的地震にも、コーヒーはカップ内で波打つだけで耐えられた。あとはゆっくり味わうでもなく、ただカフェから追い出されない程度に消費していくだけだ。
「拒絶、とか言ってる時点でだめなの。彼からしてみれば、私による遺棄かもしれないでしょう? 二人の間で起こったことは、ただ時間と距離があいた、ってことだけ」
視線を落とした先、全く手をつけていない彼女のコーヒーは、半分以上がソーサーの上にこぼれ落ちている。
「彼は、何て言うか……かけがえがないの。他では決して得られない、とにかく特別だった。ずっと居場所がないと感じていた私が、彼と一緒にいる時だけは息をつけた」
彼女の男には、ぼくも何度か会ったことがある。彼女の言うことは、ぼんやりとだがよくわかった。
「だから一方的な言葉では説明できない関係性を、築いてきた自負があったのに」
そう言うと彼女は自虐的に大きなため息をついた。それからしばらくじっと一点、今度はぼくの手元のコーヒーカップを見つめていた。何かを逡巡しているかのようだった。
「自分に自信がなくて、彼に相応しくないんじゃないか、って、辛くなってしまったの。それで私は逃げ出した」
精一杯の勇気を隠し、さりげない風を装って、彼女は些事のように告白した。悲しい色を灯した彼女の瞳が、後悔でくもる。恥を忍んで自らの行いを思い返し、なかったことにはできないと諦め、反省していることが窺われた。
「初めて彼の家に遊びに行った日のこと」
気を取り直したかのように姿勢を正し、彼女は、腹の底から声を出した。風向きが変わったことを察したぼくも姿勢を正す。たとえその対象がその人自身であろうと、誰かをケアしようとする心意気には、敬意を払いたいとぼくは思っている。
「部屋は一点のシミもなくすみずみまで掃除が行き届き、秩序が保たれて。私はすっかり感心したわ。でも気分が落ち着く一方で、居心地の悪さも感じ始めていた。というのも、何も直すべきところがないと、かえって不足が恋しくなるものよ、私だけかもしれないけど」
ぼくが頷くのを待って、彼女は続ける。
「そんな時、彼がコーヒーを出してくれた。まじまじと見るまでもなかった。カップとソーサーがバラバラで出てきたの」
ぼくは不揃いのカップとソーサーを想像する。
「私はそれを見て、救われた気持ちになった。許された気がしたのよ。精一杯のおもてなしなのに、おおっぴらにだらしなく、弱点をさらけ出してるみたいだった。愛おしくてたまらなくなったわ。私もそのままでいいって言われた気がした」
彼女はそっとカップに手を伸ばしたが、またその手を引っ込めた。
「考えないわけじゃないけど、一緒にいようといまいと、関係ないの。別にどこにいようとも私は満たされて幸せよ。彼だってそうでしょう? 私がこうしてテーブルの上のコーヒーをめちゃくちゃにしている間にも、きっと普段通り、一人の時はそうしてたみたいにコーヒーをマグカップに入れて、それで喜びを見出して、少なくとも私は――」
軽んじたり、バカにしたりしていると思われては不本意だ。当然そうするつもりなどなかった。それでもぼくはにやけていたのかもしれない。
ぼくと目が合った彼女ははっ、とした様子で口をつぐんだ。それからおもむろに、目をキョロキョロとさせて肩をすくめ、彼女の方こそ本当ににやりと笑ってみせたのだった。
「いいわ、認めるわ。帰りたい、帰りたいわよ。ただドアを開けてただいま、って言いたい。懐かしくも温かなあの部屋で、またちぐはぐなカップに入ったコーヒーを飲みたいと思ってる」
もうコーヒーはゆらりとも波立っていなかった。貧乏ゆすりをやめた両足の裏をしっかりと地面につけ、彼女は立ち上がる。
出口に向かう彼女の背中を見送りながらぼくは、完璧に思えた世界に見つけたほころびについて考える。照れくさそうに、ちぐはぐなカップとソーサーでコーヒーを飲む彼女の姿こそ、ぼくの頭の中で完璧な世界を作っている。