第1話

文字数 2,000文字

それは、長い長い船旅だった。
私はここに帰ってきた。

母国語であるヤオ語の発音を忘れかけるほどの長い歳月を経て、男は再び故郷の土を踏みしめた。

「この街はいつまでたっても変わらない。遠い昔に見た、あの頃のままだ・・。」

故郷に戻った男の目に映っていたのは、真っ青な海と空、白い砂浜。そして、虐げられ公然と売買される同胞と、我が物顔で歩き回るポルトガルの奴隷商人。ここは、16世紀後半のモザンビーク島。バスコ・ダ・ガマの喜望峰到達以来、この島には多くのポルトガル人が訪れ、植民地化が始まっていた。奴隷貿易が公然と行われていた時代、海上貿易の重要拠点であったこの島では、連日多くの“人買いの市場”が立った。

故郷を眺める男の眼に、じんわりと熱いものがこみ上げてきた。降り積もる歳月の下に押し隠してきた、忌まわしい記憶。あの日、自分が味わった鞭の痛み。自由を奪い取る冷たい手枷の感触。残酷に歪んだ商人の笑顔。暴力と偏見が自分の精神をへし折ってしまったあの日の遠い空の突き刺すような青・・。深いため息。男はゆっくり首を振ると、市街へ向けて歩き出した。




モザンビークの夏は暑い。強く照り付ける太陽の下、奴隷市場に鋭い鞭の音が響き渡っていた。でっぷりと下腹を突き出した中年の白人が、手枷を打たれて一列に並ばされた男たちを鞭で打ち据えていた。彼らは頻繁に起こる民族紛争の巻き添えとなり、家を焼かれ、畑を荒らされ、ポルトガル人の商人に捕らえられてしまった黒人奴隷であった。

「俺から逃げ出そうとするとは、生意気な奴隷どもめ。徹底的に鞭を味合わせてやろう。」
商人の眼に残酷な光が宿る。当初、反抗的な目つきで睨み返していた奴隷たちは、鞭に打たれるたびに眼の光を失っていき、とうとう地面に体を投げ出して商人に許しを請うた。鞭の痛みに心を折られ、抵抗をあきらめてしまったのだ。その時、一人の大男が商人の前に立ちはだかった。

「その人たちを・・、解放してくれ。」
男は異装だった。ひらひらとした袖の長い異民族の服。腰から下はスカートのように丈が長く下部に向けて広がったズボン。異国風の剣。髪は長く伸ばした総髪を後ろに束ねていた。そして、黒い肌と鋭い眼光。男の首筋には、焼き鏝の跡があった。それは奴隷であったという、かつての男の身分を示すものだ。

男の首筋に奴隷の刻印を見つけた商人は、ほくそ笑んで叫んだ。

「なんだお前は?お前も鞭で打たれたいのか?下がれ!」
奴隷商人は地面を鋭く鞭うった。
彼は男を奴隷として遇しようとしたのだ。

鋭く鳴り響く鞭の音が、男の体に刻まれた痛みの記憶を呼び覚ます。強烈なトラウマ。暴力の記憶。大地にひれ伏したくなる、その瞬間。・・いや、違うだろう。今の自分は、あの頃とは違うのだ・・。記憶の彼方から呼びかける声が聞こえた。

「こうべを垂れるのは。それは、首を打たれるときだけぞ・・。立て。立って戦え・・。」
男は、主の言葉を思い出していた。

「違う。俺は・・、奴隷じゃない。」
大男は、じっと商人の眼を見てつぶやいた。

「なんだ、お前?ちょっと、頭がおかしいんじゃないのか?銭でも欲しいのか?そら!それを拾って、とっとと失せろ!」
奴隷商人は足元に銭を撒いた。
彼は男を乞食として遇しようとしたのだ。

足の甲に当たる、放たれた冷たい銭金の感触。
「もののふは玉も黄金もなにかせん 命にかへて名こそ惜しけれ。金銀財宝よりも惜しむべきは己の名誉ぞ。」
男は、友の言葉を思い出していた。甲州の戦の折は一番槍を功を立て、居並ぶ諸侯の眼前で褒章の銭金を堂々と鷲掴みにした。一個の武士を自認する男にとって、他人に銭を投げつけられることは、侮辱であった。

「違う。俺は・・、乞食じゃない。」
大男は、奴隷商人にゆっくりと詰め寄った。

商人の眼に初めて恐怖が宿った。鞭を恐れない、銭に懐柔されない、この大男はいったい何者なのだ・・?

「俺は・・、俺は・・。」

電光石火の刹那!

男は腰の剣を引き抜き、気合とともに振り下ろした。光に輝く刀身。深い反り。男の手に握られていたのは、一振りの美しい日本刀だ。斬鉄剣の奥義。奴隷を拘束していた頑丈な鉄の手枷は見事に寸断されていた。

目を丸くする奴隷たち。地面を這いずり回って逃げ出す商人。大男の剣技に腰が抜けてしまったのだ。
「あんたいったい何者なんだよ?」

「俺は・・、サムライだ。」
顔を上げた男の眼には、自信と誇りが満ち溢れていた。

「俺は、ここで生まれた。家族を探しに、帰ってきたんだ。」


戦国時代。イエズス会宣教師の奴隷として日本に渡り、織田信長に献上されてサムライとなった黒人がいたという。その名は、弥助。本能寺の変の際には、明智軍の襲撃をかいくぐり、二条新御所に行って異変を知らせ、明智軍と戦った末に投降して捕縛されたという。彼は何処からやってきて、何処へ去っていったのか。本能寺の変の後の彼の足取りを現存する史料は残していない。
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