第1話

文字数 196,259文字

第四部 第七編  勃興の基軸




















 その日、北川裕美は所属事務所社長に結婚の報告をするため、事務所を訪れた。
 社長の佐々木ウンディーネは突然のことに驚いた。北川裕美は全盛期の頃に比べて、俳優の仕事は遥かに減ったものの、画業やタレント活動も、平行して行っていたために、それなりに多忙だった。
「また画業に、専念するの?」
 はじめ退社の理由を創作活動がまた盛んになったためだと、ウンディーネは解釈した。
 まさか彼女が家庭に入ると言い出すとは、思わなかった。
「ちょっと待って。ちょっと・・・。ええっ?今、ここでは何だから、その夜に。いいわね。お店で」
 ウンディーネ代表取締り役は、保留するのが精一杯だった。
 北川裕美は平然とした様子で、事務所を去っていってしまった。
 本当に夜指定した店に来るかどうか、ウンディーネは不安に思ったが、彼女は時間通りにやってきた。
 ウンディーネは同じ事務所にいるモデルの長谷川セレーネを伴って、店に入った。
 長谷川セレーネは十歳以上も先輩である北川裕美を尊敬して、慕っていて、都合よく利用する気はなかったが、ある種の緩衝材が必要だった。まだ起ころうとしている事態を、飲み込めてはいなかった。受け入れる心構えもできてなかった。
「これは何?女子の会?」
 北川裕美の惚けた口調に合わせて、長谷川セレーネは深く大きくお辞儀をする。
「どうしたの?あなたまで?そんなにかしこまらないでよ」
「お久し振りです」
「もう、何年くらい会ってないかしら」
「二年くらいでしょうか」
「あなた、デビューして」
「五年です」
「二十七?」
「はい」
「私がその年齢の時には、もう辞めてたわね」
 その一言で長谷川セレーネは黙りこんでしまった。
「さあさあ、注文しましょう」
 ウンディーネは硬直してしまいそうな空気を、素早く察知し、分解し、分散させようとした。
「私、お酒は飲まないわよ。あまり、お腹も減ってないし」
 北川裕美の声は以前よりも少し低くなったかもしれないなと、長谷川セレーネは思った。
「用件は早くすませたい。こういうの好きじゃないの、知ってるでしょ?苦手なの」
「いいじゃないの。長谷川もこうやって、忙しい間を縫って、来てくれているのよ」
「そうなの?あなた、忙しいの?」
「いえ・・・」長谷川セレーネは言葉に詰まった。
「私が知るかぎりでは、二年前とは」
 店員がやってきた。佐々木ウンディーネは素早く注文をした。
 誰がどの飲み物なのかわからなかったが、とにかく五つのグラスを注文していた。
 店員が消え、佐々木ウンディーネは長谷川セレーネに向かって言った。
「北川さんね、結婚するの。それで事務所もやめるって言い出して」
 ウンディーネはその一言で、長谷川セレーネが猛然と怒りだし、北川裕美に向かって、そんなの事務所をやめる理由にはならないわよと、主張する絵を思い描いた。
 だが長谷川セレーネは目を据わらせ、誰でもない誰かを見るように、微動だにしなかった。
「そういうことなのよ」北川裕美は言った。「だから、よろしくね」
 北川裕美は腰を浮かせかけた。
 その瞬間、長谷川セレーネの方が先に席を立った。
「今までありがとうございました」
 彼女は会ったときよりもさらに深く、長い一礼をした。しばらくのあいだ、その場の時間は止まってしまう。
「こちらこそ」
 北川裕美の声には、温かみが戻っていた。
「ここまでやってこられたのも、あなたのおかげなのよ」
 北川裕美は長谷川セレーネの左手を両手で包み込んだ。
 長谷川セレーネは北川裕美の胸に自分の顔をうずめ、泣いていた。
 北川裕美はそんな彼女の背中に手をまわし、抱いていた。わかったわ、わかったからと、そんな様子でずっと撫で続けていた。佐々木ウンディーネは状況がわからなくなっていた。今、これは何の会合でこの後どんな展開になるのか。我に返った。私はそもそもどんな意図を持って、ここに来ていたのだろう。北川裕美を事務所に留めようとしていた。そのためにセレーネを連れ立ってきていた。このままではセレーネもまた一緒にやめますとでも言いたげな、雰囲気になってしまっていた。
「画家として、最後の華を、咲かせられたから」
「悔いは、ないんですね」
「ないわ」
「よかった」
「あなたは?」
「わたし・・・」
「言ってみなさい」
「わからない。わからなくなってきているんです」長谷川セレーネは言った。「見失ってしまった。自分を。完全に。どうしたらいいのか。誰にも言えなくて。もう駄目なんです。きっと。終わってる。もうとっくに終わってるんです!誰がどう見ても、そうなっている。きっと、そう。だいぶん前から。どんどんと、その現実が表面に出てきている。
 怖い。怖いんです。バレるのが。すべてが明るみになってしまうのが。
 その前に何とかしたかった。何とかできるって思ってた。でも、駄目だった。あっという間だったんです。私は何もできなかった。もう27。終わりよ。方向性がまるで見えない。私は公の場からは降りたいんです。このままいたら、すべてが透けて見えてしまう。そんな事態を招きたくはない。笑いものになんてなりたくない。哀れな目で見られなくもない。同情もイヤ。ファンや、世間から捨てられるのもイヤ。見捨てられたくない!その前に自分で下りたいの。そうするしかないの。ね?そうよね?北川さんも、かつて、そうだったんですよね?そういえば、結婚は、二度目なんですね?おめでとうございます。いい人がいて、本当によかった。まだ、子供も十分に作れるし。幸せになってください!」
「座って。いいから座って。座りなさい!」
 北川裕美は長谷川セレーネに諭すように言った。

 予想外に、北川裕美が、速攻退散する流れにはならず、佐々木ウンディーネはほっとした。
「あなたは頑張った。私とは比べものにならないくらいに。そう、ものすごく活躍したじゃないの。少し、休みなさい。ね。あなたはよくやったの」
 長谷川セレーネは泣き続けた。
「北川さんの口から言ってもらいたいんです」
 長谷川セレーネは目を大きく開けた。
「あなたの好きにしなさい。やめてもいいのよって!」
「えっ?」
 佐々木ウンディーネはどっかりとおろしていた腰に、急激な痛みが走った。
「そうね。今がやめ時に違いないわね」
 北川裕美がセレーネの耳元で、そっと呟いたその言葉が、佐々木ウンディーネにもわずかに聞こえていた。


 その夜、佐々木ウンディーネは眠ることができなかった。セレーネを連れていったのは大誤算だった。連れていったことで、よりによって彼女まで、契約の解除を申し出てくるとは思ってもみなかった。北川裕美とはすでに仕事一つ一つにおいての代理マネージメント業務だったため、すぐに関係は終わってしまう。しかし長谷川セレーネとは、あと三ヶ月、更新までの期間があった。彼女が違約金を発生させてまで、やめることを貫くのかどうかはわからなかった。
 戸川が珍しく朝早くにやってきた。普段ここにやってくることは滅多になかった。
 事務所で仕事の打ち合わせをすることもない。彼とは仕事の調整をすることも、意見を交換することも、愚論することも、対立することも、何もなかった。来た仕事を彼のマネージャーに伝え、スケージュルに組み込んでもらうだけだった。
 引き受けることは決まっている。問題は日程の調整だけだ。それは佐々木社長の仕事ではなかった。
 戸川は何も言わずに社長の机の前に茫然と立ち、そして社長の椅子にどっかりと腰を落とした。「話せよ」と戸川は言った。
「相談相手だろ?俺は」
 肝心なときに頼りになる男だった。直観は鋭く、もしかしたら今机の前に立って、何かを読み取っただけで、事態のすべてを一瞬で、把握してしまったのかもしれないなとウンディーネは思った。なかなか話せないでいると、戸川の方が口を開いた。
「あいつはもうダメだ。やめとけ。あきらめろ。あいつ、何か、言ってきたんだろ?あんたも、俺も、みんな、わかっていたことじゃないか。言われなくても、こっちから、いずれは切ることになる。大丈夫。俺はまだイケる。まだまだ行ける。今の感覚ではどこまでだっていける。そのあいだに他の女をモデルに育てろ。さすがに俺だけじゃ淋しいからな。あいつに執着するんじゃない。もう終わった女だ」
「それ以上、口を開いたら、承知しないわよ。そんなひどいこと二度と口にしないで」
「終わってるってことか?」
「やめて」
「すべては終わりに向かってる。俺も、アンタも。世の中も。すべて。生まれてきたものは、みな」
「わかってるわよ」
「わざわざ、口にするなって?俺だって、好きで言ってるわけじゃないぞ。あんたが、そんな、めそめそしながら、踏ん切りのつかない状態で、ウロウロしてるからだ。そんな雰囲気を、会社中に撒き散らしてもらいたくないね。俺にだって悪影響だ。見て見ぬフリはできない、悪臭だ。あれだろ。俺なんて男は、細かいことなど、何も気にせず、すべてはマイペースで、生きてると思ってるんだろ、どうせな。バカいっちゃいけないぞ。俺ほど、繊細な男などいるか?えっ?居たら連れてきてほしいね。あんたは俺のことなど、何も分かっちゃいない。神経がまともに通ってないから、こんな、来る仕事来る仕事、何も拒まず、受け入れることができるんだと、そう思ってるんだ」
 戸川はウンディーネを挑発するように、言った。
「そうは思っていない」
 ウンディーネは今日初めて小さいながらも力のこもった言葉を発した。
「あなたに広告の仕事、一本にしなさいと言ったのは、誰だったかしら」
「北川裕美だよ」
「違うわ。この私よ!忘れた?その椅子に座るのはやめなさい」
 戸川は気だるそうな様子を見せ付けるように、立ち上がった。
「そうだったかな」
「あなたはあなたの入り口が必要だった。それをあらかじめ用意しておく必要性を感じた。そうしなければ、どんな事をうけたとしても、あなたはそれに合わせた入り口を、その都度作ってしまうように見えたから。そうするとあなたは入り口だけになって、しかもその入り口はあなた自身のものではないから。その借り物同士の入り口が、それぞれあなたに関係のないところで、主張し始め、あなたは自分で自分をコントロールする力を失ってしまう。あなたの本来の心は、違う世界を要求して、あなたの奥底から、あなたを突き上げてくる。あなたは分裂気味なその傾向を決定的にする。自ら渾沌とした自己破滅的な生活へと突き進んでいく。その行き着く果ては、だいたいのところ相場は決まってる」
「自殺か」
「事故かもしれないし、大きな病気かもしれない。末期の」
「なるほど」
「何もわかってないなんて言わないで」
「悪かった。心配だったんだよ。あんたが。意外にも女らしい、あなたがね。一瞬だけど、支えになれたらって思った。だからごめん。他の女のモデルの話。あれも気にしないで。早急に売っていくことに、躍起になる必要もない。無理やり、筋肉増強剤を、打ち込むがごとくしゃかりきになって、いい女を探すこともない。ずっと俺でもつから。だから安心しろ」
「女性のことを、たとえ誰であろうと、終わったなんていわないで」
「言わないよ」
「二度と」
「言い方を間違えた。ちがう芽生えが始まったって、言い直すよ」
「新しい道は開けるの?」
「セレーネか?あいつはもう見つかってるよ、きっと。あいつも馬鹿じゃない」
「馬鹿とかも言わないで」
「また、言い方を間違えたな」
 戸川は苦笑いをする。
「ホント、トーク番組なんて出た日には気が気でないわ」
「ずっと、ただのマスコットだよ、俺って奴は。セレーネのように、モデルから別の分野へと、活動の幅を広げようなんて思わないし。北川裕美だって、画家になった。しまいには、女優と並行して、で、それで結局、どうなった?どれも一時の輝きで」
「彼女は立派な画家よ」
「どうしてずっと画家であり続けない?」
「あなたにはわからないわ。彼女のことは。ずっと平均して、日常的に描き続ける作家とはわけが違うから。私はね、北川裕美に関しては、一晩経って考えを改めたわ。あの人はまた帰ってくる。一度目の結婚のときもそうだった。八年のブランクはあったけど、その分、戻り方が強烈だった・・・。あの人の場合は、ブランクがブランクにまるでなっていない。長くおとなしくしてる方が、逆に怖い。どんなに一般人に戻ったつもりでいても、彼女からは何も失われてはいない。恐ろしい女」
「セレーネは違うんだな」
「まだ、彼女のことは心の整理がついてないから。彼女がこれからどうしていくのかも、今はわからない。やっぱり続けるって言うかもしれないし。それに契約期間はまだ三ヶ月、ある」
「どのみち、終わりには向かってるさ」
 戸川は思わず口に出してしまった言葉をかき消すように、話題をケイロ・スギサキのことに、慌てて変えた。


 アキラは日本の裏カジノの場にやってきた。だがその情報は初め間違っているのではないかと思った。こんなにも大きく派手で、街のどこにいてもその所在がわかるような建物がその「場」であるわけがないと思った。この中の一つのフロアを使っているのだとしても、あまりに目立ちすぎる。ここは日本だぞと、アキラは呟いた。権力を余すところなく主張して、誇り高く、嫌味な建造物だったが、その絢爛さにアキラは次第にもの哀しさを感じるようになってきた。巨大な王の墓のように、見えてきたのだ。そしてそれは、自分もまた、例外ではないような気がしてきた。王だけではない。この王国に存在する、すべての人間を飲み込み、死に至らしめる、ぱっくりと開いた、怪物の口のような気がしてきたのだ。
 今、どんな使われ方をしていようが、どんな意図で作られたものであろうが、その最初の想いのようなものが、何故かこのとき、アキラの心には響いてきた。そしてこの自分にとっても、最後のギャンブルになる今、勝ち抜け、日本の裏カジノの場に渾沌と破局をもたらすことに成功しないかぎり、ここで命を落とすことになる。そういう意味でも、墓場に違いなかった。
 アキラはこの絢爛でありながら、死臭のする巨大建造物を眺めるのをやめ、中に入る覚悟をした。今、この時に限っては、俺は身分が保障されている。ギャンブラーとして認知され、自己を証明することができる。強力な後ろ盾のもと、俺は束縛されているとも言える。アキラという人間は、今も闇に捉えられてしまっている。
 しかしこれまで経てきたカジノとは、その見かけからして全然違う。それが気味悪かった。
 生を謳歌する、生を高らかに証明しようとする世界からは、一変、この場には積まれていく屍の臭いが強烈にしてくるようで、たまらなかった。
 内部はさらに豪華だった。高級ホテルのロビーのような空間が現れ、コンシェルジュのような風貌の男が数人現れる。アキラはカードを示し、男たちは無言でそれを受け取る。音楽は何も流れていない。話し声が少しも聞こえてはこない。誰もいないのではないかと訝ったが、ここではその空間に比例して、人と人との距離が異様に遠かった。ホテルというよりは、豪奢な空港のチェックインカウンターのようだった。世界中から集まってきているギャンブラーが、静かにカジノの場へと招かれていくようだ。当然、ホテルも併設されていた。心行くまで滞在することができるようになっている。レストランやリフレクソロジー、最高の性的サービスを提供するシステムもまたしっかりと完備している。金さえ続けば、一生ここから外に出ることなく、ギャンブルに浸っていることもできる。グレードの高い生活と共に、まさに王族や貴族のような生活を続けることができる。美しい女にも事欠かない。それもある種の墓場だった。不正を働き、ここで殺され処理される人間もまたいるだろう。中で行われる犯罪が、外の世界に漏れ出ることは決してない。しくじった俺もまた、ここであっけなく殺されることになる。二度と日の光を見ることもない。
 目の辺りに熱が急激に集まってきて、重くなっていることを知った。体は正直だった。
 初めて明確に自分の死期が見えてきたようだった。ここなのだろうか。ここが本当に俺の最期の場所、死に場所なのだろうか。アキラはエレベータへと通された。黒いサングラスをつけた二人の男と共に、まったく重力の感じない浮上が続いていった。
 ドアが開き、見慣れたカジノ場がその姿を現した。


「僕はあなたが社長だったから、ここが、自分の居場所であるって、思ったんですよ。今だから言うけど」
 戸川は真面目な顔をしていた。
「それ以来、僕はあなたと面と向かって話をしたことなど、ほとんどなかった。でも、ずっと意識はしてきた」
 佐々木ウンディーネもまた、これまで一度も見せたことのないような表情になっていた。
「僕の女性関係も、あなたはご存知じゃない。誰にも言ってはいない。アキラという親友がいましてね。でも、彼にも話してはいない。彼は僕が女性といたところを、何度も目撃したようですけど。その彼とも、今は連絡が取れなくなってしまった。海外で行方不明になってしまって。話がずれましたね。僕の女性の話でしたね。たしかに浮気相手はたくさんいますよ。全部そう、浮気相手ですよ。ただのそれだけ。僕には帰るところがある。それはこれからも変わらない。仕事も人生もそう。入り口が一つ確実にあるから、だからこそ、そこを通過して色んな方角に出ていける」
 ウンディーネは何と答えていいのかわからなかった。戸川が何を言おうとしているのか、分かるような気もしたし、自分が全然見当違いな幻想を抱いているのかもしれないとも思った。戸川はそれ以上女性の話をすることはなかった。
「ケイロ・スギサキのミュージアムの件。ニュースで見ました。公の場に、初めて出る際に、いきなり狙われたって。無事で何よりでした。でも本当に、そんな人間がいたんですね。僕はてっきり、架空の人間かと思っていたんです。誰かが仕掛けた大掛かりなビジネスじゃないかって、思い込んでいたんです。どうせ、僕が、また、その広告のイメージキャラクターを務めるのかなって具合にね。ただのお祭りだろうって、そう思ってたんですよ。本気であんなにデカくて、イカツイ建物をたてて、一人のミュージアム専属のアーティストを選ぶなんて、まるで信じてなかった。このミュージアムの設立のバックにいる人間って、ちなみに誰なんですか?知ってますか?ケイロも、その後ろ盾のもとに、これから活動していくわけでしょ?その彼をあからさまに消そうとした奴らって、いったい誰なんですか?ここにも大きな対立構造がまた浮き上がってくるんじゃないでしょうね?嫌な予感がぷんぷんするな。世界はすでに巻き込まれているんですかね。この芸能界もまた。この事務所もまた。俺もまた」
 確かに、戸川がこんなに話をする姿は、今まで見たことがないなと、佐々木ウンディーネは思った。


 カジノの巨大ビルに入った、その夜、ゲームに参戦することはなかった。
 カジノ施設には、二週間滞在することが決まっていた。すでに、ホテルの予約は取られている。明日の昼すぎから、ぼちぼちと様子を窺えばいいと思った。三日目あたりから、本格的に参加し、一週間が過ぎたあたりから勝負に出て、展開を一気に加速させていく。カジノを支配するゲームシステムを手玉にとり、崩壊へと導く。俺の役目はそこで終わる。
 アキラはこの国のカジノ場のゲームの種類とルールを、簡単に頭のなかでおさらいした。ブラックジャックや、ガバラ、ルーレットなど、どこにでもあるゲームは無視する。唯一、ここにしかないゲームに焦点をあて、その牙城を徹底的に潰しきる。ルールというものは不思議なものだなとアキラは思った。ルールを作ったものが、勝つシステムの世界にあっては、ルールそのものを逆手にとることで、状況を逆転させることができるのだ。
 最も、その可能性は限りなくゼロに近かった。一度や二度の大勝では、その屈強なそのシステムはびくともしない。与えられたルールを読み解き、実践を繰り返して、体感を得ていく中で、俺は彼らに訓練させれたある方法で、そのルールの根幹を握り、主導権を逆転させ、決定的なシステムエラーを、誘発させることができる。
 風呂から出て、バスローブを羽織り、シャンパンを飲んでいるときだった。ふと人の声が聞こえたような気がした。思わず振り返った。
 誰かがいる様子もない。従業員が入ってくるはずもない。他の客が間違ってドアを開けるはずもない。二人の人間が話す声だった。はっきりと明確に、音節を捕らえることができた。壁が薄いはずもなかった。耳を当ててみる。壁の向こう側から聞こえるといった感じではなかった。内部から響くような声だった。気味が悪かった。話の内容に意識を向けた。一人の男は「死の王国」について、延々と語っていた。もう一人の男は、うんうんと反応を返していた。まるで目の前で会話は繰り広げられているみたいだった。
「死人を復活させる機械だよ。そうさ。その技術は、国の中心地においた、巨大な機械にしか、体現させることはできない。王政府に認められた人間だけが、その機械の使用が可能となる。
 死と再生の儀式を、我々は独占した。我々は神の代弁者となった。宗教や迷信ではない化学の力で、化学を超えた科学の力によって、長すぎる年月、抱いてきた夢を実現することができた。独占するのは当然だ。そうだろ?誰にも、この技術は譲りはしない。すべての条件が、この時空に、寸分狂いなく揃ったのだ。星は一直線に並んだ。グラウンドクロスが起こった。この奇跡に、今は感謝しようじゃないか。しかし、たとえ原理を完全に解明して、知識を蓄えたとしてもだ。あらゆる場所で、あらゆる現実と条件のもとで、再現できるのかという話になる。独占したなんて偉そうに語ったが、実のところは、そうではない。そしてこの偶然もまた、いつまでパワーを現実に発揮し続けるのか、誰にもわからない。不安で仕方がないだろう。我々は根幹を掴んでいないのだから。
 しかしこういうことも考えられる。ここが非常に特別な「場」であるということだ。
 ここさえ手放さなければ、我々の時代は永久に続いていく。誰かに攻められ、奪われることを、最も避けたいじゃないか。だからだ。必要以上に、ここを神聖な場所として、人々の意識の中に植えつけなくてはならないのは。近寄り難い場所にしなければならないのだ。恐れられる場所に、しなければならないのだ。死と再生の儀式を、神の力であると、そう、認識させなければならない。奇跡のような演出を、施さなければならない。化学的なシステムのもとに、実現できているという事実。それはけっして、知られてはならないことだ」
 アキラは自分もまた、相槌を打っていることに気づいた。
 自分こそが、最初から、声の男の話し相手だったんじゃないかと思うほどに、彼らとの距離は異様に近くに感じていた。


 長谷川セレーネは、残り三ヶ月の仕事をきちんとこなしてから、芸能界を引退することにした。社長にもそう伝えた。社長からの返事はまだなかったが、執拗に、彼女も引きとめることはしないだろうと思った。それほど自分の決意は揺るぎがなかった。ずっとその決断をする機会を窺っていたような気がした。
 長谷川セレーネは引退した後どうやって生きていくか、まだ当てがなかった。結局、この数年のあいだ、トップモデルとして活動しているときに、誰にも頼らずに生きていける手段を見つけることができなかった。北川裕美には、今となっては絵があった。彼女は芸能界を去ろうが、家庭を持とうが、海外に出ていこうが、自分を表現して世の中とつながり、金銭に変換できるものがある。奇しくもこうして同じタイミングで、引退発表をするとは夢にも思ってなかった。北川裕美は二度目の引退だった。しかし私は二度と芸能界に復帰することはないだろう。結婚相手だって誰もいない。やりたいことだって何もない。流れるままに、今日まで生きてきた。流れは今は淀み、もうまもなく、その流れは完全に滞ってしまう。北川裕美の背中をずっと見続けてきたが、彼女からは今後の自分の人生を示唆するものは何も見つけられなかった。
 その日はファッション誌の撮影が朝から入っていた。そのとき偶然遭遇した立花フレイヤという若いモデルのことが、妙に気になってしまった。フレイヤは一度だってこっちを向いて、目を合わせることをしなかった。それでも彼女はずっと、こっちを見つめているように感じられた。何度振り返っても、彼女がこっちを見ている様子はなかった。彼女はカメラを見ているか、周りのスタッフと会話をしているか。そんな状態が、ほぼ半日続いた後だった。フレイヤと同じテーブルで、コーヒーブレイクをする機会が訪れた。休憩時間が重なった。ちょうど斜め前に、彼女はいた。まだ十代後半か、二十歳くらいに見える。大人っぽいメイクもまた、あどけなさを際立たせる、衣装のようだった。後ろにいたマネージャーを呼び、あの子は誰?と訊いた。売れてるの?どのくらい?デビューしたばっかりなの?へー。けっこう長いんだ。えっ?なに?子供もいるの?結婚はしていない?子供産んだのは本当なの?いくつなのよ。わかんないの?調べなさい。早く。
「長谷川さん」と次の出番がやってくる。マネージャーは慌てて長谷川セレーネに耳打ちをする。
「お子さんは二人いるみたいです。今、週刊誌ではけっこう話題になっていまして。その、子供のことじゃなくて、彼女の、今現在の、恋愛事情の方が。けっこう奔放みたいですね。みたいじゃないな。全然、隠すつもりがない。売りにしようとしてるのかな。あんなにかわいい顔をしてるのに。やってることが男だな」
「男?」
「そうです。でも結構、真剣みたいですね」
「何が?」
「いや、だから恋愛に」
「どういうこと?」
「遊びじゃないみたいなんです」
「知らないわよ」
「すいません、あっ。いや、邪魔しちゃって。お着替えの続きを」
 更衣室に入りかけていたマネージャーは、慌ててカーテンを閉めて出ていった。
 奔放な男関係。隠す様子もない。でもどれも真剣なんです。目の前でお菓子を頬張る若いモデルの姿を、ずっと見つめていた。しかしこの女は一度たりとも、私を見ることはなかった。これほど目が合わないということは、逆に相当、私を意識しているともいえた。意図的に合う瞬間を外しているとしか考えられない。そういえば挨拶すら、この女は私にしてこなかった。この非常識な女はいったい何を考えているのだろう。
 そう思えば思うほど、長谷川セレーネの中では、この女の存在が大きくなっていった。
 不思議と自分を見ているようでもあった。自分の中で育っていった女が、いつしか急激に膨張し、破裂し、対等な一人の大人として、目の前に現れ出たかのようだ。
「長谷川さん、どうなさいました?」
 気づけば、私はクラッカーを喉に詰まらせて、むせてしまっていた。
 スタッフがペットボトルに入った水を渡してくる。みな私を見ていた。立花フレイヤを反射的に見た。しかし居たはずの彼女の姿はすでに消えている。マネージャーに背中を叩かれながら、彼女の姿を探し続けた。どこにいったの?長谷川セレーネはマネージャーに訴える。
「誰ですか?」
「決まってるじゃないの。フレイヤよ、フレイヤ」
「いますよ、ここに。さっきから背中をさすってくれてますよ」
「えっ?」
 長谷川セレーネは背後を見た。居た。この女だ。はじめて目が合った。灰色のカラーコンタクトが入っている。暗雲たちこめる激しい雨がやってくる直前の空のような、眼球だ。にこりともしない。目から感情を読み取ることができない。何かしゃべれよと、セレーネは胸の中で呟く。喉には潤いが戻っていた。大勢が見守っているであろうこの場所に、私はこの女と二人きりで見つめ合っているような気がした。何が言いたいのよ!このクソ女!私を貶めたいの?そうなのね、きっとそうなのよ。私を排除したいんだ。そうか。この女か。この女が芸能界に入ってきたから。だからよ!私の周りをチョロチョロとし始めたから。そうに違いない!
 この女のせいか。この女が来たから・・・。私の居場所が・・・。きっと、そうだ。くそっ。殺してやる!消してやるわ!見てなさい!そうすれば・・・、そうすれば・・・、
 生き延びられる!引退ですって?何を血迷っているの。どうしてこの女に、席を譲らないといけないの!どうしてこの女に、これまでの栄光を乗っ取られないといけないの!ふざけんじゃない。こんなのが。こんなのに。あー。お前に何ができるんだ、おいっ。
 作りこんだ話題を振りまくくらいしか、お前には能がないんだよ!えっ、なんとか、答えたらどうだ?この空っぽ野郎!そんな奴は山ほど見てきた。見事に消えていったよ。ははは。馬鹿っじゃねーの!不自然なんだよ、やってることが。やめない。私は、やめないわ!」
 長谷川セレーネはマネージャーの男に訴えた。
「何ですか?どうしたんですか?何を辞めないんですか?」
「辞めない。絶対に辞めない。負けない。私、負けないわ。あいつにだけは。絶対に。こんなの本意じゃない。こんなの本意じゃないの。私の本心じゃない。言わされていたの。あの女に。私の意思じゃない。そうよ。私のありのままの姿に勝てる女なんて、どこにもいない!そうでしょ?そうだって言いなさい!あなたがいけないのよ。どうして催促しないと、言えないの?マネージャーでしょ?どうして、どうしてその言葉が出てこないのよ!ほらっ。言いなさい!」
 立花フレイヤが小さく会釈をして離れていく様子を、視界の端で長谷川セレーネは捉えていた。
「引退は撤回する。社長にそう伝えなさい!」
 マネージャーに向かって叫んだ。
 マネージャーは何のことかわからず、とりあえずわけもわからず、事務所社長にメールを打った。


「その昔、史実には残っていないが、こういう話があった」
 今夜はまったく眠りにつくことを許してもらえないのだろうか。
 声がいったいどっからするのか。アキラにはわからなかった。フロントに電話をしようと思ったが、そうしている間に、何か重要な話が抜け落ちてしまうような気がして、躊躇した。
「王不在の、王朝の話だ。王は、当然、世襲だった。もちろん、形だけじゃない。王としての力が、漲っていることが、当然の条件だった。生まれつきの適正を超えた、まさに、王を、後天的に作っていくという方法が、システム化されたプログラム。それが、国家の始まりから、内臓されていた。その門外不出のプログラムは、王となる者にだけ、確実に、伝承される。つまりは、王を作っていく王族の存在が、いたということだ。黒子のような存在。しかし、彼らはプログラムを守り、王となる人間に、それをプログラムしていく仕事を超えて、逸脱してしまうことはなかった。そこは、頑なに、自らの規範を守りぬいた。だからこそ、彼らもまた繁栄した。王と王族は一心同体で、時代を築いていった。だが、王の系譜は、次第に変調をきたしていくようになった。遺伝的劣化なのか、プログラミングによる何か副作用なのかは、わからなかったが、とにかく、そのプログラミングは、王にする前に、その人間を破壊してしまうことが、頻発していった。慌てた黒子たちは、王の系譜を拡大解釈することで、人材の確保に躍起になった。だが、それでも、破壊は止まらなかった。適合が難しくなっていった。王となるべく、その候補者までもが、どんどんと激減していった。このままでは、王家そのものが、滅亡していってしまう。自滅してしまうことを危惧した、黒子の王族たちは、それ以上の混乱を避けるため、しばらくの間、王位を不在にすることに決めた。その空白期間は、王がその力を誇示する祭りや、儀式は執り行われず、何かと理由をつけて、巧みに回避させる方法をとっていった。他国との有事状態を演出したり、実際に小さな戦闘をしてみたり、天災の恐怖を煽ってみたりと。黒子たちは次第に、起こる不吉な出来事を、意図的に操作することを主な仕事にするようになっていった。次第に王は、その空白のままの状態こそが、常態となり、時代は進んでいってしまうことになる。黒子たちの中でも、本来の仕事に対する情熱が失われていった。きちんと伝承されていないという事態も、発生していった。見せかけの王。いないのにいるように見せかけることも、逆に、市井の人々のほうが、強力なエネルギーを持つ王を、欲しなくなっていたのだった。必要性すら、感じなくなっていたのだ。時代は、王族を軽視するようになっていったのだ。彼らが権力を独占することを、快く思わない人々で、街は埋め尽くされていくようになっていた。時代は大きく変化した。しかし、その流れと逆行するかのように、黒子の系譜の中にいた王族たちの中に、この謀反が起こりそうな世の雰囲気に対して、危惧を感じる若者。それが多数、現れ出てくることになる。
 彼らは、歴史を学ぶことを、厭わなかった。王の不在の時代が、何故起こり、その意図的に作った空白が、次第に自ら、それ自体、人格を持っていったかのように、主導権を握っていく推移を、冷静に分析していったのだ。そして、時代が再び、変遷していくといった気運を、感じてとっていた。封印し、見向きもされなくなったプログラムの在り処を、必死に探していくことになった。しかし、それを見つけ出すことができなかった。どこかに隠したのだろう。あるいは、消えてなくなってしまったのだろうか。誰かが、意図的に所有しているのか。若者たちは頭を悩ませた。忽然と消えてしまったプログラムの存在は、手に入れたいという欲望を、日に日に募らせていくことになる。見つけることを最大の目的とする結社が、できてしまうほどであった。秘密裡に彼らは、有志を募り、メンバーは王族の枠を超え、情報を提供しあい、アイデアを出し合い、つながりを強固にしていったのだという。そうして、黒子たちの系譜は、確実に二つに分かれていったということさ。
 彼らは、そのうちに、そんなプログラムなど見つからなくても、それと同じくらいの、いや、それ以上にパワフルなプログラムを、逆に自分たちでつくってしまったらいい。そのほうが、早いんじゃないかと考えるようになっていった。ないものを探し回ることが、無駄な労力であると、そう考えるようになっていった。そのエネルギーを、別のことに、使いたい。言い出した男が、リーダーシップをとるようになる。会を率いていくことになった。そして、彼らは、長い年月を経て、今は、そう。この巨大カジノを運営するまでになった。だいぶん話は逸れてしまったし、端折ってしまったが、そのプログラムは今でも、彼らは見つけ出せてはいないらしいのだ。開発にも至っていないという噂だ」
 やはり、男には、会話をしている相手が、誰もいないのではないかと思った。
 この俺が相槌を適切に打たなければ、それこそ、男の声は闇に消え入ってしまうように、アキラには感じられたのだ。


 今日の夜もまた使徒たちは、転がる死体を埋めるために、集まった。
 奉納の時期が、三日後に迫ってきていた。それまでに、必要な数の死体を積上げておかなければならない。
「どうだ?今日はどっちにいったらいい?」
「これだけ、毎日、人は死んでいるというのに」
「そうだな。なかなか集めてくるのは大変だ」
「そのへんに転がってはいないですからね。きちんと葬儀の手順を踏んで、火葬されるのでしょうから」
「だが俺らのような人間がいなければ、この世は成り立たない。大多数がみな、同じ死に方をして、同じ手順で灰に介されるわけではない。道を外れて死んでしまった屍もある」
「そうですね」
「これは、仕事だよ。匿名の仮面は、被せられてはいるが」
「名前もありません」
「今、このときは」
「行きましょう。レーダーに反応が。しかしまだ死んではいないようです。死へのカウントダウンが始まったようです」
「ゾーンに入ったか。ならば、時間の問題だ」
「カジノです。最新のテクノロジーを、すべてつぎ込んだといわれている、巨大複合施設の中に造られたカジノ。そこに、信号は灯りました」
「殺しか?」
「いえ、どうでしょう。命を賭けた、危ないゲームでもしているのでしょうか」
 使徒たちは、夜の闇の中へと深く同化していった。一人の若い男は、思った。ここに職を得て本当によかったと。この国は、本当に戦場のようだと思った。あれほど必死になって、地上での仕事を探したものの、納得のいく職業など、何一つ見つからなかった。どれもが、「生きるための、人間が生き延びる」ための、仕事だった。生きることに貢献するための仕事。男はすべて偽善だと思った。そうしてより快適に楽しく、不便のない生活を重ねていけばいくほど、人というものは死んでいくのだと思った。死期を圧倒的に早めるのだと思った。
 どうしてそのことが分からないのだろう。男は怒りをためていった。死に近い仕事。
 死を日常的に見つめる仕事につきたかった。今は有事ではないこの母国にあっては、医療現場がその最前線ではあったが、男は医学を志すほどの知能はなく、いや医者もまた、患者の不具合を強制的に打ち消して、「生き延びさせる」ことに躍起になる、そんな嘘臭い職業に見えてきた。死を助長するようなことがしたい。それが本音だった。
 ずっと抑制しながら生きてきたことに、ようやく気づいた。嘘はもう結構だと思った。
 自分の本音を隠すことはやめようと思った。死を助長するといっても殺しは違った。命を奪うことは絶対に違った。自分に対しても他者に対しても。死を助長するというのは、一体何なのか。男は深く考え続けた。あるいはこの成人になって職を探すと言うプロセスは、このことに気づかせるための一種の通過儀礼のようなものでしかなかった。
 登録もしてない職ナビのサイトからメールが来たのは、それから三ヶ月が経ってのことだった。
「死を助長するような仕事を、望んでいます」
 面接で男ははっきりそうとそう言った。
 面接官は二度頷き、若い男に右手を伸ばしてきた。
「君はウチに来るよ」と面接官は言った。
 その物言いは若い男にとっては初めてのことだった。
「採用ですか?」
 男ははやる気持ちを抑えられなかった。
「採用?なんだね、それは」
「雇ってくれるのでしょうか」
「雇う?何を言ってるんだね、君は」
 男は困惑した。面接官の意図がわからなかった。何か試されているのだろうか。
 男は冷静になろうと努めた。
「君はウチに来るよ」
 面接官は何度もそう繰り返した。
 男は何も訊きかえしはしなかった。
 自分はまだ、これまでの企業巡りをしていた感覚が、抜けきってはいない。採用、研修、給料、福利厚生、どんな言葉も制度も、ここではすでに存在してはいない。
 あれはすべて「生」の領域での話であった。何も訊き返す必要はなかった。この目の前にいる人と、その背後に自分の進むべき道はあった。
 若い男はそれ以上、滞在する意味がないと考え、退席した。面接官の言葉を信じた。
 その後、電話もメールも何もなかった。男はじっと夜の暗闇の中で目を閉じ、聞こえない何かからわずかな光を読み取ろうとした。
 使徒たちが活動している姿が、その時はっきりと感じることができた。
 彼らが使徒と呼ばれ、奉納の時に合わせて死の塊を集めている姿が、鮮明に浮かんできた。そして自分もまたいつのまにかその中に居た。
 奉納はカイラーサナータ寺院で執り行なわれた。都市の中心に建てられたカイラーサナータ寺院であった。そこに積上げた屍を納めにいく。カイラーサナータ寺院と、深い関係のある組織だった。
 今は、それ以上、知る必要はなかった。若い男はこのタイミングで、新しい一歩を踏み出そうと思った。死を助長する世界へと踏み込んでいくのだ。


 佐々木ウンディーネはレストランバーで、鳳凰口昌彦と二人で食事をしていた。
 鳳凰口のビジネスには広告塔の戸川を通じて、間接的にウンディーネは関わる形になっていた。
「タレントのグッズ販売網に、ウチの商品も組み込んでもらえないかな」
「何%?」
「五分五分でいいです」
「嘘でしょ」
「あなたとは長期的に関わりあうだろうから」
「借りができるみたいで、嫌だわ。まあ、細かい話はまたいずれ」
 ウンディーネの携帯電話が光った。メールを開くとマネージャーの関根からだった。
 辞めないそうですと、文字が打たれている。長谷川セレーネからの伝言です。
「ねえ!見てよ!」
 画面を思わず鳳凰口に見せつけた。
「ほんとに?マジか。マジなのね。あの子・・・。やったじゃないの!ほんとに?ちょっと返しなさい。はっきりと確認とらなきゃ」
 鳳凰口は興奮していく目の前の女を、冷ややかに見た。
 ウンディーネは夢中になって、メールを打っていた。かと思ったら、すぐに電話へと切り替えていた。
「ちっ。出ないわ。何をやってるのよ!」
 番号を再び打ち直す。
「あっ、関根?電話でないんだけど、長谷川。えっ?何?撮影?ファッション誌?仕方ないわね。あ、ところでさ。あいつ、本当に言ったのね。間違いないのね。引退は撤回するのね。えっ。何?僕にはよくわかりません?何を聞いてたのよ。びっくり、いや、あ、そっか。引退の話は・・・。私しか知らないことだっけ。わかった。わかったわ。ありがとう。撮影の合間に折り返し電話するよう、長谷川には言っておいて。それじゃあ」
 佐々木ウンディーネは携帯電話を切り、テーブルの上に放り出した。両腕を広げ、後頭部に両手を持っていった。薄い生地で袖のないシャツだったため、両方の脇が鳳凰口に対して全開になっていた。
 鳳凰口は両脇に焦点を絞り、そのあらわになっている間、ずっと見つめていた。
「いやぁ、まっさかね。こんなことってあるのものね。びっくりよ。いやいや、まだ、決まったわけじゃないけど。そうよ。何、考えてるのかしら、わたし。あいつ、また覆すかもしれないわ。そうじゃないの。いや、でも、あの子。そんな子だったっけ。どうしよう。落ち着かない。わたし、変?どうしちゃったのかしら。やだ。大丈夫。あの子は支離滅裂さからは最も遠い子だったじゃないの。毅然としていて、綺麗で。大丈夫よ。またこれまでと同じように、やってくれる。そうよね?まだまだ仕事も十分あるし。大丈夫。他のタレントを見て御覧なさい。あれで落ち目だとか言ったら、他のタレントたちに殺されるわ。戸川君と比べちゃうからいけないの。そうでしょ?」
 ウンディーネは鳳凰口に同意を取り付けるように言った。
 あいかわらず鳳凰口は冷ややかな表情を変える気配はなかった。
「何とか言ったらどうなの。ねえ、その顔、やめてくれない?バカにしてるの?一喜一憂するってそんなにいけないことなの?人間なんだから、当然じゃないの!あなたって、いっつも、そんな感じで人を見るの?私だって普段はあなたみたいなのよ。今日だけ。今だけよ。ああ、恥ずかしい。こんな浮ついた社長の姿なんて、誰の得にもならない。わかってるわよ。でも。たまにはあなたも崩してみなさいよ。ほら。誰もいないんだから。似たもの同士、こんなときくらいしか、仮面を外せないでしょ?あれっ、あ、そうか。あなた、奥さん居たわよね。奥さんには見せてるの?あーぁ。見せてるんだ。うらやまし。ねえ、私にも見せなさい。ああ、旦那欲しいかも・・・。ほしーわ。彼氏でいいから。誰か。ねっ。ねえってば!うざい?」
 鳳凰口は彼女を嗜めることもなく、会話を付き合う素振りも見せなかった。
 だが目線を彼女から逸らすこともしなかった。
「ねえってば!乾杯しよーよ。嬉しいの、私。わかるでしょ?すごく、嬉しいの。まだ、あなたには言ってなかったわね。あの子。そう、長谷川さん。戻ってきたの!って、いきなり言っても、わけわかんないわよね。長谷川セレーネは事務所をやめるってこの前言いだしたのよ。仕事もやめて芸能界も引退する。契約が終わる八月に。でも撤回したの。やったわよ。願いが通じたの。そう。あの子のあとには、誰も育ってないの。聞いてる?ちょっと、他の子のことだって、考えなさいって。ね?そう思うでしょ?会社のこともさ。あ、そうそう。北川裕美が最初に辞めるっていいだしたの。でも、あの人はいいの。元々、やめてるようなものだし。私が無理言って、引き止めてるだけだったから。居ても居ないようなものだったし、すでに。ただ、形だけ、会長って訳のわからない肩書きで、残ってもらってたから。仕事も派遣労働者みたいな契約の仕方で。今さらね。北川裕美って言われても、世間的にもどうなのかしらね。通用しないわよね。いや、勘違いしないで。馬鹿にもしてないから。そんなんじゃなくて、ただタレントとしての商品価値のことよ。北川裕美には今となっては絵があるんだから、美術の世界ではちゃんと評価されて生き残っていくわ」
「いつまでしゃべってるんだ?」
「そうね。そうよね。ごめんね。ただ、一緒に、乾杯がしたかっただけよ」
 鳳凰口はさっさとグラスを掲げた。ウンディーネがグラスを合わせてくるのを、面倒くさそうな表情をして待った。
「長谷川セレーネも、起用していいのよ」
「俺が?ウチが?それはやめておくよ。これから息の長い商売に、なるんだ。コロコロとモデルをかえて、イメージを分散させたくはないからな。どうしてそっとしてやれなかった?静かにやめさせてやらなかった?」
「自分の意志で戻ってきたのよ」とウンディーネは答えた。
「別に強要なんてしていない」
「そんなに嬉しいことなのかね。俺には悲劇の始まりのように見えるよ」
 鳳凰口はグラスに入ったシャンパンを一気に飲み干した。


 佐々木ウンディーネとの食事が、不首尾の終わるとは思わなかった。鳳凰口は早々に、お開きにして、店を出る。こんなに早く自宅に帰るのもまた、忍びなかった。当てもなく夜空を見上げる。満月だった。霞懸かった淡い色調の真ん丸な月がそこにはあった。ふと誰かが背後にいるような気がした。
 白くて少し銀の色身がついた光の塊が、そこには浮かんでいる。気のせいだと思ったが、鳳凰口が動くその方向に、白い影もまたついてきた。
 もう一軒行かないかと、その白い影が言葉を発したような気がした。さっきの店でいい。すぐに戻って来いと言われた。連れの女はもう帰った。わたしは君たちが来る前から同じ店にいた。君たちの会話も全部聞いていた。つまらない内容だったね。あの女じゃ、駄目だ。君がしたい会話などできやしない。まあいい。女の話も後でじっくりとしよう。とにかく戻ってこい。
 鳳凰口は言われたとおりに行動した。店のドアを開けると、会計をしてくれた若い女性の店員と、再び顔を合わせた。彼女はすぐに鳳凰口に気づいた。「忘れものですか」と訊いてきた。
「別の待ち合わせ」と鳳凰口は答えた。
「そうでしたか。どうぞ」手を上げている男がいた。
 白髪の交じった背広姿の男だった。暗い店内にあって、この男だけに照明が当たっていた。至って普通のサラリーマンのように見えなくもなかった。しかしどこか色素が薄いように感じる。ソファーのような椅子に座っているが、重みがまったく感じられない。
 けれどもソファーがほんのわずかだが、へこんでいる所を見ると、体重は存在するらしかった。
「よろしく。名前は名乗れないが、仮にもZと呼んでやってくれ」
 男は手を差し出しかけたが、何かを思い出したかのように、慌てて引っ込めた。
「新しいビジネスを始めたそうで。大変な時期でしょう。細々とそのまだ全然売れてないようですね。あの女に助けを求めた。あの有名な広告タレントにも、応援要請ですか。まあ、それもまた、いいでしょう。いずれは、強力な武器の一つにはなる。しかし、つまらん商売だね。たとえ、売れたとしても、それでいったい何になるのだろう。家族を養うくらいには稼げるかもしれないが、それで、君の望みは叶うのだろうか。君が何を望んでいるのか、私は知っているんだからね。俺と組まないか?いやいや、私は君に目をつけたんだ。どうしてだと思う?君は大きな野心を抱いている。けれども別に叶わなくていいとも思ってる。そうだよな。当たってるよな。それだけのビジョンを描いていながら、同時に叶わなくてもいい。どうなってもいいと、投げやりになっている君。そこに私は惹かれた。どうしてもやりたいという、執着心に塗れた人間は私は苦手だよ。君のような人間と、私は波長が合う。いいぞ。何にも答えなくて。今日は、私の自己紹介みたいなものだから。そんなパワーストーンみたいな、あるんだかないんだかわからない、エネルギーを、ちまちまと切り売りして、それを買った人間たちも、そんな小さなエネルギーで満足するのだろうか。君は今自宅をオフィスにしているみたいだな。ごちゃごちゃとしていて醜いよ。それもやめるんだ。会社をちゃんと設立するんだ。本社ビルを建設する。マンションの一室を借りるのもやめろ。もう場所の準備もすでにできている。
 どうだろう。君の返事一つで、すべては動く体制が出来ている。君は別にこれまでと同じようにしてくれたらいい。逆に余計なことはしないでいてくれた方が望ましい。君一人だった世界が、君を中心とした大きな背景、それが加えられた現実になる。
 その背景を私たちが提供しようという話だ。厚みの問題だ。ビジョンのある人間に、私は手を貸すことが、一つの使命だ。じっくりと考えるんだ。思い当たるフシはあるはずだから。詳しい説明などしなくとも、むしろ細部は君自身がすでに持っているんだから。その細部を引き出す役目を、私が担っているともいう。厚みだ。厚みをもたらす役割。私と組む決意さえすれば、その厚みは手に入る。君の望む全てのものは手に入る。死んだつもりになって心を決めてほしい。確かに一度決めてしまえば、後には引き返せない。だが危ない橋ではない。君自身の世界だ。一度開き、開きまくり、その現実を目の前にして、そこに入り込み、足場を固め、大地と一体となり、性的にも、エクスタシーの根源を体感しないかぎり、君は、確実に後悔することになる。何を後悔するのかを、先に考えたほうがいい。チャンスはそうは多くない。私とめぐり合うのも、ほとんど最後だと考えた方がいい。そう。あやしいかどうかも、君の胸に訊いてみたらいい。私が誰で、私が何をしようとしているのか。何ができるのか。すでに君は、すべてを知っていることだろう。君は私に今気付いたのだから。この『今』が、どれほど待ち望んだ『今』であったか。我々にとっても。この瞬間のために、お互いの全生涯があったくらいだ。長かった。とっても長かった。やっと会えた。
 そういえばおめでとう。結婚したんだって。君は先手を打った。愛華有紀くん。ずいぶんと早くに手に入れたね。すでに式もあげた。一緒に生活しているつもりになっているようだ。しかしそんな現実は実はまだない。だが妄想ではない。それは本当にそうなる。それと同じことだ。私と君との関係も。君との現実を、すでに知っているのだ。
 君がどんな反応をとるのかも、知っているのだ。すべてはちょっとずつズレている。ズラしているのだ。ズラすことで見えてくることもある。ズラすことで見え方が変わる。しかしそれは同じものを違う角度から見ているわけではない。それとは違う。同じものじゃない。違うものを同じ場所に見ているのだ。私の真意も、君は十分に読み取れている。理解している。熟知している。私はすでに知っているのだ。それでは、どうして、私は君のもとにやってきて、同意などを取り付けようとしているのか。不思議だろう。不思議だと言ってくれ。同意するのかしないのかを、すでに知っている私が、何故わざわざ、同意を取り付けにきているのか。瞬間というのは、実に興味深いものだ。この一瞬の再会がしたいから、だから人間というのは、つまらん人生を生き続けているのかもしれない。そのことがようやく、私にも分かってきたよ。こうして疑似体験にすぎない真似事でも、少しは理解することができる。ありがとう。楽しいよ」
 まもなく閉店になりますと、若い女性店員がやってきて再び顔を合わせた。


 長谷川セレーネに初めて会った日の夜、立花フレイヤはそのときの様子を思い出して、ニヤリと笑った。あれが実物のセレーネかと思った。やはり美貌は半端ではなかった。しかしこいつには負けるかもしれないという、「気」のようなものはまったく感じられなかった。敵にもならない。フレイヤは彼女を少し刺激してみることにした。終わった女に対して、私を恨むような怒りが発生するような、そんなエネルギーを送ってみた。彼女とは目を合わせることはなかった。同じ一つの空間にいれば、彼女は絶対に反応するはずだった。ふふっ。そして思惑通りになった。彼女は取り乱し、暴れた。馬鹿な女だ。何にも気づいてはいない。ちょっと彼女の周辺の人間に探りを入れてみたが、あの女、引退を決めていたらしかった。で、あの騒動のあとで、今度は突然の撤回を申し出たらしかった。自分を持っていない女の典型だった。あんな女には死んでもなりたくなかった。
 しかし妙にあの女のことは、学生時代から気になり続けた。あれだけ有名で露出も多かったから、おそらく潜在意識の深いところでダイレクトに、あの風貌がそっくりと刷り込まれてしまったのだろう。私は彼女になりたいと思わなかったし、他の友達のように、憧れを抱くようなこともなかった。代わりに沸き起こってきたのは、激しい嫌悪感だった。
 あの女には絶対に会いたくもないし、ああいった外見が発している、その元となっている内面性にも、自分が染まっていくのは御免だった。ところが知らず知らずのうちに、私は芸能界へと近づいていき、入ってしまい、あれよあれよというまに売れてしまっていた。長谷川セレーネの側へ側へと、いつのまにか近づいてきてしまっていた。気を抜けば、いつのまにかすれ違ってしまうほどに、近い場所に私はいたのだ。
 彼女はその見た目とは反対に、恋愛経験は極端に少ないのではないかと思った。特にデビュー当時は、それが顕著に見えた。むしろ最近までは、誰とも深く付き合ったことはないのではないか。体の関係も持ったことがないのではないかと思うほどだった。そしてほとんど、そのことを確信していた。そんなふうに思っている人間は、周りにはいなかった。いや、しかし男たちは誰も彼女を放っておくはずがなかった。それでも不思議と彼女に近づき、言い寄る男の姿が、まるで想像することができなかった。
 そのときからだった。あの長谷川セレーネの現実離れした異様なオーラは、実は作られたものではないのかと思ったのだ。一つの強烈な衣装として、彼女自身が用意して、身に纏い、纏い続けてきた、ある種の偽りなのではないかと思ったのだ。そして長く続いた彼女の帝王時代もまた、翳りが生じてきている。ちょうど私が、街でモデル事務所にスカウトされ、コレクションのオーディションを強力に勧められた時期でもあった。その頃から長谷川セレーネの神通力は、下降線を辿っていったように思われる。
 現実離れした彼女が、現実に引き戻ってきたかのような感じだった。二度とあの高みには行くことなどできない。彼女や彼女の周囲も、そのことに気づき始めたのだろうか。その後は、ゆるやかな放物線へと変わっていった。最小限に食い止めようとする意思のようなものを感じた。
 やはり私と同じように、あの人たちも感じている。私はそのとき、イケると思ったのだ。もちろん長谷川セレーネと会うことはない。同じ世界に飛び込みはする。しかし決して、二つの線は混じりあうことはない。交わってはいけないとも思った。けれども薄々このとき、私は気付いていたのかもしれない。彼女の元に自分が猛烈に近づいていっているということを。実のところ、私は彼女を求めていたのかもしれなかった。ならばと、今度は腹を決めた。事あるごとに電撃的な邂逅を果たすよう、自分を仕向けていった。さらには長谷川セレーネの本質とは間逆な衣装を、身に纏うことも決めた。事あるごとに彼女がするであろうこととは逆の選択を、とっていくことを意識した。結婚もした。子供も作った。夫の他に複数の恋人もつくった。見せつけたかった。アイツに。下降線を辿っていくだけのアイツに。これでもかと示したかった。そして私は留めを指すその瞬間を窺っていた。
 必ず、最高のタイミングで、私は長谷川セレーネを殺すチャンスがやってくる。私はそう確信し、安心した。彼女のことはすべて忘れた。忘れたふりをした。忘れるはずもない。心の深い場所には、決して消えることのない長谷川セレーネの残像が、刻印されている。私が死んだあと、肉体を灰に帰してしまった後でも、決して消えることのない女の残像だ。
 あの女ほど、人の心の中に住み着く女は、いなかった。表舞台から、フェードアウトしてしまった後でさえ、人々の細胞の内側からは、決して退くことのない女。しかし、二度と、意識に上がってくることはない。地中に埋もれてしまった古代の街のように。二度と人目に触れることはない。私はそんな遺跡と化すであろう、彼女の幻影と、ずっと闘っていた。
 細胞として、自分の一部に定着してしまう、最後の抵抗をしていたのかもしれなかった。


 激原は恋人の立花フレイヤの家を訪れていた。ケイロ・スギサキの会見のあとで、彼女の方から声をかけてきた。一目見て、激原はこの女は自分のものになると確信した。
 求めている条件のすべてを揃えていた。条件はいくつもあったのだが、どれも一つの共通点に、集約されていた。匂いだった。彼女から迸る匂いのない匂いが、激原の乾ききった身体を、一気に蘇らせたのだ。本来の自分を取り戻しかけていた。ケイロ・スギサキの話をしようとフレイヤを食事に誘った。彼女もまた誘いに応じた。彼女の目はすでに濡れていた。激原に視線は釘付けになっていた。瞳孔も開いていた。激原の心の中に一瞬、結婚の二文字がよぎった。いずれそうなるかもしれないなと、直観が走った。けれど自分も、この女も、まるで家庭的な感じは全くなかった。婚約くらいはするかもしれないが、同居することさえ、激原には想像することができなかった。だからこそ、この女は自分に適していると思ったのだ。同類だった。彼女もまた俺の中に。今は埋もれてしまった、『得たいの知れないエネルギー』を、欲しているのかもしれなかった。二人は同じエネルギーを求めていると、激原は思った。二人で引き出し合い、分かち合うことができる。
 彼女もまた、激原の想いを瞬時に読み取ったかのように、微笑んでいた。誰が仕組んだのかわからないが、実によくできた出会い方だった。
 その日の食事は何もしゃべらなくても、彼女の言いたいことはだいたいわかった。
 お互い、それでも何らかの話題を持ち出し、談笑していた。しかし実際は上の空で、すでに水面下では一つに溶け合っていた。接近した同じ空間の中に含まれ、二人の匂いもまた、あっというまに混ざりあい、異質の分子を交換し合い、すばやく細胞を生き返らせていた。ある意味、彼女もそれまで、死んでいたのかもしれないなと、激原は思った。疲弊し、消耗し、退屈に支配された生活が、見えてくるようだった。あとで、モデルをしていることを知った。夫がいて、子供もいることを知った。短いあいだに、数えきれないほどのセックスをした後で知った。
 女は非常に世間では名の知れた芸能人だった。常に報道のネタにされていた。そんなゴシップの対象になることも、彼女は楽しんでいるように見えた。だがそれなりに疲れてはいたのだろう。家庭を持っているとは意外だった。夫や子供のことは全く訊かなかった。興味がなかった。しかしなぜ結婚をしたのかは訊いた。
 彼女は自分が家庭には向いてないし、持ちたいと思ったことがないからだと答えた。 
 その意味を、何度となく追求したような気がしたが、明確な答えは今だに得られていない。その答えを今日、訊きにきたのかもしれなかった。部屋に来てから三時間近くが経っている。彼女の中に射精し、少しは高まる気分が落ち着いたのかもしれない。フレイヤとは二週か三週に、一度、こうして彼女の部屋で会っていた。外でのデートは一目につくため、ほとんどが屋内だった。フレイヤは仕事でよく海外に行っていたから、そのときの撮影の合間に観光も兼ねたデートをしようと言われたが、仕事を休むわけにもいかず、断った。その一度きりで、それ以降は彼女は何も提案してはこなかった。フレイヤからの連絡を受けてから、激原は自分のスケージュルを調整した。毎日でも会いたかったし、可能ならば何度でも、彼女の中に出したかった。彼女に会えば会うほど、性欲は高まり、性器もまた強靭になっていった。ところが激原には、まるで彼女が精子のコントロールを自在に行っているかのように思えた。スケージュルを向こうが握っているというのもあった。激原は苦しかった。二週間ものあいだ、放置されることもあった。この彼女の身体を求め、高まっていく鼓動を、どう管理していけばよいのか。初めは戸惑った。もちろん仕事には転換した。しかし性行為によってしか、解消されないエネルギーもあった。こんなにたまってしまったのだから、口で愛撫されるだけで、すぐに出てしまいそうになる。そして彼女の中に入った瞬間、今にも出てしまいそうな危険な状態になる。しかし何故か出てしまうことはなかった。性的な興奮はさらに急激に高まっていくものの、すぐに射精にはいたらず、その最後の瞬間からはどんどんと遠ざかっていくようだった。何度かあったのは射精すら起こらないといった現象だった。いったいいつ性行為が終わったのか、気づかないこともあった。出した後の感覚に、すでになっていたのだ。けれど精液はどこにも見当たらない。どこにも出してなどいない。初めは消えてしまったのではないかと思った。フレイヤはすでに、性的快楽の頂点にいて、痙攣気味に、全身を震わせている。激原はそっと根元を押さえ、彼女の中から抜き取った。また別の時にはすでに抜き取り、添い寝までしていたことさえあった。それまでの時間の記憶が、まったくどこかに消えてしまっていた。満足げな表情を浮かべて眠る、女の姿が、そこにはあった。
 やはり、射精などしていない。女の性器には、自らの体液が滴っているだけだった。白濁したものなど、どこにもない。その日の夜はそれでよかった。だが数日経つと、沸き起こる爆発的な性欲に苛まれた。立花フレイヤからは自慰行為を固く禁じられていた。もし約束を守れなければ、二度と私はあなたに会わないと、彼女は言った。すぐにわかるんだから。入れたらすぐにわかるんだから。いや、舐めてるときにわかる。一目見ただけでも、わかる。あなたの顔を、見たときにわかる。私の部屋に向かっているときに、すでにわかるの。いいえ、違う。あなたが、そうしようとしたときに、わかる。私にはわかるのよ。ほんとうよ。やろうと心に決めたときに、わかる。許さないから。一度だって許さないから。本気よ。
 激原は受け入れるしかなかった。彼女が性行為のすべてを、コントロールしているかのようだった。しかし自慰行為の禁止には、おもったほどの苦労は伴わなかった。もしかすると射精もまた、彼女次第なのではないかと思うようになっていった。中をどう扱っているのかはわからなかったが、あの中がすでに激原にとっては、神聖な地獄のようであり、彼女の意志が支配する、領域であったのは確かなようだった。射精は許されたときにだけ成される。
 二人の引退報道をテレビで見たのは、そのときだった。
 立花フレイヤがシャワーを浴びに行ったときに何気なくテレビをつけた。別に何の感慨も湧かなかった。ニュースにほとんど興味を示さず、芸能人もほとんど知らなかった激原だが、さすがにこの二人は知っていた。長谷川セレーネにいたっては、自宅の改装の仕事まで請け負っていた。もっともその家は長谷川セレーネが手放すタイミングで、見士沼の実家が買い取ったことで依頼された、リフォームではあった。直接、彼女には関係がなかった。会ったことさえなかった。
 ふと、この部屋に、子供のいた痕跡がないことを、激原はこのとき初めて不可思議に思った。フレイヤはどこに子供を預けているのだろう。ここではそもそも暮らしていないのだろうか。旦那が面倒を見ているといったが、その旦那はどこに住んでいるのだろう。立花フレイヤのことは、ほとんど、巷に流布された軽薄な情報しか、持ち合わせがなかった。
 立花フレイヤはいつのまにか、シャワーを終えて、ほとんど全裸で立っていた。
 視線はテレビ画面に釘付けになっている。同じ業界の、同じ職種の、有名な二人のことだ。注目するのは当たり前であった。だが立花フレイヤの顔色は極端に悪くなっていった。足元をぐらつかせ、手に持っていたバスタオルを床に落とし、激原が瞬時に差し出した両腕の中に、崩れ落ちてしまった。激原は彼女をベッドに横にさせ、静かに寝かせようとテレビを消した。だがフレイヤはリモコンを奪い取りあげ、さらには音量まで上げた。顔は必死で画面に向けようとしていた。激原は全裸の体にバスタオルをそっとかけた。最初、彼女の両足はぴたりと閉じ、真っ直ぐに伸ばしていたが、次第に折り曲がり、膝を立て、バスタオルは羽だけ落ちた。そして激原に陰部を見せつけるように、ゆっくりと開かれていった。二人の引退会見は行う予定はなく、今、契約を交わしているCMや広告、ドラマが最後の仕事になることが、決まったのだという。今後、あらたな仕事をするつもりはなく、結婚や妊娠の情報もない。同じ事務所に所属していた二人だが、同じタイミングで芸能界を去ることに、何か陰謀めいたことを言うコメンテータもいた。これは裏があると思いますね。陰気な企みばかりしていそうな、教授という肩書きの初老の男は、そう言った。人気の戸川兼も、所属している佐々木エージェンシーですよね?何かあるな。これは、社長に自ら出てきてもらって、説明してもらわなくては、ならないですよねと続けた。
 立花フレイヤは相当な衝撃を受けているようだった。
 激原は話かけることなく、静かに見守るしかなかった。ふと、開いた足の間に、目がいってしまった。こんな無防備な状態の彼女を初めて見た。目は見開いてはいるものの、完全に虚ろで、心はどこかに行ってしまっている。情報もうまく頭に入ってきていないような、そんな様子だった。それでいて心の奥底には、しっかりと入ってしまっている。
 性欲が急激に湧いてくるのが、激原にはわかった。フレイヤに覆いかぶさり、そのまま挿入して、この女に声なき声で喘がせ、めちゃくちゃにしてやりたいと思った。今がその唯一のチャンスだ。一瞬開いたこのチャンスを、見逃すわけにはいかない。いつものように避妊具を求める彼女の姿はない。足だってこんなにも開いてしまっている。俺を要求している。一瞬、テレビを消そうと思ったが、やめた。フレイヤの、この状態を、終わらせてしまうことを危惧した。しばらくは報道は続く。そのあいだに事をすませてしまったらいい。
 しかし一度、数十分前に激しく精を解き放ってしまっていた。身体は全然興奮を取り戻せてなかった。今しかチャンスはないのだと、心は焦るばかりで、追い込まれてしまった。身体は屹立する兆しがまるでない。しかし欲望はじわりじわりと染み込んでいっている。この残忍な鈍さに耐え切れない自分がいた。いつ、次のニュースに移ってしまうのか。気が気ではなかった。
 激原はテレビを付けっぱなしにしながらも、その情報を遮断するべく、静かに深い呼吸へと切り替えた。目の前の女に、神経を集中させていった。すばらしい肉体だった。自分が思う、最高の女性性が集まった、究極のエネルギーの塊だった。細胞は自ら輝き、皮膚は内側から照らされた発光体のようだった。ベッドの白いシーツが暗色に見える。その光に近づき、包みこまれるように、激原は自らの身体全体を、女のエネルギー体の中へと、滑り込ませた。その白い世界の中で、激原は女の性を刺激し、そしていじり倒した。自分の全体性のすべてを、ここに捧げながらも、その中で優しく激しく、責め立て、湿らせ続けた。液体と化したその空間に、激原は自らの全身をすべらせ、入り込ませ、一体となってゆっくりと動き、揺さぶり、震わせながら、二つの異質体から境界線を失わせていった。
 彼女とのセックスで、初めて自分の意志で、自分を発射させることができた。
 白く淡い光の中に、部屋の輪郭が、ぼんやりと現れ始めた。事は終わったのだ。
 テレビの音も、僅かに聞こえ始める。性器はまだ結合したままであった。液体の海の中にあっては、自分がどんな状態にあるのかもわからない。上体を起こした。自分はどこにいってしまったのだろう。恐る恐る結合した部分に目を移す。白い液体が隙間から漏れ出ていた。抜き取ると溢れ出てきた。シーツを濡らす。シーツに吸収されない液体は、さらに拡散していく。ほとんど女が寝ている一帯を、濡らしてしまったかのような拡がり方だった。ベッド全体が精液で染まってしまったかのようだった。さらにはさっきまでいた白い世界そのものが、自分の出したものであったかのようにも思えてきた。自分が外に出したものの中に自分が包まれ、抱かれていたかのように。テレビは消えていた。
 立花フレイヤがリモコンを片手に持っていた。何が起きたのかまるでわからない朦朧とした様子で、すがるような視線を送ってきた。それでいいんだと、激原は呟いた。それでいいんだと呟き続けた。ふと、彼女の中に、新しい生命が宿ったのだとしたら・・・、初めての子なのではないかと、激原はこのとき思った。


「これが」
「そうだ。用意した」
「あなたが?」
「そうだ。見上げてごらん。大いなる鳥よ。不死の鳥よ。永遠に、死と再生を繰り返す、その鳥よ。君の紋章だ。君に受けつがれた鳳凰の刻印。グリフェニクスだ」
「どうして、それを」
「君の作る商品。ブランド名が、決まったそうじゃないか。グリフェニクス。そうだろう。それしかない。何も言うな。わかってるんだから」
「親父なのか?」
 鳳凰口はたまらず訊き返した。
「君と血縁関係だったことは、残念ながらない」
「誰なんだ!」
「想いは同じ。グリフェニクスを巡る。拡大しよう。大いに。盛大に。ずっとこのときを待っていた。そう。しかし。その一歩目。初めの物理的きっかけだけは、君でないと駄目なんだ。奥さん。君の奥さん。とてもいい子じゃないか。あの子が来てくれたから。鳳凰口。大切にするんだぞ。君の周りには、すでに良からぬ乙女たちが近づいている。けれど、まあ、いい。深刻にはなるな。それもまた楽しめ。ちゃんとやることも、やって。存分に。全部グリフェニクスで統一できたら、それでいい。
 すべてをグリフェニクス経由で、拡販するようなシステムにしていければ、それでいい。
 調和、共同、華麗、多角。分散。それらが我々の神だ。保守、過信、分散、分裂は実に、いけない。肝に銘じておけ。女のことも。そこにだけ気をつければ、あとはどう味付けしたって構わない。口は出さない。君のビジネスはグリフェニクス、それでいい。
 我々がそこに、拡張を付け加えていくだけだ。背景だ。重層的な背景を付け加えていく。例えば、グリフェニクス・ザ・ミュージアム。ケイロ・スギサキの。知ってるだろ?」
「あれが?」
「嘘だよ。嘘。あれは、違う。あれは、違うんだ。我々のものではない。うん。そう。あれは違う。あれはしくじった。グリフェニクス・ザ・ミュージアムになる予定だった。しかし失敗した。しかしいい教訓にはなった。
 それに、あれがうまくいかないことは、初めから決まっていた。奴らとの因縁が、ここまで繫がっている。こんな大きな対極の軸に組み込まれているとは。しかし、これも定められた運命だ。ここまで引きずってしまったのだ。ここがお互いの最後の場所になるだろう。ずっと小さな対立は避け続けることで、お互いに生き延びてきた。繁栄を謳歌してきたのだから。ずっと避け続けてきた。お互い、知っていたよ。その存在は。持ちつ持たれつだったから。お互いの性質の違いを生かして。あるときは向こうが光となり、あるときは、こっちが光となった。影もまた王なりだ。
 そうして、対立は、時間という大波のリズムによって、発生することはなかった。
 だが、両雄相まみえずだ。この世は。いつか、清算のときが来る。光と影に世界が分かれることをやめるそのときが。すべては白日のもとに晒される。対立は君たち人間にも次第に影響を及ぼすことになるだろう。少しずつ、少しずつね。溝は深く、病は広がっていくことだろう。仲間だと思っていた、パートナーだと思っていた、愛し合い、信頼しきっていたその相手の顔もまた、歪み、崩れ、別の表情を刻み始め、違う人格が剥き出しになってくる。
 構わない。両雄が相まみえてしまったのだから。背後の対決は実に避けられなくなった。もうすでに結末まで決まっているのだよ。決着はすでについているのだよ。どういう道筋で、どうなるのかはわからないが、結果はすでに出ているのだから。勝敗はつかない。鳳凰口。主導権を争う闘いではないのだよ、これは。終わらせるためだけの、お互いが消えるためだけの闘いなのだよ。わからないだろうか。そう。我々も、また、あいつらもまた、自らを消滅させることが、全くもって、不可能なのだよ。最初にして、最大の最期のチャンスなのだよ。お互い、わかっている。いい時代を、交互に過ごしてやってきたんだ。やり残したことは何もない。相方、共に了解済みなのだ。だが最後に欲が出た。ミュージアムもまた、手に入れようとね。強引な行動に出てしまった。建設をだいぶん、妨害してやった。だが決定打が出なかった。決定打が」
「お前だったのか」鳳凰口の声はわずかに震えていた。「ケイロを狙ったのは」
 鳳凰口は誰もいない虚空の部屋で、一人呟いていた。
 この見えない存在との遭遇は、二度目だった。
 鳳凰口はこの最後の欲のことが引っかかった。
 結果を覆そうとしたが、ケイロは死の剣をわずかなところでかわした。
 ミュージアムの建設を妨害するものはなくなった。
 この世界にベストなタイミングで存在することになる。
 それよりも、鳳凰口は、目の前の巨大な建造物に、圧倒されていた。


 ギャンブラーは目が醒める。今はいったい何時なのだろう。差し込む陽の光はない。窓がなかった。景色はあった。ギャンブラーは混乱していた。
 部屋の壁という壁が、床という床が、LEDの画面のようになっていた。不規則に移り変わる光の点滅に、ギャンブラーは命を脅かされているように感じた。そして再び目は閉じていき、再び開けたときには、遮光カーテンからわずかに漏れた朝の光に照らされた、部屋にいた。
 夢を見ていたのだ。しかし何かいつもの寝起きとは感覚が違う。何か自分の周りで疼く気配が感じられたのだ。こめかみにもほんのわずかだったが、痛みの後のような感覚がある。激しい痛みが去った後のような。頭の中にコンピューターが埋め込まれていたような、そんな違和感。異物感。頭を左右に振ってみる。それ以上、違和感は大きくなることはない。身を潜めるかのごとく、その気配だけを伝えてくる。
「残念だったな」
 ロックしてあるはずの部屋の扉が、勢いよく開かれる。
「お目覚めはいかがだろう。ギャンブラー君。ふふふ。君なんだろ?巨大カジノを崩壊させ、システムごと乗っ取り続けたという、伝説のギャンブラーという人間は。知ってるよ。もちろん知っている。ようこそ。我が帝国に。最後に、ここを狙ってくれて光栄だよ。何もかも知っている。事前にすべてが調査済みだ。いやあ、実に楽しいね。獲物の動きを、初めから終わりまで観察するのは。これまでずっと、君の行動は監視してきた。君がギャンブラーとして命じられ、実績を積んできたその過程を。それまでの君のことは、もちろん知らない。興味すらわかない。平凡な人生を、おそらくは歩んできたのだろう。何も否定はしない。どういった経緯で、君がこのような任務につくことになったのか。そんなことなど、どうだっていい。興味は湧かない。我々は、この自分たちを、潰しにくる輩が、どうやって入り込み、戦略を立てて、実行してくるのか。その過程をすべて、知りたいだけなのだ。じゃなければ、君らのような虫けらは、即刻排除するのみだ。最初の一歩目すら、踏ませはしない。だがそれではつまらない。それでは楽しみというものが全く残らない。楽しみたいんだよ、我々は。常にね。君の行動は、ここに結実した。しかし最後の行動だけが、我々に奪いとられる格好となる。もう君は最後にどうなるのか。決まっているのだよ!君の任務が始まったときにすでに。君はそのことに気づいてなかったのか?」
 アキラはまだ完全には覚醒していない意識の中、そもそも何故、自分がここにいるのか、自分そのものを見失っていた。
「まさか本気で、君はカジノにゲームをしに来たのではないだろ?」
 アキラはさっきのLED画面に囲まれ、全身を包み込まれた時に、そこで見た加工され圧縮された映像の一部が、フラッシュバックしてきたことに驚いていた。
 あれは夢じゃない。すべては綿密に仕組まれている。すべてに意味があった。夢だと思っていたことは、全て現実だった。逃げることはできないことを、全身で悟る。
 空位の王の地位に王が百年ぶりに即位するために戻ってくるといった、映像が蘇ってくる。しかしその男は私は王ではないと答えた。空位を埋める王の存在も、ない。そんな人物はどこにもいない。私は二つの提案をしにココに戻ってきた。その空位に設置する、機械を、ここに持ってきたのだ。この機械が、未来の王だと言った。もともと王は、王をつくるための協議が組み込まれた、プログラムに沿って、訓練して、作りこまれていくものだった。ところが次第に人間の質が変わっていってしまったのか、人間とプログラムは、一つになることを、拒絶し始めた。そして王は作られることはなくなった。プログラム自体、人間は失っていった。プログラムが自ら離れていったのかもしれなかった。空位の王の場所を埋めるために、王朝を受けついだものができることとは、一体、何なのか。我々の結論は散逸してしまったプログラムをすべて集め、そのプログラムの方を、改変することだった。変化していくDNAをもつ、新しい人間に適合させたプログラムへと、改良を加えていくことだった。
 我々の意図は強固で、それは何十年にも渡って、未来の輝かしい計画表と共に、人類全体の光となるべく、そんな希求が根底にあった。想いは次第に磁気化していったのだろう。散逸していた異物が集まり始めた。そして埋もれてしまっている場所を探知することができるようにもなった。それに連動して、結束力の低下が著しかった王族の意識にも、変化が始まっていった。
 再び、王朝という名で、表舞台に蘇ろうという気運が高まっていったのだ。そしてプログラムを精査していくうちに、我々は気づいてしまったのだ。
 どうして一人の王をつくり、その王がこの世界全体を支配する必要があるのだろうと。
 王と王でない無数の人間たち。これはいったい何なのだろう。王と王族。それ以外の人間たち。王というのは実は、王族のためのただのロボット。マスコット。広告塔にすぎなかった。王族が力を誇示したい、ただそれだけのために存在していた」
 フラッシュバックは終わった。
 目の前に現れた男は口を開いた。
「君はゲームをしに来たんじゃない。ゲームをするのは我々の方なのだ。君は余興だ。我々のゲームの賭けの対象として、今日はここに来たのだ。その肉体。その肉体が最後に輝く瞬間を。君は表現しにきたんだ。新しい技術もまた、はじめに実験が必要であることと同じだ。そう。我々は多額の金を賭けたギャンブルを楽しむと同時に、新しいテクノロジーの導入を見越した、人体実験もまた、兼ねているのだ。目的は一つではない。他にも、影にかくれた目的のリストが、羅列されている。表面に出かかった、そのいくつかを、こうして披露しているだけだ。
 そう。あるいは君にもあるはずなのだよ。目的がね。ここにやって来た意味が。君の。君自身の。君自身が望んでいたことが、あるはずなのだよ。ずっと想い描いていたこと。ずっと切望して祈り続けていたこと。我々にはわからない、君自身の夢だ。君はその夢を果すためにここに来た。
 もちろん君を雇った輩には、輩なりの目的はあった。しかしそれはあっけなく、我々に握り潰された。だが我々はまだ、君の目的のほうを、把握することはできていない。すべての情報を理解し、精査できる我々が、たった一人の君の目的を掴めないことが、一抹の不安でもあるのだよ」


 春畑アスカが帰国したのは、六月をちょうど過ぎた頃だった。大学の春休みはとっくに終わっていた。日中の気温は三十度を超え、湿気の多いこの日本は、これから梅雨の季節に入ろうとしていた。同じ学科の同級だった西川美佐利に、空港から電話をかけた。留守番電話に繫がったので、メールで今帰国したことを伝えた。今年もまた、彼女に講義のノートの世話をしてもらうことになるだろう。今は大学二年の春であった。
 海外でのアルバイトは初めてだったが、延長を頼まれたことと、給料の高さが魅力で、ここまで引っ張ってしまっていた。だが担当した男の一人、確か〝アキラ〟といっただろうか。あの男は好きなタイプだった。もし違う出会い方をしていたら、私はあの男を誘いだしていたことだろう。バイトの厳格な規約に、アスカは縛られていた。出会った人間と、個人的な関係を結ぶことは禁じられていた。
 美佐利からはすぐに電話があった。やはり授業に出ていたようだ。大学の知り合いで、真面目に出席をしているのは彼女くらいなものだった。高校は進学校に通っていたらしいが、ほとんど男友達と遊びまわっていて、学校に行くことはなく、卒業に必要な出席の単位をほとんど満たしきれずに、担任による特別な(不正な)計らいによって何とか、大学への受験を認められたらしかった。
 彼女は十一月の終わりから猛然と勉強を始め、二月の末に私立大学に次々と合格していった。担任と約束したわけではなかったが、美佐利はその当時の、圧倒的に足りなかった単位を、大学の授業への出席で埋め合わせをしているのだと、言った。アスカには理解できなかったが、彼女は「そこまでつまらない授業ばかりではないわよ」と、アスカを毎日大学に引き込もうとしたが、アスカは三十分と、椅子に座っていることができなかった。
 高校まではほとんど皆勤賞だったのに、今はまったく駄目だった。大学一年の時には色んなバイトをやった。けれどすぐに飽きた。大学には居場所はなかったし、何とか人生そのものに居場所を作りたかった。自分の道に、ここだという確信を持つものが欲しかった。そんなときにこのバイトが舞い込んできた。
 もう仕事は終わったのだから、あの男のことを詮索しても、構わないはずだと思った。
「どう?今日、大学に来ない?」快活な、よく澄んだ声で、美佐利は話しかけてきた。
「アスカの春休みのことをよく訊きたいし。大学のカフェテラスで、どうかな?もう午後には授業はないし」
 じゃあ、今から行くからねと答え、アスカはとりあえず、このスーツケースを自宅に送るために、空港の宅配サービスカウンターに寄った。
「ずいぶんと日焼けをしたわね、ミサリ」
「そう?」
「どうしたの?」
「それより台湾の方はどうだった?」
「別に観光で行ってきたわけじゃないし。台湾そのものは満喫していないのよ。銀行残高はきっと来月には、七桁くらいには増えていると思うけど」
「まじ?それ大丈夫なの?」
「別に何も変なことはしてないわよ。VIPのお客さんを接待するだけ。接待といっても、そういうんじゃなくて。ただの案内係ね。滞在してるホテルの部屋から、会場まで付き添っていくだけの」
「それ、ボディーガードじゃないの?」美佐利は笑った。
「えっ?!」
 急に胸の奥にわずかな痛みが走ったように、アスカには感じられた。
「まさか・・・」
「一日に何人のお客さんを連れていくの?」
「一人」
「うそでしょ?」
「ほんの三十分くらい」
「他には?」
「別に何もしなかったわね。だから暇すぎて、逆にしんどかった」
「しんどい仕事だったんだ」
「そう。授業に出てるほうが楽だったかも」
「じゃあ、明日から出る?」
「そうね。考えておくわ」
「でも、怪しいわね。何か隠してない?わたしに。本当は体を売ってたとか。そんなんじゃないわよね?いいのよ、私には何でも話してくれて。誰にも言わないし。驚きもしないし」
「いや、だから、ほんとなんだってば。でも、それ、そう言われてみれば、ボディーガードだったのかな・・・」
「だよね。絶対おかしいわよ、それ。どうして、そんな大金が振り込まれるのよ。あっ、でも、気にしないで。悪かったわ。当然よね。あなた、すっごい美人なんだから。忘れてた。私さ、自分のこととして考えすぎてたみたい。でも、よく考えたら、あなただからよ。お客さんって、すごいランクの高い方たちなんでしょ?案内するコンパニオンの女性だって、相応の美女が必要なんでしょ。だから三十分で、何万円ってお金が発生しても、全然不思議じゃないわ。さっきは御免ね。私のさ、私たちの感覚で、しゃべっちゃって。だから気にしないで」
「それにしても」とアスカは腑に落ちない表情をする。
「たしかに高額な保険に加入させられたような気もする・・・。その、最初の面接の時に」
「面接のとき?」
「そう」
「どうして、また」
「確かにそう。加入させられた。今まで忘れてたけど。あれ、なんだったんだろう。採用される前。何か巧みに誘導させられたような。いつのまにかサインしてた。でもそのときは、全然気にならなくて」
「違うってば」美佐利は必死になって否定した。
「その仕事で、出会った客の中に、一人だけ若くてさ、抜群にカッコイイ男がいて、今だにその人のことが忘れられないのよね。それが唯一の思い出ね。街は全然見られなかったから。外出は禁止だったから。ほとんどホテルに缶詰状態で。狭いところじゃなかったし、ロービーまでは全然、出ていけたからよかったけど。カジノもあって。やらなかったんだけど。稼いだお金、全部持っていかれそうで。客との個人的な情報交換は、もちろん駄目でね。一つだけ望みがあるとしたら、私の情報を彼に一個だけ置いてきたことかしら。春畑アスカで、ここの大学の文学部に居るからって。今頃、問いあわせてるかも」
「ギャンブル場のコンパニオンの仕事ね。じゃあ、なおさら、高給で、当然ね」
「彼も求めているような眼をしてたんだけど。勘違いかなあ。ちょうど今、誰もいないし。あなたは?あなたは誰かいないの?春休み中に何かあったんじゃないの?」
「わかる?ねえ、アスカ」
「どうしたの?」
「今度、一緒に来てくれないかしら」
「私も同席していいの?」
「彼の開いている教室なんだけど」
「先生なんだ。何の?」
「ヒーリングの」
「へぇえ。意外。その店で知り合ったんだ。彼氏なの?」
「全然、違う。個人的にしゃべったことないもん。ただその教室に何度か行って、体験セミナーみたいなものに参加しただけ。アスカには言ってなかったけど、この冬はけっこう体調が悪くて。特にこの背中から首にかけて、強い張りがあって、全然とれないのよ。マッサージにも、だいぶ通ったんだけど、でも、その日しか、結局良くならなくて。すぐに痛くなってしまうの。でも、もう、マッサージはやめたわ。一時的に回復すればするほど、その後がもっと悪くなっていくんだもん。嫌になっちゃう。でもさぁ、もうこうなったら、逆にとことん痛くなれって、思っちゃうのよね。投げやりになっちゃって。何かこの痛みにも、理由があるんじゃないかって、冷静になったりして。ちょうどそのタイミングで、このセミナーの情報が入ってきて、それで。とりあえずは、痛みの方は、小康状態が続いてる。効果があったのかな。ね、あなたも来てちょうだいよ」
 美佐利がこのときほどしつこく私を誘ってくることは今までなかった。
 そのいつもとは違う強引さに、アスカは好奇心を少し刺激されてもいた。


 ケイロ・スギサキの展覧会を、北川裕美は、一人で見にいった。自分の最初の個展を思い出しながら、会場へと向かった。一般公開前の、さらには関係者への公開を前にしたたった一人だけに対する展覧の機会であった。ケイロから手紙と共に、直々の招待状が届いたのだった。ケイロ・スギサキは公募で当選したあとで、北川裕美の存在を知ったのだという。それまで美術経験のなかった彼は、当選後に慌てて手本となる、指標となる作家を探したのだという。そしてその対象が私だった。この巡り合わせを、北川裕美はごく自然に受けとめた。芸能界は引退することを発表したが、画業についてはろくに何のコメントも出してなかった。皆は当然描き続けるものと思っているのだろう。私もまだ決めかねていた。そもそもやりたいから、描きたいから描くといった類のものではなかった。言い方は悪いかもしれないが、やらされる、描かされるといった感覚の方が、圧倒的に近かった。
 もしかすると、これはチャンスなのかもしれないと思った。引き継がせる相手が現れたのかもしれないと思った。この招待状は決してケイロ・スギサキが送ってきたものでない。彼は何も知らない。彼に気がつかないところで、私への招待状は発行された。そう思った。夜の時間を指定する所をみると、誰にも知られたくない意図が感じとれた。
 北川裕美は黒を基調とした目立たない装いで、その期待に応えようとした。
 ケイロ・スギサキの実力次第だった。おそらくその判断が私に委ねられているのだと思った。画業から足を洗う、最初で最後の機会がやってきたのだ。しかしこんな男に引き継がせたくはないと、そう幻滅するような結果であるならば、そんな足の洗い方は、人生に汚点を残す以外の、何ものでもなくなる。一度、放棄した才能は、二度と私の元に戻ることはない。私に来る前には別の画家が絵を描いていたのだ。その画家が誰なのかはわからなかった。同じことが私とケイロとの間にも起こり始めている。私のことを彼は知らない。私は彼のことを知っていく。私が画家であることをその後も選びとれば、彼に今開かれようとしている道は、その瞬間、閉ざされ、消え、跡形もなくなる。
 ケイロは公募に当選した事実は消えてなくなり、その公募自体も行われることはなくなる。
 始まりからその記憶はすべてないものとして、完全に消滅されてしまう。そして私、北川裕美は、画家として君臨し続けることになる。私の反応次第だった。
 しかし結局は彼自体の能力の問題であり、私が苦悩する理由は何もなかった。よければよい。劣悪であるならば劣悪だとそう判定すればいいだけのことだ。私はこの瞬間、彼の絵を見る、その時までの心の揺れを、楽しむ時間が与えられただけなのだ。


 長谷川セレーネは引退報道を、自宅のテレビ画面で一人見つめていた。自分のことのようには全然思えなかった。直前になって七転八倒して騒ぎ立てたが、最後は実に静かなものだった。あの日、大学の構内で前事務所のマネージャーに声をかけられることを前提として始まった、サクセスストーリーは、今終わろうとしていた。
 日の当たった輝かしい時代は終わった。あの日、声をかけられるだいぶん前から、私の傍では蠢く男の影があった。今となってはあのマネージャーの他にも、私を芸能界に進ませる複数の導き手の候補者が居たのだろう。逃げることはできなかった。それでも私は、彼らの提案をすぐには受け取らず、拒み続けた。後になっては、ただのポーズにしかすぎない反応になってしまったが、あの時はあの時で、本当に連れて行かれたくなかった。駄々をこねる子供のようだった。デビューが決まり、最初の仕事をした時でも、私の覚悟はまだ定まっていなかった。人気が出始めたときでさえ、そうだった。
 Gという男が主演の舞台に出演した時、全裸になった瞬間に、すべてが吹っ切れたのだと思う。あれからの快進撃は自分でも驚くほどだった。そして一年か二年ぐらい前からだった。今日のこの日がやってくることを、薄々感ずき始めたのは。しかし何と静かな世界なのだろう。長谷川セレーネはこの身を取り巻く、誰にも侵されることなく進んでいく、いや、ほとんど、変化のないこの空間に、今まで得たことのない安心感が、見い出されていることに気づいていた。
 思えば今この世界が突然出現したわけではなかった。


 戸川は鳳凰口に電話をかけていた。
「本当に、オレでいいんだな」
「どうした?」
「オレを起用するんだろ?」
「そんなこと、いちいち、クライアントに訊くのか?」
「いいんだな?」
「よろしく、頼むよ」と鳳凰口は言った。
「それで、フレイヤのことだけど」
「会ったよ」
「それで?」
「ケイロ・スギサキの記者会見のとき」
「それで」
「向うから話しかけてきた」
「それで」
「それだけ。別にお前が懸念するようなことは、何も」
「なら、引き続き、気をつけろよ。気を抜くなよ」
「用事はそれ?」
「特にはないんだ。すまん。誰かと話したくて」
「珍しいな」
「親友が行方不明になった。親友がね。だいたいいつも、そいつが話し相手になってくれてたんだけど、台湾に行ったきり、それっきり帰国していない!消息が分からなくなってしまっている。警察は事件性があるとして、すでに捜査を始めている。小学校のときからの幼馴染なんだ」
「オレにとっての水原みたいなものか」
「あいつ、本当に事件に巻き込まれたのかな。だとしても、何をしてでもオレのところには、連絡を寄こすだろうに」
「お前を巻き込みたくはないんじゃないのか?そう考えると、ちょっとだけトラブってるだけなのかもしれないよ。自分で懸命に処理しているだけかもしれない。そんな気がするな。心配するなよ、戸川。すぐに帰ってくるとは言わないけど、また連絡を取り合えるはずだよ。オレと水原だって、いつも、付き合いがあったわけじゃないんだ。そして、今だってそうだ。忘れた頃にやってくる」
「そうかな」
「ああ、そうだよ。弱気なお前を、初めて見たぞ。声だけどな」
「ほんとに大事には至らないのかな」
「大丈夫さ。立花フレイヤのこと」
「ああ」
「少しだけ調べてみたよ。結婚してるようには、全然見えなかった。夫や子供がいるようにも当然見えなかった。俺はずっと会見に集中てしてたのに、横でごちゃごちゃと独り言を言ってくるんだ。あいつ。どういう奴なんだ?会ったことは?だいぶん、変だぞ」
「匂いは?匂いはどうだった?あいつに狙われた男は、みな、あいつにコロッと寝返るんだそうだ。逃れられなくなるって話だ。一度、関係をもてば、最後。二度と自分からは離れることができなくなる。これまで付き合った男全員と、今だに切れてないって話だ。ハーレム化していくんだ。奴が関係を持った男同士が、争うこともないそうだよ。彼女はどの男とも共に生活していないようだから。確かに婚姻は結んでるよ。誰なのかはわからないが。そいつの子供なのかどうかもわからない・・・。奴は自分がハーレムを作っているっていう自覚すら、ないんだろうな。一度、出来た関係は途切れはしない。気をつけろ、鳳凰口。お前も狙われてるんだ。あっちから狙いを定めて近づいてくるんだ。で、どんな匂いが?」
 鳳凰口は、あの会見の時のことを思いだそうとしていた。
 だが直前で射殺された男のことが、鮮明に蘇ってきただけだった。騒然となった会見場の姿ばかりが、繰り返される。その女に意識を向けても、彼女の話かけてくる声にケイロ・スギサキのマイクを通した声が、綺麗にかぶさってきて、どっちの人間の言葉も、意味をなさずに不鮮明となり、空中分解を繰り替えしていただけだ。
「あいつ自体は、本当にそんなつもりはないんだろうな。単純に、その時、その瞬間に、惹きつけられる男に、自ら近づいて行ってるだけで。あとは、男が勝手に、言い寄ってくるのだろう。だから、お前には、力強い拒絶を示してほしいんだ。じゃないと、あの女のハーレム化は、止まらない。男たちは、みな、あいつに種をとられていく」
「男たちはさ」鳳凰口は言った。「彼女を独り占めしようとは思わないの?争いが起こるのは、必然のような気がするけど」
「お前がもし、あの女と関係をもったら?有紀ちゃんを捨てて、あの女に走るのか?」
「そんなことはわからないよ。試してみるか?しかし、オレはあの女には興味はない。お前こそだよ。誰か特定の女は、いないのか?お前こそが、フレイヤみたいなものじゃないか。一度関係ができた広告の仕事を依頼してきた相手。彼らはその後、縁が切れることはあるのかな?なあ、戸川。さっきの親友の話もそうだが、お前の近くでは異変が起き始めているんじゃないのか?お前の未来を暗示するような出来事が、何か起こり始めてるんじゃないのか?お前はそこに気づいたから、怯え始めているから、だから自分と切り離そうと必死になっている。
 俺に何かを擦り付けようとしてるんじゃないか?
 俺に連絡などしてきて、それで何になる?いったい何を感じてる?
 よく考えてみろよ。オレに話があったんじゃないな。オレにそのことを指摘されたかったんだよ。問題はフレイヤのことでもない。お前のその仕事への取り組み方だよ。その一度、縁ができたら、決して途切れることのない、クライアントとの増殖するネットワークの行き着く先」
「やめてくれ!お前に電話をかけたのが、間違いだった」
「違う!戸川。正しい選択だったんだよ!落ち着いて一人でよく考えてみるんだ。親友だって、お前に一人で考えさせたかったから、だから姿を眩ませたのかも、しれないんだぞ!お前が未来に起こる一つの結末を、事前に受け取めることができたのなら、その時はきっと、戻ってくるはずだ。きいてるのか、戸川!」
 鳳凰口何度も叫んだが、すでに回線は切れていたらしく、妻の有紀が、何ごとかと部屋に入ってきて、彼を静かに見つめていた。
「けれど、きいたよ、鳳凰口」
 携帯の電波は再び繫がっていた。
 戸川は急に話題を変え始めた。
「事業をものすごく拡大してるんだってな。グリフェニックス。そう。あの時のことを、オレもよく覚えてるぞ。あれが始まりなんだな。誰もグリフェニクスのことなど、忘れてしまったが、お前は違った。名前だけを聞いただけだが、ロゴはもう作ったのか?やっぱり、あの時の生物を絵に起こしているのか?そうか。グリフェニクスか。いい名前だな。グリフェニクスにその事業ごとの名前が、さらに加わるって聞いた。どんなのがある?」
「ウンディーネから聞いたんだな」
「そう。彼女から。あとは他からも」
「今はグリフェニクスの商品だけだ。しばらくはずっとそうだ。どこで聞いたのかは知らないが、オレはそんなに手広くなどやらない」
「いいから教えろ。グリフェニクス、何だよ?」
「じゃあ、一つ」
 鳳凰口はうんざりした声で言った。
「クリスタル・ジー・ガーデンだ」
「ジー・ガーデン」
「そう。エフの次の、G。クリスタル・グリフェニクス・ガーデン。そのGをとって。不動産だよ。詳しいことは、もちろん言えないが」
「クリスタル・G・ガーデン」戸川は繰り返した。「他は?あと、一個」
「しょうがない。じゃあ、その関連で、グリフェニクス・ザ・ラインエクストリームだ」
 戸川は鳳凰口の口調を真似るように繰り返した。
「それは?」
「似たようなものだ。土地に関する事業で、不動産ビジネスの中で特に重要な支点となる場所を徹底的に管理する、そういう部門。別の会社を作って、そこが担当することになる」
「いつのまに、そんな算段を付けたんだろうね」
 戸川は不思議そうに、天を仰ぎながら両手をこすった。「結婚してからだよな」
「堅気になったんだよ」
「怪しいな」
「それより忙しいだろうけど、ちゃんと自分の時間を持てよ、戸川。深く見つめる時間をな。その親友が戻ってくるまで何かあったら、オレのところにいつでも連絡してくれ。ウンディーネに直接言いにくいことは、こっちに流せよ。俺を使えよ、もっと」
「とにかくありがとう。でも今日はオレの話はもういいんだ」と戸川は言った。
「お前の話を膨らませた方が、オレも楽しくなる。なあっ?もっと、グリフェニクスのことを話してほしいんだ!他には何がある?おおまかでもオレは全貌が知りたい」
 鳳凰口は戸川の熱意に心を動かされた。
 あの白い影には、誰にも言うなと口止めされていたが、別に戸川なら構わないだろうと勝手に思った。
「グリフェニクス・ア・エネージョン。まだオレにもよくわらないけど」と言って、鳳凰口は笑った。
「1Gから、5Gまであるんだ。グリフェニクス ア エネージョン、1G、2G、3G、4G、5G。フリーエネルギーの、五つの異なる周波数の複合事業。五つの部門に分かれている。グリフェニクス・スーパーエスカレーション。エネルギーの変電所みたいなもので、台地に聳え立つシンボルのようなものでもある。それと、ついでだから、こんなのもまである。
 マスターオブザグリフェニクス。会員カードの会社。決済は、このカードですべて行われる。入会は必須なわけで、グリフェニクス関連のお金の流れは、ここに統一される。財務の中心地だ。
 まだしゃべらないと、駄目か?もう止まらないぞ、戸川。やぶれかぶれだな。グリフェニクス・ザ・エンブレム。プレミアム会員だ。入会には審査があり、当然、グリフェニクスの、優良な顧客であることが条件だ。それに加え、事業の情報交換、ときには、共にビジネスパートナーとなって、新しい展開を見せることもある。常に拡大、拡張を続けるのが、グリフェニクスの事業コンセプトだ。立ち止まらないことが必須の条件。ざっと、こんなところだ。オレが把握している範囲は」
「わかったよ、鳳凰口。もちろん、誰にもしゃべらないよ。ありがとう。色々と教えてくれて。はなし相手になってくれて」
 二人はその後も少し話しを続けた。


 嵌められたのだった。アキラは取り巻く絶望感を振り払う余力さえ残ってなかった。
 すべては見通されていたのだ。すべての行動は丸見えになっていたのだ。一枚上手だった。オレは二度嵌められたのだと思った。二重に監視されていたのだ。そしてアキラは思った。
 これはまだ、ほんの見えている一部であって、彼らもまた、監視されているのではないだろうか。より高く、より広い善悪を超えた意図にまた、支配されているのではないだろうか。
「降参だよ」とアキラは力なく呟いた。だがその瞬間だった。
 肩にのしかかっていた重みが一気に消えた。
「降参とはどういう意味だろうか」カジノの側の人間の声が鳴り響いた。「煮て食おうが、何をしようが、好きにしろってことだ」とアキラはいった。
「状況はすべてわかった。オレには生き延びる道はない。よくわかった。もがくのはもうヤメだ。好きにしろ。当初の目的のためにオレは犠牲になってやる」
「犠牲?何を今さら。気取っているんだ?」
「さっさと連れていけ。ゲームの趣旨も何も聞きたくはない。最初からオレは狙われていた。あらゆるヤツラに。順番に現れてきた。もう終わらせろ。じゃないといつになっても、このたらい回しには終わりがこない」
 終わりを覚悟して、その思いを口に出せば出すほど、アキラは身体が軽く爽快になっていくのを感じた。皮肉なものだった。
 死に向かえば向かうほど、心は今にも躍りだしそうになる。
 アキラはもう何も言うことはなかった。どんな痛みや苦しみが、襲ってこようとももう決めた。オレを取り巻く状況が、どんな構図となって成り立っているのか。もうどうでもよかった。あとは生きている奴らで、好きにやってもらったらいい。
 どんな結末になるのか。興味も何もなかった。それこそがゲームだった。そのくだらないゲームの中で、オレは血に染まったピエロの役目を果たすのだ。
 思ったことはすべて筒抜けのようだった。
「血に染まったピエロか。そうだな。言われなくても、そうするよ。ゲームというのは、必ず勝敗がつく。ついてまわる。そこに楽しみもある。がしかし、さらに我々はそこに楽しみを加えたくなった。一つの楽しみだけでは、もう何も満足しなくなってしまった。どんな勝負も、必ず負けが付いてまわる。長い目で見た時には、勝つことが圧倒的に多くとも、所々で必ず負けがついてまわる。その負けた時でさえ、このカジノではその場にいる人間すべてを、満足させたいと考え始めた。勝負を超えた快楽を、追求し始めたときから、このアイデアは発動し始めた。
 君の質問には答えないことにする。君が最初のターゲットなのかどうか。それは教えられない。では最後の『的』なのか。いつまでもこんな残忍な行動を取り続けるわけにはいかない。我々は健全なビジネスを、この先も続けていかなければならない。すべての失墜は『やりすぎ』から始まる。ルールだ。ルールこそが、我々の神となる。神の領域は、決して侵してはならない。快楽はどこまでも、増幅していってしまう。それは避けられない。しかし、その増幅に制限がかけられないとしたら、どうするのか。自己崩壊させない健全なルールを、自ら設計する以外に方法はない。
 ビジネスだ。それがビジネスと呼ばれるものなのだ。我々はただのギャンブラーじゃない。そしてこの状況は君が望んだものでもある。君の心の中が、次第に明らかになってきただろう。どうだ?さっき、君が苦し紛れに放った言動。もう少しだ。もう少し踏み込めば、本当の君の気持ちにぶち当たる。最後に本音を言いたまえ。言いたいだろう?叫ぶんだ。叫び狂うんだ。それが我々の快楽にも、結果的にはつながる。
 最後にずっと押し込めてきた言葉を叫びながら、その身体はバラバラに切り離される。一瞬でね。楽しいよ」
「バラバラだと?今、たしかに」
「あれっ?聞きたくないんじゃなかったのか?君は最後、バラバラに切り離され、そして巨大な爆発で、その物理的肉体を、木っ端微塵にされる。我々は言ったはずだ。カジノは欲望の究極が結集される『場』なのだと。そういう『場』を、我々は創造することで、この世での存在価値を表現している。誰が代わりにやってくれるだろうか。一体誰が、この我々の退屈な『生』を、惨たらしく解放してくれるのだろうか。この地上において。そんな空間は、残念ながら見い出すことはできない。ここには、人体実験がしたくてたまらない研究機関もまた、食い込んできている。我々のゲームに一枚噛んできている。思惑さえ一致すれば、この場所への扉は、誰にでも開かれている。そう。思惑さえ一致すれば。
 事前に同意したものしか、そもそもここへの扉は開かれていない。そろそろ気づいただろうか。君がこの中に居るという現実。君は我々といつの日か、どこかの場所で、合意したのだよ。合意に至ったのだよ。どんなルートで、ここに来ることになるのか。そんな細かい調整が、ゆっくりと、進行していっただけだ。そして今となっては、そんな辿ってきた経路など、誰にとっても、無意味な情報となっている。そんな記録など、あっさりと破棄される。人間には過去なんてものはない。今、この瞬間にしか、現実はない。君はこう反論することだろう。もう一秒も前の瞬間は、過去じゃないかとね。違うよ。この、君が入場してから〝最期〟を迎えるまでの時間。その塊が、その塊そのものが、一つの、そして唯一の〝瞬間〟ということになる。瞬間というのは、君が思っているよりも、だいぶん幅がある。そして味わい、通過した瞬間に、そんなものはそもそもなかったことになる。さてそろそろ始めようか。このゲームに関わるすべての人間が、すでに退くのを感じている。君も。君こそが、このときを待っていたのだから。ときがまさに、満ちる日を。満ちてきただろうか」
 アキラの視界はほとんどぼやけていた。
 自分がどこにいるのかもわからなくなっていた。
 すでに数えきれないほどの人間に囲まれているような気がしてきた。
 部屋に壁はなく、いやそもそも、外界とを隔てるこの建物の輪郭さえ、幻のようであった。すべての方角から今アキラは丸裸にされたまま、見つめられているような気がした。そんなにも注目に値する人間なのだろうか。
「君が望んでいたことだ。ここに関わるすべての魂が、それぞれの理由で望んだことだ。君の体のあらゆる部分を、賭けの対象に指定し、どちらが勝っても負けても、君の身体は裂かれることに繫がる。楽しみは消えないね。我々は人が木っ端微塵に爆破される瞬間ほど、興奮するものはないのだから。そう思えば、このゲームによる勝負こそが、ただの余興だ。さあ、本当に、おしゃべりは終わりだ。死にたかったんだろ?最期に、はっきりと、そう表明するんだ!本心を解放するんだ!思い残すことのない真実の叫びを、さあ、この場に刻みこむのだ!」


「それでは、どうぞ。お入りになってください」
 マンションの部屋の前で、アスカと美佐利は二十分以上待たされていた。
「ちょっと、これ、予約したんでしょ?」
 アスカは同じ階の人に出くわす気まずさに苛まれていた。予約が取れただけでも、すごいことなのよと、美佐利は全く気にしてなかった。
「ちょっと」アスカはここにきて、妙に足取りは重くなっていた。「ねえってば」
 ドアを開け、あっという間に靴を脱いで揃え、廊下をどんどんと先にいってしまう美佐利にアスカは訴えかけた。美佐利の姿は消えてなくなってしまった。廊下の存在する所だけが照明が灯ってなかった。壁はライトアップされ、小洒落たカフェに来たかのようだった。
「美佐利!」
 自分の声が反響して返ってきた。完全に取り残されてしまった。やっとのことで、アスカは靴を脱いだ。足取りは重い。美佐利に頼まれ、付き合って来たのはいいものの、表札すら出ていない普通のマンションの一室に来るとは思わなかった。ここで施術が行われているのだろうか。若くて張りのある男の声だった。確かに良からぬ病的な雰囲気は、感じとることができなかった。
 廊下は静寂を極めている。美佐利の足音はすでに聞こえなかった。すぐそこに部屋がある気配はまるで感じとれない。美佐利はここでようやく、マンションが通常の造りではないことを悟った。
「どうぞ。お待ちしておりました。お座りください」
 男の姿はまだ確認できない。
「美佐利は?」彼女の気配がどこにも感じられないのがおかしい。
「それぞれが別の施術室になっておりますので」
 どうやら、の部屋には、私しかいないらしかった。
 廊下を経由した先が、幾重にも枝分かれしているらしかった。
「他には?私たちの他には?誰かいるの?」
 今だ姿が見えない男は答えなかった。
「私、よく知らないでここに来てしまったんです。すみません。美佐利に付き合ってくれって言われて。それで。ここはいったいどういうことをする場所なんですか?あなたは誰なんですか?資格とか、ちゃんとお持ちなんでしょうね。正直、怖いんです。こういう所、初めてなもので。一人で居たくない。わがまま言って御免なさい」
「美佐利さん」男の声が復活した。壁から響き渡っていた。
 肝心の発声元がそれでもやはり分からなかった。
「彼女に対する施術は、すでに始まっております。あなたもさあ、服を脱いでください」
「えっ、服を?」
「きいておりませんでしたか?何も身につけない状態を、まずは確認しないと。大変デリケートなものでして。アクセサリー類も外してください」
 アスカは身動きが取れなくなってしまっていた。高鳴る鼓動を、どうにも隠すことができなかった。
「私、そんなつもりで来たんじゃ。本当に何も聞いてなくて。申し訳ありません。やはり、今日のところはやめておきます」
「美佐利さんはすでに、お脱ぎになっております。いつも通りに。さあ、あなたも大丈夫です。誰もあなたを肉眼で確認することはありません。モニター越しで。そうです。それも、映像ではありません。エネルギーを可視化したコンピューターの画像です。精密に調べないといけませんから。もう服を着てらしても、ずいぶんとあなたを取り巻く波動は、荒いです。ちゃんと整えてあげないと。本当によかった。あと何日か遅かったら、アウトでした。恐ろしくて想像もしたくありません。ずいぶんと遠出をなさっていたようで。わかりますよ。国外に行っています。旅行じゃない。仕事でしょうか。そうですか。しかし、この仕事があまり良い影響をもたらしていません。ずいぶんとあなたは、無茶をなさったようだ。美佐利さんとは比べものにならないくらいに。あなたは正直、汚れてしまっている。そう表現しても足りないくらいに。正直、汚らしい!本当ならこんなことは言いたくないけど。この部屋に来てもらいたくないくらいだ。しかし僕はまだ、お客を選べるほどに、この仕事を軌道に乗せてはいない。数週間前に始めたばかりなんです。一度だけセミナーを開いて、世間のみなさんに告知したんです。そこに美佐利さんもいらっしゃった。あの時、来てくださったみなさんが、基点となって、こうして様々な方が来てくれるようになった。殺到してるんです。あなたがもたもたとしている間に、今もドアの向こう側には、たくさんの予約をされた方たちが待ち続けているんです。台湾ですね。台湾に行ってきましたね。売春ですか?違いましたか?そのような感じがしますけど。身体を売るような仕事を、してきませんでしたか?けれども、それを生業にした専属の人間のようではなさそうです。女子大学生の方ですよね。アルバイトですね。春休みだけの。そんな短期の仕事なのに。この波動の荒さは尋常じゃない。本当に今日来てくれてよかった。美佐利さんに感謝することです。すぐに取り除く必要があります」
 アスカは躊躇する心を無視することができずにいた。どうしてこの男は私の最近の行動を把握しているのか。まさか美佐利が?美佐利からすべてを訊きだしたのか?あの子は私の事を誰にでもぺらぺらとしゃべるのだろうか。
「もう二度と、しないでください。約束してください。おそらく、あなたの雇用主は法に触れています。他の国でも良くない仕事をして、金銭を稼いでいます。あなたの口座に入ったお金も、また同様です」


 壁に張り付けにされていた。 
 両手を固定され、耳にはわずかに人のしゃべり声や、ルーレットがはじかれるような音が、聞こえてきた。時おり、笑い超えも聞こえてきた。感情的な大きな声がすることはなく、場は終始、静かな空気で満たされていた。だがこうして道楽者たちの慰みものになっていることを受け入れることは屈辱だった。確かにあの男の声が言ったとおりだった。認めたくはなかったが、俺はずっと死にたかったのだ。何をしているあいだも、常にこの人生が、劇的に終わることを欲していた。この状況にならなければ、認めることのできない自分もいた。悔しかった。もっと早くに、気づくべきだった。そうすれば、あの男たちの道楽の餌食に、なることはなかった。あの男たちは、この世界で生きていくことを、潜在的に否定している人間を探していたのだろう。その検索に、この俺が見事に引っかかってしまった。あの男たちの思い通りだった。俺にはもうどうすることもできなかった。何をもってしても、ここから解放されて、自由の身になることはもうない。勝負はもうだいぶん前についていた。右手首にびりっと電流が走る。瞬間的な痛みが発生する。と共に笑い声が聞こえる。左足の股関節の所にも、同じような痛みが走る。「マーキングだ」と声を張り上げる男がいた。
「お前の身体の、切り取られる場所だ。染みみたいだろう。色んな部位をかけているんだ。オセロだよ、オセロ。どちらがより多くの領土を、獲得できるかの」
 アキラは込み上げてくる憤りの捌け口がないことに、苛立った。声すら上げることができない。「あとで、解体ショーが始まる!これを楽しまずに、ギャンブルなどやってられない!たとえ勝負に負けても、この余興があれば。なぁっ。お前の体は一瞬でマーカーの入ったラインに沿って、分離される。その光景が実にたまらない!そして目に焼きついたその分離独立する光景は、その後あっけなく爆発によって消滅してしまう。その一瞬の喜びのために、俺たちは多額の財産を担保に、勝負に挑んでいる」
 どうして本心に気づかなかったのだろう。どうして自分は死を求め、死に近づいていることに気がつかなかったのだろう。こんな最期は許し難いことだった。どうして俺は、自分の最期の姿すら、一度も思い描いたことがなかったのだろう。
 自分に対する恥辱の想いに打ちのめされるようだった。
 解体され、一瞬で、爆破、消滅させられる自らの存在の惨めさに、同情するしかなかった。戸川のことを思い出した。戸川には何も伝えられてなかった。こうして人知れず、死んでいく自分を許してほしいと思った。
 アキラは突然、何としても生きたいと願うようになっていた。もうすべては遅いかもしれなかったが、最期の瞬間までは、あがきたい。この翼がボロボロになっても、ボロボロなままに立ち上がり、そして飛び立っていきたい。
 アキラは今、この瞬間における自分の最期の姿を想像した。その姿はボロボロに朽ち果ててしまった翼を大きく広げ、死の淵から高らかに飛び立ち始めた鳥そのものだった。
 アキラはこの鳥と同化していった。もう他に何も望みはなかった。ただそのことだけを、見えない視界いっぱいに拡げていくしかなかった。アキラはあらん限りの、まだ存在しているこの羽を開ききった。次第に風は羽に開いた穴の中へと吸い込まれ、隙間を埋め、陽の光は色あせてしまった羽の表面に輝きを加え、香りを加え、なめらかな質感を加えていった。煌く粒子が拡がる宙の中、羽の透明度は増していった。光の当たる角度で、煌く色合いは変化していった。
 バラバラになった肉体が今、宙ですべて分解され、目に見えない世界の一部となり、宇宙と同化し、拡がっていく様子がそこにはあった。


 すべてを見知らぬ誰かに晒してしまったアスカは〝終わり〟だと思った。闇の中とはいえ、あまりに無防備やしなかったか。今さら考えても仕方がなかった。全裸になったアスカは、男の指示通りに仰向けになったり、うつ伏せになったり、右肩を下に横になったり、細かい角度を何パターンも要求され、まるで3Dプリンタで模型をつくるかのごとく、数え切れない写真を撮られていた。絶対に施術以外で使用はしないことを約束した、誓約書を交わし、情報漏洩は絶対にしないことを、男は強調した。
 彼氏にだって、裸の写真は撮られたくはない。しかしその後、一時間にも渡る「施術」を受けた後の身体は、極度に不快が増していた。
 二時間以上に渡って、別室で横になったり起き上がったりして、調整をしていたが、そのすべての工程を経た後の、爽快感といったら、例えようがなかった。食事の消化は、すでに終わっていたため、嘔吐することはなく、ただエズいていただけだった。熱が体の芯から強く発生しているのがわかった。悪寒に襲われながらも、アスカはそれが治まるのを転げ回りながら耐えた。しかし耐えた甲斐はあった。その後、時間が経てば経つほどに、頭脳は明晰になっていたし、実際に視界の濃淡もまた、変化していた。まだ自分が感知していないところで、ものすごい勢いで、細胞の一つ一つが入れ替わっているような気がした。
 多大なリスクを負ってしまい、少なからずショックをうけていたアスカだったが、あの男の処置は、本物かもしれないと思うようになっていった。直後は美佐利を疑ってしまった。彼女があの男と組んで、私をハメたのだと思ってしまった。私と同じような被害を受けた、たくさんの女性の姿を想像してしまった。施術という名をかたった盗撮行為と、脅迫行為の温床地帯だと、思ってしまった。だが美佐利とは最も身近な知り合いだったし、彼女がそんなに分かりやすい犯罪行為を、私に働くとも思えなかった。じゃあ、彼女もまた、騙されているのだろうか。洗脳されているのだろうか。脅迫されているのだろうか。
 美佐利は翌日の講義を無断欠席した。彼女の携帯に電話をかけた。予想に反して、美佐利はすぐに出た。急に体調が悪くなったのだと、彼女は言い訳をしてきた。明日はちゃんと来るんでしょと、訊くと今日の午後から、すでに来るのだという。アスカは午前だけの講義だったが、美佐利を待つことにした。
「皆勤のあなたが、珍しい」
「確かに、皆勤はなくなったけど」美佐利は答えた。
「別に大学って、そういう賞はないでしょ。あっ、授業の内容なら、大丈夫よ。全部聞いていたから」
 何と、美佐利は講義はちゃんと受けていたのだと言う。
 アスカが気まぐれにメモっておいたノートから、質問をいくつか投げかけてみたが、美佐利は的確な解説まで加えて、問いに答えてきた。
「あなたにハメられたんだと思った」
 アスカはすぐに話題を変えた。
「何か胡散臭くて、はじめは宗教かと思った。でも服を脱げってことだったから。途中からは。詐欺じゃなくて恐喝だと思った」
「ちょっと。やめてよね。私を信用してなかったの?」
「まだ、半分は納得していない」
「納得した半分って、何よ?」
「身体の状態」
 アスカは即答した。
「でしょ?」
 美佐利はアスカの表情を覗きこむように、顔を傾けた。
「私も、まったくそう。半分しか信用できなかった。頭では拒絶しているんだけど、身体は嘘をつかない。そうなるのよ。全く一緒よ」
「あなたはどうやって、見つけたの?誰かからの、紹介?」
 美佐利もまた自分のように女の友達から紹介されたように感じられた。
 女の中で度重なる連鎖のネットワークが築かれている様子を、思い浮かべてしまう。
 私もまた、誰かにしゃべり、薦めてしまうのだろうか。
 美佐利の目は「それはあなた次第だ」と言っているようだった。「あなたの残りの半分が、あなたと一つに溶け合ったとき」
 美佐利は午後の講義に向かうと言って食堂から出ていった。アスカは今日ほど美佐利との距離を感じたことはないと思った。
 あの施術以来、美佐利との溝がどんどんと広がっているように、アスカには思えてならなかった。


「見士沼さん。そろそろです」
 マンションの一室で生活するようになってから、もう二ヶ月近くが経っていた。
「津永?」
 インターホン越しに、見士沼は声の主に問いかけた。
「違うのか?」
 いつも食料や衣類を届けてくれる津永学とは、確かに気配が違うようだった。
 親父から引き継いだ教団を、早々に手放した見士沼祭祀は、共に組織を離れた津永学と、今後の活動を共にしようとしていた。
 津永はすぐに見士沼祭祀をサポートするマネージメントの仕事をつくりだし、会社を設立しようと動いていた。仮の名をミシヌマ・エージェントとして、津永がそこの代表になった。
「津永から何か頼まれたのか?」
 見士沼祭祀は無言に耐え切れなかった。自らドアを開けようとしてしまう。呼鈴が鳴ったのも、気のせいだったのではないか。見士沼は居間へと戻った。
 すると再び、彼を呼ぶ音が聞こえてくる。見士沼は覗き穴から外の様子を窺った。今日はヒーリングの客は誰も来ないはずだった。本格的にヒーリングの場を開く予告のサンプル施術は昨日で終了した。
「おい、誰なんだよ!」
 見士沼祭祀は大きな声をだした。
「はっきりと伝達したらどうなんだ?オレにわかるように」
 突然、見士沼祭祀の脳裏に、香りを伴った映像が浮かび上がってきた。
 外壁を煌く特殊な加工の施された巨大な建物が、目の前に現れたみたいだった。桜の木の甘い匂いのような漂いがした。
「ここが君のあらたなる拠点だ」という乾いた声が聞こえてきた。
「こんなに大きな場所が?ここで、一体、なにを?」
 その時だった。ドアを勢いよく開ける男の姿があった。津永学だった。
「祭祀さん!おそくなってすみません。決まりました!」
 津永は靴もきちんと揃えずに、慌しく部屋に上がってきた。
「ここを出ていくんだろ?」
「どうして、それを」
「昨日で、予行の練習は終わったじゃん。ずいぶんと、大きなビルだ。ここの一角をテナントとして、借りたんだな。そうか。あの巨大な複合施設は、一体、どこにある?」
「知ってるんですね。僕が何を言いにきたのか。ご存知なんですね。さすがだ。見士沼高貴の、息子だ。そうです。あなたは単独になったほうが、力がメキメキと沸きあがってくる。余計な雑音が取れるから。もしまだそんな雑念が残っているとしたら、お任せください。私はそのために、あなたに雇われている」
「ちょっと夢を見ていたんだよ。君がくる、ほんの数分前に。そこにすでに、未来の俺の居場所が映りこんでいた。その建物は当然、日本なんだよね?」
「ええ、もちろん、そうです。東京のど真ん中です」
「それはないよ。無理無理。見たことあるの?東京ドーム何個分って大きさだよ。きっと中東の新興国くらいしか、場所も資金も用意できないよ。スケールが違う」
「何もかもご存知なんですね」
 津永学は本当に感心しきっていた。
「あなたの方が、よっぽどご存知のようだ」
「いいから、全部隠さずに言ってみろよ。俺は何も知らないし、何もわかっちゃいない」
 津永から説明を受けたことを要約するとこういうことだった。その建物はまだ建設途中で、工程は最終段階に突入したということだった。しかしその規模に比べて、賃貸料はそれほど割高ではないのだという。それでも入居希望者はほとんど集まらなかったというのだ。光熱費が異常に高く、このような施設に来る人間は、予想以上に少ないのではないかと、懸念する声が続出していたのだ。威圧感もあるし、施設内で回遊するのも、ひどく効率が悪かった。過疎化が進んだ地方や、店のバリエーションが少ない都市の郊外ならまだしも、物も人も豊富な中心地に、あえて建てる意味もないと、多くの人が思った。あらかじめ調査やシュミレーションを繰り返したはずなのに、なぜ強硬に工事に踏み切ったのか。ただ津永はここを値段で決めたわけではなかった。彼なりの力強い戦略があった。見士沼は津永の思惑とは別に、自らこの施設を調査することにした。この建物そもそものコンセプト。その奥に潜む存在の意義。どんな経緯で、誰の協力により、現実化に至ったのか。今後は、どんなテナントが入居し、どう発展していくのか。来客者はどんな人なのか。その数はどのくらいなのか。ここに関わる企業や組織は、どのくらいの利益をあげるのか。そのビジネスは成り立っていくのか。この建物の周囲はどう変わっていくのか。そしていつまで存続するのか。取り壊されるのはいつなのか。どんな方法で解体されるのか。見士沼の脳裏には、いきなり解体される建物の姿が映りこんできた。しかしそれは、都合がよかった。建物が無事に完成するということを意味していたからだ。
「オーケーだ。津永。大丈夫。うまくいくぞ」
「ほんとですか?」
「お前なりの勝算も、きっとあるのだろうし。今。俺なりの行き末も見た」
 その建造物の解体が始まるとき。そのとき、密集した周りの建築物は、すでになくなっていたのだ。そのくらい、あるいはこの街がこの文明都市が消滅した後になってからも、不動に立っているくらいに、長い寿命を宿していることを知ったのだった。


 ここが、今回の回収場所か、と男は思った。この建物の全貌を、とても、この足で把握することはできない。何日あれば、外周を廻りきることができるだろう。そして、縦にも巨大に聳えていくこの建物に、男は大木のような森そのもののような感じがして、圧倒された。どこから入るのか。連れ添ったベテランの男は、すでに知っているようで、まるで同じ窓のような場所が続いていく壁の一部に、身を寄せて、軽く拳を叩く仕草をした。二人は中へと入った。
 男は非常に戸惑った。
 扉が開き、自分の足で中に入る以外の方法を、これまでとったことがなかった。
 抜け落ちた一瞬の記憶に、心をとめる間もなく、今度は撮った写真を次々とパソコン上でクリックするかのごとく・・・、いつのまにか、エレベータの前にいたり、エスカレータにのっていたりと、自分の足で移動している感覚が欠落していった。
 場面から場面へと、高速に移り行く男が見る景色は、その後も止まることなく、目的の横たわった人間の目の前に着くまで、繰り返された。

「この男が、今度の」
「そうだ。この男だ」
「最期の、一人ですね」
「今年の、奉納の儀においては、な」
「僕の仕事もまた、これが最後になるのでしょうか。契約を延長してもらえませんかね」
「ばかっ。今、お前の個人的な話をしていて、どうする!早く仕事に取り掛かれ」
「すみません」
「謝ってる暇があった、さっさと手を動かせ」
「はい」
「手を動かしながらだったら、話してやる。よく聞けよ。お前はこれで、終わりだ」
「やっぱり」
「俺とは違う。俺らとは違う。延々と繰り返される終わりのない輪廻の中から、抜け出すことなど、不可能なんだ。本来、お前のような人間が、来られる場所ではない。特別に体験させてやるといったら、言いすぎだろうか」
「そんなふうに言わないでください。ここを追い出されてしまえば、僕に行き場などありません。居場所などどこにもない。留まらせてください。お願いします。何でもしますから。休みません。どこへでも駆けつけます。だから」
 男は必死で懇願し始めた。
「いいから手を動かすんだ」
 男は横たわる肉塊から衣服を取り外していった。
 缶に入った銀色の液体の中に、刷毛を突っ込み、それを肉塊の皮膚へとコーティングするように塗っていった。
「お前の居場所じゃない。長く居る世界でもない。お前は生きろ。なっ。まだ、その肉体は生の領域での活動を望んでいる。肉体の言うことを尊重しろ。お前は俺らの仲間になることもなければ、この肉塊になる可能性もない。いつまでも死臭漂うこの世界に、うろついていてはいけない。本当に抜け出せなくなる。延々と繰り返されるこの作業が、どれほど苛酷なものなのか。お前にはまだわかっていない。お前はあくまで、ゲストにしかすぎない」
「客ですか?」
「そうだ。お前が来ることはわかっていた。この世界にお前は招待されたんだ。期限付きでな。しかし、今のお前の不満な心もまたわからないでもない。まだ、決定的な瞬間を見ちゃいないから」
 銀に染まった肉塊を見つめながら、男は次の作業に入っていった。
 銀色の大きな布を広げ、その上に肉塊を移して、丁寧にくるんでいった。

 十数秒が経った。肉塊がくるまれた布ごと消えてなくなっている。倉庫へと移送されたのだ。
「ごくろうさん」
「いえ」
「あとは奉納の儀のときを、待つだけだ。無事執り行なわれることだろう。そこに参加せずには、お前のこの世界での体験も、決して終わるまい。何も言うな。見れば必ずさっきのような懇願をすることはなくなる。お前は自分の居場所へと帰る。道を外れたままに放置していては、決して駄目だ。よいな」
「道を外れているのでしょうか」男は訊いたが、ベテランの男は答えなかった。
 そんな質問はするべきではなかったのだ。
「道は外れるにも、理由はある。戻るべきときには、また、戻るための道筋ができる。自然に現れ出る。生の世界へ帰るんだ。さっきのような肉塊に、なってはいけない」
「あれは、誰だったのでしょうか」
「若い男だった」
「そうですね」
「死因は、何だったのでしょう」
「心不全だそうだ」
「そうなんですか」
「女とヤッてる最中にな」
「本当ですか?」
「嘘だよ。若い男の死因など訊くものじゃない」
 確かにそうかもしれないなと男は思った。
「死ぬべきときに死ねなかった人間は、つらい」
「そう思います」
「あの男の、そのときは、もっともっと、ずっと先だった。自ら縮めてしまったのだ」
「どうしてですか?」
「自分が縮めるループに入ってしまっていることに、気づかなかったからだ。自分が死に接近していっていることを、見て見ぬふりをしていた。だからだ。あの肉塊は進んでいる現実から目を背け続けた。背け続けた結果、これまで背け続けた現実が積み重なり、山となって、突然、目の前に押し寄せてくる現実を招いてしまった。そしてあの肉塊は、もう二度と、目を逸らすことのできない圧倒的な状況を引き寄せてしまった。それ以上、私は、何も言うことはない。何かを言う資格もない。そしてお前は〝その男〟を最後にカイラーサナータ寺院に葬った。カイラーサナータ寺院に捧げる、最後のピースを、お前自身が執り行なった」
 そして来たあの時と同様、二人の男は進んでいく現実の道筋を、大幅にカットしていくように、数々の〝間〟を消去していくように、建物の外へと出ていった。


 その男〟の記憶を、見士沼はなかなか消せずにいた。〝その男〟が最後の肉塊を回収したときに、話していた仕事仲間の男。その男は「あの仕事」からずっと抜け出すことができないのだと言った。お前はここで終わりだ!自分の世界へ帰れと繰り返した。
 見士沼はこの日までの自分がやって来た道を、辿っていこうとしたが、全然うまくはいかなかった。代わりにその隙間に入り込んできたのが、知らない男の記憶だった。抜けられない輪廻の中に捕まってしまった男は、遺体を回収する仕事を、闇の中で続けていた。
 どこに出口があるのだろうと見士沼は思った。いやそもそも、あの男たちは出口など必要としてなかった。自ら繰り返していた。見士沼は自分を見ているようだった。そして彼らの一年の仕事が、最後に結実するカイラーサナータ寺院での、奉納の儀のことを思った。
 男の記憶はその後蘇ることはなかった。続きが見たくもあった。奉納の儀を見なければ、彼らの繰り返される人生の意味もまた、わからないままだった。
 ふとカイラーサナータ寺院は、今この時にもどこかに存在するのではないかと思った。現実に。津永に電話をかけた。
「何ですか?カイラーサナータって」
「カイラーサナータ寺院だよ!何度も言わせるなよ」
「ちょっと待ってくださいね。ああ、あった、ありましたよ。今検索をかけてるんですけど、インドにありますね。エローラ石窟寺院という遺跡群の中に、確かにカイラーサナータって名前のつけられた場所があります」
「どんな遺跡なの?」
「一枚岩を彫ってそれで作った、自然の中の礼拝堂というか、そんな感じです。ヒンドゥー教なのかな。ジャイナ教なのかな。よくわからないですね」
「そこ、死体の埋葬場所、だっただろう?」
「ええと、ええ?死体ですか?いえ、わからないです。え、どういった用事なんですか?」
「カイラサナータって言葉が、妙に気になった」
「夢でも見ました?でも、うーん、死体のことはわかりませんね」
「遺跡じゃなくてさ、現実にそういった名前のついた場所って、ないかな?場所じゃなくてもいいけど」
「わからないです」
「悪いな」
「いえ、何なりと思いついたことは言ってください。とりあえず、何でも受けるのが、わたしの仕事ですから。あ、そうそう、ついでだから、言わせてもらいますけど。あなたはもっと遠慮せずに、言葉は悪いですけど、尊大に振舞ってくれていいんですよ。こう、変に周りを見て、気を使ってくれなくて、全然いいんです。前から思ってたことなんですけどね。そうされるのは、逆に迷惑なんです。あなたらしくない。あなたらしくないと、結局、周りは迷惑なんです。どうしてあなたは〝王〟として振舞ってくれないのでしょう。あなたが自分の役割っていうか、自分の衣装をちゃんと着てもらわないと、僕らとしても非常にやりずらいんです。ちょっとくらい無謀で、過剰で訳の分かんない要求を、無意味に吹っかけてくる方が、僕らとしてはありがたいし、やりがいだってある。是非、そうしてほしい。そうしてくれませんか?僕も僕の本来の力っていうんですか?能力を発揮したいですからね。羽を大きく広げてみたいんです。それに僕一人で、見士沼エージェントって名乗ってるのも、実に恥ずかしくて。スタッフも増やしたいし。たくさんの人たちをきちんと組織だてて、まとめてもみたい」
 見士沼はそんなつもりは全然なかったのだが、津永学は妙にハリキリ始めていた。
 カイラーサナータ寺院を自分で作れか。それかもしれないな。それが俺の使命なのかもしれないな。もしかしたら。この世界で、寺院を建てることができた時、あの男たちは初めてすくわれるのかもしれないと思った。
 繰り返されるあの仕事から、抜け出すことができるのかもしれないと思った。


 白い影が用意した「グリフェニクス本社ビル」へ、鳳凰口は引っ越しする。
 ビルの中に夫婦の新居もあった。友紀は突然の移動にも、文句一つ言わず、すでに自分色に染めていた部屋を、あっという間に片付けていた。
 友紀は引っ越す理由を、特に訊いてはこなかった。
 あの白い影こそが、グリフェニクスだと、鳳凰口は気づいていた。
 本社ビルは、異様なサイズだった。噂に聞くケイロ・スギサキのミュージアムをも、凌駕するのではないかという巨大さだった。間違えてケイロの方の建物に来てしまったのかと思った。だが不思議だったのは、有紀が全く驚かなかったことだった。彼女は何も訊いてこなかった。大きな反応を示すことも全くなかった。鳳凰口も彼女につられて、やはり無言になってしまった。ビルの正面から入ったが、まだ人は誰もいない。出迎えてくれる人間もいない。人の気配のない巨大なビルだったが、この空間に白い影が、完全に同化していることを知っていた。
 話かければ、すぐにでも答えてくれることだろう。隣りに友紀がいるので自粛はしたが、彼女の横顔からは知ってるんじゃないかと思った。逆に友紀の方がすべてわかってるんじゃないだろうか。友紀を見ていると、ずっと長い間、姿かたちを変えて、二人は生き続けてきたようにも感じられた。
 友紀との結婚以来、鳳凰口の内面は劇的に変わっていたし、このグリフェニクスが実際に白い影となって現れ出てきてもいた。
「なあ、友紀。わかっているのかもしれないけど、グリフェニクス。グリフェニクスと、交信するようになった。まだ完全じゃないけど。今もおそらく」
 彼女は何も答えなかった。
「俺らは二人で、一体何を成し遂げようとしているのだろう」
 鳳凰口は友紀に言ったのか、白い影に言ったのか、わからない口調で言葉にした。
 こんな曖昧な質問だったからか、どちらからも返答はなかった。
 まだ空間だけが、用意された状態だったが、ふとここには祭壇ができるのかもしれないなと思った。祭壇を通過して、中に入っていく構造になっていくのではないか。
 その先には会社への領域と、自宅への領域へと綺麗に分かれる。いずれにしてもこの広い空間における祭壇は、通過するためにある。
 ふと鳳凰口には、さらに枝分かれする内部空間が見えてくるようで、少し困惑し始めた。枝分かれといっても、仕切りがあって、向かう方向に別の空間があるという感じではなかった。不思議なことに道はすべて真っ直ぐなのだ。空間の方がチャンネルを切り替えるように事前に変化する。この祭壇は・・・。ここがチャンネルの役目を果すのだろうか・・・、そうだ。この祭壇は、グリフェニクスに祈りを捧げる場所というよりは、このビルの奥の複数の空間から、どこに焦点を当てた訪問なのかを伝え、受け取り、設定がされ、解除する仕組みになっているのだ。
 鳳凰口の自宅があり、会社があり、そして・・・。わからない。それだけのために、こんな巨大なビルを建てる理由もない。ここに、工場を併設したとしても、それでも、こんなものを作るいわれは無い。しかし、友紀は、これっぽっちも困惑してはいない。当然とばかりに、望んでいたものがやっと手に入ったくらいの、雰囲気だ。
 ずっと留守にしていた自宅にやっと帰ってきたような、そんな様子にさえ見えた。
 あっと、鳳凰口は声を上げそうになった。帰ってきたのか?オレらは。
 この建物は全然普通じゃない。本当に頭がおかしくなってきた。グリフェニクス。グリフェニクスは近くにいる。だからだ。ヒントはいたる周囲に集まり始めているのだ。一つの場所へと、集まりだしている。ここに、この空間に、そして、この自分に。
 場と人間は、今、一緒になろうとしている。有紀もまたここにいる。あとは白い影だ。
 あれと完全に一体となること以外に、この場の、この空間の、意味を知ることは、できそうになかった。


 「その瞬間」を、事前に察知したかのように、アキラは一瞬早く、肉体をするりと抜け、頭部のある場所から二メートルほど上空へと移っていった。そして、発は起こった。自分の身体を少し離れたところから見ていた。
 〝その瞬間〟、肉体は消えていた。音は聞こえてこなかった。激しい爆風もまた、なかった。わずかな肉片も、散乱することがなかった。そこに居たはずの一人の人間は、消えてなくなっていた。
 アキラは夢を見ているようだった。そこには初めから、誰もいなかったのではないかと思った。カジノの場では、すでにゲームは終わり、いくつもの丸テーブルを囲んで、ギャンブラーたちが、ステージで行われた「余興」を楽しんでいた。 
 しかし彼らは、ただ食事をしているようにしか見えず、ルーレットなども全く使われた形跡がなかった。本当に俺は、あの場に居たのだろうか。ここにギャンブルをしに来て、このギャンブル場のシステムを、完全に破壊させに来ていたのだろうか。どこまで遡れば、事実に戻れるのだろう。すでに姿形のない、この身の置き場に、困り果てた。
 この巨大な建物の別の広間のことが気になった。ホテルとカジノが一体となっただけでは、この巨大さの説明が全くつかない。今なら全貌を把握できるのではないかと思った。
 ヤツラが何者なのかもわかる。
 アキラは時間を遡ろうとすることをやめた。意識の領域を広げる方へと、シフトした。
 もう肉体はなくなったのだ。これ以上、執着していても仕方がない。アキラは隣の広間から、さらに隣の広間へと意識を拡張していった。別の階、別の棟など、施設全体を、自在に調査するかのごとく、回遊していった。
 隣に隣に移動していき、壁という壁をなきものとして、通過していき、ギャンブル場からはどんどんと離れていったにもかかわらず、一瞬でギャンブル場へと戻ってしまうことが頻発した。次第にこの施設はどこが中心地であるのか。調査すればするほど、わからなくなっていった。規模もまたそうだった。どこまでも拡がっているようで、その実は狭い範囲の中をぐるぐると回っているようでさえあった。それでも一つだけわかったことは、このカジノホテルは施設の機能の一つの側面にしかすぎないということだった。一つのフロアの一角が、そうであったというだけで、すぐにアキラには別の光景が見えてきた。というよりは、建物の中において、複数の別の利用者によって分けて使用されているわけではなかった。むしろ壁はほとんどなかった。砂漠のような広大なワンフロアが、どんと一つあるだけで、そのワンフロアに、同じサイズでいくつもの世界が重ね合わせられているかのようだった。
 アキラは見る角度、つまりは意識を微妙にズラすことで、違う世界が立ち上がってくることに驚いていた。だが重大なことを忘れていた。アキラはこれまで、慣れ親しんだ身体からの目で見ているわけではなかった。
 変なのは自分の方だった。建物の方ではなかった。この視界にアキラは次第に慣れていった。カジノの場はそれからなかなか、姿を現さなくなった。代わりに教会のような塔になったり、太いパイプが迷路のように、複雑に組まれた工業施設のような風景にもなったりした。それも長くは続かなかった。
 植物などが意図的におかれた優美な場所に、いくつものベッドやアンティークの家具、ソファーが置かれたプールのある施設が、現れたりもした。
 段差のついたピラミッドのような石造りの建物の前に、広場ができていたり、そこで、大勢の人が集まり、踊ってる姿にも豹変していた。
 どれも、一つには固定されず氷解し、すぐに流れ去った。
 どういうことなのか、全然わからなかった。いくつもの幻を、自分は見ているだけなのかもしれなかった。逆にここには何もないのではないか。何ひとつ今見えたものは、存在しなく、巨大施設もまた幻なのかもしれなかった。アキラという肉体をもった時にだけ、そのさまざまな世界の重なりは消え失せ、カジノの場が出現する。
 アキラが存在しなくなった今、カジノ場もまた、夢の中の世界へと回収されていた。
 アキラは自分が完全に死んだことを自覚していた。


 突然の大きな音がして、戸川はそこからの記憶を失ってしまった。光ながら、眼の前の空間に亀裂が走り、鋭い刃物で切り取られるような音だった。
 テレビCMの撮影中だった。そこで、意識は途切れたはずだった。しかし、現実は、それまでの光景が断絶され、別の意識の回路に繋がったまま、戸川が倒れてしまった自分の身体を、高い位置から見下ろしていたのだ。
 マネージャーが飛び出してきた。
 スタッフは救急車を呼びに電話をかけている。
 他の共演者も顔色を変えて、自分の周りに集まってくる。
 戸川はVТRを見ているような気になってきた。救急隊が到着する。全く動かなく、意識もない肉体を担架で運び出していく。身体はまったく反応を示さない。戸川は一部終始を見守るしかなかった。
 病院に搬送され、緊急の手術が始まった。外来の患者を押しのけ、複数の医師が手術に向けて、素早く準備を整える。
 いったい何で倒れてしまったのだろう。病名は何なのか。医療スタッフの様子から、戸川の生命はかなり危険な状態であることが、察せられた。
 手術はスタートする。だがすでに、戸川は異様な光景を目の当たりにしてしまった。
 手術は複数の医師によって、全く違う箇所が同時に開かれ、始められた。看護婦たちは、それぞれの医師の周りに集まり、本当に全く別の行為が、一人の人体において進行していっていた。そこまでマズイ状態なのか。頭部を開く医師。足の先端を開いている医師。仰向けになっているので、おそらく性器の部分だと思われるその箇所でも、また、・・・。そうして戸川の手術は、10時を超える長丁場を経て、無事終了する。
 無事なのか何なのかわからなかった。
 戸川は一足早く運ばれるであろう、個室のベッドルームへと先回りしようとした。
 手術室の外には両親の姿があった。知ってる男たちの顔も見えた。鳳凰口、水原、激原、見士沼祭祀。女たちも分刻みで増えていくようだった。ほんの二日前に抱いた、女の姿もある。名前は覚えていない。他にも長く付き合いのあった女。芸能人、一般人、幼馴染の女までもがいる。すでに廊下には人が溢れかえっている。みな、殺気立っているように見えた。病院の玄関の外でも、すでに報道関係の人間や、野次馬たちが犇めき合い、混乱状態になっている。戸川は自分がどの部屋に連れられていくのか、察しがついた。先に行って、まだ誰もいない病室で待っていることにした。一人の若い看護婦がやってきて、簡単な掃除をしてベッドメークをした。今、こんな状態でなければ、間違いなく口説いていた。これまで付き合ってきたどの女よりも、戸川を惹きつけた。彼女よりも、美人でスタイルのよい女性は沢山いるだろう。けれど、戸川は初めて自分の基準など取るに足らない、いい加減な物差しにすぎないことを自覚させられ、恥ずかしくなった。こんな自分では、あの女性を口説く資格は、ないのかもしれない。病室に戸川の身体が運ばれてきた。両親は泣きながら医師の手を握り、何度も頭を下げている。手術は成功したのだろうか。医師は一人だけだった。五十を過ぎたくらいの顎鬚を蓄えた貫禄のある医師だった。まるで彼一人が、すべてを担当したかのような雰囲気で、対応していた。両親の他には誰も入室が許されなかったようだ。廊下には友人や事務所の人間がいた。ロビーに意識を向けると、そこには女たちが見事に一同に介していた。共に話し合い、心配しあう健気な女もいれば、他の女性たちを睨みつけ、今にも殴りかかっていきそうな雰囲気の女もいた。最初は記憶から欠落していた女性もいたが、だんだんと関係のあった当時の状況が蘇ってくる。
 しかし具体的な記憶は戻ってこない。
 身体を失っているからだろうか。彼女たちと結んだであろう、身体の感覚が、全く取り戻せないままであった。けれども自分に関係のある女たちであることはわかる。次第に女たちは、それぞれの立場がわかってきたのだろう。初めはおとなくし神妙な顔つきだった女までも、穏やかさとはかけ離れた殺気を、飛ばしあうようになっていた。ここのロビーはすでに、カオスと化していた。そしてカオスは病院の外にも広がっていた。
 ただ、病室の中だけが、唯一、喧騒からは遮断された、遺体安置室のような静けさを体現していた。


 戸川の昏睡は続いた。手術が明けた後で、すぐに意識は取り戻すと思っていたのに。
 今だ戸川は自分を空中から、見下ろしたままだった。このまま肉体とは分離したままなのではないか。植物状態のままに、こうして誰にも働きかけられず、彷徨っているだけになったらどうしようかと思った。戸川は病室にいた母親に、話しかけてみた。棚の上にあったリンゴがどんな味なのか、気になっていた。声にならない声で、母親に質問した。すると母親は、おもむろにナイフを取り出し、リンゴを一つとって、切り始めた。そしておいしいと一言放った。少し酸味があるみたい。品質はそんなに高くはないわねと、独り言をはじめた。そうかと戸川は思った。この状態であっても、コミュニケーションはとることはできる。アキラのことがすぐに思いついた。すると母親は、急にテレビを付け始めた。ワイドショーが見たかったようだ。ところがここで驚くべきニュースが舞いこんでくる。アキラが見つかったのだ!
 台湾で失踪中の男性が、今日未明、台北市内のホテルで見つかったのだという。髪も髭も伸びきったアキラが、カメラに映し出されていた。アキラの様子を撮影しようと、何台ものカメラが、激しく入り乱れていた。アキラは俯いたまま、まるで容疑者のように、警察の人間に左右をガードされて現れた。警察の人間は報道陣を追い払うような仕草を繰り返した。アキラの身体を守ろうとしているかのようだった。
 まぎれもなくそれはアキラだった。アキラは台北市内のホテルに宿泊中、行方がわからなくなっていたが、そのホテルに彼はずっと監禁されていたらしかった。ホテルのオーナーとギャング組織が繫がっていて、彼らは日常的に、目をつけた旅行者を監禁する目的で、ホテルの一室を、利用していたということだった。
 なお、アキラが何故、彼らに狙われ、拘束されていたのかは、まだ分かっていないらしかった。捜査はアキラの体調が回復してからになりそうだった。ちなみにそのホテルにおいては今回、アキラ以外の被害者はいないということだった。アキラの衰弱は精神的な圧力が主な原因で、食べ物はしっかりと与えられていたのだという。衣類もまた、清潔なものが常に支給されていたようだった。
「生きてたよ!」
 戸川は飛び上がって、喜びを露にしようとしたが、すでに地面からはだいぶ離れていた。
 しかし戸川は逆に複雑な心境になっていった。このままではアキラが帰国してきたときに〝俺〟の方が、今度は居なくなってしまっている。何とかアキラが帰国の途につくまでに元に戻っておきたかった。
 とにかく、生きていたことは嬉しかった。
 死んだとは思ったことはなかったが、事情がわかってよかった。
 母親はあの幼馴染のアキラであることに、気がついただろうか。彼女はリンゴを齧りながら静かに画面に食い入っている。あのアキラだよ!と戸川は母親に伝えた。


「こんな光景、前にもなかったか?」
 鳳凰口は、他の三人の顔を見ることなしに、戸川に向かって口を開いた。
 戸川の両親の計らいで、最初に四人の男たちが、無言の戸川と面会した。
 両親が何の意図もなく選んだ四人であった。
「Kのことか」
「Kはどうしたんだ?あのあと」
 激原が水原に訊いた。
「誰も知らないのか」
「実際、Kという作家は実体がなかったそうじゃないか」
「そうなの?」
 鳳凰口と激原は二人で話し始めた。
「Kって、ケイロのKじゃないの?」
「それ、いいね!」
「絶対にそうだよ。あいつがKだよ」
「いいかげんにしろよ!」
 水原が沈黙を切り裂くように叫んだ。
「あいつは生き埋めになったんだよ。死んだんだよ。実際に居たんだ。ほとんどよく知らなかったけど。でもあいつの書いた本は、今でもあるし、今も土の中に埋まってしまっている。全部、俺のせいだ。蒸し返してくるなよ」
「そうか。ともあれ、こうしてあの時の五人が集まるのも久し振りだ。あれからずいぶんと経った。みんな、変わっちゃったな。戸川もこんなになってしまって。生き返るのかよ?」
 激原は言った。
「かなり難しいらしい。ここだけの話」
 鳳凰口は言った。
「まじなのか」
「声がでかい。お袋さんが、すぐそこに居る」
「誰から聞いたんだよ」
「立ち聞きだよ。医師たちの。両親は知らないはずだ」
「そうか。いやでも、信じたくないな」
 四人は無言で戸川を見下ろしていた。
 そんな四人の姿を戸川はその上から見ていた。
 顔を持ち上げ、ここだよと、言ってやりたかった。
「病院の外、すげぇ、人だったな」
「ああ。戸川兼は有名になったんだ。どうして、しかしこんなことに。脳出血か?」
「違うらしい。原因はまだ解明してないらしいね。医師同士でも、まだ判断がわかれている。正確な原因は究明されないかもな」
「なら。今後の容態だって、予測はできないだろ。どうして難しいなんて言う?」
「悪かったよ」
「戸川!おいっ」激原は呼びかけ続けた。
「こんな時でも、俺らの会話は聞いてると思うぜ。コイツ!おいっ、見士沼ちゃん。お前も何か言ったらどうだ?」
 そう振られた見士沼祭祀は、激原とは対照的に、小さな声で答えた。
「一度だけ、二言三言話しただけです、彼とは」
 ああ、そうだったなと、激原は言った。
「ああ、そうだ。一度、僕が、彼を預かってもいいですかね?」
「どういう意味だ?お前が?」
「僕なら、何か、お役に立てるかもしれないと思って」
「何を、言ってるんだ?こいつは」
「いや、聞いてみよう」鳳凰口が激原を遮った。
「僕ならもしかしたら、戸川君を回復させられるかもしれない。でもしばらく様子を見てからの方がいい。とりあえずの医療行為を全部試してみてからのほうが。それで何の効果もなかった場合に、つまりはみんながお手上げ状態になってから、僕があらためて登場した方がいい」
「こいつ、本当に何を言ってるんだ?」
「いいから、お前は黙ってろ」
「指図すんのか?」
「じゃあ、僕はそういうことで。今はお邪魔のようです」
 見士沼祭祀は軽くお辞儀をし、みんなの前から立ち去ろうとした。
「待てよ!言いっぱなしかよ!」
 帰ろうとした見士沼に向かって、激原は言った。
 彼からは只ならぬ雰囲気が出ていたのか。みな、鋭い視線を送っていた。
「いや、今は、本当に失礼します。余計なお世話でした」
「全部、お前のペースで、事が進むと思ったら、大違いだぞ!」
 激原は罵声を浴びせ続けた。
 今度は鳳凰口が口を挟むことはなかった。
「お前に何ができるんだ?言ってみろ!今、やらなくても、いずれ、やることを言え!言うんだ!お前にはわかっている。その時が来ることが。そこで自分が何をするのかも。俺の目は誤魔化せないぞ。見士沼!」
 鳳凰口は一瞬ちらりと水原の顔を見た。
 水原もまた激原と同じ気持ちのようだと、鳳凰口は悟った。
「僕は正直言って、自分にこんな力があるなんて、思っても見なかった」
 見士沼祭祀はぼそりと言った。「親父の教団をそっくりともらって、形だけを引き継いで、それで教義だけを継承していく、ただそれだけの人生を、送ると思っていたのに。けれど僕は、本当の自分にあるとき気づいてしまった・・・。だからあっけなく、引き継いだ教団を捨てるように離れていった。こんなことが誰かに知られたら。特に身内や、同じ組織の人間に、見つかってしまったらと、それだけを恐れて一人、静かに別の理由をつけて立ち去った。本当は一人じゃない。気づいた男が一人いた。彼は今、一緒に行動を共にしていて、彼は僕の身の回りのことをしてくれている。事務作業も担当していて。とりあえず、信頼のできる男です。彼とは長い付き合いになるでしょう。今はひっそりと、僕は仕事をしている」
 そこで言葉は途切れてしまった。見士沼はその後を続けることはなかった。
「はっきりと言え!何をやってるんだ!何ができるんだ?戸川を生き返らせられるだって?医師でもない、医療関係の人間でもない、お前がか?いったい何者なんだ?」
「もう、みんな、わかってるんじゃないのか?」
 鳳凰口が見かねて間に入ってきた。
「見士沼を追い込むようなことはやめろ。彼だって本当は言いたいんだ。でも状況を把握している。激原!お前とは違うんだ!状況が変化するそのときを、彼は繊細に見極めているんだ」
「ちっ」激原はあからさまに舌打ちをして、足を揺さぶり続けていた。
「今度、活動の拠点を移すことになりまして」と見士沼祭祀は言った。
「仕事は新しい施設に行くまで、することはありません。パートナーのその男が、いろいろと動いてくれています。守られていない状況の中、不用意に事に及ぶことの危険を、僕は知ってるつもりです。戸川さんの周囲の体制もまた、全然整ってはいない。今は静かに時の流れを見守るだけです。僕らもまたそうです。あなたたちも。できるだけ、他のことを考えましょう。考えながらも直接関わらないように。時が満ちるまで。それぞれがやるべきことがあるはずですから。僕の言いたいことはみんな、わかってるはずですから。激原さんだって、誰よりも理解できてるはずですから」
 戸川を囲んだ四人の男がいる病室に、戸川の母親がこのタイミングで担当医と共に現れた。
 四人は一瞬、彼らの登場に体をびくつかせたが、すぐに何の意図もない雑談を、四人は始めた。


 病室にいる人たちはいつのまにか入れ替わっていた。今度は複数の女性たちに戸川の身体は囲まれていた。母親がどうしてこの女性たちを入室させたのかわからなかった。
 女たちもまた戸惑いを隠せないといった感じだった。俯いたり、お互いの顔を見合わせたり、自己紹介したらいいのか、何をしゃべったらいいのか、皆、母親の顔をちらちらと見ていた。しかし母親はそんな場の雰囲気を全く察する気配はなく、一人、窓から外を見ていた。戸川が見るに、母親は思ったよりも心配している気配がなかった。息子が植物人間と化しているのに、そんな切迫感がまったく感じられなかった。戸川は室内にいる五人の女を見た。どの女も若くて才気があり、それぞれに違った魅力があった。しばらく連絡をとっていなかった女もいた。食事をしたきり一度も抱いたことのない女もいた。
 佐々木ウンディーネがいないなと、ふと戸川はそんなことを思った。病室の外にも、彼女の気配は感じとれなかった。見舞いに駆けつけてはいないのだろうか。彼女に意識を向けた。だがどこにもいない。事務所にもいない。自宅だろうか。仕事で出張しているのだろうか。海外?仕事で?旅行?私用なのか?この場にいない彼女のことが、やたらと気になってしまう。
 佐々木ウンディーネのことを、これほど集中的に考えたことなどこれまで一度もなかった。大丈夫なのだろうか。アキラと同様、トラブルにでも巻き込まれてはいないだろうか。何かあったんじゃないのか。だが海外のどこにも彼女がいるような雰囲気が感じられない。自分のところのタレントがこんな事態になっているのだ。急いでここを目指しているエネルギーが感じられないのは、完全におかしい。
 ウンディーネだけうまく感知することができない。求めれば求めるほど、感じずらくなっていってしまう。戸川は今、ここにウンディーネが居てくれたらと思うこの自分の気持ちに、戸惑さえ感じていた。これまでいかにウンディーネが居てくれたことで、安心して仕事に取り組めたことだろう。他の女に自由に手を出し続けることができた。すべてが円滑に回っていたのは、彼女が居たからだ。感謝の気持ちが湧いてきた。彼女を失った世界にも、これほど戸惑うとは思わなかった。ウンディーネ!っと何度も、叫んでみる。眼下にいる女たちは相変わらず無言だった。
 戸川はそこにいる五人のすべての女に、欲情していた。今すぐにでも降りていき、それぞれとデートの約束を取り付けたかった。戸川は昨日までの生活に早く戻りたかった。オファーの殺到する広告の仕事を続け、その間に友達と遊び、女性たちと親密な時間を過ごしたかった。戸川はあいかわらわず、同じことを思う自分に呆れた。しかしこれまで自分が思う理想に近い生活をしてきていた。こうなってしまった今、それが如実にわかった。そして何より、そのすべてを支えていた人物の存在感を、こうして見せ付けられていた。
 あなたがどれだけ大切な存在だったか、わかったのだと呟いた。だから帰ってきてほしい。何故か母親に向かってそう言った。母親に自分の恋人を紹介しているようでさえあった。それでも戸川は、眼下の女性たちへの欲情が消えないことを知る。それどころか増すばかりであった。ウンディーネへの想いが増せば増すほど、それぞれの女性の個性が際立って見えてくる。そのエネルギーが戸川の胸を締め付ける。戸川の本能を刺激してきた。
 女たちは戸川の肉体をほとんど見ることはなかった。終始、同じ場にいる別の女ばかりを意識していた。これが現実だった。
 戸川は自分の存在意義を、今ほど感じることはなかった。これまで自分の理想に近い生き方をしてきた高揚感が、一気に消え去り、また別の感情が湧いてきた。
 落胆ではなかった。失望でもなかった。何の感慨も湧いてこなかったのかもしれない。これまで感じたことのない心境だった。戸川に惹きつけられてくる、数多くの魅力的な女性たち。戸川の存在に惹きつけられてくる、数多くの優良企業。創造的な組織の数々。彼らは皆、戸川を介して、別のものを見ていたのだ。戸川を通して、別の存在との距離を、巧みに測っていたのだ。経由地としての自分の存在が、ここに綺麗に浮き上がってきていた。
 戸川はこれまで以上に、生還を果した後では働こうと思った。たくさんの違う魅力のある美しい女性と、自分の中身、自分のすべてを交換し続けようと思った。
 そして佐々木ウンディーネに交際を申し込もうと思った。


 戸川の見舞いから帰るとき、一本の電話が激原の元に入った。フレイヤからだった。
 彼女は激原に「生んでもいいか」と訊いてきた。反射的に「何を?」と返しそうになったが、激原はある種の衝撃を受けており、何の反応も返せなかった。
「いい?」とフレイヤは続けて言った。「ハイかイイエかしか、ないでしょ?」
 そうなのだ。自分で決めなければならないのだ。しかし自分が子供を持つことの意味。子供を育てていくためのビジョン。そうだ。家庭を持つことになるのか。フレイヤとは、けっこん・・・えっ・・・。彼女は、すでに、夫がいるじゃないか!とんでもない事態になってしまった。どうして、こうなることが分かっていながら、あんな行為に走ってしまったのだろう。悔やみきれなかった。あの時が、どうかしていたのか。今の自分が、どうかしているのか。
「いいよ」と激原は答えた。「いいにきまってるじゃないか!」
「ありがとう」
「そっちは、それで、大丈夫なの?君の家族のこと。オレはどんな立ち振る舞いをすれば、君にとって一番いい結果になる?」
「結果?結果っていつの話?結果なんて訊いてないわ。私が子供を産むことを、あなたは、望んでいるのか、それとも望んでいないかの話じゃない。旦那とか、家庭とか、そういう話はしてないわ」
「してないって。でも」
「いいのね?ほんとにそう望んでるのね?あなた自身が」
「正直、こわいよ。自身の遺伝子が入った、別の人間が、この世に誕生することに、これ以上、自分に関わりのある命は誕生させたくはないって、そういう気持ちはある」
「これ以上って他にもいるの?子供!」
「いないよ。いるのは君の方だろ!」
「話を摩り替えないで」
「ほんとに、どうするんだよ。まだ、他にもいるのか?他の男の子供が、まだ居るんだろ!?」
「まだ、って。何よ。何にも、知らないくせに」
「ああ、知らないね」
「知らないくせに、こんな大胆なことをしたわけ?」
 激原は返す言葉もなかった。
「本当に悪かった。止めようがなかったんだ」
「いいわよ、もう。生んだ後のことは気にしないで」
「そういうわけには」
「あなたの出る幕はないわ!」
「君と君の旦那の子として、育てるのか?家庭は壊したくないんだな。どうしてだんな以外の男と、こうやって無防備な行為をする?どういう精神構造をしてる?そうか、旦那なんて本当はいないんだな。子供だってそうなんだろ?見たこともないし、居る気配を感じたこともない。全部嘘なんじゃないのか?自分の仕事のために、自分のイメージをでっち上げてるだけじゃないのか?それなら、俺と結婚ができるじゃないか!子供だって、堂々と、二人の子として・・・。
 なあ、そうだよな。二人で育てていけるじゃないか。何の問題も、ないじゃないか。
 家庭的な面を、これからどんどんと開花させていって、それで新しい自分のイメージを作り変えていって、それで生きていけば、今よりももっと、幅のある仕事だって、出来るじゃないか!なあ、結婚しよう!フレイヤ!俺はその覚悟がある!」
 フレイヤからの返答はなかった。
 電波の具合から、彼女の居る場所を推測するのは、無理だった。
 彼女の声はずいぶんと遠くなっていた。
「私はそこまでの要求は、してないの。あなたは一人で、境界線を遥かに越えてしまっている。何もわかっていないのに。よくそんな事が言えるわね。私の気持ちを考えたことはある?私を気遣った言葉が、この電話の最中に、生まれたかしら?もう、いい。わかった。十分にわかったわ。あなたのこと。心配しないで。子供なんて出来ていないのよ。かまをかけたのよ。引っかかったわね。気をつけなさい。こういう女なのよ。それでも、まだ、付き合う?抱く気はある?私、めったな事では、妊娠しないと思うの。都合のいい女でしょ?いいの。あなたの好きなようにして。いいの。思い通りのことをしていいのよ」
 ほとんど聞き取ることが不可能な通信になった。
 激原は携帯を道路に投げ捨てたい衝動にかられたが、どこか、フレイヤの声には哀しい響きが感じられ、それが自分の方にも伝わってきていた。


 初の個展への招待状を出したその返礼として、ケイロ・スギサキは招待客の一人から、カイラーサナータ寺院への逆招待を受けた。
 カイラーサナータ寺院はまだ、一般公開前の状態で、ケイロ・スギサキ展と同じだった。
 自身の個展の招待状が、どこの誰に発送されたのかは、ケイロには知らされてなかった。
 美術館の運営を一手に引き受ける〝マリキ家〟が、発送先を厳選していた。マリキ家の代表ではなく、幹部の一人と話し合い、個展の日時は決定した。その前に一度カイラーサナータに顔を出してほしいといわれた。とりあえず今回の分の作品はすべて、揃えていたので、気分転換も兼ねて訪問することにした。
「寺院なんですね。どうしてまた。新しい寺院なんだ?興味深いな。どんな外観なんだろう」
「長らく新築の寺なんて、お目見えしてないからな。この現代においては。寺は古いものって観念も根づいてるし。ずいぶんとそういうイメージは、覆すと思う」
「僕の美術館と、ほぼ同時期みたいですけど。その、何か、関係があるんですかね」
「ああ、そうだな。関係はあるよ」
 マリキ家の幹部は率直に答えた。
「まさか、それも、マリキさんのところの、建築じゃないでしょうね?」
「だと、よかったんだがな」
「違うんですか?」
「ああ、そうだ。違うね」
「場所は、どちらに?ミュージアムと、近いんですか?」
「どうだろう。それほど近くはないはずだが、何せ、お互い巨大さにかけては、競ってるだろ?大きな目で見れば近いんだろうな」
「完成まで、完全にシークレットにしているそうで」
「そのとおりだ」
「両方?」
「みんな、そう」
「みんなって、他にも?」
「たくさん、あるよ」
「そうなんですか?そんな土地、ありましたっけ?ここらに」
「心配なのか?」
「普通に疑問が湧いただけですよ」
「自分のミュージアムも、本当に建つのだろうかと」
「そこは、信用しています」
 ケイロは答えた。
「へえぇ、そうなんだ」
 ケイロは幹部の服をチェックしていた。生地のきめ細かさ、滑らかさ、光沢間、作業に携わった工程と、作業に関わった人たちの心の状態、どれをとっても申し分のない品質だった。
「土地の心配など、最も必要のないことだよ。我々にとっては、いくらでも融通はきく」
「力で、立ち退かせるんですか?」
「古いよ、君。今、どこういう時代に入ってると思ってるんだ?この世界の粒子という粒子、原子、電子。非情に細かい所に、創造者たちの意識、神経はむいている。君の考えは大雑把すぎる。古い時代なら、それでよかったかもしれないが。君も、少し、考えを変えていった方がいい。
 そうそう。君の作品の数々を、見たよ。どれも、たいしたものだった。制作経験のない君に、どうしてあんなものが、次々と造れるのか。古い時代の人間から見たら、まさに、奇跡としか見えない。ところが我々から見れば、そんなことはごく自然で、当然のことだ。これくらいのことは、難なくやることはわかっていた。わかっていたからこそ、君を選んだんだ。できると思っていないことを、実行するわけもないだろ?まだ始まりにしかすぎないが。まあ、予行練習だといったら、君には少し失礼かな。けれど、現実はそれに近い。あんなもので満足しては駄目だし、満足する君でもない。そうだろ?あの作品たちを生み出したことで、超大な不満もまた、同時に生まれてしまっているんじゃないのか?わかってるよ。その超大な不満こそが、今後、君が活動していくときの、原動力となる。だから、それに価する、サイズの建物を、先に作っておく必要があった。約束しておく必要があった。契約しておく必要があった。アーティストというのはね、ないところに何かを必死で、もがきながら、生み出してつくりあげるものでは、まったくないんだよ!多くの人が勘違いをしている。そうだろ?ない所に生み出して積上げていくなんて、そんなことは、まったくもって、不可能だ。ピラミッドだってそう。ないところに積上げて、なんていうものは、いずれはすぐに崩壊してなくなっている。崩れた姿を晒すのが、精一杯だ。見る人を、受け取る人を圧倒させるような、どうだ!見たか!と自分を主張し、誇示し、強調し、肥大させ、存在の意義を無理やり、説得させようとする愚かな行為だ。創造行為を道具にしてしまっている。だが本当のところはそうではない。君は全部わかっている。君ほどわかっている人材は他にいなかった。ないところに作るのではない。すでにあるものを、なくすための作業。それが創作であるということを」
「あるものを、なくす・・・。何と、逆説的な」
「逆説じゃないよ。ありすぎるものを、別の形に、安全な安定的なものに変えて、事なきを得る。もし変換しないと、この世界におけるエネルギーバランスは狂ってしまう。充満しすぎたエネルギーは、別の何らかの目的をもった、陰謀をもったヤツラに、嗅ぎつかれ、転用される。悪用とはいわない。良いとか悪いとかではない。超大で、危険な状態であるものを、安定的で、二度と転用することが、できない状態へと変換して、固定させる。そしてその固定を永久に継続させていく装置のようなものが、君の場合はミュージアムというわけだ。ケイロ・スギサキ・マリキ・ミュージアムだ」
「質問を一つ、よろしいでしょうか」
「もちろん」
「本当に最終的に、そのミュージアムで、それらは固定されるのでしょうか。そこが最終的な墓場になるのでしょうか。信用していいのでしょうか?悪用、いえ、転用される可能性はないのでしょうか」
「我々に訊くのか?君が作るものたちだよ。君の方がわかってるんじゃないのか?」
「ですが・・・」
「我々はあくまでハコをつくることしかできない。ハコというのは、つまりは、枠だ。囲いだ。原子炉の壁のようなものだ。封じこめるための」
「今の時点ではわかりません。僕には。しかしもう時は満ちているし、事は始まってもいる。扉は開かれ、道はずっと前方まで続いている。やはりあなた方に質問する必要はなかった」
「そのとおりだ!」
 マリキ家の幹部の言葉は力強かった。
「カイラーサナータ寺院への招待状。たしかに渡したぞ。新しい体験だ。楽しんでくるんだ」

 昨日、そのようにマリキ家の幹部と話をした後で自宅に帰り、シャワーを浴びた後、ベッドに入ってすぐに寝てしまった。そう記憶している。その後だ。朝、目を醒まして食事をとり、軽く体操をして、自作の構想をメモして、それからカイラーサナータに向かう予定だった。しかし夜から朝にかけて、自分がどうしていたのか、意識がいまいちなかった。いつも同じことを習慣にしていたので、後で思い出せないことなど、よくあることだったが、しかしカイラーサナータにどうやって着いたのか。もう今はそれだと思われる建物の前に立っていた。ケイロは自分の顔を触り、上半身を揺すり、これが現実であることを確かめた。額はほんの少しだけ汗ばんでもいた。湿気がかなりあった。時おり熱気のような空気に身体が取り囲まれた。少し体を動かしただけで、汗が吹き出てきそうだ。
 そんな異様な熱気のせいか、少し霧が懸かっているような視界になっている。
 全体的に色合いが薄いように感じる。ここが寺院で、間違いないのだろうか。
 マリキ家の幹部が言っていたような、近代建築の匂いはまったくしない。熱帯雨林の中にひっそりと佇み続けた、遺跡の中に、迷い込んでしまったようだ。人の気配もない。蠢く虫か小さな動物がたくさんいるような気がする。それらがみな、一斉にふだん目にしない異物としての自分を、吟味しているかのような。緊張が走った。すると次第に霧は消えていった。湿気もなくなっていった。何かここに住むものたちの、許可が出たかのようであった。この薄暗い不気味な雰囲気は、あいかわらず続いた。その気持ちが通じたのか。わずかに闇の濃淡が変化する。そう思う間もなく寺院内は一気に光に照らされた。
 光源がどこなのかわからない。壁という壁が黄金色に染まっている。壁には絵が描かれ、彫刻が彩られている。二次元と三次元が巧みに、激しく交錯していく世界が拡がっていった。見ているとその世界に引き込まれていく。身体ごと引きずりこまれるような感覚がある。しかし同時に、肉体の方は寺院内に固定されるかのように、自身の重みは増していく。記号や文字なども壁に現れ、それらはリアルタイムで浮き出てきているようだ。点滅するように、すぐに別の記号に変化した。その目まぐるしさは、視覚にとっては全然煩わしくなかった。固定された二次元の絵、三次元の彫刻。流動的に現れては消えて、変奏していく記号や、文字の数々。照らされている黄色の光。緑がかっている。わずかだが、グラデーションがかかっている。確かに古代の遺跡のようではあった。しかし半分以上は、現代のテクノロジーを駆使した、演出効果が投入されているように感じられる。
 ほんのわずかだけ、体を傾ける。
 すると、寺院の内部が一瞬で、拡張したかのように感じた。はじめ部屋のような場所にいると思っていたが、一瞬で大聖堂のような天井の高い、奥行きもある、広大な空間へと変わっていた。寺院そのものが、生き物のように、瞬間瞬間、姿形を変えている。壁の絵は消えている。寺院と外界との境界線である壁が、柔らかい素材に変わったようであった。
 そう思うと、すぐに変形が始まった。ぐにゃっと内側に潰れるように傾いた後、今度は外へと広がり、妙な折り目がついたかのように、左右の壁が突然鳥の羽のような造形に変わっていた。
 大聖堂は巨大な鳥の胴体になっていた。
 今いる地面がふわりと軽くなり、地面からほんのわずか、浮くように感じられた。そして実際、ケイロは十センチほど浮いていた。
 翼の造形は消えた。
 大聖堂が再び姿を取り戻した。孤高で硬く、安定感のある大聖堂が現れた。翼が消えると同時に、今度は大地の帝王であることを、強く訴えてきた。
 そしてケイロは奇妙な感覚が、身体の奥深くに残っていることに気づいた。宙に浮き始めている自分と、これまでよりさらに強固に、大地に降り立っている自分との、二重性が、共に強くなっていたのだ。この寺院はいったい何なのか。マリキ家の男が言っていた、昔の古い寺院とは、確かに何かが違うようだ。姿かたちは、似せては作っている。だが、そこに埋め込んだ機能が、まるで違う。まだほんの入り口に過ぎなかったが、明らかにここでは、中にいる人間の意識と身体に、直接働きかけてくる。
 いつのまにか聖堂内は暗くなっていた。
 祭壇の小さな範囲に光は、集中的に照らされていた。
 不思議なエンターテイメントを見ているような、レジャーランドのアトラクションに乗っているような、何とも例えようのない体感だった。信じられなかった。
 どうして、自分は、椅子になど座っているのだろう。綺麗に並べられた数百を超える座席が広がり、そこにはびっしりと人が座っている。人と人とが犇めき合う。それでも誰もしゃべってはいない。静寂さが神聖な気持ちを、ケイロにもたらし始めた。
 牧師の説教でも始まるのだろうか。やっと寺院らしい、教会らしい、祈りの時間が始まるのだろうか。ケイロは隣りに座っている幼い女の子の肩に、わざと自分の肩をぶつけてみた。幻でないことを確かめたかったのだ。聴力を失ったかのように、音は何も聞こえてはこなかった。風景も固定されている。時間の経過を認識できるものを、ケイロは探していた。
 だが身構えた。時間的に場が変転することを予期していたのかもしれない。何から何まで、ここでの場の進み方、展開の仕方は違っていた。流れるプロセスが、全く排除されている。いきなりとか、唐突に、といった変化を見せつけられていた。
 ケイロはここでの経験が、今後の自分の創作の根幹に、強く影響することを察知し、吸収できるものは全て、吸収してやろうと、手のひらを表に向け、両手を横に、最大級に広げている自分を想像した。


 王家の三女に生まれたナーランダは、教養たっぷりに育て上げられ、博学な母の血も受け継いでいたことから、すでにどんな勉強からも、刺激を受けることはなくなっていた。
 家庭教師たちを馬鹿にし、わざと無理難題をふっかけるようなこともした。
 ナーランダは十五歳にして、すでに老境の人間が達するであろう領域の、退屈さに、身を持て余すようになってしまった。政治に女が携わることのない時代だった。結婚して、子供を産み、夫の世話と性的行為の相手を、するしかなかった。未来を思い、ナーランダは辟易していた。画家たちが王宮にはたくさん出入りしていた。ナーランダもまた肖像画のモデルになっていたので、彼らと接することがよくあった。ナーランダは若くてハンサムな男が来たとき、初めての性体験の相手をこの男にしようと心に決めた。秘密裡にヌードを描いてくれと迫り、男は当然ナーランダの魅力に逆らうことなどできなかった。
 ナーランダはこの男が王宮に滞在する限り、自分の部屋に連れ込んで関係を持ち続けた。音楽家もまた王宮での演奏のために出入りすることが多かった。ナーランダにピアノやヴァイオリンを教えるために雇われた音楽家もいた。しかしナーランダはその頭の良さとは裏腹に、手先は不器用で音感もなければリズム感もなかった。絵の方も色盲が疑われ、どんなに頑張ってみても遠近法が身につけられず、そもそもものが立体に見えないことが悩みの種だった。皆が美しくて均整の取れていると感想をもらすような絵の数々を、同じように感じることができなかった。何故いいのかがわからなかった。ナーランダには皆目理解することができなかった。鏡で見たあなたの顔こそが、バランスであり綺麗さであり、美しさなのだとそう言われても、全くそのように自分は感じなかったのだ。むしろ掃除係の男の、誰もが醜いと言うその顔に対して、ナーランダは「まあ悪くはないわね」と言う有様だった。美的センスからは掛け離れたナーランダには、数学や化学を専門に教え込もうと両親は奮闘する。将来、それで生計を立てるわけではないし、もうすでに教養のレベルは遥かに超えていたが、何か熱中するものがなければ、この娘はとんでもないことをしでかすかもしれないと、特に母親の方が危惧を覚えていた。しかしナーランダは学問にも興味は向かなかった。その頃、奔放な男性との情事に関して両親は気づいていた。だがそれも結婚し、子供を持つまでだと思っていた。たいていの若者と同じで、ある地点で治まっていくのだろうと楽観した。実のところナーランダは、そうした情事にもすでに飽きてしまっていたのだ。
 男を代え、性行為の時の人数を変え、配置を変え、形態を変え、色々な器具を使い、体の中に突っ込み、やってはみたものの体は快楽の絶頂を極めていくが、体ではない何かはずっと快感を得ることはできなかった。というよりはいつでも背後で、冷静に見守る鎧姿の番人のような影が、消えることがなかったのだ。アイツラを追い払ってしまいたい。アイツラをも気持ちよさのあまりに絶倒させたいのだと思った。そう願うナーランダの期待に応えてくれそうなものは何もなかった。
 何も見い出せそうになかった。この子は、究心が強いのだからね、と母親には言われていたが、ナーランダは心のなかでは「そうではないのだ」といつも呟いた。確かにそんな探究心はあったことはあった。けれども探求して探求して、それでその先には一体何があるのだろうか。何も知らない時にこそ、探究心は最も退屈を凌ぐ最たる道具になる。しかしそれはただの誤魔化しだった。どれだけ学問を探求しようが、「それ以上」になることなどできない。「それ以上」の領域に辿り付くことはできない。画家や音楽家を少し羨ましいと思った。ああして身体を動かして、身体と頭の中を融合して、何かをするというのは私の退屈さよりもずっと楽しいだろうなと思った。さらには作曲など、自分で色々と戦慄を作り出していくのも、気持ちよさそうだった。けれどもナーランダは、自分が思うそうした画家や作曲家と、王宮に出入りする彼らとを、重ね合わせようとしてみたのだが、全く相反する結果となってしまった。彼らに不自由さを感じたからなのか。彼らの才能のなさなのかはわからなかったが、憐れみすら覚えた。むなしい!結局、誰も彼もがむなしい日常を送っている。ナーランダはその頃から目に見えるものは全て、否定するようになっていった。目に見える次元で、私がすることはもう何も残っていないのだ。すべては終了。ここで人生が終わっても何の悔いもなかった。すべてを否定している私が、次にどこに向かうのだろう。死後の世界だった。ナーランダは思った。この段階はもういいのだと、そう感じる自分がいる。死んでハイ終わりというこの世界であるはずがなかった。この段階はなどと考える自分はおそらく、死後の世界を知っている。知っているのに、今は見えていない。じゃあ、早く死ねばいい。そうなのだ。そうなのだけど、ここで別に早まる必要もなかった。私には十分に時間が与えられている。この退屈さを有意義に活かそうじゃないかと思った。死ぬのはいつだってできる。逃げ道があるのは嬉しいものだ。死後に現れる今見ること、知ることのできない世界を、ここではっきりとさせるために、私は生まれてきたのではないだろうか。
 初めて退屈さの中に、僅かな体の芯の震えを感じた。ほんのわずかだったが、見逃しはしなかった。これだけ筋金入りの空しさに染まっているのだ。違う振動には敏感になっている。これだ!とナーランダは思った。ここに突破口があるのだ。ナーランダは両手を突き上げ、体を反らし、雄たけびを上げて、王宮の尖塔を祝福し始めていた。


 ケイロは上昇していた。両肩がふわり浮き上がっていくのが始まりだった。そのままケイロは目を開けることなく、上方に引っ張られていった。
 両足は脱力したまま下方に伸びていた。膝がわずかに曲がっているのが感じられた。ゆっくりと漂っているようでもあれば、すごいスピードで移動していっているようでもあった。地面と密着していた、さっきまでの体感は消えていた。
 ケイロは目を開けたかった。しかし体の感覚と意識は乖離してしまっている。脳の指令が肉体の末端までまるで届いてはいない。ケイロは身を任せていた。寺院はずいぶんと縦に長く、エレベーターのようになっているかのようだった。変幻自在な空間は羽を広げ、鳥のように空を飛び始めている。
 ケイロはその巨大な形態と存在を一つにしていた。ぐんぐんと上昇していくこの新しい体に、突然感覚が戻ったのはその時だった。
 ほんのわずか、上昇をやめ、下にガクンと、振動したと思ったときだった。視覚が復活した。
 皮膚は熱いと感じた。少しだけ焦げ臭くもあった。そう思った瞬間に甘い花の蜜の匂いに包まれていた。淡い蝋燭の光が灯っているみたいだった。次第に光源が明らかになってくる。火だった。眼下に広がる火の世界がそこにはあった。大聖堂の中だった。
 ケイロは天井知らずの、この空間の遥か上方に、浮いていた。だが、それにもかかわらず、ケイロは地面に足をついて、立っているかのようだった。透明なガラスの上に立ち、下の世界を見下ろしているようであった。
 わかったことはさっきまで座っていたはずの席は、火の海になっていたということだ。
 椅子が激しく燃え、崩れていく様子をケイロは見た。そして椅子に座っていたはずの人たち、いや、人はいなかった。誰一人いなくなっていた。人ではない布に包のようなもので包まれた長い塊が、整然と並べられていた。遺体じゃないかと直観した。火葬場と化しているのだ。壮大な数の遺体が並べられ、共に燃え広がっている。そこには奇妙な一体感があった。ふと、その中央付近に、わずかなスペースを発見した。そこがまさに、さっきまで自分が座っていた場所であることに、すぐに気づいた。燃え盛る炎は、勢いを増していった。布を焼ききり、黒焦げの中身を、晒し始めていた。何か恐ろしい風景を見るんじゃないかと身構えた。しかし黒い塊はそれ以上の実体を、炎の中で晒そうとはしなかった。ケイロに人間の遺体であることを悟らせる以外のことは、何もしてはこなかった。集団火葬なのだろうか。どうしてこれほどの数の遺体が、集められていたのだろう。
 はっと我に返った。
 ケイロは自分の意識の層が入れ替わったのが、わかった。
 これはもしかしら、・・・。
 これが「ゼロ湖」に自らの身体を投げいれていった人間たちの、辿りついた場所なのではないだろうか。行方不明となった、数々の人間たちの。「ゼロ湖」がぱっくりと死の淵を開脚したその先の・・・。寺院。あの場所と、カイラサナータ寺院は、繫がっていた。
 ここに作ったのだというよりは最初からあったのかもしれなかった。時間の感覚は極めて希薄だった。どちらが先に作られたのか。存在していたのかはわからない。順番どおりにしか認識できなかった以前のケイロであったなら、わからないままであった。
 だがこの位置、今いる場所からは別の姿が見える。
 「ゼロ湖」の場所には、そっくりと「カイラーサナータ寺院」もまたある。
 これから自分の分身になるであろう「ケイロ・ミュージアム」もまた、そこにはある。
 いつのまにか姿かたちを変えて、見えてくる。 
 寸分変わらぬ、同じ場所にある。あるような気がした。

 いくつもの建物が、同じ場所に屹立している様子を、同時に見ることはできなかった。
 しかし感じ取ることはできた。皮膚感覚があり、匂いがしてくる。次第に音までが、聞こえ、そこには一つの建物が姿を現す。
 今は、「カイラサナータ」なのだと思った。

 誰が招待したのか。何故この俺に。誰でもないこの自分なのだろうか。自ら来たのだろうか?そうだ、自らここに出向いてきたんじゃないのか?呼ばれたかのように、勘違いしただけで。
 だがマリキ家の人間を経由して、招待状は来ていた。勘違いではない。あの男に問いただそうかと思った。しかし意味はないような気がした。自分で体感して、理解する以外に道はないようだった。
 ただ一つ、あの男が言っていた、最後の言葉だけが気になる。
 最大にして唯一のヒントが、埋め込まれているような気がした。


 王宮お抱えの黒魔術師に、ナーランダは自ら近づいていった。彼らの存在は、王家の中でも限られた人間にしか、存在を認められていなかった。彼らは生まれてから一度も王宮の外に出ることを許されず、血脈以外に後継者を認めることもなかった。
 ナーランダはもちろん、彼らの存在を幼い時から知っていた。両親は話題にしたこともなく、家庭教師もまた、見て見ぬふりをしていたが、彼らは晩餐の最中や、式典の最中、家族の団欒の場にも、突然背後に現れ、蠢く影のように、両親などの耳元でやり取りをし始めたりした。ナーランダが彼らに気づいたときには、蠢く影はもうそこには居なかった。初めは見間違いだと思った。だが何年も続けば、次第にそんな視界にも慣れてくる。見える状態へと修正されていく。
 ナーランダは五歳になる頃には、完全に彼らが現れては去る瞬間を、目撃できるようになっていた。薄汚れた、老婆のような風貌のときが多かった。自分と同じくらいの男の子の姿の時もあった。彼らを取り巻く空気は、色彩が著しく澄んでいて、周りには小さな彼らの化身がいて、引き連れているようだった。虫のように移動をした。
 次第にそのような小動物が動く音をも、感知できようになった。ナーランダは男との情事の最中、彼らが覗きにくることを知っていた。彼らは卑猥な行為が大好きだった。ナーランダは見せ付けるように、彼らを意識した行為を晒した。彼らの喜びは伝わってきた。もうすぐ彼らと直接、コンタクトがとれると、ナーランダは思った。彼らが人を呪い殺したり、目には見えないレベルで、人の心をあっという間にコントロールし、破滅へと導いたりと、自分の都合のよい行いをするように仕向けていっていることを、知っていた。古い家系の一族たちはみな、それぞれが長い年月をかけて、彼らと共に生き、育て合ってきた。その力は計り知れないのだろう。家の中でもほとんど王夫妻と、その後継者の男たちにしか受け継がれず、彼らもまたそのような者にしか従わなかった。
「一人を復活させるのに、一体、どれほどの遺体が必要だろう」
「えっ?」ナーランダは、突然、彼らが話しかけてきたように感じた。
「一人を復活させるのに・・・」
 空耳だろうか。その言葉が繰り返され、ぐるぐると頭の中を駆け巡っていく。
 彼らとの接触が、始まっているのだろうか。ナーランダは自らの性器に入れた異物に、絶叫しながら、男のあの部分を咥え、ゆっくりと激しく、上下に動かしたあとで、また別の男の近付いてくるモノを、咥えていった。
 その言葉の意味はわからなかったが、いつまで経っても、忘れるわけがなかった。
 ずっと脳裏から離れようとしない。寝るときはいつも、その言葉がやみの中で回転していた。回転すればするほどに、言葉自体が物質として、目の前に何かを出現させてくるような気がしてくる。その時、ナーランダには、閃くものがあった。見えない世界を操っている彼らは、見えないものに働きかけ、物体を思うように間接的に操作しているだけではなく、見えないものから、見えるものへと変換しているのだ。
 〝その光景〟はいずれ現実に姿を現してくる。そのときを待っていればいい。

 ナーランダはその夜からぐっすりと眠ることができた。
 これまでの退屈さが、一気に吹き飛んでしまった。活力が湧いてくるのが、わかったのだ。
「一人の人間を、復活させるのに」
 一人の人間とは誰なのですかと、ナーランダは思わず訊いてしまった。
 答えなど返ってくるはずもないのに。しかしあっさりと返ってくる。
「誰なのかは、あなた自身が知ることになるだろう」
 訊けば何にでも反応があった。
「私は知ることができるのでしょうか」
「もちろんだ。あなたにしか、知りえないのだから。あなたのことなのだから」
 ナーランダには意味がわからなかった。難解すぎた。
 訊き方に問題があったのかもしれないと思った。
「私のことですか?その一人とは、私のことなのでしょうか?どういうことなのでしょう。私は、一度、死んでしまうのでしょうか。復活するとは、生き返るということなのでしょうか。私が、一度、死んだあとで、多くの人間が、私のために、犠牲を捧げるということなのでしょうか。いったい、何人の失った命から、私の新しい命は再生されるのでしょう。その時がくれば、わかるのでしょうか。しかし、私はこれで、生きていく楽しみを一つ、得ることができました。感謝します。つきましては、あなた方ともっと親密になりたいのです。どうしたらよいのでしょう。あなた方の姿は確認できるのに。だからなおさら、私は苦しいのです。苦しみ続けるのです。どうか私にお力添えを。そしてできることなら、あなた方の力を私にお授けください」
「一つ、そなたに忠告がある」
「そなた」
「繰り返されるパターンを知るのだ。そして、それを逆手にとるのだ」
 やはり難解だった。だがふと思う。彼らとの交流こそが、この退屈な生活に、人生に、ショックを与えられる唯一の道なのではないか。自分の性器に、色んなものを突っ込みんで出し入れしながら、喘いでいる場合では全然なかった。
「これまでの自堕落な生活はすべて、改めます」とナーランダは宣言していた。
「私を真に復活させてください!」
「ならば、よく聞くのだ」声は続ける。「その、繰り返される背後の水脈と、一つになるのだ」
「水脈?一つ、と、いいますと・・・」
「それは、そなたが、よく知ってる行為ではないか」蠢く彼らは答える。

 ナーランダは黒魔術の使いが語る『姿かたちを変えて繰り返されるパターン』を、一言も聞き漏らすまいと、意識を集中した。彼らは何人もいて、同時にいくつもの声を操っているようだった。たくさん居るようにみせかけていたのか、質の違う声が折り重なって、ナーランダを取り囲んでいるようだった。一体となる意味を、伝えるかのように、包み込んでいった。ナーランダは彼らに抱かれ、深い闇の中へと落ちていった。
 声がいつ鳴り止んだのか。聞いていた時間の経緯も、どのようなものだったのか。
 ナーランダは、そのパターンが織り成す服を、いつのまにか羽織らされているかのようになっていた。こういうことか、とナーランダは呟いた。彼らは情報を逐一話すことで伝えるのではなく、一瞬にして身に纏わせたのだ。あとは自分で引き出せと言わんばかりに。ナーランダはその日以来、蠢き、犇めき合い、唐突に消える彼らを、目撃することはなくなった。代わりにナーランダが得たのは、この身に纏う情報の層であった。パターンを知れと言った、彼らの忠告に従い、その情報をダウンロードした。彼らの声が解説を加えた記録と共に降りてきて、時おり捕捉するように、映像が差し込まれてきていた。
「これが、お前の典型的なパターンなのだ。いいか!常に、頂点を目指す、その性質だ。頂点を極めるために、脇目もふらず、そのことに専心し、そして、次第にバランスをくずしていく。破滅への道へとひた走っていく。そのことに嬉々としている、お前の姿。実に、醜い。ほら、そんなたくさんのお前たちを、目撃することができる」
 目の前には、無数の男女を主人公とした、別の世界の映像が、瞬時に激しく転調しながら、展開していっている。すべてを認識できなかったにもかかわらず、すべてを知っているような気がした。
「が、しかし、そうして良くも悪くも極端に走り、走り続ける彼らは、それもまた決して無駄ではないのだ。むしろ、最大に意味のある行動なのだ。各人が、バランスを欠いたままに、ある部分を追求し、極めていくことこそが、全体においてはバランスなのだから。全宇宙における、高度なバランスの創造に、寄与しているのだから。まさにその行為が。君が存在しないこと。人間が存在しないこと。宇宙が存在しないこと。何もない無の状態こそが、最高にバランスの保たれた世界なのだ。本来。だがそんな世界は、退屈だ」
「退屈・・・」
「そうだ。これは君のキーワードでもある。君を象徴する言葉でもあった。君は事あるごとに、そうだ。退屈に打ち負かされ、もがき苦しみ、何をやっても満たされないお前がいる。すでに経験済みだろう。そして退屈を乗り越えるために、宇宙よりも高い次元における、バランスの状態というものを、作り出そうとした。ここに、真理の欠片がある。〝造り出す〟のだよ!退屈を乗り越えるためには。無というバランスを切り刻み、それぞれが、別の要素を際立たせ、そこを極大化していく中で、最終的に訪れるであろうすべてのアンバランスが一つに結びつくときを想う。そう。〝想う〟のだよ。わかるだろうか。〝祈り〟とも言う。来るはずの、最後のバランスを願った最大の望みのことだ。破滅していく彼らは知っているのだ。彼ら、つまりは君もその一人だが知っているのだよ。それが自分の役目であるということを」
「私が?私もまた知っている?ただ、破滅していくだけなのに」
「そうだ。それで、いいのだ。自堕落だろうが、何だろうが、それでいいのだ!自堕落だというのは、君一人の主観的な考えだ。行いに、素晴らしいも堕落も、そんな基準などないのだ。ただ、その与えられた条件の中で、その傾向の中に置いて、頂点を目指すこと。それだけが最大の目的なのだ!」
「私はどこで、どの方向において、破滅していけばよいのでしょうか。答えはすでに、出ているのかもしれませんが」
「パターンを、知るのだ」
「はい」
「知ったあとで、どうするのか。それは君次第だ」
「といいますと?」
「気づくことで、その繰り返される流れは断ち切られる。再び繋ぎなおすか、別のラインへと繋ぎ替えるか、それは君の自由なのだ」
「まさか。そんな」
「知ると言うことは、そのくらいにパワーのあることなのだ。すべての起こることには意味がある。そこでいかに動揺しないかなのだ、鍵は。そのための訓練として、さまざまなヴァリエーションで、君たちを運命は揺さぶってくる。その揺さぶりを、いかに逆手にとるか。逆手にとる。つまりは知ることで、主導権が握れるのだ。主客が逆転するのだ。君は君になるのだ。すばらしいことだ。おめでとうと言いたい」
「もう、破滅する必要が、私にはないんですね」
「君が望まない限りは」
「望むのでしょうか。望む可能性があるのでしょうか」
「そのとおりだよ!そのとおりだ。望む可能性は十分すぎるほどにある!なんとしても破滅の結末がほしいと、君は何に逆らってまでも、そのような流れを「創造」してしまうかもしれない。そういうことは十分にありうる!繰り返されるパターンを知っていても、その身体が重ねてきた〝ある種の快感〟に、また執着してしまうのだ。人間とはそのような輪廻から抜け出すことが非常に困難な生き物だ。人間を造った誤算だ。最高のバランスが掴めるのか、最大の崩壊に導かれていくのか。その最期の決断が、この人間に託されているとも言える。そして君もまた、その例外ではない」
「私に、魔術を伝授してください」
「ほおぉ。どうしてまた、そんなものが」
「そこを極めるのが、もしかしたら、私の今回の人生における、〝頂点を目指すこと〟になるかもしれないから」
「なるほど」
「その先、どうなるのかは、私の問題です。私の認識力次第です」
「いいのだろうか。アンバランスな状態から得る快楽を追い続ければ、他の人生ではありえない規模での、崩壊が訪れる。爆発が起こってしまう。魔術というのは、精密さの言い換えなのだ。細かい粒子レベルを意識し、操作することが可能になれば。それはわかるだろうな。一歩間違えれば大惨事となる」
「あなたたちはそれを、自在に使いこなしている」
「そういうことだ。人の遺伝子もまた、しかりだ。ちょっとイジルだけで、あっという間に、ドカンだ」
「その力を、私自身に設定してほしいと、願ったこともありました」
 ナーランダは答えた。


 宙空高く浮いている位置から、次第に下降していく自分に気づく。
 何とか、意識はその高さを保とうとしていたが、身体は全然言うことをきかなかった。 
 どんどんと下降していった。炎が届きそうな、高さに来ても、熱さは感じなかった。視覚以外のすべての感覚は、取り払われてしまっていた。
 ケイロは、火の中へと、ついに突入していった。火の内側に入ったのは、初めてのことだった。苦しくはなかった。レンズをつけ、水中に潜ったときのような、鮮明さがあった。丸こげになった肉片は、すでにどこにもなかった。溶けて、すべては気体になってしまったのだろうか。自分の肉体の方は、一体どこに行ってしまったのか。焦り始めた。まさか、そのまま宙に浮いているのだろうか。あの高さに置いたまま、意識だけが下降していってしまったのか。混乱していた。ならば宙に舞い上がっていったときは、どうだったのか。肉体はそこにあったはずだった。
 だとしたらすでに、炎に巻かれてしまっている。
 抜け出た意識だけが上に移行し、下へと移行している。
 ケイロは自分が身震いしたように感じた。確かに、その感覚はここからずいぶんと離れているように思った。もうすでに焼かれてしまったのではないだろうか。
 ケイロは自分の肉体がまだ、消えていないことを祈った。他の多くの布に包まれたものと同様、自分もまた遺体と間違われ、処理されてしまったのではないか。
「一人を復活させるのに、どれだけの遺体が、必要だろうか」
 聴覚が、突然、戻る。
「誰だ?」
「天井を、見たまえ」
「えっ」
「上だよ。上」
 ケイロは、さっきまで、自分が居たであろう場所を見上げた。
 炎越しに、確かに終わりのない遥か高みの世界が、続いている。何かがいる。誰だ?
 人のような形状だった。降りてきている。誰だ。ケイロは、もう分からなくなっていた。自分の身体ではなかった。だが何故か「熱い」と感じるようになった。炎に向かって、近付いてくるその「誰か」の皮膚感覚が、移ってきたかのようだった。
 熱すぎた。その「誰か」は、火の海に突入することなく、中途半端な高さで浮いていた。
 天井から吊るされているように見えた。その「誰か」は、見覚えがあるような、気がしてきた。・・・戸川兼だ。タレントの。彼のことはネットのニュースでよく見ていた。
 彼は撮影の最中に倒れ、緊急搬送され、手術を受けていた。脳出血が疑われ、そのまま入院していた。今も意識は戻っていないと噂されていた。事務所からの正式な発表はなく、戸川のことはいつのまにか、芸能ニュースでも全く取り上げられなくなっていた。
 どうしてこんな所にと、思う間もなく、彼の姿はすでにそこにはなかった。

「帝王が、グリフェニクスに!」
 男の低音が、寺院内に響き渡った。
「次の王。その長い空白の場所を、埋めるのは、そう。グリフェニクスだ。人間ではなかったのだ。さあ、脱ぎ捨てよ。人々よ。自らを纏う身体を、脱ぎ捨てるのだ。そして、グリフェニクスに自身を捧げ、一体となれ。怖がることはない。一瞬の不安も迷いも恐れも、すべてを捨て去りたまうのだ。肉体とはその象徴に、すぎないのだから。さあ、続くのだ。
 我が子供たちよ。超えた、その先には、新しい肉体が待っている。そこにある、肉体こそが、我が息子たちの、本当の居場所。新しい場所。約束の場所なのだ。さあ、通過したまえ。通過していきたまえ。このグリフェニクスの、この時を。この時空を。スペースを。グリフェニクスという名の・・・、そう。それでいい!両手を広げて、さあ。思いきり!」
 視界を覆っていた炎の色は、次第に薄くなり始め、寺院の内部がよく見えてきた。












































第四部 第八編  出現の工法




















「あなたって、結婚してたんですってね」
 陰西カスミと水原は、陽が暮れ始めた夕方、ベッドの中で、情事の後の昼寝から醒めたところだった。
「言ったっけ?」
「勘よ」
「君だって」
「私はしてない」
「していたような、ものだろ」
「失礼ね。まさかその女とは、完全に切れてないんじゃ、ないでしょうね」
「どうして、そう思う?」
「どうしてって?何よ、その返し方」
「知ってんだろ?勘だとか、何だとか言って、調べてるんだろ?あの女もそうだったよ。陰で色々と、俺の履歴を詮索していた。それである時に満を持して突きつけてきた。そんな女ばっかりだ」
「最低ね、あなた」
「君よりは、マシだよ。鳳凰口とは、何で別れたんだ?」
「過去が知りたいのは、あなたの方じゃないの?」
「お互いさまだよ」
「性格悪いのね」
「君と同じでね。鳳凰口とそりが合わなくなっていくの、わかるよ。君のその陰湿なところが俺とそっくりだ。でも、君とはうまくやっていけそうだな」
「奥さんとは切れてるの?切れてないの?」
 陰西カスミは本当に気になっているように、水原には感じられた。
「研究ばかりで、あまり男に関心がないのかと思った」
「意外?」
「粘着体質なんだな」
「めんどうくさいでしょ?」
「嫌いじゃないよ」
「いずれの話よ」
「いつ」
「きっと、そう。あなたも私から離れていく」
「そう思いこむなよ」
 水原は諭すように言った。「その思考こそが原因なんだぞ」
「どうやったら、やめられるようになるの?教えてよ。誰が私に教えてくれるのよ。同じことの、繰り返しなのよ」
「根本的な要因を捕まえないと、な。いつまでも抜けられない」
「わかってる」
「研究者だろ?」
「だから?」
「そういうの、得意なはずだろ?」
「嫌味?私の研究に対しても、当てつけを始めたのね。いつになっても、成果の出ない研究を、馬鹿にしてるのよ!」
「誰が?」
「あなただって言ってるじゃないの!」
「飛躍しすぎだよ」
「何でも、同じだって言ったのは、あなたよ」
「そういう意味じゃない」
「だから教えてって。簡単に分かりやすく。私さ、そういうのが、苦手みたいなのよ。だから、そこをうまく補ってくれるというか、埋めてくれる人が、しかも、男で必要だった。でも、そんな男は、現れなかった。だからなのよ。今もそこは空洞のまま。隙間風が吹き続けている」
「鳳凰口も同じだったの?」
「そうよ!あの男こそそうよ!私の求めている男の要素の、欠片の持ち合わせてなかった。ビジョンとか夢とか発想とか、そういうのは、私にはもういいの。けっこうなのよ。そうじゃなくて、現実的に、それらを形にしてくれる人。人材。あるいはパワー、エネルギーを注き込む、具体的な方法。アイデア。そういったものが、最も大事なことでしょ?この世においては。あんな昌彦みたいな夢物語ばかりが、暴走していって、それで、あとは落ち込むだけよ。心は。私の研究も、そう。良い事なんて何一つなかった。理論ばかりが膨張していって、複雑怪奇になっていって、それでより混乱の極みへと達し、突き落とされる。その繰り返し。あの男、結婚したのよね。どんな女なの?こんなんじゃないでしょ?どうなの?あなた、知ってるんでしょ?もし、あの男の女が鳳凰口を羽ばたかせることが、できたとしたら、おそらくその女。私のパートナーにもなれるわ。最適なはずよね。ねぇ、そうでしょ?でも、女だから・・・、それに、あの男の女だし・・・、女同士でうまくいくとも思えないし。そもそも私に協力なんてしないわ。するわけが・・・ね。あなた、鳳凰口とはどうなってるの?そういえば」
「どうって?どういうこと?」
「仕事のパートナーとかじゃないの?」
「ただの、幼馴染だよ。今でも友達だけど。まあ、でもそうだな。一緒に仕事をやることにはなってるな」
「そうなの?いつ?もう、始まってるとか?」
「何かと、間接的には関わりがあったけど、でも、話はそうシンプルにはいかずに、結局、今だに手をがっちりと結んで、何かに取り組んだことはない」
「何よ、期待させといて・・・」
「いや、でも、ほんとに一緒にやろうって。あの時は意気投合したんだ。でも、俺も自分の事が忙しくて、別の大きな仕事にもかかっていたし。正直、鳳凰口のことは忘れかけていた。元々、そういう関係だったし。ずっと会い続ける仲でもなかったし」
「それで?」
「それだけだよ。ああ、でも、この前、友人の見舞いに行ったときに、彼も来ててさ、少し話はしたね。何かビジネスを始めたようだよ」
「友人って?」
「戸川って、タレントなんだ」
「知ってるわ」
「だよな」
「あれ、どうなったんだっけ。一時期、危篤だって、ニュースになってたみたいだけど。あれから全く聞かなくなった」
「まだ意識は戻ってないね」
「それはお気の毒。疲れすぎたのよ。で、またどうしてあなたたちが友人なのかしら」
「その話は、よそう」と水原は言った。「うん。それは、男だけの話だ。それに、俺たちだって正直なところ、どういう関係なのか、よくわかっていない。偶然、知り合っただけだから。事実関係を言っても、ちっとも意味はなさない。いいかな?その頃、戸川はまだ、働いてなかったんだ。上京して、就職活動を始めたところだった。彼は履歴書を片手に、鳳凰口建設に面接に来ていた。俺は鳳凰口建設の社長と仕事の打ち合わせをしに、会社に来ていた。息子で家に引きこもっていた昌彦と、偶然、鉢合わせをした。あの日は、出会い頭が続いた」
「まだ他にもいるのね?そんな雰囲気よ」
「何人だったかな?」
「昌彦がずっと、家に居たのは知ってるわ」
「そうなの?そのときから付き合ってたの?」
「その、前からね」
「俺の方が、訊きたいね。いったい、いつからいつまで、あいつと付き合っていたんだろう?」
「そういうの、くだらないわ」
「何が?」
「いつから、いつ、だなんて」
「そう?」
「それを知ってどうするのかしら。目的が見い出せたら、教えてあげてもいいけど。でもねぇ、それでも、正確には、わかんなくなっちゃってる。私、実験に集中してしまうと、ほんとうに時間の感覚が消えてしまうから。それも、年単位で。十年くらいは、ほんの一瞬だし、三日だって、二十年くらいに感じることもあるから。日記もつけてないし、実験ノートには、プライベートの記述もないし」
「なあ」と水原は急に我に返ったような表情に変わった。
「ところで、俺たち。もともと、何の話をしてたんだっけ」
 陰西カスミはぼんやりと遠くの方を見つめながら、そのあとで天井をちらりと見た。
「そういえば、そうね。何だったっけ」


「出てこいよ。おいっ。いるのは、わかってんだぞ。永輝!」
 水原の事務所に元妻が押しかけてくるようになった。近所や来客に迷惑になることから、水原は仕方なく、元妻と二人で食事に行く機会を作った。もう二度と寝る気はなかった。
 元妻はそんな水原の気持ちを見透かしたように、どうして別れてからも、自分を抱いたのか。まだ私に気持ちがあるのだし、これからもあなたは私と繋がり続けるのだとも言った。あなたがどれほど私を細かく切り刻もうとも、私はね、華麗に復活するの。あなたは私を殺すことはできないの。観念しなさい。そう。あなたは私を捨てようとすればするほど、くっついてくる。一心同体なんだから。今日だって、そう。いくらでも、私の相手をしないチャンスはあったのに。結局、行き着く先は、そう、私の中なのよ!そして私の中にどれだけあなた自身を解き放っても、あなたの子供がこの世に生ま出てくることはない。あなたの血はあなたで終わりになる。わたしはあなたの血を拡散しないために、見守っているのかもしれない。番人ね。新しい女なんて、いくらいても構わない。誰であっても怖くはない。誰もあなたをモノになどできない。あなたは誰も愛することができない。手にいれることさえできない。
 水原はうんざりしながら、目の前の女の言い分を聞き流していた。
 この女の挑発に乗っては駄目だった。いつだってそうだった。俺の傍にやってくる女は、みなそうだった。俺を挑発して、自分のペースへと引き込んでいこうとする。そしていつも、俺はその誘惑に引っかかった。操られるがままに激怒し、笑い合い、興奮させられ、性エネルギーを解き放された。もう、いいかげんにしてほしいと思った。俺がしっかりしなければ。俺が自分を取り戻さなければ。冷静に受け止めなければ。この輪廻は延々と続いていく。そう考えたとき、この目の前の女を避ける必要性が、消え失せていることに、水原は気づいた。俺はこの女を通して、自分を取り戻せるのかもしれないと思った。そして陰西カスミもまたそうだった。女が一人だろうと、二人だろうと、そんなことは関係なかった。すべての女を通じて俺は再生されていくのだと思った。
 女は俺を殺し、生まれ変わらせるための重要な、〝ゲート〟のように見えてきた。
「どうしたのよ、何にもしゃべらないで。仕事のことを考えてるの?新しい女のこと?
 別にどっちでもないよと水原は答えた。
「私の近況、知りたくない?」
 知りたいよと水原は答えた。
「えっ?」
「知りたいって、言ったんだよ。早く話せよ」
「えっ、あっ、そのね、いや、そうよ。絵のこと。絵のことよ!私、絵の勉強を正式に始めたのよ」
「落選したんだよな」
「ええ」
「それがきっかけで?落選した人間たちの怨念を、一身に背負ってなんて言ってたな」
 元妻は急に黙ってしまった。
「怨念を一身にまとって、それでどうするんだ?画家として世に出て、ケイロに対抗するつもりか?そういうことなんだな?」
「違うわよ。知ったようなこと言わないでよ」
「何がしたいんだ?」
「あなたに捨てられることくらい・・・、わかってたわよ」
「なんだって?」
「そんなこと、始めから・・・。今度もまたそう。捨てられることはわかってる。でもそれでもやめられない。病気なのよ、私。自分でも自分のことが捨てられない。だから誰かに、何かにそうやってもらうしかない。意気地のない女。あなたはあなたを捨てられる?」
 元妻の声がホテルのラウンジに響き渡った後で、水原はそのあと訪れる静寂の一瞬をとらえ、彼女の言葉を、まるで自分の言葉のように、頭の中で反芻させる。
 俺たちは似ているはずだった。だから夫婦になった。そして別れた。何かが決定的に相容れなかった。違う方向を向いていた。しかし途切れてはいない。まだその共通点に引っ張られている。引き戻されている。新しい共通点で繫がった陰西カスミは、どうだろう?彼女とはその共通点を、どの方向へと持っていきたいのか。
 二人の女が俺に突きつけてくる事実とは、一体なんなのか。
 元妻はちょっと訊いてるの?を連発していた。
「ありがとう」と水原は言った。「俺と、縁を切らないでいてくれて」
 元妻は戸惑いまくっていた。
「君がいるから、俺は生きていける」
 水原は畳み掛けた。
「君の言うとおりだ。君の言うことに間違いなどなかった。昔から間違っていたことななんて何もなかった。感謝するよ。また来てほしい。いつでも俺を呼び出してほしい。もっと俺を使ってくれていい。愛してほしい。本当だ。これが本心だ。俺には君が必要なんだ。だからありがとう。こんな俺を見捨てずにいてくれて」
 本当に水原の心には、そのような気持ちが湧き起こっていた。
 だがその意志とは逆に、元妻は何やら取ってつけたようなおかしな理由を言って、ラウンジから逃げるように姿を消してしまった。


 引っ越した翌日、鳳凰口の元に激原から連絡があった。
 この建物の一部を担当したのは鳳凰口建設だった。相談したいことがあると、激原は言った。
「業者を入れたいんだが、どうも問題があるらしい。エネルギー施設の創設に関する」
「ああ、わかってる」
「色々と入り組んでいるようで、申し訳ありません。僕も全体像がまだ見えていないようです。建設会社もいくつ関わっているのか、よくわかりませんし。エネルギー施設のこと、何か聞いてませんかね。何でもいいんで」
「ブロックされてる?」
「そうなんですよ」
 当てずっぽうに言ったことが、真に取られたことに、鳳凰口は少し驚いた。
 何のブロックだろうと考えてみる。複合エネルギー施設の創設における、エネルギーの回路を想像してみる。漆黒の闇の中でピンクの薔薇色に光る、グリフェニクス本社の姿が浮かび上がってくる。
 鳳凰口には色んな背景がこの場に見えてきていた。
「俺は帝王になろうとしてる」
 鳳凰口は言った。
「帝王?」
「グリフェニクス」
「その名前は・・・」
「俺そのものが、グリフェニクスの仮面をかぶり、この世の帝王になっても、いいだろうか。グリフェニクスは、すでにここまで、俺のすぐ側にまで近付いてきている。ブロックという言葉で、ピンときた。まさにそれだ。俺と、グリフェニクスの間には、まだ壁が存在している。彼らの声はすでに聞こえ始めている。意識を向ければ、彼らとは意思疎通ができる。だがこの壁という、彼らと一線を置く、『膜』の存在がある。これだろう。おそらくは・・・。君が指摘しているブロックとは。この薄いが、しかし、エネルギーを完全にガードしてしまう、この膜こそが」
「やっぱり、あなたに相談してよかった」と激原は言った。
「それで、俺にどうしろと?グリフェニクスと一体になれと?そういうことだろうな。俺にも、〝そのとき〟が迫っていることがよくわかるよ。俺にすべてがかかっていることもね。俺しかいない。俺がやらなきゃ誰がやるのだろう。百も承知だ。覚悟だって、ずいぶんと前からできている。常に意識をしていた。ある種の変容だ。恐れはある。もう、この風貌で人の前に姿を晒せないとなると、さすがの俺も、恐怖と同時に、未練がましくもなる。これまでの俺に、すがりついてしまう。情けないだろう。笑えよ、激原。俺はいつだって逃げてばかりなのだろう。親父の会社を継ぐこともなく、彼が死んだ後、すぐに家を出てしまった。親が居るときはそれに甘え、継ぎもしない家に篭っていた。親が死んだら死んだで、すぐにそこから立ち去るこの身の変わりようだ。卑劣極まりない。親父に目も向けられないような仕事をしてきて今やっと、まともになりそうな仕事を始めている。結婚もした。すばらしい女性だよ、友紀は。この甘い新婚生活も、放棄しないといけない。俺はもう、これまでの俺ではなくなるよ。なに、友紀はわかってくれている。わかっていて、初めから俺を受け入れた。彼女の気持ちは固まってるさ。俺だけだ。俺だけが一人、土壇場で踏ん切りがつかないでいる。激原、本当に俺は情けない。たかだか普通の人間とは少し、見た目も脳みそも、細胞も変わるだけなのに。何を拒む必要があるのだろう。そうだろ?」
「ちょっと今からそっちに行っていいですか?すぐ側まで来ているんです」
 激原は十分後、鳳凰口邸兼、グリフェニクス本社に姿を現した。
 伽藍とした広大なロビーを通過し、自宅へと鳳凰口は導いた。
「ちょっとここに来るあいだに、頭を整理しました。話し相手の僕が濁っていても、駄目だなと思って。あなたに迷惑がかかる。僕なりにあなたにとっての、最大の資源になりたいですから。あなたは少し誤解しています。一人じゃないんです。みんな、あなたの指令に従う準備は、できているんです」
「前も、そんなこと、言ってなかった?」
「僕でしたっけ?」
「いや、忘れたけど」
「とにかく、前に言ったとしても、何度でも言わせてください。その最後の膜を、あなたの意志で破ってください。グリフェニクスを、受け入れてください。グリフェニクスもまた、あなたにそうしてもらいたいはずです。僕らの想いはすべて、すでにグリフェニクスと同化しています。お願いします。僕が破ってあげられたらいいけど、それはあなたにしか、おそらくは可能ではない。やり方だって僕らにはわからない」
「やり方に関しては、俺だってわからないぞ」鳳凰口は言った。
「やり方なんて知らなくていいです。知らない方がいい。僕にはわかりますよ。あなたはグリフェニクスと一体となることを、無意識に避けているんだ。もうすでに気持ちの中では〝そのとき〟が来ていることを、知っているのに。あなたは自分を怖がっているかのように言っているが、実はそうではない。実感できていないからです。あなたが人間でいながら、人間ではないグリフェニクスになること、なった状態を感覚として固定させていないからだ。なぜそれをしないのか。
 僕にはね、今、あなたとこうして対面して分かってきましたよ。ほんとに見えてくるものです。不思議なものです。こんな事は初めてだ。そういうことか。あなたの心の問題だったのか。あなたがあるレベルに達するまで、そのエネルギーは封印されることが定められていた。あなたの恐怖心が、それを象徴している。それがブロックの正体だ。ブロックのない、あなたであったのなら、即刻、木っ端微塵になっている。あなた自身が。
 そしてそれは、自爆テロのように、あなたの存在する世界に多大な瓦解をもたらすことになる。あなた自身がグリフェニクスと同等、同格にならないかぎりは、ブロックは解かれることはない。
 あなたはグリフェニクスと同格になるために、何か訓練をしてますか?
 日々、強くなっていく努力をしてますか?自身をよく見てください。観察してください。グリフェニクスは、あなたがその高さがまで上がってくることを、待っています。あなたはそのことに、集中していますか?意識をそこに絞っていますか?あなたがグリフェニクスのことを、あれこれ考えている暇はないんですよ。恐怖心だとか、何だとか、無駄なことに足をとられている暇はないんですよ!僕らだって困るんですよ。あとの工事がつっかえてしまって。僕らだけじゃない。連鎖的に、色んな人が」
 鳳凰口は激原に説経を食らっているようだったが、この男の言うことは最もだと思った。
「〝そのとき〟、グリフェニクスとなった、あなたは、自在にこの世界に指令を下し始めているんです」

 その夜、何かにとりつかれたかのように、五人の人間たちと次々と連絡をとった。戸川の入院している病院に電話をかけ、そのあと事務所の方にかけ、戸川の容態を詳しく聞いた。鳳凰口の勘では、まだ目覚めてはいないものの、このまま状態が変わらないとは思わなかった。ちょっとしたショックが、必要なのだと思った。流れが来ていた。こういう時、鳳凰口はよく、複数の思いつきをすぐに行動に移した。複数の思いついた場所、人間に働きかけて、そこで連動していく何かを見極めようとした。ランダムだが同じ要素を元にした関係が見え始めていく。鳳凰口は昔からその勘だけは長けていた。
 人生の最大の出来事が今から始まる。ケイロ・スギサキに電話をした。彼とは戸川の見舞いのときに、初めて挨拶を交わした。ケイロ本人が出た。特に挨拶もなしに、鳳凰口はいきなり、絵画の制作依頼をした。彼はミュージアムと独占契約を結んでいたが、鳳凰口は自分でも何がしたいのかもわからず、切り出していた。当然、ケイロはとまどった。その戸惑いを感じて、鳳凰口もまた、当たり前の事実を目の当たりにしていた。
「とにかく、考えてくれとは言わない。俺の言いっぱなしで構わない。今日はこれで切るよ。いきなり挨拶もなしに悪かった。でも忘れないでくれ」
 鳳凰口はそのことだけを伝えると、さっさと切ってしまった。
 しばらく、茫然と部屋の天井を見つめていた。どう解釈したらいいのだろう。
 自分でもわからなかった。しかしふとケイロに今、そのことを直接自分の口で言っておかなければと感じたのかもしれなかった。電話だったが、それでも何らかの接触が必要だと思ったのかもしれなかった。ケイロのミュージアムとは別の道を、彼には示唆しておく必要があったのかもしれない。ケイロ・ミュージアムに対して、何らかの対抗心を、燃やしているのだろうか。グリフェニクスが、あのミュージアムと、全面的に対決でもすることになるのだろうか。自分がグリフェニクスになっていない今、それはわかりようがなかった。見えようがなかった。
 気づけばもうすでに、別の電話番号にかけていた。見士沼祭祀だった。
 電話は繫がらなかった。番号は使われてなかった。教団にかけてみたが、祭祀とは関係を絶っていたため、いい対応はされなかった。祭祀の所在はつかめなかった。しかし戸川の見舞いには来ていた。姿かたちは健在だった。無事に生きていた。水原に訊くと、彼はミシヌマエージェンシーという会社の番号を教えてくれた。見士沼が教団を離れるときに、一緒についてきた男が代表をつとめ、見士沼をサポートする組織を創設したということだった。もっとも組織とはいえない小さな規模で、実質活動している記録はなかった。
 ここに電話をかけてみた。津永学という男が出た。見士沼の活動に関しては、あまり深く話すことはなかったが、戸川のことを話題に出してみた。戸川の意識に、見士沼が働きかけたらどうだろうか。ただ病室で施術をしても仕方がない。もっと広い場所で、たくさんの見ている人の前で、おこなったらどうだろう。このときもまた、鳳凰口は自分が何を言ってるのか、わかってなかった。しかしミシヌマエージェンシーの声色は、一変していた。「それは、妙案だ」と言わんばかりに、津永はこの通話を何とか引き伸ばそうとしているのが感じられた。鳳凰口はすぐに切り、次の誰かわからない人間に繋ぎたかった。しかし、とりあえず、津永に会話の主導権を明け渡した。津永は、ちょうど、見士沼祭祀に、そのような機会を与えたかったのだと言った。津永と見士沼の関係を訝った。見士沼は、この男を正式に認めているのだろうか。この男が勝手に見士沼の周囲に、蔓延っているだけなのだろうか。まだグリフェニクスではない自分には、判断がつきかねた。
 しかし少しずつ自分はグリフェニクスに、この身体の領域を明け渡し始めているのがわかる。
 少しずつ、少しずつ、細胞の一部が変化していっているのがわかる。
 新しく生まれた細胞はきめが細かく、繊維や素粒子を自在に通してしまうため、身体そのものは軽くなっているようだった。このまますべてが、入れ替わってしまえば、地上からは離れた、高い領域に、生活圏は移動してしまいそうだ。
 津永はその後も延々と、見士沼祭祀という存在を、いかに人々にアピールしていくかについて、うんざりするほど語り続けていた。 
 きっと誰かにずっと話したかったのだろう。自分の心の内に納めておくには、時間が経ちすぎていたのだろう。その気持ちはわからなくもなかった。
 鳳凰口はそんな津永の思いをすべて吐き出しきるのを、静かに待った。


 アスカは嵌っていた。数回の施術は彼女に至上の快感をもたらしていた。すでに美佐利抜きでマンションに通うようになっていた。躊躇いもなく、裸になり、まるでその男に全存在を弄ばれるように触られ、いじられ、そしてイッてしまっていた。何度も何度もイッてしまった。そしてその絶頂に達した時だった。
 突然、見士沼本人から、この施術院が閉鎖されることを伝えられた。
 はじめから試しの期間における、極秘営業だとは言われていた。しかしアスカはそんなことは、とっくに忘れていた。当然、意識もしてなかった。しかし今度も、とりあえずの閉鎖であり、場所を移動して、本格的に大規模に、リニューアルするというようなニュアンスのことを言われた。
「大規模って、どういうこと?やめて。そんなに大勢を、対象にするの?無理よ。少人数制で、極めの細かいなサービスをしなきゃ。そのほうがいい。長い目で見ても。高めの値段設定でいいから。アスカは何故か、必死で見士沼に訴えていた。
「すでに場所も決まりかけている。僕のエージェントが、すばやく動いてくれている。僕はマネージメントのすべてを、そこに任せている」
「エージェント?マネージメント?」
「とにかくしばらくの間は、申し訳ない。僕もこのまま、今のままで、新しく再開することはできない。磨かなければやっていけないことがわかった。やることはたくさんある」
「こんなにスゴい技を持っているのに?」
「今のままでは一時的だ。やりきって、それで終わりだ。バケツに溜まった水をひっくり返して、それで終わりだ。実際にやってみて、よくわかった。いかに、エネルギーの消耗が激しいか。僕自身のね。このままでは、このままいくと僕は早い段階で自ら潰れていってしまう。別に潰れたっていい。当初はそう思っていた。しかし、ウチのエージェントは、そうは望んではいない。新しい施設で、さらに、巨大なエネルギーを使い切る仕事に従事していくには、それに相応する、施術者になっている必要がある」
「巨大って、どういうこと?」
「その、最初のデモンストレーションが、もう一月後に迫ってきている。ここで自分を証明しなければ、その先はない。だから本当に申し訳ないけれど、それまでは余分なエネルギーを使いたくない」
「余分って」
「そのあと、軌道に乗った後でなら、いくらでも、君には来てもらっていい」
「わかった。約束よ」アスカは言った。
「じゃあ、今日は、最後だから、いつもよりも気合い入れてね」
「それよりも、君は、大学生だったよね?お金は大丈夫なの?」
「全然、考えてなかった」
「ほんとに?どういう神経してるの?」
「確かに」アスカは三回小刻みに頷いた。
「預金残高を見るのが、少し怖くなってきた。でもまだ大丈夫だと思う。だいぶん稼いだから。ああ、でも、そうすると、あなたが再開するときまでには、また貯めておかないとマズいわね。やだっ。この春休みに稼いだお金、ほとんどあなたに行ってしまっているじゃない」
「ねえ、アスカさん。アスカさんでしたよね。僕が言うのもなんですけど、その稼ぎ方、やめませんか?そもそも、ここに来たのも、そのときに溜まってしまった穢れたエネルギーが、原因なんですから。あなたは、わざわざマイナスに落としてしまっているんです。それを取り戻そうと、こうして。さっきは失礼な発言をしてしまいました。本当にそうなんですよ。あなたに使うエネルギー。これ、すごい、無駄なんです。今は、事の始まりで、試し期間ということで、実際に、本物の人間相手にやっていますが、こんなことを僕は続けたくはないです、正直。そういう意味でも、この一ヶ月を経て、新しい自分と生活を取り戻したい。あなたのような人ばかりを相手にする、終わりのない仕事など、僕には御免ですからね。本当に失礼を承知で言っていますが。怒らないでください。どうか、怒らないで。そのかわり、今日は、全力で施術させていただきますから。それでも、一抹の不安は拭えませんが。僕がやればやるほど、関われば関わるほど、あなたが駄目になってしまうのではないかと。ほら、こうして、今だって、僕の施術がなければ、どうです?確実に受ける前の状態の方が、相対的に、総合的に、状態は、よかったはずですよ。僕はあなたの中のエネルギーのバランスを、長期的に見れば、どんどんと、悪くする方へと導いてしまっている。負の連鎖に、がっつりと、加担してしまっている。そうでしょ?そういうのにも、すでに、この短期間で、ウンザリしてしまいましたよ。もっと長い目で見て、良いことに、貢献したいんですよ。ですが、それは僕の問題だ。あなたはあなたの事を、今日は終わった後で、真剣に考えるべきです。あなたのお友達の美佐利さん。彼女は、二回の施術で十分でした。バランスを取り戻し、自分を取り戻し、自分自身に復帰なさいました。そういう人もいるんです。少なくない人がそうなんです。ところが、あなたのような人も、また、これがたくさんいるようだ。少ない数でしたが、世の中の若い方の状態を、実際に見ることができて、それもよかったと言えます。色んなことを僕も今、整理してるところなんです」
「わかりました」アスカは低い声で答えた。「私も少し考えてみます。それでも美佐利とは違って、私はあなたの所に通い続けますから。知ったが故のさだめです」
「アスカさん」見士沼は諭すような口調で言った。
「僕が言うのも変ですが、のめり込みすぎないでくださいよ」
「警告?」
「ええ。警告するくらいなら、初めから施術など、するなという話ですけど。何でも、両刃の要素がありますから。さまざまな負の要素も集まってくる。それもまた、承知です。それでも、僕は開いていきたい。開かれた場所を創造していきたい。だから、冷たいようですけど、あなたはあなたで、僕のところをうまく使ってほしいだけです。使い倒してほしいだけです。使われてはいけません。心から、そう願っているんです。では初めましょうか」
 もう二度と来ることのないマンションの一室で、最後の至上を味わうため、アスカは裸体を晒さらし、眼をつぶった。


 まどろみの中、さあここからが、絶頂への本番だとばかりに、アスカは身構えた。気合をいれ直した。うつ伏せになったまま、この肉体が宙に浮かんでいく絵を、想像した。そのときだった。「アスカ、行ってみて」という声が聞こえてきた。「是非、あなたも。他のみんなも。治るかもしれないから。諦めちゃ、駄目。噂では完治して、仕事に復帰している人もいるって。うちの店じゃないけれど。だから、一度、行ってみてちょうだい。ねえ、アスカってば。駄目よ。諦めるのだけは」
 一体、誰の声なのか分からなかった。目を開け、仰向けに向き直り、起きて、周りを確認したかった。声は外から聞こえるというよりは、もっと自分の内から響いてきているようだった。出所がぼんやりとしていて、輪郭が歪んでいた。
「寝てばかりいちゃ、駄目。絶対に。もう二度と、起き上がれなくなってしまう。ねえ、一度でいいから、行ってみて。あなたが、適任だと思うの」
 ドアがノックされる音がする。誰?アスカは、見士沼に問いかけた。だが、部屋に見士沼が居るわけがない。施術はいつだって、遠隔で行われた。誰なの?私よと女の声がする。そういえば、さっきから女の声だった。別の客かと思った。あなたもそうなの?待って。今は私の番なの。
「ごめんなさい」と返事がした。「でも、うれしい。受けてくれたのね。言うことをきいて、行ってみてくれたのね。待つわ。しっかりと治してもらいなさいね。まずは、あなたが完治しないと駄目だなんから。あなたが全快することを、証明しないと。みんなに、見せてあげないと。もう、他のお店では、何人もいるんだから。うちの店でも。今は、あなたが生きている中で、最も悪い症状なんだから。ほとんど死にかけているでしょ。だから、私はいつまでも待つ。あなたは失うものがない」
 何を言ってるの?アスカは、ドアを叩く女に、意識を向けた。
 至上の快感への道筋を、邪魔されたことに段々と腹が立ってきた。
 誰なの?アスカは、自分の肉体に、感覚がなくなっていることに気づいた。気持ちいいとも痛いとも、苦しいとも、どれとも違う、まるで自分が、自分の肉体を抜け出だして、高い位置から、横になってる自分を見下ろしているようだった。
 空間はどこまでも黒く、その中で白いラインが幾何学の形を表したり、消えたり、自分の思考に従って、動き出しているかのようだった。そして、アスカは、その上空からも逸脱していた。すでに、眼下に横たわった自分の姿はなかった。声も聞こえなくなっている。
 ドアを叩く音も消えていた。静寂の中、アスカの意識は、別の肌触りを感じるようになってきた。匂いがした。饐えた匂いだった。最初はそうだった。だがすぐに熱気のこもった生臭い匂いに変化した。嫌ではなかった。肉体の匂い。女と男の匂い。交じり合いながらも、決して混ざりあうことのない、あの永遠にもどかしい、拮抗する、それでも求め合う、肉体の奥から発せられる、人間の匂いであった。不思議と、懐かしさが込み上げてきた。いつもの施術の時に感じる快楽とは、全く違った。自分の全存在が包み込まれるような、懐かしさだった。安心感、暖かさだった。
「娼婦が、使い捨てにされる時代は、終わったの」と声が再び聞こえ始めた。
 その声は、さっきの自分の内部から響いたときとは、明らかに違った。完全に、自分の外から聞こえたのだった。そう思った瞬間、視覚が突然、何の前触れもなく開けた。黒くて静寂な空間は途切れたのだ。アスカは布団の中にいて包まっていた。自分の体液のなのか、男の精液の匂いなのか、そんな湿気が部屋じゅうに込み上げてきていた。自分以外には誰もいなかった。狭い部屋には卑猥な男女の交わりが描かれた絵が飾られ、掛け軸まであった。性器を拡大描写したものまであった。ふとこれは、マンダラなのではないかと思ってしまった。絵の中心、性器の中心、穴の中心を見ていると、次第に性器が蠢き始め、その中へと吸い込まれていくような錯覚を及ぼしてくる。まさに、男が女の、あの部分を目の前で見ているかのようであった。こんなふうに、客たちは私を見ているのだ。いじり倒し、弄び続けているのだと思った。客たち?そうだ。どう考えても、私はここで働く女だった。彫刻のような置き物が、布団を取り囲むように並べられていた。不気味な部屋だった。誰の趣味なのだろう。彫刻もまた男と女の情事を連想させるものばかりだった。あるいはそのまま、性行為のときに玩具として、使用できるのではないかと思うほど、精巧に出来たものばかりだった。そしておそらくそうなのだろう。私は、その、鋭利のようには見えるが、丸みを帯びた先端をみたとき、自分の股間が疼き始めたことを知ったのだ。過去の記憶が蘇り始めているようだった。身体に刻まれた、積み重ねてきた記憶が、一気に、爆発しようとしているかのようだった。この彫刻の数々を行為に持ち込み、さらには、性のマンダラを見ながら、興奮に浸っている自分の姿が、蘇ってくるようだった。いやらしい。でも、また、そうなりたい。復帰したいと、心の底から願う自分もまた居た。アスカは次第に、この場の空気と同化していた。私は娼婦だった。そして、同じ時期に、仕事を開始し、同僚であり、親友でもあったフレイヤに、見捨てられたのだった。彼女は、お金を堅実に貯め、ここを出たあとの未来を、自分で思い描き、その夢が現状を打ち破り、溢れ出たエネルギーが、彼女を包み込みんで、ここを出ていかせたのだった。そのとき、すでに、自分は快楽に溺れきっていた。身動きはまったく取れなくなっていた。彼女に捨てられたかのように思ったのだ。この場所に、異常に執着している自分がいた。
 それでも、崩れゆく病気に満ちた肉体を身に纏いながら、精一杯、人生の舞台から降りつつあるこの現実を、見て見ぬふりをしていた。
 一方で、肉体とは距離を置き、病魔に冒されていく状況を、認めない自分。
 一方で、快楽の記憶を捨てきれず、こんなになってまでも追い求めていく、肉感の記憶に拘り続ける、もう一人の自分。
 二つに切り裂かれながらも、衰弱していく自分の姿を、感じずにはいられなかった。
 私は完全にその時の現実に戻ってきているのだと、アスカは思った。





 アスカとフレイヤは隣同士の部屋だった。その娼婦の宿は創業からすでに五十年が経っていた。老人の男が一人で経営をしていた。客をとることに長けていて、売春以外にも手広く商売をしていた。
 アスカは十三の時に両親からここに預けられ、そして彼らはいなくなってしまった。両親は中学卒業までしっかりと面倒は見てくれたが、卒業後は一転、親子の縁を切るような形で、アスカを売春宿へと売り捨てていた。家は貧乏でおそらくそれから先、娘を養っていくことができなかったのだろうが、それでもアスカにとってはずっと不可解なことであった。
 それまでの両親の愛ある自分への接し方とは、うまく繋がらなかった。
 どうして一言いってくれなかったのだろう。私は進学したかったが、働きに出ても構わないと思っていた。それがまさかこんな所に捨てられるとは思ってもみなかった。
 主人になった男からは、すでに両親に多額の金を払っていて、契約は済まされていると聞かされた。二十歳までの八年の契約で、そのあいだ、お前も真面目に仕事をしていれば、それ相当の金が手元には残ることになると言った。それから先の人生を買うんだと、彼は言った。道は開けるぞ。そこをスタートの地に、するんだ。男は妙に親身になったような風体でアスカを諭した。この男の手なのだろう。しかしアスカには選択の余地はなかった。とにかく逃げるわけにもいかない。少しやってみて本当に嫌なら出ていくか、ここで死んでやろうと思った。様子見のつもりで仕事を覚えようとした。その時ほぼ同時期に入ってきた若い女の子がいた。それがフレイヤだった。フレイヤとは食事を一緒にするときに、初めて話をした。客をとる部屋と自分の寝床はまったくの同じ部屋だったため、夜寝鎮まると、次第にこの若い二人は部屋を行き来することになった。おそらく同じ境遇なのだろうと思っていたが、話をすると全く違った。フレイヤは両親に売られたわけでも、捨てられたわけでもなく、自らここにやってきたのだという。アスカは信じられなかった。主人にその真意を訊くわけにもいかなかった。初め彼女が嘘をついているのではないかと思ったが違った。彼女は本当に、自らやってきたのだった。好奇心からだろうか。ところがその理由に関しても、アスカには最初、よく理解することができなかった。フレイヤの実家は地主であって、使用人を多数抱える裕福な家だった。フレイヤはその延長線上に自分の人生や生活を存在させたくなかったのだと言う。アスカには全然わからなかった。自分の力で切り開きたいのだと、フレイヤは語った。だとしても、何もこんなところに・・・。考えられる最低の場所がここだったのと、フレイヤは言った。私を前にして、ちょっと失礼じゃないかとも、アスカは思ったが、フレイヤはそんなことは気にせず、話を続けた。
「お金も、だいぶん稼げるそうじゃないの。それにね、私。セックスが好きなのよ」
「えっ?」
 同い年だとアスカは訊かされていた。
「したことあるの?」
「あたりまえじゃない」
「そうなんだ・・・」
「とってもいいわよ」
「わたし、明日が初めてなの・・・。あの主人の男と」
「そうなんだ。相手は誰でもいいわ。そう、あのひとなのね。手ほどきされるのね。私はそういうのはないみたい。明日からもうお客が付くらしいわ。楽しみね」
 そんな子がいるなんて夢にも思わなかったので、アスカは逆に新鮮な気持ちにだんだんとなっていった。
 自分の運命もそんなに悲観しなくてもいいのかもしれない。この場所に自ら志願してやってくる子がいるんだから、そう悪い場所ではないのだと、そう言い聞かせる材料にした。
「何と言って家を出てきたの?」
 アスカは訊いた。
「何も」
「家出?」
「そうなるかな。帰る気はまったくないけど。いずれここを出て、別のことをするようになってから、一度くらいは顔は見せるかも」
「ここを出て何をするの?」
「さあ、そんなことはわからないわ。まだ、ここでの仕事は始まってないんですもの」
「それも、そうか」
「あなたは?」
「考えたこともない。こんな所に来ることだって、まったく予期してなかったんだから」
「そうなの?」
「親がここに置いていったの」
 フレイヤはすぐに事情を察したらしく納得した。
「そうなんだ。でもあなたが思っているほど、悪くはないわよ、きっと。セックスっていいものだからさ。きっと気に入ると思うわ。よっぽど嫌な奴じゃない限り。いや、そんな奴が相手だったとしても、それを頭の中からどかして、別の人のイメージに置き換えてしまえれば、純粋にセックスだけに没頭できるから。わたし、これまでもずっとそうやって来たんだもの。ああ、そうだ。ここを出たあとの話しだけど。歌手。歌手になってみたいわ。何か、人前でやるようなことがいい。脚光を浴びるような仕事がいい。才能を見つけて、それを派手に表現してみたい。どう?いけそうかな」
「その明るさなら、きっと大丈夫よ」
「とにかく、明日から仕事ね。がんばりましょ。あなたは、八年間、ここから出てはいけないのね。たぶん、私は、たくさん稼いだら、はやくに出ていってしまうと思うの。悪いわね。ほんの腰掛けくらいにしか、考えてないの。でも、あなたと出会ったのは、何かの縁だから。そのあとだって、遊びにくるわ。あなたのこと、放っておけないから。励ましてあげなきゃ。元気づけてあげる。それで、あなたが出てきたときには、私が何もかも、お世話をしてあげるの。楽しみ。今からいろんなことを想像しなきゃ」
 とにかく、フレイヤは明るかった。その明るさは仕事を本格的にするようになってからも同じだった。初日の夜、彼女の部屋からは、笑い声が絶えず聞こえてきた。性行為のときにも、雄たけびのような声が、鳴り響いてきた。気持ちがいいのか、苦しんでいるのか理解に苦しんだが、アスカにはまだ、痛みしか身体には残らず、声もまた全く自分の外に出ていく気配はなかった。こんな調子で客などとれるのだろうかと不安になっていった。 
 だが、主人の男は意外にも優しかった。そんなアスカを労わるように、毎晩抱き続けた。確かにフレイヤの言うように、悪くはないのかもしれない。アスカは毎晩のように主人の男に抱かれた。そのあと彼はアスカと添い寝をし、困ったことがあれば何でも相談に乗ると言った。私は君たちを、使い捨てのように扱うつもりはない。病気にも、できるだけかからないように配慮したい。確かに、商売においては、厳しい態度を私はとり続けることだろう。しかし、人間的には、一人の女性として、私は接することにしている。事情があって、ここで生活せざるをえない、女の子にも、人生のチャンスを与えたいと、そう願っている。だからお互いに、協力を惜しまない関係になっていけたらと思う。
 そう、主人は毎晩アスカに言った。主人の添い寝は一時間あまり続き、そして彼は部屋を出ていった。アスカは一人きりで夜を過ごすにつれて、いかに自分が傷ついているのかを知った。もともとひどい虐待を受けていたのなら、今さら両親を憎むこともなかったのかもしれない。諦めのような、ある種、彼らから解放された悦びすら、感じていたのかもしれない。だがそれまでまったく普通に接してくれていたのだ。手のひらを返すように、まったくそれ以前と今が、うまく繋がらないのだ。大きな隔たりがあった。まだ、ほんの数週間しか経っていないのに、時間的にも、大きな隔たりを感じるようになった。時間とは、このように全く現実の時計の針とは、一致していないものだということを、初めて認識させられた。とても繋がらない。この断絶感に、アスカは打ちのめされ、裏切られたことに深く傷ついていた。痛みは身体を真っ二つに切り裂いているようだった。まさに山の屈強な岩肌に、くっきりと切れ目が入り、そこが裂け目として、どんどんと拡がっている。その光景を見せつけられているようであった。まだ一か月も経っていないのに、その裂け目の拡がりは加速していっている。仕事をやっていけるのかどうかよりも、その裂け目が本当に物理的に、この身体を切り刻んでいくかのように、痛みは広がっていった。一人になりたくないと、アスカは思った。このとき初めて、客を早くとりたいと思った。そして夜な夜な男に抱かれ、横に寝ていてほしいとさえ思った。誰でもいいと思った。一人よりは遥かにいい。裂け目が広がっていくなか、しがみつくことのできる肉体が、ここに存在すれば、それでいい。フレイヤでもいいと思った。だが彼女はすでに客をとっていた。それに一度、男の身体を知ってしまえば、女の裸と抱き合っていたとしても、まったくこの裂け目は解消することができそうにない。私は傷ついているのだと、アスカは何度も思った。今はそう、この拡がっていく哀しみを埋めるための強烈な刺激が必要だった。何度セックスをしても、快楽にはほど遠い現実がある。客によっては私の体験が少ないことに気をつかってくれる人もいたが、逆にその処女に近い女を、痛ぶるように激しく、攻撃してくる男たちも多かった。暴力を振うかのごとく、怒りを込めて私という女を、傷つけようとしてくる男たちもいた。確かに、数週間前の私であったなら、この凶暴性に怯えたことであろう。嫌悪感が広がり、男に対する敵意が醸造されていったであろう。だがこのときのアスカは、逆に深い心の痛みには、これくらいの物理的な激しい痛みが釣り合っているのだと感じた。もっと、もっとと、彼女は性行為の最中、男に深く挿入することを要求していた。アスカは泣きながら、男を受け入れ続けた。そして一晩中、男の身体にしがみ付き、拡がっていく傷と共に、朝を迎えた。裂け目はいずれ、身体の深淵まで届き、本当に身体は分割されていってしまうのだろう。そのとき立ち合った客や、駆け付けてくるフレイヤや、主人はいったいどんな反応を見せるのだろう。それはいったい、いつになるのだろう。そのイメージは、アスカの中から消えることがなかった。その光景はいつか、起こることだった。フレイヤとはその後も、お互いを励まし続けた。だがフレイヤは、性行為に対する見方をだんだんと変えていった。彼女が思い描いていた、悪くないという感覚は、次第に消え失せ、彼女の声の質感からもまた、歓喜の声は消えていったのだった。


 一年を過ぎても、いまだにアスカの心の傷は癒えてなかった。客との性交渉にはだいぶん慣れた。その行為による痛みもまた、和らぐ気配はなかった。激しい痛みを伴う時間、アスカはほんの少し、自分であることを忘れることができた。もっと激しい痛みが、私には必要なのではないか。アスカは男に相談することがあった。男の変態性に火をつけることが増えていった。痛みの極限を味わうため、アスカは危険な行為にのめり込んでいった。はやく、この身体を、真っ二つに切り裂いてほしい。この性器から、本当に真っ二つに割れてしまいたかった。そうすることで、生まれ変わることを信じていたのかもしれなかった。フレイヤは一年が経つと、ほんのわずかだけれど、いつもの明るさに影が差してきているように、アスカには感じられた。口数も減ったかのように感じられた。アスカはその僅かな変化が気になった。アスカの神経は両親に捨てられて、ここに来てからは鋭敏になっていた。あれほどセックスが好きでたまらないのだと言い、最初の頃は喜々として喘いでいた彼女の姿は、すでにアスカの中では消えてなくなっていた。彼女は無理をして振舞っていると、アスカは思った。彼女は当初の想いとの食い違いを、感じ始めている。そんなフレイヤを見ていると、ふと自分はどうなのだろうと思った。私は一年のあいだに、変わったことがあるだろうか。セックスそのものを、いまだに好きにはなれてはいない。男の人と、裸で交わる行為は、特に喜びもなく、嫌悪感もなかった。そう、私は、肉体よりも心の方に問題を抱えていた。いつになったら、こっちの痛みの方は癒えるのだろう。両親が迎えに来てくれることはあるのだろうか。来るわけがないし、いまさら来られても、困る。どんな顔をして会い、その後どんな関係を築いていけばいいのかわからない。両親のことはもう終わったことだ。縁は切れた。私に家族はいない。一人で生きていかなければならない。この情況、環境のままに、二十歳を迎えることだろう。アスカはふと、フレイヤに言われた次の人生のことを思った。彼女はここを出た後の人生のことを考えている。それをふまえて、ここに来た異色の女だ。私もその後のことを今考えておかなければならないのかもしれなかった。アスカはこの宿にいる他の女たちに目をやった。ずいぶんと年老いた女もいる。いや、まだ、三十にも満たない、女なのかもしれない。かなり、老けこんでしまっている。生気もないような、蛇のような、退廃的な雰囲気を放っている。見ていて、気色が悪かった。だがアスカは、この商売も一年続けてきてわかったことがあった。そんな女の、どこに欲情して、男は彼女を買うのだろうと、当初はずっとそう思い続けていた。だがそれは違った。まさにあの退廃的な黒ずんだ空気の中でこそ、あの女たちは寝床で悪魔的な復活を果たすのだ。泥の中から生まれ出たような、そんな姿に、男たちは淫靡さを刺激されるのだ。すると男は逆にそんな女にしか欲情しなくなる。暗闇の中に潜んだ獣同士の交わりを、半永久的に続けようとする。男もまた離れられなくなった。強烈な魅力として、男の脳の中に記憶が折り重なっていった。濃密になっていった。女もまた、そんな自分と相手との世界に、溺れていった。女は益々、黒く染まっていった。闇に生きる蝙蝠のような風体は増していった。外からみれば、化け物としか思えない、爬虫類の成れの果てとしか思えない女たちを、この地底の世界は、女王として祭り上げていた。
 アスカはぞっとした。これが私の未来の姿なのだ。私の未来だらけに、すでに囲まれているのだ。フレイヤのことを思った。彼女は違う。そうはならないと、思い込もうとした。だが、フレイヤの未来もまた、うごめく女たちとそのイメージがぴたりと符合していった。今のフレイヤがじょじょにじょじょに、変化していくプロセスが、目の前に映像となって現れてくるようだった。フレイヤは今、ここに来る前の性行為とは著しいギャップを感じている。まだ心と体をうまく切り離せていないのだろう。性行為にまだ愛の存在を信じてしまっているのかもしれない。しかしいずれはその愛へ、残滓もまた、叶わぬ絶望へと変わり、少しずつ地底の闇へと離れていってしまうだろう。次第に彼女は肉体の快楽のみに、救いを求めていく。すがりつくように。それがすべてを肯定する神であるかのように吸い込まれていく。彼女の落ち気味になっていたエネルギーは、そこで偽の復活を果たす。彼女は本物の娼婦へと変わる。彼女の当初の人生計画など、無残に吐き捨てられる。この物理的次元において。彼女は誰よりもこの世界を愛するようになっている。次の人生などどこにもない。彼女はここで生涯を全うすることになる。まさにこの周りのゾンビたちと共に。病気は早くに身体を蝕み始めることだろう。それでも彼女たちは培ってきた神にすがり続ける。さすがの男たちもそこまで来るとはっと目が覚める。この女に拘る必要など、どこにもないことに気づく。別のまだ使い物になる女へと乗り換える。そうして客は、宿の中を循環する。そういえば、使い物にならなくなった女はいただろうか?アスカはそのときから、女たちの行く末に意識が向くようになった。あのゾンビたちはもういい。まだここに存在しているということは、娼婦としての価値は、それなりに残っているのだ。その先に進んでいった女たち。彼女たちは一体どこにいるのだ?アスカは注意深く、様子を伺うようになった。しかし宿のどこにもそんな女はいない。病気を重ね、廃人にまで堕ちていく女など、いないのだろうか。想い過ごしなのだろうか。みな、ゾンビ止まりなのだろうか。アスカは通い続けてきた客の男に何気なく、渡り歩いてきた娼婦のことを訊いてみる。贔屓にしていた以前の娼婦への嫉妬を匂わせることで、不自然な詮索の香りを消す。
「私を、いつまで買ってくれるの?」
 男は案外素直に答えてくれた。
「あと五年くらいかな」
「まだ、18よ」
「えっ。いま、13なの?」
「聞いてなかった?」
「16だって」
「そうなんだ」
「じゃあ、あと、七年か」
「それでも、まだ、二十歳よ」
「やっぱり、若い女が、俺は好きだよ。それに、二十歳といっても、ここの女は、四十にはみえる。病気のこともある。すでに、いろんな性病を内在させてしまっている。実際に、どんな症状が出ているわけでなくとも。そんなものはもう、実際に現れたときは、終わりさ。その要素をすでに持ってしまっているときに、俺はもう退散する。そこが潮時だ」
「注意深いのね」
「自分を守るのは、自分だけだろ?」
「溺れないのね。他の男とは違うのね」
「同じさ。こんなところで、遊んでるんだから」
「もっと、聞かせてよ」
「なにを?」
「女たちの成れの果て」
「聞いて、どうするんだ?」
「私も、そうなるのかなと思って」
「話してもいいが、ぞっとするよ」
「話して」
 男はやはり誠実だった。彼は五十前の役人だった。賢さを匂わせるようなまなざしだった。彼のような男が、私の最初の固定客だったのが、幸いだった。男は、宿の女の、出入りの実態について話してくれた。使い物にならなくなった女たちが、どうなるのか。当然、商品価値はなくなり、宿にはいられなくなる。まさか、その辺に放っておくわけではあるまい、と思いきや、まさに山の中で野犬などが生息する地帯に、女は捨てられるということだった。生きたまま女たちは食い殺され放置される。その山がどこなのかは、彼は言わなかったが、実際、女たちを運ぶところを目撃したことはあると言った。
「そうなのね。この宿にも相当、年老いた女たちもいるけど」
「俺は抱こうとは思わないが、あれはまだ、十分に使える部類だ」
「あそこから、どんな堕ち方をするのかしら?どれくらいで、追い出されるのかしら?」
「ひとによるな」
「例えば、あなたが知っていた女では」
「一概には、言えない。六十になっても、現役の女も知ってるし、二十歳そこそこで、駄目になった女もいる」
 男はそれ以上、何も言わなかった。
「ねえ、娼婦から、娼婦ではない女に、なった人はいるの?」
 アスカは訊いた。
「俺の知っているかぎりでは、いないね」
「どうして」
「みな、抜け出すことはできない。抜け出そうともしない。染まっていくんだ。快楽に。すべてを切り離して、快楽だけを拠り所としなければ、ここでは心身のバランスを崩していくから。そしてその快楽への特化による修正が、まさにそれなくしては生きていけない人生へと変えていく。だから最終的には出ていけといっても、すがりつくように、ここから離れようとしなくなる。無理やりに切り離され、野犬の生息区へと捨てられる」
 その最後の言葉に、アスカは震え上がった。
「捨てられたくない」とアスカは漏らした。
「もう二度と誰にも捨てられたくはない」
 アスカはその後何年にも渡って、同じ日々を繰り返し生きたが、性行為のときの痛みはまるで消えてはくれなかった。僅かに痛みは増しているようにさえ、思えた。フレイヤに何度も相談した。だが彼女にはまるで原因はわからなかった。主人には言わなかった。客にも言わなかった。フレイヤはそういった性器内の不快感を、経験したことがなかったので何も答えられないよと言った。あなたの身体だもの。あなたが一番よく知ってるはずだもの。でももし原因がわからないのだとすると、身体の構造に何か問題があるのかもしれないわね。
「そうなのかな」
「苦しいの?」
「ううん」とアスカは首を横に振った。「大丈夫。いいの」
「かわいそう。それじゃあ、毎晩、拷問じゃないの」
「ええ、そう。でもこれでいいのよ。これがいいの。今は」
 フレイヤに理解してもらおうとは思わなかった。
「本当にいいの?私から主人に言ってあげようか?」
「やめてよ。本当にいいのよ」
 心の痛みが身体的な痛みを与えることでわずかに楽になっていることは言わなかった。
 もしこの身体の痛みがなければ、この生そのものがすぐに爆発し、バラバラになってしまうに違いなかった。それを何とか繋ぎとめているのが、性行為による痛みだったのだ。
 アスカはそういう意味では、快楽に独立権を与え、快楽そのものを神とあがめ、溺れることなどありえなかった。そして恐怖なのは、ある時この身体にかかる痛みが、消えるときだった。もし消えてしまえば、私は心の支えを失ってしまうことになる。快楽の奔流が私を突き上げ、染めあげ、今も未来も、そのすべてをこの退廃的な世界が包んでいく・・・。
 アスカはその後も痛みに救われ、痛みにすがり、痛みと共に二十歳までの時を生きることになった。


 その痛みが突然消えた日のことは、よく覚えている。ただ気づけば、私はあまりの気持ちのよさに絶叫していた。私はいつものように、ただ痛みを感じるためだけに、性行為に臨んでいた。行為が終わってからも、痛みは慢性的に性器だけではなく、全身に広がったまま生活をしていた。痛みは時が過ぎるごとにわずかながら弱まっていった。その欠損を補うかのごとく、私はまた次の日の行為に挑むようなものだった。私にとってそれはエネルギーだった。私は毎日、仕事を通じてエネルギーを注入しているのだった。そのせいなのか、私はフレイヤたちとは異なり、病気にもならなければ、老化を体現することもなく、まるで娼婦のイメージとはかけ離れた、むしろ来た当初よりも若返っているのではないかという評判さえ立った。運命とは不思議なものだった。フレイヤとはもう、ほとんどしゃべることもなくなっていた。部屋も隣同士ではなかった。彼女は自ら別の館へと、私を避けるように移っていってしまった。フレイヤはもう出ていく気力は少しも残っていないはずだった。誰が何と言おうとも、この場所に執着することだろう。フレイヤにはまだ、大勢の客がついていたが、それも、今をピークに彼女の劣化と衰弱に連動して、離れていくことであろう。来た情況はまったく違ったが、こうして十年近くが経った今の私たちは、まったくそれこそ、お互いをそっくりと交換してしまったかのようだった。本来、私が今のフレイヤのような情況になっていて、フレイヤが私のようになっているはずだった。しかし、現実はどこでその配線を付け替えたのか。私もまた、フレイヤを近くでは見てはいられなかった。なので、彼女が自ら関係を絶つように去ってくれて、よかった。
 お互い、そうなるはずであった自分を、見るような感覚だった。私はそのとき、両親に宿に売られたときの契約期間が、すでに終えるときが近づいていることに、気づきもしなかった。私はここを出ていく日までを数えたことなど、一度もなかったのだ。私はただ痛みを受け入れ、痛みと共に生きていただけだった。ただそれだけが、日常を覆っていた。過去も未来も、考える余裕などなかった。だからこそ、突然、痛みが快楽へと変化していたことに、その瞬間は気がつかなかったのだ。ある男の客が、快楽をもたらした初めての人間であることを、まさに彼と居るときには、気づかなかったのだ。
 彼が帰り、しばらくして、やっと我に返ったのだった。
 全身は、わずかに倦怠感が広がっていて、性器には痛みはまるでなかった。13歳より前に、帰ったかのようだった。次の男との行為にも、痛みは感じなかった。そして、やる度に、気持ちの良さはどんどんと募っていった。次第に、私は、名も知らぬ男たちに、この自分の身体が弄ばれることを、嫌がる気持ちが沸いてきていた。こんな簡単に大きく股を広げている自分を恥ずかしくも思った。あれほど見ても触っても舐めても、何も感じることのなかった男性器に対しても、ひどく気味の悪さを感じるようになった。快楽をもたらしてくれるモノになったのに、逆に嫌悪感を抱くようになった。そのときだった。主人から契約の満期の話しを、切り出された。もちろん自分としては、今後もここで働いてもらいたいと彼は言った。しかし君がここに来たときに言ったよね。私は君のような境遇の女の子を、次の世に羽ばたかせたいのだと。君にはだいぶん貯金がある。だから自由にしていい。出ていきたいのならば出て行けばいいし、残りたいのなら残ってもいい。
 私の痛みは何故突然、消滅してしまったのか。主人の話も上の空で私はそのことだけを考え続けていた。あの舌だと私は思い返した。きっとあの舌なのだ。あの男が私の性器を愛撫していたあの舌の存在だ。あそこが分岐点のような気がする。舐め始めはいつもと同じ痛みから、始まったように思う。ところが数分もしないうちに、違う感覚が私の中に起こってきた。それは分厚い殻に覆われてしまった肉体のその奥から疼くように、何かの生き物のように、動き始めていた。分厚い殻を突き破って、私の触覚と融合した。瞬間的な出来事だった。その分厚い殻が、痛みを誘発し続けていたかのように、一瞬で、溶けてなくなってしまっていた。男の舌からは、どんな分泌液が出ていたのか。どんな舌の使い方をしたのか。そもそも、どんな男だったのか。私はこれまで、された行為を、思い出そうとするとき、特定の人間をうまく検索することができなかった。いろんな男と交渉を重ねたというより、一人の巨大な生物を毎日、相手していたように感じるのだ。そしてその巨人の一部にその男が居た。私は何度もそのときの情況を再現しようと意識を集中した。あの舌がどんな動きをしていたのか。私の粘膜に触れた瞬間に、それは起こった。彼が何をしたかというよりは、あの舌から発する、エネルギーそのものが、私のそれと触れ合ったときに何かが起こった。
 男とはその後も性行為を続けていたのだろうか。その瞬間の記憶しかなかった。
「私は出ていきます」とアスカは答えた。
「わかった。そう言うと思った」
「お世話になりました」
「なに、また困ったことがあったら、いつでも戻ってこい。君のための場所は、空けておくから」
「二度と戻ることがないよう、頑張ります」とアスカは言った。「けれども、七年は、あっという間でした。最初は、辛い心と向き合うのが、大変でしたが、いろいろとありまして、乗り越えることができました」
「こうして長い年月を経て、ここを出ていくことができる女性は、ほとんど君が初めてかもしれない」
「ありがとうございます」
「俺にはわからないんだ。どうして君は・・・、そう、確か君と同じ時期に入ってきた、・・・フレイヤ。彼女は・・・。普通ならそうなる。なのに、なぜ、君は。特別変わったことをしていたようには見えない」
「いろいろとあったんです。両親に捨てられたこともあります。いろいろなことが連動して、重なり合って、それで今の私が」
 アスカは、痛みを取ってくれたかもしれない、舌を持つ男のことは、何も訊ねなかった。時間が経つにつれて、そんな男などいなかったのかもしれないと思うようにもなった。痛みはあの瞬間に、どんな情況であれ、消失することになっていたのではないか。たまたまあのタイミングで、男が来て、舌で舐められ、快感の世界を初めて体験した。引き金になったのも、その舌だけのことでなく、この契約期間が終わることを察知した私の意識が、その予兆を感知して、出ていくための準備を身体に指令し始めた。そんなふうにも考えられた。
 私はフレイヤのことだけが気にかかっていた。彼女の存在は、その初期の段階では非常に重要であり、お互いを励ますことで、何とか乗り切っていけたのだった。彼女なくしては今の私はなかった。出ていくときに、顔だけは合わせようか。挨拶だけは。けれども何と言っていいかいいかわからない。彼女はどんな気持ちで、私を見送るのだろう。そもそも口を聞いてくれるのだろうか。私を裏切り者だと罵るのだろうか。あんただけ出ていくのかと。アスカは意を決し、フレイヤの部屋へと向かう。客は誰もいないようだった。耳を澄ませても、静かなものだ。襖を開ける。反応はない。フレイヤと小さな声をかける。明かり一つついていない。まだ昼まであったが、雨戸は閉じたままだ。いるんでしょ、フレイヤ。そのとき獣の呻き声が聞こえた。アスカははっとして身を構えた。動物が入ってきてしまったのかもしれない。だがその声は、布団の中からした。布団に丸く包まった人間を発見する。老婆が寝ている。ごめんなさい!部屋を間違えちゃって。ところがアスカっと、その声は続ける。よく見ると、その女はフレイヤの面影を僅かに残している。「あんた」とフレイヤの面影は続ける。「出て行くんだってね。羨ましいよ。私のことをよく置いていけるね。たいした度胸じゃないか。どうしてこうなるまで、どうしてこうなるまで私を放っておいた?何故、あんたのように、私を矯正しなかった?あんたは見捨てたんだ。自分だけが都合のいいように生きていった。私のことは何も気にかけずに。笑ってるんだろ?そうなんだろ?私には分かってるよ。あんたは笑ってるんだ。当初、私がここに来た理由を知ってるのは、あんただけだ。頭のおかしい女だとおもったんだろ。でも、あんたは、私の夢。目標をちゃっかりと盗んで、自分のものにした。なあ、これは、私の考えたことなんだ。そして、私は実行できずに、こうなってしまった。あんたは盗み、自分のものにし、これから出ていって、それを実現しようとしている。私がいなかったら、あんたはそうはならなかったはずだ。私に感謝こそすれ、どうしてこんな仕打ちが、できたものか。そう。あんたは、私に仕打ちをしたんだ。どうして、私を助けなかった?どうして私の想いを知っていながら、私が堕ちていくのを、ただ見ていた?許さない。私はあんたを許さない。呪い続ける。あんたが、私を助けようとしなかったのは、そうすれば、自分も私に、私たちに巻きこまれることがわかっていたからだ!あんたは自分を守ったんだ。自分だけを守った。そうすることで今のあんたがある。たいしたものだ。それは認めるしかない。あんたは誰にも足を引っ張られないよう、自分を巧みに防御し続けた。今日まで。もう、追手は、誰もこられない状況になって、初めて、こうして、顔をひょっこりと見せにきた。何故だ。何故、ひとりですっと出ていってしまわなかったのだ?何故、ここにきた?後ろめたいからか?自分だけが、未来に希望があることに、罪悪感があるからなのか?」
 すでに、フレイヤには、客が誰もついていないのではないかと思った。彼女はすでに、廃人で、もう数日も経てば、山の中に破棄され、動物の餌になる。私はどうしたらよかったのか。私はフレイヤが言ったような、思惑は何もしてはこなかった。フレイヤが語った夢を、横取りしようとも思わなかったし、私の目標にしたことすらなかった。
 私はただ、痛みと向き合っていただけだった。ただそれだけだった。
 フレイヤの言葉はどれも思い込みで偽りだった。間違っている。
 だがと、アスカは思った。フレイヤは、絞りだすような声で、もう行けと言った。私たちはずっと、何の繋がりすらない。ここで出会うことも、本来はなかった。さあ、行け。こんなところになど、来なくていい。あなたはもう、二度と来てはいけない。私のことも、綺麗さっぱりと忘れろ。ここでの生活のことも。私など初めからいなかった。存在すらしてなかった。
「ごめん」とアスカは言った。「フレイヤ、ごめん。本当にごめん。ただ、それだけ。それ以上は、何も言葉が見つからない。あなたを救ってやれなかった。私は救ってあげられたかもしれない。少なくとも、私しかいなかった。救えなくても、何かは、出来た。あなたから貰ったものは、確かに大きかった。私は何も返せなかった。ごめん」
 もう、目の前の人間を見てはいられなかった。私が生きてきた、もう一人の私を見ているようで心が苦しくなっていった。そしてアスカは、その肉の塊に近づき、おもいきり抱きしめた。この七年の日々を、丸ごと包み込むかのように。「許して。でも、ありがとう」
 アスカの腕の中で、その肉の塊はあっけなく、物質としての組成を崩壊させ、灰になってしまったかのように、手ごたえをなくしていった。いつか私があなたを、この広い空へと羽ばたかせてあげると、アスカは心の中で呟き、部屋を後にした。


 ようやく重い腰を上げ、その噂の施術院を訪れることにする。今や娼婦は使い捨てにされる存在ではなくなった、という声を信じた。もう一度、仕事に復帰がしたかった。死にたくはないというよりは、かつての快感を再び取り戻したかった。
 アスカは起き上がり、風呂に入り、身体を洗い、新しい服を身に纏い、精一杯の清潔さを演出して、外に出た。いったいいつ以来だろう。こうして外の世界を見たのは。光を感じたのは十年ぶりくらいかもしれなかった。宿の中で一日は始まり、仕事をし、仕事が終わっても、アスカはほとんど自室を出ることはなかった。フレイヤはどうだったのだろう。彼女とは隣りの部屋だったにもかかわらず、全くどんな生活をしてるのか分からなかった。しかも仕事の最中も、彼女の声は聞こえてはこなかった。男の呻き声ばかりが聞こえ、フレイヤのいる気配すら感じなかった。どうして彼女がいるときに、そのことに気づき、疑問を感じなかったのだろう。ほとんど、彼女には無関心だった。親友だなんて言うのも、恥ずかしくなってきた。彼女とは交流が全くなかったのだ。何度か相談されたことはあった。仕事のことだった。彼女はいくら性交渉を重ねても、痛みから逃れることができないのだと言った。私はフレイヤの深刻な悩みにも、全く無関心だった。親身になろうというフリさえ、することはなかった。結局、彼女はその痛みとどう折り合いをつけていったのだろう。今となっては何もわからない。私はそんな痛みと、日々格闘している女の隣りで、一晩中、よがり声を上げ、体を反らせ、くねらせ、欲望のすべてを、脳の深奥まで巡らせていたのだ。今さらフレイヤに見捨てられたと嘆くのは身勝手極まりなかった。フレイヤが出ていってから、すでに一年が経とうとしていた。彼女は元気でやっているのだろうか。彼女に対する恨み、嫉妬の闇が、ようやく晴れてきていた。外の陽光が、そのような気分にしているのか。これからこの肉体が治る方向へと進む、そんな微かな希望からそう感じたのであろうか。身勝手かもしれなかったが、やはり彼女とは友達なのだと思った。あのとき、フレイヤの想いを聞いてあげられなくてゴメン。受けとめてあげられる、私であったらのなら・・・。ふとその時、もしかしたら、これで結果的にはよかったのではないかと思った。適格なアドバイスをして、もしあの時の苦痛が見事に解消してしまっていたとしたら・・・。あの子は私と同じ運命を、辿っていったのではないだろうか。あのとき、放っておいたからこそ、相手にしなかったからこそ、今の彼女があるのではないか。そよぐ風が肌を掠め、「アスカ」と、フレイヤが話しかけてきているような気がした。
「アスカ。来たわよ。迎えにきたわよ。約束したわよね。必ず、あなたを迎えにくるって。今がそのときよ。私は約束を守ったから」
 アスカは幻聴に包まれていた。そのおかげで本来、この弱った身体の皮膚に痛みを与えるはずであった風に対しても、アスカは何かに守られているかのように、施術院までの道のりを何の影響も受けずに歩いてくることができた。「ありがとう」とアスカは声に出して言った。


 突然の鳳凰口の電話で、制作が一時的にストップしてしまった。
 鳳凰口から絵の依頼を受けたのだ。そんなこと、想定もしてなかった。なので、驚愕した。自分はケイロスギサキ・マリキ・ミュージアムに置く作品の制作だけに、今後の人生のすべてを、費やす心づもりでいた。別の場所に描くなど、考えもしてなかった。だがケイロは、カイラーサナータに行っていた。あの場の内部にも、自分の仕事があるのではないかと、思い始めていた。内部に飾る壁画の数々。カイラーサナータ寺院を彩る作品の数々。作りたいと素直に思った。カイラーサナータ寺院に捧げる祈りの集結された絵。ふとケイロは、誰にも言わずに、極秘にしかも無償で描いて寄進してしまおうかとさえ思った。鳳凰口もまた会社を作り、その本社ビルを構え、その内部を彩る絵が欲しいのだと言った。すべて内部を装飾する仕事ばかりだった。内部を装飾する仕事。それがこの自分の役目なのだろうか。
 一つの共通点から、さまざまな建造物に、意識が飛んでいった。そのどれもが今のところ、巨大なものばかりだった。巨大な建造物の、その内側に手をいれ、シンボル、暗号を刻印する仕事。あらゆる人間がつくる人工物の内壁に関わる仕事。外側はどうなのだろう。外壁を彩る仕事はどうなのだろう。実感が湧かない。外側は誰が担当するのだろうと思うまもなく建物は機能的でスタイリッシュなデザインで制作されている。
 この自分が手を入れる余地など、どこにもないようだった。
 どんな意味合いにおいても、自分は内側の職人なのかもしれなかった。


 施術室は当然、個別のものだとアスカは思っていた。
 指定された場所の建物の扉は、確かに小さかった。背のそれほど高くない自分でも、少し屈まないと、頭をぶつけそうになった。表札は出ていない。代わりに、扉には繊細な彫刻が大胆に施されている。扉の周りの壁はただの白いペンキで塗られていただけなのに。この扉だけが不相応だった。扉だけがどこかから取り寄せられたのだろう。出来合いのものには見えなかった。特別な発注をかけた、実に手のこんだ作品のようであった。
 美術品には全く興味のなかったアスカだが、これには思わず足を止めて見入ってしまった。なかなか取っ手に触れることさえできない自分がいた。もう少し見ていたい。距離をとり、そして近付き、凝視し、また離れていった。距離が変わるだけで全然別の図柄が浮き上がって見えてくるようであった。何が彫刻されているのか、近づいて見てみるのだが、自分が知っている、動植物や人間。人が作ったもの。そのどれにも当てはまらない記号のような羅列であった。あまりに細かく、複雑であったが、数十種類もの図形が綿密に何かの法則のもとに、配列されているかのようだった。先に扉全体のデザインし、その青写真の上に、職人の仕事が乗っかっているようでもあった。職人の手の先から生まれ出てくる全身からのエネルギーが、見ているアスカの細胞を、震わせてくるようだった。
 わずかに性的な快感が、訪れそうな雰囲気があった。股のあたりが熱くなってくる。だが次第に性的な疼きは、図形の組み合わさったデザインの中へと、移行していくように感じられた。いつもの、湧き上がってくる快感が、対象となる男へと向かい、そのあと男の色に染まった魂が舞い戻ってきて、二人の間でぐるぐると循環する感覚とは違って、上へ上へと一人で登っていくようだった。体が浮き上がっていきそうな雰囲気もあった。しかし、それと同時に、妙な安定感もあった。安心感とも言うべきか。普段の自分の快楽の中には、決定的に欠けているものであった。
 男は数十分後には去っていく。遅くとも数時間後には。見送る自分の姿がそこにはある。だが扉はどこにも行きはしない。それどころか、さらに奥へ奥へと、入るよう手招きしている。
 アスカは中へと入る準備が、自分の中に整っていることを知る。
 扉を開けると、強烈すぎる光に目を潰される。開けることができない。すぐにその場は、暗闇に包まれたことがわかったが、なかなか開けることができない。指で瞼を押さえ、反射的に揉み解そうとする。耳を澄ますが何も聞こえはしない。いや、わずかに火のようなものが、パチパチと弾けるような音がした。火ではない、ただの電子音かもしれなかった。暗闇の中、淡いオレンジ色が、閉じられた視界の中で、優しく拡がってきているのがわかる。硬直した瞼は、解凍されるように神経が戻ってくる。そっと目を開けてみる。そこは、大きな広間のような場所だった。その広さに比べて、天井はそれほど高くはなかった。天井画が描かれていた。裸の子供や、母親のような女性が、泳ぐように螺旋を描きながら舞っていた。同じ肌をさらしている絵なのに、自分の仕事部屋のものとはずいぶんと違う。そこには体温があり、その体温は宙に舞っている、透明な空気の渦の上に、同期的に乗っていた。動き出しそうだというよりは、初めから動いているように見える。動き続けているように見える。動き続ける現実を、そのまま写し取ったかのような絵だ。
 しばらく天井に見入ってしまった。だが床にも色とりどりの模様が描かれた絨毯が敷かれ、ここにもやはり見たことのない図形が規則的に並べられている。このような規則性が、混在しているにもかかわらず、深い信頼を抱く気持ちになるのは何故だろう。必ずどこかに辿りつくであろうという約束が、そこには描かれているように思われたからか・・・。
 その約束から導かれたような、姿形を現したような、このような装飾物はとても美しかった。
 誰が制作したのだろう。アスカは初めて人が丹念に何かを作ること。創り続けることの凄さを身に染みて感じていた。私には、私のいた世界にはなかったものだった。けれど、この作り上げていく仕事を思うと、そんな根気はとても人間業とは思えなかった。人間がこんなことを毎日やり、人生の大半をこのような作業に費やしているのは何と、無駄なことだろうとも思った。それくらいのエネルギーを注ぎ込まなければ、生み出すことのできないものであることは、一目で分かった。アスカの驚嘆は、尊敬の念へと変わり、すぐに嫉妬へと変わり、落胆へと変わり、不信に変わり、嘲りへと変わった。その心の変化が、これほどまでに激しく移り変わっていく様子を、今まで感じたことはなかった。
 そうか。繊細さが物事のすべての構成を、影で支えているのだ。なら、その繊細さを支えているものとは、一体何なのか。エネルギーをすべて、その人生に注ぎ込むに足る、意欲とは一体どこから生まれてくるのか。
 教えてほしかった。私のあの生活を放棄してもよいと思わせる魅力。意欲というものが、本当に存在するものなのかを。魅力なんていう、薄い概念では、到底収まらない確信のようなものを、アスカは知りたいと思うようになっていった。
 こうして数々の美術品、調度品に囲まれたアスカは、自分がここに来た目的を一瞬、忘れそうになった。


 激原は空港の建設を急ピッチで執り行なっていた。
 一人のパイロットが、すでに交信してきていた。
「何?まだ、出来ていない?」
「すいません。これでも予定より前倒しで、進めているんです。工事も加速的に進んでいます」
「いいんだな。このまま行って」
「かまいません」と激原は言い切った。
「民間から軍事用まで、用途によって変幻自在な空港だと、聞いている」
「そうです。間違いありません」
「信じて、いいんだな」
「信じるも、何も」
「着陸許可の出ない機体、時間帯は、あるのか?」
 ありませんと、激原は答えた。
「ずいぶんと、開かれたところなんだ」
「私には、わかりかねます」激原は率直に答えた。
「我々は建設を請け負ってるだけの会社です。ここが空港だけのために用意された土地ではないので、きっとセキュリティは空港機能とは別のシステムが、この複合建築物をカバーしているものと思われます」
「警備担当は、君たちとは関わりがないわけだ」
「そうです」
「わかった、ではとりあえずは、通信を絶つ」
 音声は消えた。別の信号が、通信を要求してくる様子はなかったので、激原は現場の仕事に意識を完全に戻した。
 普通の飛行場からは、明らかに逸脱した建築形態だった。しかも外注という名で、この空港のみを制作し、後からその場所に移して、嵌めこむという工法を要求された。
 鳳凰口建設にとっても、初めての試みだったが、ある科学研究所の助成を紹介され、彼女がアドバイザーとなり、共に工法を短時間で開発したことで、実現化の見通しが立った。
 だが激原はいまだに実感が湧かずにいた。そんなプラモデルのようなことができるのだろうかと。
 しかし言われた『仮りの空間』での建設作業は、いつもとさほど変わりはなかった。コンピュータ制御による、滑走路の組み換えや、空港ロービーの壁や座席の移動、ロビー施設そのものをなくし、全面コンクリートの巨大滑走路にするなど、目的によって、自在に配置の変わる構造を埋め込んだ建造物だった。そこに陰西カスミという研究者が加わり、激原は彼女からの説明をうけた。
「この、あなたたちが、建築工事をする場所そのものが、ある種の特殊な気流の渦巻いた空間なのです。なので作業中は直接、肌を晒すことのないよう、注意してください。すぐに溶けて爛れてしまいます。細胞組織が壊されて吹き飛んでしまいますから。必ず作業員たちには、注意を喚起してください。いいですね。うっかりということが、人間にはありますから。私も自分の実験室を、何度か吹き飛ばしてしまいました」
 その物言いに、激原は一瞬怯んだ。この女は大丈夫なのかと思った。あとで経歴を調べてみたが、案外まともで安心した。しかし一瞬見せた彼女の口元の笑みには、正直ぞっとした。何度も物を吹き飛ばしたことのある人間が、吹き飛ばさないようにと、人に注意を促しているこの滑稽さを、どう受け止めたらいいものか。
「大丈夫ですから」と激原の不安を察し、彼女の方が愛嬌のよい笑顔を返してくる。
 こういう表情もできるのかと、激原は思った。そう悪い人間ではなさそうだった。しかし危険な匂いは、全く拭いさることはできない。その危険さは普段はまったく垣間見ることのできないものだったが、ふとした時に、そう、まさに彼女が仕事をしている時、仕事に関する言葉を発信する時に、反旗を翻すかのような牙が剥かれてくる。
 まるで誰かを見ているようでさえあった。
 その誰かははっきりしていた。この俺だった。俺の中にあるすっかりと薄れてきていた、けれども消えることのない、かつての鳳凰口建設に入る前まで、俺の全身を蝕み続けていた、狂った激情とも呼べる、何かだった。姿形を変えても生き延びていく、その恐ろしい生き物が、この女には確実に宿っていた。
 そう思ったときから、激原は彼女のその部分ばかりに意識がいってしまった。科学者だという事実にも、何か勘に触るところがあった。もし俺に、あの時、そのような才能があって、それを磨き上げる道が用意されていたとしたら、俺はどうなっていただろう。そこに行ったに違いなかった。この女のように。そこで、知識とその得体の知れない生き物は完全に結びつき、一体と化していたことだろう。そうすれば、今の俺のような人格ではきっとないはずだった。この時、激原はこの女に対して、嫉妬していることに気づいた。彼女は自分を開花させることのできた人間なのだ。俺のように、中途半端に人が築き上げた会社に入り、すでに完成された組織の上に、ちょこんと乗っているだけで、あとは物理的に、工事の現場でこの身を酷使することで、「その生き物」が、無秩序に暴れ出るのを回避しているそんな男とは、彼女は決定的に違っていた。
「どうやって編み出したんですか?」
 激原はおもむろに彼女に訊いていた。
「編み出すって?」
「そうでしょ?元々、こんな工法は、ないはずだから」
「ああ、そういうことね」と女は答えた。
「たしかに、私が考えだした方法ね。今、大丈夫なのかよって、思ったでしょ。正直ね。こんな女が、しかも、一度も実用化させたことのないことを、やっていてって」
「一度も実用化したことないんですか?」
「そうよ。当たり前じゃない。聞いてなかった?」
「聞いてません・・・」
「あ、そうなんだ。だから大丈夫だって。もう、何十年と研究を重ねてきたんだから。ちょっとした失敗による爆発を繰り返してきて、それで次々と完成させていったんだから。色々とあるのよ。実用化したいものが。ずっとその機会を狙ってきたんだから。いつか、陽の目を見るって、思ってやってきた。やっと、チャンスが巡ってきのよ。失敗は許されない。あなたたちを信用している」
「その他にも、あるっていう、工法は?」
 俄然、激原には興味が湧いてきていた。
「もちろん、まだよ。そんな欲張りはしない」
 彼女は答える。「それに、まだ、実現していない複数の工法を、一気に、一つの対象に詰め込んでしまうのは、正直、危険ね。駄目だと思うわ。まずは、一つずつ。その辺のところは、本当に慎重なの。で、うまくいったら、次って増やしていけたらいい。いずれは一つの場所で、一つの空間で、一つの建築物でやってみたい。これでもかって凝縮させてみたいの。でもそれはまだ、ずっと先の話。まずは一つずつ実現させていって、広げていかないと。絵巻物のように。開示するっていうかさ。お披露目するっていうか。挨拶代わりの名刺だって、必要じゃないの」
 その、名刺扱いになってる今回の工法に対して、激原は急速に不安を募らせていったが、彼女に対しては、個人的にはものすごく興味が湧いていった。


 レフェティスはたった今、死んだ夫の亡骸をただ見つめていることしかできなかった。
 妹ガイが隣りに居る。ガイがそのとき、口にした名前を、レフェティスは生涯忘れることができなかった。あの悪名高いエヌビスだった。
 土に埋める前に、エヌビスの所に持っていったらどうかと。彼なら何とかしてくれるのではないか。口も簡単には割らないんだろうと、ガイは言った。
「義兄さんは、寿命で死んだわけではない。殺されたんです。そして殺した人間の名はわかっています。姉さんだって、わかっています。マリキです。姉さんと長い間交際していた、マリキです。姉さんはマリキと結婚すると思っていました。私もまた、彼を兄さんと呼んでいました。ですが姉さんは突然、別の男と結婚してしまった。まだ結婚式すら挙げていません。式の前に今度はその夫が亡くなってしまった。一体何があったのですか?姉さん。何も語らないのは卑怯です。私にはわかります。これはマリキが手を下したのです。けれど、姉さん。この夫とは非常に短い付き合いでしたが、お兄さんと呼ぶに相応しい、実に素晴らしい人でした。姉さんと幸せになってくれるのなら、私もまた、マリキのことはあきらめられそうでした。私の心は徐々に徐々に、マリキから今の夫へと移行している最中でした。なのにどうして。どうしてまた事は、すんなりと進んでいかないのでしょう。私の心を、掻き毟るようなことになるのでしょうか。姉さん、あなたのせいなのでしょうか。どうして私は、自分のこと以外の身内のことで、こんなにも動揺させられなくてはならないのでしょう。よく発狂しないでいられますね、姉さん。なんとか、言ってください。妹を落ち着かせてください。あなたの愛した男が、あなたの愛した男を殺したのですよ。これが、どういうことなのか。おわかりなのですか?姉さんは、この二人の素敵な男性の運命を翻弄し、人生をズタズタにしたのです」
 妹のガイは泣き崩れてしまった。姉のレフェティスは、何も言葉を発しなかった。
 その目は青白い炎を灯し、どこか遠くを見ているようでありながら、夫の亡骸を見ているようでもあった。そしてしばらくしてから、妹のいる方へと振り返った。妹のガイは突然、レフェティスと目があったことに驚き、上体を不安定に揺らがせてしまった。ガイは姉の視線からすぐに逃れた。
「ガイよ。よく聞きなさい」レフェティスの甘い声だった。
 ガイは懐かしかった。
 姉が幼かった自分の耳元で、夜寝るまで添い寝をしてくれた時のことを思い出した。
「ガイ。あなたが悲しむ気持ちはわかる。二人の男性、そう、あなたもまた、どちらの男性のことも好きだった。あなたは、小さい時からずっとそうだった。私が好きになるものは必ず、あとからあなたも好きになった。かわいい妹。私がもしいなくなってしまったら、あなたはどうするの?一体、何を、誰を好きになるのでしょう。あなたにも、わかっていることです。私はあなたを、ガイを、試しているのかもしれない。ねえ、ガイ。あなたの生涯のね、半分も生きることはないのです。私は。私が、王家を引き継ぐことはないのです。したがって、私の夫が、そのような地位につくこともありません。ガイ。国を治めるのは、実質、あなたの夫になる男なのです。そのことが、私には幼いときから分かっていました。わたしは、あなたが将来、どんな出来事を引き起こし、トラブルを引き受けるのかも、知っていたのです。ならばと、その悲劇は、私が引き受けることに決めたのです。私は、この短い生涯において、何か家のために一つくらいは貢献がしたかったのです。私はずっと、小さい時から、あなたの耳元で囁き続けてきました。あなたが、私の好みを引き継ぎ、私の言いなりになるよう、ずっと導いてきたのです。悪くは思わないで。
 そんな囁きもまた、今日、このように暴露してしまうことで、その負の作用は、すべて消えるのですから。私の身に。すべて起こすことに成功したのです。あなたは二人の男を、心の底から愛したことでしょう。それは本当に。あなたの純粋な心からなのです。どちらか一人に、選ぶことなど、あなたにはできなかった。どちらが先に現れたとしても、初めに愛した人をずっと、その人だけを愛し続けることは、実に不可能だったでしょう。二人とも愛してしまうのです。それは止められないのです。運命なのです。そして、あなたが王家に生まれ、あなたとその夫が、国を引き継いでいくこともまた、運命なのです。あなただけの人生なら、その二人を心行くまで愛したら、よかったでしょう。もちろん、二人の男のどちらにも、理解を求める必要はあったのかもしれないけれど。いずれ、男同士、あなたのいない所で、攻撃しあったのかもしれないし、あなたが一人の男と二人でいるときに、もう一人の男が、あなたたちを襲いにくる現実が、生まれていたかもしれない。いずれにしても、それは、恋愛の問題です。あなたが、純粋に立ち振る舞ってくれさえすれば、何の作為も労せず、素直に、二人の男と対応していけば、悲劇が訪れることは、まずありません。なぜなら、あなたには、この二人の男が必要だからです。あなたの人生に。もし、あなたが王家の人間でなかったのなら、私は、何の手出しもしませんでした。可愛い妹のことです。しかし、私もまた、現実は王家の人間なのです。間違ったプログラミングは、適切な方法で取り除かなければならないのです。そして、この場合、私が、その負のプログラミングを引き受ける最適な格好として、この世に生まれてきていました。
 このような結果を導いた私を、あなたは恨むかもしれません。それはすまないと思っています。前の恋人のマリキが、夫を殺すという結果を招きましたが、私はそこまで計算していたわけではありません。ただ、いずれ、ガイが愛する男はただの一人で、またそうあるべき人生に、修正されることを望んでいただけのことです。その最終形が頭に浮かんで、実感を得ていただけなのです。何がどうなるのか。そのプロセス。そして誰がどの役回りをするのか。まったくもって、私にはわかっていませんでした」
 ネフェティスのあまりに冷静すぎる告白に、ガイはあっけに取られていた。
 そんな策略が、裏では巡らされていたとは。さっきまでの哀しみは、一体なんだったのか。作られた哀しみだったのだ。作られた茶番劇だったのだ。今度は憤りが湧いてきた。
しかし、ガイは我慢した。この怒りさえ、姉にそうさせられたものだった。私の、私自身の感情とは、いったい何なのだろう。そんなものがあるのだろうか。何にも、誰にも、影響されない心の動きなど、あるわけがなかった。感情というものは、すべて作為による結果なのではないかと思えてきた。そこに本当のことは何もない。感情を取り払わなければ、何も見えてきやしないのだ。ネフェティスに視線を戻した。
 姉が、どんな作為を私に送ってこようとも、それはすべて虚構なのだ。
 何も怖がる必要はなかった。
「姉さん。いや、ネフェティス。どうして余計なことをしてくれたのだろう。二人の男の両方を、あるがままに、そのまま存在させておかなったのか。私を信用していないのも、いいかげんにしてほしい。姉さんは、家のためにと、理由をつけていたけれど、本当はそうじゃない。姉さんの自己満足だ。姉さんの寿命がどうだとか、そんなことは知らない。たとえ、そうだったとしても、そんな姦計を働かせる、道理はない。すべては、無駄骨に終わったわね、ネフェティス。あなたは、貴重な、自分の人生のかけがえのない時間を、投げ捨ててしまったのよ!もっと、自分のために使うべきだった。あなた自身の喜びのために。まだ遅くはない。あなたは自分を取り戻せる」
 ネフェティスの目からは青白い炎は出てなかった。
「このことを知った以上、あなたはこの家から去るべきね」
 ガイは言った。
 ネフェティスからの反応は、なかった。
「夫はエヌビスのところに連れていく。そして彼は生き返る。人の手で殺められたものはすべて、人の手によって取り戻されるの。寿命以外のすべての死は、過ちの起きる前の純粋な状態に戻すことができる。さあ、姉さん、行きなさい。私の前からは去るのよ。永久にね!」


 水原は元妻と会い、直接会うのもこれが最後であることを告げた。そして友達としては、今後も付き合っていくこと。力になれることがもしあれば、何でも話してほしいと言った。それなら、これまでだってそうじゃないと、元妻は言ったが、新しい彼女とは結婚する意志があることを、水原は告げた。
「わかったわ」元妻は落胆した様子で答えた。
「絵は続けてほしい」と水原は言った。「ケイロに対抗意識を燃やすことなく、純粋に自分のために描いてほしい。いろいろと僕に対する怒りはあるだろう。でも僕にぶつけたって、結局は自分にそのまま返ってくるだけだ。それもすべて絵を通じて浄化させてほしい。そうした時に、絵は君を包み込み、そして病んだ心を助けてくれる。君がつくったものに、君自身が救われることになる。君には才能があると思う。是非、やってほしい。君自身のために。僕は応援する」
「私をずっと独身にさせておきたいのね」
 違うと、水原は答えた。君の人生のその新しい先に、出会いはある。
 君の本当のパートナーの姿がそこにはあるんだ。それは俺じゃない。
「どうしてそう言い切れるの?」
「もちろん、断言はできない。それでも、この僕でないことは確かだ」
「どうして」
「僕らはまだ、それぞれが自分の果たすべき事を果たしていないから。高い壁を登るか、壊すか、飛び越えるか、していない。その壁は僕らそれぞれに、異なったものだ。一緒に乗り越える壁ではない。ここに来るまで、僕らはそのそれぞれの壁の在り処を、探し続けていた。そしてそのために、傷ついていくお互いを、励ましあい、助け合うために一緒にいた。壁はいつのまにか、見つかっていたんだよ。そしてお互いの前に、強烈に出現した。同時期に、しかも同じ場所だったのかもしれない。しかしそれはお互いにとっては、全く相容れないものだった。今度は二人でいることが、その壁に取り組む上で、見事に障害になり始めている。二人はあらかじめ察知し合っていた。ごく自然に籍を外すことになった。まだ心の表では納得してなかった僕らは、過去の幻に引きずられて、付き合いを続けていってしまった。それが今日までの現実だった。二人でこれまでの繰り返しを定着させることはまったく好ましいことじゃない!未来に、輝かしい記憶を、生んではいかない!」
「あなたはそう思ってるのね」
「そうだよ。僕はそう思ってる。少なくとも、二人のうちの一人は。どちらが先に気づくかの問題だ。いずれ遅れて気づく方も、同じ解釈へと辿りつくと思う。むしろ遅い方がより深く、明確にね。そして素直に、現実を描写できるようになる。それは君の方だ。君の方が、描写力が、格段に優れていくことになる。僕はそのことに気づいたから、だから自分が創作者にはなれない、向いていないことを、再確認することになった。僕は創作者よりも早く、その現実に気づくことができるから。だからそういった役回りが最適だ。創造の才能のある人間の側にいて、彼らよりも早くに、事を把握して、彼らがひらめきを得て、腰を上げる瞬間に、応えていく準備をする。僕と君との関係も、その一つに数えられるのだと思う。きっとそれが、君との最も良い関係なんじゃないかとも思う。本来の関係なのだと思うから。これまで以上に、深い結びつきを得ることが、できるんだと思う。いろんな事が言えるけど、このまま二人の女性と付き合い続けることも可能だけれど。僕は君との関係を断ち切ることなく、むしろ形を変えて、存続させていくことが望ましいんだと思う。必ず君にも、生活を共にする男性が現れるはずだ。僕は君と一日中、生活を共にし、その先、何十年と、常に側にいる情景を思い浮かべることが不可能だった。今もそうだ。けれど、新しく出会った彼女の方は、そうではなかった。何故か真っ先に、彼女との生活が思い浮かんでしまう。消すことができなかった。日に日に実感が深まっていった。もうほとんど、そうなっているかのように、朝起きて勘違いすることだってある。君にも今日。今納得してもらいたい。ケイロとは違う道を、歩んでいってほしい。彼は彼の運命で、君とは何の関係もないのだから。君が自分の特技に気づくきっかけにはなった。ただ、その役割だけだ。君には、君の輝かしい道が用意されているから。それを放棄しないでほしい。打算や妥協で、閉ざしていかないでほしい。僕はそのことを、君に説得するつもりはない。僕が、僕自身の道を、今、夢中で進むことがすべてだ。本音を言えば、こうして会ってる時間すら、無駄なことかもしれないと。長々と、ごめん。自己満足かもしれなかったけど、とにかく待っている。僕のところに来る日を。僕の力を必要とする日を、心から楽しみにしている」
 水原はこれまで、彼女と過ごしてきた日々のすべてを、思い返し、涙が溢れ出てきていることを知り、それを隠すように彼女の前から姿を消した。



ガイは召使いに、棺桶に入った夫を、カイラーサナータ寺院へと運ばせていた。悪名高いアヌビスの支配地域へと、足を踏み込むことになった。一度、アヌビスの世話になれば、二度と、彼抜きでの生活は送れなくなる。アヌビスは死者を再生し、この世での活動を再び送れるよう、エネルギーを投入し続ける魔術師だった。復活した死者は、誰の目にも完全に生きているように見えたし、本人もまた、アヌビスの事実を知らなければ知らないで、ごく普通に生をまっとうすることができたが、彼を再生させた人、人たちには真実が常に取り巻くことになった。
 アヌビスは報酬をほとんど受け取ることはなかった。その後も何か政治的な影響力を及ぼすこともなかった。しかし彼と関わったすべての人は、アヌビスに対する畏怖の念と、この自分の命を捧げても惜しくはないといった、信仰心が、いつでも芽生え続けることになった。彼への祈りから、逃れられない宿命を、背負うことになった。再生した当の本人に、事実をいう者はほとんどいなかった。
 自分のことをガイと認識する、アスカが居た。すでに死を待つばかりであった娼婦の成れの果てとなっていたアスカは、店の人間たちに、ここに来るよう説得されていた。しかし、今、私はガイになっている。私の背後には、棺桶の中にに入った夫がいて、その棺を腕で支える、六人の召使いがいる。「ガイ様」と、その召使いの一人に声をかけられる。
「私たちは、ここからどうしたらよいのでしょうか」
 ガイと呼ばれる私は、幾何学模様の繊細な刺繍が施された大広間に、すでに座っている。
 どうしろと言われてもわからない。ネフェティスは王宮から出ていった。二度とこの姉妹は、顔を付き合わせることはないのだろう。夫を殺した「マリキ」という存在は、どこに行ったのだろう。私が知るはずもない。
 そのようにアスカは思った。異なる世界の情報が混在し、整合性は何とかとれていたものの、所々綻んでいて、その綻んだ場所にはがさつな破片が、掃き溜めのように密集させられているかのようだった。
 最終的に、困ったときにはそこに逃げ込めばいいとアスカは思った。
 それまではできるだけ長く、この場に居てやると思った。どうぞ好きなように、私に見せていったらいい。そう開き直った。そしてその想いはすぐに、この「場」に伝えられたかのように空間はうねり、蠢き、暴れだす寸前であるのを、必死で押さえるかのように、小刻みに震えていた。
 広間の中央に棺は移動していて、支える召使いの姿はない。棺は浮いているようにも見えた。青み懸かった半透明な色に、その辺りの空間は、染まっているようだった。何の仕掛けで、浮いているように見せかけているのだろうと、アスカは思った。広間に並べられた、アンティーク調のソファーには、すでに人がびっしりと座っている。中央で演奏会が開かれるような、マジックショーが行われるような、そんな雰囲気だった。ちょっと目を離した隙に、棺もなくなっていた。夫が誰の支えもなく、常に横たわっていたのである。まただ。衣服は完全になくなっている。と思った瞬間、身体がわずかに離れているように見えた。腕と、肩とが、肩と、胴とが、胴体もまた、不均等にいくつかに亀裂が・・・。ちょっと目を離した隙に・・・と、いや、違う。目など、離してなどいない。繋がりのない繋がりの中で、時間は動いているようだった。もう何でもよかった。逃げ込める場所すら、失ってしまっていたかのようだった。なら、醒めない夢の中に、とことん付き合ってやろうと、アスカは思った。そこからは、本当にめちゃくちゃだった。現れたアヌビスは見士沼だった。私は今、この男から施術を受けている最中だったはずだ。見士沼は浮いたマリキの側に、近づいていた。だがそこにいるのは、マリキではなかった。誰だかわからない、若い男だった。しばらく、二転三転と、その男のイメージは変転していった。結局、行き着いた顔は、タレントでモデルの、戸川兼だった。彼がそこにいるだけで、新しい広告の撮影の現場のように、見えてきた。そして見士沼の風貌をしたアヌビスは、戸川扮するマリキを包み込むように、腕を近づけ、決して肉体には触れないように注意しながら、滑らかな手の動きで、戸川に纏わりついたマリキのエベルギー体のような気流を、自在に操り始めた。色が変わり、肌触りが変わり、大きく、そして小さく、尖ったり、丸まったりを、繰り返した。戸川の体は橙色から、赤色、濃い黄色へと、変化し、グラデーション架かった熱のようなものを発して、時に激しい炎に包まれたかのようになった。
 アスカはその触れてもいない彼の肉体の感覚が、重なってきたかのように覆ってきていることに驚き、払いのける仕草をした。アヌビスはいなかった。椅子に座った人間たちは、微動ともせず、静止していた。
 赤い色を発し、青色系統の空気に、周りを囲まれていた、戸川の身体には、すでに亀裂のようなものは、見られなくなっていた。彼は、いつのまにか、自分の足で立っていた。
 気づけば、広間全体に、人々の拍手が鳴り響いていた。
 戸川は、自力で足を動かし、この部屋から退出するかのごとく、ゆっくりとゆっくりと、歩き始めていた。その横顔を見た。戸川ではなくなっていた。見たことのない男の顔になっていた。夫か?夫だったのだろうか。夫は生き返ったのだろうか。私、ガイのことが、彼にはわかるだろうか。私は立ち上がり、夫に、その存在を激しく主張したがっていた。私は今は誰なのだろう。
 夫が反応すれば、私は自分がガイであることを、証明することができた。

 新居で妻を抱いた後、いよいよグリフェニクスへの上昇が迫ってきていることを察知し、友紀にそのことを初めて告白した。
 鳳凰口はもう二度と、こういう形で会えなくなるかもしれないと言うつもりで、彼女に切り出した。友紀は知っていて一緒になったとは思っていたが、実際に口に出して言うと、急速に現実味を帯びてきて、もう後戻りはできないことを自覚していた。
 この日、友紀は一言もしゃべらなかった。最近の友紀は、口数が極端に減ってきたように思う。
 そして今日を迎える。自分が本当は何者であるのか。その片鱗を口に出した瞬間、自分だけが一人、重力を超越した巨大な鳥になって、友紀の元から羽ばたいていってしまうように思っていたが、これが甚だしい思い違いであることに、鳳凰口は気づいた。
 友紀もまた、自分と同じグリフェニクスに吸収され、グリフェニクスそのものとして昇天していく運命にあるのだ。自分だけがそうなってしまうという自惚れと恐怖は、一気に解消していった。友紀と本当の意味で、一つになる重要な一瞬だった。グリフェニクスはいつの日か、自らを二つに分離し、その名を高くに留め、分離した存在は地上でさらなる細胞分裂を繰り返し、終わりのない新しい人間を作り続けていった。
 鳳凰口は自分の近くにいる人間たち、水原や戸川なども、あるいはある種の自分ではないかと思い始めた。少しだけ要素の違う、別バージョンの自分なのではないかと思った。彼らもまた、自分の本質に気づき、グリフェニクスになろうとしているのだろうか。変態しようとしているのだろうか。友紀もまた、グリフェニクスとなれば、この自分と区別をすることはできなくなるのだろうか。
 鳳凰口は、この自分と友紀という、明確に区別のつく状態を維持し、彼女の魅力の虜であり続けたいと思った。また、自分の魅力のすべてをわけ与える、この関係を、何より好んでいた。大事にしていた。
 そう思ったとき、友紀の声が、今日はじめて聞こえてきた。彼女本人が喉を揺らせたようには思えなかった。彼女が感じた事を、ダイレクトに投げてきたかのようであった。私たちの関係は、今後も何も変わらないというようなことを、伝えてきたように思う。あなたが思い浮かべる人たちもまた、みんなこれまで通りの個性を発揮し続けるから、と彼女は言った。よりパワフルになって。あなたも。私も。人間であることに変わりはないのだからと。半分は死ぬまであり続けます。肉体もまた、人間であり続けます。あなたが望めば、そしてその必要性があれば、もちろん人間でない動物の姿を晒すことは、可能です。姿かたちを、消してしまうこともまた、可能です。人間である半分を、意図的に、変化させればいいのですから。あなたは自由に、自分を変幻させる能力を手に入れることができる。
 そうなのかと鳳凰口は思う。そして友紀は続けて言う。
 少し、住む場所は高いところになるかもしれません。少し高いところに。でも不便ではまったくありません。この地上で起こっていること、これから起こることが、見下ろせる位置にあるのだから。
 私たちは、情報の外に出ることになります。情報の中から、情報をとるのではなく。
 情報の洪水に飲まれた中で、情報を掴もうとするのではなく。
 必要があればもちろん、瞬時に下降して、ピンポイントで、その場に存在することができます。そこで体感は戻ります。人間としての。
 そこでは、これまで通りの私たちがいます。私たちがこうして、体を使って互いの存在を包み込むことで、愛を交わしたいときは、そのように二人で、下降していけばいいのです。
 そして事が終われば、また瞬時に住居へと戻ればいいのです。私たちの住む場所は、この巨大ビルの中の一角ではないのです。本当のところは。
 ここはほんの仮りの住まいであって、またその上空の住まいへと移動するための、通り道であって、そのための体をなくすための、準備期間を過ごす場所なのです。
 なので、すぐに、私たちの痕跡は無くなります。
 もう、別の目的の、別の用途での使用が始まっています。
 それぞれが、少しずつ少しずつ。同時に。すべては、連動的に。
 私たちは、静かにそっと、抜け出します。するりと、抜け出すのです。会社は残ります。本社ビルは存在します。抜け殻のように。でも、実体のある、私たちの抜け殻なのです。他の施設と共合し、時に重なりあい、時に分離し、対立し合い、また一つに溶けあうように。
 その揺らぎの中で、私たちも、また、その一部として、地上に存在し続けます。
 鳳凰口は、すでに、いつもの視界を失っていた。眩しい光に視力は潰され、影としての残像の一つに、友紀の姿を見ているだけだった。彼女の声が、これから訪れる世界の到来に対する不安を、払拭していた。
 友紀と一緒になった意味が、全てここに結集しているようだった。
 友紀は友紀として、また自分の前に、その個体としての姿を現してくる。
 彼女に想いを捧げ、一つになった情感に、意識を集中し、鳳凰口は、この光の中で、自分の分身であるかもしれない、すべての人たちのことを思い、彼らのエネルギーが、今、ここに集まってきていることを感じとった。


 施術を終えたアスカは、支払いを済ませ、見士沼が差し出してきた右手を握った。
 アスカの夢うつつは続いていた。この目の前の男も、また、見士沼という名の別物が、混在しているかのように見えた。アスカはすべての人間が、このように多重構造に見えていた。
 いくつもの層に包まれていて、剥けば剥くほど、別の人間、別の時代、別の記憶があらわになってくるように思われた。だが、それよりも、今回の施術の方は、うまくいったのだろうか。特別、肉体的な快感は、施術の最中には生まれなかった。もうこれで二度と、この男の世話にはならないような気がした。男は私をもう二度と、自分の元には来させないように、奥深くで繫がる二人の線を、さり気なく、切断したのかもしれなかった。
 見士沼には、見た光景のことは言わなかった。この男が意識を操作して、見せていたのかもしれなかった。真意のほどはわからない。アスカはそれでも、まだ自分を取り戻せてなかった。今日、来る前の自分に戻ることができてなかった。その繋がりこそが、断ち切られてしまっていた。自分で繋げ直す以外に、方法はなかった。
 とりあえず、見士沼のマンションからは出た。街に出ても、行くあてが思い浮かばなかった。住宅街の迷宮に、入り込んでしまったようだ。アスカは構わすに歩き続けた。前の恋人のマリキはあのまま倒れることなく、日常に復帰したのだろうか。姉のネフェティスは王宮を出ていき、その後どうやって暮らしているのだろうか。夫の行方も分かっていなかった。マリキへの殺害容疑で警察に確保されたのだろうか。死んでなかったことがわかって、殺人未遂罪に切り替わったのだろうか。夫の姉が手を組み、私を襲ってくることはないのだろうか。
 急にアスカは、誰かに狙われているような気がしてきた。周囲を見渡した。
 住宅街に、すっぽりと、この身が包まれてしまっている。ゲルのように、グニュグニュとした質感で、固体なのか液体なのか、微妙な状態で自分を取り巻いているような気がした。
 眩暈かと思った。それで視界が歪んできているのかと思った。だが足取りはしっかりしていた。地面もまた硬かった。アスカは十字路を左折する。その瞬間、とりまく住宅たちは、一気に姦計を図ったかのごとく、配置を一瞬で変えたかのようだった。
 アスカは自分を見る無数の眼がそこらじゅうにあるよう気がして、変になっていった。完治したのだろうか。アスカという名の娼婦は、病気から回復したのだろうか。さらには、彼女に続いて、病魔に犯された娼婦たちが、続々とあの場所を訪れるようになっているのだろうか。そしてあの時代の、あの店の周辺にいた娼婦たちだけではなく、時空を超えて、この人間社会に生きる無数の娼婦たちが、あの場所を目指して、動き出しているのだろうか。娼婦を超え、肉体や感情に、さまざまな損傷を負った人間たちが、あの場所と、開通した秘めやかな道を、次々と渡ってきているのだろうか。 
 その開通する役目を、この私が担ったのだろうか。何なのだ。この私とは。
 一体どうなっているのだ?いつからおかしくなっていったのだろうか。
 休みのバイトからか?あそこに繫がったときからか?その前から徐々に徐々に、私の路線はズレ始めていたのだろうか。そうかもしれない。わずかすぎて、全然、気に止まらなかったのかもしれなかった。一体、いつからなのだろうと、アスカは自分ではない誰かに、聞きたかった。もともとの始まりから、すべてが狂っていたのだろうか。生まれたときから、すでにこうなることが、決定していたのだろうか。アスカはとにかく、この今の現実からは離れたかった。とにかく、引いて引いて、引きまくって物事を見たかった。もっと上に、もっと高い場所に行けるのなら、私は、私のすべてが、見えるのかもしれないと思った。もっと高く。もっと遠くに。私という人間は、そんな彼方に行かないと、捉えることができない、巨大な重合体なのかもしれなかった。私が、今の私であるのなら、何も変わらない。変わらないどころか、おそらく、私は発狂してしまうことだろう。ここに来る前の私とは、完全に入れ替わってしまったかのように感じる。その入れ物に、これまでと同じ私を入れようとしても、その不具合から、多重の記憶の海の奔流に、溺れ死んでしまうことになる。
 私は私を失い、どの私にも復帰できないまま、次なる私の手がかりを失うことになる。
 これが、施術による作用なのか。施術による副作用なのか。何なのか。それはどうでもよかった。今は、ただ、この迷路から脱し、上にのびる道に未来を託す以外に、思い浮かぶ考えはなかった。
 とにかく、上に。そして、全貌に近い絵が見えた後で、そのどこかに降臨する。
 そこがあたらしい私だ。名前など、どうだっていい。再びアスカを名乗ってもよかった。


 激原は陰西カスミと仲良くなり、仕事以外でもカフェでお茶をすることが、多くなっていった。ふと、お互いの恋愛の話になったとき、激原は彼女が水原永輝と付き合ってることを知って驚いた。さらには前の男は鳳凰口であったこと。そして水原とは結婚をする予感まであるのだと彼女は語った。激原は自分がモデルのフレイヤと付き合っていることも、素直に言った。陰西は驚かなかった。彼女はほとんど国内のニュースを見ることはないらしく、フレイヤが芸能界の三面記事を賑わす女であることは、全く知らなかった。
「あなたたちは?」と陰西は訊いた。
「子供ができたかもしれないんだ」と激原は言った。
「そう言われたんだけど、でも彼女は最後には冗談だといって、誤魔化した。俺にカマをかけたのだと言って笑った。半分ほっとはしたけれど、でもあれから時間が経てば経つほど、子供はこの世との繫がりを色濃くしているように感じるんだ。実際、避妊はしなかったし。生々しい話、彼女の中に多量に出してしまった。許可なく」
「許可って、そういうことをしてる時点で、共犯でしょ」
 そういうことでもないんだと、激原は心の中で思った。けれども事情まで人に晒してしまう気にはならなかった。あの日はどうかしていたとしか言いようがなかった。確実に自分と自分の分身が強い絆を結び、太くなってきているような気がする。決して不快ではなかったが、まだ確定はしていないのだとも思った。まだ変更はきく。その分身の肉体は、次第に、形作られてきてはいたが、その入れ物の中に満ちる中身は、まだどこからもやってきてないように思えた。しかしそれも寸前まで迫ってきている。
 激原はそのパイプに強い圧迫感が生まれていることに、焦りを抱いていた。
「水原と知り合って、どのくらいなの?」
「一ヶ月かもうちょいか、そんなものよ」
「ずいぶんと、決めるのが早いんだね」
「そう?初めからわかりきったことでしょ。あなたもそうでしょ?そんなに長く付き合ったわけじゃないでしょ?なのに、そんな無防備なセックスをしちゃって。いつも、そうじゃないでしょ?もう決めちゃってるんでしょ?彼女がその人だって。生涯の伴侶だって。それに限りなく近い存在だって」
「彼女、フレイヤ。結婚してるんだ。すでに。離婚はしていないと思う。子供だっている」
「ほんとに?」
「ああ、不倫だったんだ。結果的には」
「それは初耳」
「有名なんだ、彼女は。芸能人だし。ほとんど誰だって知ってる存在だ」
「それで彼女は何て?産みたいって?」
「話、きいてなかった?だからフレイヤは、子供なんて出来てないって言うんだ」
「けれども、あなたにはそうは思えない。実際、そういうこともしてしまっている」
「そう。こんな感覚は初めてだ。本当にそう感じるんだよ。息子だか娘だかわからないが、自分の子どもがこの世にすでに存在しかかっているような・・・」
「もう一度、ちゃんと話し合うべきよ」
「そうだけど」
「私もその子のこと、少し調べてみるわ。ネットだけど。全部、出回ってる情報は嘘かもしれないし」
 陰西はレモネードをおいしそうに飲み干した。
「それは少し思ったことがある。本当は夫も子供もいなくて、一人身なんじゃないかって。彼女とは短いながらも一緒にいて、まったくそういう人の影が感じられなかったから。だから俺は無意識に、あんな行動に出てしまったのかも・・・」
 陰西は「きっとそうよ」と激原に便乗するように言った。
「彼女もありのままのあなたを、受け入れたかったんだと思うし。あなたもあなたで、彼女を誰にも取られたくなかった。もう決めちゃってるのよ。なんとしても彼女を、自分のものにしたかった。揺るぎない痕跡を残したかった。いいじゃないの。私は悪いことだとは思わないわ。結局、どんな道を辿っても、そうなるのよ。なら、最短で、それはものにしてしまったほうがいい。うろうろと、うにょうにょと?蛇行したって、本当にそれこそ、別の男と結婚して、子供も産んでしまって、ややこしいことになっていくんだから。早い方がいい。たとえ、彼女の言うように、子供は出来てなかったとしても、彼女と一緒になりなさい。あなたそのものからも、すでにその子のエネルギーが強く感じられる。もう一体になってる感じもするし。あなたの細胞に刷り込まれている。大丈夫だから。彼女で間違いないから。私の勘は外れないから。運命の男に出会って、ほら、結婚まで決めてしまっている私の、このタイミングでの直観を信じなさい。子供は関係ないの。いてもいなくても。それにね、あなたはほっとするか、落ち込むかはわからないけれど、彼女のお腹に、おそらくは誰もいないわ。あなたの勘違いだとは言わないけれど、彼女、フレイヤさんだっけ?うん。たぶん、子供はできてないと思う。受精のタイミングではなかったのか、何なのかはわからないけど、うん、いない。感じられない。子供が欲しければ、また仕切りなおしなさい。チャンスは無限にある。というのは言いすぎだけど。勘違いとは言わないけど、何か別の情報が入り込んだだけかもね。あなたの子供ではない、別の子供の情報とか、そもそも子供ではない、別の生き物の誕生とか、この世に降臨してくる何かの存在とか。思い当たること、ないかな?そんな気がする。フレイヤさんのお子さんのことは、あなたの言うように、私には何も感じられない。まだ産んだことのない女性よ、彼女は」
 激原は本当にフレイヤに求婚しようか、その気にさせられていた。
 フレイヤに連絡し、この場に連れてきて、陰西カスミを証人としてそういう現実を作ってしまおうかとさえ思った。


 アスカは住宅街を歩いていた。
 ふと、森の中でひっそりと建てられた城が現れてくるかのごとく、大きな建物がその姿を現した。高層ビルのようだった。だがその形状が変わっていた。上に行けば行くほど、幅が階段状に細くなってきて、正面からみると山形の大聖堂のような、周りに旋回してみると、ピラミッドのような形状を露出している。
 住宅街がまるで城下町のように出来ているみたいだった。突然、観光地に放り出されたかのようであった。人とすれ違うことはない。アスカはこの現れたビルの中に入ってみようと決意する。様々な動物のような風体の彫刻が施された、扉の前に立つと、触れる前に両扉は勝手に奥へと開かれていった。眩しすぎる光が、アスカを襲った。放射能かと思った。ビルの内部に、光が溜め込まれているかのようだった。開け放たれた瞬間に、漏れ出た光。アスカは前方へと進み、扉は音もなく、また閉じたようであった。 
 ビルの方がアスカを求めているような自然さだった。そんな求愛に対して、アスカは何が差し出せるのかを考えた。私に今持ち合わせているものといえば、この混濁しかなかった。乱れの止まらない、意識の混濁しかなかった。これしかないことを硬質な建材たちに伝えると、気のせいではあったが、それがすんなりと認められて、喜んでいるように感じられた。ぼやけた視界は徐々に戻っていった。ふとここは、ビルの中ではなくなっていた。野外だったのだ。
 太鼓の音が横隔膜を激しく震わせ、立っていた大地は上下に揺れ続けていた。
 日に焼けた、ほとんど半裸状態の男女が手をつなぎ、また離れていきながら、激しく踊り続けていた。楽器を演奏する男女も多く、飲食を楽しんでいる男女も多かった。なんと、一目も憚らずに抱き合って、愛し合っている男女もいた。みな、それでも音楽に合わせて踊っているようだった。体を入れ合っている男女でさえ、そう見えた。みな、別の人間たちが何をやっているのかには興味はないようだった。それぞれが自己陶酔していた。ペアの相手にすら意識は希薄のようだった。しかし不思議と、相手に対する敬意のようなものは感じた。全体においては、一つの祭りを表現しているようだ。目は完全にどこかに行ってしまっていた。音楽の作用なのか、アルコールのせいなのか、薬草を使用しているからなのか、トランス状態は急加速していった。リズムは早くなり、体の動きも、キレを増していった。誰もへたばってはいない。動きは統一され、意識も融合している。私だけがこの世界から外れ、外れているのにこの世界にいた。
 ふと、そんな疎外感が湧いてきたときだった。場面は一転した。
 アスカを取り巻いた祭りの絶頂はどこにもなく、厚いガラスに覆われた無人の白い部屋に、取り囲むように、白衣姿の医者か研究者のような、男女数十人が立っていた。こちらは終始、無言で無人の部屋の中の一点に、みな集中しているような状態だった。別の意味で人々の心は融合していた。広がりではなく、収縮といった形で。アスカもまた無人の透明な窓に囲まれた部屋を見ていたが、一体、何を皆は見ているのかわからなかった。アスカには何も見えてはこなかった。あまりに微細なもののために、見逃してしまっているのか。ここでも疎外感に苛まれ始めた。また場面は変わった。
 疎外感が、スイッチであるかのように、アスカの意識の変化によって、見える場面が変わっていった。アスカには次第に、ちょっとズラすという感覚が芽生えていった。
 ほんの少し、ズラすことで、自在にさっきまで見ていた世界を消したり、再生したりすることができた。ただ、その世界は、それぞれが別で進行していた。戻ったときには、場面は展開していることが多かった。第一回廊と呼ばれる、建物の地下の部分の完成を喜び、祝賀会が開かれている場面にも、アスカは飛んだ。また、たった一人きりで絵を描き続けている男がいる世界もあった。その一人ということに、今度は焦点が当たったのだろうか。人里離れた中世ヨーロッパ風の豪邸の中で家族もなく、数人の黒人の家政婦たちが蠢く中で一人、古い書物を読みふける初老の男の姿があった。男はさまざまな文献を読み漁り、何かを探しているようだった。頭を抱え込み、またしても見つからなかったというような表情を浮かべて、何かにとりつかれたように白紙を広げ、インクをつけた筆で、一心不乱に文字や図形を書き付け、納得がいかないのか、丸めて捨てるといったことを、繰り返していた。アスカはいたたまれず別の世界へと切り替えた。
 だがこの男のことが気にかかった。再び場面を戻した。男の机には何冊もの本が広げられていた。所々にラインが引かれていた。そして男はそのラインを指で追っていき、天を仰ぐように体を逸らし、絶叫し始める。彼は歓喜を爆発させていた。彼の発する言語は、よくわからなかったが、ついに彼は探し求めていた何かを見つけ出したらしかった。それは文献の中に記録として残されたものではなく、何のつながりもない本たちの、ほんの一部分を、偶発的に繋ぎ合わせることで、彼の中で一つの何かが閃くといったような結果になっていた。そのついに発見したものに、喜びを与えると同時に、その発見をあらたに記し、記すだけではなく、その種をより深く掘り、確実にして、さらには発展させるかのごとく・・・、そう、アスカには、この初老の男が、ここに来るまでに、どんな道を歩んできたのかが、ありありと実感として、蘇ってくるようだったのだ。アスカは自分のことのように喜んだ。そして別のチャンネルへと、意識をズラした。
 実験室でも歓喜の声は広がっていた。祭りの場面はさらにヒートアップしていった。
 どこまでも彼らは登りつめていくようであった。一人きりで描き続けた画家は、それでもただ静かに、次なるキャンバスをすでに見つめていた。第一回廊を完成させた工事のチームはその先の建築計画に、着手していた。アスカは今感じることのできる、その必要性のある世界を見届けると、再び視界には暗闇が包みこまれた。
 その中にある、わずかな光が広がってくることで、迷い込んだ住宅街の中に今、自分が佇んでいることを知った。


 水原永輝との結婚が正式に決まったことを、陰西カスミは激原にメールで伝えてきた。
 驚いたことに、その日はフレイヤに直接会ってプロポーズをしていたのだ。やはり、彼女は妊娠してなかった。夫や子供のことも、事務所と自分が共謀したでっちあげであったことも告白した。彼女は長谷川セレーネに対抗意識を燃やし、彼女に憧れながらも、彼女を潰して引退に追い込みたいという、破壊的な願望を持っていた。しかし長谷川セレーネが、電撃的に引退を発表してしまったことで、フレイヤの心はぽっかりと穴が開いてしまい、次第にこれまでの虚飾が色ざめていってしまった。
 すべては私の中に根付いてしまったあの女を、叩き潰すためだったと、フレイヤは言った。
 嘘も含めた、私のすべてを語ることのできる、開示することのできる、相手がいてよかったともフレイヤは言った。
 私も最初からあなたが本物のパートナーになると、どこかで思っていたのかもしれなかった。
 フレイヤは「喜んで」と素直に受け入れた。
 激原は、自分がまさか、結婚する人間だとは思ってなかったので、実感の方がついてこないでいた。
 そんな状態の時に来た陰西カスミからのメールだった。

 激原はすでに陰西ではなく、水原に電話をして呼び出していた。 
 一緒に飯を食おうと、ピザ専門のイタリアンの店で待ち合わせをした。
 水原は会うなり、お互いの同時期での結婚を祝福した。「はじめて気があったように思うよ」と、水原は言った。
「陰西さんとは、仕事で何度かね」
「きいてるよ。二人で食事にも行ってたんだって?あいつを通じて繋がっていたのかな、オレたち」
「そうだな」
「けれど、オレの方が吃驚したぞ。相手は、なあ、有名人だし。いまだに信じられない気持ちだ」
「ああ、でも、すごくいい奴なんだよ。世間で言われているような女とは、全然違う」
「そうなんだろうな。誰だってそうだ。オレも、お前のことを、見直しているよ。ほら、最初から、気が合わなかっただろ。でも、何か、ずっとひっかかるものがあった。いまだに、それが何なのかはわからないが、こうして良い共通点が、一つ見つかった。これからも増えていくような気がするよ。で、彼女は、仕事を続けるの?」
「そうだな。けれど、いろいろと世間に告白しておきたいことがあるらしくて、近々、結婚報告に合わせて、会見を開くみたいだ」
「すげえな。さすがだな。芸能人。お前の名前も出ちゃうんだろうな。顔は?」
「そのへんのことは、特には決めてないけどね。まあ、出さない方向にはなるよ」
「なるほどね」と激原は全然納得してない表情で、何度か首を縦に振った。
「お前の方こそ、あんなインテリの女と、くっつくとは」
「だよなあ。でも、一つにこう打ち込んでる稀有な才能の持ち主。圧倒的な能力を、余らせて自らを破滅させてしまいそうな、そんな人間に、オレはどうも宿命的に惹きつけられるようだよ。そういう傾向がさ。また、そういう奴と、よく出会う。カッコイイと思うし、オレにできることはないなって、思ってしまう、でも、どうにかしてやりたくなる。見過ごせないんだ。目の前で倒れた人間を、放っておく奴はいないだろ?まさにオレには彼らが倒れてしまう未来が見えてしまっている。放っておけないんだ。オレの協力で倒れないばかりか、彼らの濁りのない、正当な道に、羽ばたかせていけたらって思う。オレだって最高だしな。それがオレの生甲斐だし、最も向いてることだとも思う。彼らのような人間は全員、オレのもとに集まってきたらいいとさえ、思ってしまう。オレなら羽ばたかせていける。そんな自信もある。彼女との結婚はね、そんな彼女の力に、なりたいってことばかりではなくて、同じ種族が加速的に集まってくるのを、助長する最大の人生の転機だとも思ってるんだ。もちろん純粋に、彼女のことは好きだよ。パートナーにもなりたい。でもそれだけでは正直、結婚にまでは至らなかったと思う。それを超えた何かが、つまりは二人だけの問題を軽々と凌駕する、何なのだろう。使命なのか、夢なのか、義務なのかは、わからないけど、そういうものがないと」
 激原は黙って聞いていた。とてもじゃないが、フレイヤの中に発射してしまった事実と、陰西カスミからの強烈な後押しが相交ざりあい、結婚を決意しただなんて、言い出せる雰囲気ではなかった。
 水原には、オレの結婚観とはまた違った光景が広がっているのだろうと、当然のことながら、興味をそそられはした。


 何とか汗だくになりながらも、アスカは今いる場所がわかった。最寄りの駅から無事に自宅へと帰ることができた。この日は梅雨があけて、36度近くまで上がっていたことがあとでわかった。自販機でペットボトルの水を買って飲み続けた。日陰を伝い、アスカは移動を続けた。人にはほとんどすれ違うことはなかった。電波もまた、受信できていなかった。コンビニを見つけたことで、迷宮にはピリオドが打たれた。もうそろそろ健常な日々の世界に回帰しつつあることは予感していた。意識はずいぶんと遠くに乖離していってしまっている。アスカは家に着き、電波を受信し、携帯電話を見て、日時を確認した。すでに7月に入っていたのだ。アスカは驚いた。春休みを越え、台湾でのアルバイトを終えて、帰国してすぐに大学に戻ったのが、5月21日だった。美佐利に誘われ、毎週のように施術院に通った。その最終日、6月14日。だが暦は今7月14日を指し示している。美佐利に電話をしたが、彼女は出なかった。メールを送ったが、返ってくることはなかった。再び電話をする。反応はない。テレビをつける。夕方のワイドショーが始まっている。
 タレントの記者会見が始まろうとしていた。アスカはエアコンの温度を、22度まで下げた。まったく部屋は冷えていかない。日本の夏はこんなに暑かっただろうか。フレイヤというタレントだった。もちろん知っている。ずいぶんと深刻そうな表情をしていた。俯いていた。そうだろうなとアスカは思った。この女は結局、そういうことになるんだ。何故か、彼女に対して憎悪のような念が噴き出してきた。こんな女、死んでしまったらいい。死んでしまえば?出てきた言葉に自分を疑った。そこまで言ってしまう理由はなかった。フレイヤという名前が、アスカの中で何かを刺激していた。極大化していった。アスカとフレイヤ。名前も同じだった。フレイヤという名の女を、私はよく知っている気がする。別のチャンネルに、急に切り替わったかのようだった。アスカは新しい目で、テレビの画面を凝視した。女の発言は少しも頭の中には入ってこない。代わりにこの女と自分との関係性が蘇ってくる。会ったこともない女だったが、実によく知っていた。私に近づき、私を弄び、私を捨て去った女だ。しかしカイラーサナータを紹介しに、私の元へと帰ってきた。その後の行方は知らなかった。
 こんな所にいたのかと、アスカは思った。
 しかし、段々と憎悪は懐柔し、懐かしさと、さらには仲直りした後の光景までが、付いてきたのだった。私たちは親友だった。いつ再会するのだろう。向こうもすぐにわかるはずだ。そうか。あのフレイヤだったのか。ウィキペディアで検索する。フレイヤという名は本名ではなかった。どういうつもりで、何故、そのような名前をつけたのだろうか。その思惑を、彼女に直接訊きたかった。もしかしたら、この私を呼び寄せるために?もし名前が違っていたら、見過ごしていたに違いない。フレイヤ。今気付いたよとアスカは呟いた。あなたのおかげで、私は完治したの。もうどこも悪くはない。あのような生活に戻る理由もなくなった。あなたは私を見捨てたりはしなかった。嬉しくて、嬉しくて。私、いままで誰も友達がいなかったの。でもその理由もわかった。あなたが居たから。あなたを待っていたからなのね。早く会いたい。
 アスカの耳には相変わらず、フレイヤが何をしゃべっているのか、聞き取ることができなかった。どれだけボリュームを上げても。何か声はするし、音もする。けれども認識は見事にスルーしていってしまう。あのフレイヤだ!あのフレイヤだと、木霊す声以外に、彼女の情報は何一つ入ってきやしない。何の会見だったかは、あとでネットで確認すればよかった。ユーチューブにもすぐにアップされることであろう。あの俯きかげんで始まった会見だったが、いつのまにか映し出されたフレイヤは笑っていた。取材陣たちの笑い声もまたかぶさっていた。和やかな場になっていたのだ。テロップは出ていない。
 アスカは少し混乱したが、すぐにフレイヤの所属事務所を調べ、ファンレターと称し、彼女に直接コンタクトを取ろうと思った。そのあとアスカは、見士沼祭祀に教えてもらった番号に電話をかけた。ミシヌマエージェントという所に繫がってしまった。男の声は代表の津永だと名乗った。アスカは見士沼に直接、繋いでほしいと言った。見士沼は横にいたのか。すぐに出た。「お忙しいところ、すみませんでした」
「ちょうど引っ越しの最中だよ」快活な声で見士沼は応じてくる。
「お会いしたいんです」とアスカは言う。「さきほど、会ったばかりですけど」
「先ほど?あなたの施術をしたのは、もうだいぶん前のことだよ」
「とにかく」とアスカは言った。
 一刻も早く会わなければならないと思った。「ウチに来てくださいますか?」
「あなたの?」
「引っ越しで、バタバタとしているんでしょ?お店で話すのも何なので。あまり人には聞かれたくないから」
 見士沼に住所を教えると、彼はすぐに向かうと言って、電話を切った。二十分後、彼は本当に来た。インターホン超しに彼の声が響き渡った。アスカはロックを解除した。
 見士沼がエレベータで昇ってくる、その時間さえ、ももどかしい気持ちだった。ただ心を震わせて待った。
 アスカは自分がすぐに何をしようとしているのかわかった。


 二羽の大きな鳥が夜空に大きくその影を映し出している。二対の羽が広がっては交差し、重なりあい、一つになり、溶け合った。一羽の鳥のようになった。激しい二羽の動きはなくなり、そこには彫像のような、一つの鳥のシルエットが、世界を固定していた。しかしすぐに、重なりはズレ始め、別の羽を世界には現出させ、求め合う男女のように触れ合うことで、身体の方もまた分離をし始めていた。
 夜空に重なり合う、二羽の鳥は、長い時間をかけて、より重なりを濃くしていった。
 そのそれぞれに、身体的特徴があった。同じ種の鳥ではなかった。一つは、羽がもう一方よりも大きく、そして曲線を描くように上へと反り返ってきた。太陽の光をすべて遮るように、地上に君臨するような、そんな羽だった。羽というよりは、巨大な鋭利な扇子のようだった。飛ぶために備わった羽ではなかった。地上を照らし出そうとする陽のエネルギーをブロックし、すべてを我が物にして、そこで得たパワーのすべてを、羽を動かすことに使う。地上には旋風が巻き起こる。まるで太陽のエネルギーを風へと変える役割を、担っているようだ。 
 もう一羽は違った。軽量級の羽が細く、申し訳ない具合に、小さな主張を空に向かって表現している。敵対心はまるでない。太陽に対しても、何の警戒心も抱かせないような謙虚さだ。一方の猛々しい王のような振る舞いとは、一線を画していた。二羽の交わりは夜通し続いた。
 鳥同士の歓喜の声が、聞こえてきそうだった。 
 羽は揺れ、震え、反り返り、痙攣した。始まりの瞬間を、ケイロは見たような気がした。
 そして彼らは、夜明けと共に、一体となったその肉体を、離し始めた。やはり、小さな羽根を持った方は、飛ぶためのものだった。もう一方からの、押さえ込まれた力が、解除されると、じょじょにじょじょに、動きは軽やかなものになっていった。
 それとは対照的に、迫力ある羽は、宙に浮くようには出来てなかった。
 ますます、重厚感を帯び、地上に深く、突き刺さるような碇の役目すら、担っているようだった。空へと帰っていく、もう一羽の鳥に対する未練を断ち切るかのように、堂々とした佇まいで、一度も空を見上げようとはしなかった。地上の飛ばない鳥は、透明な、さまざまな色に煌き、地上の富を独占するかのような力強さを表していた。空に昇っていく鳥は逆にどんどんと軽く、その重みはすべて、地上の鳥へと預けてしまったかのごとく、勢いを増してあっというまに、吸い込まれていってしまった。
 今は、一羽の鳥。胴はみるみる太くなっていき、四本の足も、筋力が増して、地上を闊歩するようになった。地上に働きかけるこの巨大な羽が、彼を覇者にするかのようであった。飛べない鳥は、いや、飛ぶ必要のなくなった鳥は、その後、二度と空を想うことなく、地上の生をまっとうすることとなった。天へと吸い込まれていった鳥は、ほとんど姿を現さなくなった。
 ただ、数百年に一度、そのいなくなった鳥を称える祭りが開かれ、鳥の降臨を願った神聖なる儀式が、夜な夜な開かれることになった。地上で災害が頻発していく中、それを沈めるための祈りではなく、さらに助長されるような想いをこめた、激情なる神を求める、儀式だった。人間たちの日頃の抑圧された心の捌け口にもなっていた。彼らは鳥のために、つまりは世の中や、社会のためというよりは、自らの生甲斐として、その祭りを利用していった。当然、鳥が降臨してくることもない。だが、その数百年ごとの祭りの中で、さらに数千年の刻を経て、その鳥が姿を現すときがあったのだ。
 ケイロはその貴重な記録を探し求めた。祭りはいくつも確認できたが、鳥が現れた場面に繋げることがなかなかできなかった。あるはずだという確信だけが、頼りだった。
 そこにぶち当たれば、すべてが解決するはずだとケイロは思った。
 ケイロはミュージアム内の新しいアトリエで、感覚の変容の時を待った。
 始まりの存在は見つけたのだ。あの祭りの場面こそが終わるときそのものであった。その間、そこに生きる自分。我々、人間。繰り返される祭り、儀式。あまりに少ない、天空の鳥の現れ。地上の鳥との再会。何度、再会したときに、一つに合わさり、溶け合うのだろう。世界が再び暗闇に包まれる、その終わりの刻。
 ケイロは探し続けた。

 天空の鳥の降臨を。そして、その片翼を、掴んだ。逃がすまいとケイロはわずかなその痕跡を、執拗に描き続けた。回路を作っておかねば。その想いでケイロは必死だった。
 片翼を掴みきり、こっち側に引きずりおろしてくる。
 天空の鳥は、いつ、どんなタイミングで、どのように、何のために姿を現したのか。
 人々はどんな反応を示し、どんな扱いをして、どんな去り方をしたのか。
 ふとケイロは、姿を現した鳥は、攻撃の対象になったのではないかと思った。
 鳥は人々が思っていた以上に小さく、見栄えもせず、エネルギーも弱かった。それほど小さくはなく、むしろ鳥としては、破格のサイズではあったが、それまでの人々の期待と神格化が甚だしかったのだ。鳥は失望の対象として蔑まれ、二度と天へと戻れないよう、徹底して石を投げつけられ、動きの鈍ったところで、火へとくべられた。鳥は人々の思いに逆らわず、ただ、受容する姿で、自分の存在を示した。ただ、そうなるためだけに、降臨してきたかのようだった。
 ところが、事態は一変する。

 鳥は火にくべられ、さらにはその中心へと投入されたあと、真価を発揮し始めたのだ。
まるで、焼かれることを心待ちにしていたかのように、こうさせるためだけに、自身の存在をおとしめていたかのように。それまでの姿は、仮初のワナであったかのように。火よりも、鳥そのものが燃えていた。人々の目には、確かに二重に見えた。橙色の舞い上がった巨大な炎の中に、赤く黒くも、燃えあがる鳥の姿があった。
 怒りを爆発させているというよりは、喜びに満ち溢れているような。
 人々は震え上がった。神格化が始まっていた。次第に、人々の中では、自らをもその身体を火の中に、投入させていく者も少なくなかった。鳥は笑っていた。満足そうに体全体を震わせていた。久し振りに、この地上に存在を踏み入れたことへの歓喜を、この一瞬に、爆発させているようであった。


 アスカの結婚前提の交際の申し出を、見士沼祭祀は保留した。
 保留というよりは、ほとんど断りだった。見士沼は言った。
「あなただけでなく、私は女性の誰とも、お付き合いをするつもりはないんです。それ以上の勘ぐりは、やめてください。男が好きなわけでないし、女性が嫌いというわけでもない。ただ今は」
「今だけなのですね。そうなのですね。私、待つわ。そうよね。今はあなたにとって、大事な時期ですもの。邪魔はしない。決してしない。大人しく待つから。だから私のことは忘れないで。お願い」
「わかってますよ、アスカさん。私はあなたのことを、想い始めているんです」
「なら・・・」
「でも、アスカさん。今はそうかもしれないと、いえおそらくこの先も、ずっと。いや、よしましょう。私はやはり、女性とお付き合いすることはないと思います」
「これまでは?まさか誰とも?」
「アスカさん。それは違います。女性経験はあります。何人も。別にこれといって、いやな記憶もありません。でも私はもう必要ないのかもしれない」
「もうってその若さで・・・」
「実年齢は関係ありません。一時の感情に流されてしまえば、いずれ不幸になるのは、私と付き合った、その女性です」
「どういうことなの?捨てられるってこと?」
 アスカは熱っぽい調子で見士沼に訊いた。
「結果的には」
「なによ、それ!これまでもそうだったのね」
「アスカさん。別に私は彼女たちを嫌いになったわけではありません。むしろ好きです。今でも」
「どういうことなの?」
「きりがないんです、アスカさん。私は、女性が好きで、好きになった女性と交際することになります。でも、私は、また別の女性と出会い、付き合うことになります。終わりはありません」
「限度はあるでしょ」
「そうです、普通は。私には残念ながらありません。施術と一緒です。アスカさん。とにかく時間の許す限り、とめどなく自分のあいた空間に詰め込むことになるのです。そして信じてもらえないかもしれませんが、その空間は無限なのです」
「そんな、馬鹿な」
「信じてもらえないって、言ってるでしょう?」
「そんなの・・・。限界はあるわ・・・」
「施術に関してもそうです」
 ただ、と、見士沼はほんのわずかな影を、表情に浮かべながら答えた。
「問題なのはエネルギーの方です」
「エネルギー」アスカはすでに反論する気もなくなっていた。
「エネルギーは無限ではありません。いえ、無限ですが、その無限の空間と、私はまだ完全に繫がってはいません。回路はすでにできあがっています。じょじょじょじょに、アクセスも加速していっています。ただもう少し。もう少しというのは、時間でいうと、どのくらいなのかはわかりません。はっきりと申し上げることはできません」
「それなら」アスカは再び、従順さを突き破って声を出した。「そのエネルギーと繫がれば」
「ただ、そうなると、アスカさん。お付き合いする相手は、あなただけではなくなる。正直ね、私は女性なんて誰でも同じだと思うのですよ。失礼な話ですけど。ですので、一人の男には一人の女性がつくだけで、それで十分なはずなのです。でも私はそうではない。ならば、逆を考えたとき。そうです。私の場合、それは一人もいらないという結論に達するんです。そしてアスカさん。私はその誰もいないという状態が、自分にとってどう作用するのか。試してもみました。いや、今も、試し続けているといっていい。そして、アスカさん。どうも、私にはむしろ、その方が色々なことにおいて都合がいいということなのです。そう自覚する結果になっているんです。そうなんです。全然、何の問題もない!女性を絶ってから性欲に苛まれるのかと思いましたが、全然そんな現象は起こらない!発狂することもない。拍子抜けしました。どうしてなのでしょう」
 アスカは湧き始めた憤りで全身を震わせていた。
「どうして自分でわかっていることを人に質問するの?すべて言ってしまえばいいじゃない」
「そうですよね」見士沼祭祀は一呼吸置いた。
「施術を始めたからなのよね」アスカはたまらず沈黙を壊した。
「同時期に始めた施術。それがあなたの性的なものを解消する、そんな働きも示した。施術時代が性行為そのものなのよ。気持ち悪い。そうとわかっていたら・・・」
「ほんとに偶然なんです。しかし両者にとって、結果的にエネルギーは倍増します。溜まっていた古いエネルギーは、打ち消しあい、崩壊します。新しくあいた空間に、別のエネルギーが流入して、互いの身体を満たす可能性をつくります」
「その、別のエネルギーって?」
「どうなのでしょう。わかりません。どこからと言うよりは、そこらじゅうに、あるのかもしれません。私はいいんです。むしろ、それを、完全に自分の仕事にして、そこを真っ当することで、人生を走っていこうと決めたんです。女性はいらないんです。私はすでに、普通ではなくなっています。女性を必要としない男がいても、別にかまわないでしょ。私は特定の女性ではない、何か別のものに、この身を捧げたのです。今さら引きずり落とそうとしないでください。私をあなたと同じレベルにまで、引き下げないでいただきたい。私もまだ完全に私になりきれていないと言ったでしょう。その意味はそう。まだあなたのような生身の女性に、心動かさせれてしまう自分が、いるということですから。私を誘惑しないでいただきたい。本当に私のことを想っているのであれば、そっと身を引いていただきたい。私は生まれて初めて生甲斐を感じてきているのですから。その芽をどうか摘み取らないでいただきたい。そのことを私は言いにきたのです。わざわざ。でなければ、こんなところまで来やしません。あなたに完全にあきらめていただかないことには」
 アスカはこの男の言い訳がましい殻を、何とか打ちやぶりたいと、そのチャンスを狙っていた。
「いいわ。あなたの言うことに、異論はないわ。おそらく、そういう人には、誰の存在もいらないのでしょう。おとなしく退散します。けれど、これだけは約束して。私とは縁は切らないで。いや、切れない。絶対に切れないんだから。無理にきろうとしないで。それは、あなたのためじゃない。私を女にしてくれなくていいから。ただ側に置いてください。何でもするから。あなたの仕事を手伝う。大学に通いながらだけど。できることから始める」
 見士沼はアスカの予想外の提案に戸惑った。
「いや、しかし」
「私を雇うのよ!それなら何の問題もないじゃない!でないとやるわよ、また私。あのバイト。いいの?懲りずに続けるわよ。さらにエスカレートさせてやる」


 燃え盛る鳥を見ながら、その鳥が炎よりもスケールを拡大している姿を、ケイロは闇の中に見ていた。すぐに小さく萎み、元の鳥に戻り、天に帰っていくことは知っていたが、この極大化した時間が、ずっと続いていくように感じられたのだ。 
 その間、祭りに参加したすべての人を飲み込んでしまったかのように、辺りは静まり返っていた。祭りが執り行なわれていた形跡すら、なくなっていた。飲み込むだけ飲み込んで、肥大化させた鳥は龍のように鱗を尖らせていた。炎は逆に小さく、ほとんど消え入りそうになっていた。赤みがかったその肉体は、マグマのように輝いていた。そしてその鳥の輪郭から、巨大化した人間が次々吹き出てくるような錯覚に陥った。そんな人間など、どこにもいないのだ。その光景が、ずっと消えなかった。
 俺らは「死ねない者たちだ」と、その肉体のないビジョンは訴えてきていた。
 ふとケイロは、意識だけが肥大化していき、にもかかわらず、肉体を通じては、何もすることのできなかった魂たちの叫びが、こうして鳥を通じて、この地上に解き放たれたかのようだと思った。その、同じ想いを持った肉体を探し出す旅に出るかのごとく。
 塞がないと大変なことになると、ケイロは直観した。とにかく塞がないと。
 とっさにケイロは筆を持っていた。キャンバスに彼らを書きとめていった。ケイロの前を通り過ぎていった巨人を、一人のこらず記録し、キャンバスが許す限り、その印象だけでも。ケイロは必死に食らいついていった。ケイロはいつ、その作業を終えたのか、わからなくなっていた。仰向けになって、床に転がっているのに気づいた。その時にはすでに夜は明け、室温もかなり高くなっていた。五十枚ほどあったキャンバスは二枚を残し、他はすべて色まで塗られていた。ほとんどこの状態で提出しても、問題がないくらいだった。
 二羽の鳥はどこにもいなかった。残ったキャンバスの枚数を見て、そういうことかと思った。一羽ずつ描き記すのだ。しかしその作業は、難航した。少しからだを休め、その日の夜か、明日には着手するだろうと思ったが、心はなかなか向かうことがなかった。最初の一筆を入れることが、どれほどのエネルギーを擁することなのか。それはいつも思うことだった。最初の出だしなのだ。出方といっていい。四十八枚の絵を、正直、どうやって描いたのかわからない。その間の状態ならば、説明できた。ケイロは執り付かれたように描く絵と、過ぎ去ってしまった幻影を、懇願するように、後を追うように描く絵と、その二種類の絵が、自分の中にあることを知るようになった。そのパターンが顕著に現れた今回の作業だった。
 ケイロはその日から鳥の行方を追った。映像には鮮明に描けるのに、そこに命が吹き込まれないのだ。自分の中からエネルギーが全く湧いてこないのだ。執り付かれたように描く絵には当然エネルギーは、自分の外から来ていた。まだ鳥を想う気持ちが弱いのだろうか。そのとき鳳凰口から再び連絡をもらった。またもや制作の依頼に関することだった。本社ビルの正面玄関を彩る壁画のような大きなものと、社長室に飾る小ぶりな絵の二つをよろしくと言ってきたのだ。そうはいっても困りますと、ケイロは答えた。「契約違反になります」
「誰との?お前、誰と話してると思ってるの?契約?たしかにな。しかし、極秘に俺と結んだらいいんだ。それで問題はなしだ。もし契約を結んでないのが問題なのなら」
「どうして、そんな無茶を・・・。単一契約なのは、ご存知でしょ?」
「じゃあ、お前は、生涯、そいつらの言いなりになった絵しか、描かないんだな」
「言いなりじゃないですよ。僕は、自由に描かせてもらえるんですから。自分の思いついたことを、ただ描くことだけに専念できる」
「そこの場所に居てか?」
「どういうことです?」
「場が、絵を制するんだ」
「えっ?」
「どこで誰のバックアップの基に、描いているのか。それが出所のすべてだ。その枠の中での、自由を謳歌することはできるかもしれないが、気づいたときは、ジ・エンドだ。常に一つ枠を大きく持つんだ」
「その一つの方法が、契約違反を犯せということですか」
「違反というか、それは彼らが決めたことだ。それに君は合わせた。ただそれだけのことだ。今のところ。君が何に合わせるのかは、君のほかには誰も決められない。君がルールをつくって、被せて、上書きしてしまえばいいのだから。あとはというか、いつだって、力の勝負だ。君の方が勝てばいい。そうすれば違反もクソもない。君が課したルールに、彼らもまた従うはずだ。争いだって何も起こることはない。文句一つ、言ってこないはずだ。君は堂々としていたらいい。何事もなかったかのように。全部、書き換えてしまったらいい。この際。自分の好きなように、すべてを。この先を。未来を。君の全生涯を。どうせなら。つまらない日常の一場面なんかよりも、全生涯を丸ごとそっくり、入れ替えてしまった方が面白い。そうだろ?」
「何か、僕を利用しようと、企んでいるんですか?」
「人聞きが悪いね。どうしてそう受け取るんだ?ケイロくん。お前にもいずれわかる。みな、それぞれのルールで生きてる。そしてルール同士はいつも鬩ぎあっている。良いか悪いかじゃない。強いルールが勝利をする。ケイロ、お前の世界を作っていけよ。今がそのチャンスじゃないか。お前本人が大きく働きかけるチャンスだろ。今そうしないと、次はいつ、その機会が現れるのかわからない。物事が変化する、その変わり目にこそ、勝機がある。そこで主導権がとれるかどうか。目には見えない闘いだな。一度、譲ってしまうとね、その下でしか奮闘も謳歌もできなくなる。だから気をつけるんだ」


 肉体を離れている間、知り合いが何をしてるのか戸川は見にいった。
 さらには世の中がどんな動きをしているのか。今後、どんな世界が展開されていくのか。その今に至るまでの起源を遡り、戸川は鳥になったように、自在に移動して把握していった。
 まだまだ興味は尽きなかった。調査したいことは以前よりも増えていた。
 しかもそろそろ刻は迫ってきていた。肉体に戻り、人生を再開させなければならない時期が近づいていた。戸川の止まったままになっている人生は、有限だった。こうしている間にもあの身は確実に老い、そして終わりに向かって進んでいた。ここが今は限度だった。
 戸川は名残惜しい気持ちを抱きつつも、あっという間に一瞬で、自分の身体に降りて融合した。重みが染みだし、懐かしさと共に新たなる決意が湧き出てきた。
 肉体から見る、病室は色濃く、生き生きとしているように見えた。
 見舞いの人間は、誰もいなくなった。両親でさえ、週に一度しか来なくなっていた。看護婦が体温を測りにやってきた。戸川は腕に刺さった点滴の針を抜いた。水槽のようなものに繫がった装置を外し、看護婦が来るのを、仰向けになりながら待った。少し体を慣らさないといけなかった。筋力だって相当に落ちているはずだった。リハビリを続けないといけないだろう。仕事への復帰は、まだまだ先のことだろう。キャーという悲鳴が、そのとき聞こえた。看護婦はすでに部屋に入ってきていて、戸川に近づいていた。目をぱっちりと開いた戸川に、彼女は驚いたのだった。慌てて医者を呼ぶために、走って出て行ってしまった。別の看護婦もまた、慌しく部屋に入ったり出たりを繰り返している。いろいろな人たちに、連絡を入れているのだろう。戸川は再び、自分の周りが、賑わいだす様子を楽しむことにした。ちょっと試しに起き上がってみようと思った。しかしまったく違和感が起こらなかった。廊下に出てみた。パジャマ姿の他の患者とすれ違った。彼らは戸川に気がついた。これならたいしてリハビリも必要ないかもしれない。腕を上げてみたり、体を捻ってみたりと、腕をまわしたり、何の問題もなかった。廊下を走ってみた。大丈夫だ。中庭にも出てみる。花の香り充満していた。戸川は生き返ったように、はしゃぎ始める。昆虫や蝶なども何故か戸川に寄ってきていた。そんな上機嫌に水を差す、館内放送が聞こえてきた。
「戸川さん、戸川さん。検査がございますので、至急、病室の方にお戻りください」
 仕方なく昆虫たちに別れを告げ、戸川は病棟に入り、廊下を歩いていった。
 看護婦の一人が気づき、「こちらです」と、道案内を買って出る。みな振り返った。すでに報道で彼の状況は知っていたのだろうが、そのニュースもあっという間に下火になり、みな忘れていたのだろう。突然、目の前に「歩く戸川」が現れ、拍子抜けしたように突っ立っていた。病室に入ると待ち構えたように、担当医だという男が近付いてきた。
「大丈夫ですか?心配しましたよ、戸川さん。まだ朦朧とした意識の中で、しかも体もナマっているでしょうに」
「問題ないですよ、何も」戸川は平然と答えた。
「検査もしないと、戸川さん。しかし驚きました」
「もう駄目だと思ってたんでしょ?」
「い、いえ、そんなことはけっして・・・。ただ一度、そのような状態になってしまうと、長期戦を覚悟しないと駄目なケースが、多いもので」
「タイミングが悪かったですかね?」
 戸川は笑いながら答えた。
「もうちょっと、遅くてもよかったんですけど。いやいや、冗談です。けれど、だるさも何も感じませんね。明日にでも仕事復帰はできそうです」
 戸川はラジオ体操をする仕草を繰り返してみせる。
「戸川さん、戸川さんってば!」
 戸川は医師の言葉は上の空で、目の前で腹筋まで始めた。
「戸川さん、困りますよ!」
 看護婦が屈みこみ、戸川の腕に触れて、起き上げようとした。
 医師は呆れた表情を、一瞬見せるも、すぐに医者としての厳粛な顔を取り戻した。
「そうですね。一応、ひととおりの検査は受けますよ。結局、みなさんに納得してもらわないといけないですから。それと、数日間は入院もします。もちろん、この部屋にずっといるのは、無理かもしれないけど。あ、そうそう。事務所には連絡してくれました?友達にもしてほしいな」
「お母さんが思いつく限りの知り合いの方に、かけていました。報道陣もすでに外には集まってきてます」
「会見はいつごろ開けそうですか」と戸川は医師に訊いた。
「それは何とも。院長に掛け合わないと」
「そうじゃなくて、僕の体調を勘案しての」
「ああ、それでしたら、退院するときに」
「一週間後ですか?」
「そのくらいです」
「わかりました。それまで、大人しくしてますよ。自由に動き回って、いいですよね?」
「いや、それもちょっと。戸川さんは一般の方ではないので」
「院長と直接、話しをしますよ」
「戸川さん!」看護婦がまた一人病室に入ってきた。
「事務所の社長さんがお見えです」 
 佐々木ウンディーネの身体が見えた。彼女は戸川の方に勢いよく近づいていった。そして一目を憚らずに強く抱きしめた。彼女は柄にもなく泣いていた。言葉も何も出てこなかった。声をあげてすすり泣き、まるで母親か恋人か妻のようであった。誰が見ても社長の風体ではなくなっていた。「心配かけたね」と戸川は言った。「もう大丈夫。仕事もバンバン入れてくれ。これまで以上に頑張るよ。二人で力を合わせて、乗り切っていこう。新しい未来を築いていこう。どれだけ、あなたを不安にさせてしまったことか。どれだけ、これまで世話になってきたことか。あなたは、いつでも、見守ってくれた。あなたにしか、僕というタレントは、その存在を預けることができなかった。これからもよろしく。僕はあなたと生きていきます」
 思っていたよりも、小柄な彼女の身体を、戸川は包み込んだ。
 戸川のパジャマの胸のあたりは、ウンディーネの吐息と涙と、いろいろ混ざり合った体液で、激しく湿ってしまった。


 戸川の記者会見を見士沼はテレビで見ていた。自分が大勢の前で披露した唯一の施術だった。三ヶ月もの間、昏睡状態だったそうですが、そのときの記憶はありますか?何か、目覚めるきっかけがあったのですか?医療の進化が、今回の奇跡をもたらしたのですか?そもそも戸川さんが倒れた原因は、何だったのでしょか。詳しい病名を教えてください。戸川は質問攻めにあっていた。一つ一つの質問に丁寧に答えるというスタイルはとらず、最初にすべての質問を受け、そのあとで順不同に答えるという体制がとられた。
 戸川にかぎらず、誰にも答えられるはずはないさ。見士沼は一人呟いた。戸川は質問に答える前に、一つみなさんに報告があると言った。戸川は所属事務所の社長と入籍したことを発表したのだ。生中継だったので、誰も発言は止めることはできなかった。すでに段取りは組まれていたのだ。記者たちは意表をつかれ、すぐに戸川に詰め寄った。会場は大混乱になった。罵声を張り上げる記者がいれば、壇上へと上がろうと前進してくる記者の姿もある。事務所社長はこの場には来ていませんと、戸川は言った。いったいいつから交際しているのですか。指輪は贈ったのですか。式は?披露宴のご予定は?戸川さん、あなた別の女性と確か交際していませんでしたか?何人もいましたよね。実名であげることも可能ですよ。彼女たちとはちゃんと別れたんですか?奥さんは妊娠しているんですか?どうしてこのタイミングでの発表なんですか?女性の社長さんなんですよね。ご両親に報告は?そもそも意識が戻ったのはいつのことなんですか?正確な日時を教えてください。戸川さん!そこから今夜へと至る経緯を、順を追って説明してください!まさか、戸川さん。意識がなかっただけではなく、記憶も飛んでるんじゃないですか?本当に相手は彼女でいいんですか?いいんですね、戸川さん。あなた本当に戸川さんですか?特別な医療行為を受けたことで、戸川さん、不自然な治療をされたことで、おかしくなっているんじゃないですか?きっとそうだ。何かあったんだ?病院が正式な発表をしなくては。そうだ。担当医に会見をさせろ!そっちのほうが先だ。この戸川は以前の戸川とは違ってしまった。戸川さん!交際していた女性たちが怒りますよ!大波を押し寄せて、やってきますよ!大丈夫ですか?命さえ狙われるかもしれませんよ!単なる痴情の縺れでは、すまされなくなりますよ。事件に発展してしまう。ボディガードを雇った方がいいんじゃないですか?もう少し入院していた方が。そうだ。いつが仕事復帰なのですか?それまでは出てこない方がいい。そう。頭が正常でないなら、この結婚も裁判所に持ち込めば、不当にあたるのかもしれない!
 当初の会見の目的は雲散霧消してしまい、司会のアナウンサーがマイクで大声をあげて、場を統制しようとするが、すでに渾沌は一人歩きしてしまっていた。
 戸川本人は至って冷静に状況を見ていた。スタッフたちが彼を守るようにとりかこみ、マイクを差し出してくる記者たちを制止している。戸川はときおり苦笑いを浮かべ、天井を仰ぎ見たり、腕時計を見たりして、時間を潰しているようだった。次第に目を閉じ、瞑想を始めてしまったかのように見えた。
 それからはしばらく、ワイドショーのスタジオに映像が移ることなく、定点カメラを置いた国会中継のようにぶれることなく、戸川の表情を映し出していた。
 戸川が目を瞑ってから数分後、場は落ち着きを取り戻していった。司会のアナウンサーの声がはっきりと聞こえ始める。質問の声はぴたりと止む。アナウンサーがすべての質問から、恣意的にチョイスしたのだろうか。「佐々木ウンディーネさんで、よろしいですね」と言った。
 戸川は頷いた。
「戸川さんより五つ年上で、事務所の社長の・・・」
「そうです」
「いつから交際は始まったのですか?」
「正確に言えば、これからです」
 今度は逆に場は静まり返ってしまった。
「入籍を機に、いろいろと親密になっていけたらと思います」
 アナウンサーは次の言葉がなかなか出てこないようだった。
「正気ですか?戸川さん」野太い声が発せられた。
「もちろん。よく知ってる人だし、もともと信頼もしています」
「そうでしょうけど、しかし」
「今回の入院の件と、何か関係があるのでしょうか」
 細い女性の声だったが、不思議と会場には響き渡った。
「このタイミングでの発表です。入院中に何かあったのではないかと、そう考えるのが自然です」
「おっしゃるとおりです」戸川は答えた。「目が醒めたとき、彼女の、僕にとっての重要性が突然わかったんです。ずっと気づいていたことかもしれないけど、そのとき初めて、自覚しました」
「大切な女性であると」
「はい」
「信頼できる仕事のパートナーとしてだけでなく」
「そうです」
「女性として」
「はじめて分かりました。もちろん、しばらく交際をしてからという、通常の考え方もありました。しかしそれは現実的じゃなかった。僕にとっては。今、結婚しないで、いつするんだってことです。まさにそんな衝動が起こった。だから皆さんとは、考える順序が逆になってしまった。でも結局、時間が経てば、そんな違和感も消えてなくなってしまいます。そんなことはどうだっていいんだから。結果は同じなんだから。行き着く先は、一緒なんだから」
「他の女性とは、ちゃんと切れてるんですよね?」
 女性記者は食い下がった。
「それに関しては、いろいろと以前から、正確ではない情報が錯綜してしまっているし、それに相手のあることです。ここでの軽率な発言は、控えます。どうか、今後も、彼女たちを傷つけるような行為はやめてください」
「その傷つけてしまう一番の加害者は、戸川さんなんじゃないですか?」
「たとえ、そうだったとしても」と戸川は答えた。「僕以外の人間からの誹謗は、許しません。そんなものから全力で僕は彼女たちを守ります」
 結局、戸川の病状に関しての事実を追及することなく、会見は終わってしまった。
 見士沼には、そんな結果になるような気が初めからしていた。


 この地上での最後の日を、鳳凰口は友紀と二人で過ごした。彼女とこれ以上ないであろう限界まで、ゆったりとした時間を追及した。彼女に触れ、唇を合わせるまでに一体どれだけの時間が過ぎていったことだろう。二人は互いの匂いを深く吸い込み、吐く息に合わせて、その密着度合いを深めていった。呼吸そのものが友紀そのものとなっていった。時おり自身の体に意識はいったものの、そのほとんどは、自分の肉体の臨界線を感じることがなくなっていた。二人は部屋そのものとも、一つになり、ビルそのものとも、一つになり、この地上に果てしなく広がっていった。やはりこれが、最後のときなのだと、鳳凰口は思った。この体を今脱ぎ捨てようとしている。鳳凰口は身体よりも先に、地上から飛び立ってしまったかのように感じられた。
 大気圏の傍に居るような気がした。友紀はどこにいったのかと、探すことはなかった。もう離れることはなかった。話かける必要もなかった。友紀と自分はどこまでも拡がっていけることだろう。大気圏を超え、地球が眼下に輝いて見えたとき、鳳凰口はいずれ、このように完全に地球を去る日が来るのだろうと思った。しかし今はまだ、地上に影を残したままだった。この上空に新しい居を構えることになるのだろう。そう思うと、わずかに自分と友紀が乖離したように、互いの存在が疼くのを感じた。やはり、友紀は、ここにいる。二羽の鳥がつがいとなって、宙を漂っている絵を想像してしまう。まさに、今、地上からは、そのように見えるんじゃないだろうか。種類の異なる二つの巨大な鳥が、地上に影を落としながら、その影の中、今を生きる人間が犇く。対立しあい、許しあいながら、さらに、その異なる質感を合わせあい、それまでになかった色を、この大地に染めこもうとしている。色に色を重ねることで、純度は濃くなり、地球の質量は軽くなっていくように思えた。
 こうして、鳥のように、いずれはすべての人間が、重力に影響されることなく、宙をたゆたうようになる。すでに鳳凰口は性的な快感からは遠く離れてしまっていた。
 しかし友紀を意識した瞬間、この身体の下には、確かに彼女の輪郭が浮き上がってきて、匂いがたちこめてきて、彼女から洩れ出た愛らしい声もまた、耳元に聞こえてきた。彼女から流れ出た体液もまた、この自分の肉体にふれあい、皮膚の表面を熱く溶かしていった。
 鳳凰口は自分の性器を感じた。彼女の内奥の皮膚の感覚も、また感じた。絶頂はすぐそこにまで来ていた。すでに鳳凰口は、友紀と何時間抱き合っているのかわからなくなっていた。放出への流れは止められなかった。次に友紀と再会するときまで、しばしの眠りにつこう。そう思った。鳳凰口は自らを地上ではない別の場所へと、解放した。


 陰西カスミは新築の実験棟に入居していた。
 陰西の編み出した工法はすべて実用化することが約束された。そのかわりに、発注するものに工法を使用するという形で、必ずこちらの案が先にあるということが、何度も確認された。陰西はもちろん、それでオーケーだと答えた。これまで、陽の目に当たらずに、燻ってきた工法の数々が、羽ばたかせられるのならと。それが何に使用されるのかは二の次であるとそう言った。そこは私が関知することではないと。
「我々があなたを必要としたのは」暗く広い部屋の中では、相手の男が何人いるのはわからなかった。今は使われなくなった倉庫を、アンティーク調に改装相した、空間のような雰囲気だった。「あなたの科学者としての技は、我々の世界と、この地上の世界を繋ぐ、最良の接着剤になると思いました。我々は、接着剤を、ずっと長いこと、探していたのです。あなたのことは、ずっとマークしていましたが、ついに、このときが来たようです。あなたと我々だけのことなら、すぐにでも、交渉の席は設けられました。ですがタイミングというものは、すべてが重なるその一点を、最初からしっかりと捉えなくてはならない。そうすれば、あとは重なり続けるその一点が、どんどんと展開していくことになるからです。そうやってエネルギーは、時間と共に拡大し続けることになる。重なりが重なりを呼ぶことで。あなたはキーパーソンだ。とても大事な存在だった。これまで我々は、あなたを守ってきたんです。あなたがおかしな方向に行かないよう、ちょっとした力添えが必要だった。あなたが誰にも邪魔されず、何にも穢されないために、ちょっとした不遇が必要だった。不遇が君を守ることを、我々は知っていた。不遇というのはそのように、人間には適応されるのです。そしてその不遇は、ある瞬間に、その役目を終える。つまりは今です。君は婚約したそうですね。これもまたこのタイミングで。歓迎です。君には喜びの中、ただ喜びの中で仕事に打ち込んでもらいたいから。女性としての喜びもあるでしょう。家庭という喜びのある生活もまた、あるでしょう。これまで、味わうことのできなかった幸福も、快楽も、みな、手にすることができるでしょう。その君の精神性がすべて、仕事に反映すること。我々は歓迎します。最後は心なのです。気持ちがどれほどの作用を、物質に与えるのか。工法はすでに確立している。刻もまた満ちてきている。バックアップ体制もまた、万全になってきている。最後にもっとも、必要なピース。水原君だ。幸せになってくれ。我々は、今までも君を守り続けたが、これからは、対等な協力関係を強固に築いていける。我々は地上に命を吹き込むことができ、君もまた、この世でのやりたいことを謳歌することができる。まずは、その工法を最大限、手放すことから始まる。君はもう、君が編み出してしまった工法に、君自身が縛られることはなくなる。君は自分自身に、ずっと縛られ続けてきた。自由というのは何か。わかるだろうか?反対の概念なしには、それは存在しないものなのだ。縛られ続け、それに苦悩し、もがき続けた人間にしか、自由というものの正体はわからない。自由を知り、自由を発揮することで、自由を超えて別の領域に、君はかえっていくことができる。かえるための準備を、君は今からしていくことになる。工法を、我々の意図のもとに再現していくこと。それは、編み出したときの苦しみとは違う、まさに喜びそのものだ。もちろん、喜びも苦しみも同じものなのだがね」
「誰なんですか。あなたは」
「我々?とりあえずはマリキとでも言っておこう」
「マリキ?ファーストネーム?」
「マリキ家といっておこうか。我々といっているくらいだ。個別の名刺は持たないことになっている。マリキ家という思考が、ここにはあるだけだ。脳のようなものだと考えてくれたらいい。マリキ家というエネルギーの塊が、こうして君をはじめとした、様々な人間をひきつけ、我々と一つになって、互いの真の望みを叶えていく」
「私の望み?」
「そう。君は科学者として成功したいわけじゃない。君は喜びに満ち溢れた、喜びの中で、喜びに溺れそうになりながら、そこを生き、今度はそれさえ脱ぎ去り、別の感情の領域へと旅立ち、その望みを叶えてくれる状況を、自らつくりだそうとしていた。我々が、パートナーの一つとして、現れ出ることとなった。化学者として、これからさまざまな結果を出すことで、君は逆に化学者に縛られることのない人生へと、進むことができる」
「科学者じゃなくなるの?」
「何者でもなくなる」
「でもそれは、科学者であることを全うすることで、可能になるのね」
「そういうことだ。我々の世界と、多くの人間たちが共有する世界とは、周波数が驚くほどに違う。交流したくても全くできない。どれだけ傍に近付いても、交わることさえできない。触れあうことさえできない。お互いが、透明人間になったかのように、スルリと抜け出てしまう。ここに、なんとか繋ぐ「物質」が欲しいわけだ。その入り口さえ作ることができたら、あとは、周波数の違いなど、どうでもよくなる。勝手に混ざり合うだろうし、違うことによる化学反応が、面白いように起こる。勝手に新しい物質をつくっていくようにもなる。入り口を作ってほしい。入り口が、この場合はすべてなのだから。あとはなるようになる。しかし入り口だけは、強固な意図を持って、君のような人間と共に、人工的に、作りあげる必要がある」
 陰西カスミはとりあえず、今日の所はぐっすりと寝ようと、キングサイズのベッドの上で体を大きく伸ばしていった。


 退院までの日を、退屈に過ごそうと思っていたが、状況は許してくれなかった。
 病院には様々なメディア関係、芸能関係の人間が、押し寄せてきていた。さらには、戸川の携帯電話には、かつて関わりのあった女性たちからの声で、留守電はパンク状態になっていた。戸川が生還したことで、広告モデルのオファーは再び殺到してきていた。放送を自粛していたCMなども、露出を再開し、元の活気づいた環境が準備されていった。
 しかし、入籍発表に関する余波もまた広がっていた。戸川のモデル起用を降りるスポンサーも日に日に増えてきた。なぜ結婚したくらいでやめてしまうのか。戸川にはわからなかった。むしろそういった家庭を連想させる商品を扱う企業からのオファーは、増えるとさえ思った。だが実際は戸川に来る仕事の数は減っていった。それでも他のタレントに比べれば圧倒的な数であり、客観的には殺到しているという状態は変わらなかった。それでも風向きはまったく変わってしまっていた。戸川はウンディーネと今後の予定を話しあった。
「やっぱり、あのタイミングでの発表はよくなかった。事前に説明してくれたら。もっと段取りをちゃんと組んだのに。まさか復帰会見で言うとは思わなかった。私、不安よ。社長として。どうやってあなたをこれから、再び軌道に乗せていくのか。うまくわからない。見えてこない」
 名ばかりの病室には二人以外に誰の姿もなかった。
「あの、会見のせいじゃないさ」戸川は他人事のようにしゃべった。
「もうオレが倒れたときに、流れは変わっていた。結婚発表のせいじゃない。それは、表面的なことだ。それに、オレが結婚を決めさせたのも、その流れの変化によるものだし。なあ、オレが意識がないとされていたとき、本当にそうだったと思う?」
「どういうこと?」
「ほんとに、意識は失っていたと思う?」
「知ってたの?そんなはずはないわ」
「別の感覚が、働いていたように思う。この病室の様子は見えていたし、病院の外の様子まで把握していた。それに加えて、ここではないどこか別の場所で、行われていることさえ、見え始めていた。今よりも、もっと神経は、鋭敏になっていたように思う。今となっては、すべてが夢の中のようだけど」
 佐々木ウンディーネは、一瞬、表情を強張らせた。
「私、自信がないの。あなたの妻であり、会社の社長であることにも。たしかに、あなたとは、一生付き合い続けていく仲だとは思うけど・・・。でも急すぎる。まだこの前の時点では吃驚しただけだけど。あれからどんどんと、混乱はひどくなってきてる。無理よ。私には無理!どれか一つしかできない。あなたの妻になるのなら、社長は下りる。整理がつかない。あれもこれも心がうまく定まらない状態に、耐えられなくなる。きっとそう。まだ一週間よ。一週間でこの状態なのよ。こんなのはまだ、ほんの始まりよ。戸川くん。もう止められないの?まだ止められるわよね。今から婚姻は白紙にすれば、また元に戻れるわよね?元の私たちに。もう一度、会見しなさい。今度は正式な退院になるでしょ。そのときに。あれは間違ってました。まだ病気の後遺症が、あの時はあって、だから正常な行動ができなかった。でも、もう大丈夫です。医師たちの繊細な治療によって、全快しました。これまでと変わらず宜しくお願いします。そう発表するのよ」
 戸川は携帯電話をいじり、女たちからのメールを一斉に消去してしまい、その様子をウンディーネに見せつけた。
「戻れるわけがないさ」戸川は不気味な笑みを浮かべた。
「いいんだよ。仕事の仕方だってまた変えていけばいい。こうやって無秩序に集まってくるシステムには、疲れた。なぜ倒れたのか、わからないのか?同じことが繰り返されれば、今度は命の保障すらないんだぞ。最初の警告だからな。警告は致命傷にはならない。一人の女を選び、愛することを、この戸川がしたっていいだろ。それに合わせて、色んなことが姿形を変えたっていいんだ。関係性が変わっていく。それを自然に受け入れていけばいいんだ。どうして拒もうとする?どうして混乱する必要がある?無駄な抵抗は、よすんだ。それよりもオレたちの未来を語りあった方がいい。二人の未来だ。この二人がどんな生活をして、さらには二人にしかできないどんなことをしていくのか。戸川っていうタレントの仕事など、それに合わせて変幻させていったらいい。まずはこの二人なんだ。それが固まれば後はおさまるべき所にすべておさまる」


 第一王朝の王宮が完成から、一夜明け、王夫妻が下見にやってくる。
「来たわね」と王妃は言う。「本当に、私たちここに来ることができた。夢にまでみた。これで本当に一つになれる。ずいぶんと静かね」
「誰も人はいないようだな」
「見て?あの庭園。素敵ね。色とりどりの植物の中に池があって。噴水だ。本当にこの場所を設計して作った人がいたのね。この水のあたりは、うっすらと紫がかっている。昼の陽光が照らしだしたときに、きっと色んな煌きが見える。あとどれくらいで日没かしら。全部、見たかった。これからもずっと、好きなだけ居られるのに。明日も、ここには、私たちのほかには誰もこないのかしら?」
「そうだと思う。ここには人間ではない、生き物がたくさんいる。そこら中にいるのが、わかる。彼らがすべて身の回りの世話をしてくれる。それと自動で、システムが変わってもいく。つまりは、この庭園の構造が、一日一日変わっていく。朝から夕方にかけても、変わっている。そのサイクルが、すでに組み込まれている。ほら、あの脊柱を見てごらん。動物の姿が彫られているけど、その形態は、さっきと微妙に違っているだろ」
「あの広い階段の両脇に立つ、脊柱のことね」
「一段一段、彫られている動物は、微妙に違う。それがさらに、時間の経過で変化もしていく」
「不思議ね」
「あらかじめ、システムは埋め込まれているけど、僕らにはどう変化していくのかは、全くわからない。見てのお楽しみだ」
「素敵な場所」
「ここは僕らの自宅だ」
「愛されてるのね。私たち。みなに祝福されているのね。この場所にも歓迎されている。植物にも、鉱物にも、建材にも、みな。大合唱しながら、彼らは踊っているように見える。感じる。嬉しい。私一人じゃ、こんなところには来られなかった」
「本当に幸せ」
 二人は陽が完全に暮れてしまう前に、できるだけ広範囲を把握するべく、足早に庭園内を移動した。植物と植物のあいだには、色が照らされているようで、陽の光ではない別の光が発生していた。来たときよりも、その光の層は増え、交錯し、ちょっとしたイルミネーションのように輝いていた。もうすぐライトアップされ、夜のショーが始まりそうな雰囲気だ。
 池を一回りし、脊柱が両脇に立つ幅の広い石段を登って、建物の中へと入っていく。
 木目調の扉を開けると、中は白亜に彩られた空間が現れる。
「こんなに、愛されているなんて」
「そうだね」
「愛されすぎて、少し怖いな」
「その愛に、二人で応えないと」
「ええ。それに見合う私たちの愛を。返さないと」
「地上に」
「それが、王宮の役割だから」
「すべては、ここに揃った。疑いはすべて、消え去っている。いろいろあったから。ここに来るまでは。地上も、オレ自身も。他の奴らも。おそらく君も」
「すべてはここに繫がっている道だったと思えば。二人でつくっていくのよ。二人が愛し合うそのエネルギーで」
「本当の仕事がこれから始まる。明日から。昼は僕一人、仕事に集中することになるけど。君がいて、この場所があるからこそ、僕はこれまでよりももっと孤独になることができる。真の孤独を味わうことができる。僕は地上へと降りていく。そしてまた、上がってくる。その繰り返し。どちらにも常に存在する。ここにいない間でも僕はここにいる」
「私はずっとここに居ていいのね」
「君だって地上との行き来は、自由だ」
「でも、私はこっちにばかり、居ることになりそう。私はこの場所をもっともっと、素敵な場所にしていきたいから。ここにいる生き物たちとも協力して。もっとあなたにとって、居心地のいい空間をつくっていきたいから。もちろん、あなたが地上で私を同伴する必要があるとき、そのときはいつでも二人で降りていく。どこにでも一緒にいく」
「夫婦になったんだな。あらためてそう思うよ」
「王宮に対する、この世界のすべての好意、愛、期待に、私たちは、二人で応えていきましょう。応え続けていきましょう。二人でいられる最後の日までずっと」
 二人は、この地で初めて、お互いの体に手を回して、抱き合った。


 その夜、王は、生き埋めにされる男の夢を見た。さらには別の海へと沈んでいく男の姿。祭りで、火にくべられる男の姿。風貌はそれぞれ違った。環境も時代背景も違った。
 面影にどこか知り合いの人間の姿を感じた。すべて、地上で、今生きる男たちそのもののような気がしてきた。なぜ彼らは、あんな死に方をしたのだろう。夢の中で、王は眼が醒めていた。彼らが現実に死んでいるわけではなかった。時代背景は、同じ今をこの時を生きていた。夢の中の死の情景とは、何の関係もない。しかし何故、このような死を?
 彼らの顔にはどこか嬉々とした感情が浮かび上がっていた。誰かに殺されたわけではなさそうだった。強要されたわけでも。では何故。なぜなのだ。あの恍惚とした一瞬の安堵の顔は、いったい何なのだろうか。自ら、行ったとしか考えられなかった。だが、自殺ではない。そんな悲壮感はどこにも漂ってはいない。背景に目が行った。一人じゃない。一人きりで死んでいるわけではない。少し距離を置いたところには、大勢の人がいた。
 王はすぐにピンときた。これはイケニエだ。
 人間が自然の驚異に差し出した、あるいは、それまでの社会システムの不浄を清算するために、選ばれた男。強い信仰心をもちながら、世の中を支配する既存の宗教に属することなく、それでも人生のどこかに、神聖なる瞬間を見出そうとする、男・・・。
 その、結末となった絵だった。それも、根源にある願望は同じように感じた。
 もちろん、その時代、その社会は動物による生贄にはすでに飽きていて、人間に変えることで、彼らの中に積もった、矛盾や葛藤、不浄を、身代わりとした人間に対して感情移入することで、さらに可能にした。都合のよい人間を探したのだ。
 志願した男は、自身の信念を発揮する場を、求めていた。思惑は、異様な合致をみせた。
 男は死んでいった。歓喜の声と共に。しかし、彼らは、その最期のときに一瞬、後悔の色に染まったことを、王は見逃さなかった。イケニエとして、命を差し出したことに、後悔する気持ちも、最後の一瞬に炸裂したのだ。それはイケニエとなった、どの男たちからも感じとれた。しかしあの状況の中で、どんな神聖さを発揮したらよかったのだろう。自らの死を、神聖なものに彩ろうとする以外に。神聖なる創造以外には、行き場がなかった。死とは引き換えではない。生き続けることの中に、創造したい。死は再生を呼ぶ過程であり、一度の行為で終わることのない、繰り返される、進化していく創造行為、祭り。残したい!物理的に一瞬で消えてしまうものではない、ずっと後々まで残るようなものを。せめて、と王は思った。せめて、別の時代に、後生に生きている、イケニエへと向かってしまう男たちに対して、そっちではない、こっちなんだと、心に訴えることのできる何かを残したい。創造したい。
 王は、集まった男たちがすべてイケニエとしての自身を希求し、そういった状況が生まれ出ることを待っているのではないかと感じた。
 それは違う。そうじゃないと、訴えたかった。
 どうすれば、それが、可能なのか。何を、地上に、今、つくりあげれば、それを見た彼らは、心をあらためるだろうか。王はこの静かで美しい庭園の中で考えた。王妃と毎晩抱き合う中で考え続けた。彼らに、後悔を抱かせる死を与えてはいけない。それが、自分の使命だとも思った。
 地上から抜け出た自分ができること。
 そんな自分だからこそできること。彼らに『力』を与えようと思ったのだ。
 彼らが死の象徴となるのではない、彼らが、死の象徴となるものを作りだす。そんな力。地上に聳え立たせ、風化しない目印を、生み出せるような『力』。それによって、彼らは死の淵から再生し、より強力なエネルギーを発し、生きていることができるように。
 そしてその残された装置は、別の誰かにとってもまた、死へと自ら向かっていく別の誰かにとってもまた、神聖なる行為に身を投げようとする誰かにとってもまた、生を享受できるような、後悔のない、本当の死が迎えられるようにしていく、そのきっかけとなる、装置の創造・・・。
 そして、それらを、生み出した彼らは、その後、イケニエとして、消滅するのではない、死と再生の装置を生み出し続ける、『祭祀と』して、活動を続けて互いを刺激し合い、その刺激がさらなる祭祀を、生み出す構造。
 その構造が、連鎖していく世界。王は思い描いていた。


 その日は一睡もできなかった。王宮での、初めての夜だったのに。横にいるパートナーは、熟睡しているようだった。王はベッドの中に居るのにも、心地が悪くなっていった。もう今日は、確実に眠くはならないことがわかったからだ。ベッドを出て、長い廊下を歩いて石段のある所まで行った。修道院の中庭のようなつくりだった。まだ建設途中なのだろうか。空き地のように、整地されたまま、放っておかれているような場所だった。来るときは、気がつかなかった。王はあの夢の男たちのことを思った。あれは全部、自分なのではないだろうか。自分はずっと、生贄としての人生を、転々としてきたのではないだろうか。そしてまさかとは思ったが、自分はどうやって、ここに来たのだろう。友紀と二人で来たのは幻想で、本当はあの、生贄たちが死を通過して、肉体から突き出て、そして昇天してきたのでは・・・。それが、この、自分なのではないだろうか・・・。
 女と一緒に来たなんて、何かの勘違いなんじゃないのか。
 しかし、友紀の感触は、今もはっきりとある。いや、それも、事実に違いない。
 事実は、一つじゃなかったのかもしれない。色んな事実が、ここに結集し、今ここで、この体の中に、宿っているのではないか。オレは誰でもない、彼らもまた、誰でもない、合わさった天上の王として、新しく再生したのではないか。友紀もまた、友紀だけではない、別の人格たちが、死を通じて昇天して、それらと融合しあって、今ここに存在している。
 この二人は、そういった二人だったのではないだろうか。
 だんだんと心の曇りは晴れていった。濁っては浄化されることを繰り返していった。突風が吹き始める。石づくりの王宮は、びくともしなかったが、風は石を擦りつけ、すり抜け、人の声のような音を鳴らし続けた。
 友紀はまだ眠っているのだろうか。部屋に音は届いてなさそうだった。夜も濃密になってくると、香しいあの庭園の姿も、消えてなくなってしまったように思える。
 ずいぶんと淋しい場所に、一人、やってきたかのように思える。
 ここで俺は決意するのだ。友紀もいないここで。あの重い石像が、突如、自ら動き始めたように感じた。風はいつのまにか治まっている。強固な石が動き始めたのだ。開ききった翼のように、広く、そして何度か、羽を前後に仰いだ。不思議と風は吹かなかった。石像は一つの大きな鳥の胴体があるように見える。その周りに、無数の鳥が同じように羽を前後させているのが、重なってみえるようだ。建物そのものが生き物のように、この暗闇で自ら動きだし、さらにはこの上の夜空に向かって、飛び立っていきそうだった。
 そうだと王は思った。俺の向けるべき意識は下だけではない。そのことに気づいた夜だった。
 俺は鳳凰口だ。上にも、下にも、今、その紋章を刻みつける機会が、その扉を開いている。


「誰だ」
 寝室に戻ろうとしている間に、ふと自分以外の誰かの影を感じた。
 自分の影とはまた別の影を感じた。いや、二つは重なりあっている。微妙なズレを感じてきていた。誰がいるのだ?最初からここに居る存在だろうか。
 ふと、王は、ずっとこの影に待ち伏せされていたような気がしてきた。
 罠か?いや、違う。影もまた、直接、手を出せずにいる。様子を窺っている。それ以上、近付いてこようとはしない。しかし、感情はわずかだが洩れてきている。
 そのわずかな気流に、王は全神経を集中させる。
 その影は、ずっと、誰かを狙っているようだった。いつの時代、どの国、どの場所でも、執拗に付いてきた。そして、その機会を狙っていた。復讐の機会を狙っているようだった。標的はこの俺だった。俺の命をとろうとしている。俺というよりは、俺の中の何かを。ここにこの場所に、結集してきている俺の中の・・・生贄たちだ。血に染まった生贄たち。
 俺が再び生贄となろうとするのを、止める役割のために、影として、この俺に纏わりついている・・・そんな男のような気がした・・・。中身がないのに・・・、声が聞こえた。中身がないのに、英雄になろうとして・・・。英雄になるための手段。似非の英雄に。ほんの一瞬だけの、消え行く英雄・・・。自己満足。利用される。繰り返される生贄・・・。次々と衣装を変え。ただ、衣装を変えただけの。まだ懲りないのか!まだ向かおうとするのか。何度後悔したら、気がすむのだ!何度、誓いを立てれば気がすむのか。いつも、いつだって、そうだった。固い約束を自分と交わした。宣誓した。ところが、地上に足を踏み入れると、いつだって。どうしてそうなってしまうのだ?・・・どうしてあの誓いは、完全に反古にされてしまうのだ?何度も何度も繰り返されていく。私の声は届かない・・・。全くもって届かない。どうしたら振り向いてくれる?思いなおしてくれる?狂信は、なぜ発動してしまう?あれほど地上に降りるまでは、もうしないと誓ったのに。
 そして、どうして、自分を省みない?思い直さない?最後の一線を越えてしまう?自殺じゃないか。それは、自殺じゃないか。形をかえた。何度、自分を殺したら、気がすむ?気がすむまで続くことを、私はある時は、許容した。最大の妥協を図った。しかし、その効果はなかった。何の効果もなかった。事態はひどくなっていく一方だった。変化が見られるとしたら、そんな生贄の後悔が、大きくなっていったことだった。そして、死の間際、後悔に苛まれていく瞬間が、だんだんと、生の領域に移っていったことだ。
 後悔は、どんどんと、前倒しにされていった。
 しかし、抑止力には結局、繫がらなかった。事は変わらず起こり続けた。君もまた、その一線を・・・。王は耳を疑った。
 この自分が、一体いつ、生贄に志願して、生贄に選ばれ、そして死を迎えたのか。一体、いつ。
 いつ、そんなことをしたのか。そんな現実が、いったいいつ。王はすぐにそれはまだだと気づいた。そのとおりだという声が、聞こえたような気がした。やっと、そして初めて、生きている時に、意識に上がる段階で、あなたをとらえることができた。初めてのことだ。
 このチャンスを逃したくはない。あなたは伴侶ができた。伴侶ごとこっちの領域に移ってしまえばいい。その間に真実を知ってもらいたい。考えを完全に改め、二度と過ちをおかさぬよう、最後の生を真っ当していってほしい。その想いだけを伝達するために、王宮もつくった。伴侶とも結婚させた。あとは最後のピースが嵌りさえすれば。
 君は地上へ降りていける。ここと自在に行き来することができる。中身のない、虚像の英雄たちは、すべて砕け散る。その壊す役目が、君だ。君は生贄ではない。地上の王として、地上に縛られることなく、地上に指令を出し続けることが可能になる。この場所から」
 声は聞こえなくなり、二重の影もまた、日の出と共に消えてなくなった。
 紫がかった橙色の交じり合った、蒸気のような霧のような光に彩られた、庭園が現れ、夜の顔は、奥へと交代して入れ替わる。眠さが襲ってきた。少し横になろうと、友紀のいる部屋へと走る。しかしもう二度と、無意味な生贄になるなという声は消えることがない。偽りの恍惚を見るのは、やめろ。そして、逆に、このオレのように、生贄になることに怯えるのもやめろ。怯え続け、激しい怒りを秘めながら、影の中でのみ安堵し続ける、その偽りの安全。そんな中、人々の見世物になるという、思いこみに塗れ、そんな生涯を送るのもまた、やめろ。生贄を否定し、見向きもしないことで、ずっと消えない記憶に苛まれる、そんな俺のようにもなるな。
 声は廊下に響き渡り、王宮全体をずっと震わせているように感じられた。


 戸川は佐々木ウンディーネにこういう話をしていた。
「ずっと苦手だったんだ。こうやって人前に出ること」と戸川は言った。
「そして自分の存在が公になること。できればずっと、世間からは隠れていたかった。でもそれではやっていけないだろ?どうしたら雲隠れをしていられるか。それが自分にとっての、最大の課題だった。
 今だから打ち明けるよ。偶然もまた重なったけれど。このモデルという立場を、最大限に生かそうと思った。異常な数の広告に、出まくることで、逆に自分を、空洞化させていき、ありのままの自分で公に出ること。世の中に存在することを拒絶することができた。
 完全に成功したと思った。実際、短期的にはうまくいった。いきすぎるくらいだった。
 目に見えない力が、大きく働いていると思った。あなたのアドバイスもまた、的確だった。綻びはまったくなかった。なかったから、こうなってしまった。生死を彷徨う、重態に陥ってしまった。これまでの虚勢が、見事に反転してしまった。あなたには何の責任もない。すべてはこの自分に芽はあった。元々。その出所を常に探していただけだった。これまでと同じように仕事をすれば、今度は完全にアウトだ。考えを改めなくちゃいけない。問題なのはこれまでの仕事の仕方じゃない。どうしてそのような行動に走ったかだ。その根本を突き止めることから、始めないといけない」
「公になりたくないって、言ったわよね」
 ウンディーネは戸川の手を両手で包みこんだ。
「俺の言う公っていうのは、何も大げさなことじゃない。国籍を持って、住民票をもって、当たり前のように、この世の中に存在している状態のことだ。そういう、誰が調べても必ず行きつくことのできる存在のことだ。俺の話は実におかしいだろ。この世に存在したくないって、言ってるのと、ほとんど同じだ。まるで逃亡犯のように隠れて、地下で日の当たらない人生を、ずっと続けたいって、言ってるのと同じだ。もっとも『戸川兼』は太陽ではなく、人工的な光、スポットライトを過剰に照らされていたけれどな。それも暗闇に包まれていたいという、願望の裏っ返しだ。同じことだ。どっちに針が振り切れるのかが、違うだけで。ただそれだけのことだ。そして今もまだ、そういった状態を執拗に求める俺が心の中にいる。そしてその男は勝利をし、俺を完全に支配し、行動へと駆り立てるはずだ。何度でもね。俺が倒れるまで。再起不能になるまでね。
 なあ、どうしたら、止まる?俺はまた、あのときと同じように、仕事に忙殺されることになる。そうすることでこの自然の太陽の光を浴びることを、拒否している。どうしたらいい?どうしたらまともになれる?」
 だんだんと言葉が乱れ、表情が崩れ、身体を震わせていく戸川を、佐々木ウンディーネは見つめていた。ただ、彼の手を自分の手で包みこむことを、続けていた。
 戸川はウンディーネの豊満な胸の中に顔をうずめた。
「俺はこれまで付き合ってきた女、彼女たちの中にも、俺の姿を見た。彼女たちは全部、俺だったんだ。彼女たちもまた、自分の存在を受け止められず、苦しみから消えてしまいたいという衝動を、胸の中に秘めて持っていた。外から見ただけでは、そうは感じられない女もいたが、実は同根だった。そんな女が、現実、俺のもとには寄ってきていたし、俺もまた見抜いて、近づいていった。お互い、同じ部分に、癒しを求めていた。だが、そんな欠けたもの同士、どうやって、与え合うことができるだろう・・・。結局は、同情しあうだけだった。何も起こりはしない。
 そうやって、姿かたちは異なり、どれだけバラエティに富ませようと、趣向を凝らして増やしてみても、慰めは一向に得られることはできなかった。むしろ、ひどくなるばかりだった。それでも止めることはできない。止めることさえ、不可能になっている。病気だ。それそのものが生命を持ってしまっている。より心の奥底では、公になりたくない衝動をもった女たちと、結びつくことになる。まさにそんな状態になっていった。仕事だってそうだった。広告主、スポンサー。蛾のように、この光に無数に集まってきていたが、事の本質はすべて一緒だった。公になりたくない、公に存在していたくない、企業ばかりが、押しよせてきた。世の中にはそんな企業が溢れ返っている。そんな企業がつくった商品で、溢れ返っている。内面性の話だ。俺はそんな企業の本質を、さらに助長するために、存在していたピエロだ。お互いの欠落によって、出会い、引き合い、最後は共に、破局を迎えるのみだ。しかし彼らにはまだまだ余力がある。一個人の破滅は何よりも早い」
「公になりたくないのなら、広告なんて打たなければいいのに」
「何にもわかってないんだな」
 戸川はウンディーネの胸から顔を離し、突然、表情を冷たく一変させた。
「見える現象としては、反転してるだけだ。俺と一緒だ。世界には、そのようなものが溢れかえっている。だからこの俺に、あれほどの需要がある。今後もね。今までよりもさらに」
「そんなことを聞かされたら、これまでのような仕事を、させるわけにはいかないわ」
「もちろん、そうだ。俺だって、そう望んでいる。けれど、それは、今だけだろう。また再び軌道は変わっていき、元のラインへとちゃんと戻ってしまう。あなたがいくら強引に仕事を入れなくても、俺が耐え切れなくなり、あなたに迫る。そして脅迫することだろう。それでも拒絶するあなたに、暴力さえ振るい、実現に向けて脅し続けるだろう。拒絶し続ければ暴力は果てまで行くだけだ」
「どちらにしても行き着くところまで・・・」
「どうしないといけないのか。俺にはわからんよ。しかし今、手を打たなければ、手遅れになるのはわかる。別の方向へと育っていく芽を、埋め込まないと」
「でも確かに」とウンディーネは言った。「あなたは、人を強烈に惹きつけるものをもっている。何を拒もうとも。その宿命は変えられない。どの道、雲隠れなどできない人生において、あなたはその雲の存在がない最たる存在よ。何をしても目立ってしまう」
「金だけを稼げて、それでも無職っていうのが、理想なんだろうな」
「それなら可能かもね」
「あなたが働いて、俺がずっと家にいるとか」
「それしかないわね」
「そうする?」
「悪くないアイデアだけど。子供ができたらちゃんと育児は?」
「全部、やるしかないだろうな」
「ほんとに?」
「それしか生きる道がないのなら」
「あなたのその、人を惹きつけ、大きな影響力を与えるその宿命は、生かされないわ」
「だったら、宿命は別のところにあるんだろ」
「すり替えるのね。でもすり替えられないのが宿命よ。現実的じゃない。一時的には、うまくいくかもしれない。だいぶ長くうまくいくかもしれない。でも反転が待ってる。結局は同じ。公にはなりたくないのに、あなたの才能と宿命は最も公の境地に、その居場所を定めている。そしてあなたもまた、そこでの活躍を心底求めている」
「どうすれば」
「認めることよ。両方」
「両方・・・」
「つまりは、公な存在には、絶対になりたくないという気持ちと、最も自分が活躍できる真の場所は『戸川兼』であるということも。その両方を認めることよ。受け入れることからしか始まらないのよ。あなたはいつもその片方にしかいないの。片方しか生きていないの。いつだってどっちかにしかいなくて、行ったり来たりを激しくしているだけなの。認めなさい。両方を!そして同時に生きなさい!同じ次元で並べて生きなさい!」
 ウンディーネは厳しい表情で戸川と対峙し、今度はもう大丈夫よと彼を抱きしめ、再び豊満な胸へと包みこんだ。
「私が言い続けるから。私が並べ続けるから」
 戸川はそんな二人の姿を、少し離れたところから見ているような気がした。


 その日、ケイロ・スギサキの目には、太陽が違って見えた。楕円形をした太陽が、飛行物体のように空に浮いていた。高度は異様に低かった。明るさもいつもよりは抑えられていたように思う。上下二等分するかのように亀裂が入り、そこからも別の光が外に向かって放射されていた。裂け目はどんどんと深くなり、奥には黒い背景が見え隠れしているようだった。裂け目は徐々に広がり、開いていくようだった。
 ケイロは絵を描くのをやめ、空をずっと凝視していた。何かが開いている。いつもとは違う太陽は、開いている何かの象徴のように思えてくる。
 太陽の光源は別にあった。そこに重なるように、いつもとは違う光がケイロのこれまでの視界に重なり、加えられているように感じた。
 広がる裂け目そのものは、一色だけではない光が放射されていたが、広がる裂け目そのものは黒いままだった。このままでは楕円形の太陽が、真っ黒に染まってしまうのも、時間の問題だと思った。その黒い世界を、ずっと見ていると、そこには何人かの人の姿が見えた。そこを通過した向こう側には、別の世界が広がっているのだった。
 黒い背景はそのまま、向こう側の世界を映し出す鏡になっていた。
 人が現れては消えていく。ケイロはその一人に意識を固定した。後悔に苛まれ、行き場を失った人間のようだった。自らに火を放ち、炎にまみれた世界に変わった。すぐに黒い鏡へと戻る。別の人間に焦点を固定する。水の中に自ら潜り、死んでいく姿。土の中に生き埋めにされる姿。ものを食べることを拒絶し、餓死していく人間の姿。次々と背景は変わり、消えていく。
 その間も、艶やかな半透明の光が、太陽光に重なって、この地上に降り注いでいた。
 新しい太陽は消えていた。ケイロはその日の作業をやめ、デッキのチェアに身を放り出し、夜になってからもずっと星空を見ていた。
 あの太陽の前方に現れた楕円形は、いったい何だったのだろう。
 今になってみると、目のような気がしてきた。巨大な人間の目のような。眼球はなかった。しかし輪郭は完全に目だった。そう思うと、もう一方の目もまた、あの時、空のどこかには浮き出ていたのではないか。思い返してみた。いや、そんなものはなかった。鼻も口も、人間の顔と呼べるものは何もなかった。しかしあれは目のような気がした。その目がゆっくりと開いていった。次第にその目はケイロにとって、性的な意味を帯び始めていった。その真ん中の裂け目は、そのまま女性の陰部のように変化し、天上からの男の愛撫で濡れ、興奮と共にその湿らせた両扉が開いていくようであった。緊張は解け、しかし女性自身は、そこに潜む闇と共に、あらたなる光を地上に洩れ与える。
 けれどもやはり目に戻った。新しい視界が開いていくことを伝えにきた、使者のシンボルのようでもあった。
 ケイロはこの日から、じょじょに変わっていった。
 これまでは目には見えないが、たしかにそこにあると感じるものを、描くことで、視覚化していったのだが、その必要がだんだんとなくなっていくのを感じた。
 描かなくても、見える世界。普段からすべてが見えている世界。そんな世界に、自分はいる。今まで絵に描いていたものは、もうすでに普通に見えるのだ。絵を描く必要性はどこにもなくなる。
 そして終わりはなかった。さらにはそれ以上に見えない世界を希求し、そこに感じるもの、今は見えないけれども、たしかにあると感じるもの。それに焦点を当てることで、キャンバスに記すことで、見えないものを見える世界へと、さらに変えていくのだろうとケイロそう感じた。



















 第四部 第九編  移転の刻路




















 見士沼の仕事の拠点を変える、その引っ越しのために、津永学は一人で奔走して、新しい環境を整えた。施術以外はすべて、任せろと言った手前、見士沼には何も手伝わせなかった。やっと一息つける時間ができた。疲れがどっと出たようには思わなかったが、身体の弱い部分は、至るところでその緊張を緩めていたようだ。
 右目の瞼は赤く腫れあがり、視界を狭め、気管支も狭まり、堰が止まらなくなることもあった。何かに集中しすぎて、身体的疲労がピークになった時に出る、「いつもの」あの症状だった。
 何日か何もせず、無為に過ごしていれば治まっていくのだろう。
 津永学はホテルの最上階にあるカフェラウンジに昼頃から出没し、夕方まで本を読んだり、画集を見たり、スケージュル帳はいっさい開かず、電話もまた携帯しなかった。夜になると、ライトアップされた屋上のプールへと移動し、夏の暑い夜を冷たい水で冷ました。
 泳ぐというよりは浸かっているだけだった。蛇行する長いコースを歩いた。客はちらほらと見受けられた。宿泊客と、ホテルの会員でプールだけを使用する人とが、混じり合っていた。若者だけのグループはなく、若い女がいても隣には一回り以上も歳の違う男と一緒だった。そういったカップルのような男女と、中年男数人のグループをメインに、一人プールサイドで寛ぐ男の姿も、見ることができた。思ったよりも、若い水着姿の女性が少なく、残念だった。最もリラックスできる目の保養の対象が、いなかった。
 津永は誰か女でも呼んで宿泊をしていこうかと思った。けれど今日は身体を休めるのが目的だった。プールから出て、カクテルを何杯か飲みながら、椅子に座り、湿度の高い夜風に当たりながら、何も考えずに目を閉じた。そのまま寝てしまいそうなくらいに、心地がよかった。
 このまま何時間も、何十時間もまどろみのなか、彷徨っていたかった。意識がなくなってしまうのはもったいなかった。やはり今日は、一人でいるのが正解だった。
 耳元で囁く声があった。
 まどろみは、かなり深い場所まで進んでいた。初め、ホテルの人間が、プール営業の終了を告げに来たのだと思った。不思議と、男の声か女の声かわからなかった。〝あとどれだけほうのうすれば〟女の声かもしれない。と思った瞬間、男の声のようにもなった。ほうのうという耳慣れない言葉が逆に、耳の内側に力強くこびりついていた。ほうのうという言葉の意味も、うまくつかみとれない。いきなり、ほうのうだなんて、そんな声のかけ方があるだろうか。したことも、されたこともない。スタッフじゃない!いったい誰なんだ!目を開けようとするが、上下の瞼がぴたりとついてしまって、離れようとしない。いつのまにか、そんな粘着感が増したのか。耳をそばだて、周囲の様子をはかるしかなくなった。水の音が聞こてこない。人のしゃべる声もほとんどしない。ざわめきは遥か遠くに、わずかにあるだけだ。
 熱気溢れる真夏の夜に、冷たい肌触りが一瞬やってくる。あとどれだけ、という言葉が、だいぶん後になってからやってくる。かなりのホウノウを繰り返したということか。しかし誰のことなのかもわからない。奉納。声の主が、自らのことを語っているのか。自らではない、別の人間のことを客観視して、語っているのか。それにどうしてそれを俺の耳元で?俺に関係があることなのか。あなたは・・・。また声がしてくる。あなたはこたえてくれるのだろう。こたえて、こたえて、こたえて、くれるのだろう・・・。
 何度も、何度も、洞窟の内部にいるかのように、響き渡ってくる。誰が何にこたえるのだ?こたえるというのは、どういう字なのだ?なぜか、字のことばかりが気になった。
 しかし、一連の声は、それからしばらくして、イメージの塊となって舞い戻ってくる。
 奉納、応えて、あなた・・・あとどれだけ・・・。叫び、祈り、問いかけ・・・、まだ私は、あなたに捧げるものが、あるのだろうか。
 あなたは誰で何を捧げるのか。いつまで、捧げ続け、今もこれからも、何を捧げ続けるのか。
 あなたは、それに、応えてくれることはあるのだろうか。
 あると信じているから、続けようとするのだろうか。
 それとも、ないことを知りながら、応えてはくれないことを知りながら、それでも、かまわないと、言っているのだろうか。
 当てつけなのか。あるいは、それでも、受け入れることのできる信頼が、あるのだろうか。愛情があるのか。この二人の関係は、いったい、何なのだろう?その想いの応酬は、明らかに、同じ地上に生きる者同士の関係では、ないように感じた。

 あなたとは、確実にこの世ではない別の世界の住人だった。
 死に別れた恋人を思っての「奉納」なのか。一体、何を捧げている・・・?
 地上から、天上にいる、女への思いを伝えるため、何かを繰り返している。
 そう考えられる。繰り返し、何をしているのか。それを続ければ、彼女は反応をかえしてきてくれるのか。

 津永は、それ以上、聞こえない声に苛まれながら、なかなか開こうとしない、瞼の粘着性に、身動きのとれないまま、時間だけがすぎていってしまった。肩を叩かれ、我に返ったかのように、一瞬で視覚が戻った。
 肩の上には、現実に、人の手が触れられていた。
 お客様と、正装したホテルのスタッフが、そこにはいる。大丈夫ですか?全く反応がなかったもので。もう閉館になりますが。ラウンジやレストランは営業しておりますので、どうぞそちらに、移動してください。
「あ、ああ」と津永は寝ぼけたような声を出した。「俺、今、寝てたのかな?」
「はい。そのようです。何度、お声がけしても、反応はなく、体をゆすってみても、なかなか深く、眠っていらしたようで。けれど、気がついてくれてよかったです。意識を失っているんじゃないかと、思いましたから。でも脈はちゃんとあるし、呼吸も正常のようでした」
「何か口ばしってなかった?」津永は訊いた。「うなされてなかった?」
「夢をご覧に?」
「夢の方がまだよかったな」
「といいますと?」
「ああ、いいんだ。そうだ。俺の側には、誰もいなかったよね?」
「ええ。お近くには誰も。私が来たときには、すでにお客様以外、誰もいなくなっていました」
「俺一人か」
「はい」
「何か気になることも、なかったんだね。何か変な雰囲気も」
 ホテルのスタッフは一瞬口ごもった。
「あ、いえ、何ともその、言いにくいのですが・・・」スタッフはここで何とか口調を切り替えようとしていた。
「ほんの一瞬ですね、ええと、つまりはお亡くなりになっているのかと思ってしまいました」


 E連隊は、激戦の最前線へと移動するその途中、忽然と消息を絶ってしまった。 
 あれだけの人数と戦車、重装備をした存在が、あの短い間に、いったい跡形もなくどこに行ってしまったのだろう。今でも必ず、戦局とは何の関係もないミステリーとして、語り継がれている。総勢5064人の隊員は消え、死体も上がらず、装備も今だどこからも発見されることはなかった。
 戦後70年を迎え、固い番組ばかりが構成される中、ミステリー色を全面に打ち出したケーブルテレビの番組を、ケイロは一人見ていた。ちょうど、終戦の日が盆と重なっていたことから、街は故郷に帰省してしまった多くの人間の穴を埋めるべく、風がいつもよりも強く、心地よく吹いているようだった。
 E連隊は首都で始まった地上戦に応援部隊として、駆けつける予定だった。
 終戦のちょうど一ヶ月前のことである。もしこの部隊が予定通りに到着して、首都防衛に万全の体制で臨めていたらと、ナレーションは続いていた。首都は蹂躙されずに、被害は大きいが、敵国は攻めあぐね、引き上げ、そのあいだに国は再び臨戦態勢を整え、敵国に総攻撃をかけていけたのではないか。戦局が変わる、重大な場面だった。
 あらかじめ、レーダーで察知した敵国が、E連隊が首都に近づくだいぶ前に、攻撃を開始し、殲滅させてしまったのではないかと、戦後は言われたりもしたが、調査していくと、そういった記録は出てこず、E連隊の残骸は、どこからも発見されることはなかった。
 やはり、消えてしまったという以外に、公式な記録は残せてなかった。70年経っても、真相は解明されず、いまだに警察による化学捜査が続行中だというのだ。国は諦めてはいないのだった。これが何を意味するのか。忽然と消えてしまうことなど、ありえないことだとしたら、考えられるのは雲隠れだった。雲隠れを許した、いや、雲隠れをするよう指示した、誰かがいた。さらには雲隠れさせられるだけの力を持っていた何かの組織。戦後、E連隊の装備は着実に解除され、分断され、細切れにされ、証拠隠滅がはかられる。隊員もまた、方々に民間人として解放するか、国の外に放出する。何らかの細工も、首尾よく手配し、何事もなかったかのようにしてしまう。敵国がスパイとして入り、そのような手配をしていた。E連隊は、身の安全と、戦後の身分の保証とを、引き換えたのだ。取引に応じたのだ。戦後、彼らは国の外でも、生活を謳歌したか、あるいは別人となって、何食わぬ顔で同国で生きているか。E連隊の謎は、そのようなストーリーを経るのが、最も妥当だと、番組は報道した。
 しかしその説を裏付けるものは何もなく、別の説を唱える、ゲストたちが、奇想天外なことを言い合い、エンターテイメント溢れる構成となっていた。
 どの説も、それなりにアリえる話だと、ケイロはそのどれにも、賛成したかった。
 だが、ケイロは違うと、ふと閃いた。違う。俺の話は、誰とも違う!E連隊。そうか。
 E連隊など最初からなかったのだ。編成したと装っただけで、最初からその気もなければ・・・つまりは、国は首都など、守る気はなかった。信じたくはなかったが、それが、最も筋が通る話だった。局に電話をかけようかとさえ思った。5064人の新たに編成した部隊という幻。首都を守るため、向かったとされる、終戦一ヶ月前の茶番。ケイロには、終戦日もまた、たまたまその刻になったのではなく、あらかじめ決められていて、そこに向かって、事態は着々と進んでいたのではないかとさえ思った。その、最後の切り札が、E連隊だった。E連隊の編成に、そのとき国は血眼となって国中の兵力を結集するよう呼びかけていた。多少、他の戦地での戦力が低下してしまおうが、ここに挽回の時を見ていて大きく流れを変える一撃を、ここに賭けているのだと訴えていた。そしてそれが実現するはずであった。しかし行方はわからなくなり・・・、それがすべて嘘であったなら・・・。しかし記録にははっきりと、編成された兵隊の名が記されている。その当時、別の軍隊に所属していた人も、首都決戦のための再編成と称して、何人もの隊長や、若手の重要人物、屈強な一兵卒が、召集されていく様子を確認している。
 人の確保は行われていた。ということは・・・。
 ケイロは考えを先に進めた。
 人は集められていたが、武器は集められず、部隊もまた作られることはなかった・・・。
 編成のために、人が集められたのではない。彼らは、自分から出ていったのだ。そういえば、戦局を詳しく知っている人間と、その近しい人ばかりではないか・・・。E連隊とは国を守るため、首都に集められた精鋭部隊なんかじゃなかった。負け戦となることを知っていた、そのシナリオに従い、あるいは、敵国に取り入るために寝返ったヤツラなのではないだろうか。いや、それは、わからない。シナリオとは、関係ないところで、彼らは独自に、亡命を果したのかもしれなかった。何なのだ、このE連隊とは。

 ケイロは、番組の終了後、別の局にチャンネルを合わせた。
 E連隊のことを触れている番組はなかった。E連隊そのものがないものとされていた。
 むしろ、ケーブルテレビの、そのローカル番組が扱う、E連隊こそが、フィクションとして、真夏の超常現象としてのみ、扱うことを許されているように、ケイロには見えてしまった。



 戸川が入院していた病院が、自分のいる病院から一キロも離れている場所だったことを知って、アキラは驚いた。すでに戸川は退院していた。アキラは一ヶ月を超える入院に、だんだんと疑問を感じていたからだ。必要以上に薬を投与することで何かを企んでいるんじゃないかと、病院を疑ったりもした。しかし連絡をとれる知り合いの存在も、今はあやふやで、しかもこんな姿では戸川にも会わせる顔がなかった。
 戸川もまた、命が危ぶまれるほどの重体であったことを知った。ほとんど時を同じくして、俺らは生の領域からはじき出されていたことになる。こんなことがあるのか。戸川は突然発した、原因不明の病気のようであった。詳しいことはわからないと報道ではされていた。週刊誌などにも症状についての記述はなく、代わりに彼の結婚相手に関する記事ばかりが出まくっていた。昏睡状態からは脱し、体も以前と変わらない状態に戻ってしまえば、まわりの人間は、特にそれ以上、原因の追究などしなくなる。
 確かに俺とは違った。俺は病気でも何でもなかった。殺されかけたのだ。すでにほとんど殺されているといっていい。そろそろ病院内で、警察による事情聴取が始まるらしかった。そういう意味での、退院許可が下りない現実もあった。確かに自分自身においても、体力は戻ったものの、心のダメージは相当負っているのかもしれなかった。少し時間が経つにつれて、感じることが多くなってきた。まだ今は、その心を見て見ぬふりをしているため、特に目立った傷があるとは考えにくい。ところが、いったん、その「何か」と向き合えば、・・・そう、やはり、この場にしばらく、居を構える以外に選択肢はないのかもしれなかった。そうか。戸川は結婚したのか。こういう時にこそ、話し相手になってほしい男だった。彼もまた本当の友達は俺しかいないんじゃないかと、自惚れていた。また一番大変な局面で、お互い顔をつき合わすのではないかと、密かに思っていた。だからしばらく距離を置いても、いや置いたほうがいいのではないかと思ったのだ。確かに二人が意識を失っていた時期は、驚くほど重なっている。しかし意識を取り戻した後の状態が、まったく違う。ということは、そもそも死の淵を彷徨い歩いた、そうした状況へと引き込まれていった理由が違うのだ。
 俺らはもう最初から、親密に会って遊んでいるときから何一つ、噛み合ってなかったのだ。何一つ、共有しているものはなく、束の間の時間つぶしを、していたことになる。これほど彼を遠くに感じたことはなかった。一キロ先に十数時間前まではいたのだ。そこで彼は退院の記者会見を開いていた。戸川には今、親友としての異性が側にいた。彼女に何でも心をさらけ出している。そういった女性を手にいれたのだ。
 事情聴取は明日から始まる。殺人未遂事件として、本格的な捜査が始まる。国際的な犯罪組織が絡む、大変な事件に俺は巻き込まれてしまった。俺は台湾への旅行から始まる一連の行動を、正直に話せばいいのだろうか。すべてを包み隠すことなく、脚色することなく、受け取られ方を計算することなく。あとは警察にすべてを任せればいいのだろうか。別に、俺にとっては、殺人未遂が成立しようがしまいが、そんなことはどうでもよかった。嵌められたのは間違いなかったが、彼らが再び、この俺をターゲットに追ってくるとも思えなかった。たまたま、俺はあの場所にいて、たまたま彼らと鉢合わせをしてしまった。突然、その、たまたまを引き起こした要因は、俺の中にあるわけだし、そこを見て見ぬふりをすれば、また同じようなヤツラを引き寄せ、似たような状況を作り出すことになるだろう。それだけは避けたい。そしてそのことは、ヤツらや警察とは何の関係もないことだった。
 そんな時、アキラのもとに一人の見舞い客がやってきた。
 交際している女性の方ですと、看護婦は言った。反射的にアキラは刺客だと思った。
 看護婦にはこう言った。
「僕に付き合ってる女性は、いません」
「いえ、しかし、・・・」
「僕は事件に巻き込まれた、人間です。警察に、その訪問客のことを話してください。今すぐに」
「いえ、ですから、警察の方には、すでに話は通っています。そう言われているもので。訪問客を勝手に通してはならないと。すべて報告するようにと」
「それで許可されたのですか?」
「そうです。あなたと交際している女性で間違いないと。そう判明されたようです」
「警察が?警察がそう言ったの?ほんとに?」
 アキラは信用することができなかった。
 この看護婦の女もグルなのだろうか。この病院自体がグルなんじゃないだろうか。
 警察と証して警察になりすまして。ヤツラの手下なんじゃないだろうか。俺が余計な証言をする前に、口封じをするために。そう思えば思うほど、入院そのものがずいぶんと不可思議に思えてくる。
 本当にここは病院なのだろうか。医療器具が何だか頼りなく見え始める。この器具もまた急いで病院のように見せかけるためだけに、無差別に集めたもののように見えてくる。とりあえず病院らしく見せれば。あいつを信じさせるに足る、そんな状況だけをつくれば。とにかくはやく。はやくと。
 このドラマのセットのようにつくられた、張りぼての空間に、俺は監禁されているんじゃないだろうか。だとしたら、この女看護士は、いったい何者なのだろう?ヤツラの手下の一人なのだろうか?それとも、本物の看護婦をわざわざ雇い、派遣してきたのだろうか。張りぼての粗雑さを、補うに足る、本物の人間を。
「戸川兼って、知ってる?」
 アキラは突然看護婦に問いかけた。
 看護婦はビクッと体を震わせながら、もちろん知っていますと答えた。
「あの男と友達なんだ。幼馴染で。近くの病院に入院してたんだってな。どうして俺も、そっちじゃなかったのだろう」
「たしかに、ここから一番近い病院になりますね」
「このあたりには、他にも病院はあるの?」
「いえ」
「この、二つだけか」
「五キロ、十キロ圏内では」
「そう」
「何か?」
「そっちの病院に、移してはくれないの?」
「あなたを?」
「別に、いいじゃないか」
「お気に召しませんか?」
「戸川と同じところがいいんだ」
「もういませんよ。何日か前に、退院されています」
「知ってるよ」
「では、なぜ?」
「向うのほうがさ豪華そうじゃん。設備もよさそうだから。当然、医師のレベルも高そうだ」
「その点につきましては、ここの医師も優秀です。人間的にも、大変すばらしいと、自負しております」
「とにかく、戸川の方に、行きたいんだよ」
「困りますね」と看護婦は答えた。「警察の方に、直接、言ってもらえますかね」
「また、警察か」
「あなたは、事件の関係者なんですよ」
「被害者だよ!」
「ええ、そうです。関係者です。あなたに、病院を選ぶ権利は、ありません!」
「何だって?」
「あなたに、自由はないのです!おとなしくしていなさい!あなたは、自分に起こったことを、軽くみすぎています。これは、あなたにとっては、実に深刻な出来事で、我々社会にとっては大変、重大な、時代の裂け目となる事件だ。本当に何を考えているんだ、あんたは」
 最後のほうは、中年の太った看護婦のような口調に、なっていた。
「女性には、帰ってもらいましょう。こんなあなたに、会わせることのできる、人はいません。女の人が、可哀相です」
 張りぼてのはずだった病院が、だんだんと何十年も責務を果たしている現実の病院に見えてくる・・・。
 看護婦は引き戸を勢いよく閉め、「反省しなさい」と叫んでいってしまった。


 あとどれだけほうのうすれば・・・すれば・・・あと、どれだけ・・・津永は、日を経つごとに、増して木霊してくるその声に、昼夜悩まされるようになる。
 何が原因で起こっているのか。明らかにそうだった。ミシヌマエージェントをつくり、カイラーサナータと名付けた新しい建物に、施術院を移動したその夜から始まっていた。
 どうしたら声は鳴り止むのだろう。こういう時こそ見士沼祭祀だ。彼の施術がこうした障害を、綺麗に取り去ってくれる。そのための施術院であり、彼という存在だった。
 津永学は見士沼祭祀が宿泊する一戸建ての家に、出向いていった。
 彼はホテルに宿泊することを嫌い、電話やパソコンなどの通信機器を使うことを、嫌った。
「お疲れのところ、すみません」津永はインターホン越しに言った。
「疲れるようなことは何もしてないよ」
「いいですか?中にいれてください」
「どうしたんだ。少し顔色が悪いね」
 通されたリビングルームは何日か前にやって来たとは思えないほど、生活感に溢れていた。
「そうなんです。寝不足なんです。全然、眠れなくて。困りました。声がですね。聞こえてくるんです。幻聴です。初めてです。まだその一言ですが、それもわかりません。どんどんと増えていって・・・そうなったら・・・、ほんとに煩くて、ねえ、・・・そうでしょ。今のうちに処置しておいたほうが。そうですよね。あなたなら数分でなんとかできる。お願いします。本当に余計な仕事をさせてしまって、申し訳ないです。私としたことが。あなたに合わせる顔もない。本来。
 あ、そこのソファーに、横になればいいですか?そこで、いいんですよね?服は脱がなくて、いいんでしたっけ?いや、初めてなもので。まさか自分がミシヌマさんのお世話になるなんて、思ってもみなかった。でも考えようによっては、よかった。こんな身近に先生がいらっしゃるんです。幸運です。今という時期も、また、よかった。開業前で、本当によかった。大丈夫でしょ?私一人、だけですから。三十分もあれば、終わりますか?一回の施術で、終わりでしょ?早めに来て、よかったですよね?お願いします」
 津永は、自らソファーに横になり、仰向けになるのか、うつ伏せになるのかわからず、中途半端な横向きになって、見士沼の施術を待った。
「こんなところじゃできねぇよ」
「えっ?」
 これまで聞いたことのない声だと、津永は思った。
「できねぇんだよ。俺の自宅だぞ。嫁も、三歳の娘もいるんだぞ」
「娘?誰のですか?いたんですか?いや、そんなはずは」
「お前になんか、軽々しくできるか?ちっ、その必要すらないのに。いいか、津永。・・・俺のエネルギーを余計なことには、使いたくはない。こんな、ちまちまとしたことに。いいか、よくきけ、津永。お前みたいな、擦り傷程度のヤツを、今度の場所に、絶対に連れてくるなよ。連れてきた瞬間、お前との縁は切るからな。二度と顔など見られなくしてやる。いいか。たとえ、どんな症状の人間に対してであっても、俺の施術は等しく巨大なパワーを費やしてしまう。どういうわけかはわからないが。とにかくそれは、これまでの実験で証明済みだ。わかったか、津永。お前の症状など、吹けばすっとんでしってしまう程度の、塵にすぎない。そんなもの、自分でどうにかしろ!だいたい、言葉だって、そんなにもはっきりと、聞こえてくるんだろ?簡単な話じゃないか。・・・意味を汲み取り、自分が今できることを自分にやる。それで終わりだ。
 まったくやさしい話だ!お前は馬鹿なんじゃないのか?一番、辛い症状ってのはな、何も症状が出ていない、そんな状態のことだ!わかるか?何よりもそれは辛い。俺はそんなヤツラの力になりたい。症状はないのに負荷だけはかかってる。全然、つらくはないんだぞ!自覚症状がないんだぞ。わかるか?それでも、なぜか、足はここに向いてしまった。そういう人たちだ。一番大変な、そいつらのために俺はいるようなものだ」
 津永はいわれていることを理解するのに、時間がかかった。
「わかりません」と正直に答えた。「でもたしかに、僕ごときのために力を使うことはないのは分かりました。すみません。そこは謝ります。たしかに声は鮮明に聞こえてきます。あと、どれだけほうのうすれば、あなたは、こたえてくれるのだろう。その言葉が、繰り替えされます。何を、どこに、ほうのうするのでしょう。何のために。誰が。あなたとは一体。こたえてくれるというのは、祈りが通じるということですか?これまでも祈ってきたのでしょうか。祈りを表現するために何かをほうのうする、つまりは捧げたのでしょうか。あなたとは?そうすると。あなたとは神のことなのですか?自身を超えた存在に対する。そうですよね。地上に生きる僕に対する。天にいる存在のことですよね。その存在に向かって、僕は一体、何を捧げていたのですか?今も。いったいいつまで?叶えられるんですか?何を望んだのですか?僕は何を望んだのか」
「君にも・・・、か。やはりそうか。そうなんだな。君にもとりついてるんだな」
 見士沼はそう言って、笑った。
「俺にも、そう。俺に関わる人間は、皆そうなのか?ふふふふ。奉納ね。そうだよ。奉納だよ!死体だよ!津永くん!死体を天に捧げているんだよ!これまでも、今も。君もまた!君は誰かを殺したのか?あるいは死体を見つけて、拾ったのか?してないだろう。してなければ、どこから集めてくる?勝手に集まってくるわけがない。そうさ。君だ。君なんだよ!君が、君自身の一部を殺して、そして差し出しているんだ。小刻みに。そう。小刻みにね。君自身が差し出している。奉納している。こたえてくれないだって?あたりまえじゃないか!そんなもので応える天であるだろうか!
 津永・・・、何を奉納すればいいのか。よく考えてみろ。いや、考えなくとも、結論は初めから出ている。津永。しかしはやまるんじゃないぞ。必ず来るから。必ず来るから。それを実行に移すときは。必ず来るから。その刻を待て。いいか、津永。そうすれば無駄死にはしなくなる。避けられる。生まれ変わった津永になれる。そんなお前を現実に、体感することができるようになる。必ず」
 結局、津永は施術をされずに家を追い出されてしまった。
 しかしその夜、悩まされていたはずの声は見事に消えていた。 
 翌朝になっても再生されることはなかった。


「警視庁の田所です」
 男は警察手帳をアキラに見せた。
「お一人ですか?」
「そうです」と田所は答えた。
 もっと大勢の捜査員がやってきて、大掛かりな聴取がされるものだと思っていたアキラは、拍子抜けしてしまった。
「ええと、台北の、ウエストミンスターホテルで、監禁されていたそうで」
「そうです」
「詳しい状況を報告してください」
「報告?」
「手短にお願いします」
「手短?なんで?」
「なるべく簡潔に」
「きいていた事情聴取と、全く違う」
 アキラは大きな声を出した。
「僕は被害者ですよ。殺されかけたんですよ」
「きいております」
 他人事のように、まるで関心がそれほどないような対応に、アキラは怒りすら湧いてきた。
「大きな事件につながる、重要な案件なんですよね?」
「何も、申し上げられません」
「わかっています」
「どういう状況にあったのか。教えてください。あなたは、個人で旅行をされていた。仕事でしたか?」
「半々です。旅行という名目でしたが、向こうでも昼間はほとんど、ネットに繋いで仕事をしてました」
「なるほど。経費として落としていたんだ」
 アキラはしぶしぶ頷いた。
「それで、夜は遊びに出て」
「そこで、騙されてしまったんですね」
「占い横丁に行ったことで、まさに運命がおかしな方へと、動いてしまった」
「そのようですね」
「ギャンブルに首を突っ込んでしまいました。結局、勝てないシステムだったのでしょう。短い間に、多額の借金をしてしまって。その返済のために、彼らの仕事の片棒を、かつぐ羽目になってしまった。そこからは言われるがままです。どうしてあんな、軽率な行動をとってしまったのか。今だに、自分が信じられません。これまで、そのようなことは、一度もないのですから。ギャンブルに目覚めたこともないし。女で失敗したこともない。ビジネスも大成功とまではいかないけれど、軌道に乗らなかったことはない」
「だからです」田所は言った。
「一見、うまくやっていたようですが、実情はそうじゃなかった。その反動です。でも、よかったじゃないですか。致命傷にならなくて。たいした損失もなく、いつでも再生できる」
「どうでしょう」
「監禁されていたそうですけど」
「監禁はされていません」
「えっ?そうなんですか?そのように聞いてますけど・・・」
「台北で、そういう事態に巻き込まれて、それで彼らにはそのギャンブルの攻略法を叩き込まれたんです。そうしてそれを武器にあらゆる別のギャンブルにも適応させて、勝ち抜く技術を身につけたんです。その技術をもって、世界中のカジノに僕は送りこまれました。そこでシステムをダウンさせるテロリストのような行動を、要求されました。その僕が担当する最後の仕事が、日本だった。しかし僕の正体は初めから、カジノ側にはバレていたんです。アンダーグラウンドの社会の争いに、まさに一つの駒として僕は使われ、さらには敵対していた別の組織にも、囚われてしまったわけです。その抗争に警察が今回、介入したんでしょ?そして僕は被害者の一人として協力する。知っていることは何でも話しますよ。体験したことはすべて」
「あなたが発見されたのは、台北ですよ。ウエストミンスターホテルの605号室です。あなたが宿泊していた部屋ですよね?」
「たしかにそうですけど」
「そこに、二ヶ月のあいだ、閉じ込められていたはずです」
「違います」
「今さら虚偽の証言をされては困りますよ。正直に心を開いて、さあ、監禁されていた間、あなたは何をされていたんですか?電気ショックのようなこともされていたんでしょ?刃物を突きつけられて・・・、しかし何のためにそんなことをされたのか。動機がわかりません。ホテルのオーナーがグルとなって、宿泊した外国人を、閉じ込めた。わからないんです。何故そのようなことを」
 話がまったく噛み合わないことに、アキラはまったく疲れてきた。すべてをありのままに話してしまおうと決意していた自分が、情けなくなってきた。
「再び、僕は狙われるかもしれません。警察が守ってくれるんですよね?」
「また狙われるのですか?」
 田所は驚いた表情で、アキラを見た。
「こういった証言をしてしまった人間を、彼らは嫌がるはずです」
「といっても、我々に参考になる話は何も・・・」
「あなたの話の論点が、ズレてるからだよ!」
「とにかく安静にしていてください」
「俺はイカれてなんていない」
「そういう意味ではなく・・・」
「病院。別の場所に移りたいんですけど、いいですか。そうしてもらえませんか?この近くにもう一つあったでしょ。そっちにしてもらえませんか?知り合いの知り合いがいるんです。もっと良くしてもらえるはずです。お願いします。ここじゃあ監禁されているみたいだ。あなたたちに」
「昨日、女性が訪ねてきたでしょ?」
「断りました」
「どうして。最愛の彼女でしょう?」
「僕に恋人がいないことを知ってて、そういうことを言うんですか?」
「別れようとしているのは、わかります」田所は全て知っているかのように言った。
「しかし、縁はまだだいぶん途切れる気配は、ありません。彼女、病気を、もっていますよ。性的な接触はあまりしないほうがいい。あなたも、おわかりになっているでしょ?新しく彼女になる女性。その方ともうすぐ出会いますしね。もう、出会ってましたか?その女性と急速に親しくなっていくんですから。前の彼女とは少しずつ疎遠にしていくのが、賢明です。いきなり断ち切るような行為は、危険です。逆に、糸を切れなくさせてしまう。向こうの想いに、再び点火してしまうことになる。あくまでも、じょじょに、じょじょにです。いきなり冷たくするのも、いきなり性交渉を拒絶するのも、好ましくありませんから。例えば、性交渉する時でも、中身を少しずつ淡白にしていくべきでしょうね。気づくか、気づかれないか程度から。時間も短く、そのうちに頻度も減らして。そうしているうちに、新しい子と親密になってくるはずですよ。あなたの中で完全に、あなたにとっての、女性が入れ替わる「刻」というのが、訪れますから。どうかその瞬間、その局面を見過ごすことのないようにね。それでは、事情聴取は終わります」
「はい?」
 そうだったと、アキラは本来の状況について我にかえった。
 こいつは本当に、警察の人間なのだろうか。一人で来るという自体が、信用できなかった。
 男が部屋から出ていったあと、アキラはすぐに警察に電話をかけるため、アイフォーンを探した。


 誰に何を捧げるのか。津永は自分以外には考えられなかった。これまでの自分のすべてだ。生きてきた自分のすべてを捨てる。殺せばいいのか。それですべては消えてなくなってくれるのか。
「かいせんが宣言される」
「えっ?」
 低い男の声だった。
「もう、まもなく」
 かいせん、かいせん、・・・文字の変換がうまくいかない。
「ふたりのさいしが」
 さいしという言葉。またもや字がわからない。
 しかし、アキラは慌てなかった。わからない単語がいくつかそろった瞬間、すべての単語のイメージが一つにつながり、意味をもたらし、最後に文字が理解を署名するように浮き出してくるはずだった。
「ふたりのさいしが、ひとつのばしょをとりあうとき。ふたりのさいしが、ひとつのばしょをとりあうとき、とりあうとき・・・とりあうとき・・・。かいせんをつげるかねのねがなりひびく。ふたりのさいしが・・・ふたりのさいしが・・・。
 二人の見士沼?見士沼が二人?高貴と祭祀?
 親と子の対決?二人の祭祀。宗教ごとを司る・・・祭祀。世の中の重要ごとを司り、儀式に変換し、その変わり目に力を刻印する・・・祭祀。二人。二人の祭祀。二人の候補者。一つのポジション。一つの役割。祭祀。共存しない共存が許されない祭祀の場所。開戦を告げる・・・。
 争いごとか・・・。その地位を争うのか・・・。開戦をつげるかね・・・。
 きっかけにすぎないのか。その儀式が、鐘の音となって、一体、なにが起こるのか。開戦。たたかい。あらそい。対立するもの同士の潰しあい。勝利が訪れるまで続くのか。勝利はあるのか?誰が。勝者の地位に君臨するのだ?
 そもそも二人は、対立的な特徴をもった者なのだろうか。
 単に、君臨できる場所が、一つだからじゃないのか。だから、その場所を争うために・・・。
 ということは、つくられた対立ではないか。
 つくられた対立同士が、あらそい、攻撃しあう闘いが、始まるのだろうか。
 その口火が、切っておとされてしまうのだろうか。
 これか。この未来の記憶こそが、今、カイラーサナータに葬り、手放し、天上に昇天させておかなければならないことなのか。
 津永は、その日から、二人の祭祀が争う光景を、カイラーサナータに引き渡す作業を続けた。そこから始まり急拡大していく混乱を、天上に引き渡す状態を思い描いた。
 それにしてもと、津永は二人の祭祀の、もう一人の方が気になった。


 携帯はなかった。私物は何もなくなっていた。病室にはいつのまにか鍵がかかっている。窓が防弾仕様のように硬くなっている。あの警察手帳は本物だったのか。警察ではない別の組織が、また俺を監禁しているんじゃないのか。しかし田所という男は、本物の刑事の匂いを放っていた。けれどどの道、警察であろうがなかろうが、こうして身柄は確保されている。一体何が起きているのか。
 この自分の身が何かの対立、交渉、取引に使われているとしか思えなかった。
 警察に匿われているのなら、この身はとりあえず、安全だということになる。時間の猶予はあった。アキラはドアに体当たりをし無理やり突破する。ごみ一つ落ちていない廊下は人気がなく、入院患者などは誰もいないことが明白だ。別の部屋をノックしてみる。反応はない。ここは警察病院なのか。精神病棟なのか。みな、身体を拘束されているのか。
 戸川!と叫んでみた。戸川、助けてくれ。俺はここにいるぞ!帰ってきたんだ!戸川、一人だけ退院するなんて、ズルいぞ!俺は近くにいたんだ!どうして声をかけなかった?悪かった、戸川。一人で内緒に台湾にいって。戸川、あのときも、お前を誘っておけばよかった。あの時期はどうかしてたよ!どうしてか、お前の側にいては駄目な気がした。
 頻繁に会いすぎてると思った。


「止みましたよ、声」
 津永学は見士沼祭祀の家を再訪した。
「二人の祭祀がどうだとか。祭祀って、見士沼さんのことですか?祭祀って名前の人が二人も?」
「それはたぶん俺のことだよ。お前には関係ないよ。本来はこっちに来るやつだ。というか来ているやつだ。お前は人に来た情報も掴んでしまうようになったんだな。はははは。お前には関係ないよ。それに、祭祀ってそれ、人の名前のことじゃないよ。役職のことだ。儀式を司る神の代理人。その祭祀が、祭祀候補者が、二人現れるっていう、そういう予言だ」
「誰なんですか?それは」
「知らないよ」
「というか、見士沼さん。神の代理人になるんですか?」
「その気は、ないね」
「気はなくとも」
「先のことはわからないよ」
「でも、・・・知ってたんだ」
「たぶん、俺のところに、先に声は来ている」
「二人の祭祀。ええと、確か二人の祭祀が、一つのなんだっけな、地位だったか。それをとりあうとき。そうだ。とりあうって。あらそうんですか?見士沼さん。あなた、そのポジションを、欲しがっているんですか?奪い合うんでしょ?ええと、それで、何だっけな」
「開戦を告げる鐘の音が、鳴り響くだ」
「そうだ。それだ!やっぱり同じだ。僕のところに来た声と。開戦って、何ですか?二人の争いでは済まないってことですか?」
「おいおい、そう、早まるなよ」
 一呼吸おいてから、言葉通りにとるんじゃないと、見士沼は言った。
「開戦って何ですか、見士沼さん!」
「そうだな。争いはおそらく避けられないな。争いというよりは闘いだ。お互いを潰しあうね。そして勝利者はいない。勝利者のいない闘いだ」
「どういうことなんですか?一つのポジションを、争いあうんでしょ?」
「祭祀はな。しかしその争いが始まりとなった大きな混乱は、目的のない混乱だ。つまりは、混乱そのものが目的だ。そしてその後、閉廷した世界を誰かが王として君臨し、支配するわけじゃない。王になりたいやつらの勢力が、互いの存在を消滅させ合う。そういう争いが起こる。奇しくもその笛を吹く役目を、担ってしまうのかもな」
「そんな、あとに起こることなんてどうでもいいですよ。その前に起こる、見士沼さんの・・・、それは、僕も、おもいっきり当事者になる。どうなってしまうんですか?何故、あなたが、そんな行事に?まさか。これから行う仕事が、要因に?まさか。いやそうだ。そうにちがいない。おそらく、あなたの存在は、この現代社会に、すぐに知られてしまうことになる。そのくらいのインパクトがあることを、あなたは執り行なうのだから。なるほど。あなたが立候補するわけではない。あなたを、担ぎ上げる人たちが、相当な数、現れるんだ。きっとそうだ。あなたが相応しいと、そう信じる人々が、あなたを祭祀に選んでしまう。そして、別の理由で、また別の勢力が、もう一人の候補をのし上げてくる。あなたたちは、運命に導かれるように、対決が余儀なくされる。そんな土壌が出来上がってしまう。逃げも隠れもできない状況が、自然に揃ってしまう。そうなんだ。で、本当に、対決が?何をする気なんですか?いや、武力じゃないな。選挙か?政治的なことなのか?そもそも何の儀式なんですか?それって公式の行事なんですか?誰が主催するんですか?主催者は、一体」
「はやまるなって、言ってるだろ」と見士沼祭祀は言った。
「まだ、俺の仕事すら、始まっていない」
「そうですけど。このタイミングで、啓示があるんです。何か、準備は必要なはずです」
「まあな。心のな」
「僕は、あなたの手足です!」と津永は言った。「心だなんて言わないでください。何かできることがあれば、今からでも。僕には何もわかりません。見えません。なのであなたからの指示を待つだけです」


『来た』
 アキラは突然感じるものがあった。十数分、部屋の中に変化はなかった。
 ところがドアがノックされる音が次第に大きくなっていった。「アキラ」
 男の声だった。直観の通りなら、そこには戸川がいるはずだった。
「アキラちゃん」
 やはりそうだった。
「アキラちゃん、無事だったんだ。よかった。ニュースで知ったんだ。オレも入院中だったんだ。まだ昏睡状態だったんだが。そのね。本当のところ、意識はずっとあったんだよ。体の外に出てしまって、それで戻ることができなかった。そのとき部屋に見舞いにきていた誰かがつけていたテレビで、アキラちゃん、きみを見たんだよ!だいぶん回復したじゃないか。映像で見たときは、やつれちゃって・・・。どうしたの。監禁されてたんだって?どうして何も言ってくれなかったの?一人で海外行っちゃって。どうして、オレも誘ってくれなかったの。休みの都合は、いくらでもつけられたのに」
「兼ちゃん、うれしいよ」
 アキラは目に涙を浮かべながら、戸川の右手を握った。
「おいおい、気持ち悪いよ」
「兼ちゃん。俺こそ、君が大変な時に力になれなくて悪かった。側にいてやれなくて悪かった」
「いいんだよ。それよりもよかった。また会えて」
「きいたよ。結婚したんだってね」
 アキラはそういいながら、少し胸が締め付けられる感覚が走った。
「事務所の社長だってね。ずっと交際してたの?何も知らなかったよ。気がつかなかったよ」
「なあ、アキラちゃん。知らなくて当然なんだ」と戸川は言った。
「そのときはまだ、付き合ってなかったんだから。女性として、恋愛の対象として、意識したことすらなかったんだから。入院中さ。体を離れていたときさ。突然自分にとって、大事な人が見えたんだ。アキラちゃん。あらためて君もだよ。君のことは前からわかってたけど」
「一緒に暮らしてるの?」
「そうだよ」
「式は?」
「まだ。その予定はないよ」
「他の子たちは?」
「ああ。全然興味をなくしたよ。もちろん、御飯くらいはこれからも行くだろうけど。でもそれ以上は飽きた。家庭をもったんだ。そこをもっと発展させていくよ」
「そうなんだ」
「ああ。生活のすべてを見直して、一変させようとしてる。もし、そうしないと、生死を彷徨った意味が、まるでなくなるから。アキラちゃんは?アキラちゃんも、結婚とか、考えてるんじゃないの?」
「どうして、そう思う?」
「だって、俺らは、いつだって状況が似てるから」
「そうだな。確かにな」
「じゃあ」
「けれど、ないよ。そればっかりは連動してないよ。逆に、そう。少し混乱した事態になってきてるし。すでに二人の女が見舞いに来たんだ。俺、彼女いないだろ?それなのに、その一人は、俺と付き合ってると言い出した。どっちがおかしい?俺か?それとも。その女とは、長い付き合いらしいんだ。もう一人の女は、俺が台湾に行く一週間前に知り合ったらしい。ナンパしたのかな。もうわけがわからないよ。まさか、もう、増えてなんていかないよね。兼ちゃん、君が捨てたその性質を、俺に転化なんてしてないだろ?」
 アキラは笑って誤魔化したが、戸川はまるで聞いてないかのように、遠くの方を見ていた。病室の壁など、軽がると貫通させて。
「アキラちゃん。二人の女が来たんだってな」
 深刻そうな物言いに自分で気づいたのか。
 戸川は表情を意識的に変えた。そんなふうにアキラには見えた。
「そう、二人だよ。それが何か?」
「いや、別に」
「おい!隠すなよ、兼ちゃん。今、何か、閃いたんじゃないのか?」
「そうか、二人か・・・.そうなんだよ。二人から始まるんだよ。必ず」
「だから、何が」
「二人から、始まる」
「増えるのか。そうなんだな。兼ちゃんもそうだったんだな。それで?増えた先には、何が?倒れてしまうのかな?そうか。受け止めきれなくなるんだな。それで、一人に絞る。結婚か。戸川。いや、兼ちゃん。いいじゃないか!最終的に、結果オーライになるんだから。はやく言ってくれよ。全然、暗い顔になることはない。幸せなんだろ?兼ちゃん。それでよかったんだろう?」
「アキラちゃん。そのどちらかに、時が来たときに、決めるんだよ。いいね。親友の忠告を聞いてくれと。どちらかに決めるんだ」
「いつ?」
「今、じゃない。わかるはずだ。ココだという時が。けれどそんなに先ではない。いいな。それを絶対に逃すなよ、アキラちゃん。後悔してるんだ。俺にも同じことがあったんだ。そこで選べなかった。あえて、選ばなかったのかもしれない。そして、その代償は、すぐにやってきた。三人目、四人目の女が、俺と関係を持ちにやってきた。それからだ。仕事の量も、急増していったのは。仕事の仕方を変えたんだ。来る仕事、すべてを拒まずに、受け入れた。するとその噂は噂を呼び、いろんな広告の仕事が俺のところに舞い込んできた。多忙なんて言葉じゃ、片付けられないくらいに。アキラちゃんも、知っての通り」
「俺には、全然、悪いことのようには聞こえないよ」
「いいとか悪いとか、そういう問題じゃないんだよ。俺はその分岐点で、『増殖』を選んだんだ。無意識に。その結果は知っている。そこに至るプロセスを、体験している。だから。だから、アキラちゃんには、そうではなかった、それとは違う現実を、経験してほしいんだよ。俺のわがままかもしれない。俺のようには、なってほしくない。違った結果を、アキラちゃんには、受け取ってほしい。いいとか悪いとかじゃなくて。いや、ごめん。出すぎた真似を。そうだよな。どうして人の選択に、俺が口を出することができるだろう。すまん。でも、アキラちゃんには、こうなってもらいたくなくて。確かに、今は幸せだよ。これからのために、これまでの生活もあったんだって、今は、そう捉えられるよ。でも、それは、俺の話だよ。アキラちゃん、なっ?アキラちゃんは、アキラちゃんの道を歩んでいってほしいんだよ。お願いだよ。約束してほしいんだ。俺は見ちゃいられない。もう追体験はいいんだ。もうたくさんなんだ!それが、よりによって、最も大事な友人だなんて」
「大丈夫か?どうしたんだ?そんなに息を切らして。らしくもない」
「ごめん」
「話題を変えようか」とアキラはいった。
「ここはさ、本当に病院なのかな?心待ちにしてたんだ、兼ちゃん。真実を打ち明けてくれる人間が来るのをさ。でないとどいつもこいつも、出まかせを言ってるだけだ。何かを隠し続けている。兼ちゃん、君なら、どんな質問にも答えてくれるよな?」
「もちろんだよ!」
「ここは病院なのか?兼ちゃんがいた病院は、ここから数キロのところにあるよね?」
「そうだよ。そしてここは、病院じゃないよ」
「どうやって入ってきたんだい?」
「警察の人間が来たんだろ?」
「ああ」
「あいつは本物だよ。ここは警察が運営する、たしかに病院を装ってはいるが、だが、違うんだ。正確に言うと、事件を未然に防ぐための場所。まだ逮捕していない犯人に狙われた人間の、身の安全を確保する場所。相当な警備システムだよ。警官もずらりと、警護にあたっているし、出入り口には、レーザー光線が、幾重にも張り巡らされている。廊下は迷路のように、入り組んでいる。ここには、医師も看護婦も、存在していない。みんな、警察の人間だ。看護婦もまた、警官だ」
「そういう気はしてた。じゃあ、あの二人の女も?」
「それはどうかな」
「どうかなって。部外者が、どうやって中に入ってこられる?」
「俺も部外者だぞ」
「どうやって、お前は、入ってきたんだ?言えよ、兼ちゃん。なぜ、隠す?俺たちの間に隠し事は・・・、兼ちゃん、まさか、君・・・君も・・・。何をしに?誰なんだ!いったい。戸川じゃないな。誰なんだ?復帰した戸川。それも、俺が知ってる戸川じゃないのか?入れ替わったんだな。成りすましてるんだな。あの病気を利用したな、くそっ、お前!病院に入院しているその『刻』を狙って、入れ替わったな。ということは本物の戸川はまだ、病院だ!意識もまだ戻ってないんじゃないのか!?おいっ」
 気づけばアキラは、戸川の胸倉を激しくつかみ、壁に強く押し付けていた。


「だいぶん、出来てきたな」
 鳳凰口は、王宮から眼下、地上を見ながら一人呟いた。
 鳳凰口には、地の上に立つ街の連なりが、複数のイメージによって重ねられている様子が感慨深げに見てとれた。豪華絢爛な富と、才能のすべてを投入して、その世界の創出を支える、クリエイターたちの百花繚乱。異なるテクノロジーが、張り巡らされた社会の人工密度は、究極に膨れ上がっていった。
 文明に宿る進化した完成と技術は、ここに極まり、一つの世界へと、結実、融合を果たしていった。一方で植物や鉱物と共存をするべく、積極的に同じ世界をつくるべく、協力関係ができていった。その信頼は、工事のスピードを急速に上げていき、人工物そのものに、命が宿っているかのごとく躍動感が漲っていた。
 巨大な建造物やモニュメントは、早い段階から着工が開始され、その様子は上空から見ると際立っていた。空港の整備も、早くから開始され、さまざまな形態の飛行機が開発され、完成したばかりの滑走路で、試乗が繰り返されているのが、目撃できた。
 誰の強制力も発揮することなく、こうして着々と創造の領域に入っている姿を、鳳凰口は不思議に思っていた。時の流れが、すべての事柄を、前へと進めているように感じられた。すべての技術、表現されたいものたちが、あるべき本来の位置を目指して、こうして素早く、ある時はゆっくりと事を進めているようだった。そしてそのあるべき世界の上に、ちょこんと、この自分自身もまた、乗っかっているかのような、そんな絵を想像した。
 創造とは奇しくも、このようなものだったのか。破壊は、俺が陣頭指揮をとり、あらゆる人間、組織をたきつけて、行動を起こさせたのに。あまりに静かな進行に慣れるのに、最初は戸惑った。しかし今は一人ではなかった。友紀を見ていると、彼女のゆったりとした物腰と話し方が、都市の創造そのものと連動していて、力強く、確実な未来永劫存続していくような、そんな信頼を、強く寄せることができた。もし俺一人ならきっと、この、ある種の退屈さに耐え切れずに、またよからぬ企みを考えたり、湧き出てくる激しい情感に耐えられずに、何かに攻撃を仕掛けたり、過剰な演出や装飾に、夢中になったり、せわしなく指示を出していたことであろう。焦燥感は、焦燥感を呼び、乱れていく心は、誰にも止められなくなっていったであろう。
 今もまだ、その傾向が完全に治まったわけではなかった。気づけばそうなっている可能性もあった。一度暴走してしまえば、行き着くところまで行かねば収まりはつかず、外界や他者に対する、破壊行為、自身に矛先を向けた破滅行為へと、発展していくことであろう。
 友紀がその決定的な防波堤になっていた。自分と彼女との関係が、自分と自分の中にある静寂さ。または穏やかな王国との関係と、ほぼ同じような気がしていた。
 自分と、その王国とが、良好な関係であるのなら、自分と友紀との関係もまた、良好だった。自分と友紀との関係に、乱れが生じてきているのなら、王国との関係もまた、不穏になっている印であった。まるで、自身の分身のような存在だった。
 自分と友紀は、元は同じ人間であって、今はたまたま、別の姿かたちで、同じ次元に分岐して、存在している。そんな女性であったのかもしれなかった。彼女がときに子供に見えたり、自分の幼き時の姿に見えたりすることも、それで納得ができた。時に威厳のある、大柄な男性のように見えたり、知恵に満ち溢れた女性に見えることも、それと同じ理由な気がした。
 都市が静かに建設されていくのと連動して、友紀との関係がますます、密になっていくことが想像できた。二人がこの都をつくっていると、いえるのかもしれなかった。


 戸川なんじゃないか。もう一人の祭祀は。そうだ。このタイミングで、戸川は復帰した。
 そしてもし、見士沼の施術が評判を呼び、世間をあっと賑わせるのなら、同じように、すでに広告の世界でのヒーローである彼に、スポットライトが再び浴びせられるのは、当然のことだった。
 見士沼をおもしろく思わない、見士沼を潰そうと考える勢力は、直接手をくだすよりも、見士沼への対抗馬を仕向けてくる。儀式の祭祀を選ぶ機会があるというのなら、そこで合法的に、見士沼を叩こうとするのは、自然な流れだった。
 見士沼を打ち負かすほどの、社会的影響力のあるアイコン。それは、今のところ、戸川以外には考えられなかった。女性のモデルは、今や乱立状態で、図抜けた存在がいない。長谷川セレーネがいればまだしも、彼女はすでに、引退を発表している。連れ戻すわけにもいかない。戸川も戸川で、この前の倒れたことによる痛手を、挽回するチャンスを窺っているはずだ。それに長谷川セレーネの時もそうだったが、この人気がずっと続いていくのは至難の業だ。長谷川セレーネは、その波の下降線上で、表舞台から去る決断をした。そのあとの下火は、目に見えていた。それまでと、同じことをしていては、挽回のチャンスはなかった。戸川が、その地位を奪いとった形となった。戸川のような後継者が、近い将来必ず出てくる。戸川は変転していかないといけなかった。予兆はあった。今回が、その最初で最大のサインだった。生き残ったところを見ると、これは、『変えろ』というメッセージだ。戸川は結婚を決めた。それも一つの手段だ。しかし、決定的な一打にはなりえない。そのあとの布石だ。戸川が次の一手をどこに持ってくるのか。もしその儀式の話が本当なら、そこに間違いなく、彼の人生は照準を合わせてくる。そしてその流れに乗っかってくる奴らは、無数に出てくる。見士沼に勝ち目など、ないように見える。すでに皇帝のような存在感を見せている、戸川を、負かすだけの波を、見士沼が起こせるものだろうか?
 けれども・・・、見士沼は、自分から名乗りでて、仕掛けていくわけではない。
 彼はあくまで、担ぎ上げられるのだ。彼が望もうが望むまいが、運命は彼を指名して時代の変わり目の象徴に、嵌めこむ。嵌めこもうとする。逆に、これまでの勢いと、人生をバックに、力強く仕掛けて、狙いを定めてくるのが、戸川の方だ。
 状況的には、戸川のほうがずっと不自然なんじゃないだろうか。天は見士沼を応援するのだろうか。応援していくのだろうか。俺がするべきことは、あるのだろうか。見士沼に関わるすべてに、俺は全力を注ぐ決意をすでにしている。見士沼が望むことすべてが、自分の望みでもあった。見士沼の気持ちが優先された。彼と一度話してみようかと思った。がしかし、これもまた、先を急ぎすぎている。まだ開業すらしていないのだ。しかし事は急速に進み、気がつけば巻き込まれている、なんてことにもなりかねない。俺はミシヌマエージェンシーだ。彼に事態が降りかかるとき、そのだいぶん前に予期して準備をはかり、「その刻」が来たら、万全の材料を、彼に差し出さないといけないのだ。じゃないと、居る意味がまったくない。彼が「こうしてくれ」と言うか言わぬか、その境目で、すでに差し出していないと駄目だ。けっして早まってなんかいない。むしろ今がその時だと、津永は思った。すでに見士沼は、何かに勘付いている。それで俺に今、そのような儀式のことを仄めかしているのだろう。やはり、見士沼の勘は、俺よりも遥かに先を行っている。彼は暗に俺に言っているのだ。あらゆる加速的に進む事態にも、備えておくようにと。開戦を告げる鐘の音、という言葉が蘇ってくる。祭祀を争う闘いに、彼の意識は、重きを置いていないようにも見えた。むしろ、その闘いはすでに、決着がついているように感じられた。そんなものは争いのうちには入らない。単に争いに見せているだけだ。出来レースなのだろうか?戸川もわかっているのだろうか?敗れる役として、わざわざ登場してくるのだろうか?戸川も、見士沼も、すべてを知っているのだろうか。誰かが、その役目を果たすべく、時代の分岐点において、その役目が自分に向いていて、迫り来ていることを、お互いに知っているのだろうか。津永にはそれ以上わかりようがなかった。
 その対立構想が口火となって、それまでに溜まっていた、隠れていた、おかしくしていた、抗争の種が一気に開眼する。そんな事態に、発展してしまうのではないだろうか。そんな大混乱の中、見士沼は、何をするのだろう。どんな立場で、どのような役目を果たすのだろう。
 見士沼が施術をしている絵が浮かんでくる。戦乱の中、火に包まれながらも、何故か焼かれることなく、淡々と仕事をしている、彼の姿が浮かんでくる。それを最大限、サポートしている自分の姿も、見えないものの、強く感じる。むしろそんな混乱の中だからこそ、より輝かしい神秘性をも、醸しだしている。
 彼の施術院。彼に関わりのある、彼を取り巻くその空間は、何ものにも影響されず、まったくの異空間として浮き上がって見える。
 まったく溶け合わない、別のフイルムを重ねているようでさえあった。
 その準備をしろ、ということなのだろうか。見士沼が、儀式の祭祀として祭り上げられることは、全く大事なことではないのだと、言われているようだった。惑わされるな、津永。そこじゃないんだぞ、と。それは、もう、なるのだ。誰にも、避けるための行動は、とれないんだ。敗者も勝者も決まっている。誰がどんな役目を果すのかも、決まっている。やれることの余地は、もうほとんど残っていない。そして、特にお前はな。そこじゃないんだと、見士沼は何度も繰り返しているようだった。
 いいか。そこは、通過するだけなのだ。目をあけていても瞑っていても、事はただ起きていくだけなのだ。お前は、破壊ではない創造に携わるんだ。俺たちは、そっちの側なんだ。もうだいぶん前から、始めておかなければ、けっして間に合うことはない。津永はそれ以上、二人の争いを考えるのはやめた。


「式は、どうする?年末あたりかな。来年?」
 ウンディーネは、戸川の住むマンションと同じ、しかし別の階へと引っ越してきていた。
 お互い、行ったり来たりをする生活を送ろうと、二人は決めていた。
 今日は、戸川が、ウンディーネの部屋に泊まることになった。
「ねえ」
 不安に満ちた表情で性行為の後のまどみの中にいた戸川に、ウンディーネは言う。
「その話なんだけど。悪いけど、ナシにしましょう。まだ、そこまで考えられない。そんな余裕、私たちにはないと思うの。無事に、その式があげられるのかどうか。今の時点ではまだわからない。いろいろなことがあると思うから。あなたを巡って。そんな気がする。そういえば、友達のアキラくんの所には、行ってきたんでしょ?」
「昨日な」
「どうだった?」
「身体的には元気そうだったよ。ただこっちがな」
 戸川はこめかみをツンツンと叩いた。
「だいぶんショックを受けているみたいだ。少し変だった。投与治療を受けているのか、心療を受けているのかはわからなかったが、まだ全快には時間がかかりそうだ」
「そう」
「俺と遊ぶのも、まだまだ先だな」
「アキラくん。何か言ってなかった?」
「なにかって?」
「いや、わからないけど」
「ちゃんと、聞いてなかったな。だって、変なんだもん。警察がどうしたとか。ここは本当の病院ではないとか。移転させてくれだとか」
「彼のことじゃないわよ。あなたのことよ。あなたのことを何か言ってなかった?」
「いや、何も」
「そう・・・」
「どうしたんだよ」
「いや、そのさ、あなたと関わる、あなたの雰囲気を、感じとった誰かが、正確にあらわしてくれるんじゃないかと思って」
「だから、何を、だよ」
「その、うまくは、言えないのよ。だから、困ってるんじゃない。うまくは言えないんだけれど、わかるのよ。わかるから、言ってるのよ。式なんて挙げてる場合じゃないって」
「仕事はどうする?来るオファーをすべて受けるってスタイルは、やめるんだよな。調整してくれよな。君が精査して、そのあとで俺のところに持ってこいよ。それで、最終的には俺が決めるから」
「そうなの?」
「だめか?」
「いいけど、ずいぶんと気難しくなるなって」
「ピンと来たものだけを、無理せずやっていくんだ」
「ねえ、そんなんじゃ、これまでのように、たくさんの仕事がこなくなるわよ」
「今までが異常だったんだよ。過剰だったんだよ」
「けれど逆に今度は、その反動で、ぴたりと何も来なくなることも考えられる」
「そんなに極端に?」
「そういう世界よ」
「なら、そうなってもいいさ」
「何も知らないのね。どうやって生活していくのよ。結婚までしてるのよ。子供だっていずれは。それなのに、どうやって、お金を稼いでいくのよ。あなた、タレントなのよ。オファーが来なくなってしまって、それで・・・。あなた、誰かに入れ知恵なんてされてないわよね?あなたこそ何かへンよ。アキラさんじゃなくて、ほんとは、あなたの方だったんじゃないの?あなたこそ、生死を彷徨ったことで、人格が変わってしまったんじゃないの?そのあいだに、誰かに言われたんだわ。仕事の仕方がよくない。変えるべきだって。結婚もしたほうがいい。それは、あなたのためなんかじゃなくて、その、入れ替えを企んだ人間たちの、利益のためよ。その人たちが儲かるように。あなたを、操作、コントロールしてるんじゃないの?そうに違いないわ。まんまと嵌められたのよ、私たち。わたしも、また。その気になってしまった。結婚なんて、持ち出されたものだから、舞い上がってしまって・・・。私としたことが、そう、私も、変なのよ!あの日から。あなたが倒れたときから。私たち、二人とも、おかしくなってしまったのよ!仕事は激減していくわ。標的はあなただけじゃない。私の事務所もそう。潰そうとしてるんだ。でも、どうして。どうして、そんなことをするの・・・」
 戸川はウンディーネの高揚していく姿を、アキラに重ねてみていた。何かがおかしい。
 周りの人間が狂っていく、そんな予兆を見せ付けられているようだった。
 それとも、俺のほうが、俺だけがおかしいのだろうか。どっちにしても、同じことなのかもしれなかった。
「あなたを、そして、私たちを追い込み、それでそこに、救いの手を差し伸べてくる、それがワナよ!その人たちは、その瞬間に、本物の姿を私たちの前に晒す。しかし、私たちには、そのとき、天使に見えてしまうの。ねえ、戸川くん。気をつけなきゃ、私たち。その救いの手、戸川くんに未来を約束する、その大きな一つの仕事を、もたらそうとする、そんな仮面を装って、やってくる。戸川くん、前もって、構えておくのよ。私たち。それが、やってくるのを、二人で堂々と受けて立つのよ。それこそが私たちが結婚した意味なのかもしれないから。一緒に生活して、それで、幸せになりましょって、そういう話じゃないのよ、きっと。逆手にとるのよ、運命を。私たちなら、できる!いいわね、戸川くん!あなたのいうとおり、仕事の受け方は、変えましょう。それがもたらす状況もまた、変わってくる。うん。それでいい。でも、そのあとに来る、本当の訪問者には、万全を期して備えましょう。それを天使だと、錯覚しないように。曇りのない目で見るの。逃げては駄目。受けるの。盲目じゃなくて醒めた目で。そう。醒めた耳で。醒めた皮膚で」










この世とあの世が、最も接近するその日

姿を消し、別の世界へとスライドしていった、E連隊が

再び、その姿を現す。



準備されていなかった、もう一つの連隊の幻も
また

その実体を明らかにする。























第二の太陽は、第三の太陽と入れ替わり

配偶の女は、二人の影へと 分岐する・・・。

二つのE連隊を指揮する、祭祀同士は対面し、
始まる、D DЭY。






























世界を 闘いの連鎖する空間と

対消滅を繰り返す空間とに 切り離し

その裂け目が、広がりを見せていく中
































奥から現れる 少年は

二人の祭祀の結合から 産み落とされた ザマスター・オブ・ザ・ヘルメス。
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