第13話 『酒』と『マスク』と『都市伝説』と

文字数 2,661文字

「――いらっしゃい」

 少しかがまなければ入れない小さなドアを押して中に入る。カランカランというベルの音とともに女性の声が響いた。

「お客さん初めてですよね。お好きな席にどうぞ」

 そこは薄暗く、カウンターに7、8席あるだけの小さなBARだった。時刻は21時を少し回ったあたり。私の他に客はおらず、店内にいるのは、この若いバーテンダーの女性と私の2人だけだった。まだまだ外出自粛の影響は大きいのだろう。そんなことを考えながら一番奥の席に腰かけ、足元に荷物を置いた。

「何にいたしますか?」

 彼女の口元は、細かなレースのついた布で覆われていた。こんなご時世だ。それはもちろんコロナ対策の『マスク』なのだろうけれど、マスクと言ってしまうにはあまりにエキゾチックな代物で、ベリーダンサーが使うフェイスベールのようだった。

「……じゃあ、ジントニックで」

「ジントニックですね」

 そう繰り返しながら早々と左手はグラスを用意し始める。作業する手をとめることなく彼女は続けた。

「最近はこういう洒落たマスクが出てるんです。やっぱり普通のマスクじゃ味気ないですからね。これ、持ち上げると下からドリンク飲んだりもできるんで気に入ってるんです」

 心の中をみすかされたようで少し驚いた。しかし慣れた対応からすると、きっと他にも同じようにその『マスク』が気になった人が沢山いたのだろう。

「へえ……最近はそんなものがあるのか。知らなかった」 

「私、昔からマスクが手放せない人なんです。外でもそうですけど、仕事中もマスクが外せなくて……。今日はお休みですけど、ここのママはそんな私でもいいよって言ってくださったのでとても感謝してます。――はい、ジントニックです」

 細長いグラスには、鮮やかな緑のライムがのせられている。口に含むと、外の暑さを忘れるような爽快感が広がった。

「昔からっていうと、このコロナが流行るよりも前からかい?」

「そうですね。……ここだけの話ですけど、もう30年くらいになるでしょうか」

 店内が薄暗くて見えづらいとはいえ、この女性が50代や60代ということはさすがにないだろう。20代くらいだと思っていたし、良くいっても30代というところだ。いたずらっぽく笑っているので流石に冗談なのだろうか。年齢を聞いてしまおうか一瞬悩んだが、それも失礼かと思いなおし「またまたそんな……」と言葉をにごす。

「コロナ対策じゃないとすると花粉症かい?」

「いえ違うんです。……私、整髪料の匂いが苦手で昔からそれがイヤだったのがひとつと、――もうひとつは私、……顔に傷があるんです。大きな傷が。昔、整形手術で失敗しちゃたんですよ。それで、そこからずっとマスクしてるんです」

「そうなのか……。いや、それは失礼なことを聞いてしまったね。申し訳ない」

「いえいえ、もう昔の話ですから。今はママにとても良くしてもらってますし、楽しいばかりです。それに……今は、年中マスクをしていても、誰からも奇異の目で見られませんから。不謹慎ですけど、それはいいことだなって思ってます。おしゃれなマスクもありますしね」

 彼女はマスクを軽くつまんで、笑いながらそう言った。

「そのマスクは本当にいいね。色っぽいっていうか……BARの雰囲気にあってるし、――あ、どうだい一杯?」

 彼女は一瞬悩んだようだが、今日はもう他のお客さんはあまり来ないだろうという判断に至ったようだ。

「……いいんですか? では、いただきます。ありがとうございます」

 そういって、自分用のグラスを用意し始めた。手を動かしながらだと口が軽くなるタイプなのかもしれない。彼女はまた話し出した。

「私、今はもう落ち着いてるんですけど、この傷を作っちゃたころなんかは、結構荒れてたんですよ。頑張ってお金貯めて手術したのに、こんなふうにされちゃって。誰彼構わず当たり散らしてました。一番ひどい時期は、夜な夜な町にくり出して、『あたしキレイ?』なんて聞いて回ってたんですよ。最初はマスクをしたままで、……返答によっては、マスクを取って見せつけてやるんです。驚く顔が楽しくて……。今から考えれば若かったし、病んでたんでしょうね」

 カラカラとした調子で語られるそのエピソードには聞き覚えがあった。随分昔に聞いた都市伝説のひとつだ。うすら寒さを感じながら私は聞いた。

「失礼だが、……ご出身は?」

「岐阜ですよ。それが、何か?」

「いや、なんでもない……」

 彼女は出来上がったカクテルをこちらに差しだし、「いただきます」と軽くグラスを傾けた。確か、彼女は先ほど整髪料が苦手だと言ってはいなかったか……いや、まさか。しかし30年くらい前と言えば、ちょうど世間をにぎわせていた時期のはずだ。若すぎるのだって、その……「人ならざる者」であるのなら、おかしなことではない。

 ――嫌な汗がにじみ出てくる。

 ……いや、別に取って食われるわけではないだろう。今は落ち着いていると彼女も言っていた。何でもない。何もない大丈夫だ。私は自分に言い聞かせる。どうにも頭がまとまらない。すでに酔いが回っているのかもしれない。一度取りつかれた考えから逃げることができない。

 彼女がカクテルを飲むときに、マスクを持ち上げたその時に。もしそこに『傷』があったら。口の両端から延びる、大きな『傷』があったなら。見たい気持ちと、見たくない気持ちはせめぎあっているはずなのに、私は彼女の口元から一瞬も目をはなすことができない。

 彼女のグラスが口元に近づく。

 左手でベールの下の部分をつまみ、ゆっくりと持ち上げる。白い首の上の方まであらわになる。ほっそした控えめなノドぼとけが見え、なだらかなあごのラインが顔をだす。そして口元が……ついに……



 ――見えた。



 口の横にあったのは、小さな傷が一つ。本当に小さな傷あとがひとつだけあった。本人は気にしているのかもしれない。メイクで隠している部分もあるだろう。けれどそれは「口が裂けている」と表現できるようなものでは到底なかった。

「何か、悪い記憶でも思い出されましたか? ふふ……私、実はもう40代で、若く見えるってよく言われるんです。魔女なんて言われますけど、ちゃーんと人間ですよ」

 彼女はすべてを察していたかのようにこちらに微笑みかけた。このわずかに数十秒の間にやたらと緊張していたのだろう。どっと疲れが押し寄せる。私は思わずカウンターに突っ伏した。

「――そうか。……あぁ、良かった……」

「あら、失礼なお客様ですね」

 彼女は楽しそうに笑っていた。

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