第1話

文字数 5,067文字

 人は誰しも、秘密を抱えて生きている。
 千田冬樹は時計を見ながら、彼女である皆瀬小春がやって来るのを待っていた。春の日差しがあたたかくて、外にいてもコートがいらない季節になっていた。つい最近まで冬だったというのに、あっという間に春の気候になっているのだから不思議なものだ。しかし、冬樹は自分の名に反して冬が嫌いだった。寒いのは嫌いだ。だからといって暑いのも苦手なので、春のあたたかい穏やかな気候が一番落ち着くのである。
 時計の針は少しずつ進んでいく。待ち合わせの時間を十分過ぎているが、彼女がのんびりしているのは今に始まったことではない。きっと友人とのおしゃべりに夢中で、時間に遅れていることに気がついていないのだろう。
「冬樹、皆瀬のことを探しているんだけど、見なかった?」
「見てないよ。というか、俺も小春のことを待っているところ」
「じゃあ教室かな。ちょっと行ってみる」
 そう言って立ち去ったのは、同じクラスで友人の八幡千秋だ。屈強な体格をしていて、運動神経抜群ながら、なぜか料理部に所属しているというギャップの持ち主だ。ちなみにこの男、硬派なイケメンなこともあり、女子にはモテる。羨ましい限りである。
 千秋が校舎内に入っていくのを見送り、冬樹はスマートフォンを取り出した。電話をかけると、三回のコール音の後、間伸びした声がはぁい、と電話口から聞こえてくる。
「小春、待ち合わせの時間過ぎてるんだけど」
『えっ大変、すぐ行くね!』
「それから千秋がそっちに向かった」
『ひぇっ、それを先に言ってよ!』
 すぐに逃げなきゃ、という言葉を残し、電話が切れる。相変わらずのマイペースぶりだ。
 冬樹は二ヶ月前の出来事を思い返していた。

「千田くん。私と付き合ってくれませんか」
 唐突な呼び出しだった。クラスメイトではあるけれど、ほとんど話したことがない。クラスの男子から一番人気の女子、それが皆瀬小春だった。
 冬樹のことを上目遣いに見つめながら首を傾げる姿に、胸の奥がきゅんと音を立てた。
 クラスの大半の男子がそうであるように、冬樹も密かに小春に想いを寄せていたからだ。
「何で俺なの? 皆瀬さんならよりどりみどりだと思うけど」
「……千田くんなら、私の気持ち、分かってくれると思ったの」
 それは愛の告白ではなかった。喜びかけていた気持ちがしゅんと萎んでいくのが分かる。
 付き合ってください、というのは男女交際という意味ではなかったのだろうか、仮にそういう意味だったとしても、彼女の想い人が冬樹であるというわけではなさそうだ。
「千田くんって、誰にでも優しいでしょ? いじめられている子にも優しく声をかけて、誰にでも平等で、差別とかすることなく接してくれる」
 そういうところが好きだと思ったの、そう続けばどんなによかっただろう。しかし続いた言葉は全く予想外の言葉だった。
「私、真夏ちゃんが好きなの。女の子同士なのに変でしょ? でも、どうしても好きなの」
 真夏というのは冬樹たちと同じクラスで、ムードメーカー的存在の女子だ。驚きに目を見開くと、やっぱり引く? と小春が不安げに眉を下げた。
「引かないよ、そういう恋愛だってあっていいと思う」
「本当!? 千田くんならそう言ってくれると思ってた!」
 ありがとう、と微笑む小春はかわいかった。冬樹が差別などをしないと信じてくれていたのは嬉しい。しかし、それがどうして付き合うことに繋がるのか、まだ分からない。
「広瀬真夏のことが好きなのに、俺と付き合おうって言ったのはどうして?」
 自分の気持ちは押し隠して、出来るだけ棘のない言葉で問いかける。すると小春は、あのね、と言いにくそうに口を開いた。
「真夏ちゃん、好きな人がいるの。それはもちろん私じゃなくて、それでもいいんだけど……その、真夏ちゃんの好きな人の、好きな人が……」
 小春が言い淀んだので、冬樹が代わりに言葉を引き取った。
「皆瀬さんなの?」
「……うん、たぶん」
 告白されたわけではないけど、と言葉を濁すが、小春ほど人気のある女子ならば、自分に向けられた好意に敏感になるのかもしれない。
「私ね、真夏ちゃんには普通に幸せになってほしいの」
 私以外の人と付き合って、幸せになって、惚気話を聞かせてくれればそれでいいの。友達として側にいられればそれで充分なの。
 小春はそう言って笑った。そのけなげな笑顔に、冬樹は胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
「俺は! 皆瀬さんのこと、好きだよ」
 彼女のことを励まそうとしたのか、それとも単に気持ちが溢れてしまったのかは分からない。
 小春の頰がピンクに染まる。それからゆっくりと青ざめていった。
「千田くんの気持ちは嬉しいんだけど、もしかして私、最低な提案をしたんじゃ……」
 この様子では、人の好意に聡い小春も、冬樹の気持ちには気がついていなかったようだ。しかし冬樹は小春の提案を最低だとは思っていなかった。むしろこれはチャンスだ。
「なんで? 俺はラッキーだと思ってるけど」
 両想いでないとはいえ、彼氏を名乗れる。ライバルが減るかもしれないし、少なくとも小春の側にいる口実ができる。隣にいる時間が長くなれば、小春が振り向いてくれる可能性だって高くなるかもしれない。
「……千田くんは、本当にそれでいいの?」
「もちろん。その代わりと言ってはなんだけど、付き合っている間は全力で皆瀬さんのこと、振り向かせられるように頑張るから、覚悟しておいてね」
「ふふ、ありがとう。冬樹くん」
 唐突に呼ばれた名前に、胸が大きく高鳴る。振り向かせるよりも先に、冬樹が小春に夢中になってしまう、そんな予感がしていた。

 皆瀬小春は走っていた。足は速い方ではないけれど、全速力で廊下を駆け抜ける。そして「皆瀬のこと見なかった?」という聞き知った声に、慌てて近くの教室に逃げ込んだ。
 最近はかくれんぼが得意になってしまった。というのも、放課後になると必ず八幡千秋が小春のことを探して回るのだ。同じクラスだけど、呼び出しされることはない。探されるのも放課後だけ。だから、放課後だけ逃げ切ればそれでいいのだ。
 誓って言うが、小春は別に千秋のことが嫌いで避けている訳ではない。小春の親友であり想い人である広瀬真夏。彼女の好きな人が、千秋なのだ。
 千秋から好意を向けられていることに、小春はうすうす気がついていた。でも告白されてしまえば、真夏と千秋との間に明確な三角関係が出来上がってしまう。真夏に嫌われることを何より恐れている小春にとって、それはできれば避けたい事態だった。
 しばらく教室で息をひそめていると、千秋はどこかに姿を消したようだ。叶うならば自分のクラスまで行って、そこで真夏と鉢合わせしてほしい。
 自分の恋心が普通でないことは、最初から理解していた。同性に恋をするのはマイノリティなのだとよく分かっている。だからこそ、小春は自分の気持ちをひた隠しにし、叶えようとは一度も思わなかった。代わりに思ったことは、真夏だけでも幸せになってほしいということだ。
 自分がいなくなれば、千秋は真夏のことを好きになるかもしれない。そしたら、二人は両想いになって幸せになれるはずだ。
「……行かなきゃ、冬樹くんが待ってる」
 ぽつりと呟いた言葉は、しんとした教室に消えていった。

 広瀬真夏にとって、一番大切なのは友達だ。恋愛は二の次。だからと言って、好きな人と両想いになる夢を諦めているわけではない。だから想い人である八幡千秋から親友の名前が出たとき、ひどく複雑な気分になった。
「真夏、皆瀬のこと見なかった?」
「小春ならもう帰ったよ。彼氏の冬樹と」
 その言葉が彼を傷つけると分かっていても、言わずにはいられなかった。
 親友の皆瀬小春とはこれからも仲良くしていきたいと思っているし、きっと小春もそう思ってくれているだろう。
 しかし、真夏の好きな人である千秋は、小春のことが好きなのだ。直接聞いたわけではない。いつも見ている人のことだから、気づいてしまったのだ。
 千秋は複雑そうな表情を浮かべ、真夏に向かってこう言った。
「最近、皆瀬に避けられている気がするんだよな。真夏は何か聞いてない?」
「何も聞いてないよ。冬樹と付き合い始めたから、他の男子とはあんまり関わらないようにしてるんじゃない」
 これは本当に思っていることだった。小春は冬樹と付き合い始めてから、告白される頻度が減ったし、何より男子を避けているように見えた。それは冬樹がヤキモチをやいてしまうのかもしれないし、小春なりに冬樹を不安にさせないよう気を遣っているのかも。
 どちらであれ、小春が男子とあまり喋らないようにしていることはおそらく事実だろう。
「……本当に冬樹と皆瀬は付き合ってるんだな」
「そうだよ」
 だから早く小春のことは諦めなよ。
 そう言いかけた言葉を飲み込んで、真夏は明るく笑顔を作った。
「ね、千秋。暇ならカラオケにでも行こうよ」
「……暇じゃないけど、まぁ付き合ってやってもいいよ」
 素直じゃない反応に思わず吹き出して、真夏は千秋の背中を叩く。
「じゃあほら! 玄関まで競争ね!」
「あっ、おいフライングすんなよ!」
 今はまだ片想いでもいい、一緒に過ごすこの時間が楽しいから。
 二人で廊下を駆けながら、真夏はそんなことを思った。

 一日の中で一番放課後が好きだ。放課後の三十分間は、小春のことをひとりじめできるから。
「ねぇ、冬樹くん」
「ん? 何、小春」
「デートしよっか」
 げほごほ、と思わずむせてしまったのは、小春の口から予想外の言葉が出たからだ。
 小春は上目遣いに冬樹を見つめて、首を傾げる。
「初デート、……だめ?」
「……だめじゃない」
 付き合って二ヶ月になるが、デートをしたことはなかった。というのも、冬樹と小春の関係はあくまで偽の恋人であり、両想いではないからだ。
 冬樹からデートに誘う勇気はなく、ただ毎日一緒に帰るだけ。それだけでも充分冬樹は幸せだった。たわいもない話をして、二人で笑い合い、穏やかな時間が流れる。そんな空気がとても心地よくて、満足してしまっていたのもある。
 だからこそ、小春の口からデートという単語が出たことに、冬樹は驚いていた。
「どこに行こうか」
「映画、カラオケ、ショッピング、あとは何だろう」
「カラオケがいいなぁ、私!」
 小春の無邪気な笑顔にドキッとする。カラオケといえば、暗い部屋で密室に二人きり。そんなシチュエーションになることを想像すると緊張してしまいそうだが、小春は楽しそうに笑っている。
「……でも突然どうしたの、初デートなんて」
 嬉しいけどさ、と付け足しながら問いかけると、小春は照れ臭そうに笑ってみせた。
「冬樹くんのこと、もっとよく知りたいから。それにはデートが一番かなって」
「知りたいって、なんで」
 期待の入り混じった目で彼女を見つめる。小春はきょとん、とした後、いたずらな笑みを浮かべて冬樹の顔を覗き込んだ。
「だって冬樹くん、私のこと振り向かせてくれるんでしょ?」
 楽しみにしてるから、という言葉に、頰が熱くなる。自分で言ったことだが、それがどんなに難しいのかすら冬樹には分からない。なんせ恋愛初心者なのだから。
「あれ? 小春と冬樹?」
 聞き知った声に、小春の表情が笑顔のまま固まるのが分かった。そして一瞬だけ苦しそうな顔を浮かべた後、声の主へと振り返る。
「真夏ちゃんに八幡くん! 二人もデート?」
「で、デートとかじゃないから! 普通に遊びに来ただけ!」
 顔を真っ赤にして反論する真夏の姿を、冬樹はまじまじと見つめてしまう。千秋のことが好きだと聞いてはいたが、今までそんな素振りを見たこともなかったので、半信半疑だった。それがどうだろう。完全に恋する乙女の反応ではないか。
「二人はデート?」
 千秋の質問に小春が答えるより先に、冬樹は声を上げた。
「ああ。だからせっかく会ったけどまたな」
 これは牽制だ。千秋が小春のことを好きなのは知っている。でも、付き合っているのは冬樹だ、と見せつけたかった。どれだけ器が小さいのだろう、と自己嫌悪していると、小春が小声で呟いた。
「あの二人、やっぱりお似合いだよね。うまくいくといいなぁ」
 それは、自身の失恋を意味する言葉でもあるはずなのに、小春は明るい調子で言う。まるで自分の幸せなど顧みないかのように。
「小春」
「ん?」
「俺が絶対、幸せにするから」
 柄でもないセリフだ。でも、小春は頰を真っ赤に染めて、小さく頷いた。それだけで冬樹には充分だった。

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