きみは止まり木

文字数 11,875文字

 きみは止まり木。踊り続けるきみの肩で、わたしの孤独がいっとき羽を休める。
きみが踊り続けるのであれば、わたしもきみの止まり木となれるよう踊り続けよう。


 ※※※


 ちぐはぐのワルツだ、と柊麻祐子は思った。
 浅川神楽の葬式の場に至っても、麻祐子の頭の中ではずっと三拍子が流れていたのだ。
 麻祐子の視界では、歯を見せて朗らかに笑っている神楽の遺影をセンターに、黒い布をまとった歪んだ身体が視界のあちこちで動き回っている。虫の集団が蠢くさまに似ていた。天気ばかりが晴れやかだった。からりと葬儀場の周りを照らす恵みの光と、二十二歳のバレリーナの早逝に付きまとうほの暗さはどこか噛み合わない。噛み合わないちぐはぐのまま、お互い少しずつ混ざり合ってこの場に渦巻いていた。
 ち、ぐ、は、ぐ。
 焼香の列に並びながら、線香の甘い匂いを嗅ぎながら。麻祐子は薄い唇だけでその音を模った。
 百七十二センチの体躯が、すっと空に引っ張りあげられる。美しく整った卵型の頭は、動物の頭部というよりも、踊るために作られた人形の色を帯びている。バレリーナロボットと呼ばれる女の体躯は、喪服を着てもなお華々しい。
 それがバレリーナだ、と、麻祐子は思っている。いついかなるときも身体が美しい曲線を描く存在。身体美に取りつかれた狂った人形。
ちぐ、は、ぐ。
 麻祐子はそれを踊りに落とし込むことをイメージする。喜びを示す右腕はまろやかな円を空中へと描く。苦しみにのたまう左腕は、肘のところで痙攣しながらびくびくと折れ曲がる。ちくはぐの腕に振り回された体幹が波打って震える。そして、最後は……。
 そんな麻祐子のくるぶしを、隣に立っていた千知の足先が華麗に蹴り上げた。
「……っ、」
 麻祐子は痛みで呻いた。バレリーナの蹴りは、なんて鋭いのだろうと感動もした。千知は特に、アレグロ(すばやい動きの振り付け)が上手い。
「どうせまた、公演のことでも考えてるんでしょう」
 千知の低い声が、麻祐子を叱りつける。麻祐子は誤魔化すことを諦めて、目線の少し下にある千知のつむじに向かって、小さくごめんと呟いた。千知と麻祐子の付き合いは長く、初めてバレエシューズを履いた三歳のときから、今年で二十七年目になる。
「もう少しちゃんと悲しそうな顔して。お母さまに面目が立たない」
 麻祐子は酋長に頷いて、悲しみの踊りを踊るときを思いだし、目線を少しだけ伏せて俯いて見せた。
 麻祐子は、神楽が所属していたバレエ団、KOKUのプリンシパルだ。今日はKOKUの代表としてこの場にきた。悲しみを表現しない訳にはいかない。
 例え――死んだ神楽が麻祐子や千知とどれだけ性格が合わなかったとしても、神楽がバレエ団きっての問題児だったとしても。
「春美さんは?」
 千知が短く尋ねてくる。春美はKOKUの振付師にして、麻祐子の叔母だ。
 麻祐子は小さく首を振って、いいアイデアが下りてきたらしいから、体調が悪いことになっている、と答えた。千知がため息をついて、どいつもこいつもと呟いた。
 それからずっと麻祐子は、恋人を失って悲しみに暮れるバレエの国の王子のように、つとめて悲しそうに振舞っていた。バレリーナも、演技を必要とする種族の一つである。焼香の間も、神楽の母親に挨拶をしたときもそれを保てていた。
 それが崩れたのは、帰り際、
「自宅で血を吐いて、そのまま死ぬなんてね」
 という参列者の噂話を聞いたときだった。
 麻祐子ははっと弾かれたように振り替える。歪んだ、曲がった身体の持ち主のどれが、その言葉を発しているのかは分からなかった。ただ、言葉だけはくっきりと聞き取れた。
 見つかったときには手の施しようがないがんで、延命治療は何一つしなかったらしい。抗がん剤も放射線も、踊れなくなるならやらないって言って。それで食道をがんに突き破られて、血を吐いて、出血多量でそのまま死んだってさ。壮絶だよなあ、と。
 千知にぐっと腕を引かれるのを感じながら、麻祐子はそうか、と思った。
 そうか、神楽はそういう死に方をしたのか、と。
 麻祐子は神楽の姿を思いだす。やわらかくウェーブした茶色い髪、無邪気な子供みたいな人懐っこい笑い方、こちらを穿つ大きな瞳。少し日に焼けた額。うすいそばかす。甘えるようにやわらかな、音のないステップ。
 最後に神楽のその姿を見たときも、末期のがん患者であると誰にも気づかせないままに、軽やかにステップを踏んでいた。抗がん剤を投与しなかったからか、最後まで美しいバレリーナのままだった。
 そうしてそのまま、ある日大量の血を吐いて死んだ。赤い花のような血が降り注いだのだろう。美しいバレリーナから、血に塗れた死体への転落。
 その死にざまを思うと、すっと麻祐子の胸の内が晴れやかになった。さっぱりしたとか、嬉しかったと言ってもいい。
 葬儀場を出て思わずふっと笑えば、千知が不謹慎だと顔を顰めた。


 神楽がKOKUに入ってきたのは、二年前のことだ。春美と麻祐子で面接をした。
「どうしてうちに?」
 春美は束ねた長い髪の毛を手で梳きながら、単刀直入にそう尋ねた。
 神楽は緊張などかけらも見せないままに、すっとその美しい背筋を伸ばしていた。手足と首がすっと長く、骨格の美しさは麻祐子にも引けを取らない。が、大きなたれ目が目立つ顔立ちだけがやたら幼く、中学生くらいの子供のようだった。
 神楽の経歴は華々しいものだった。イギリスへのバレエ留学を経て、向こうのバレエ団で二年踊ったのち、日本に帰国している。この経歴であれば、大手バレエ団でも引く手あまただったはずだ。
 麻祐子も、どうしてKOKUに、と思って、目の間ある若くてつやつやした頬を見つめていた。
 KOKUは春美が作った、三十人ほどの小さなバレエ団で、かつ少し特殊だった。
 KOKUの演目では多くの場合、まず春美が、チャイコフスキーなどのクラシックバレエの演目を大胆に書き換える。このとき、必ずすべての登場人物の性別が「女性」となる。王子も天使も長靴を履いた猫もすべて、ポワント(つま先)で立つ女性となり、当然女性が演じる。だからKOKUには男性はおらず、全員が女性ダンサーだ。
 バレリーナは小鳥。つま先で立ち、空高く飛び上がり、音もたてずに着地する。世界で一番重力に逆らう生き物だ。
 そういう小鳥たちだけが、ひらりひらりと身軽に踊り続ける世界を描きたいのよ。小鳥を支える大樹のような男も、男が与える安らぎもいらない。
 春美はかつて、そう言っていた。
 そうしてすべての登場人物を女性に変えた結果、女同士で恋愛する話になることもあれば、恋愛の話が友情の話になることもあった。そうしてできあがる春美の世界は、めちゃくちゃな冒涜だと言われることもあれば、世界で唯一無二の芸術だと言われることもあった。
 神楽は人懐っこそうにほっぺたを丸くして笑うと、
「女同士で愛し合うの、面白そうだったんで」
 とだけ、言った。ぽつぽつとしたそばかすが、うすいファンデーションから透けて、春美と麻祐子を見つめていた。
春美がその答えを気に入ったので、神楽はKOKUのバレリーナとなった。


 葬儀場の近くで、千知と二人でタクシーに乗りこむ。千知が行先を告げる声を聞くことすらせず、麻祐子は神楽のことを考えていた。
 あの子は一体、何度問題を起こしただろう。
 ふとそう思って、数えようと思って指を折り、どうせすべて思いだせないと思ってやめた。
 神楽の実力は確かだったが――しかし同時に、彼女はとんでもなく破天荒な性格で、快楽主義者でもあった。
 入団して一年も経たないうちについたあだ名が、ドーパミン・バレリーナだ。
 ドーパミンは煙草、酒、麻薬、恋愛、セックスなどで分泌される快楽物質だ。その名前通り神楽はドーパミンの放出される行為をこよなく愛していた。酒に溺れて練習を休むこともあれば、その大きな瞳で男を見つめて恋愛トラブルを起こすこともあった。KOKUの関係者や客にも見境なく手を出したし、出されていた。煙草も確か吸っていた。麻薬にまで手を出していたかは、知らないが。
 そのふるまいは、バレエに対するストイックさで恐れられる麻祐子とは真逆のものだった。麻祐子は食事も服も見るテレビもすべて、「バレエにとって最善だと考えられるもの」を選び続ける。
 だから身体に悪い酒や煙草を浴びるほど楽しむ神楽のことはさっぱり理解ができなかったし、性格も話も合わなかった。KOKUの№2である千知は、理解できないというのを通り越して、頻繁に腹を立てていた。これ以上問題を起こすなら出ていけと神楽を怒鳴ったこともあった。練習中に男に乱入され苛々していた麻祐子も、同じ意見だった。
 しかしこういうとき、神楽は急にしおらしくて甘え上手になる。彼女は捨てられた猫みたいにぽろぽろ泣いて首を振って、KOKUが大好きだから、ここにいさせてくださいと頭を下げた。しかし一か月と開けず、似たような問題を起こし続けた。
 そんな神楽がKOKUにい続けることができたのは、何よりその美しく、誰かに恋する切実さと寂しさがにじみ出るような踊りを春美が気に入ったからだった。
 ……麻祐子はタクシーの中で、神楽と初めて踊った演目のことをふと思いだした。『コッペリア』だった。
 麻祐子と神楽は恋人同士の役だった。麻祐子はフランツという、レオ・ドリーブによる原作では男性の、KOKUの世界観に従って女性に書き換えられた役を演じた。そんなフランツは、恋人がいながらもコッペリアという人形に浮気心を流している。そんなフランツの気を何としてでも引きたいのが、神楽演じるスワニルダだ。
 序盤、女二人のパ・ド・ドゥ。つま先で立ってくるくると回り合い、互いに愛を誓い、時々見つめ合う振り付け。神楽はずっと麻祐子を見つめているけれど、麻祐子は移り気である。二人とものタイミングがあって、ちょうどよくぴったり寂しくなったら、大きく華やかなジャンプ、グラン・パ・ド・シャでお互いのもとへと飛んでゆく。
 コッペリアの振り付け初日。愛らしく胸に手を当てて、愛を誓う神楽と見つめ合って、その目にぞっとした。
 こっちを見て。
 わたしを一人にしないで。
 愛して。
 神楽の目はとろけるように幸せそうになったかと思えば、次の瞬間には辛く苦しい目になって、コッペリアへと浮気心を流す麻祐子のことを激しく責め立てた。そのすべての瞬間において、いつでも神楽の目はぎらぎらと渇望し、麻祐子を見ていた。
 初めてその目で見つめられたとき、麻祐子は一瞬演技を忘れて硬直した。八歳も年下の同性に飲み込まれるなんて思っても見なくて、麻祐子はしばらく衝撃が身体から抜けなかった。
 愛して。
 その潤んだ目が湛えた光を、麻祐子は今でも正確に思いだすことができる。
 思えば、神楽はいっとう人懐っこく、寂しがりな性格をしていた。麻祐子や千知とは馬が合わなかったが、春美や他の団員にはうまく取り入っていた。そうして色んな団員に懐いてはついて回り、酒に酔えば幼子のように抱き着いて笑っていた。とっかえひっかえ恋愛をしていたのも、その寂しがりな性格のせいかもしれない。
 麻祐子はあの日、スワニルダの瞳の奥に、そういう神楽の寂しさを見つけたのだ。


 千知と共にタクシーを降りたのは、KOKUのレッスン場の近くではなく駅前のカフェテリアの前でのことだった。驚く麻祐子に対して、千知が喪服に包まれた背筋をぴんと伸ばしたまま、
「話があるの」
 と言って、カフェを指さした。
 カフェに入り、身体を冷やさないための温かいほうじ茶を頼む。千知はカフェラテとケーキを頼んだ。
 麻祐子は珍しいな、と思って千知を見つめた。千知は減量にたいしてストイックだったはずだ。やがてやってきたコーヒーの甘い香りに、何故だか千知は顔を顰めた。
「もう、いいの」
 そしてそうぽつりと言うと、千知は表情を失った顔で、ケーキを見つめていた。
「KOKUをやめる」
「え?」
 一瞬、麻祐子は硬直した。ほうじ茶を置いて、まっすぐに千知を見つめる。
「どこか怪我したの」
「違う。自分の意思でやめる」
「どうして」
 尋ねると、千知はちらりを麻祐子を見た後、小さく息を吐き出した。
「……麻祐子、次の公演の振り付け、春美さんに任されたんでしょう?」
「え? ああ……一曲だけね。わたし一人のコンテンポラリーだよ」
 決まった形式を持たず、現代的な身体表現を行う舞踏のことをコンテンポラリーダンスと呼ぶ。高い柔軟性とバランス感覚、身体のコントロールを必要とする、バレリーナが踊る踊りの一つだ。麻祐子は春美に、一曲自由に自分で振りつけて踊りなさいと命じられていた。さっき葬儀場で考えていた振り付けも、そのコンテポラリーのことだった。
 千知が震える手で、ケーキに切れ込みを入れる。
「わたしは……ずっと最新のコンテンポラリーの研究もしてきたし、春美さんの意図が誰よりも汲み取れるポジションにいたつもりだった」
 さく、と一切れ、ケーキが千知の口へと入っていく。千知は何か嫌なものでも食べるかのように、奥歯で咀嚼し、ぐっと飲みこみ、うすく唇を開いた。まるで毒でも飲んでいるかのようだった。
「ただそれでも、やっぱりKOKUの後継者って麻祐子なんだね」
 なんといっていいか分からずに視線を惑わせる麻祐子の前で、千知が何かを巻き取るような動作をする。そしてその手が、何かを強く引っ張る。
「それで何かがこう……ぷつ、っと」
「春美さんのことを身内びいきに感じて嫌だってこと」
「春美さんは身内びいきなんてしない。そんなこと、わたしが一番よく分かってる。麻祐子は選ばれるべくして選ばれたんだよ。生活の全部が、バレエでできている、そういうひととにしか晴美さんは心を許さない。そんな麻祐子にわたしは一生勝てないどころか、戦いを挑んですらいないんだって思った」
 生活の全部が、バレエでできている。それは麻祐子にとって、当たり前のことだった。千知もそうじゃないの、という言葉は、彼女の沈んだ瞳を見るとどうしてか口にできなかった。
 麻祐子は少し戸惑いながら、話題の方向性を変えることにした。
「次の劇団は見つけてあるの」
「そうじゃないんだって。舞台に立つのをやめるの。だってもう……」
 もう。その先で濁された言葉が何なのか、麻祐子にはさっぱり分からない。
 だから麻祐子はゆっくり首を振って、KOKUにいればいい、と言った。
「バレエ教室を開く手もあれば、別の仕事をして趣味でバレエを続ける手もある。でもどれも、自分の踊りを磨いていく時間を、今ほどは取れなくなるよ」
 麻祐子は至極まっとうなことを口にしたつもりだったが、千知の眉がぴくりと動いた。
「……そういうところなんだよ」
 千知が一度肩を揺らして、大きく息を吐き出す。え? と聞き返すと、千知がまっすぐに見つめてきた。
「次の劇団。バレエ教室を開く。趣味で続ける。出てくる選択肢が全部それなの? 踊らない選択肢はないの? わたしは一生踊ってないといけないの」
 麻祐子は戸惑った。千知が何に腹を立てているのかよく分からないまま、彼女に問う。
「……踊りたくないの」
 ひゅ、と細く、頼りなく息を吸い込む音がした。
「踊っていたいよ。バレエは好きだよ。体型維持のことなんか気にせずに食べてよくて、怪我の可能性に怯えなくてよくて、ポワントが痛くなくって、春美さんに怒鳴られなくて済んで、衰えていく身体と向き合わなくていいなら、何の心配もいらないっていうんだったら、一生踊っていたいよ。でもわたしたち、バレエを踊るロボットじゃなくて感情も欲望も抱いたまま生きてるんだよ。何歳まで踊れるのか、周りが結婚していくなかでわたしは結婚しなくていいのか、親の心配をどう取り払おうか、普通の人生犠牲にしてずっと踊っていった果てに何にもなかったらどうしようとか、麻祐子は少しも……いや、いい、答えなくていい。どうせ思わないんだろうね」
 千知の悲鳴で、カップが共鳴したかのように震えていた。切実な言葉を紡いだ千知の身体から、しゅっと熱のようなものが抜けて行く。麻祐子は千知が弱気になっているのだと思い、たどたどしく言葉を紡いだ。
「結婚はしなかったらいい。親は……踊ることに反対されるくらいなら、絶縁すればいい」
「…………」
「踊ること以外、大抵のことはどうにだってなるよ。体型維持も、春美さんに怒られることも……やりたいことの中の苦しみでしょう」
 千知はしばらく押し黙った。それからケーキのフォークを指先で撫でながら、ぽつりと言う。
「麻祐子の存在が鬱陶しいからって言ったら、どうする」
 さめざめとした声だった。それでも麻祐子は迷うことなく、答えた。
「どんな手を使ってもわたしをKOKUから追い出すとか」
「……どうやって」
「殺して埋めるとかじゃないのかな……わたしはこういう話には詳しくないけれど」
 二人の隣に座っていた大学生が、ぎょっとし、そして二人を見つめてさらに呆然とした。喪服を着た、姿勢と骨格の美しい女二人。殺して埋める。そのミスマッチさが生み出す生々しさに、言葉を失う。
 そんな大学生たちには気づくことなく、千知がふっと自嘲気味に笑う。
「馬鹿馬鹿しい……。若い子の、神楽の葬式帰りに、いい大人が二人して、殺すだの埋めるだの」
 千知は、麻祐子を憐れんだ目で見つめた。麻祐子はその哀れみには気がつかず、まっすぐにその目を見つめ返した。
だからこそだよ、と麻祐子は思った。神楽の葬式帰りだからだ。死ぬ直前まで踊り続けて、踊った果てに血を吐いて死んだあの子に恥ずかしくない生き方って何って、そういう話をしていたんじゃないの、わたしたち。ちっとも馬鹿馬鹿しくなんてない。
 しかしそんな麻祐子の想いを、千知はばっさりと切り捨てる。
「あなたたち、狂ってるよ」
「狂っている方が綺麗に踊れるよ」
「でもわたしはそんな狂人の横で踊り続けられるほど強くない。あいにくと狂ってないから」
「…………」
 麻祐子はぐっと喉を締め付けられる感覚を覚えて、黙った。
 千知。千知はずっとずっと麻祐子の傍にいた。彼女には麻祐子よりも才能があった。バレエの基礎ができた証である、トゥシューズを履く許可を貰うのも千知の方が早かったし、コンクールの順位もいつだって千知の方が上だった。千知は麻祐子と違って、要領がよく器用なのだ。
 けれどそうやって器用な人間だって……いや、器用な人間ほど、あっさりとバレエを捨てることがある。
 そして、いつだって麻祐子は途方もない場所に置き去りにされるのだ。狂っていると言われて。
 幼い頃から見慣れた、しかし確かに二十年以上の時間を重ねた千知の切れ長の瞳を見つめて、苦しくなった。
 おいていかないで。
 傍にいて欲しい。
 そんな言葉が頭に浮かんだけれど、すぐに違うと気がついた。そんな大げさなものじゃないのだ。
 りんごが赤いねと言うように、朝焼けの空が綺麗だねと言うように、死ぬことが怖いねと言うように、至極まっとうな「踊らなければ生きていけないね」という麻祐子の中のそれを分かってほしいだけなのだ。分かってくれるのであれば、別に傍になんていてくれてなくてもいい。分かりあったまま、地球の裏側で踊ってくれても構わない。
 たったそれだけ。
 それだけなのに、麻祐子のそれはいつだって叶わない。
 ああ、千知も「そっち側」なんだ。
 気づかないようにしていたことをはっきりと見つめて、麻祐子は鋭い痛みを感じた。
 あなたもわたしを置いていくんだね。
 尖ったパンプスに包まれたつま先をそっと床に押しつけた。踊りたい、と思った。こんなに苦しいときは踊りたい。苦しいときほど踊りたい。
 脳裏に、いつかの神楽の言葉が浮かんだ。どうしてそんな風に好き勝手に生きれるのと怒鳴った千知に対して、神楽は捨てられそうな子供みたいな顔で答えた。
 ――半分でこの世界の天国を知って、半分でこの世界の地獄を知って、それを使って踊るのがわたしたちなんじゃないですか。
 その言葉で、麻祐子は神楽のその感性を美しいと思ったのに、千知は「なに訳の分からないことを言っているの」と言って狂った神楽を切り捨てた。思えばそのときからすでに、千知との道は分かれていたのかもしれない。


 レッスン場は、がらん、としていた。一人で小さな部屋に籠り、髪の毛をまとめ、レオタードを着て、がらん、を見つめる。怖いくらいに何の音もしなかった。一人ぼっちだ、と思った。麻祐子はコンテンポラリーの振り付けの準備を進めるべく、レオタードに着替える。
 コンテンポラリーダンスのときはバレエシューズを使うことが多いが、KOKUの方針にならい、トゥシューズを履くことにした。つま先で立つ、軽やかな小鳥たちの楽園。春美が作る世界観。
 そっとつま先で立った瞬間、ふと心細さに誘われて、てのひらを前方の鏡へと伸ばした。そこには誰もいない。男女のパ・ド・ドゥであれば小鳥は男に支えられることもあるけれど、KOKUにいるのはみんな小鳥だから、果てしなく広い大地に自分の脚で立つしかない。
 麻祐子は両足のつま先で立ったまま、自分を中心とした円をイメージした。同じようにつま先で立ったバレリーナに手を伸ばす。一方的に支えられるのではなく、二人で支え合うために、そっと脚を踏み出す。
 その手が、消えた。
 みんなが麻祐子さんみたいにできると思わないで下さい。KOKUをやめたダンサーに、ある時言われた言葉が耳裏に浮かんだ。
 みんな、自分のつま先で立つしかない。全体重を預けられるような相手はKOKUにはいない。そんな、心細い世界なのに。周りを見れば一人、また一人と、バレエから、KOKUの世界から降りてゆく。
 空中をさまよった麻祐子の手は、ふわりと上を回って、今度は反対方向へと向かった。今度こそは。祈る表情で伸ばした手は、またも何かを掴むことなく、ぴたりと止まった。麻祐子はつま先で立ったまま、呆然とそこに立ち尽くす。
 麻祐子は自分を取り囲んでいるバレリーナ一人一人と、それを繰り返した。最後の二人。右斜め前に千知が、左斜め前に神楽が立っている。千知なら、だいじょうぶ。そう思って手を伸ばし、まさに支え合おうとした瞬間――麻祐子はかすかにバランスを崩し、その大切な手を失ってしまう。あなたたち、狂っているよ。今日言われた言葉だった。
 麻祐子は一度自分の胸の前で手を重ね合わせたあと、左斜め前を見た。神楽が、そこには立っていた。


 ある男に刺されそうになった神楽を、家まで送ってやったことがある。その頃には神楽はとっくに劇団の問題児で特に仲もよくなかったが、男の持ってきた果物ナイフを見て壊れたように笑い出した神楽を見て、どうにも放っておけなかったのだ。その頃丁度麻祐子と神楽は『コッペリア』の中で恋人同士だったから、その感情が身体に乗り移っていたせいもあった。
 薄暗くなってきた夕方の道を、神楽と二人、無言で歩いていた。
 神楽はすとんと表情が抜け落ちたまま珍しく黙っていたが、ふと電信柱に張られた演劇ポスターに書かれた「愛を見つけるために生まれてきた」というタイトルを見つけると、唐突に口を開いた。
「麻祐子さん」
「……なに」
「恋人はいますか」
 雑談にしては唐突で、軽くない言葉だった。麻祐子は首を振った。
「いない」
「どうしてですか」
「欲しいと思わないから」
 端的に答えてから、あなたはどうなのと聞き返すべきか迷った。一般的にはそうした方がいい気がするけれど、特に聞きたいと思わなかった。
 すると神楽の方から、「わたしもいないんです」と言ってきた。
 向こうから語りだすのであれば、聞いてもいいかなと感じた。麻祐子がひとつ頷いてみせれば、神楽がふわりと前にステップを踏み出し、軽く両脚でジャンプをして右脚で着地した。ハイヒールでもぐらつかないシソンヌ。左脚はまっすぐ、地面と平行に伸びている。
「愛した相手は、殺したくなるから」
 神楽の表情は見えなかった。その声も淡々と静かで、感情のようなものは読み取れない。
 代わりに彼女は麻祐子に背中を向けたまま踊り始めた。幽霊のように身体をゆらゆらと揺らしながら、不安定に腕を揺らし、足元は狂ったようにぴょんぴょんと飛び跳ねる。かと思うと、美しく真横に出した腕で自らを抱きしめた。
 『ジゼル』だ、とすぐに分かった。
 自らの恋人が他の女に口づけを落としたことに発狂して、ジゼルが死んでしまうシーン。
 彼女は自分の首を締め付けるような動きをしたあと、激しい恐怖に駆られて走り出す。ぐるりと回ったジゼルは、ぽすんと麻祐子にぶつかって止まった。狂った笑みで麻祐子を見つめてくる。
 もしかして、と思った。ジゼルを踊って見せた神楽。分でこの世界の天国を知って、半分でこの世界の地獄を知って、それを使って踊るのがわたしたちだと言った神楽。
「愛した相手が死んだほうが、美しく踊れるから?」
 思い付きを言葉にすれば、目の前の女はジゼルから神楽へと戻った。神楽らしい人懐っこい笑顔で、麻祐子の肩に手を置いてきた。
「分かってくれるひとが、この世界にいるなんて思わなかった。ちょっとだけ、麻祐子さんのことを愛したくなりました」
「殺さないでよ」
 咄嗟に言えば、神楽の瞳はそれこそ愛おしいものを見るように細められた。その手がやわらかく、麻祐子のうなじを撫でる。
「どうしようかな」
「待って、まだ死にたくない。本当に」
「じゃあ、仕方がないや。麻祐子さんと踊るのは楽しいし」
 神楽の腕はゆるりと麻祐子の首から離れた。あっさりと離れて前を歩き始めた彼女は、明日遊びに行こうとでも言うように、無邪気に言う。
「麻祐子さんもわたしのことを愛さないで下さいね」
 そんなことを口にしながら、神楽の足取りは少しだけ楽しそうに弾んでいた。麻祐子は分かったと答えながら、目の前のバレリーナの美しい首を見つめていた。


 それから神楽が死ぬまで、約一年半。
 踊りにとりつかれた女二人、互いに愛さないと誓い合って、実際に愛してもいなければ仲良くすらならなかった。
 神楽が問題を起こしても麻祐子はかばわなかったし、苛立った。神楽の方も、麻祐子よりも優しいバレリーナたちによくひっついていた。お互いの私生活について何も知らなかったし、知ろうともしなかった。千知との方が、ずっと一緒にいたし、ずっとたくさん言葉を交わした。
 それでも。
 コッペリアの、打ち上げの席。たんと日本酒を飲んだ神楽は、ほんの一瞬だけ麻祐子の肩に額をつけて、言ったのだ。
「わたし、命ある限り踊ります。麻祐子さんと、おそろいなんです」
 そう、とそっけなく答えながら、ホットウーロン茶を持つ手がかすかに震えた。
「だから麻祐子さん、もう一人じゃないですよ」
 ふ、と、胸の内に神楽の言葉が潜りこんで、くすぐったい部分を撫でていった。麻祐子は必死に唇を引き結んだ。
 ねえ、一生踊ってね。わたしを、一人にしないでね。
 あなたがわたしを一人にしないなら、わたしもあなたを一人にしないから。
 そんな言葉が喉の奥から出てくるのを留めるためだった。神楽は言うだけ言ってすっきりしたのか、他のバレリーナを侍らすために麻祐子から離れていった。


 つま先が痛くなってきた。ずっとつま先だけで立っているのだから、当たり前だ。
 トゥシューズは痛い。減量は苦しい。バレエの世界はあまりに果てしなく、ゴールが見えない苦しさで、狂ってしまいそうなときだってある。
 そうだとしても。
 どれだけ苦しくても、どうしようもなく踊り続けなければいけない人間というものがいる。麻祐子のように、神楽のように。世界はいつ、わたしたちはいつ、作り替わったのだろう。それは一種の呪いと呼んでいいほど強烈なものだ。
 しかし世界には呪われている人間というのは意外と多くないらしい。生活とか、他の誰かのためとかに、容易くやめていく。容易くはないのかもしれないけれど、麻祐子からしてみれば容易く見えてしまう。そしてそれは裏切りにも見える。誰もいない呪われた荒野に、麻祐子をぽつりと置いて過ぎ去っていく行為なのだ。千知がそうやって、麻祐子を置き去りにしたように。傍にいながら、麻祐子の魂を一人きりにしたように。
 だから。
 同じように呪われた人間、同じように踊るしかない神楽は、ただそれだけで麻祐子にとって美しかった。何があっても、踊り続ける。たったそれだけでよかった。それだけで美しかった。
 約束したように、神楽は麻祐子を一人にはしなかった。最後の最後まで一人にしないままに、血を吐いて死んだのだ。その死にざまを思うと、麻祐子の深い部分にある孤独が、いっときだけやわらかくなるのを感じた。
 神楽はもういない。二度と会えないし言葉は届かない。それでも、今の麻祐子は一人じゃない。

 ――きみは止まり木。

 コンテンポラリーのテーマがはっきりと脳裏に浮かんだのは、そのときだった。

 ――踊り続けるきみの肩で、わたしの孤独がいっとき羽を休める。
  きみが踊り続けるのであれば、わたしもきみの止まり木となれるよう踊り続けよう。

 右脚を高く振り上げて、左脚で床を蹴って、グラン・パ・ド・シャで飛びあがる。麻祐子はそこにくっきりと気配があるバレリーナの細いてのひらに向かって、必死に手を伸ばした。
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