あらしの日

文字数 3,616文字

「佐々木ってさ、ブラピに似てるよね?」
「はっ?」
 一限目と二限目の間の準備時間、突然、右斜め前の席から大島が振り返って、悪戯な笑みを浮かべながら、そう言った。
 ブラピとはブラッド・ピットのこと。そんなことは知っている。僕の顔は特別悪くはないと思うけど、同じクラスの「イケてるグループ」に所属するような男子たちに比べたらどうしたって見劣りするありふれた顔だと自覚していたから、ブラッド・ピットと比較されることに罪悪感すら感じていた。
「え? どこが」
 僕は大島の、学年でも可愛い女子のランクに位置する大島の真意が図れず、恥ずかしくも訊き返してしまう。
「まあ、なんとなく?」
「例えば?」
「その……、目の数とか?」
「目の数? 一緒じゃなくて、似てる、なの?」
 取り乱す僕を見て大島は「へへへ」と満足そうに笑うと、身体を正面に戻そうとした。
「じゃあさ!」
 なぜそう切り出したのか、気づけば僕は大島を呼び止めるように声をかけていた。
「日曜日、確かめに行こうよ」
 ちょうど駅ビルの映画館でブラッド・ピット主演のSF映画が公開されていた。大島も恐らくそれを知っている。とはいえ、これまでそれほど話したこともない大島を映画に誘うなんて大それたことがどうしてできたのか、僕は自分自身が不可解で仕方なかった。
 大島は口を真一文字にして視線を落とした。僕はそれを見てすぐに後悔する。「佐々木に誘われちゃったんだけど」と女子たちの笑い者にされてしまうだろうと。
 しかし、大島は視線を上げて、これまた不可解なことを口にした。
「いいよ」
 チャイムが鳴り、クラスが慌ただしく動きだす。僕はなんだか日常から取り残されたような感覚がしていた。それから二限目の授業の内容は覚えていないし、その間、僕の頭の中は期待と不安で渦を巻いていた。
 ちょうどその頃、同じようにぐるぐると渦を巻いた台風が南から接近していた。朝食の時にニュースで見聞きしていたというのに、すっかり失念していた。その台風は気圧のなんちゃらの影響でなんちゃら前線に変わる可能性があり、すぐに雨だけになるだろうとも気象予報士は告げていたから、僕は大して気にもしていなかったのだろう。
「晴れたらいいのにな」
 そんな風に思っていた。
 しかし、当然のように天気予報ははずれる。それどころか、南から関東に上陸した台風はなぜか速度を緩め、止まった。

 悲鳴? 僕は目を覚ましてベッドから身体を起こした。
「ちょっと!」と母親が一階から、二階の自室まで届く声で僕を呼んでいる。
「なに?」突然起こされた不快感と寝起きの気怠さを我慢しながら部屋から出て、一階へと続く階段を下りようとしたが、すぐにその足は止まった。
「うわっ!」
 階段が数段目の高さまで水に浸かっていたからだ。僕は水に浸かるギリギリのところまで下りて、「お母さーん!」とリビングに向かって大きく声をかけた。
 すると、母が膝くらいの高さまである水を足で掻き分けながら手にバッグを持って僕の前に現れる。
「何やってんの?」
「何って、避難よ! 避難!」
「えっ?」
 母が何振り構わず水に足を漬けていたのは、貴重品を集めて避難の準備をしているのだと僕はようやく理解した。
「あんたも準備しなさい!」
 母の声に僕は部屋に戻ると、慌てて寝巻きから着替えた。
 着替え終わった僕は階段を駆け下りると、意を決して水の中に足を進めた。水の冷たさに頭がビリビリと痺れる。
 そのまま玄関へと進み、靴箱からスニーカー を取り出して、手探りで紐を結んだ。
「あんた、何やってんの?」
 よそ行きの恰好をした僕に母は違和感を覚えたらしく、恐る恐る僕の背中に声をかけてくる。
「ちょっと出てくる」
 僕は振り返らずに言った。母の顔を見てしまったら、ためらってしまいそうだったから。
「出てくるってどこに?」
 当然過ぎる質問だった。
「ちょっと……」
「ちょっとって、何、馬鹿なこと言ってんの!」
 これも当然過ぎる意見だと思う。
「夕方には帰るから!」
 僕は立ち上がると、水で重たくなったドアを目一杯押した。同時に外からザザザと水が家の中へと入り込んでくる。ドアの隙間から身をひるがえして外に出ると、悲鳴にも似た母の声を振り切るようにドアを閉めた。
 外も家の中と同様に一面水浸しだった。家の高さの分、道路に降り立つと、水は腰近くまで達していた。
 雨はそれほどでもなかったが、風が強い。家から持ってきたビニール傘を開いた瞬間、突風に襲われてビニール傘は勢いよく裏返ると、あえなくその役目を終えた。
 僕は仕方なくナイロンパーカーのフードを被り、水に足を取られながら、待ち合わせ場所の駅の改札を目指した。
 僕の家から駅までは約二キロ、歩いて二十分くらいで着ける。でも道路がこんな状態じゃどれだけかかるか予測できない。
 僕はパーカーのポケットから携帯電話を取り出し、待ち合わせの時間に遅れるかもしれないことを伝えようと、交換したばかりの大島の番号へ電話をかけた。
 しかし、ガイダンスが流れるだけで電話は一向に繋がらないし、メッセージも送信されない。この台風のせいで回線がパンクしてしまっているようだ。そうこうしてる間も容赦なく風は吹き続け、顔に当たる雨が痛い。僕はポケットに携帯電話を戻すと、更に足を進めた。
 途中、手漕ぎのゴムボートに乗った警察か消防かわからないヘルメットの人たちを確認すると、物陰に身を潜めた。まるで占拠された街を巡回する兵士から身を隠すように。
 見つかれば無理矢理にでも拘束され、避難させられてしまうに違いない。僕は彼らが行き過ぎるのを息を殺して待った。
 更に進むと、歩くたびに水かさが増していった。そこは緩やかな下り坂であることに気づき、すぐに迂回しようかとも思ったが、迂回ルートが順調に進めるとも限らない。それなら最短距離を目指そうと僕はいっそのこと泳ぐことにした。
 泳ぐといっても水面に浮かび、不恰好な平泳ぎをして、水面の高さにあるものに掴まりながら、足の着くところを目指した。
 すぐにポケットの中の携帯電話を思い出し、それが水没してしまったことに気づく。
 これじゃあ大島と連絡が取れないじゃないかと一瞬引き返そうとも思ったが、どうせ電話は不通だし、第一、もう水没しちゃってるじゃないかと一人で右往左往してしまう。
 そして、意味のないことに時間を無駄にしていると気づくと、僕はふたたび駅へ進むことにした。
 雨の音よりも自分の荒い息遣いがうるさくなる。さして運動も得意じゃない僕の身体はきしみ、疲労感が背中にのしかかってくる。
 こんな思いをしたって大島が来る保証はないじゃないか。きっと彼女もとうに家族と避難している。でも、僕は進み続けた。
「なんで、日曜日来なかったの?」
 悔しくてクラスでそんな風に声をかけたら、大島はきっと気味悪く思うに違いない。こんな状況で映画なんて観に行く人間がいるはずもないのだから。なら、そんなことは言わない方がいい。この雨が止んで日常が戻ったら、なんだか気まずくてお互い話すこともなくなる。そして、そんな日々に耐えて卒業するんだろう。
 じゃあ、なんでこんな思いをしてまで僕は待ち合わせの場所へ向かっているのか、それは、大島のことが気になっているからだ。いや、好きなんだ。大島のことがずっと好きだった。二年でクラスが一緒になる前の一年の時からずっと。
 僕は駅の前に着くと改札を目指して階段を上がった。身体が水の重さから解放されても、疲れに足が重たい。それでも僕は一歩一歩、階段を踏みしめた。
 改札前に着いて、腕時計を見る。待ち合わせの十時五分前。間に合ったことに安堵して宙を仰ぐと、僕は愕然とした。
「全線運休」
 その文字を見た僕は、その場にへたり込みたい気持ちになった。
「ははは……」
 自然と笑いが込み上げてきた。なんて馬鹿なんだ、ちょっと考えたらわかることじゃないか。
 大島が住んでいるのは、この駅から二駅先。だから駅の改札で待ち合わせることにしたんじゃないか。
 これじゃあ、来れるはずもない。僕は自分の馬鹿さ加減に呆れて笑っていた。笑いながら泣いてしまいたい気持ちだった。
「お待たせ」
 唐突に声をかけられて、ハッと声の方を見た。
 するとそこには、全身ずぶ濡れで髪もぐちゃぐちゃの大島が立っていた。顔は酷く疲れていて笑う余裕もないようだった。
「どうして……?」
 僕は自分の見ているものが信じられず、独り言のように呟いた。
「えっ? 歩いて」
 大島はしんどそうに、そう言った。どうやって来たかを訊いたわけじゃなかったんだが。
 僕はおかしくなって吹き出した。それを見て、大島も不思議そうに笑っていた。
 僕よりも馬鹿な人が存在するなんて。僕は堪らなく大島が愛おしくなった。
「じゃあ、行きますか」
 大島が言った。僕たちはとりあえず、どうせやってるはずもない映画館へ向かうことにした。
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