第1話

文字数 1,980文字

乾杯でジョッキに受けた衝撃が強かったので、高松シラセはビールをこぼしそうになった。
居酒屋のテーブルで向かいに座る富樫は、一口で半分近くを飲み干している。今日もスーツ姿がキマっていた。
シラセは、20年前の新人時代を思い出さずにはいられない。同じ支店の先輩だった富樫に、営業のイロハを厳しく仕込まれたものだ。
下戸のシラセも、「今日だけは」と思ってジョッキをあおる。炭酸を喉に流し込むと、胃の底から苦い空気が沸き上がってくる。
これが酔わずにいられるか。
人事部員のシラセが、リストラ対象者である富樫にその旨を直接伝えるのは、本来はご法度なのだ。



シラセと富樫が勤める電機大手は、ここ数年ジリ貧の状況が続いていた。
主力のテレビは、スマートフォンの普及で下火に。業態転換を図ろうにも、経営判断は後手にまわり、業績は下降線を描いた。社長が「2000人規模のリストラ」を電撃発表したのは、つい先日の決算会見でのことだ。
寝耳に水だった社員たちの憤りをよそに、実行部隊となったのが、シラセたち人事部である。
会見直後。数十人の人事部員に、全社5万人ぶんの社員名簿が配られ、部長が乾いた声で指示を出した。「現場と調整の上、退職勧奨者を色分けしてくれ」

シラセにとって、人生で一番嫌な作業だった。
エクセルにある誰かのマスを着色すると、すなわち「クビ」。あまりに単純な作業が、あまりに重い意味を持っていた。自らの手を汚さず、人のクビを切る。最初は「念力みたいだな」と茶化していたが、作業に慣れてスピードが上がると、気が狂いそうになった。
機械的に、いろいろな人の目を通って遂行されるリストラは、だれの責任でもない。人事は煙に巻き、現場は逃げ、その真ん中の空洞で、ひとり、またひとりと会社員人生が絶たれていく。
隣のデスクから、同僚のボヤきが聞こえた。
「チマチマ残業時間をチェックしてる方がずっとマシだったよ」
退屈だったけど、平和だったなあ、と。
そのとき、彼の手元のリストがちらりと見えた。事業撤退が決まっている音響機器の営業担当。「富樫健作」の欄に、蛍光色が付いていた。



富樫は、2品目に頼んだ刺身を頬張りながら「で、俺は異動かな?」と言った。
「富樫さん…」
シラセは箸を置く。しかし言葉が出ない。意を決して誘ったつもりだったのだが。こんなに簡単でいいはずがないと、義憤を感じていたのだが。本人を目の前にすると、こんなにも苦しい。
しっかりしろ。お世話になった先輩にだけは、礼儀を尽くしたかったんじゃないのか。シラセは一息に言った。
「富樫さんは、退職勧奨者に入っています」
富樫は目をむいた。
「それはリストラ対象ということか」
「言葉を選ばずに言えば、そうなります」
「リストラ……俺が」
常に快活な富樫も、さすがに黙りこくる。シラセは身をすくめて小さくなって、すみません、と繰り返した。ビールの泡はなくなっていた。
数分の沈黙。シラセが後悔に苛まれていると、富樫が顔をあげた。
「再就職は、支援してくれるのか」
それは、営業のエースだった支社時代と同じ、精悍な顔だった。
「実は、河西電工が事業拡大に伴う営業人員の枠を募集しています」
同業企業だ。歴史は浅く社格は落ちるが、半導体事業が好調である。
「河西か。枠ってことは、何人か取るのか」
「10人です」
「もう何人か決まってるのか」
「いえ、『辞めない』という人も多いですし……」
「そうか」
富樫は顎を撫でて、なにか考え事をしている。



「シラセ」
富樫はハイボールのジョッキを置いた。強い眼差しがぶつかり、シラセは目を逸らすことができない。
「俺は、ファースト・ペンギンなんだな」
ファースト・ペンギン。群れで行動するペンギンは、エサを求める一羽がまず海に飛び込んで、天敵がいないことを確認し、ほかのペンギンたちが追随する。仲間のため、死を覚悟してリスクを背負うのだ。
「俺が離れることで、会社は助かるんだな」
そうだよな。富樫の目が訴える。ファースト・ペンギンという言葉自体を教えてくれたのもこの人だったなと、シラセは思う。
「そうです。あなたについて、河西電工に行く社員もきっといると思います」
彼に人望があることは、現場の評価でよくわかっていた。
「富樫さん。会社はあなたを評価しています。しかし会社はもはや、富樫さんに活躍してもらえる場を、提供できないんです」
シラセは頭を下げた。富樫のほう、というため息が聞こえる。
「シラセ。いまのよかったぞ。俺以外の対象者にも、それ言ってやれ」
おまえも立派な人事になったんだなあ、と、聞こえた。



勘定を済ませ、別れる。
「おまえから伝えられて、俺はよかったよ」
シラセは頭を下げる。2000人のうちの1人だが、自分は人事として手を汚した。

何歩か歩いたところで、背後から嗚咽が聞こえた。うおおお、という男の太い泣き声を、シラセはいつまでも背中で聞いていた。
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