キスをした後で 全文

文字数 106,591文字

一、
 須田源太郎先生が、六十歳にまだ二ケ月届かない若さでお亡くなりになった。このところお会いすることは少なくなっていたが、毛沢安文が二十代の頃は、先生のお宅によく出入りさせてもらっていた。そして様々な人生訓などを述べて下さったものだ。
 毛沢はこんな苗字だが、決して中国とも共産党とも関係はない。様々な思想などを勉強することは好きだが、基本的にはノンポリで今まで生きてきた。
 須田先生も、何か一つの思想なり宗教なりに埋没することを、極度に嫌われた方だった。毛沢も何か一つの考え方に触れるようなことがあるたびに、いやいや、これにも欠点があるに違いないと疑う癖がついていた。
 時々友人などが毛沢をからかって、「ちょっと東を向いてごらん」などと言う。「どうして?」と笑いながら訊いてみると、「毛沢が東を向いたら、毛沢東だから、国家主席ばりの大人物に見えるぜ」などと言う。
 そんな冗談は聞き慣れているので、毛沢は別に目くじらを立てて怒ることもなかった。
 ある時ふと、須田先生は、濁点こそついているが、カタカナで書くと『スタ』になる。そこで先生が鈴でもリンと鳴らしたら、『スターリン』になるんじゃないかと友人に言ってみたら、「先生をそんな駄洒落のネタにするのは、失礼だよ」とたしなめられた。
 しかしその駄洒落はいつしか須田先生の知るところとなり、ある時先生は毛沢に向かって、
「きみ、ぼくたち二人は大国の指導者なんだな」と言ってきた。
「どうしてですか?」と訊ねると、
「きみは毛沢東、ぼくはスターリンだ」と言って、楽しそうに笑っていた。
 先生が冗談を言うことは少なかった。これは毛沢が唯一耳にした先生の冗談ではなかったか。そう思うととても懐かしい
 通夜と葬式の両方に出席した。何しろ毛沢は須田先生の直弟子なのだから、そういうことはちゃんとしておかないといけない。
 そうすると、同じ大学に同じ時期に先生に師事していた人たちとも出会うことになる。利尻という友人がいる。遠田という友人がいる。二人とも大学時代は親しくしていたのだが、この頃はとんと連絡し合うことはなかった。
 利尻は須田先生の長女の美穂さんと結婚していた。それ故に二人は疎遠になってしまった。何故かというと、毛沢も先生の娘さんの美穂さんのことが好きだったからだ。
 遠田も美穂のことを狙っていたようだった。利尻が美穂と結婚した時は、毛沢と遠田は二人で残念会と称して居酒屋でかなり痛飲して、その憂さを晴らしたものだった。
 美穂はぽっちゃりとしたタイプの美人だが、無口な女性だった。父親の須田先生と同じく、冗談などを言うタイプでもなかった。しかしそのおとなしさが、ぽっちゃりとした体つきとどうもそぐわない。見た目はとても肉感的なのだ。町を歩いていたら、行き過ぎる男たちはみんな美穂のことを見ていく。
 美穂はそんな見かけをしていても、とても奥手な人だった。自分から積極的に男性に話しかけるということはもちろんなかった。
 そういう女性を手に入れるには、やはり話上手でないとうまくいかない。毛沢と利尻と遠田の中では、利尻が一番弁が立った。そしていい会社に入って、収入も一番多かった。
 元々利尻は、三人のグループではリーダー格だったので、彼が美穂と結婚したいと打ち明けた時、後の二人は反対のしようもなかった。反対する理由もない。その上結婚式にも出て、ご祝儀まで渡した。
 そんな風に結婚した二人なのに、結婚して五年もたたないうちに離婚してしまった。利尻の浮気が激しかったので、さしものおとなしい美穂も眉を吊り上げて怒るということが多々あった。
 毛沢や遠田にしてみれば、せっかく利尻に大事なマドンナを譲ったのに、散々浮気をして、ついに離婚に至ったというのは、許せないことだった。利尻は須田先生の葬式にちょっと顔を出しただけで、二人とはろくすっぽ顔を合わすこともなく、すごすごと帰ってしまった。
 人から聞いた話では、利尻は既に新しい奥さんを貰っているそうだ。他に貰う人がいるのなら、最初からそちらに回ってくれればよかったのに。毛沢と遠田は少し皮肉な笑みを浮かべながら、そう言い交わしたものだった。
 遠田は仕事が立て込んでいるということで、葬式が終わると速攻で帰って行った。他にも大学時代の仲間たちの中でしゃべる人もいたが、一人になった毛沢は主に須田美穂の方にばかり目をやっていた。
 美穂は相変わらず肉感的な体つきをしていた。喪服を着ていても、人目につく。人目にはつかなかったとしても、毛沢の目にははっきりと目につく。
 彼女が今どういう状況の中で生きているのか、毛沢は全く知らない。結婚しているということはないだろう。そんなことがあったら、大学時代のマドンナの結婚なのだから、あっという間に毛沢の耳にも入るだろう。
 誰かとお付き合いをしているのかどうかも知らない。美穂のことだから、あまりそういうことはしないのだろうと、彼は考えた。彼女は静かに生きていたいと願うタイプの人だった。そして毛沢も同じく、静かに生きてきた人間だった。
 しかし今日の場合、いつものような控えめな毛沢ではいけないと考えていた。何とか美穂との接点を見つけて、気持ちの一端でも吐露したかった。まあ、そんなチャンスなどはないだろうけれど。
 美穂は死去した須田先生の一人娘なのだ。家族としての務めを果たさなければならないから、毛沢と何らかの接点などあるはずがない。
 それに若くして亡くなった先生だから、奥さんの悲嘆ぶりは大きい。喪主は奥さんになってはいるが、実質的に弔問客の相手をしなければならないのは、美穂だった。
 そんなわけで、毛沢は振舞い酒を飲みながら、陰鬱に沈んでいた。時々話しかけてくる人もいたが、適当に相槌を打つばかりだった。
 彼はおとなしい性格だが、酒を飲むことは大好きだった。話し相手など誰もいなくても、手酌でどんどん飲んでいく。そして頭の中ではやはり美穂のことばかり考えている。
 彼は焼香を上げた際に挨拶した時の美穂の顔を思い出していた。先生の奥さんと美穂の前に正座をして、みんながするような挨拶をしながら、深々と頭を下げた。そしてゆっくりと顔をあげると、美穂とまともに目が合った。
 毛沢はびっくりしたが、ここは度胸を据えるんだとばかりに、目を逸らさなかった。すると美穂の目がキラキラと輝いて、少しニコリと微笑んだように見えた。
 そうだ。彼女は彼に向かって微笑んでいた。若くして亡くなった父親の葬儀だというのに、娘である美穂は確かに毛沢に微笑みを見せた。
 これは何かの意味があるととらえていいのではないかと、彼は日本酒のお猪口を手にしながら考え込んでいた。このまま何も手を下さずに帰ったりしたら、後でひどい後悔をしなければならない。
 とはいえ、彼は何をすればいいのか。この席から美穂を手招きして、「こっちに来て下さいよ」とでも誘うのか。まさかそんな無礼なことはできない。
 かなり酔っ払って、その場に座りながら、少しの間うとうとしていた。誰も毛沢には構わなくなった。
 彼の頭の中にはもう須田先生のことはなかった。先生の娘の美穂のことばかりがあった。いわゆる妄想だ。ちゃんとした考えではない。こんなにひどく酔っ払って、ちゃんとした考えなんか出てくるはずもない。
 不意に尿意を催してきたので立ち上がろうとした拍子に、横ざまにパタリと倒れてしまった。もとよりそんなに余裕をもって設えられてある席ではないので、毛沢は隣に座っている男の頭の上にドスンと落ちた。
「おいおい、やめてくれよ、毛沢東さん」と下敷きになった男は咎めるような口ぶりだった。
 毛沢は、その『毛沢東さん』という呼びかけが気に入らなかった。起き上がって、立ち上がりざまに、頭の辺りを拳固で軽くコツンと当ててやった。
「こんな時に毛沢東さんなんてことを言うのは誰なんだ? あんたは誰だ? 見覚えのない顔だなあ」
「見覚えのない顔なら、そんなにいきなり殴らないで下さい。先生が亡くなられてがっかりしているのは、ぼくたちも同じなんですよ。ぼくだって酔っ払って、誰かの頭を叩きたいくらいです」
「おお、頭を叩くのか? それならぼくの頭を叩き返せ。さっきはこちらが失礼した。そのお詫びに叩かれるよ。さあ、どうぞ、叩いてくれ」毛沢は誰か知らない相手に向かって頭のてっぺんを示した。
「まあまあ、こんな席で殴り合いはいけないだろう。もう少し静かにしようよ」別の席にいた体のがっしりした男が二人のそばに寄って来た。
 体が大きかろうが、酔っ払った毛沢には何にもこたえない。彼の妄想の中では、この男を一本背負いで投げている。
「ああ、静かにするよ。何しろここは須田先生の葬式の席だからな。けれどもぼくがした失礼はちゃんと片をつけておかないといけない。だからあなた」と毛沢は、隣の席で困った顔をしている男に顔を近づけて、
「早く殴って下さい。ぼくはあなたのような一人前の紳士の頭を叩いたのですから、ちゃんとその仕返しはして下さい」と迫る。
「そんなことを言って、人を困らしちゃいけない」と体のがっしりとした男は少し怒った顔をしている。
「困っているのはぼくの方だ」と毛沢は一向に応えない。
「何を困っているんですか?」
「先生が……先生が、お亡くなりになって、困っているに決まっているでしょう」土壇場のところで、彼は嘘をついた。
 嘘をつくに決まっている。いくら酔っ払っているからといったって、こんなに大勢人が集まっている場所で、「須田先生の娘さんと結婚がしたい」などと口にできるはずがない。
「それならわたしたちも困っているのです。ここにいる皆さんは全員困っているのです。それに寂しいですよ、こんなに早くにお亡くなりになるなんて」と体のがっしりとした男は、拳で目をこすりつけている。少し泣いているようだ。
 その言葉を聞くと、毛沢の脳裏にも須田先生との様々な思い出が去来した。そして急に悄然と肩を落とし、
「いや、お騒がせして悪かった。須田先生のご葬儀という神聖な場所で、こんな醜態を晒すとは、ぼくとしてはとても面目ない。あなたはぼくの頭を叩かなくても、気分はすっきりしていますか?」と毛沢は隣の紳士に訊ねる。
「もちろん、すっきりしています。むしろぼくの方が悪かった。あなたのことを毛沢東さんなんてお呼びして、申し訳ないです。こんな席で口にするような冗談ではなかった」
「そうか、毛沢東か。以前はよくそう呼ばれていたなあ。ところできみはお名前は何というのですか?」と毛沢は相手に訊ねた。
「ぼくの名前を知らなくて殴りつけたのですか。でも仕方がないです。ぼくは毛沢さんのようなエリートじゃないですから、名前なんか、あってないようなものです。ぼくは末沢と申す者です。もしよかったら、毛沢さんの頭の片隅にそっと記憶しておいて下さいませんか」
 末沢と名乗った男は、あまり気分がよろしくないようだった。
 相変わらず酔っ払っている毛沢には、末沢の心の機微なんか全然分からない。大体、今の彼には、人のことなんか分かりたいという気持ちはない。彼の頭にあるのは、やはり美穂だけだ。
 それで人でひしめき合っている所を、掻き分けて歩こうと奮闘し始めた。
「どこに行こうというのですか?」先ほどの体のがっしりした男が怪訝な顔をして、毛沢を遮ろうとした。
「トイレに行くんだよ。あんただって、時にはトイレくらい行くだろう。ぼくにはトイレに行く権利もないのか」と毛沢はまくし立てた。
 周りの人たちはむしろ笑いながら毛沢を見ている。
 そんな周りの人たちの中で、毛沢はふと美穂の姿を見つけた。彼女は、それまで座っていた遺族の席から立ち上がって、どこかに行こうとしている。そしてそのはずみか何かは知らないが、毛沢の方に目を向けて、またニコリと微笑んだ。
 確かに微笑んだように見えた。見えただけかも知れない。しかし彼の目は常に美穂の方ばかりを意識していたのだから、微笑んだかどうかくらい間違えない。
 須田先生のお宅には何度も来ているから、どこに何があるか大抵のことは知っている。美穂は家の奥の方にさがって行ったのだ。少し休憩をしに行ったのだろう。
 毛沢はトイレに行くつもりだ。トイレはこの座敷のすぐ近くにある。彼はそのまま奥に突っ込んで行って、美穂に何か話しかけたい衝動に襲われた。しかしそんなことはできない。いくら勝手知ったるお宅といったところで、葬儀の日に家の中をぶらつくわけにはいかない。
 毛沢は人の塊をくぐり抜けて廊下に出て、トイレに入った。そして手を洗い、外の庭をちらりと見た。相変わらずきれいに片付けられた庭だった。
 彼はガラス戸を開けて、縁側に出て腰掛けた。涼しい風が額から背中に向かって吹いてくる。まだ春になったかならないかの季節なので、本来はそんな所にいると寒いのだが、さっきまで人のたくさんいた部屋に畏まって座っていたので、こういう所に来るととても開放的な気持ちになる。
 何匹ものスズメがチチチと鳴いて土の上を嘴で突いている。毛沢はふと須田先生のことを思い出して、少し涙ぐんだ。
 彼は今は、須田先生のいた大学とは違う大学で講師の職に就いている。いずれはまた須田先生の元に戻ってきて、先生の右腕にもなろうと考えていたところだった。その先生が突然亡くなった。先生が亡くなってしまうと、自分の今やっている仕事が突然つまらないものに思えてきた。
 利尻が先生の元を去った今、先生の実質的な後継者は毛沢だと目されていた。ところが先生がこんなに早くに亡くなられてしまった今、後継者になるには彼はまだ若過ぎた。
 彼は先生の研究の一端くらいしか覗いたことはない。先生が書いた本や、残した遺稿などがあるにはあるだろうが、そんなものをいくらかき集めても、生きている時の先生の思想のほんの端っこにしか触れられないのではないか。
 それに別の大学で講師の職にしか就いていない者が、いきなり先生の後継者になって、教授の地位に就かせてもらうなんてことは、全くおこがましいことだった。
 そしてもう一つ問題がある。それはもう一つの問題というより、彼にとって最も大事な問題だった。須田先生の後継者になるためには、どうしても娘の美穂と結婚していることが必要なのではないか。
 毛沢はそんな打算的な気持ちで美穂のことを慕っているわけではない。彼は純粋に彼女のことが好きなのだ。だからもし後継者としての道が断たれるようなことがあったとしても、美穂とは一緒になりたいと切に願っていた。
 葬式も全て終わってしまった。これ以上酒を飲んでいても仕方がない。奥さんと美穂に挨拶をして、そろそろ引き上げようかと考えていると、ふと背後から彼の名を呼ぶ声が聞こえた。
 振り向くと、そこに美穂が黒い着物を着て立っていた。
 毛沢は思わず「ああ」としか言えなかった。しかしそれだけではいけないと、突然奮起して、飛び上がるように立ち上がり、
「この度はどうも、ご愁傷様でした」とありきたりな挨拶をして、頭を下げた。
 すると美穂はやはり微笑んで、
「こんな所で何をなさっていたのですか?」と訊ねた。
 毛沢は美穂の微笑んだ顔を、惚れ惚れとして眺めながら、心の中で、「やっぱり自分に対して微笑んでいてくれていたのだ」と快哉の声をあげた。
「いや、先生の丹精された庭を眺めて、思い出に耽っていたのです」と毛沢は答えた。
「あら、お父さんは、庭いじりなんか全くしませんでしたわ。時々植木屋さんは呼んでいましたけれど、別に何の注文をすることもなく、自室にこもって仕事をしていました」
「そうでしたかねえ」と言って、毛沢は照れたような顔をして、額のあたりを手の甲でゴシゴシこすっている。
「それよりもさっきは大変でしたわね」と言って、美穂は口元を抑えて笑っている。
「さっき、ですか?」
 毛沢は、さっき何があったかなんて忘れている。
「ちょっとした喧嘩をなさっていたじゃありませんか。わたし、見ていてハラハラしましたわ」
「ああ、申し訳ありません。別に喧嘩をするつもりでもなかったのですが、随分酔っ払ってしまいましてね。こんな所に来て、あんなに酔っ払ってはいけませんね」と謝罪をすると、
「そうですわ。いけませんわ。ここは居酒屋じゃないんですから。もっとおとなしくしていて下さいね」と注意をされた。
 毛沢は、「はい」と素直に返事をした。
 そこで美穂は意外な提案をした。
「こんな所で二人でしゃべっていたら、人の目につきますから、どこか別の部屋でお話しましょうか?」
「はあ、それはいいですね」
 毛沢にすれば飛び上がりたいほどの嬉しさだった。こんなチャンスが訪れるとは、夢にも思わなかった。
 とはいえ、そこに行って一体何を話せばいいのだろうか。須田先生の思い出話でもするのだろうか。それもいいが、そうなると二人とも泣いてしまうことになるような気がする。泣いてしまっては、ロマンチックな雰囲気を醸すことなんかできない。
 廊下を真っすぐ突っ切って、そこを左に曲がり、すぐ右手にあるドアを開けた。そこは緑色のソファが敷き詰められている部屋だった。
 こんなところで何をするのだろうかと考えていると、美穂は、
「ここなら誰も入っては来ません。わたしの秘密の部屋なんです」とまた微笑んだ。今度は悪戯っぽい微笑みだった。そういう微笑みは、よっぽど心を許し合った仲でしか交わされないものだ。
 ことによるとこの人は、彼をあからさまに誘惑しているのではないかという想念が、毛沢の心の中に浮かんだ。だとすれば、彼だって大胆になってもいいわけだ。
「わたし、イライラするようなことがあると、ここに来てのんびりと寝転がっているのです」と美穂が言う。
「美穂さんにも、イライラすることなんかあるんですか?」毛沢は本当に驚いて訊ねた。常に穏やかにしている彼女から、『イライラする』などという言葉を聞こうとは思ってもみなかったからだ。
「わたしにだってあるわ。あなたはわたしのことを石か何かだと思っていたの?」
「石だなんて思っていません。ただイライラするという言葉があなたの口から飛び出したので、びっくりしたのです」
「あなたは人間のことを何も知らないのねえ。特に女性のことはもっと知らない。そういう点で利尻はよく女性のことを知っていたけれど、彼の場合は知り過ぎていたのよ。それであちらこちらの女性に接触して、わたしなんか見向きもしなくなった」
 話がいきなり美穂の内々の話題に移ったので、毛沢は少し困惑した。同時に興味もたくさんあった。
「あなた、利尻とは親しかったのでしょう?」と訊ねられたので、毛沢は「はい」と返答をした。
「利尻って、男の人たちからは評判がいいのでしょう?」
「そうですねえ。ぼくなんか全く及びもつかないほどの人望があります」
「でも、妻であったわたしからは全く人望がなかったのよ。それってどういうことだと思う?」
 一体何の話が始まるのだろうと、毛沢は訝し気な目を彼女に向けた。けれどもこんな部屋の中にいて、全く黙りこくっているよりは、訳が分からなくても何か話してくれる方が過ごしやすかった。
「浮気が多かったということでしょう」毛沢は普通に流布されている利尻の噂話を言ってみた。
「まあ、そうね。浮気が多かった。それは大変な問題よ。けれども問題はそれだけじゃなかった。あの人、家庭の外ではとても愛想よく振る舞うのに、家庭の中に入ったら、全く人が変わるのよ。暴君。まさしく暴君よ」
「暴君って、殴ったりしてくるのですか?」
「さすがに殴りはしなかった。そんなことをしたら、自分の損になることを、十分承知していたから。簡単に言うと、全くしゃべらなかったの。妻のわたしのことなんか無視よね。わたしが何か話しかけても、うんともすんとも言わない」
「浮気のことで責められるのがいやだったのかなあ」と毛沢は考えてみる。
「彼がいつから浮気をしていたのか、わたしは知らないけれど、わたしの勘では、最初の間は何もしていなかったと思うの。けれども彼がわたしとしゃべらなくなったのは、最初からなの。結婚式が終わって、結婚生活が始まった途端に、彼は手のひらを返したように無愛想になった。わたしはその変化にとてもびっくりした。それで色々と話しかけてみたのだけれど、彼はある日こう言ったの。
『ぼくは外で仕事をしたりして戦っているんだ。そんな時は仕方なく人と会話もするが、ここは家庭だ。安らぎの場所だ。そういう所では極力黙っていたい』
 そんなこと言われても、家庭の場にいるのは、あの人だけじゃないの、わたしもいるの。わたしは愛する人と一緒に家庭にいたら、楽しく語らいたいわ。それでそんなことを彼に言うと、『ナンセンスだね』なんていう返事が返ってくるの。何がナンセンスなんでしょう? 夫婦が二人きりになって、楽しく語らうことがナンセンスなの?
 でもそれ以上何を言っても無駄だった。わたしが夫婦の会話について何か申し出ても、全く無視だった。もう話は終わった。全ては決せられたというわけね。
 その後彼が浮気を何度かしたというのは、少しはつらかったけれど、実はさほどのことでもなかったの。わたしは最初から絶望していた。彼がわたしとの会話を拒否した時から。
 父にもそんなことを相談したことがあるけれど、それはどうにも仕方がないなあと父にも言われた。世の中にはそういう男は多い。わたしはできればそういう男になりたくないと考えて生きてきたが、利尻はそういう点では考えの浅い男なんだなあ。仕事はあんなにできるのにと嘆いてはくれた。でも父は敢えて利尻に意見をしたりはしなかった。
 わたしたちが離婚したのは、当然の帰結よ。別に劇的なことなんか一つもない。相手はびっくりしたでしょうけど。わたしがいきなり離婚届を突き出して、『ここに名前を書いてハンコを押して』と言い出したから。
『どうしてだ?』とまで訊いてきたわ。どうしてって、何故どうしてか分からないのかしら。父が、世の中にはそういう男がいると言っていたけれど、本当にいるのだと、その時はっきりと実感したわ。ああいう人間は、本当に分からないのねえ、自分がどれほど自分勝手な生き方をしているかということが。仕事さえできたらそれでいいと思っている。この世界には、仕事どころじゃない時があるのにねえ。あなたには分かるかしら、仕事どころじゃない時があるということが」不意に美穂は毛沢に訊ねた。
 毛沢はひとこと「うん」と答えたが、それは承知したという意味のうんではなくて、相手の言っていることの意味を考え込んでいる時に反射的に出た返事だった。
「きっとあなたにもあまり分からないのでしょう?」美穂は毛沢に確認の質問をした。
 こんな時にいい加減なことを言っても仕方がないから、彼は、
「正直言って、ぼくにも分からない。男にとって仕事はとても大事なものだから、ぼくもそういう台詞を吐くことがあるかも知れない」と言った。
「あなたって、なかなか誠実なのね。こんな時、普通男の人はごまかして、女の喜ぶようなことを言うのにねえ。利尻はそうだった。わたしのことが大事に決まってるじゃないかとまで言っていた。結婚前は。ところがいざ結婚したら、わたしなんか目の前に存在していないも同然だった」
「そこまでぼくはひどくはならないと思うがなあ」毛沢は首を傾げて考えている。
 彼はまだ一度も結婚をしたことがないから、夫婦が二人っきりになった時に、彼がどういう行動をするのか、はっきりとした概念はなかった。
「きっとあなたも言うわ、俺は仕事をしているんだぞって。仕事ならわたしだってしている。もし専業主婦だとしても、それだってちゃんとした仕事でしょう? こんなこともう常識だと言われているけれど、案外男の人たちの世界では、常識にはなっていないようなの。会社に行って毎月の給料を稼いでいないと、それは仕事じゃないと、まだ思っている。特に今は日本の会社も昔のようにどんどん稼ぐ時代じゃなくなったから、仕事も厳しくなっている。こんな時代に家で気楽に専業主婦をしていられたら、それだけで天国じゃないか、男の人たちはそう考えている。
 その癖会社で何をしているかといったら、全く生産性のない書類仕事ばかりして、一体何のために夜遅くまで仕事をしているのか分からないという体たらくなのよ。ただの仲良しクラブ。会社って、子供がある程度大きくなって、学校を卒業して、それから次に入る新たな学校に過ぎないのよ。給料は貰っているけれど、みんなの貰っている給料にたいした根拠があるわけじゃない。生活していくためにどうしてもお金が必要だから、国から保護を貰っているようなものよ。
 そこまで言うと言い過ぎかも知れないけれど。
 わたしは元々がおとなしい人間だったから、会社という仲良しクラブには馴染めなかった。それで専業主婦に甘んじていたの。でも専業主婦だって、呑気じゃないのよ。近所の人たちとの付き合いもあるし、大学の同僚の人たちの奥さんとも接しなければならない。そんな人間関係って、お金にはならないけれど、お金よりも大きく生活に影響を与えるものなの。
 そういう時に夫の協力があれば、心がどれだけ癒されるか分からない。そういうことを、男の人たちは全く考えもしないのね。妻というのは自分が協力して守るためにあるものじゃなくて、常に自分の身の周りのことを、何も言わぬ先からさっさとしてくれる、下女みたいなものだと思っている。
 下女って、知ってます? 夏目漱石の小説なんか読んでいると時々出てくる。簡単に言うと、女の召使ね。そんなのは過去の遺物で、今は男女同権だから、そんな言葉は死語だと男たちは言うかも知れないけれど、いえいえ、全く死語なんかじゃない。男の人たちは、妻のことを下女くらいにしか考えていない。
 男の人たちは言うわねえ、『女性は怖いよ。俺は全く女房に頭が上がらない』なんてね。確かに頭は上がらないかも知れない。妻がいったん怒り出したら、それを鎮火する能力は、日本の男たちにはないのだから。それで男の人たちは恐れをなして、家にすぐには帰らなくなる。お酒を飲みに行って、女の人たちと遊ぶのよ。
 でも本当に怖い思いをしているのは、専業主婦しかできない女なの。夫のことが不満だと思っても、自分で自活するほどの稼ぎがないから、離婚もできない。わたしは幸い父が受け入れてくれたし、その上子供を産んでいなかったから、比較的簡単に離婚はできた。けれどももしわたしに子供がいたら、父も受け入れてくれたかどうか分からない。晩年の父は病気がちだったから、わたし一人が家に帰ってくることにはOKを出したとしても、その上子供がいたら、きっと重荷だったと思う。もちろん、同じようにOKは出してくれたと思うけれど、父の負担のことを考えると、わたしの方が遠慮したかも知れない。
 父はどういう旦那さんだったかって? 父は母をとても愛していたわ。家にいてもちゃんと会話をしていた。わたしも交えて、夜遅くまで話をしていたこともある。相手の気持ちを尊重するということに重きを置いていた人だから、わたしや母をないがしろにする人じゃなかった。だからこそわたしは、利尻の家庭での態度に驚いたのよ。
 ごめんなさい、こんなに長いことしゃべって。わたし、誰かにこのことを言いたかったの。もちろん母には言ったけれど、母も『仕方がないわねえ』と言うばかりだった。夫婦関係には、実の親でも介入することは難しい。そんなことをすれば、余計に夫婦の溝が深くなるだけだわ。
 あなたは男の人だから、利尻の気持ちがよく分かるでしょう? わたしたち、もう、離婚した後だし、何とでも意見が言えるでしょう? どう、何か意見あるかしら?」
 そう言われても、すぐには意見を述べることはできない。しばらく考えないといけない。美穂の微笑みを見て感じたロマンチックな気分は、どこかに飛んで行ってしまった。一人の女性に追いつめられる、言葉に詰まった男の役割を演じているだけだった。
 しかしここは何とか言わないといけない。全くの無言で通すわけにはいかない。そこで毛沢は、
「ぼくも利尻とは変わらない人間なんだろう。須田先生のような立派な人にはなれないと思う」と言ってみた。
 すると美穂はひとこと「ふーん」と呟くように言って、毛沢の顔をじっと見やった。それまでの彼女は、語ることに忙しくて、彼の顔をちゃんと見ることをしなかった。初めて彼女は彼の顔を見直したと言っていいかも知れない。そして彼女はこう言った。
「案外あなたは利尻とは違うかも知れない。だって父が本当に自分の後継者として認めていたのは、利尻じゃなくてあなただったようだから」
「そんなことはないでしょう。遠田も含めてぼくたち三人の中で一番優秀なのは、利尻だったとぼくは思うがなあ」
「優秀なのは、確かに利尻かも知れない。でも、人間と人間の関係に、優秀かどうかなんて、あまり関係はないと思わない? この人は優秀だから、好きになろうなんて、あなた思うかしら? むしろ優秀な人というのは、人に対して傲慢になりがちだから、敬遠するものじゃないかしら。父だって人間だから、やっぱり付き合いやすい人と付き合いたかったと思うの。そういう点では、あなたはとても付き合いやすい人だわ。与しやすい人だと軽んじているわけじゃないの。これはあなたにとって、とても将来のかかっている美点なの。わたしはそう思うけれど、あなたはどう思うかしら?」
「ぼくの美点? ぼくは自分のことで、そんなことが美点だと感じたことはない。ぼくだって仕事ができると評価されたい」
「それはそうよ。仕事ができないと、父もあなたを認めはしない。あなたは付き合いやすい上にある程度仕事ができる。ちょうどいい加減な人なのよ」
 いい加減な人と言われてもあまり嬉しくはない。そんな毛沢の気持ちを汲み取ったのか、美穂は不意に不安そうな顔になって、
「怒ったの?」と訊ねた。眉根を寄せて悲しそうな顔をしている。
 好きな人にそんな顔をされたら、毛沢の方が切なくなる。そこで慌てて手を振って、
「怒ってないよ」と今度はこっちが微笑んで見せた。彼女の困った顔を見て、逆に彼の気持ちが和んだようだ。
「きみに対して怒るわけがないだろう」と続けて言ってみる。
「どうして怒らないの?」
「だって、ぼくは、きみに好意を抱いている」と思い切って言ってみた。
「好意? 好意って、何? 好意なら、わたしもあなたに対して持っているけれど」美穂は別の意味で困った顔をしている。
「ぼくの好意はもっと強い好意なんだ。思い切って言います。ぼくはあなたのことが好きなんです」
「あら、そんなこと……」と言って、美穂は思わずソファから立ち上がりかけた。
 毛沢は美穂の顔を見上げて、
「まあ、座って下さい。ぼくは何もかも告白します」と静かな口調で嘆願した。
 美穂は素直にソファの上に座り直した。二人は対座していた。美穂の方が入り口に近い方に座っていた。そして背後のドアを見やったりして、キョロキョロしている。
「どうしたのですか?」毛沢はあくまでも静かに訊ねる。
「いきなり好きだなんて言われても……」
「でも、本当の気持ちなんです。本当は結婚したいとまで言いたいくらいだったんですが、そこまで言うと慌て過ぎですからね」
「でもわたし、利尻と別れてバツイチになった、つまらない女ですよ」
「あなたはつまらない女なんかじゃない。ぼくにとっては天使のような人です」
「天使だなんて、まあ」美穂は小さな叫び声をあげて笑う。
「でもどうしてもっと前に言って下さらなかったの?」
「もっと前とは?」
「わたしが利尻と結婚する前」
「それはできなかった。ぼくたち三人の中では、利尻が一番優秀だったし、須田先生の娘さんを手に入れるのは、優秀な人でないといけないと考えていた。それでぼくはすごすごと諦めたわけです」
「諦めたということは、あなた、その時からわたしのことが好きだったのね?」
「もちろん、そうです。遠田だって、あなたのことが好きだと言っていました。あなたと近しく接していて、あなたを好きにならない人は一人もいないでしょう」
「まあ、そんなこともないでしょう。わたしだって、嫌われることくらいあるわ」
「それはあるでしょう。人間なんだから。でもぼくたち二人は悔しかったですよ、当時。利尻が一番あなたにふさわしいと思ったにしても、悔しかったです」
「それならあなたがわたしを奪い取ればよかったのに。わたし、利尻と結婚したって、何も楽しいことはなかった。さっきも言った通り。どうしてわたしが父の門下生の人たちの中で、一番優秀な人と結婚しなければならなかったの? そんなこと、誰が決めたの? 父があなたたちにそう言ったの?」
「いえ、誰も言ったわけではないです」
「それならあなたが奪い取ればよかったのよ、わたしを」
「でもそんなことをしたら、ご迷惑が──」
「ご迷惑って、あなたが懐手をしてボヤーっとしていた方が迷惑だったわ。だってわたしもあなたに好意を持っていたのですもの」
「好意?」
「好意よ。それ以上言わさないでちょうだい。わたし、恥ずかしいわ」と美穂は俯いて、両手で顔を覆う。
 その時毛沢はとんでもない間違いを冒していたということを、初めて悟った。あの時利尻は別の女性と付き合ってもいて、どうしても美穂でなければ駄目だということもなかった。そのことは遠田も知っていた。
 ことによると、利尻は美穂と結婚したくはなかったのかも知れない。そのもう一人の女性の方が大事だったのかも知れない。
 当時の毛沢にしてみれば、たとえ他に女性がいたとしても、美穂を取らない男はいないだろうと完全に決めつけていたが、案外そうでもなかったのかも知れない。
 それならば、毛沢が利尻に申し出て、「ぼくが美穂さんを貰い受けたいと思うが、どうだろう」と言えば、利尻は「いいよ」とあっさり答えたかも知れない。
 そして今、彼は美穂の気持ちを聞かされた。美穂は彼に好意を持っていた。さっきのやり取りから推察すれば、美穂は毛沢のことが『好き』だったのだ。
 相思相愛だったのに、他の男が気が進まないながら取っていくのを、彼は指をくわえて見ていたのだ。
「それは……」と言って、毛沢はそれ以上の言葉が出てこなかった。
 俯いて両手で顔を覆ったまま、美穂は、
「あなたはとても罪な人よ」と呟いた。
 毛沢は彼女の言葉に頷いて、
「そうだな。ぼくは罪な男だ。でも、今からでもチャンスはないかなあ。ぼくは今でもきみのことが好きなんだ。きみはぼくのことが、まだ好きなのだろうか?」と訊ねた。
「好き、とは言っていないわ。好意を持っていたと言ったのよ。誤解しないでね」
「誤解しないでねって言ったって、好意を持っているというのは、好きと同じことだと、ぼくは言ったじゃないですか」
「あなたは言ったかも知れないけれど、わたしは言ってないわ」と言って、美穂は俯いて両手で覆っていた顔を毛沢に見せた。その顔は爽やかな微笑みを見せている。
 毛沢は突然内面の奮起に突き動かされて、不意に立ち上がり、美穂の座っている側のソファに近づいて、彼女の隣に座った。そして彼女の喪服の肩を抱き、顔と顔を近づけた。始めはいやいやをしていた美穂も、次第に毛沢の動きに呼応するようになり、ついに二人の顔と顔は合わさり、唇と唇が長く密着することになった。
 それは長いキスだった。毛沢の万感の思いがこもっていた。これからは決して美穂を放さないという覚悟のこもったキスだった。
 やがて毛沢は唇を放して、美穂の顔を見やった。そこに陶然とした表情を期待していた彼は、案外そうではない彼女の顔を見て、にわかにたじろいだ。
 美穂は急に取り澄ましたような冷たい表情になり、彼にこう言った。
「今日は父の葬式なのですよ。そんな時にこんなことをするなんて、一体どういうつもりなの?」
「どういうつもりも……」それまでの決意が一挙に瓦解する思いのした毛沢は、あっという間にうろたえてしまった。
「どういうつもりもなくて、こんなことをしたのですか? 何て失礼な人なんでしょう。わたし、親戚の人たちとどんな顔をして会えばいいのですか?」
 そんなことを言われても困る。彼はただ彼の思いに突き動かされて行動しただけなのだ。それが失礼な行動だったとしたならば、謝罪するしかないが、どうして謝罪などしなければならないのか。
「しかしぼくたちはもう、いい仲になるんじゃないのか?」
「いい仲って、何? なんか、いやらしい言い方だわ」
「いやらしい言い方なら、悪いことをした」
「それにもう、いやらしいことをしたわ。父親の葬式の会場になっている我が家で、いきなりそんなことをするなんて、とんでもない人ね」
「ぼくはとんでもない人なのか。それは悪かった。でもぼくはきみのことが好きで、気持ちを抑え切れなかったんだ」
「葬式の日なのに? 近くには父の遺骸もあるのよ。あなた、そんなことして、父に顔向けができると思う?」
「顔向けは……できない。けれど……」
「けれど、何?」
「ぼくはきみのことが好きなんだ。そのことは信じてくれ」
「信じているわ。好きだから、あんなことをしたのでしょう?」
「当たり前だ。好きじゃなかったら、しないよ」
「でもわたしも父に向かって顔向けができないわ。どうしたらいいのかしら?」
「このまま二人で部屋に戻って、須田先生の前に座って、二人がこれから交際することを報告したらどうだろう」
「何を言ってるの。そんなこと、できるはずがないじゃありませんか。他に大勢の人がいるのよ。父親の葬式の日に、娘が新しい交際相手ができましたって報告するのって、あり得ると思う? そう言えばあなた、随分酔っていたわね。今のキスも、今の変な言葉も、酔っ払ってしたたわごとなの?」
「たわごとだなんて、とんでもない。ぼくはしっかりしているよ」
「ほんとかしら」と呟くように言って、美穂は毛沢の顔をじっと見た。その目は厳しい目だった。
「わたし、酔っ払いの遊び相手にされてしまったのかしら。後でこのことをあなたに訊ねたら、あなたは、そんなこと覚えていないよって言われるのかしら。何てことかしら」
「そんなことはない。これはぼくの命のかかった行為だから、決して忘れることはない」
「命がかかっているの? また、そんな大袈裟な言葉を使って。酔っ払っている人ほど、そうやって大袈裟な言葉を使うのでしょう? それで後になって忘れてしまう。えっ、そんなことあったっけと。そうでしょう?」
「だから、忘れないって言ってるだろう。ぼくにはもうきみしかいないんだ」
「結婚する前は利尻もよくそんなことを言っていたわ。けれども結婚したら、何も言わなくなった。わたしの前で欠伸をするだけ。お前、どうして俺の前にいるんだというような顔をして」
「ぼくはそんなことはしない」
「どんなこと?」
「欠伸さ」
「欠伸くらいしてもいいわよ。夫婦になって欠伸もできなくなったら、それこそ息が詰まるわ」
「どうしてそんな言い方をして、ぼくをいじめるんだ。キスをした日が悪かったんだな。ごめん、謝るよ。こんな日にきみにキスをしたりして、不謹慎だった」
「そうよ。不謹慎よ。わたし、今から父に謝ってこなければならない」
「おい、もう行くのかい?」
「ここにいて何をするの? また同じことをするつもり?」
「そんなことはしないけれど、きみはぼくのことが嫌いなのか?」
「嫌いじゃないわ。好意を持っているって、何度も言ってるじゃないの」
「それなら、少しくらい大目に見てくれよ。ぼくはきみに対する気持ちを抑えられなかっただけなんだから」
「気持ちが抑えられなかったら、何をしてもいいの?」
「いいことない。それは悪かった。何度も悪かったと言っているだろう。どうして許してくれないんだ」
「あまりにも不謹慎だったからよ。この家は父の遺骸のある神聖な場所なのよ。何度謝ってもらっても、わたしが許すとは言えない。もっと偉大なものが許すと言ってくれないと、わたしにはどうしようもない」
「もっと偉大なものって、何だ?」
「神様とか仏様とか」
「そんなものに謝りたくても、実体がないから謝れないじゃないか」
「そんなもの? あなたは神様や仏様のことを、そんなものと言うの?」
「いや、これも悪かった。そんなものじゃない、大事なものだ。すまなかった。けれどもそんなに責めないでくれよ。ぼくは全くの無宗教できたから、あまりそういうものに対して考えたことがないんだ」
「あなた、学者でしょう? 神様や仏様のことも考えなくて、どうやって学者が務まると思っているの?」
「これからは考える。だから許してくれ」
「わたしが許しても仕方がないの」
「いや、きみが許してくれ。ぼくにとっては、きみは神様や仏様に匹敵する存在だから」毛沢は立ち上がって、美穂に対して深々とお辞儀をした。
 彼女の顔は見えない。だから彼女が何とか言ってくれるまで待つつもりだ。だが一向に何とも言ってくれない。
 そこで毛沢は、おずおずと、
「おい、まだ許してくれないのか?」と訊ねた。
 すると意外なことに、美穂がクスクス笑い始めていることに気づいた。そして、
「ごめんなさいね、あなた、そんなに真面目に謝っているのに笑ったりして。でも何だか面白かったの。もう頭を上げて。そしてもう少しお話をしましょう。今度は違う話題で」と言った。
 毛沢は、むしろ首を傾げて、美穂の隣の席から前の席に移動した。そしてキョトンとした顔で彼女を見やっている。
 美穂は、毛沢に向かって、
「さあ、何か別の話題はないの?」とせっついてくる。
 そんなこと、急に言われても、話題など簡単に出てくるものじゃない。けれどもここで黙りこくってしまったら、彼女は「それじゃあ」と言って、立ち去ってしまうことだろう。
 そこで毛沢はこんなことを言ってみた。
「ぼくは須田先生に初めて褒められたレポートがあって、そのレポートは実は酒を飲んで、かなり泥酔して書いたレポートだったんだ」
「あなた、そんな時からもう酒飲みだったの?」と美穂が訊ねる。
「実は、何をどのように書いていいのか分からなかったから、酒を飲んだら、少しは着想が湧くと思ったんだ。そのうち随分飲んでしまった。そしてレポートはどんどん進んで行った。自分でも何を書いているのか、全く見当がつかなくなったけれど、それでも書き続けた。そして最後まで書いて、全く読み返すことなく先生に提出したんだ」
「まあ、大胆なのね」と美穂は合いの手を入れる。それは明らかに合いの手程度の軽い言葉だった。
「それで次にお会いした時に、あのレポート、なかなかよかったよって褒められたんだ。自分でも何を書いたか覚えていなかったから、何がいいのか悪いのか分からない。そこで先生はニヤリと笑って、ぼくにこう言ったんだ。きみは酔っ払っている時の方が面白いねと」
「父はあなたが酔っ払ってレポートを書いたということが分かっていたのね」
「そうなんだ。それでぼくは慌てて『すみません』と謝ったら、先生はこう仰った。『酔っ払ってあれだけ書けるということは、きみの潜在意識の中には、なかなかいい才能が埋まっているということだ。酔っ払わずにあれくらい書けるようになったらいいね』と言って下さった。
 そのレポートは返して下さったから、家に帰って読んでみたんだが、まるでぼくが書いたんじゃないみたいだった。だって、ぼくが考えてもみなかったことが、あちらこちらに書いてあるんだもの。それで驚いて、須田先生に言ってみたんだ。すると先生はこう訊ねた。
『あなたは自動書記というものを知っているか?』
 ぼくは知らないからそう答えた。
『今はもう流行らないのかなあ。わたしの若い頃は流行ったものだった。手を白い紙の上に置いておく。そして突然何かの力が舞い降りたことを感じて、手が勝手に文字を書いていくんだ。わたしはそういうものに憧れたことがある。素晴らしいと思わないか? 何か自分とは違うものが乗り移って、それが書きたいものを手が勝手に書いていくなんて』
『先生は、そういうことに関しても専門的な知識を持っていたのですか?』
『いや、専門的な知識など持ってはいない。大体こういう不思議なことに、専門的も何もあったものじゃない。ごく普通の庶民的な興味を持っていただけだ。そういう本が出たら、買って読んでみたりもした。そのおかげで、ぼくは教授というような地位に就けたと言ってもいい』
『先生は、自動書記ができるのですか?』
『実は、できると言えばできるんだ。わたしの書いた大部分の論文は、自動書記で書かれたものなんだ。もちろん、後でちゃんとわたしが手直しはするがね。どうだ、この話、きみは信じるか?』
『はい、信じます』
『信じるのか。いや、今言った自動書記のことだが、あれは全部嘘だ。わたしはいつもちゃんと自分の頭で考えて文章を書いているよ。だから酒を飲んで書くなんてもっと駄目だ。分かったかね』と言われたので、ぼくはがっかりして先生の前でうなだれるばかりだった。
 すると先生がね、ぼくの肩を優しく抱いて、
『ちょっとはいいよ』と囁くように言ったのだ。
『自動書記や、酔っ払って書くことは、ちょっとはやってもいい。神様のようなものと交信している感覚というのは、とてもいい気分だ。それに自分の魂を高めるものでもある。ちょっとはしてもいい。でもあまりし過ぎると、精神衛生上よくない。人生の全てをそういう不思議なものだらけにすることは危険だ。だから、なるべく現実を見て生きていきなさい。これはわたしの助言だ。そして大事な助言だ』
 そう仰ったんだ」
「父は確かにそのようなことに興味を持っていたみたい。ある時わたしと一緒にテレビを観ていると、不意に振り返って、『美穂、お前は今わたしが考えていることが分かるか?』と訊ねるの。そんなの分かるわけがないと答えると、わたしはお前が何を考えているか分かるぞと言うの。『わたしが何を考えているというの?』と質問すると、『そんなこと、お前がよく知っているじゃないか』と言うの。それでその話は終わり。わたしも馬鹿馬鹿しくなったから、『それでも教えて』とは追求しなかった。だって、父の言うことは絶対変なことなんですもの。父は時々そういうことを言った。けれども普段の父はちゃんと理性的で立派な紳士だった。それでわたしは父のことを尊敬していたの」
「ぼくだって尊敬していたよ。須田先生は、立派でありながら、そういうお茶目なところもあって、とても素晴らしかった。そしてきみも結構お茶目なんだな」毛沢はにこやかな顔をして美穂を見て言った。
「わたし、お茶目かしら」
「そうだよ。あんなことがあったのに、ぼくに、次の話題を何か話してくれなんて、普通言わないよ。怒ったまま元の場所に帰って行くよ」
「だって、あのままわたしが去ってしまったら、あなた、がっかりするでしょう?」
「がっかりするに決まってるじゃないか」
「そうしたら、二度とこの家には足を踏み入れない?」
「そうだね。二度と来られないね」
「そうなると困るからよ」と言って、美穂は片頬で微笑んだ。それはとても中途半端な微笑みだった。照れていて片頬になってしまったのか、それとも毛沢のことを避けたいと思ってそうなってしまったのか、彼には分からなかった。
 その二つの可能性のうちどちらが本当か、彼は訊く勇気がなかった。それに彼女ははっきりとは答えないだろう。
「そろそろ元の場所に戻らないといけないわ。お母さんも疲れているだろうから、わたしが変わってあげないと」と言ったが、一向に立ち上がる気配がない。
 毛沢もなかなか立ち上がれない。彼はどうしても気になったのだ。彼女が彼と付き合う気があるのかどうかが。それがはっきりしないと、この場を離れる気になれない。
 何故なら、こんな中途半端な状態でこの場を離れたら、二度と来られなくなる可能性が大だったからだ。
 この家の主だった須田源太郎先生は亡くなった。須田先生の奥さんと娘さんだけが残っているこの家を訪問するには、それなりの用事がないといけない。美穂とお付き合いをすることを彼女に認めてもらったら、それは立派な用事になる。しかしまだちゃんと認めてもらっていない今の状態では、どんな顔をしてこの家に来ていいのか分からない。
 それで彼は思い切って訊ねてみることにした。
「あの……美穂さん。美穂さんと呼んでいいですか?」
「もう前から呼んでるじゃないの」と言って美穂は笑った。
 毛沢にしてみれば、それは笑いごとじゃなかった。大事なことだった。
「ぼくはきみのことが好きなんだ。きみはぼくのことに好意を持っているだけなのかも知れない。だからぼくの一方的な気持ちだけでも認めてくれないか。ぼくはきみと結婚を前提としたお付き合いをしたい。どうだろうか、その申し出を受けてくれるだろうか」
「父の遺骸のあるお葬式の場で、今度はお付き合いの申し出なの? あなたって、TPOというものを知らないのね。それにそんなに酔っ払っているし。葬式の場で酔っ払って、お付き合いの申し出を受けても、それが本気のことなのかどうか、わたしに判断できるはずがないじゃないの」
 美穂は明らかに叱責していた。こんな状態では、申し出を受けてくれる様子はない。毛沢は「ごめん」とひとこと謝って、軽く頭を下げた。そして、
「だったら、明日でもこちらに伺って、お付き合いの申し込みをしに来たら、どうだろうか?」と訊ねてみた。
「明日って、まだ父のお葬式の翌日じゃないの。わたしと母の悲しみはまだまだ続くのよ」
「それなら、四十九日を過ぎた頃に」
「それならいいわ。でもどこでいつ、あなたにお会いすればいいのかしら?」
「ぼくがこの家に来るよ。そして、きみとお母さんの両方の前で、正式にお付き合いの申し込みをする。それでいいだろう?」
 美穂は何か考え込んでいるような顔をして、毛沢をじっと見た。やがてこう言った。
「あなたがいきなり獣のように、わたしにキスなんかしなかったら、その申し込みを今受けてもよかったのに。わたし、今でも胸がドキドキ鳴って、体調が少し思わしくないのよ」
「それは悪かった。確かにぼくは酔っ払っている。ひどい獣じみたことをしてしまった。だからできれば許して欲しいんだ。どうだろうか、許してくれるだろうか」
 毛沢はすっかり混乱した頭になっていた。美穂は毛沢に好意を持っていると言った。けれども今すぐお付き合いしたいという申し出に、返事を与えることはしない。これは女性特有の焦らしなのか、それとも彼女にはそもそもそんな気はないのか、彼には分からない。
 そして美穂は不意に立ち上がって、
「それじゃあ、行くわね」と手を振った。毛沢も手を振り返すしかない。四十九日以降の何日にここに来ればいいのか、その約束も取りつけていない。
 彼は思わず「あの……」と呼びかけたが、美穂には聞こえなかったようだった。あるいは聞こえていて、素知らぬ顔をしたのかも知れない。彼女はくるりと背を向けて、ドアを開けて外に出て行ってしまった。
 まさか「美穂さーん」と大声で呼びかけながら、追いかけるわけにもいかない。毛沢はゆっくりと立ち上がって、開いたままになっているドアから廊下に出た。そして大勢の人たちがひしめいている会場に戻った。美穂は母親の隣に粛然と正座をしている。
 毛沢は人波をくぐり抜けて、思い切って美穂たちの前に出た。そこで正座をして畳に手をついて「それではぼくは失礼いたします。お母様もお嬢様も、お力落としのないようにして下さい」と口上を述べて、顔を上げ、美穂を見た。美穂は母親とともに毛沢に対してお辞儀をしたが、前のように微笑みはしなかった。
 彼女の表情は一挙に謎の領域に入り込んでしまった。

二、
 須田源太郎先生が早逝されたことによって、毛沢の昇進どころか、今の地位すら危うくなっていた。新しい地位を見つけるか何かをしないと、もし美穂と結婚するようなことになっても、二人は生活していくことはできない。
 今のところ大学から何かを言ってくることはない。おとなしくしていれば、このままの地位は保全してくれるのだろう。
 須田先生の四十九日が近づいていたが、、毛沢は美穂に電話をするための踏ん切りがつかないでいた。別れ際に見た冷然とした顔が、脳裏から離れなかった。
 考えてみれば、利害関係から見ても、須田先生のお亡くなりになった今、美穂とどうしても結婚しなければならない理由もなくなった。もちろん彼はそんな利害関係で美穂が欲しかったわけではない。本当に好きだったのだ。
 人間、死んでしまうと、あっという間に忘れ去られるものだ。須田先生は、学会のホープとまで言われて持て囃されていたものだが、今は名前を口にする者すらいない。毛沢も口にはしない。口にしたところで、相手はしばらく黙った後、頭を軽く一回ほど下げて彼の前を立ち去るだけだ。
 先生の四十九日も過ぎたが、結局彼は美穂には電話をしなかった。むしろ彼は彼女からの電話を待っていた。あの獣じみた行為は許すから、家に遊びに来て下さらないかしらとでも言って欲しかった。
 あんなに酔っ払わなければよかった。もっと理性的に振る舞っていれば、あの日に既に彼女とのお付き合いが始まっていたのかも知れない。今となってはもう遅い。いや、遅いのかな? やっぱり電話をした方がいいのか? しかし、彼女の父親が亡くなったばかりだというのに、お付き合いをしてくれとせっつくのは、またもや礼儀知らずな振る舞いと責められかねない。
 そんなことを考えながら、この頃の毛沢は、毎晩あちらこちらを飲み歩いている。
 ある日、居酒屋で一人飲んでいると、遠田から電話がかかってきた。
「元気か?」と訊くので、
「元気だ」と答えた。
 どこにいるのかと訊くので、居酒屋に一人でいると言うと、「おっ、いいねえ」と羨ましがった。
「あまりいいこともない。家に帰っても楽しいことがないから、こうして毎日飲み歩いているんだ」
「須田先生の亡くなったショックからまだ立ち直れないのか?」と訊ねるので、「そうだ」と答えておいた。
 美穂のことを言っても仕方がない。ましてやいきなりキスをしたことなど言ったら、何とデリカシーのない奴なんだと驚かれるに違いない。
 それに毛沢同様、遠田も美穂のことが好きだという微妙な問題もある。友人ではあるが、二人はライバルどうしなのだ。
「俺は俺で悩みごとがあるんだ。どうだ、今晩でもその悩みを聞いてくれるか?」と向こうが言う。
「きみにも悩みごとなんかあるんだな。呑気に生きているように見えるけど」と言うと、
「失礼だな。俺だって繊細なところもあるんだ。人をコンクリートみたいな風に言わないでくれ」と言って、笑っている。
 そうやって笑っているところは、やっぱり呑気に感じる。
「今晩話を聞いてくれと言ったって、ぼくはさっきこの店に来たばかりで、動きたくないよ」
「いいよ、動かなくても。俺がそちらに行こう。店の名前を教えてくれ。今のご時世、スマホがあればどこにでも行けるからな」
 そこで毛沢は店の名前を教えた。一応最寄り駅も言っておいた。同じ名前の店が偶然違う場所にあるということもある。
 電話を切って、ビールのジョッキを傾ける。そして焼き鳥の砂ずりを口に含んで噛む。
 この頃まともな食事をしていない。昼は蕎麦屋で蕎麦を食べ、夜は居酒屋で適当なものを口に入れている。こんな食生活をしていたら、体を壊してしまうかも知れない。
 体なんか壊れてもいいと心の中で考えた。自分という存在がこの地球からいなくなったところで、地球の運命には何の関わり合いもない。
 人は一体何のために生きるのだろう? こうして酒を飲んで何かを食べているのは、おいしくて楽しいことだが、まさかそれだけのために生きているのでもなかろう。きっと何か意味があるに違いない。そして彼にはその意味が皆目分からない。
 彼もまだ若いが、これでも学生たちの前に立って、教えを垂れる身分なのだ。自分自身が生きる意味が分からずに、どうやって学生たちに教えを垂れることができるのだろう。
 人に教えを垂れるどころか、彼は誰かから教えを貰いたい。今から来る遠田が彼に教えをくれるとも思えない。遠田も学者ではあるが、人に教えを垂れるということからはかけ離れた存在だった。
 そういう意味では、須田源太郎先生は、人に教えを垂れるのにふさわしい人物だった。毛沢は、須田先生からもっとたくさんのことを教わっておけばよかったと後悔した。先生なら、もっと大事な人生の意味を教えてくれたかも知れない。それが分からないうちは、美穂と結婚できたところで、二人が幸せになれるとは到底思えない。
 しかし彼にはどうしても美穂が必要だった。明日にでも美穂に電話をしてみようと決意しかけたところで、遠田が居酒屋の玄関に現われた。毛沢は手をあげて彼を招いた。
「やあやあ」と言いながら遠田は毛沢の右隣りに座った。ニコニコ笑って、女店員に生ビールを頼んでいる。その様子を見ていると、やはり悩みごとなんかあるようには見えない。
「一人でジョッキのビールを飲んでいたのか。一人でジョッキのビールじゃ盛り上がらないだろう。一人の時は酒だよ。手酌酒」と遠田は飲む前から陽気だ。
「何飲んでもいいだろう」と毛沢は少し気分が悪い。
「何、怒ってんだよ。大事な友達がわざわざ会いに来たんだから、もっとニコニコしろよ」と遠田はニコニコしている。
 ジョッキのビールが来て、毛沢と遠田は乾杯をして、二人同時にグイと飲む。
「ぼくは怒ってないよ。きみの方こそ何か悩みごとがあるんだろう? だからぼくの反応が気になるんだろう?」と毛沢は訊いてみた。
「悩みごとねえ。ある、ある」と言って、遠田はまた飲む。やはり悩みごとなんかあるようには見えない。
「しかしなあ、ちょっと言いにくい悩みごとなんだ」と付け加える。
 遠田のようないつも無遠慮な人間に、言いにくい悩みごとがあるとは意外だ。毛沢は思わず声を立てて笑ってしまった。
「笑いごとじゃないよ。お前、俺の悩みごとを聞いたら、笑ってる場合じゃなくなるよ。いいのか、言っても?」と謎めいてくる。
 笑っている場合じゃなくなる悩みごとって何だろうと考えていると、いきなり遠田の口から美穂の名前が出てきた。毛沢は本当に笑っている場合じゃなくなった。
 思わず「美穂さん?」と大声を出してしまった。近くにいる客たちがいっせいに毛沢を見た。人に見られたくらいどうでもいい。ここで美穂の名前が出てくるというのは、彼にとっては明らかに吉兆ではない。
「そんなに大きな声を出すなよ」と言って、遠田は少し俯きがちになる。彼にはあまり似合わない仕草だ。
「美穂さんがどうしたんだ?」毛沢は少し咳込んで訊いた。
「どうもしないよ、美穂さんは。どうかしたのは俺の方さ」
「きみがどうしたんだ?」
「俺が悩んでいるのさ」
「だから何を?」
「美穂さんのことでだよ」
「美穂さんのことで、何を悩んでいるんだよ」
「お前も鈍いねえ。俺に何もかも言わせるのかよ。いくら豪胆な俺でも、何もかも言うのは恥ずかしいよ。いや、言ってしまおう。俺は美穂さんのことが好きだ。結婚しようと思っている」
 毛沢は遠田の顔をじっと見て、口を開けている。
「ほら、笑っている場合じゃなくなっただろう?」と遠田が言う。
 本当に笑っている場合ではなくなった。
「知ってるよ、俺だって知っている」と遠田が言う。
「お前も美穂さんのことを狙っていることくらい知っている。そこで訊きたいんだが、お前と美穂さんの間というのは、進行しているのか?」
「進行って?」
「ことによると、もうお付き合いを始めているとか」
「そういうことはない」
「それはよかった」と言って、遠田は胸に手を当てた。本当にホッと胸を撫でおろしたようだ。
「何がよかったんだ?」
「きみが美穂さんに何も働きかけをしていないということは、俺にもチャンスがあるということだからだ」
 毛沢の気持ちはとても複雑だった。あの須田先生の葬儀の日、彼は美穂にキスをした。あれは働きかけ以上のものではないだろうか。しかし今遠田の顔を間近に見て、その事実を打ち明ける気にはなれない。
「そうだろう? お前はさほど美穂さんのことが好きではない。そう解釈してもいいんだな?」
 そう解釈されては困る。困るが、あまりはっきりと困るとも言えない。
「そんな解釈があるのか?」と取り敢えず訊いてみた。
「あるじゃないか。利尻と離婚した美穂さんを次に手に入れるのは、お前が順当だろう。何しろ俺たち三人のうち、利尻がナンバーワンでお前はナンバーツーだったからな。一番底辺の俺の出番はなかったわけだ。しかしお前たちの仲は一向に進行している様子はない。そこで俺は悩み始めたんだ。お前が美穂さんを手に入れないのなら、俺が手に入れるべきじゃないかと。その考えに何か間違いはあるか?」
 確かな間違いはある。しかしそれについてはやはり言えない。
「返事がないということは、俺が美穂さんを手に入れることに対して、お前には異論がないということだな?」と遠田は攻め込んでくる。
 この遠田という男は、あくまでもポジティブ思考の男だ。毛沢から見れば羨ましい限りだ。この男のようなポジティブさがあれば、彼は既に美穂と結婚をしていたことだろう。
「おい、どうして返事をしないんだ? 俺たち友達だろう。もっとフランクにしゃべろうじゃないか。いいならいい。嫌なら嫌と、はっきり言えばいい」
「はっきり言っていいのか?」と毛沢は遠田の顔を横からじっと覗き込んだ。
「いいに決まってるじゃないか」
「だったら言うよ。ぼくはきみが美穂さんを手に入れることに対しては、あまりいい気分を持っていない」
「いい気分じゃない? するとお前はお前流で、あくまでも美穂さんを狙っているのか?」
「そうだ」
「どんなやり方で狙っているんだ? そのやり方って、失敗をしているんじゃないのか?」と遠田は痛いところを突いてくる。
 確かに須田先生の葬儀の日にいきなりキスをするというのは、失敗だったと言える。普通に言葉で申し込めばよかったのだ。
 あの突然の失礼なキスがあったから、毛沢は須田家に連絡を取れないでいる。四十九日が過ぎたら挨拶に来ればいいと美穂は言ったが、どうも恥ずかしくて行けない。
 だからと言って、遠田が美穂を手に入れるために行動するのを、指をくわえて見過ごしているわけにはいかない。
「その煮え切らない顔を見ると、どうもうまくいっていないようだな。お前、酒癖が悪いから、美穂さんに何か失礼なことでも言ったのか?」
 言ったどころではない。彼は行為に表わしてしまったのだ。これはもう取り返しがつかない。
「どうもそのようだな」と言って、遠田は嬉しそうにニヤリと笑っている。そして毛沢の分も合わせて二人分のビールを、女店員に注文した。
「まあいい。そんなに落ち込むなよ。女は美穂さんだけじゃないんだから。俺が美穂さんとご成婚になったら、お前にもいい女を紹介してやるよ」と勝手に話を進行させていく。
「きみはもう美穂さんに何かを言ったのか?」
「何も言ってないさ。何しろ大事なことだからな、物事は慎重に進めないといけない。それでお前に相談に来たというわけさ」
 遠田は普段は呑気で破れかぶれの癖に、こういうことに関してはちゃんとしている。逆に毛沢は慎重さに欠けていた。
「でも、ぼくにどんな相談をするというんだ? ぼくだって美穂さんのことが好きなんだよ」
 ビールのジョッキが二つ来た。二人は今度は乾杯もせずに、めいめい勝手に飲んでいる。
「好きだったら、今からでも電話をして、結婚して下さいと言ったらどうなんだ。酒を飲んで落ち込んでいる場合じゃないだろう。美穂さんのスマホの番号くらい知っているんだろう? どうなんだよ、早くかけろよ」
「スマホの番号なんか知らないよ」
「知らないのか? そうか。だとしたら、お前と俺とは同じくらいの立場にあるわけだ。俺だって、決してお前にひけをとらない。それどころか、お前は何か失礼なことをして、美穂さんにこれ以上働きかけができない状態にいるようだ。どうなんだ、何か悪いことをしたのか?」と問われても、もちろん何も言えない。
「何もしていないよ」と答えるより他はない。
「何もしていないのなら、もう既にお前と美穂さんの結婚の話が巷で流れているところだろうが、一向に俺の耳には入らない。どうしたんだ、どうしてお前は積極的に進まないんだ?」
「これでも進めていたつもりなんだが……」
「なんだが……うまくいかないというわけだな。だったら俺が行くぜ。どうだ、俺の決意の邪魔ができるか?」
「邪魔はしないさ。きみがやりたいようにやればいい。ぼくはぼくのやりたいようにする」
「あくまでもお前は俺のライバルであり続けるというわけだな。俺のために協力するということはないんだな」
「他のことなら何でも協力するが、美穂さんのことに関しては協力できない」
「薄情な奴だな。協力しろよ。どうして協力してくれないんだ」遠田が盛んに毛沢に覆いかぶさるようにして言っていると、不意に近くから、
「そうだ、そうだ、協力してやれよ」と声が聞こえた。どこかで聞いた声だ。毛沢と遠田は振り向いて背後を見る。二人の頭の後ろに、利尻その人が立っている。
「おお、利尻。何故こんな所にいるんだ?」遠田がびっくりしたような顔をして、利尻を見て、毛沢を見る。利尻がここにいることを毛沢が知っていたのかと、訝っているのだ。
「偶然だよ、偶然。ちょっとブラブラ歩いていたら、ああ、ここに前毛沢と来たことがあったなあと、懐かしく思って入ってみたんだ。すると毛沢がいたじゃないか。それで毛沢に話しかけようとしたら、その後に遠田まで来るじゃないか。それでぼくはさりげなくあんたたちの話を聞いていたというわけだよ。なかなか面白かった」
「面白かった? 面白いどころの話じゃない。こちとらは真剣なんだ」遠田は利尻に対して不満を表明する。毛沢にだって、真剣な話だ。
「そりゃ、そうさ。未来の奥さんを手に入れられるかどうかの瀬戸際なんだから、なおざりにはできない。それで今のところ、美穂さんを手に入れるのに一番近いのはどちらなんだ?」
「俺の方が近いに決まってるじゃないか。見ろよ、毛沢のこのしけた顔。もうこの戦いから脱落していると思わないか?」
「毛沢がどうして脱落したんだ? ぼくの見た限りでは、美穂さんの次の旦那さんは毛沢しかいないと思ってたがなあ」利尻が顎に手を当てて、考え込むような、笑みを浮かべるような顔をしている。
「俺もそう思ってたんだ。それで諦めて今まで美穂さんには接触しないようにしていたんだが、毛沢と美穂さんがいつまでも結婚する様子がないから、こうしてタクシーを飛ばしてここまで訊きに来たんだ。どうなんだ、美穂さんは俺が取ってもいいんだろう?」遠田が息せき切って訊ねる。
「ことによると毛沢には別の女がもういるのかも知れないな」と利尻が言うので、すかさず毛沢が、
「きみと一緒にしてくれるなよ。ぼくには美穂さん以外に好きな人はいないよ」と険しい顔をして利尻を見る。
 利尻はそこで笑い声をあげる。そして遠田の隣が開いていたので、そこに座を占める。女店員が利尻のテーブルにあったもの一式を、こちらのカウンターに運んで来る。
「何度も言うようだが、だったらぼくが美穂さんと結婚すると言った時に、抵抗してくれたらよかったんだ。きみはぼくに他の女性がいたことを知っていたじゃないか」
 それを言われると耳が痛い。自分で自分に向かって何度も問うてみた問いかけだったのだ。
「俺も知っていたが、毛沢が何とも言わないのに、俺が横合いから口をはさむわけにもいかないものなあ」遠田は不意に機嫌がよくなって、ビールを飲んでつまみを頬張っている。
「そうさ。毛沢が何とか言ったら、ぼくはやっぱりやめると彼女に言えたんだ。そうすれば、彼女をあんなに不幸な目にあわせる必要もなかった」
「まるできみの浮気性なのは、みんなぼくのせいみたいだな」毛沢の気分は逆によくない。
「浮気じゃないって。別の女性のことは、真面目に考えていたんだ。だからきみが美穂さんを取れば、何もかもうまくいっていたわけだ。そうだろう?」
「そうだな」毛沢はあっさり白旗をあげる。
「そして今、美穂さんは須田先生を亡くされて、とても寂しい思いをされている。こんな時にきみが求婚したら、美穂さんは喜ぶと思うがなあ」利尻も二人と同じようにジョッキのビールを飲んでいる。
「俺の方はあまり喜ばないがなあ」と遠田は急に元気のない声を出した。
「悪いが、遠田では美穂さんは喜ばない。美穂さんが本当に好きなのは、毛沢だよ。だから今の場合も、きみが横合いから手を出さないといけないと、気遣いする必要はないんだ」
「いやあ、まいったね。俺では駄目なのか。だったら俺は降りるよ。毛沢、どうか美穂さんを終生幸せにしてくれ」遠田は早手回しに毛沢に挨拶をしている。
「ほら、遠田も手を引いた。だとしたら、ここは毛沢が行くしかない。覚悟は決まったか?」
 そう言われても、毛沢は素直に「よし!」とはいかない。あの不躾なキスの記憶が頭の中で邪魔をする。
「どうして、うんと言わないんだ? さてはもうきみと美穂さんとの間には何かあったんだな?」利尻は勘のいいところを示す。
「あったのか?」遠田は身を乗り出してきた。
「ないよ」と毛沢は突っ撥ねるように言う。
「ないのなら、今からでも電話をしたらどうだ? まだ電話をしてもいい時間だ。どうだ?」と利尻はしきりに勧める。
「ぼくは美穂さんのスマホの番号は知らないんだ」
「そんなもの知らなくったって、お宅の番号は知っているだろう。そこに電話をすればいいんだよ。美穂さんはきっときみの電話を待ってるよ」
「待っている? 本当に待っているのかな?」と毛沢はあくまでも懐疑的だ。
「待っているに決まってるじゃないか。ここでお前が電話をしないと、お前、罪だよ。大恩ある須田先生の娘さんの美穂さんに対して罪を冒すなんて、そんなひどいことをしていいと思っているのか」と利尻は偉そうなことを言う。美穂と結婚して五年もの間彼女を苦しめた人間の口から出た言葉とは思えない。
 毛沢は思った。ぼくもこの男のように厚かましくなることができれば、いっそのこともっとゆったりと美穂に迫れるのに。いきなりキスをした蛮行を責められたとしても、「まあ、それはそれとして」と言ってのけられたら、どんなにいいだろう。
 人間、生きていて、いちいち反省なんかしていたら、いくら神経があっても、すぐに擦り切れてしまう。神経が擦り切れたら、まともな行動一つできなくなる。
「そうだな。先生のお宅の電話にかけるという手があった。今からかけろよ」と遠田まで毛沢を急き立てる。
 毛沢はどうしても電話をかけざるを得ない仕儀になった。
 そこでズボンのポケットからスマホを取り出して、黒い画面をじっと見つめていた。遠田がそんな毛沢を覗き込んで何か言おうとしていたが、利尻が彼の袖を引っ張って、毛沢から離れさせた。毛沢はよしとばかりに表示ボタンを押して、ついに亡き須田先生の自宅に電話をかけた。
 するとちょうどいい具合に美穂が出た。毛沢は名前を名乗って、「お久しぶりです」と言った。相手も「お久しぶりです」と返した。
「お元気ですか」と問いかけると「元気です」と返ってきた。
 それからしばらく沈黙の時間があった。近くで女店員の注文の品を叫ぶ声が響いた。それで毛沢は不意にうろたえてしまった。ここは居酒屋だ。こんな所で酒を飲みながら美穂に電話をするなんて、これだって十分不躾じゃないかと考えてしまったのだ。
「何かご用かしら?」と相手が訊ねた。その訊ね方も毛沢には冷淡に聞こえた。
 毛沢は仕方なくこう答えた。
「ご用といっても別にないんだけれど……」と間抜けな返事をしてしまった。
 すると美穂が、
「随分賑やかな所にいるのですね。そこはどこですか?」と訊ねてきたので、
「いえ、ちょっと食事をしているのです」と答えた。
「レストランかどこかにいらっしゃるのかしら?」
「居酒屋です」
「居酒屋って、あの、お酒を飲む所? あなた、今、酔っ払ってらっしゃるの?」
「いえ、酔っ払うというところまではいってません。まだ少し飲んだだけですから」
「でも少しは飲んでいるのね。あんなことをしてわたしをびっくりさせたあなたが、またお酒を飲んで、今度は電話をしてくるなんていやだわ。今度は何を企んでらっしゃるの?」
「ぼくは何も企んでやしない。ただあなたとお話をしたくて、こうして電話をしてるだけで……」
「しかも酔っ払って」
「だから、別に酔っ払ってやしないよ。全くの素面だよ」
「少しは飲んでらっしゃるのでしょう?」
「そりゃ、居酒屋だから、少しは飲むが、常識程度の量だ」
「そしてあの時は常識を超えた量だった。今だって、分からない。電話の声を聞いただけでは、あなたが常識の量しか飲んでいないかどうかなんて分からない。それで、何のご用なの?」と美穂は訊ねる。
「ぼくは……きみと結婚を前提としたお付き合いをしたいんだ」
 不意に何のためらいもなく、その言葉が出た。出た時に、毛沢は「あっ、しまった」と思った。こんなにつるりと簡単に出てはいけない言葉だった。ましてや今は、酔っ払っていると疑われている時だ。須田先生の葬儀の時の不躾なキスと同じくらい不躾な行為ではないだろうか。
「結婚を前提としたお付き合い? そうね、わたしはあなたに好意を持っているから、もしちゃんとした状況の時に申し込まれたら、きっとイエスと言っただろうけど、あなた、今日も酔っ払っているみたいだし」
「決して酔っ払ってはいない」
「酔っ払ってなくても、そこは居酒屋でしょう? こんなデリケートな話を、居酒屋でビール片手にする人がいると思う?」
 確かに彼の目の前にはビールがある。ビール片手にと言われても仕方がない。
「これはすまなかった。ぼくは先生の葬式の時にあんな失礼な真似をして、それできみに電話をするのが怖くって、それで……」
「酔っ払って電話をしたのね」
「だから酔っ払ってはいない」
「でもそこは居酒屋なんでしょう? それは確かなんでしょう?」
「悪かった。居酒屋から電話をしたぼくが悪かった。駄目だなあ、ぼくは。何をやっても駄目だなあ」今度はしきりに反省している。
「そしてご用はそれだけなの?」
「それだけって、これは重要なことだよ」
「そうよ。重要なこと。そんな重要なことなら、わたしの家にまで来て、わたしの顔を見てゆっくり言えばいいのに。居酒屋でお酒を飲みながら電話で適当に言うのね」
 毛沢は返す言葉がなかった。遠田と利尻を見ると、二人も毛沢を見た。そして毛沢の切羽詰まったような顔を見て、二人とも顔を曇らせた。
 利尻が美穂に電話をしろと言って、遠田がその意見を強く推したのだから、二人にも重大な責任があると、毛沢は思った。けれどもそんなことを美穂に言うわけにもいかないし、ましてや利尻あたりに電話を代わってもらって、事情を説明してもらうわけにもいかない。
 やがて毛沢は、
「ぼくはもう駄目だね」と呟くように言った。
「何が駄目なの?」と美穂が訊ねる。
「きみの結婚相手からは脱落だね」と呟いた。
 美穂は何も返事をしない。
 毛沢は、
「おい、何とか言ってくれよ」と頼むように言った。
「わたしが何を言うの?」美穂が逆に訊ねた。
「ぼくがきみの結婚相手から脱落したかどうかと訊いているんだ」
「そんなこと、どうしてわたしが判断しなければいけないの? わたしはあなたが脱落したとかどうとか言えるような立派な女じゃないわ」
「それじゃあ、どうすればいいんだ?」
「分からない。ただ、あなたがお酒に酔ってしていることは、信用できないということなの」
「そうだな。居酒屋から電話をして、結婚を前提としたお付き合いの申し込みなんかするのは、常識から外れているね。ぼくは自分にすっかり嫌気がさしたよ。それじゃあ、諦めるよ、さようなら、もし次に会える時が来たら会いましょう」
「どうして……」と美穂は突然慌てたような声を出して呟いた。しかしそれ以上の言葉は継がなかった。
「ぼくはもう駄目なんです」毛沢はすっかり自分の世界に入っていて、美穂の慌てた反応に気づかなかった。
「何か大事なことをする時にはいつも、酒を飲んでしてしまう。それでは誰にも信用されない。あなたがぼくを信用しなかったとしても仕方がない。それでは電話を切ります。さようなら」と言ったが、美穂の返事はなかった。
 毛沢は美穂が怒り心頭に達しているものとばかり考えていた。それでもう一度「さようなら」と呟いて電話を切った。
 スマホをズボンのポケットにしまいながら、毛沢は左横を見た。遠田にはあまり用はなかった。彼が見たかったのは利尻の顔だった。
 しかしまず毛沢に声をかけたのは遠田だった。
「おい、どうしたんだ? 浮かない顔をしているじゃないか。うまくいかなかったのか?」
「うまくいかなかった方が、きみには都合がいいんだろ?」毛沢は遠田にあからさまに嫌味を言った。
「そんな言い方をするなよ。俺たち、友達だろう」
「友達だと言っても、美穂さんは一人しかいない。ぼくが美穂さんと一緒にならなかったら、きみが一緒になるチャンスが訪れるということだ。とても喜ばしいことじゃないか」
「おお、そうだ、喜ばしいよ」遠田は不意に態勢を立て直す。
「俺だって、美穂さんが好きだからな。お前が脱落したら、俺にチャンスが回ってくるんだ」
「なるほど、そういうことか」利尻が遠田の向こう側で一つ手を打った。
「きみたちは仲良く飲んでいるのじゃなくて、ライバルどうしだったんだな。ぼくはてっきり遠田も毛沢を励ましているのだとばかり思っていた」
「俺はそんな人のいい男じゃないよ。毛沢が美穂さんとうまくいかないことを喜ぶような悪い男だ」遠田は不機嫌な顔を二人に見せる。
「悪くはないさ。誰にだって恋する権利くらいある。そして毛沢がうまくいかなかったら、遠田にチャンスが回ってくるというのも事実だ。しかし毛沢、一体何があったんだ? きみと美穂さんは、ぼくが美穂さんと結婚する前から仲が良く見えたんだがなあ」と利尻は毛沢に訊ねる。
 毛沢は利尻の方をちらりと見ただけで、何も答えなかった。
「仲が良いという点では、俺だって美穂さんと仲が悪いというわけじゃないぜ」遠田は強調するように言う。
「そりゃ、きみだって、須田先生のお気に入りの一人だったんだから、美穂さんも悪くは思ってはいなかったさ。しかし恋愛や結婚となると、毛沢の方がはるかにリードしていたじゃないか」
「美穂さんに謝ってもすまないような悪いことを、何かしたんだよ、毛沢は」と遠田が言うと、利尻は途端に驚いた声になって、
「何かしたのか。それは知らなかった。何かをして、気まずくなっていたんだな。そんな状況だったのに、無理に電話をかけさせて悪かった。おい、遠田、きみはそういう事情を知っているのに、どうして毛沢に電話を強要したんだよ」と遠田に厳しい顔を向ける。
「強要したのはお前じゃないか。俺はただお前の口車に乗っただけだよ。お前だって、ちゃんと毛沢の気持ちを聞いてから、電話を勧めればよかったんだよ。お前も軽率だったんじゃないか」逆に遠田が利尻に非難の矢を浴びせかける。
「そうだな。ぼくは軽率だった。おい、毛沢、そんなに暗い顔をするなよ」利尻は立ち上がって、毛沢の背後に回って、彼の肩を軽く叩く。
「一体何があったんだよって訊いても、言ってはくれないんだな。それに、破局してしまった今、ぼくに相談しても仕方がないな。見ろよ、遠田、ニコニコ笑ってる。遠田、そんなにあからさまに喜ぶなよな」と責めている利尻も、もはや笑っている。
「まあ、仕方がないよな。ところでぼくは今日で大きな仕事が一段落ついたから、しばらく休暇を取ることにしたんだ。旅行にでも行こうと思っているんだが、二人も行かないか?」利尻は突然旅行の誘いをしかける。
「旅行? 俺は旅行なんかしている場合じゃないよ。明日から美穂さんに猛アタックをかけないといけないからね」遠田が軽く断る。
「猛アタックなんて、過激なことをしたら、美穂さんが逃げてしまうよ」利尻が注意をするが、遠田は機嫌のいい顔を利尻に向けて、
「美穂さんと結婚することは、俺の一世一代の大仕事なんだ。猛アタックするよ」とあくまでも猛アタックにこだわる。
「毛沢はどうなんだ、ぼくと一緒に旅行をする気はあるか?」と今度は毛沢に訊ねる。毛沢は利尻を背後に置いたまま、
「そうだね、行こうか」と返事をした。
「おっ、行くのかね。それはいいね。でも、明日からだよ、仕事の都合はつけなくてもいいのか?」
「学校に電話の一本でもかければ承知してくれるよ。ぼくは今、難しい研究をしているわけでもないから、比較的自由だ」
「それはいい。一週間くらいの予定だが、それでも休めるか?」
「一週間でも五週間でも休んで構わない。ぼくなんか、大学じゃ、もう必要ないだろう」
「おい、そんなにヤケになると困るね。美穂さんとのことがよっぽど応えたんだな。ぼくが無理に電話をかけさせて、より一層事態が悪くなったということか」と利尻が反省すると、遠田が、
「そうだよ。利尻が悪いよ。旅先で毛沢を励ましてやれよ」と殊勝なことを言いながらも、顔はニヤニヤ笑っている。
「きみは本当に正直だなあ。友達ががっかりしているというのに、笑ってるんだから。でもそれが遠田のいいところだ。裏表がない。美穂さんとのことは頑張れよ」利尻はついに遠田を励ました。
「頑張るよ。仕事なんかよりはるかに大事なことだからな」と言って、思い切り頭を頷かせた。
「そうだ。どんな人を奥さんに貰うかというのは、仕事よりも大事なことだな、きっと。ぼくだって、須田先生の娘さんだからということで、美穂さんと一緒になったが、本当に好きな人が別にいたから、生活も仕事も何もかもうまくいかなくなった。全てぼくが悪いんだけどな」と利尻が言うと、遠田は、
「そうだ。お前が全て悪い。俺だって美穂さんのことが好きだったんだから、その時にお前が身を引いてくれたら、俺は既に美穂さんの旦那さんになっていたんだ」と言う。
「遠田は何事も強気でいいなあ。毛沢、そうは思わないか?」と利尻が毛沢に訊ねる。
 毛沢は、
「うん、そうだな」と生返事のようなものを返して、日本酒を冷やでグイグイ飲んでいる。
「おい、きみ。毛沢君。飲むピッチが速すぎるよ。そんなことをしていたら、酔い潰れるよ」と利尻が注意をする。
「酔い潰れたっていいよ。このまま飲み続けて死んでしまってもいいくらいだ。何もかもどうでもいいんだ」と毛沢は悲観的な意見を述べた。
「死んでしまうまで飲まれるのは困るよ。それに明日から二人で旅行に行くんだから、明日の朝は元気でいてくれないと困る。そろそろここは引き揚げないか」と利尻が提案する。
「俺は引き揚げてもいいが、毛沢の尻は重そうだな」相変わらず面白そうに笑いながら、遠田は毛沢について言及した。
 遠田のその言葉を聞いて、毛沢は不意に飲んでいた冷や酒をテーブルにドシンと音をたてて置いて、
「このまま飲み潰れて死のうと思っていたけれど、明日から利尻と旅行するのなら、ぼくもこの辺で飲むのをやめておこう。明日の朝に寝過ごして、利尻に迷惑をかけてもいけないから」やっと生き返ったようなことを言った。
「そうだよ。ぼくたちは明日から楽しい旅行だ。女のことで悲観している場合じゃない。すぐそばには、女のことで狂喜乱舞している奴がいるけどね」利尻が遠田を見て笑う。
「狂喜乱舞して、何が悪い。実際嬉しくて仕方がないんだからな。利尻だって、今の奥さんと結婚できた時は嬉しかっただろう」遠田は振り返って利尻を見る。
「嬉しかったよ。そして今はとても平穏な日々だ。だからこそ美穂さんにはより一層幸せになって欲しいんだ。遠田は美穂さんを幸せにする自信があるか?」と訊ねる。
「あるに決まっているじゃないか。俺は心から美穂さんを愛している。他の女に心を移しながら結婚した誰かさんとは、全く違うんだ」
「ハハハ、全くきついことを言うね。おい、毛沢、残っているからといって、そんなに一気に飲んじゃ、いけないよ」と利尻は毛沢に注意をする。
 毛沢は「旅行だ、旅行だ」と言いながら立ち上がろうとする。すると足がふらついて、またドシンと席に尻を落としてしまう。
「すっかり酔っ払っちまったな。毛沢がこの程度の酒で駄目になってしまうのを見るのは、初めてだ」遠田の言い方は若干テンションが落ちている。さすがにいつまでも喜んでばかりもいられないことを悟ったのだろう。
「おい、毛沢、帰れるか? 何ならタクシーでも呼ぼうか」と利尻が心配する。
「うん、タクシー、いいね。このままみんなで女のいる所に行こうか」と毛沢が提案する。
「女って、俺には美穂さんという大事な女性がいるから、そんな所に行くのはご免だぜ」遠田は軽く断る。
「きみはそんな所に馴染みでもあるのか?」利尻が毛沢に訊ねる。
「実はないんだけど、それらしい街に出たら、そういう店くらい見つかるだろう」
「そんな所で見つかる店は、みんな危ないよ。実はぼくは一つそういう店を知っている。今の奥さんの友達が働いているんだ」と利尻が驚くようなことを述べる。
「お前の奥さんというのは、そういう店で働いている人とつながりがあるのか。美穂さんとは大違いだな」と遠田が言うと、利尻は背後から軽く遠田の頭を叩いて、
「失礼なことを言うな。それほど下品な店じゃない。むしろこんな居酒屋に比べたら高級だよ。ぼくたちの安月給では、月に一回行くのも大変な所だ」と注意した。
「そんな高級な所に行くのか? 利尻が奢ってくれるのか?」
「ぼくがわざわざ奢らなくても、顔パスで入れるんだよ、ぼくは。何しろぼくの奥さんの友達は、そこのナンバーワンだからね。色々と融通がきくわけさ」
「いいね。そんな所なら俺も行くよ」
「きみには大事な美穂さんがいるだろう。そんな所に出入りをしたと分かったら、怒られるよ」と利尻が笑みを浮かべながら言う。
「美穂さんとはまだ怒られるところまで行っていないんだ。そんなことくらい、お前には分かっているだろう。意地の悪いことを言いやがって」
「いやいや、これから美穂さんに猛アタックしようという時に、そんな所に出入りするのは、縁起という点でも悪いんじゃないか。それに美穂さんというのは勘がいいからね。そうしたきみの不品行を、きみの顔を見ただけで当ててしまう力を持っている」
「そんな力を持っているのか」遠田は突如不安そうな顔になって、利尻に縋りつくような視線を向ける。
「きみはただ美穂さんに憧れて一緒になろうというのだろう。ところが現実の生活というのは、憧れなんか入ってくる隙間はないんだ。何もかも現実なんだ。現実の美穂さんは怒りもする。そしてきつい言葉を吐きもする。それに対してきみは応対をしていかなければならない。頭を下げなければならないこともある。美穂さんと結婚したら、夢のような生活が始まるというわけではないんだ」
「夢のような生活だとは思ってはいなかったが……」遠田は呟くように言って、こう訊ねる。
「美穂さんというのは、そんなにきつい性格の人なのか?」
「きついと言えばきつい。なあ、毛沢、そうだろう? きみは知っているだろう?」利尻は毛沢に訊いてくる。
 毛沢は突然ニタニタ笑い出して、遠田の方を向いて、
「きついよ、美穂さんは。おとなしい大和撫子だと安心していたら、えらい目にあうよ。遠田君は表向きは威勢のいい人だが、いざ人に責められるとたじたじとなるところがあるからな。そんな根性のないことじゃ、美穂さんの攻撃に立ち向かえないよ」と注意のような揶揄のような言い方をする。
「俺は美穂さんを愛しているんだ。そんな人にどうして立ち向かったりするんだよ」
「ハハハ、何も掴み合いの喧嘩をしろと言っているわけじゃない」と言って、毛沢はさらに笑う。
「おいおい、そんなに笑うなよな。お前も酒癖が悪くなってきたな。そんなんだから、美穂さんに嫌われるんだ」と遠田が言うと、毛沢が不意に顔色を変えて、遠田の右腕を思い切り掴み、
「何で美穂さんに嫌われるんだ? きみは何か知っているのか?」と訊ねる。
「痛い、痛いじゃないか。放してくれよ。俺は何にも知らないよ。知らないけれど、お前、酒を飲んで何かやらかしたのか?」と言って、立ち上がって、毛沢の手を振り放した。
 毛沢も立ち上がっていた。そして何も言わない。利尻は前から立ったままだ。三人ともみんな目を合わさないようにしている。とても気まずい空気になった。
 利尻と遠田の頭の中には、「ああ、酒か」という思いがある。美穂さんの結婚相手最有力候補だった毛沢が、彼女に嫌われるというのが、酒のせいだとなったら、納得がいく。毛沢の酒癖の悪さは昔から有名だったからだ。
「おい、みんな何をしているんだ。早く行こうよ」と言ったのは毛沢だった。三人が立っているから、店内から「ありがとうございました」と声がかかって、店員が一人近くに立っている。
 毛沢は上着のポケットから財布を出して、利尻に預け、
「ここから払ってくれ。今日はぼくがみんな奢るよ」と言った。
「おい、いいのかい」さすがの遠田も心配そうだ。
「ぼくたちはまだ人に奢るほどの金持ちじゃないよ」と利尻も付け加える。
「金なんかどうでもいいんだ。ぼくはもう、何もかもどうでもいいんだ」毛沢は投げやりなことを言う。
 店員が待っているので、利尻が自分の財布を出して、そこから支払いをしている。そして、
「ちゃんと後で請求書を回すからな」と二人に言って笑う。毛沢の財布はもちろん返却している。
 外に出て、春のうすら寒い風に当たっていると、遠田が、
「やっぱり俺は行くのをやめるよ」とためらったように言う。
「どこに行くんだっけ」と利尻がとぼける。
「お前の奥さんの友達が勤めている店のことだよ」と遠田がもどかしそうに言う。
「ああ、それね。やめといた方がいいよ。きみは美穂さんが大事なんだろう?」利尻が笑みを浮かべながら訊ねる。
「うん、大事だ」と遠田は真面目な顔をしている。
 突然毛沢が、
「大事なもんか!」と叫んだ。
 他の二人はポカンと口を開けて毛沢を見た。
 毛沢はそんな二人を放っておいて、その場をふらふらと歩き出した。酔っ払って口走った妄語だと分かって、二人は顔を見合わせただけで、毛沢には何も言わなかった。
 遠田は小さな声で利尻に、
「毛沢には悪いが、俺には俺の幸せがある。俺は自分の幸せを追求する。しかし何といっても毛沢は大事な友達だ。利尻、これからの毛沢のことを頼むよ。俺はきっと毛沢に恨まれる相手になるだけだろうから」と囁いた。
 遠田は相変わらずふらふら歩いている毛沢には挨拶をせず、その場を去った。利尻は手をあげてタクシーを捕まえると、そこに毛沢を押し込んで、自分も中に入った。
 利尻がドアを開けて、入った店は、あまり高級そうな店ではなかった。毛沢も思わずハッと気がついて、
「ただのスナックじゃないか」と叫んだほどだった。
「ただのスナックで悪かったわね」と入り口付近で二人の入店を待っていた、ママさんらしき恰幅のいい着物姿の女性が、毛沢を一喝した。
 毛沢は、そのママさんの言葉に驚いて、思わず直立不動になった。
「何、畏まってるのよ。ここはただのスナックよ。そんなに緊張しなくてもいいわよ」ママさんは手で軽くおいでおいでをするようにして、自分はカウンターの向こうに回る。そしてまず利尻にお手拭きを渡し、
「みやちゃんは元気?」と訊ねる。
「元気だよ」と答える利尻は、居酒屋にいる時よりものんびりしている。
 利尻は毛沢をカウンターの奥に座らせて、自分はその手前の席に座る。そして隣に少し太り気味だが妙に愛嬌のある女が座った。
 利尻と少し言葉を交わして、覗き込むようにして毛沢に頭を下げてきた。そして「これからもよろしく」と挨拶をする。毛沢も同じような挨拶をすると、
「まあ、この人真面目なのね。スナックのホステス風情にそんな挨拶をするなんて」と大きな声で笑う。
 突然店内に音楽が鳴り始めた。カラオケの前奏だ。愛嬌のある女は「あなたも何か歌ってね」と言って、また利尻と何かしゃべっている。
 利尻はビールを頼んだので、毛沢も同じように、ビールと言った。ママさんが冷蔵庫から二本のビールを取り出して、栓を開けて、二人に注いでくれる。
 愛嬌のある女はこんなことを言っている。
「あら、今日はお連れの方と深い話があるの。それならわたしは必要ないわね。それに利尻さんとあんまり親しくしたら、みやちゃんに怒られるからね」
 そう言って愛嬌のある女は席を離れて、二人から見れば背後にあるボックス席の方に向かう。ママさんも別の人の前に立って、しきりに何かしゃべっている。
「こんなうるさい所で何だけど、逆にこんな所の方がしゃべりやすいだろう。改まった感じもないだろうしな。遠田も本当はきみのこと、心配していたんだよ。俺は憎まれてもいいから、毛沢の面倒を見てやってくれと言われた。何とかきみの力になれないかな。美穂さんとの関係回復が無理だとしても、きみの心を癒す方法くらいはないだろうか。きみはやけになっているようだから、ぼくは心配なんだ」利尻は友人を思いやる言葉を述べた。
 その言葉を聞いているうちに、毛沢の目から涙が少し溢れ出てきた。
「おい、泣いているのか」と言って、利尻は毛沢の前にあったお手拭きを彼に渡した。毛沢はお手拭きで目のあたりを拭い、
「遠田もぼくのことを心配してくれたんだな」と呟いた。
「そうさ。あんなことを言いながらも、遠田はきみのことを大事な友達だと思ってる」
「そしてきみもぼくのことを心配してくれている。ありがたいなあ。須田先生の門下の三羽ガラスと呼ばれたぼくらの絆は、永遠に壊れないね」
「そうだよ。だから何か不都合なことがあったら、ぼくにでも遠田にでもいいから、打ち明けてくれて構わないんだ。ぼくたちは何を聞いても決してきみを馬鹿にすることはないよ。真面目に聞く。だから今も何かあったのなら、言ってくれないかな」
「言ってもいいが、こんなことを言って美穂さんが許してくれるかな。それに美穂さんと一緒になりたいと願っている遠田の気持ちも複雑にしてしまう」
「そんなややこしいことがあったのか。一体どういうことがあったんだ。事実は事実なんだから、もう打ち消しようはないじゃないか。言ってみたらどうなんだ」利尻はあくまでも追及してくる。
 ここまで事態が悪くなったら、隠し立てをしていても仕方がないと、毛沢も諦めた。それで彼は利尻に向かって、葬式の日にあったことを、包み隠さず打ち明けた。
 利尻は全てのことを、真面目な顔をして聞いていた。そして毛沢が「そういうことなんだ」と話を締めくくると、「なるほど」とひとつ相槌を打って、ビールの入ったグラスをじっと見ていた。
「確かにこれはなかなか遠田には言いにくいなあ」とまず利尻が口火を切った。
「そうだろう。言えるわけがない」と毛沢が後に続いた。
「それにしてもこれは微妙な話だな。遠田どころか、他の誰にも言えない。話の次第によっては、美穂さんと話をして、きみとの仲を回復できたらと思っていたんだが、これでは美穂さんにも言えない」
「そうだな。いくら元夫でも、こんなことは口にはできないだろう」
「そうだな。それで美穂さんはきみのことを許さないと言っているんだな」と利尻は訊ねるように言う。
「許さないなんて言われたことはないが、それからお冠の様子だから、きっと許してはくれないだろう」
「様子? 様子なのか? 単なるきみの推測に過ぎないのか? だとしたら、これはもっと複雑な問題になる可能性があるな」
「ええ? ぼくはもっと謝らなくてはならないのか?」毛沢は少し驚いたような顔をする。
「いや、その逆の可能性もあるから、問題なんだ」
「逆の可能性って、何だ?」
「ことによると、美穂さんは、前よりもきみのことが好きになったかも知れないという可能性さ」
「なんだ、その可能性は。そんな可能性があるわけないだろう」
「あるよ。美穂さんは、ことによるときみのことが好きだから、恥ずかしくて怒っているだけなのかも知れないよ」
「そんなことがあるわけないだろう。もし恥ずかしがっているだけなら、もっと親切にしてくれてもよさそうなものじゃないか」
「きみ、女性が恥ずかしがるというのは、どんなに激しいものか知らないのか? 恥ずかしくて恥ずかしくて相手の顔も見られない。けれども、やっぱり見たい。見たいけれど、見られない。それがこちらから見たら、怒っているように見えるわけだ」
「何だ、それは」毛沢は眉をひそめて利尻の顔をじっと見る。
「きみは女性の心理も知らないのに、よくもまあ、そんな大胆なことができたものだ。まあ、きみの場合は酒の力を借りてしたことだけれどもな。そして問題はその酒の力ということなんだ。それが美穂さんに、恥ずかしさと同時に怒りをも覚えさせるものなんだ。きみはこんな風になっても、まだ美穂さんのことが好きなんだろう?」
「好きだ」
「だとしたら、もう少し時間を置いて、もう一度美穂さんに働きかければいいじゃないか。その時には、美穂さんの恥ずかしさも怒りも少しは緩和されているかも知れない」
「そうすると、美穂さんはぼくと一緒になってくれるかも知れないと言うのか?」
「その可能性はある」
「ないよ、そんなの。それにそんなことになったら、遠田に悪いじゃないか」
「この際、遠田のことを考えている場合じゃないよ。美穂さんの気持ちを重点に置いて考えないといけない。美穂さんがそんなに怒るということは、美穂さんは本当はきみのことが好きなのかも知れないということだ」
「そんな獣じみた真似をしたのに?」
「女は時には男の獣じみた行為を喜ぶものだよ」
 毛沢はうーんと一声唸ってから、ビールを飲み干す。ママさんが黙って次のビールを注いでくれる。利尻と毛沢が親密に話に耽っているので、敢えて邪魔をしようとはしない。
「ぼくはどうすればいいのだろう」毛沢は眉をしかめて考え込む様子だった。
「だから明日から旅行に行くんだよ。旅行に行って、少し時間を置くのだよ。そうすれば自然に物事は解決の方に向かっていく」と利尻は楽観的だ。
「しかしもう遠田はすっかり、美穂さんの旦那さんになった気分だよ」
「遠田、遠田って、遠田のことなんか気にするなよ。男と女の間というのは、意外な展開というものが、五万とあるんだ。その気になっている遠田を出し抜いたところで、別に彼に対して申し訳ないと思う必要はない。問題は美穂さんの気持ちだからな。美穂さんの気持ちがどちらにあるかが問題で、きみと遠田の人間関係が問題なんじゃない。決めるのは美穂さんなんだ」
「美穂さんが決める……」
「そうだよ。女は、どの男が奪うかどうかの問題じゃない。女自身の気持ちが大事なんだ。以前のように、『嫁に貰う』という感覚で女と結婚するのは、全くの女性蔑視だよ。独立した男と独立した女が、お互いに同意して行うのが結婚なんだ。そういう意味では、ぼくが前に美穂さんと結婚したのは間違っていた。将来の出世のためには、須田先生の娘さんである美穂さんを『嫁に貰う』のが得だと考えてしまったんだ。だからぼくたちの結婚は失敗した。遠田なんかは、まだ、『嫁に貰う』という感覚が強いからなあ。美穂さんと結婚しても、きっとうまくいかないよ」
「そうなのか」と短く言って、毛沢はまだ考え込んでいる。
 さっきの居酒屋での泥酔からは随分回復した。次第に頭がすっきりしてくる。その頭で考えると、利尻の言うことはもっともだと納得する。当の美穂さんとの結婚に失敗した利尻の言うことだから、より一層説得力がある。
「明日からどこに旅行に行くんだ?」と毛沢は話を変えてみた。
「暖かい所に行こう。沖縄なんかがいいんじゃないか」と利尻は提案する。
 毛沢にしてみれば、別に沖縄だろうが、桜島だろうがどちらでもいい。観光をして楽しもうという気はない。ただ遠くに行きさえすればいい。
「どうだ、沖縄?」と利尻が同意を求めてくるので、毛沢は、「いいね、沖縄」となおざりな調子で答えた。
「他に行きたい所があるか?」と訊くので、「ない」と簡単に答えた。
 そこで利尻も毛沢の考えていることが分かったらしく、
「そうだな。どこに行くかが問題じゃない。とにかくどこかに行くというのが問題なんだ。そしてそこで一週間ほど逗留して、きみは元気を取り戻す。それが大事なんだ。沖縄は暖かいよ。泳ぎももうできるから、海水着を持って行けよ」と利尻が注意する。
「それにしても、美穂さんはてっきり怒っているだけだと思っていたが……」と毛沢はまた元の話題に戻った。
「怒ってたっていいじゃないか。美穂さんは別に鬼じゃないんだから、そんなに怖がる必要はない。旅行から帰って来たら、お土産でも持って、お宅に伺ったらいい。そうすれば案外歓迎してくれるよ」
「それならいいが……」
「そうなるよ、きっと。そしてたとえそうならなくったって、そんなこと、どうでもいいじゃないか。物事は結局なるようになるというわけだ。たとえ美穂さんが遠田の妻になったって、それはそれでいい。それくらいの気楽な気持ちになるまで、ゆっくり沖縄で遊ぼう」
 利尻の話の持っていき方が巧妙だったので、毛沢はすっかりその気になった。彼は既に元気を回復した。
 そういうわけで、問題は解決した。利尻と二人で沖縄旅行に行く。一週間ほど滞在して、またここに戻ってくる。その時にもし美穂に連絡する気になれば、連絡すればいい。しなかったらしないでもいい。たとえ遠田が美穂を手に入れたとしても、それでいい。利尻の言う通り、物事はなるようにしかならないのだから、毛沢が髪の毛を掻きむしってジタバタしていても仕方がない。
 そんなわけで、毛沢はマイクを手にして歌っている。利尻も続いて歌う。この店、なかなか気に入ったよと、利尻に言う。利尻はありがとうと礼を言う。
 店の名前は『サンシャイン』というらしい。夜に店を開いているのに、『サンシャイン』とは面白い命名だろうと、利尻の方が突っ込みを入れる。
「何でも明るい方がいいじゃないの」と着物姿のママさんが大きな声で笑う。
「わたしは太陽が大好きなの」と付け加える。
「太陽が好きだから、昼間は働きたくないの」とさらに付け加える。
 それはどういう意味だと、客の一人が訊くと、ママさんが、
「女の仕事って、大体が室内でやるものばかりじゃないの。かといって、戸外でやる仕事に就きたいとも思わないし。わたしはなかなか保守的な女なの。それで、昼間働いたら、太陽を遮られた状態で働かないといけない。それがいやだったの。今のこの仕事だったら、昼に目が覚めて食事をとったら、それからゆっくりと外に散歩にでも出られるでしょう。その間、わたしは太陽と友達になるわけよ。それでこの仕事を選んだの」と説明をする。
「ママさんはこの仕事に向いているね。静かだけれど、存在感あるし。こういう所でママさんとして頑張っていこうと思ったら、存在感がないとやっていけない」と利尻も説明を加える。
「そうだ、そうだ」と別の客が賛同の声をあげた。

三、
 飛行機というものには何度も乗ったが、何度乗っても、心地悪い感覚はなくならない。この頃の飛行機は昔に比べてはるかに安全になったと聞いてはいるが、やはり心のどこかに、命を失くす覚悟が必要だという気持ちがある。
 道路を歩いていても、突然歩道に自動車が突っ込んできて、それでお陀仏という場合があるのだから、本当はどこにいても、命の危険はあるものなのだ。
 しかしちょっと家を出てコンビニにアイスクリームを買いに行く時には、誰も決して命の危険のことなんか考えない。ところが飛行機となると、一度はふと考えてしまうものなのだ。
 まあ、自分なんか、死んだって、令和の歴史にはたいした影響は与えないことくらい承知している。ただの泡のような存在だ。ブクブクとこの世に湧き起こって、しばらくしたら消えてしまう。その泡に何の存在の意味があったのか、全く分からないままに。
 利尻はA4の紙に印刷されてある資料のようなものを読んでいる。その隣で毛沢は松本清張の小説を読んでいる。
 彼はこの頃松本清張にはまっているのだ。読んでいて、とても面白い。即興で書かれたように見えて、ちゃんと計算された筋立てになっている。ただの流行作家ではない。亡くなってからもうかなりになるのに、松本清張の名は全く消える様子はない。
 毛沢と利尻の二人は、もちろん沖縄に向かっている。職場は簡単に休みが取れた。休みなど取らずに、もう退職してもいいんじゃないかと思われているような感じがするほど、あっさりと休みが取れた。
 このまま沖縄にでも住みついてもいいのじゃないかと、ふと考える。物価の安い地で、呑気に暮らしたいものだ。
 沖縄に到着すると、そこは暖かい楽園だった。空気もカラカラしている。暑いという感覚はない。
 利尻に連れられて、タクシーに乗って、そのままホテルに到着する。そんなにいいホテルというわけでもなかったが、毛沢は別に金持ちでもないから、いいホテルに泊まる理由はない。
 いきなりビーチに出て泳ぎに行くのも何だから、その辺をブラブラ歩き回ることにした。
「おい、喉が渇いたな。どこかで冷たいものでも飲もうか」と利尻が陽気に言った。
 毛沢も気持ちが少し浮き立っていたので、「よし、行こう」と賛同した。
 ホテルの近くに小さな喫茶店か駄菓子屋か分からない店があったので、利尻が、
「ここにはかき氷なんかは置いてないかい?」と訊ねている。
 中の返事を聞いて、「あるらしいよ」と利尻が振り向くので、毛沢も一緒に中に入った。
 床はコンクリートになっていて、奥は縁側のような作りになっている。椅子やテーブルなんかは一つもない。
「ここに座って、かき氷を食べるのかい?」と利尻は店のおやじらしき人に訊ねている。
「はい、こういうのが風情があると仰る人が多いんで」とおやじはニヤニヤ笑っている。毛沢には、そのニヤニヤした笑い方が気に入らない。それにテーブルがなかったら、かき氷が来ても食べにくいだろうと心の中で訝しがっている。
 しばらくして二人の元に出て来たのは、おやじではなかった。若い女の子だった。すばらしく背の高い子で、ミニスカートをはいた両足のスラリと伸びた子だった。
 毛沢と利尻は、それまでの不満も何もかも吹き飛んで、その女の子に見惚れるばかりだった。特に毛沢は、目が飛び出んばかりの衝撃を受けた。
 二つのかき氷が、二人の傍らに並べられた。
 メロン味と指定したわけではないのだが、そのかき氷には二つともメロンのシロップがかかっていた。そんなことには全く不満を持たない。目の前にいる長身のミニスカートのウェイトレスらしき女性の存在が、彼ら二人からあらゆる不満を吹き飛ばしてくれた。
 その女の子は、ニコニコ笑ったまま、その場を立ち去ろうとはしない。逆に「暑いですねえ」などと話しかけてくる。
「暑いですねえ」とすかさず返事をしたのは利尻の方だった。彼はあらゆる場面に立っても、如才なく振る舞う術を心得ている。
 利尻の返事を聞いた女の子は、次に毛沢の方に目を向ける。ニコニコ笑ってはいるが、何か返事を待っているような目つきだった。
 どうしてこの子はこんな目つきをするのだろうと不思議に思いながら、毛沢は、「本当に暑いですねえ」とやっと返事をした。
 女の子は、「そうですね。暑いですよね」と言って、毛沢から返事がきたことを喜んでいる風だった。こんなに天真爛漫に喜ばれると、どんなに冷酷な人間でも嬉しくなるものだ。
 三人は結局『暑い』という言葉を何度か行き交わしただけで、その会話は何の発展もしなかった。そして今二人はメロン味のかき氷を食べているのだが、その間も背の高い女の子は、二人の前に立っている。
 どうしていつまでも前に立っているのだろうか? 沖縄では店にお客さんが来たら、そのお客さんが食べ終えるまで、前でじっと待っている習慣でもあるのだろうか? まさかそんなことはあるまい。
 その上女の子は、二人に向かって、
「おいしい?」と感想を求めてきた。
 そのかき氷は、普通のどこにでもあるかき氷と変わらなかったが、かき氷というものはごく普通であってもおいしいものだ。そこで利尻と毛沢の二人は、声を合わせて、「おいしい、おいしい」と返事を返した。
「わたしが作ったのですよ」と女の子はアピールする。
「なかなか上手ですね」今度は毛沢がすぐに反応した。
 正直な話、このウェイトレスの女の子(ことによるとウェイトレスなんかじゃないのかも知れない。さっきのおじさんの娘ということもあり得る)にいたく興味を引かれた。このまま何もしゃべらないで店を出たら、ひどい後悔をするのではないかと危惧さえした。
 利尻は愛する女房を持っているから、目の前に若い女の子が立っていることに、いつまでも強い興味を引かれることはない。もちろん彼だって男だから、少しは興味はあるのだろうが、独身者の毛沢ほどではない。
 それにしても、さっきのおじさんはどこに行ったのだろう。この背の高いウェイトレスが来てからというもの、全く姿を現わさない。
「きみは沖縄生まれなのかい?」と毛沢は訊ねてみた。
「いいえ、わたしは本州の中部地方から来たの。一年間の予定で旅行に来たの。ここは沖縄に住んでいる伯父さんが紹介してくれたから、一昨日から働いているの」と訊かれもしないことをペラペラしゃべる。
「へえー、ぼくも旅行者さ。見たら分かるだろうけれど」と言って軽く笑ってみる。
「どう見ても、現地の人だとは思えない」と言って、女の子も軽く笑う。
 そして女の子は、
「かき氷、早く食べないと、溶けてしまうわよ」と注意をする。左横に置きっぱなしになっているかき氷は、確かに少し溶けかかっていた。毛沢は手に取って、急いで食べ終えてしまった。
 利尻は縁側から立ち上がって、入り口付近に飾ってある土産物を物色していた。毛沢に気をきかしたのだろう。
「まあ、そんなに急いで食べないでもいいのに」と女の子はまた笑う。
「急いで食べてしまわないと、きみが早く逃げてしまうような気がして」と毛沢は思い切ったことを言った。
「あら、わたしは逃げないわ。だってわたし、この店の店員なんですもの。逃げたりしたら、お給料を貰えないわ」
「店から逃げるということじゃなくて、ぼくの前から逃げるということだよ。そしてきみは二度とぼくの前に姿を現わさなくなる。そうなったら、ぼくは寂しい、そう思ったんだ」
「そんなこと、思ってくださったの。それは嬉しいわ。わたしだって、あなたが急いでかき氷を食べて、急いでお金を払って、急いで外に出てしまうんじゃないかと、恐れたの」
「そんなことはしないよ。でも、何故きみがそんなこと、恐れるんだい? ぼくみたいな冴えない男に興味なんかないだろう」と試しに訊ねてみた。
 すると女の子は思い切り何度も横に首を振って、
「あなたが冴えないなんて、全くそれは違うわ。わたし、あなたのこと、初めて見た時から、いいなあって、憧れていたの」と驚くべきことを言った。
「憧れていたって、ぼくたち、まだ、さっき初めて会ったばかりじゃないか」
「そうよ。そのさっき初めて会った時に、いいなあって、憧れたのよ。それのどこが悪いの?」
「悪くはないが、きみはとても積極的な人なんだね。ぼくは普段から消極的だから、きみのように積極的にされたら、本気にしてしまうじゃないか」
「本気にしていいのよ。わたしが冗談でこんなことを言っていると思っているの?」
「まさか冗談では言わないだろう。それにしても、ぼくたちまだ、お互いの名前さえ知らないんだ」と毛沢が言うと、女の子は、胸ポケットから一枚の名刺を取り出して、毛沢に渡した。毛沢も名刺入れから一枚出して、女の子に渡した。
「まあ、あなた、大学の先生なの」女の子は突然大きな声で叫んだ。毛沢も思わずびっくりして縁側から飛び上がったくらいだった。
「先生といっても、まだ講師だよ。それにこの頃あまり意欲がなくて、辞めようかと思ってる」と毛沢はあくまでも消極的な意見を述べた。
「大学の先生を辞めるだなんて、そんなもったいないことをしてはいけないわ。わたしも大学に行っていたけれど、先生になれるレベルにはとても達しなかったんだもの」と不満げな顔をする。
「そうか、もったいないか。きみがそう言うのなら辞めるのはやめようか」と毛沢は女の子に笑いかける。
「やめるのをやめるなんて、面白い言い方ね。さすが大学の先生だわ」と褒める。
 毛沢は微笑んだまま、女の子から貰った名刺を見ている。名前は堀川真央子となっている。肩書は『ユーチューバー』とある。カタカナで書いてあるのだ。ピンクの生地の紙に刷られてあり、いい匂いがしそうな感じがする。毛沢は匂いそうになるところを、すんでのところで止めた。
「真央子ちゃんと呼んでいいのかな」と毛沢は訊ねる。内心では、恋愛にしては、実に展開の早い恋愛だなあと首を捻っている。こちらが積極的に打って出たわけでもないのに、女性の方からこんなに積極的に出て来るのは、あり得ることだろうか。あり得るからこうなったのだ。これは現実で、妄想では決してない。
「まおこちゃんなんて、呼びにくいでしょう。まおちゃんでいいのよ」
「まおちゃんか。まおちゃん、前からぼくのこと、知ってた?」
「あなたのこと? 知らないわ。どうしてそんなこと訊くの?」
「いや、何でもない。ところできみはユーチューバーなのか?」と話を変えてごまかした。
「そうよ。一応ユーチューバー。これでもなかなか人気があるのよ。ちょっと色っぽい声を出して、小説の朗読をしているの」
「色っぽい声?」その言葉だけが、彼の耳にズバッと突き刺さった。
「ここは公共の場だから、こんな上ずったような、お客さん向けの声を出しているけど、夜になって部屋で一人になると、とても色っぽい声が出せるのよ。あなた、聞きたい?」
 そういうものを聞きたいかと問われて、聞きたくないわけはないが、何故か「聞きたい」と素直に受け答えするのは危険なような気がした。
 土産物のコーナーに目を向けると、利尻の姿が見えない。毛沢は思わず立ち上がって、店内を見渡して彼を探す。
「どうしたの?」
「いや、友達はどこに行ったんだろうと探していたんだ」
「お友達なら、別室に入って、お楽しみの最中よ」
「お楽しみって、何のお楽しみだ?」
「あなた、そんなこと訊くの。お楽しみといえばお楽しみよ。わたしたちも早くお楽しみに行きましょう」まおちゃんはどこかに彼を誘うつもりのようだ。
 ここは一体何の店なんだ?
 怪しい感じがして、危険を予感もしたが、毛沢は目の前にいるまおちゃんから離れたいとは思わなかった。長身でいて、肌がきれいで、とても女性らしい匂いを発散している。こんな女性をここにほったらかしにしておいて、「さようなら」とこの場を去る気にはなれない。
「ぼくたちは、二人でどこかに行くのかい?」と訊ねてみる。
「そうよ」
 なるほど、ここは売春か何かの仲介所なのだ。売春なら売春でもいい。わざわざ旅行に来たくらいだから、彼女に支払う金くらい持っている。
「よし、行こう」と言って毛沢は手を軽くあげて、まおちゃんに合図をする。彼女は不意に無表情になったが、すぐに笑顔を取り戻して、毛沢と同じように手をあげた。
「こっちに来て」とまおちゃんは、毛沢を土産物コーナーの辺りに誘導する。利尻がこの土産物コーナーでウロウロしていた理由が分かった。もう一人別の女性がいて、彼は交渉をしていたのだ。
 土産物コーナーを過ぎると、そこに白いドアがあり、まおちゃんはノブを回して、手前に引き、中に入る。毛沢も入らざるを得ない。
『お楽しみ』と言ったところで、売春ではないのかも知れない。売春だとしたら、まおちゃんが可哀そうだ。一瞬無表情になったのは、やはり自分のやっていることが嫌だからに違いない。
 まおちゃんが後ろ手にドアを閉めると、そこはほとんど真っ暗になってしまった。その真っ暗な中を、まおちゃんは平気な様子で歩いて行く。毛沢は一生懸命ついて行く。
 何とか売春というものを避けることができないものかと、毛沢は考える。彼はまおちゃんのことがとても気に入った。本州に帰ったら美穂という女性がいるにはいるが、うまく関係を修復できるか、怪しいものだ。
 慣れてきた目でよく見ると、左手は壁になっていて、右手には白いドアが並んでいる。利尻はこれらのドアのどこかの中にいて、『お楽しみ』を遂行中なのだ。彼だって奥さんがいるというのにも何たることだ。
 かなり歩き進んだ所で、まおちゃんは不意に立ち止まり、どこかから取り出した鍵でドアを開けた。そして毛沢に向かって、「お先に入って下さい」と招き入れた。
「ここで何をするんだい」などと訊いたら、逆にまおちゃんの心を傷つけてはいけないので、黙って彼女の指示に従った。
 まおちゃんが、壁に取り付けられてある電気のスィッチを入れると、そこは狭い部屋で、中央にドンとベッドが置かれてあった。布団もシーツも真っ白で、清潔だが、どこか病院のベッドを連想させる。
 まおちゃんは狭い部屋を回り込んで、ベッドの端っこに腰をかけた。そして毛沢を手招きする。彼はそれに従って、彼女の隣に座った。
 毛沢は横から彼女の顔を覗き込んだ。とても憂鬱そうな顔をしている。そこで毛沢は、
「ここで何をするつもりかは、ぼくは分からないけれど、取り敢えずその『お楽しみ』というのはやめようじゃないか」と提案してみた。
「『お楽しみ』がなくても、料金は発生するのよ」と言うまおちゃんのしゃべり方は、さっきとは打って変わって乾いている。
「料金は払う。そしてぼくたちはここでお話をする。そしてぼくときみの二人は、ぼくの友人も連れて、ぼくたちの泊まっているホテルに行く」
「あなたたちのホテルに行ってどうするの?」
「一週間ほど観光をして、きみはぼくたち二人と一緒に飛行機で本州に渡る。そしてきみはぼくの部屋に住むというわけだ」
「それ、どういうこと? まさかプロポーズ? わたし、売春婦なのよ」
「きみとは売春婦として寝るのじゃなくて、恋人として寝たいんだ。だから、ぼくの言葉をプロポーズと受け取ってもらってもいい」
「実は……」と呟いたまおちゃんの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「実は、わたし、今日、初めてだったの。売春婦になって、初めて相手したお客さんがあなただったの」
「そうなのか。それはちょうどいい。売春婦として何もしていないのだから、きみはまだ売春婦じゃない。だから、ぼくの恋人になってもいいよね」
「そんなわけにはいかないわ。わたしは大学の時に頂いた奨学金とかを返していかなければいけないから、こういうことをしないわけにはいかないの。もしあなたについて行ったりしたら、あなたに迷惑がかかるじゃないの」
「ぼくがそのお金を代わりに返還しなければならなくなるのか?」
「まさかそんなことはさせないわ」
「でもお金はいるんだろ?」
「いるわ」
「どうすればいいんだろう。ぼくの大学で雇ってくれないかな」
「わたし、大学の先生なんかにはなれないわ」まおちゃんはパチンと手を打ち鳴らして立ち上がる。
「おいおい、何も大学の先生になれなんて言ってないよ。そんなもの、そう簡単になれるわけないじゃないか。そこに座ってくれよ。まだ話があるんだ」毛沢はまおちゃんの腕をゆるく掴んで、またベッドの上に座らせた。
「じゃあ、何になるの?」
「大学には、事務員とか掃除の人とか、色々な仕事があるんだ。そのうちの何かになれるように、ぼくが話をつけてあげる」と言いながらも、毛沢には自信がない。自分自身が須田源太郎先生の後ろ盾を失って立場が危ういのに、どうして他の人の面倒など見られるだろうか。
「わたし、掃除のおばさんになんかなるの、嫌だわ」
「掃除のおばさんって、きみはおばさんなんかじゃないじゃないか」
「おばさんかどうかが問題じゃなくて、掃除の仕事。掃除の仕事なんか嫌だわ。お便所とか掃除しなければならないんでしょう」
「だったらそういう仕事は外してもらうよ。とにかく今のこの仕事は辞めなさい。辞められるんだろ? ここの店の人たちから多額の借金をしているのかね?」
「ここの店では借金はないけれど、他で色々借りているお金があるの。その額が多いから、そんな地道な稼ぎ方じゃ、間に合わないかも知れない」
 まおちゃんは不安げに呟く。
「いや、頑張ればいけるよ。ぼくだって、少しは支払いの手伝いをする」と毛沢は勢いのいいことを言う。けちな彼がそんなことを言うのは珍しい。よほどまおちゃんのことが気に入ったのだ。
 まおちゃんは潤んだ目をして、毛沢の顔をじっと見つめている。
「わたし、どんな人間か分からないわよ。ことによると、とんでもない詐欺師かも知れない。後であなたの財産を全部奪い取って、逃げるかも知れないわよ」
「ハハ。財産っていったって、ぼくには財産らしい財産もないから、奪い取られるものもないよ」と毛沢は笑っている。
「あなたって、優しいのね。いの一番にあなたのような優しい人に当たって、わたしは幸運だった。それなら連れて行って下さるかしら。わたしは旅費の持ち合わせもないんだけれど」
「旅費くらいぼくが払うよ。行こうじゃないか」と言って彼女を促すと、さっそく立ち上がってくれた。
 そして薄暗い廊下を抜けて、例の店の中に戻って来た。
「さっきのおじさんに言えばいいんだろ? どこにいるんだ?」
「あの暖簾の奥で、テレビでも観ているわ、きっと」まおちゃんが指さした先に、布の暖簾がかかっている。まおちゃんが先に入って、毛沢が後に続く。
 しばらく暗い空間があって、奥に白いドアがある。まおちゃんがドアノブを回して「失礼します」と声をかけてドアを引き開けた。まおちゃんが言った通り、さっきのおじさんは、こちらに背中を向けて椅子に座っていて、奥にあるテレビを観ていた。
 おじさんは振り返って、「やあ、まおちゃ……」まで言って、毛沢が一緒について来ているのに気づき、途端に口を閉ざして怖い目をした。
「おじさん、わたし、やっぱり、このお仕事辞めようと思うんですけど」まおちゃんは、言いにくいことをとても簡単に言ってのけた。
 おじさんはわざわざ立ち上がって、パイプ椅子をこちらに向けてもう一度座り、
「どうして辞めるんだね」と低い声で訊ねた。怖い声を出したつもりなのだが、まおちゃんには通じないようだ。彼女は簡単に、
「わたし、この人と一緒に本州にまで渡るの」と言ってのけたくらいだから。
「本州に行って、何をするんだい?」
「この人と一緒に暮らすの」
「そんな馬鹿な」と言って、おじさんは大きな声で笑った。
「お客さんも、こんな冗談に付き合って、わざわざここまで入って来たのですか?」と毛沢に訊ねた。
「冗談じゃないですよ」毛沢は真顔になっておじさんの顔を見た。この交渉はなかなかすぐにはうまくいかないと悟ったようだ。
「ぼくは堀川真央子さんを連れて、一緒に本州に行きます。真央子さんはあなたには借金の類はないらしいですから、今からでも職を解けるでしょう?」と訊ねるように言う。
「いやあ、今は人手不足なんでね。今すぐまおちゃんを手放すというわけにはいきません。新しく求人の応募をしますから、次の人が来るまで待っていただけませんか」とねちこいようなゆっくりとした口調で言った。
「でも他にも女の人がいらっしゃるようだから、その人たちに接客は任せたらいいでしょう」
「そういうわけにはいかんのです。仕事には適正というものがありまして、まおちゃんは接客に関してはとても優れているのです。今ここでまおちゃんを失うのは、わたしたちにとって痛手ですからな」と言って、丸く太った顔のおじさんはニヤニヤ笑う。
「それではどうすればいいのですか?」毛沢はおじさんののらりくらりとしたいい方に、既に憤慨している。そこをグッとこらえてこう訊ねた。
「だから、これから求人広告を出しますから、新しい人が来て、その人がこの店に慣れるまでは、まおちゃんにはここにいて欲しいというわけです」
「なるほど、そうやって何もかも有耶無耶にして、まおちゃんをここから出られないようにしようという魂胆ですね」と毛沢は思い切って突っ込んでみる。
「まさか、わたしはそんな悪い人間じゃありません。ただ当たり前のことを言っているだけですよ。職場を去る時には、それなりの手続きというものがあるでしょう。あなたたちも社会人なんだから、そのくらいのことはご承知でしょう」
「社会人が聞いて呆れるね」毛沢はおじさんを睨みつけて、少し前に身を屈めた。
「ここはただの売春宿じゃないか。そんな所に社会人としての常識なんか適用できるわけがない。あんたがしているのは犯罪なんだよ。何なら今から警察を呼ぶから、警察官に判断してもらおうか」
「警察官ですか。それはやめた方がいい。この辺の警察官はみんなわたしたちの友人たちでね、逆にいいお客さんになって下さるのです。そんな人たちがあんたの味方をしてくれるとお思いですか?」
 そう言われると、毛沢には何も言い返す言葉がない。
 毛沢が困っておじさんの前で顔をしかめていると、まおちゃんが不意に、
「わたし、すぐにこの人と行きたいの。そしてもっと真面目な仕事をしたいの」と宣言するように言った。
「それならこうしよう」おじさんは、膝を手で軽く打って、名案でも思い付いたような仕草をした。
「まおちゃんは男の人のお客を取らなくてもいい。店で接客専門として働けばいい」
「前原さん、どうしてわたしを行かせてくれないの? だって、ここにいたら売春をしないわけにはいかないじゃないの。他のみんなもしているんだから。わたし一人だけそんな特別待遇が許されるわけがない。そんなことくらい、いくら馬鹿なわたしでも分かるわ」
 そう言われて、前原と呼ばれたおじさんは、一言口の中で唸ってそのまま黙ってしまった。
「まおちゃんの言う通りです」毛沢もまおちゃんに加勢して言った。
「警察官もお客になるくらい腐敗しているのなら、まおちゃんはここにいる間は、絶対に売春はやめられない。そうさせるつもりなんでしょう、前原さん?」毛沢は前原に向かって一歩踏み出す。暴力を奮うつもりはないが、少しは威圧したいと意図した行為だ。
「その通りだ」と言ったのは前原ではなく、その声は毛沢の背後から聞こえてきた。
 振り向いて見ると、利尻が開けっ放しになっているドアの敷居あたりに立っている。
 利尻がそんな所に現われるとは全く予想していなかった。毛沢はもちろん驚いたが、まおちゃんも前原も驚いた顔をして、利尻を見ていた。
「ぼくは沖縄には何度も来ているから、この店がこういう店だということは知っていた。そして罪なことながら、何度か利用させていただいた。だからこのおやじさんを責められる立場にはない。売春をしているこの店を許容していたのだからね。けれどもこれほどまでこの店を抜け出したいと願っている女の子がいるのなら、ぼくは放っておくわけにはいかない。ましてやその彼女が、ぼくの友達のお気に入りで、一緒に遠くにある自分の家まで連れて行きたいというんだから、なおさらだ。
 このあたりではこの店は警察官も抱きこんでいるようだが、中央にある警察に告発したら、あなたも困るでしょう」と利尻は新しい視点で斬り込んでくる。
「そんな大袈裟なことをするのは、面倒ですよ」前原はやはり余裕を失わない笑みを浮かべて利尻と相対する。
「ところが面倒じゃないんです。ぼくは中央の警察署にいくらも友人がいて、ぼくのためなら、すぐに動いてくれるんです。どうです、今からすぐに連絡してみましょうか? あなた、手錠をはめられたいのですか? まさか、そんなのは嫌でしょう」と利尻も余裕のこもった笑いを見せている。
 前原の方が少したじろいで、うーんと唸って、顔をしかめている。
 そして彼は顔をあげて、前に立っている三人を見上げて、
「分かりました」と返事をした。
「わたしは元々平和主義の男でして、あまり争いめいたことはしたくない。こうして店でゆっくりテレビを観ているのが好きなんです。もちろん、手錠なんかはめられるのは、趣味じゃありません。お客さんがそんなに力のおありの方だったら、わたしは簡単に白旗をあげます。どうかまおちゃんを連れて行って下さい。そして幸せにしてやって下さい。まおちゃん、幸せになりなよ。もし幸せになれなかったら、またここに戻って来てもいいよ」
 もし幸せになれなかったとしても、まさかこんな所には戻って来ないだろう。まおちゃんを始めとする三人は、そう思って苦笑いをしていた。もちろん前原もそんなことは分かっている。同じように苦笑いをしながら言っているのだ。
 毛沢と利尻とまおちゃんの三人は、前原の前から去って、かき氷を食べた縁側のあたりに戻っていた。おじさんはついて来なかった。二人は二人分のかき氷の料金を払って、まおちゃんとともに店を出た。
 秋の暖かい陽射しの中、三人は店の前に佇んでいた。まず口を出したのは利尻だった。
「まおちゃんといったね。きみはこの毛沢という男を信用するのかい? ことによるとこいつはとても悪い男かも知れないよ」と笑い顔のままに問うた。
 利尻の顔を見ながらまおちゃんは、
「そんなこと、笑って言うものじゃないわ。それにもしこの人が悪い人ならば、あなたはこんな所で笑ってはいないはずだわ。第一、前原さんから解放もしてくれなかったでしょう」と指摘する。
「なるほどね、その通りだ。ぼくはこの毛沢という男のことを知っている。知っていなかったら、一緒に旅行をすることもなかっただろうから。要するに、一緒に旅行をするくらい仲のいい友達だということだ。ぼくが友達だと認めるくらいだから、ぼくにとって悪い人間のはずがない。そしてぼくたち二人は悪い人間に見えるだろうか? 世の中には悪い人間の友達どうしというのもあるからね。信用できないと思ったら、早々と逃げた方がいいよ」利尻はまおちゃんに陽気に話しかける。
 そんな利尻の様子を見て、まおちゃんも笑い顔で彼を見た。そしてこう言った。
「あなたたちが悪い人間だなんて、百人が見て、百人ともそう思いません。それにわたしは、この毛沢さんという人が好きなんです。どうしたのですか、毛沢さん、さっきからだんまりを決め込んで」とまおちゃんは毛沢に話を振ってくる。
 毛沢はまおちゃんの方を真面目に見て、こんなことを言った。
「ぼくはとても悪い男かも知れないよ。さっきはきみの借金のために、大学の仕事に紹介すると言ったが、実はぼくにはそれほどの力はないんだ。ぼく自身がいつクビになるか分からない有様なんだ。だからもしきみを連れて行っても、きみを騙したことになるかも知れない」
「大学の仕事のことは心配しないでもいいのです」とまおちゃんは明るく切り返した。
「あなたはわたしと一緒に暮らして下さるんでしょう? それも嘘だったのですか?」
「いや、それは嘘じゃない」
「それが嘘じゃなかったら、それでいいのです。あなたは何もわたしを騙してはいません。もし大学の仕事がなくても、他に仕事くらい見つけられるでしょう。沖縄のように働き口がなくて困る場所ではないんですから」
「それはそうだ。いくらでも働き口はあるよ」と利尻も勢いよく断言した。
「今度は、売春なんかに関わりのない職場にしなさいよ」と注意すると、まおちゃんは利尻に向かって、「はい」とはっきりとした返事を返した。
 三人はタクシーでホテルに戻った。そしてそれから一週間の楽しい滞在を満喫して、飛行機の中の人となった。
 飛行場のロビーに降り立ち、化粧を直すためにまおちゃんが席を外した時、利尻がこんなことを毛沢に訊ねた。
「きみはもう、美穂さんのことはどうでもいいんだね?」
 そんなことを訊ねられても、俄かには答えられない。本心ではどうでもいいわけがない。しかし彼は沖縄からわざわざまおちゃんという女性を連れて帰って来た。彼は彼女の面倒を見ないわけにはいかない。そうすると、美穂に対する気持ちは、すっかり消してしまわないといけないということになる。
「どうでもいいというわけでもなかったんだが、事態がこうなった以上、美穂さんにお付き合いを求めるということは、もうできないね」と毛沢は答えた。
「しかしどうしてあの子を急にここまで連れて来ようという気になったんだ?」
「何故かぼくにも分からない。部屋に入って、二人服を着たまましゃべっているうちに、ぼくはこの子を守らないといけないと、突然閃いたんだ」
「閃いたのか。神のお告げみたいなものだな。そういう感覚は大事にしないといけない。きっとあの子は、きみにとって必要な物を持っているんだよ。美穂さんにはなくて、あの子にしかないものが」
「それは何だろう?」
「何なのかは、ぼくが知っているはずがないじゃないか。知っているとしたら、きみの方だ」
「ぼくは何を知っているんだろうか……」と毛沢は考え込んでいる。やがてまおちゃんが帰って来た。
 電車の駅で利尻と別れ、毛沢は本格的にまおちゃんと二人きりになった。まおちゃんは既に毛沢の手を握っている。彼はそれを拒絶しない。当たり前だ、どうして拒絶しなければならないのだろう。
 部屋に二人で入ると、まおちゃんは、「いいなあ、こんなきれいな所、わたし今まで住んだことがない」と言い出した。
 毛沢の部屋は決してきれいなものではない。築四十年か五十年ほどたつ、ボロのマンションだ。こんな所をきれいだと感嘆しているまおちゃんの様子には、嫌味らしいところは全くない。本気できれいだと思っているのだ。
 そう言えば、彼女をここまで連れて来る間に、彼女が自分の実家に連絡するところを見たことがない。そのことを訊いてみようかと考えたが、やはりやめにした。彼女にしかない、独自の事情があるのかも知れない。
 売春をせざるを得ない仕事に就いていたくらいだから、あまり恵まれた境遇で生きていたわけではないのだろう。彼が住んでいるこんなボロのマンションを見て「いいなあ」と感嘆するくらいだから。しかしそんな悪い境遇で生きていたにもかかわらず、立派に大学を出たというではないか。それには並々ならぬ努力が必要だったのであろう。
 その夜はもちろん甘い夜だった。毛沢もまおちゃんを求め、まおちゃんも毛沢を求めていた。二人はしっかりと抱き合った。売春ではない、本当の愛を交わし合った。
 翌日はまだ大学から休みを取っていたので、旅行の続きのようにゆっくりと眠った。まおちゃんは早く起き出して何かをしている。きっと朝食の支度でもしてくれているのだろう。始めから張り切って無理をしなければよいがと、毛沢は逆に彼女のことを心配する。
 ある程度ゆっくりと床の中で休んでから、毛沢は起き出して、キッチンに顔を出した。するとやはりまおちゃんはガスレンジの前に立って、何かをしている。
「何をしているんだ? うちには食事を作るような食材はなかったはずだが」と訊ねる。
 するとまおちゃんは振り向いて慌てた顔をして、
「あら、そんなの、たいしたものを作っているんじゃないの。コンビニに行って卵を買って来て、それで玉子焼きを作っているんだけど、わたし、そんなに料理がうまくないから、恥ずかしいわ」と言い訳のように言う。
「朝食なら、外の喫茶店でモーニングでも食べに行けばよかったんだ。何もぼくはきみに賄いをさせるために、この家に連れて来たわけじゃないんだ。だから無理をしなくてもいいんだよ。この家では二人は対等だ。ぼくときみは互いに互いを尊重して生きる。それだけのことさ」
「まあ、そんなことを言って下さる人がいるなんて、わたしは何て幸せなんでしょう」と言って、まおちゃんは本当にその場で少し飛び上がった。
 まおちゃんのコミカルな反応を見て、毛沢は思わず声を出して笑ってしまった。まおちゃんは頭に手をあてて、舌を出している。その可愛い仕草を見て、毛沢は、
「きみ、年はいくつだったかな?」と訊ねた。
 考えてみると、彼はまだ彼女の年齢を聞いていなかった。こんなに深い仲になったのに、年齢を聞いていないとは、ことによると自分は不真面目なのではないかと一瞬考えた。しかし一方でこう考えもした。彼はそれだけ彼女に夢中になっているのだ。だからお互いの年齢を伝え合う暇すらなかったのだと。
「まおちゃん、一つ大事なことを言い忘れていた。ぼくの年齢だ。ぼくは今年二十八歳になる。きみからしたら、随分年寄りだろう」と冗談めかして言ってみた。
「まあ、年寄りだなんて、そんなことあり得ないわ。わたし、今年二十二になるんだけど、六歳の年の差なんて、全く年の差でもないわ」とまおちゃんははっきり言ったが、その目には少し不安気な光が宿った。
「どうしたんだい? 何だか涙でも流しそうな目をしているじゃないか」と訊ねると、まおちゃんは、
「本当よ。わたし、涙が出ちゃうかも知れない。こんなにいい人に出会えてよかったと喜んでいたのに、年の差を理由に捨てられるんじゃないかと、不安になったの」とまおちゃんは真顔になって言う。
 毛沢は俄かに慌ててしまって、まおちゃんの両手を取って、
「ぼくがまおちゃんを捨てるはずがないじゃないか。捨てるくらいなら、こんな遠くにまで連れては来ないよ」とこちらも真顔になって、はっきりと言った。
「本当なの? 信じていいの?」まおちゃんはあくまでも真顔のまま毛沢の前に立っている。
 するとガスレンジのあたりから煙の臭いがして、毛沢はまたもや慌ててしまった。今度はとても現実的で緊急の慌て方だった。
 毛沢はガスレンジの前に走り寄り、スイッチを切った。そして元栓も締めた。フライパンの中には玉子焼きが真っ黒になっていて、大惨事の様相を呈している。
「まあ、わたしったら、すみません!」まおちゃんは毛沢のそばに飛んで来て、フライパンの中を覗いて両手をパチンと打ち鳴らした。
「これじゃあ、食べられないわね。ごめんなさい」とまた謝った。
「食べられる食べられないの問題じゃなくて、これはとても危ないことなんだ。火事でも起こしたら、ぼくには何にも責任を取る能力はないからね。でも悪いのはぼくだよ。いきなりキッチンに入って来て、一生懸命に玉子焼きを作っているきみの邪魔をしたのだから」と言って、毛沢は真っ黒になった玉子焼きを流し台の上にあけて、フライパンを洗い始めた。
「わたしが洗うわ。わたしの責任ですもの」まおちゃんが毛沢にぶつかるようにして、フライパンを奪い取ろうとしたが、毛沢は、「いいよ、いいよ。ぼくはこういうことには慣れているから。それよりも、ぼくはまおちゃんを捨てることなんてないからね。六歳の年の差なんて、ないに等しいよ」と優しい言葉をかけながら、フライパンをゴシゴシ洗っている。
「わたし、今まで、人に優しくしてもらったことがないの」不意にまおちゃんが身の上話めいた話を始めた。
「お父さんはわたしが小さいうちに亡くなってしまった。お母さんはその後再婚したんだけど、その相手の人がとても怖い人だったの。特にお酒を飲むと怖かった。それでわたし、一度そのお義父さんにぶたれて、腕の骨を折ってしまった。それで、児童相談所に預けられるようになって、お母さんとはそれっきり。わたしは十八歳になるまで施設で育った。
 それからふとしたことから、お母さんのお兄さんである伯父さんの家に住むことになって、アルバイトをする気があるのなら、大学に行ってもいいと言ってくれたの。わたし、とても嬉しかったわ。伯父さんが神様に見えた。それでわたしはアルバイトを始めたのだけれど、そのアルバイトというのが、沖縄でやっていたような仕事なの。売春まではしていなかったけれど、それに似たようなサービスはせさられた。やがて一人の男がわたしを伯父さんから貰い受けたの。まるで品物みたいに。『俺にくれよ』『いいよ、あげる』という感じだった。伯父さんがよ。仮にも血のつながった伯父さんが、そんな人だったの。
 わたしはその男の元で、まるで奴隷のように扱われた。家事全般はもちろんのこと、あらゆることの世話をさせられた。何を求められても嫌だとは言えなかった。そしてその男がわたしに飽きたら、また別の男に物のように譲り渡された。『いいよ、あげる』という感じなの。
 ただ、大学には行かせてくれた。それが伯父さんの条件だったみたい。伯父さんは、伯父さんだけあって、少しくらいはわたしに情愛のようなものはあったのかな。
 でもわたしが選んだ学部は文学部だったから、実用的じゃなかったの。こんな穢れた体で学校の先生になんかなれるはずはないし、学者になるほど頭がよかったわけでもない。それに就職しようとしても、わたしが変な男たちと一緒に住んでいることは、大学にも知れ渡っていたから、きみには就職口を紹介するわけにはいかないと言われたの。最後の最後にそんなことを言うのなら、途中で退学させてくれたらよかったのに。
 それで、卒業証書だけを手に入れたのだけれど、働き口は全くなしというわけなの。それでまた伯父さんの家に戻ったのだけれど、そんな伯父さんが助けてくれるわけがない。
 まあ、伯父さんにしたら助けたと言えるのでしょう。伯父さんはわたしに就職の世話をしてくれたのだから。それが沖縄のあの店というわけなの。そこでわたしは本格的に売春婦になる予定だったの。そんなわたしを救い出してくれたのがあなたなの。あなたは命の恩人よ。でも毛沢さん、わたしみたいな穢れた女性でもいいのかしら? あなたは仮にも大学の先生じゃないの。もっと高い身分の立派な女性たちがいるんだから、そういう人たちの中から選んだ方がいいんじゃないの? どうなのかしら。わたしはこの家を去って、自活した方がいいのでしょうか」
 まおちゃんはとても悩んでいる様子で突っ立っていた。毛沢はフライパンの掃除を終えて、キッチンの椅子に腰をかけて、まおちゃんを見上げていた。そしてこう言った。
「きみがそんなに可哀そうな人生を歩んできたとなったら、ぼくはますますきみのことが見捨てられない。それにぼくはきみのことが好きなんだ。きみはとてもきれいな目をしている。そんなやくざ男たちに翻弄されるような苦労をしたとは、とても思えない。純真な目をしている。獣のような目にあっても、そんなにきれいな目を保ち続けるきみに対して、ぼくはある種の敬意を覚えるよ。だからこの家を出て行こうなんて思わないでくれ。いつまでも一緒にここにいてくれ。頼む」と毛沢は頭まで下げて依頼した。
「まあ、わたしに対して頭をお下げになるなんて。わたしなんか最底辺にいる女なんです。その上まだ子供ですから、わたしに頭を下げる必要はない。わたしなんか、足蹴にされて、石を投げられても文句は言えないわ」
「世の中に、そんな目にあって、然るべきだというような人がいるはずがないじゃないか。きみはもっと自信を持ちなさい。そんなひどい生活を送ってきたにもかかわらず、ちゃんと大学は卒業した。偉いじゃないか」
「でも結局魔界から出られるような教養は身につかなかった」
「男たちに翻弄されまくっていた生活だったのだから、そんな教養が身につかなかったのは仕方がない。卒業しただけでも立派だと納得しておかなきゃならない」
「そうね。わたし、これでも卒業論文を書いたのよ。卒論は選択できたから、取らなくてもすんだのだけれど、わたしは敢えて取ったの。先生が中島敦の研究家だったから、色々教えてもらって、中島敦について書いたの。変な男たちがたむろしている部屋で、そんな込み入った書き物をするのは大変だったけれど、わたしはやり遂げたわ。わたしが大学を無事卒業した時には、その当時一緒に住んでいた変な男たちの一人に、お祝いだと言われて、刺身料理店に連れて行ってもらった。あんな変な男たちでも、時たまそんな親切をしてくれることもあったの。本当は優しい人のはずなのに、育ちがとても悪いから、悪いことでもしないと稼げない人たちなのよ。あの人たちも、本当は可哀そうな人たちなの」
「でもひどい目にあったんだろう?」
「そうね。実際にひどい目にあったのだから、下手な同情は必要ないわね。結局大学を卒業しても、また売春婦にならないと仕方のない羽目になったのだから。まあ、これは全て、伯父さんが悪いんだけど」と言って、まおちゃんは少し微笑んだ。微笑んでいる場合じゃないだろうと、毛沢は陰鬱な気分になって、少し下を向いた。
 彼女が売春婦だということは承知している。けれども、男たちの奴隷になるような生活をしていたとまでは思いも寄らなかった。さっきは目の美しさを褒めたものだが、不意に、こんな子とわざわざ一緒になる必要はないのではないかと考え始めたのだ。
「どうしたの?」まおちゃんは心配そうな顔をして、毛沢の顔を覗き込んだ。
「そんなに憂鬱になったのなら、わたしなんか捨てても構わないのよ。わたしは運命に翻弄されて生きて行くのは慣れているから。あなたの将来を駄目にしてまでも、あなたに縋りつくつもりはないわ」
「そんなことを言わないでくれ。どうしてきみはいつも、自分をないがしろにするようなことばかり言うんだ。そんなことをしても、きみの問題は何も解決しない。きみは自分を守ってくれる人を探さないといけないし、自分自身でも自分を守って生きていかないといけないんだ。そういうことを求める資格はきみには十分ある。そしてきみを守る人というのが、このぼくなんだ。このぼくで不足なのか? 不足なら不足でいいが、少なくともぼくからはきみを捨てたりはしないよ。きみはぼくにとってとても大事な人になっているのだから」
「ありがとう……」まおちゃんは今の毛沢の言葉を聞いて、両目からポロポロと涙を流していた。そしてこう続けた。
「わたし、人から親切にされることに慣れていなかったから、なかなか信じられなかったの。でも、今の毛沢さんの言葉を聞いて、わたし、信じようと決意をした。毛沢さんなら信じることができる。わたしはあなたに助けていただくわ。それでいい?」まおちゃんは今度は床に座り込んで、椅子に座っている毛沢を見上げるような体勢になった。
「いいよ。まおちゃんはしっかりぼくに甘えてくれ。ぼくは何でも受け止めるよ。今日から二人は一心同体の家族なんだ。何にも遠慮することはない。言いたいことを言い合って、そして仲良く暮らしていこう」
「まあ、何て素晴らしい言葉なんでしょう。一心同体の家族だなんて。わたしが今まで欲しくても得られなかったものを、あなたは全部くれるのね。とても嬉しいわ。あなたはわたしの恩人よ。わたしはあなたを一生放さない」と言って、まおちゃんは、毛沢を椅子から立ち上がらせて、二人は立ったまましっかりと抱き合った。
 抱き合いながら、毛沢の心は本当は揺れていた。どうしてこの子でなくてはならないんだという疑問が、頭から離れなかった。
 彼には須田美穂という人がいる。利尻が沖縄旅行に誘ったのも、沖縄から帰る頃になると、美穂にもう一度好きだと告白できるチャンスができると踏んだからなのだ。それなのに彼はこうして別の女と抱き合っている。それも彼女自身の言葉を借りれば、とても穢れた女と。
 毛沢はまおちゃんと熱いキスを交わしていたが、心の中は迷いでいっぱいだった。何という不誠実な男なんだと、彼は自分自身を蔑んでいた。美穂にまだ気があるのなら、こんな女の人をわざわざ沖縄から連れて来なければよかった。
 毛沢はまおちゃんを家から連れ出して、近くの喫茶店の一隅に二人で座を占めた。四人座席のテーブルに向かい合って座った。
 毛沢はしきりに自分の勤めている大学の話をした。そして須田源太郎先生のことも語った。そんな話をしていると、まおちゃんに対する迷いが少なくなるのではないかと考えたのだ。
 しかし須田先生のことを口に出すのはまずかった。何故なら須田先生のことを思い出すと、それとセットになって、美穂のことも思い出すことになるからだ。
 須田先生のことを語る毛沢は、とても歯切れが悪かった。その須田先生が六十歳になる直前で亡くなった話になると、まおちゃんは手を打ち鳴らして「まあ、何て可哀そう」と先生になのか、毛沢に対してなのか分からない悔やみの言葉を述べた。しかし毛沢は、そんなことを気にしている場合ではなかった。先生の葬式の日のことを思い出したからだ。あの日に彼は美穂にいきなりキスをした。その情景が一時に彼の脳裏に甦った。
 そんなことをまおちゃんに打ち明けるわけにはいかない。また利尻と話をしなければならない。沖縄旅行では、全てがまおちゃん中心に回っていたから、利尻にそんな話をする暇がなかった。本当は彼は、利尻に、美穂に対してした狼藉のことで、意見を求めようとしたのだ。しかし実際の彼らの旅行は、まおちゃんの出現によって、全く違ったものになってしまった。
 喫茶店に入ると、まおちゃんはすっかりおとなしくなってしまった。毛沢の話を謹んで聴くだけの人になった。
 彼女にしてみれば、毛沢は、彼女の運命の全てを託した人なのだ。神様にも等しい人なのだ。そんな人が語っている途中に横槍を入れて、彼が話しにくくなならいように注意しなければならないと思って当然なのだ。
 そこで毛沢はまおちゃんに向かって、質問をすることにした。
「まおちゃんって、何かとても好きなことってある? 簡単に言うと趣味だけど」
「わたし、本を読むことが好きよ。本を読んだら、とても遠くの世界にも、一瞬にして飛んでいけるでしょう」
 まおちゃんの目はキラキラ輝いている。
「どんな本が好きなんだ?」と訊ねると、まおちゃんはひとこと、
「赤毛のアン」と答えた。
「『赤毛のアン』なら、ぼくも読んだことがある。テレビのアニメでも見たよ。ぼくはあそこに出てくる、マシューが大好きだった」
「そう、マシュー。マシューはいいわ。アンに対してとても優しかった。わたしにもあんなに優しくしてくれる人が、一人でもいたらなあと、憧れたわ」
「そうか。きみには優しくしてくれる人なんかいなかったんだなあ。でもこれからは地獄から脱出だから、安心していていいよ」
 毛沢はそう言いながら、また安請け合いをしてしまったのではないかと、心の中で考えた。彼が何かまおちゃんに話せば、どんどんまおちゃんの渦の中心に巻き込まれていく。いや、彼は既に中心にいる。それを否定することはできない。
 まおちゃんは楽しそうにゆで卵を食べていた。そしてこんなことを言った。
「食事一つにしても、わたしはこれまで楽しく食事をしたことなんかないの。どんなものを食べていたかなんて、毛沢さんにあまり言いたくない。簡単に言うと、ろくでもないものばかり食べていた。こんなツルツルのゆで卵、何て素晴らしいんでしょう」とまおちゃんはゆで卵を見て感嘆している。
 この日本にいて、ゆで卵を見て感嘆する人がいるなんて、毛沢には信じられなかった。
 だからといって、彼女がどんなひどい食生活をしていたのか、詳しいことを訊く勇気はなかった。
「取り敢えず明日ぼくの大学に一緒に行こう」毛沢は不意に話題を変えた。
「きみに合った仕事があるかも知れないから」
「まあ、嬉しいわ。でもわたしに合った仕事って、何かしら?」またまおちゃんは陰鬱な顔になる。
「きみは決してそんな変な仕事をするような人じゃなかったんだ。ちゃんと普通の仕事をして、普通の生活のできる人だ。ぼくはそう確信する」
「でもわたし、語学もできないし、パソコンを触るのも苦手だし、特技らしい特技はないわ」
「でもあんな仕事に戻ることを考えたら、どんな仕事でも歯を食いしばって覚えようという気になるだろう」
「そうね」とまおちゃんは言ったが、呟くように言っただけで、その声には力らしいものはなかった。彼女のやっていた仕事を『変な仕事』と言ったのが悪かったのだろうかと考えたが、そんなことで謝っている場合ではない。
 喫茶店での朝食が終わって、二人はまたマンションの部屋に戻って来た。他の場所をうろうろしたって、この界隈にはたいした見ものはない。
 そして二人は立ったままキスをしていた。毛沢はより一層熱心にキスをした。キスといえば美穂に突然敢行したキスのことを、忘れるわけにはいかなかった。けれども、今の彼は、まおちゃんを守ることが最大の務めだ。その決意を込めて、熱心にキスを続けたのだ。
「まあ、毛沢さんって、とても情熱的なのね」まおちゃんは顔を上気させて、その場に座り込んだ。手で扇いで顔の熱を冷ましている。
 しばらく休んだ後、毛沢は大学に電話をかけた。何となくかけにくかったが、彼の上役の教授は、とても愛想がよかった。
「少しは気持ちの整理はついたかね」と訊ねられた時はびっくりした。しかしそれは美穂にキスをしたことを言っているのではないことは、明らかだ。そんなことを教授が知っているわけがない。彼の恩師でもあり、後ろ盾にもなってくれていた須田先生が亡くなったことに対するショックのことを言っているのだ。
「はい、大分落ち着きました」毛沢はなるべく明るく返事をした。
「それはよかった。ちゃんと恢復したら、また職に復帰してもらいたい。わたしはきみにはとても期待をかけているんだ」と教授は言ってくれた。
 いつも仏頂面で有名な教授が、どうして急にそんな愛想のいいことを言うのか、毛沢には合点がいかなかったが、とにかく明るく、
「どうもありがとうございます」と受け答えをした。
 そして彼の本当の用事をそこで述べた。すると教授の声の調子が突然変わった。
「女性? 女性って誰だ? きみには須田先生の娘さんがいるんじゃないのか?」
 毛沢はすぐには返事ができなかった。美穂はもちろん彼の恋人ではない。そして彼にはまおちゃんという確かな恋人がいる。彼女のことを頼むために教授に電話をかけたのだが、この調子ではこの話は無理のようだ。
「どうしたのだ? 何故何も言わない。きみは休暇の間、全く須田先生の娘さんに連絡をしなかったらしいな。どうしてそんな不義理なことをするんだ。きみがこの大学にいられるのも、みんな須田先生の娘さんのお蔭なんだよ。K大学の須田先生は亡くなったけれど、娘さんがきみのことをよろしく頼むと、わざわざわたしの所に来て頼みに来たんだからね」
「頼みに来たのですか?」
 毛沢は驚いて訊ねた。
「そうさ。正直な話、須田先生亡き後のきみは、全く後ろ盾を失った人になったからね。本来ならここを退職してもらう可能性もあったんだ。だが、そこへ娘さんがきみのことを頼みに来た。須田先生の娘さんが来たのだから、わたしとしては邪険にはできない。それでわたしはきみのことを引き受けることにしたんだ。なのに、きみはこの頃須田先生の娘さんに連絡をしていない。どういうことなんだ?」
「美穂さんが先生にそう言ったのですか?」
「そうさ。娘さんはとても寂しそうな声で電話をしてきたよ。それにきみは沖縄に行ったことも彼女に告げていなかったようだな。きみたちは一体どうなっているんだ?」
 どうなったもこうなったも、毛沢と美穂との間柄は、あの突然のキス以来瓦解したものと判断していた。しかしここで瓦解したとは言えない空気があった。
 毛沢は教授に対する答えを曖昧にして、電話を切った。これは困ったことになった。まおちゃんの就職先どころか、自分自身の身分すら危うくなってしまった。

四、
 職場に戻って教授と顔を合わせると、また美穂のことを問い詰められそうで、なかなか出勤に踏み切れなかった。そんな感じで二日くらいまおちゃんと二人で家で過ごしていると、昼過ぎ頃に一つの郵便がポストに届いた。差出人の名前を見ると、美穂からの手紙だった。幸い近くにまおちゃんはいなかったので、ズボンとパンツの間に差し込んで、上からシャツを被せてそのまま部屋に入って、まおちゃんには郵便は何もなかったと嘘をついて、仕事部屋になっている一室に入った。
 それはとても短い手紙だった。二枚の縦書きの便箋が入っていたが、使われているのは一枚だけだった。
 最初に目に入った言葉は、『どうして何も連絡をして下さらないのですか?』という言葉だった。そしてその後の言葉は、『わたしは待っています』という言葉になっていた。
 あの突然のキスのことは書かれていない。文面には怒っているという様子もなかったが、優しい書き方でもなかった。とてもニュートラルなものだった。
 もちろん毛沢は美穂のことを嫌っているわけではない。今すぐにでも電話をかけて、「会いましょう」と約束を取り付けたい気分だった。しかし彼にはまおちゃんという、彼しか頼りにできない、弱い立場の女性がいる。そんな人を放り出して、美穂に会いに行くわけにはいかない。
 だからといって、美穂からの手紙を完全に無視するわけにもいかない。何らかの反応はしないといけない。その時にまおちゃんのことも打ち明けないといけないだろう。結局いつかは露見することなのだから。
 こんな手紙が来るとは予想していなかった。しかし彼女は、毛沢の勤めている大学まで出かけて、彼の処遇についてわざわざ依頼をしてくれたのだ。彼のことをとても気にかけてくれているのは確かだ。だとしたら、彼としては、向こうの要望通り、何らかの連絡はしないといけない。
 そこで毛沢は便箋を取り出して、手紙を書く姿勢を取った。もちろんメールアドレスは知っているから、メールで用は足せるのだけれど、向こうがわざわざ手紙を送ってきたのに、こちらはメールで返すわけにはいかない。
 とにかく彼は知りたかった。美穂があの突然のキスのことを、まだ怒っているのかどうかを。まずそれが分からないことには、どのように反応していいのか分からない。
 そこで手紙にはそのことばかりを書いた。まおちゃんのことを書こうかどうか迷いはした。書いた方がいいとは思ったが、書かなかった。その時点で彼は二股をかけようとしていた。
 彼は自分のことを卑劣な人間ではないとは思ってはいない。人並みくらいの卑劣さは持ち合わせているとは思っている。だから二人の女性と同時に関係を持って、それで平気で暮らしていくことくらい、できないことではないと考えていた。しかし実際あの寄る辺のないまおちゃんの顔を思い出すと、そんな悪いことはとてもできないと、自分自身を鞭打ちたくなる。
 結局彼は手紙の最後の方に、まおちゃんのことを書いた。沖縄で出会った可哀そうな女性である、まおちゃんのことを。
 書き終わった手紙に封をして、彼はリビングに顔を出した。まおちゃんはリビングのテーブルの前に座って、何かの本を読んでいた。
「おお、本を読んでいるのか」と声をかけると、まおちゃんは振り向いて、ニコリと笑った。
「珍しい本が部屋にあったから、ちょっとパラパラめくっていたの」と言って、彼女は本の表紙を見せた。それは易の本だった。
 毛沢は男には珍しく、占い好きだった。本屋に立ち寄った時などに、ちょっと気になった占い関係の本を手に取って見たりしていた。時にはこの本のように、購入する場合もあった。
「とても難しいことが書いてあるわ。毛沢さん、易に興味があるの?」とまおちゃんが訊ねた。
「易にはあまり興味はなかったんだ。生年月日を使ってする占いには興味があったけどね。易は筮竹とかサイコロとかを使うものだから、偶然性しかないと思っていた。けれどもその本を何度か見て、自分でサイコロを転がしてみると、何か、自分を含めた大きな世界の力を感じるようになった。この世は偶然だけで動いているんじゃないと思えるようになった。きみとこうして出会えたのも、何か必然の力が働いているような気がする。だからこそぼくは決意したんだ、きみをしっかり守っていこうと」
 まおちゃんは本を開いて持ったまま、毛沢の顔をじっと見つめていた。その目は涙で濡れているようだった。涙が流れ出るというほどではなかったが、心の中に感動が渦巻いているのは確かのようだった。
 それだけのことを言ったのだから、毛沢の心はしっかりと決まってしまった。彼はあくまでもまおちゃんを守る。美穂のような、何の苦労も知らないお嬢さんなら、彼が何もしなくても、簡単に幸せを手に入れられるだろう。しかしまおちゃんはそうじゃない。彼が手を放した瞬間に、奈落の底まで転落していく可能性は大だ。
 あの時の突然のキスで美穂が怒っていようと、怒っていまいと、彼にはどうでもよかった。彼女は一度はきっちりと彼のことを拒絶したのだから、彼はもう彼女に対して何の責任もない。
 そう考えながら、毛沢はまおちゃんの前でサイコロを振っていた。そして占いじみたことをやっていた。
 まおちゃんはやっぱり普通の女性のように、占いをとても楽しんでいた。これからの二人の未来を占ってくれと請われて、毛沢は一瞬不吉な予感がした。そんなものは占わない方がいいのではないかと考えたのだ。
 しかし彼は敢えてやめようとは言わなかった。どんな結果が出ようが、しっかりと受け止めようと決意した。出た結果は悪かった。彼は思わず目をつむって俯きたくなったが、それをぐっとこらえてまおちゃんに笑顔を見せた。
「ぼくたちの未来は順調だよ。二人はとても楽しそうに笑っている。二人は水辺に佇んで、手をつないでいる。そしてそこに建っている二人の大きな家を見ているんだ。とても大きな家だよ。小さな子供たちは家の周りを走っている。やったね。これがぼくたちの未来だ」
「まあ、そんなにいい未来が待っているの? 信じられない。わたしがそんないい境遇に立つことなんか、今まで一度も予想さえしたことはない。ねえ、毛沢さん、みんな嘘なんでしょう?」まおちゃんは不意に笑顔を真顔に変えて、毛沢の顔をじっと見た。
 毛沢は「えっ?」と訊ねる風に言葉を発したが、腋の下にはじわじわと汗が滲み出ていた。
 やがてまおちゃんはこんなことを言った。
「わたし、わざわざ沖縄からここまで来て、今あなたと暮らしているけれど、ただぼんやりと暮らしているわけじゃないの。わたしだって、わたしなりに、必死に未来のことを考えている。そしてわたしの未来といえば、それはほとんど全て毛沢さん、あなた次第なの。あなたがわたしを幸せにしてくれる気がなくなれば、わたしは一挙に不幸に転落していく。そのことはよく分かっている。そしてわたしはいつもあなたの様子をじっと見ている。あなたは何かとても迷ってらっしゃる。占いなんか全くできないわたしでも、それがよく分かる。どうか、迷っているのなら、あなたにとっていいようになる道を選んで下さい。それがわたしを捨てる道だっとしても、わたしは構わない。
 だってわたしたちはまだ知り合って間がないんだもの。あなたはこれまでここで様々な人と関わり合いながら生きてきたはずよ。当然その人たちの中には、女の人もいたことでしょう。そんな人たちとの関わり合いの方が、あなたにとっては大事なはずよ。わたしは所詮後から入って来たよそ者。よそ者らしく、よその地に立ち去ってもいいの。だから正直に言って下さい。あなたは迷っているのでしょう? はっきり言って、あなたには他に大事な女の人がいる。そうなんでしょう?」
 さすが大学を出ただけあって、まおちゃんは理路整然と問い詰めてくる。ただの可愛い二十二歳の女の子ではない。六歳も年上の毛沢なんか、子供の位置に転落したような感じがする。
 彼は何も言えずに、もじもじとしてまおちゃんの顔を見つめるばかりだった。まおちゃんも彼を見つめているが、彼のようにうろたえた表情ではない。落ち着いて見ている。
「やっぱりそうなのね」まおちゃんは合点がいったというように一つ頷いて言った。
「そんなに深い関係の女の人がいるのならば、わたしなんかに関わり合っている場合じゃないわ。早くその人に連絡をして、会って下さい。わたしはここを出ても、一人で何とか生きていくことができます」
「何をして生きていくんだ?」毛沢は掠れた声で力なく訊ねた。
「いざとなれば、何をしてでも生きていけるわ。心配しないで、もう決して売春はしないから。たとえ貧乏をしても、真面目な仕事をして生きていく」
「いや、世の中はそんなに甘いものじゃない。ましてやここは都会だ。沖縄のように、ゆったりとした性格の人たちばかりがいる所じゃない。きみのような優しい人を一人で放り出したら、ぼくは悔やんでも悔やみ切れないよ」
「でもあなたには、決まった女の人がいるのでしょう?」
「いや、決まったわけではない。最近亡くなった恩師の娘さんだ。一度結婚をしたけれど、離婚をして、今は実家にいる」
「その人と結婚の約束をしているのでしょう?」
「そんなことはしていない。それに一度申し出たら断られたんだ。だからぼくはもう諦めていた。それで沖縄で知り合ったきみを、ここまで連れて来たわけなんだ。断られたんだから、他の女の人と一緒に暮らしたっていいだろう?」
「けれどもあなたはその人が好きなんでしょう?」
 こう問われて、毛沢は全く絶句してしまった。美穂のことを好きではないとははっきりとは言えない。だからといって、ここでまおちゃんと縁を切ってまで、美穂のことを思っているかというと、それほどでもないような気がする。
「好きは好きだが、今はきみのことの方が好きだ。こういう言い方がいい加減なのは分かっているが、ぼくにはこう答えるより他仕方がない」
「わたしの方が好きなの? そんな馬鹿な。あなたの恩師ということは、大学の先生か何かをされていたのでしょう。そんな立派な人の娘さんと、あちらこちらで売春をしていたわたしとでは、比べる方がおかしいわ。是非、その娘さんと一緒になりなさい」とまおちゃんは命令口調にすらなった。その声には憤慨の響きさえ感じられた。
 彼は全く信用されていないと、毛沢は心の中で考えた。信用できるはずがない。美穂とまおちゃんとでは、住む世界が全く違っている。美穂を捨ててまおちゃんを取るという選択などあり得ないと、まおちゃんが確信したとしても仕方がない。
「きみの言いたいことは分かる」と毛沢は語り始めた。
「しかし人間、生まれた境遇や現在の環境だけで、その人の上下が決められるわけではない。その上、好きか好きではないかという問題になったら、そんなことは全く判断の材料にはならない。ぼくはまおちゃんのことが好きで、まおちゃんと一緒に暮らしたいと願って、ここまできみを連れて来たんだ。そこには並々ならぬ覚悟があるとは考えないのか。ぼくがいい加減な気持ちできみをここに連れて来たとでもいうのか? たとえ他に気になる人がいたとしても、ぼくはあくまでもきみを選ぶという覚悟を決めて、こうしてきみと一緒にいるんだ。それなのに今きみにここから去られたりしたら、ぼくは何のために覚悟を決めたのか分からなくなる。ぼくはただの空っぽの馬鹿になってしまう。きみはぼくをそのようなものにしたいのか? そしてきみはまた不幸の中に落ちていくんだ。二人ともよくない所に追いやられることが、いい解決策と言えるだろうか? よく考えてみてくれ。そしてぼくを信じてくれ」
 ここまで言って、毛沢は語を切った。そしてまおちゃんの顔をじっと見た。まおちゃんもじっと彼の顔を見ている。悲しいような嬉しいような顔をしている。彼女の心はその二つの感情の間で揺れ動いている。
 まおちゃんはひとこと「分かりました」と承諾の返事はしたが、やはり表情は複雑なままだった。
 そこで毛沢はもっと正直になって語ることにした。
「実は今日、その女の人から手紙が来たんだ。そして連絡してくれとそこには書いてあった。ぼくは連絡の手紙を書いたよ。けれどもその人は、確かにぼくを一度きっちりと拒絶したんだ。だからぼくには他の人を探すしかないと考えてもおかしくないだろう? そしてぼくはきみと出会った。きみをここに連れて来た。それのどこが不誠実なんだ? ぼくはその女の人に何を言われようが、きみをこの家から追い出したりはしないよ。まあ、こんな口先だけの言葉では、きみは信じられないかも知れない。何しろきみにとって、ぼくがどう出るかは、命に関わる一大事だからな」
「そうです」とまおちゃんはすかさずこう返事をした。
「わたしはあなたを信じてここまで来ました。ここで今、あなたに追い出されたりしたら、わたしは本当の意味で路頭に迷ってしまいます。わたしはこのままここにいていいんでしょうか?」
「いいよ」と毛沢は頷きながら返事をした。
「もしその女の人に、結婚して下さいとあなたが頼まれたとしても、わたしはここにいていいんでしょうか?」
「そんなことは頼まない」毛沢は思わず笑ってしまったが、まおちゃんは真面目な顔をしたままで、笑ってはいない。
「もし頼まれたらという仮定の話をしているだけで、わたしは冗談で言っているのではないのです。わたしには大事な仮定なのです」
「なるほど、そうだな。きみにとっては、それは大事な仮定だ。それならはっきりと答えよう。その女の人が結婚してくれと頼んで来たとしても、ぼくは決してきみをここから追い出したりはしない」
「安心したわ」と言って、それまで立ったままでいたまおちゃんは、椅子に座ってフッとため息のようなものをついた。
 しかし顔を俯けて、テーブルの上を見つめたままだ。本当に安心している様子には、全く見えない。
「何にしても──」と毛沢が言葉を発したところで、彼のズボンのポケットに入っていたスマホの着信音が鳴った。取り出してみると、まさしく美穂からの電話だった。
 さっとまおちゃんに視線をやったが、彼女は我関せずといった感じで、テーブルの上を見つめたままだ。電話には出ないと仕方がない。
「はい、もしもし」となるべく無愛想な言い方をする。
「ああ、毛沢さん、お元気かしら?」と訊ねてくる。お元気なわけがない。今ここでは大変なドタバタ劇が継続中なのだ。そしてそのドタバタ劇の原因になっているのは、他ならぬあなたなのだと言いたかったが、まさかそんなことも言えないので、
「はあ、まあ、元気です」と言っておく。
「どうしてそんな、怒ったような言い方をするのかしら。わたし、何か、あなたに悪いことでもしたのかしら?」
 悪いことをされたかどうかという点になると、美穂は毛沢に対して悪いことなんかしていない。ただこんなタイミングの悪い時に電話をしてこなくてもいいだろうという、怒りがあるだけで、それは全く彼の自分勝手な怒りなのだ。
「いや、何もしていない」
「それはよかったわ。ところでわたしの手紙は届いたかしら?」
「うん、届いたよ。そして返事も書いたよ。すぐに送る」
「返事を書いて下さったんですね。だったらこの電話は無駄だったのですね。切りましょうか?」と言われて、切って下さいとも言えない。
「いや、お話をしましょう」と毛沢は覚悟を決める。
「お話といっても……あなたの方から、何かお話はないかしら」
「ある。ぼくにはあなたに対して大事な話が一つあるんだ」
「どんな話?」
「ぼく、今、女の人と一緒に暮らしているんだ」と思い切って突っ切ってみた。
「女の人? それって、誰かしら?」
「きみの知らない人だ」
「わたしの知らない人? この世界にいる大体の女の人のこと、わたしは知らないわ」
「そうだな。きみの知らない大勢の女の人の中の一人だ」
「もしかして結婚をしているとか……」
「まだ結婚はしていない。けれどもその人はぼくにとって大事な人だから、いずれ結婚することになるだろう」
「ふーん。そうなってるの。そしてあなたはわたしのことなんか、もう見向きもしないのね」
「ぼくは不倫をするのは嫌いだからね。普通に考えればそうなるね」
 不意に沈黙が返ってきた。それに対して何と答えたらいいのか分からない。それは硬い沈黙だった。はっきり言って、怒りの伴った沈黙だった。
「あなたは不倫は嫌いなのね」毛沢が言ったことを、美穂は繰り返した。
「うん、あまり趣味じゃないな」
「不倫って、倫理に外れたことを言うのでしょう。奥さんのいる男の人と関係を持つことだけが不倫じゃないわね。その逆もあるけれど」
「まあ、そうだね」
「あなた、お父さんの葬式の日に、わたしに突然キスをしたわね。あれはどういう意味だったの?」
「意味?」毛沢は明らかに嫌な予感にとらわれて、陰鬱になる。
「そう。意味。意味というより、あのキスの後、わたしたち二人はどういう風になっていくというつもりで、ああいうことをしたの?」
「あれは……軽率だった……」
「軽率だった……だけなの。軽率だったで終わりなの。わたしの唇には、あの時のあなたのキスの感触が残っているわ。その感触の中には、わたしたちの関係は、並々ならぬものだという実感があるのだけれど、あなたはどう思ってらっしゃるの?」
「あの時はぼくも、並々ならぬものだと思っていたよ。けれどもあの後、きみはひどくぼくに対して怒り、その後また電話をした時も怒ったじゃないか。ぼくは全く拒絶されたと判断したんだ。きみに拒絶されたら、きみ以外の女の人を探さないと仕方がないじゃないか」
「そんなにすぐに探すの? ちょっとした冷却期間というものがあってもいいんじゃないかしら。わたしの方だって、うろたえてしまっていただけかもしれないし、気の迷いということもあるじゃないの。それでそこから立ち直ったら、またあなたに連絡して、『あの時はごめんね』と言ったら、許してくれるというのもあったんじゃないかしら。それなのに、あなたは既にもう、新しい女の人を見つけて、一緒に暮らしている。どういうことなのかしら。あのキスは何の意味もなかったのかしら? 全くの気まぐれのいたずらだったのかしら? だとしたら、これこそ倫理に反することなんじゃないかしら。あなたの嫌いな不倫ということになるんじゃないかしら。わたしはあなたにキスをされた時から、あなたのことばかり考えていたのに、そのあなたは、さっさと別の女の人を見つけて、今は一緒に暮らしている。それはそれでいいんだけれど、わたしは一体これからどうすればいいのかしら」
 美穂の口調はおっとりとしていたが、言っている内容は物凄いものだった。毛沢の胸にいちいちぐさりと突き刺さるものだった。
 それに彼は利尻にこう言われていたのだ。「しばらく沖縄に行って気分を変えたら、また美穂さんにアタックすればいい」と。そして毛沢もまた美穂にアタックする予定だったのだ。沖縄でまおちゃんという人と出会って、一緒にここまで連れて来たのだが、そのことに関して毛沢自身も「本当にそれでいいのか?」と懸念の声をあげ、考え込んでいたものだった。
 そういう意味で、まおちゃんという女性をここに連れて来たことに関して疑問に思う気持ちは彼にはある。しかしそのまおちゃんは目の前にいて、俯いてじっとテーブルを見つめている。こんなに思い詰めている女性を、いとも簡単に捨て去ることができるのだろうか。
 一方美穂は、わたしは一体これからどうすればいいのかしらと訊ねる。どうしたらいいのか、訊きたいのは彼の方だ。美穂がそんなに毛沢のことを気にしていたのなら、あの時居酒屋から電話をした時に、もっと親切な応対をしてくれたらよかったのに。
 だからといって、女性に向かって、「きみはぼくのことが好きなのか?」と露骨には訊けない。恋愛において、好きだ好きだと押すのは、男の方だと相場が決まっている。女性に対して、「きみはぼくのことが好きなんだろう」と問いかけることは、重大な罪に当たる。
 毛沢が、沈黙の中で戸惑っていると、不意にまおちゃんがテーブルの前から立ち上がって、別室に消えてしまった。しゃべりやすくなったと一瞬喜んだが、その喜んだ自分の不誠実さに嫌悪感を覚えた。
 しばらくの沈黙のあと、毛沢は、
「とにかくぼくには大事な人がもういるんだ。それだけは確かなことなんだ。動かしようのない確かなことなんだ」と力説した。
「そしてわたしに対して行ったキスは、どうとでもごまかしようのあることなのね」と美穂は返す。
「それだって動かしようがないことかも知れないが、それがそんなに問題だったのならば、ぼくが沖縄に行く前にはっきりと言って欲しかった」と毛沢は思わず口走ったが、それはもちろん、美穂には気に入らない言葉だった。
「あの時のキスがあるから、わたしを捨てないでとでも言って縋り付いたらよかったの?」
「そういうわけでもないが……」
「とにかくわたしがいけないのね。あんなキス一つくらいで、いつまでもこだわるわたしがいけないのね。あなたにはもう、大事な人がいるというのにねえ」
「そんな言い方をしたら、身も蓋もないが……」
「身がなくても、蓋がなくても、それが事実ということだわ。その大事な人と末永く幸せに暮らしてね。所詮わたしは一度結婚を失敗した女だから、あなたみたいな立派な人には、不適格なのね」
 不適格どころか、毛沢は、本当は、美穂のことがまだ好きなのだ。その言葉が喉の奥から出そうになる。今ここにはまおちゃんはいない。彼女は壁の向こうに立って立ち聞きをしているような子じゃない。
「おい、待ってくれ」と思わず毛沢は、それまでとは打って変わって慌てた声を出した。
「美穂さん、ぼくはやっぱりきみのことが好きなんだ」ついに喉の奥にあった言葉を吐き出した。
 相手は不意のことに驚いたのか、返事をしない。
「ぼくはきみに会いたい。ぼくが利尻と沖縄に行ったのは、ぼくがきみに厳しいことを言われたショックで苦しんでいるのを見て、彼が誘ってくれたんだ。彼はいつか美穂さんも分かってくれるだろうから、少し旅行に行って、こちらも気持ちを立て直そうと言ってくれたんだ。そのつもりでいた。沖縄から帰ったら、すぐにでもきみに連絡を取って、今度はキスどころか、きみの全てを貰い受けるつもりだったんだ」
 ついに言ってしまった。まおちゃんはどうなるんだと、頭の中には懸念の声が渦巻いていたが、今の毛沢はこれだけのことを、どうしても言っておきたかった。
「その大事な人を捨ててでも?」と美穂は短く訊ねた。
 今度は毛沢の方が何も言えなくなってしまった。
「捨てるつもりはないのね。わたしだって、その人を捨てて欲しいとまでは言えないわ」
「捨てないで、どうするんだ?」
「わたしとその人とあなたと、三人でお付き合いをするしかないんじゃない」
「そんなことができるのか?」
「できるかどうか、わたしには分からない。その人にだって分からないだろうし、あなたにだって分からない」
 毛沢は口の中で「うーん」と唸りながら考えていた。
 もちろん、今になってまおちゃんを捨てるわけにはいかない。だからといって、こういう提案までしてくれる美穂を諦めるわけにもいかない。それでは三人で付き合うのか? そんな話、聞いたことがない。
 毛沢はその言葉を美穂に言ってみた。
「聞いたことはあるはずよ。だって昔の男の人は、同時に二人も三人もの女の人とお付き合いをしていたじゃないの。いわゆる正妻がいて、二号さん、三号さんと、別に女の人を囲ったりして」
「あの子を二号さんとは呼べないよ」
「二号さんになるのは、もちろんわたしよ。だって今となったら、先にあなたと一緒に暮らし始めたのはその子なんだから、その子の方が正妻に値するわ。わたしは後から入った女だから、二号さんよ」
「きみを二号さんと呼ぶのかい?」
「呼ばなくてもいいじゃない。わたしのことは、ただ美穂と呼んでくれたらいい。昔はそういうこともあったわよって、あなたにたとえ話として教えているの」
「ぼくにはそんな胆力はないし、第一お金もない」
「わたしはお金目当てであなたの二号さんになろうというんじゃないわ。一応わたしは須田源太郎教授の娘だから、裕福なの。逆にあなたの方に援助してもいいくらいよ」
「援助?」
「そうよ。あなたには人にお金を与えるどころか、今は援助が必要なはずよ。だってあなたが頼りにしていたわたしのお父さんが、あんなに若くに亡くなってしまったのだから、あなたの地位はとても危なくなっている。それでわたしはK大学まで行って、あなたの上司の教授に話をしに行ったのだから」
「ああ、そう言えば、きみは教授に話をしに行ってくれたんだね。あれはとてもありがたかった。けれどもきみにまだ連絡していないと言ったら、教授はとても不機嫌な様子だった。きみの力はぼくにとってとても大事なんだなあと思ったものだ」
「そうよ、あなたの地位の安定のためには、わたしの力は大事なの。だからあなたは是非わたしとお付き合いをしなければならない。そうすれば、今のあなたの地位は安泰よ。その上で、今一緒に暮らしている女の人とも継続すればいい。一石二鳥でしょう?」
「一石二鳥って、そんなことしていいのか?」
「誰に訊いているの?」
「きみに訊いているのさ」
「わたしはいいわ。でもその女の人にも訊いてみないといけないわ。わたしがよくても、その女の人が嫌だと言うかも知れない」
 まおちゃんなら、そういうことに対して嫌だとは言わないだろうと、毛沢は厚かましくも推測した。彼女はそれでなくても不幸な星の下に生まれた人なのだから、ちょっとくらい変な境遇に落ちたところで、それを特別不幸だとは思わないだろう。むしろ彼女は、毛沢が他に大事な女の人がいるのなら、あっさりと家を出ていいとまで言ってくれた人だ。家を出なくてもいいが、同時に美穂とも付き合うと提案したところで、たいして驚かないような気がした。
「分かったよ。彼女にきみの提案について言ってみる。そして彼女の返事をきみにも伝える」
 二人はそこで同意して、電話を切った。
 リビングを出て、二人の寝室兼居間になっている部屋に来てみると、まおちゃんは膝を抱えて向こう向きに座っていた。
 毛沢は、「まおちゃん」と呼びかけた。まおちゃんは膝を抱えたままクルリと体を回転させて、こちらを向いた。その表情にはさほど思いつめた様子もなかった。だからといって、もちろん、明るい表情をしていたわけではない。簡単に言うと、ニュートラルな表情だった。
 彼女は今まで、このニュートラルな表情で、様々な危機を乗り越えてきたのだろう。最初から幸福が来ることなんか期待していない。そしてどんな不幸が舞い降りてきたとしても、さほど驚かない。そのための覚悟をしている、そういう時に人が作る表情だ。
 毛沢は、彼女の顔を見て、全て包み隠さずに打ち明けようと決意した。これだけの覚悟を決めた女性に対して、中途半端な嘘を吐くことは、とても不誠実なことだ。
「まおちゃん」と毛沢はもう一度呼びかけた。まおちゃんは「はい」と返事をして、毛沢の方を見上げた。敢えて膝を抱えた手をほどこうとはしない。しかし表情の方は少し柔らかくなった。わずかに微笑まで漂わせている。
「まず最初に言っておきたいが、まおちゃんはこの家から出る必要はない」と毛沢が口火を切った。
 まおちゃんは微笑を浮かべたままこちらを見上げ、何も返事をしない。
 毛沢はさらにこう続けた。
「ぼくはまおちゃんのことを、しっかり守っていく。そして同時に、ぼくはもう一人の女の人ともお付き合いをする。それは外でする。この家には連れて来ない」
 ここまで言って、毛沢は言葉を切った。そして、「何か質問はないか?」と訊ねた。
「質問ならあります。わたしはその女の人とお会いしてもいいのですか?」
「会うのか? どうして会うんだ?」
 最初に精神的な乱れを見せたのは、毛沢の方だった。恋敵になるはずの美穂と会って、一体何が得られるというのだろう。
「わたしと一緒に毛沢さんを共有する人が、どんな人か、しっかり見ておかないと、あなたの提案に賛成していいのかどうか分からないからです」
「賛成しなかったら、どうするんだ?」
「賛成しなかったら、わたしはここを出て行きます」
「でも、きみが賛成しない人って、どんな人なんだ?」
「それはよく分かりませんが、多分わたしのことを蔑むような人のことだと思います」
 美穂には、まおちゃんのこれまでの経歴については何も言ってはいない。利尻がそんなことを美穂に告げ口するとも思えない。だから毛沢が何も言わなかったら、美穂がまおちゃんを蔑むような材料はないはずだ。
「その人は須田美穂さんという人なんだけれど、きみのことを蔑むような人じゃないと思う。でもぼくの確約だけでは心もとないんだな。きみは美穂さんと直接会って確かめたいんだな。それならそうするといい。一度この部屋に来ていただこう。その時二人で会うといい。ぼくは奥の部屋で本でも読んで待っているよ」
 そういうことで両者は納得した。しかし本心では二人とも納得はしていない。毛沢は二人の彼女を持つということに、納得していないし、まおちゃんはまおちゃんで、毛沢に他の女の人がつくことに、諸手をあげて喜べるはずがない。
 きっとこれから大変なトラブルが起こることだろうと予想すると、毛沢の心は憂鬱になる。しかし憂鬱になって、懐手をしてぼんやりしているわけにはいかない。元々こういう事態を招いた張本人は彼なのだから、彼自身がこの妙な難局を解決するように努力するより他はない。
 翌日から毛沢はK大学の講師の職に復帰した。学生たちは喜んでくれた。学生たちのそんな反応を見て、彼はとても嬉しかった。それまで彼は学生たちに好かれているという実感を持ったことがなかったからだ。それに、須田先生が存命の頃の彼は、完全な出世主義の人間で、いつまでもこんな下らない講師の職なんかしていないで、早くもっと上に上がりたいと切望していたものだった。
 彼の講義を聴く学生たちのことに思いを馳せることは、これまで全くなかった。思えばひどい教師だった。
 一日の講義が終わり、彼の上司の教授の元に顔を出そうと、教授室のドアをノックした。教授は在室していた。コーヒーを飲みながら、毛沢に向かって手をあげた。機嫌のよさそうな表情だった。
「久しぶりだね。どうだった、講義の方は? 勘は鈍ってなかったか?」
「ぼくが講義室に入ったら、学生たちがみんな拍手をしてくれて、とても嬉しかったです」
「そうか、それはよかった。わたしだって、きみが帰って来てくれてよかったよ。ほら、わたしも、こうして拍手をしている」と言って、教授は一人で軽い拍手を何度もしている。
 毛沢は思わずニコリと笑ったが、教授は不意に真面目な顔になって、
「これは冗談じゃないよ。きみには帰って来てもらわないと困るんだ。というのも、学生たちが何人もわたしの部屋に来てね、毛沢先生はいつお帰りになるのかと、訊ねるんだ。わたしは驚いたよ。きみがそんなに人気がある講師だったとは、あまり思ってなかったものでなあ」と言って、テーブルのこちら側にある椅子に、毛沢が座るように、手を差し示した。
 毛沢は一礼をして、その椅子に座り、
「実はぼくも驚きました」と本当の気持ちを打ち明けた。
「いつからぼくは人気のある講師になったのでしょうか?」毛沢は自分のことを相手に訊いている。
「ある学生が言っていたよ。毛沢先生の講義は、今年になってから、俄然面白くなってきましたと。何か惹きつけられるのですとね」
「今年になってから?」と訊ねるように言いながら、彼は考える。
 今年になってから、何か特別な変化があったわけではない。今はまおちゃんとか美穂とのことで、大変な変化の中に身を置いているが、今年が始まる頃には、何も事はなかったと記憶している。
 いや、あった。はっきりと聞いたわけではなかったが、どこかで須田源太郎先生の体の具合があまり思わしくないという噂を聞いた。そして彼は、これからは自分だけの力で立っていかないといけないのだなと、心の中でふと思ったのを記憶している。
 そう思ったことで別にプレッシャーを感じることはなかった。駄目なら駄目でいいやと、軽い気持ちでいた。それがよかったのかも知れない。
 須田先生がいなくなった時のことを考えて、講義の形式について須田先生に相談に行くことも控えるようになった。彼が今人気を博している講義は、彼自身が考えたものなのだ。
 自分の考えていることがこれだけの人気になるというのは、満更嬉しくないことはない。ことによると自分はこの世界で十分自立してやっていけるのではないかと、自信を持つことができる。
「そういうことで、わたしはきみの帰還を待っていたというわけだ。きみにはもう須田先生や美穂さんの力なんかいらない。きみ自身の力で、この大学に根を張ることができるよ」とまで言って、教授はふと顔つきを変えて、
「きみ、美穂さんとのことはどうなっているんだ?」と訊ねた。
 おっと、ここで話が本題に入ったなと、毛沢は少し身構えた。教授の最も訊きたかったことはこのことであり、毛沢が最も教授に説明しなければならないことは、このことだと、前から分かっていた。
「どうもなってはいませんが、連絡は取り合っています」と無難な答えをした。
「それはいい。何と言っても、きみをここまで引き上げてくれたのは、須田先生なのだから、その娘さんを邪慳に扱ってはいかん。それに美穂さんは、明らかにきみのことを心配してくれている。そういう人に向かっては、きみも実意を示すのが筋というものだ。本当は、もう、結婚の予定とかあるんだろ?」と教授は思い切った質問をしてきた。
「いえいえ、そういうところまで話は進んでいません」毛沢は笑って否定した。事実はもっと複雑なものになっているのだが、そんなことを教授に打ち明けても仕方がない。
 教授は今晩の食事を誘ったが、美穂からの電話を待っていなければならないのだと言うと、矛を収めてくれた。実際は、今晩美穂から電話がかかってくる予定はない。ことによるとかかってくるかも知れないが、それはまおちゃんとのことでかかってくることなのだ。
 電話をかけるとしたら、それは毛沢の方からだ。まおちゃんが提案したこと、すなわち、まおちゃんと美穂が二人で顔を合わせること、そのことを彼は美穂に申し出ないといけない。
 善は急げという言葉がある。どうせ電話をしなければならないのならば、早くした方がいい。大学の門を出てしばらく歩いたところに、公園がある。結構広い公園で、仕事帰りの人の多いこんな夕方頃には、結構な数の人たちが散策をしている。そこへ毛沢も足を延ばして、ブラブラ歩いていたのだが、そこのベンチの一つに腰かけて、彼はおもむろにスマホを取り出して、美穂に電話をかけた。
 三コール目くらいに美穂は出た。比較的穏やかな声で「もしもし」と言っている。
 毛沢は、「元気ですか?」というような挨拶めいた言葉を述べた後、家に住む女の子がある提案をしたと、さっそく用件に入った。
「その子の名前は堀川真央子というんだが、その人がきみに会いたいと言っているんだ」
「会いたいの? どうして会いたいんでしょう?」
「それは分からない。ただ、きみに会いたいというのが彼女の希望なんだ」
「その子の年はいくつなの?」
「二十二歳だと言っていた」
「まだ若いのね。さぞかしきれいなんでしょうね」美穂の声は穏やかだが、その言葉に嫌味が込められているのは明らかだ。
「きれいと言えばきれいだね」毛沢は真っすぐに答えるより他はない。まおちゃんは明らかにきれいな女性の部類に入る。こんなことで嘘を吐いたら、後で美穂から何を言われるか分からない。
「正直言って、わたしも会いたかった」と美穂は言った。そうか、会いたかったのかと、毛沢は意外な感に打たれた。しかし考えてみればその気持ちは分かる。自分の付き合う男にはもう一人の女性がいる。それを知っていて付き合うのだから、そのもう一人の女性がどんな女性か、知っておきたいというのは分かる。知っておきたいというより、気になるのだろう。
「そうか、きみも会いたかったのか。それなら会わせてあげよう。できれば外で会うより、家の中で会う方がいいだろう。近々ぼくの家に来てくれないか?」と訊ねる。
「そうね。あなたの家に行った方がいいわね。わたしの家で会うわけにはいかないし」と言いながら、美穂は考えているようだ。いつ行けるかスケジュール表を頭の中で広げているのだろう。
 やがて美穂はきっぱりとこう言った。
「今晩行くわ。どうかしら、あなたたちのご都合は?」
 何と、美穂は今晩家に来ることになった。夜の七時に毛沢のマンションの部屋を訪れるという。今度はまおちゃんに電話をかけて、今晩美穂が家に来るということを知らせた。まおちゃんは別に驚いている様子はなかった。むしろ早く会えるということで、喜んでさえいる。
 電車に乗って最寄り駅まで来て、マンションの部屋のドアベルを押す。まおちゃんがドアを開けてくれた。
 まおちゃんの作ってくれた夕食を食べて、美穂の到着を待っている。まおちゃんは特別何も言わない。黙ってテレビを観ている。毛沢も彼女に付き合ってテレビを観ているが、何も頭に入って来ない。頭の中では、美穂とまおちゃんとの対面のことばかりが渦巻いている。
 やがてドアベルが鳴ったので、毛沢は玄関に出て、ドアを開けた。美穂の到着だ。
 彼女はグレーがかった地味な色のワンピースの上に、黒いチョッキを着ている。彼女はズボンを滅多にはかない。大体の時をスカートで通している。
 まおちゃんもそうだ。スカートが好きなようだ。たいした量の服は持っていないが、ズボンは持っていないと記憶している。
 さすがに美穂の顔は硬く強張っている。「こんばんは」と挨拶はしたが、小さな声だ。毛沢もそれに合わせて小さな声で「こんばんは」と返す。
 美穂を中に招き入れて、リビングに入った。リビングのテーブルには既にまおちゃんが座っている。そして美穂が入って来たのを見計らって立ち上がり、「はじめまして。堀川真央子と申します」と挨拶をして、頭を下げた。
 美穂もまおちゃんの近くまで行って、「須田美穂と申します」と挨拶を返した。
「まあ、座って下さい」と毛沢が勧めると、まず美穂が四人掛けのテーブルの手前の左側に座り、まおちゃんは美穂の真ん前に座った。
「さて、ぼくは席を外すよ。二人きりで話をした方がいいだろう」と毛沢が申し出ると、美穂が、
「どうして席を外すの? わたしたち二人は二人ともあなたの恋人なのよ。わたしたちが何を話すかによって、あなたの運命に重大な影響を与えるのよ。あなたのためにも、ここに残ってわたしたちの話を聞いていた方がよくないかしら」と言った。
 なるほどそうだ。ここで彼は席を外すわけにはいかない。二人の話は彼にとって重要なものになるのだろうから。
「そうか」とひとこと言って、毛沢はその場に留まることにした。留まるということになれば、ぼんやりと黙っているわけにはいかない。彼女たち二人は初対面なのだ。初対面の二人がしゃべりやすいように、何かと気を配る役目が彼に負いかぶさってきた。
 そこで彼はこう話を始めた。
「ところでお二人はもちろん初めて会うのだから、お互いの性格や癖などというものを、全く知らない。そういうことをお互い知らせ合うことから、話を始めればいいのだろうね。まおちゃん、きみは年下なのだから、先に自分のことを、思いつく限り、何か言ってくれないか」
「わたしですか?」まおちゃんは毛沢に微笑み、美穂にも微笑みを見せる。美穂も微笑み返したようだ。
「わたしの身の上話は、毛沢さんに全てを話してあります。とてもひどい話です。あんなひどい話をこの場所で言ってもいいのでしょうか?」
「いや、言いたいことだけを言ってくれたらいい。言いたくないことは言わなくてもいい」毛沢は少し慌てて口をはさんだ。
「そうです。わたしには言いたくないことがあります。それは言わないでおきます。まず最初に性格ということですが、わたしの性格はどちらかというと明るい方だと思います。子供の頃からひどい目にあってはいますが、わたしはあくまでも明るく生きようと決意したのです。そうしないと、絶対にひねくれてしまって、最後には反社会的な人間になってしまうと思ったからです」
 そこでまおちゃんは言葉を切った。とても中途半端なところで切ったものだ。けれどもまおちゃんとしては、まずそこまでしか言えなかったのだろう。彼女の本当の身の上話を知っているだけに、毛沢にはこれ以上彼女に話を続けてくれとは言えない。
「そうですね」と毛沢は主にまおちゃんの方を向いて言う。
「まおちゃんは明るい性格の人だ。それはぼくもよく知っている。それにひねくれたところがない。それも素晴らしいと思う。次に美穂さん、あなたの性格とか癖について何か言っておきたいことはありませんか?」と今度は美穂の方を促した。
 美穂はひとつ咳払いをして、まずこう言った。
「わたしはこの人のように明るい人間ではありません。むしろ暗い人間です。ひねくれてもいます。たまたま裕福な家に育ったから、反社会的なことはせずにすんでいますが、もし何かの逆境に落ちるようなことがあれば、何をするか分からない人間です」
 毛沢は美穂の言葉を聞いて驚いた。美穂がこんなことを言うのを初めて聞いたからだ。彼女は決して暗い人間でもないし、ひねくれてもいない。そして反社会的なことを心の中に抱いたこともない人間だということは、彼もよく知っている。
 しかしここで毛沢が余計な言葉を発するのは、ご法度だろう。いわばこの場は美穂とまおちゃんとの対立と和合の場で、結果が対立になるか和合になるかは、彼女たち自身のこれからの発言にかかっている。
「そうですか」と発言したのはまおちゃんだった。表情は決して暗くなったり、思い詰めたりはしていない。真っすぐ美穂を見つめて、まだ微笑んでいる。
「わたしから見れば、美穂さんは全く暗いところはないように感じます。雰囲気の暗さというものがありません。印象としては、むしろ明るいです」まおちゃんは物怖じすることなく、美穂にそれだけのことを言う。
 美穂もその言葉に対して、「そうですか」と穏やかに返事をして、さらにこう続けた。
「わたしは何の苦労も知らないお嬢さん育ちですから、あなた、まおちゃんって仰るんですね、まおちゃんから見たら、さぞかしぼんやりした人間に見えるだろうと思って、敢えて暗いと言ったのです。そんなわたしを、明るい雰囲気を持っていると言って下さって、わたしは嬉しいです」
「明るいです。そして優しいです。様々な人たちに優しくしていって、いずれは大勢の人たちの面倒も見られるようになるというタイプの人です。わたしのような育ちの悪い人間には、そんなことはできませんけど」
「まおちゃんが育ちが悪いなんて、わたしは全く思いません。そんなお若いのに、とても苦労されてきたみたいですが、その苦労に打ちひしがれているところがありません。素直な優しい感じです。そうです。まおちゃんも優しいとわたしは思います。わたしなんかよりも何倍も」
 まおちゃんはそこで穏やかな笑い声をあげた。そして毛沢の方を見て、
「優しさでは、美穂さんの方がはるかに優しいんじゃないかしら?」と訊ねた。
 いきなり訊ねられたので、毛沢は息を吸ったまま、じっとまおちゃんの顔を見るばかりだった。
 美穂と真央子の二人は、どちらがより一層優しいかで譲り合いながら、穏やかな牽制をし合っているようだ。あちらこちらに電流が流れているような緊迫感が漲っていた。毛沢のような度胸のない男には、簡単に介入はできない。
「確かに優しい」と毛沢は一方を褒めて、
「そしてまおちゃんも優しいよ」ともう一方も褒めた。
「ところで毛沢さんは優しいの?」美穂がいきなり毛沢に訊ねた。そんな質問が不意に来るとは予期していなかった毛沢は、美穂の顔を見ながら口を開けて黙っていた。
「あら、毛沢さんは優しいわ」まおちゃんが女二人の均衡を破ってきた。
「毛沢さんは優しいの? それはどういうことを根拠にしてそう言うのかしら」美穂は今度はまおちゃんに真っすぐ向かった。
「毛沢さんは、わたしが不幸の中で喘いでいるのを見て、助け出して下さいました。わたしにとってはとても優しい人です」
「ということは、わたしにとってはあまり優しい人じゃないということね」美穂は微笑んで毛沢を見る。毛沢も馬鹿みたいに微笑んでいるより他仕方がない。
 この言葉に対しては、まおちゃんも何も発言できない。この危地を切り抜けるのは毛沢本人しかない。
 そこで毛沢は、
「そうだ。ぼくは優しい人間なんかじゃない。それは美穂さんに対してだけじゃなくて、まおちゃんに対してもそうだ。ぼくはただ優柔不断に二人に対していい顔をしていただけで、全く優しかったわけじゃない」と言った。
「その通りよ」と美穂は毛沢を見て、そしてまおちゃんを見る。
「あなたもそう思わないの?」
 そう訊ねられて、真央子にはすぐ言葉が出てこなかった。しかしずっと黙っているわけにもいかないので、彼女はやっとのことで以下のようなことを述べた。
「確かに毛沢さんはわたしたち二人に対して中途半端なことをなさった。けれどもわたしにとっては、たとえ中途半端でも、わたしを助けようとして下さっただけでも嬉しいのです。わたしのいた状況というのは、とても悪いものだったので、中途半端でもいいから脱出させていただいただけでも、素晴らしいことなのです」
「そしてわたしも同じように中途半端になってしまったのね。それでもやはり毛沢さんに感謝しないといけないのね」と美穂は少し陰鬱な表情になる。
「美穂さんは毛沢さんのことを責めてもいいと思う。わたしとは状況が全く違うのだから。だってはっきりいって、美穂さんにとっては、わたしなんか全くの邪魔者以外の何ものでもないんだから。わたしなんかここからいなくなればいいのにって、罵っていただいても構いません」
「罵ってもいいの?」
「はい。罵ってもいいです。わたしはただすみませんとあなたに頭を下げて、この家を去るばかりです。だって女性二人が公認の上で、一人の男性の彼女になっているなんて、そんな異常な状態がいつまでも維持できるはずがありませんもの。罵って下さい。そしてわたしをここから追い出して下さい」
 そう言いながら、まおちゃんは椅子を引いて立ち上がっていた。美穂の言葉があれば、すぐさま行動に移そうという構えだった。
 普段は落ち着いている美穂も、まおちゃんのこの思い切った言動には、少し慌てないわけにはいけなかった。彼女も椅子から立ち上がり、「ちょっと待って」とまおちゃんを制止した。
「あなたはここを追い出されたら行く所なんてないんでしょう? そんな人を追い出すなんて、わたしにはできない」
「行く所があれば、追い出すことができるんですか? だったら、わたしは行く所はあります。わたしは今まで様々な修羅場をくぐってきたから、この地でまた何か事があったとしても、さほど怖くはないのです。だからわたしには、行く所はあるんです」
 毛沢や美穂よりも年下でありながら、まおちゃんは他の二人よりも世間のことを知っていた。だから迫力という点では勝っていた。
 美穂は思わず窺うような顔をして毛沢を見た。毛沢だって、窺われても、何ともできない。しかしこんな変な関係を作ってしまった一番の張本人は毛沢なのだから、ここは彼が何とか事をまとめないといけない。
 そこで毛沢はまず、
「二人とも座ってくれ」と両手を上下に振って、女たち二人を座らせようとした。美穂もまおちゃんも毛沢に従って、まずは席に座った。そして毛沢はこう呟いた。
「ぼくはどうすればいいんだろう……」
 その言葉を聞いた美穂はすぐさま、
「あなたがそんな優柔不断なことを言ったら、物事は収まらないわ。全てを決めるのはあなたなのよ。もしまおちゃんを正妻にしてわたしを二号にすると決めたなら、わたしたちはそれに従う」と深刻な顔をしている。
「逆に、美穂さんを正妻にして、わたしを二号さんにするのなら、わたしはそれに従います」とまおちゃんが続けた。そしてさらに、
「わたしとしては、その方がいい解決策だと思う。どう考えても、美穂さんは二号さんという格じゃないもの。二号さんにぴったのなのは、わたしでしょう」と付け加えた。
「毛沢さんはどっちがいいの?」と美穂が訊ねる。美穂にこう訊ねられて、美穂を二号さんにしようという決断など述べることができるはずがない。毛沢はまた思わず黙り込んでしまった。
 すると美穂が、
「ということは、わたしが二号さんになるのね」と毛沢に確認した。
「わたしはそれでもいい。そしてわたしは経済力のある二号さんだから、あなたの援助はいらない。とても好都合な二号さんでしょう?」と美穂は訊ねるように言うが、毛沢は相変わらず何とも答えられない。
「美穂さんが経済力があるのなら、経済力のないわたしが二号さんになって当たり前のことです。だからわたしはここから出て別の所で暮らします。わたしの経済的な面倒を、美穂さんは見ていただけますか?」まおちゃんはまた話を逆転させて、決めてしまった。
「それはできますけど……でも、あなたはそれでもいいのですか?」美穂はすっかりまおちゃんに圧倒されている。
 しばらく三人は黙って他の者たちの様子を窺っていた。そして不意にまたまおちゃんが立ち上がり、
「それではわたしの住む所を探しに行きましょう。毛沢さんも美穂さんも、物件を探すお手伝いをしていただけますか?」と依頼する。
 毛沢も美穂も「それでいいのか?」という顔でまおちゃんを見上げている。まおちゃんは二人に向かって微笑み、
「今から荷造りをしてくるわ。荷造りといっても、わたしの持っているものなんか知れているから、すぐに終わる。そして三人で物件を探しに行きましょう。明日行けるかしら? それともお二人は明日は忙しいのでしょうか?」と訊ねる。
「わたしはずっと家でぼんやりしているから暇だけど、毛沢さんは大学のお仕事があるんじゃないかしら」と美穂が訊ねるので、毛沢は、
「大学の仕事はいくらでも融通がきく。ぼくはいつの間にか人気講師になっていたので、教授もぼくに対してとても機嫌がいいんだ」と初めて本当の意味でにこやかになる。
 まおちゃんはそんな毛沢をさっと見て、やはり微笑みを浮かべている。毛沢は、気になるので、まおちゃんの顔をまた見る。その微笑みにぎこちないものを感じたからだ。
 彼はまおちゃんに対して、きみをここに住まわせて正妻にでもすると約束したではないか。それなのに今は彼女をこの家から追い出して、二号さんにすることに同意している。これは明らかな裏切りではないだろうか。
 しかし事はそういう風に決まってしまった。まおちゃんは最初からこうなることを予期して、今回の会談を要請したのかも知れない。彼女よりも年上の他の二人は、完全にまおちゃんの術中にはまってしまったようだ。
 しかしわざわざ美穂をここに呼んでおいて、自分の不利になるように事を決めるようにしたとしたら、まおちゃんは底知れぬ人だ。度胸も座っている。それに頭もいい。そして何よりも人間的にとてつもなく大きい。
 まおちゃんは席を去って寝室兼居間に入って行った。彼女が、あっという間に消えてしまったので、毛沢と美穂は閉まったドアを見やったまま、しばらく何も言えなかった。
 最初に言葉を発したのは美穂だった。
「本当にこれでいいのかしら」と彼女は言ったのだ。
「ぼくには分からない」と毛沢は答えるより他に仕方がなかった。
「まおちゃんがここを去って別の所に住むのだとすると、わたしはここにすぐにでも住まなければならないことになるわ」と美穂は言って微笑んだ。
「そんなことができるのか?」
「それはできない。お父さんが亡くなったばかりだというのに、傷心のお母さんを一人残しておけないわ」
「それならこのまま実家に住めばいい」
「するとここはあなた一人になるのね」
「一人になったっていいさ。元々は一人だったんだから、別に何とも思わない」
「思わないのかしら」と言って、美穂はまおちゃんの消えたドアをもう一度見る。
「わたしがこの家に来たことによって、まおちゃんを追い出すことになった。あなたにとっては痛恨の極みなんじゃないの?」
「痛恨の極みでもないさ」
「でも、あの子といたらとても楽しそうだと、わたしは予想するけれど。あの子、とても明るいから、一緒にいたら楽しいでしょう?」
「確かに楽しい。しかしきみと一緒にいるのも楽しいよ」
「まあ、同じくらいというわけね」と言って美穂は小さく声をあげて笑った。

五、
 戻って来たまおちゃんと挨拶を交わしてから、美穂は毛沢のマンションの部屋を去った。明日朝の十時頃にここに来ると約束した。
 美穂は余計なことは言わなかったが、それからまだまおちゃんと一緒にいる毛沢は、何か言わないと仕方がない。
 第一に、美穂はここにはすぐに住めないということをまおちゃんに教えないといけない。だからまおちゃんは無理に他の家を探して、移り住む必要はないのだ。
 しかしまおちゃんは毛沢のその言葉を聞いても、
「やっぱり無理です。わたしはあなたの正妻になるべき女ではないのですから、ここに腰を据えているわけにはいきません。たとえ美穂さんがすぐにはここに住めないとしても、ここはいずれ美穂さんの住むべき場所となる所ですから、わたしは去らなければなりません」とはっきりと言い切った。
 正直言って、毛沢は、まおちゃんにここにいて欲しかった。美穂に対しては、まおちゃんなんかたいしたことはないと強がるより他仕方がなかった。けれどもまおちゃんと二人きりになると、どうしても去らせたくなくなる。それに美穂だって、どうしても彼女をここから去らせたいと切望しているわけでもない。自分から二号さんだと称して、美穂を毛沢の正妻だと言いつのったのは、まおちゃんただ一人なのだから。
 その辺のところを婉曲に述べて、何とかまおちゃんにここにいてもらおうとしたのだが、彼女の決意は固かった。
「わたしは元々闇の中に住んでいた女なのです。大学の教授のお嬢さんの美穂さんと、あのように同席していただくほどの値打ちもないのです。だからわたしの願いを聞き届けて下さってここまで来ていただいただけでも、わたしはとても幸せでした。その幸せを味わわせていただいて、わたしは満足です」
「きみはそんなに自分を卑下しなくてもいいんだ。美穂さんも、きみにそんな風にしてもらいたくてここに来たんじゃない。むしろ彼女は驚いている。きみが自分の方から二号さんになって、ここの正妻の座を美穂に譲ると決めたことにね」
「だって」と言いながら、まおちゃんは朗らかそうに笑う。
「だって、まさか美穂さんに二号さんになって下さいと頼むわけにはいかないじゃないの。毛沢さんは頼めるんですか?」
 そう問われて毛沢は、「できる」とは言えなかった。できるわけがない。美穂は彼にとって大恩ある須田源太郎先生の娘さんなのだ。その人を二号さんにしたいから、どうかよろしくお願いしますなどということは、たとえ美穂が許したとしても、世間というものが絶対に許さない。
「そうでしょう、できないでしょう。わたしはちゃんとあなたのその心の苦しみを知っていたからこそ、ここに美穂さんに来ていただいたの。そして普通の人が考える普通の序列というものに従って、美穂さんが毛沢さんの正妻になって、わたしが二号さんになる、それが一番いいと思ったの。それに二号さんというのももう古い言い方ね。今はあの遊び人の芸能人たちでさえ、不倫をしたらあんなに断罪される時代だから、毛沢さんは二号さんなんか持たない方がいいかも知れない」
「それならどうするんだ?」
「昨日も言ったように、わたしはここから出て、わたし一人で暮らしていった方がいいと思う。心配しないでもいいのよ。わたしはこう見えても逞しいから、一人で生きていくのは、そんなに辛くはない」
「それはいけない。それにもうきみと会えなくなったら、ぼくが寂しいじゃないか」
「そんなこと、言っていいの? 毛沢さんには美穂さんというれっきとした彼女がいらっしゃるじゃないですか。美穂さんだって、表向きは平気な顔をしてらっしゃるけれど、内心は不愉快に思っているはずよ。わたしなんかどこかに消えてしまった方が、美穂さんだけじゃなくて、毛沢さんにとってもいいことじゃないかしら」
「いいことなんかじゃないよ」と否定してみたが、頭のどこかに、「彼女がそんなに言うのだから、勝手にどことなりと消えてくれてもいいと思っているんだろう?」という声が聞こえる。彼の闇の心の声だ。
 もちろん、彼女というものは一人しかいない方が、何かと話は単純に済む。ここでまおちゃんがいなくなって、美穂だけになったとしたら、何の争う余地もなく、彼と美穂はめでたく和合することになる。
 もともと彼は美穂のことだけが好きだったのだ。それで須田先生の葬儀の日に美穂にいきなりキスをするという愚挙を冒すことにもなった。そしてあれは愚挙ではないと、美穂は本当は思っていたようだ。あれから何かが始まると期待さえしていたようだ。それなのに毛沢は、美穂にはもう嫌われたと早合点をして、沖縄からわざわざまおちゃんを連れて来た。
 自分だけの都合で、連れて来たり、追い出したりなどできるはずがない。まおちゃんに対してはしっかりと責任を取らないといけない。それが男の道というより、人間としての道というものだ。
 その夜の二人は、ベッドの上で抱き合うという気にもなれなかった。毛沢は毛沢で物思いがあり、まおちゃんはまおちゃんで考えることがあった。
 二人とも夜中になっても眠れなかったので、自然と酒を飲むということになっていった。
 まおちゃんはそれまで酒を飲むところを毛沢に見せたことがない。だから彼は、彼女があまりにもたくさん飲んで騒ぐので驚いた。
「おいおい、今は夜中だぞ。もうちょっと静かにしてくれないか」と注意をしたくらいだ。
「わたしは騒いではいません!」まおちゃんは起立の姿勢を取って、顔の横に手を立てて敬礼をした。
 毛沢も恩師の葬式の日に美穂にキスをしたくらいだから、酒癖が悪いのは、自分でも知っている。しかしまおちゃんが、夜中の三時にベッドの上でピョンピョン飛び跳ねてダンスをするのを見て、さすがの毛沢も酔いが覚める思いがした。
 酒はもう飲ませないと言って、毛沢は酒宴の片づけを始めた。するとまおちゃんは「何をするんだ!」と怒り出した。
「何をするもないもんだ。ここは他の人たちも住んでいる集合住宅なんだ。もっと静かにしてくれないと、ぼくはここに住めなくなるじゃないか」
「いいじゃないの、住めなくなっても。あなたには美穂さんという人がいるのだから。あの人なら、夜中に騒いでも何の文句も出ない立派な家を作ってくれるわよ」
 あまりに露骨な言い方に、毛沢はかなりムッとした。そして考えた。
「まおちゃんがこんなに酒癖が悪いとなると、やはりここからは追い出した方がいいなあ。しかし彼女はわざとそんな風に演技しているのかも知れない。その辺のところを訊ねてみないと分からない」
 そして彼はまおちゃんに訊ねてみた。
 まおちゃんは突然不機嫌な顔になって、
「わざと騒いでるって? どうしてわたしがわざとそんなことをしなければならないのよ。わたしはただの育ちの悪い不良娘よ。それだけのこと。わざと酒乱のふりをするような器用な真似は、わたしにはできない」と言って、毛沢の頭を平手で叩いた。
 毛沢は「何をするんだ!」と怒気を含ませた声を出して、立ち上がり、まおちゃんに相対した。まおちゃんはヘラヘラ笑っている。全く酔っ払って、投げやりになっている。そしてまた布団の上でドンドンと踊り始めた。
 毛沢はまおちゃんに飛びかかって、踊るのを止めようとした。二人とももんどりうって、布団の上に倒れ込んだ。全くロマンチックなところはない。まるで聞き分けのない子供を抑え込む親ような感じだ。
 そんな風に毛沢は怒っているのに、まおちゃんは声を立てて笑っている。楽しそうというより、とても意地悪な笑い方だった。
 毛沢は思わず、「どうしたんだ?」と彼女の肩を掴んで前後に揺さぶった。彼女は揺さぶられたままになりながら、まだ笑っている。とても手に負えない。
 毛沢はまおちゃんの肩から手を放した。彼女は背中からドスンと布団の上に倒れた。仰向けになったまま、何か意味不明な歌を歌っている。
 これまで毛沢はまおちゃんのことを、とても礼儀正しい立派な子だと思い込んでいた。だからこの豹変ぶりには驚いたし、憤りも感じた。
 しかし一方で、これは彼女が毛沢を怒らせるためにわざとやっていることだという疑念も払いのけることはできなかった。彼女は優しい子のはずだ。これ以上毛沢に面倒をかけないために、ここで彼を怒らせて、自分を見捨てるようにさせようと意図してやっているのかも知れない。
 その可能性を考えると、彼女のことを無下にもできない。「うるさい!」と大きな声を出して彼女の歌を止めた。彼女はあっさり歌うのをやめた。その素直さを見ると、やはりわざとこの騒ぎをやらかしたと考えた方がいいような気がする。
 彼女は別に酒癖が悪いわけでもないのだろう。全ては毛沢に対する思いやりから出た行為だと考えた方がいい。
 まおちゃんは布団の上に座り込んだまま、下を向いている。泣いているわけではない。どちらかというと厳しい顔をしている。毛沢もそれに対しては厳しい顔で応じなければならない。これから真剣な話が始まろうとしていような予感がしたからだ。
 まおちゃんは下を向いたまま、
「毛沢さん、わたしを捨てて下さい」とかなりの力を込めて言った。
「捨てて下さらないのなら、わたし、死にます。その方がいいとは思いませんか? 相手はあんなに立派なお嬢さんの美穂さんですよ。そんな人がいるのに、毛沢さんはわたしを見捨てようとしない。それでは美穂さんが可哀そうです。ちゃんとした結婚をして、ちゃんとした幸せを手に入れる権利のある方です、あの人は。わたしのような邪魔者には入り込む隙間もありません」
 毛沢は俯いたままのまおちゃんの顔を見つめて、一つため息をつく。そしてこういう返事をする。
「確かに今回のことは、美穂さんに対してはひどい仕打ちだ。しかしきみを捨ててしまうことも、それはそれでひどい仕打ちだ。ぼくはきみたちのようなきれいな心を持った女性たちに好かれるほど、いい男じゃない。何なら二人して、ぼくを見捨ててくれてもいいくらいだ。ぼくは何をどうしたらいいのか、もう分からなくなっているんだ。特にきみに対しては悪いことをしたと思っている。沖縄からわざわざここまで連れて来て、こんなに肩身の狭い思いをさせて──」
「肩身の狭いどころか、あなたは沖縄で苦界に落ちていたわたしを救って下さったのですよ。あなたがいなかったら、わたしはもう二度と浮かび上がることはできなかったでしょう。それだけでも、十分あなたに感謝しています。だから、わたしを捨てて下さい。そして美穂さんを幸せにして下さい。ここで捨てられても、わたしは決して恨んだりはしません。もちろん、わたし、二度と売春のような仕事には手を染めませんから、安心して下さい。ちゃんと会社回りをして、真面目な職に就きます」
 やはりさっき暴れていたのは演技だったのだ。その演技がうまくいかなかったので、今度は真率に語り出したのだ。
「安心してわたしを捨てて下さい」と言われても、簡単に「はい、そうですか」とは言えない。見知らぬ都会に来て、まおちゃんにどんなコネクションがあるというのだろう。結局何も仕事がなくて、またもや苦界に落ちるのが関の山だ。
 それかとんでもない男にまた引っかかって、とてつもない辛い目にあうだけだ。
 毛沢は、とにかく明日の物件探しにはちゃんと来てくれとまおちゃんを説き伏せた。取り敢えず新しい住居に落ち着いて、仕事も彼が見つけてあげる。それからのことは彼女の自由にすればいい。
 一生懸命それだけのことを言うと、まおちゃんはやっと納得してくれた。でも毛沢の二号さんにはならないと、はっきりと言明した。自分の生活費は自分でまかなうということだ。
 彼女の決意が固いので、毛沢もそれ以上何とも押せなかった。第一まおちゃんの経済的な面倒を見ると言ったのは、美穂なのだ。彼自身が見るのならばもっと強くも言えるだろうが、彼にはまだそんな力はない。
 そんなことを話しているうちに朝になった。二人は結局一睡もせずに話し合っていたわけだ。食パンを焼いて食べて、コーヒーを飲んで、あまり心楽しくない朝を過ごしていた。
 大学には休む旨を連絡している。これからはあまり休むことはできないだろう。いくら彼の講義に人気があろうと、いつまでもその人気に胡坐をかいているわけにはいかない。あっという間に転落することは、目に見えている。
 朝の九時半頃に美穂が来訪した。紫色のワンピースに、白い上着を羽織っている。まおちゃんは昨日支度した物を担いで出ようとした。毛沢が、
「今日、家が決まるとは確証がないんだから、そんな重い荷物を持たないでもいいよ」と注意したが、彼女はニコリと微笑んだだけで、荷物を置いていこうとはしなかった。
 美穂の知り合いの不動産屋ならいい物件を世話してくれるというので、タクシーでそこまで乗りつけた。タクシー代を払ったのは、もちろん美穂だった。
 最初の物件は、まずまずの立派なマンションだった。少なくとも毛沢が住んでいる所よりも倍はいい。まおちゃんは何も言わずに、不動産屋の後をついて行く。そして彼の説明を聞いている。その様子にどことなく元気が感じられない。
 元気がないにもかかわらず、まおちゃんは「ここに決めました」と簡単に決めてしまった。今日から住めますかと不動産屋に交渉をしている。
 こんなにあっさり決まるとは思っていなかったので、毛沢と美穂の二人は顔を見合わせて首をひねっていた。
 不動産屋の事務所に戻って、契約書などを書かなければならないので、毛沢と美穂は、不動産屋の車に乗り込んだ。その時まおちゃんが、
「ちょっとコンビニでガムを買って来ます」と言って、車を離れようとした。
「ガム? ガムなんか、今買わなくても、どこででも買えるだろう。早く乗りなさい」と毛沢は車の中からまおちゃんに呼びかけた。しかしまおちゃんは、そんな毛沢に何も返事をすることなく、荷物を抱えたまま走ってその場を離れた。
 しばらく三人は車の中で待っていたが、いつまでたっても帰って来ない。美穂が毛沢に、
「コンビニっていったって、まおちゃんはこの辺りのどこにコンビニがあるか知っているの?」と訊ねた。
 そう言えばまおちゃんはこの町に出て来てから、一度も外に出たことはない。だからこんな所の地理を知っているわけがないのだ。
 毛沢と美穂は車から降りて、あちらこちらを走って、まおちゃんの姿を探した。そんなことをしても見つかるはずがない。まおちゃんは二人の元から逃げたのだ。二人に迷惑をかけたくないという一心で姿を消したのだ。
 しかし万が一戻って来る可能性はあるということで、マンションの契約だけは不動産屋で済ませた。名義は毛沢になっていたが、お金を払ったのは美穂だった。
 不動産屋さんの手前もあって、二人はまおちゃんがいなくなったことを、とやかく言い立てることはしなかった。ただひたすら契約書に文字を記入して、相手の説明を聞いていた。
 美穂の知り合いの不動産屋だということで、車で毛沢のマンションまで送ってくれた。その車中でも、二人は何事も話さなかった。
 もちろんまおちゃんのスマホには電話はしたが、電源が切られた状態だった。留守番電話にもなっていなかった。
 マンションの部屋に入って、二人同時にため息をつきながらリビングの椅子に腰かけると、まず美穂が、
「まおちゃん、もうわたしたちの元には帰って来ないのかしら」と呟くように言った。
 毛沢はそれに対しては、イエスともノーとも答えなかった。昨夜の話し合いについて美穂にとやかく話しても仕方がないと考えていた。まおちゃんは毛沢をすっかり美穂のものにするために、姿を消したことは明らかだった。
 美穂の方が、
「ねえ、何か二人で話をしたんでしょう? 今日、こんなことになることを、毛沢さんは予想していたんじゃないの?」と美穂は訊ねた。
「予想なんかしていないよ」毛沢はすぐさま否定した。
「でも、今、まおちゃんがいなくなって、まおちゃんから解放されたと思ったら、少しは嬉しいのじゃない?」と美穂は厳しいところを突いてくる。
「嬉しいわけがないじゃないか」と毛沢が言うと、美穂は、
「あら、わたしは嬉しいとまではいかないでも、少しはホッとしたわ。いけないことかしら」と言って真っすぐ毛沢を見る。
 それはいけないことだと美穂を非難する資格など、毛沢にはない。彼だって、まおちゃんをどのように扱おうかと、この頃はそればかり考えて悩んでいたのだから。
 まおちゃんがいないということは、美穂にだけ集中すればいいのだから、楽になるに決まっている。
 しかし本当にまおちゃんはもう絶対に帰って来ないのだろうか。ことによると二日くらいして、毛沢の元に電話がかかり、まおちゃんが「ただいま」とこの部屋に入って来ることもあり得る。その時彼はどんな顔をしたらいいのだろうか。そしてそのことを美穂にどのように報告すればいいのだろうか。
「ホッとしたと同時に、あなたに対してだんだんと怒りが湧き上がってきたのだけれど、これはどういうことかしら」美穂は毛沢に訊ねるように言った。
「怒り?」とだけ訊く毛沢。
「そう、怒り。あなたは父の葬儀の日にわたしにキスをした。わたし、あんなことされたことなかったから、その時は怒ったけれど、すぐにボーッと顔が赤くなってきた。そしてわたしにはあなたしかいないと思った。それであなたからの連絡をひたすら待っていたのに、あなたは旅行から帰って来ても、何も言ってこない。どうしたんだろうと思ってあなたにこちらかに連絡したら、あなたは沖縄からまおちゃんという女の子を連れて来た。一体どういうことかと考えたわ。あのキスは何だったのかしらと悩んだ。でもあなたにはもう新しい彼女がいるんだから、わたしには入り込む隙間はないと思った。
 けれどもあなたはわたしの父の大事な教え子さんだから、あなたの地位はしっかりさせておかないといけないと考えたの。そしてK大学の教授の所に行って、あなたの地位の保全を頼みに行った。わたしにできる精一杯の好意だと思ったの。実はそれで諦めるつもりだったのだけれど、どうしても諦め切れなくなった。わたしにはどうしてもあの時のキスのことが忘れられない。それでとうとうあなたに電話をすることになった。そのために、あなたとまおちゃんの間柄を滅茶苦茶にすることになってしまった。
 わたしは悪いことをしたのかしら? わたしがしゃしゃり出なかったら、何も波乱は起きなかったということなのかしら? だとしたら怒りの気持ちを向けられるのは、むしろわたしの方かも知れない。けれども、あのキスはどういう意味なの? わたしはあなたにキスをされて、ああ、いい思い出だったわと涼しい顔をして、毎日を生きていたらよかったの? でも結局わたしはこうしてまおちゃんを追い出すことになってしまった。ひどい女なのかも知れない。けれどもあなたは全くひどくはないのかしら。どうなんでしょう、わたしには全く何が何やら分からない。説明して下さらないかしら」
 毛沢はすっかりまいってしまっていた。わざわざ沖縄から連れて来たまおちゃんに逃げられて、どこで何をしているのか心配だというのに、その上美穂にも責められている。やはりあのキスのことだ。あのキス。あれはどういう意味だったんだ? ただの酔っ払いの戯言か? だとしたら、これ以上に罪なことはない。
 そこで毛沢は美穂に対して頭を下げて、
「全てぼくが悪かったんだ。あの時にあんな暴力的なキスなんかしないで、ちゃんときみに結婚なりお付き合いなりを申し込むべきだったんだ」と謝罪した。
「とすると、あれは、結婚かお付き合いの申し込みの変形したものだったというわけ?」と美穂が訊ねた。
「変形って、何だ? ぼくは変形のつもりでは……」
「変形じゃなかったら何なの? あれが正攻法だったというわけ? あのキス自体があなたの結婚、あるはお付き合いの申し込みだったわけ?」
「そうだ」と毛沢は思い切って断定した。
「そうなのね。だとしたら、わたしはあなたに返事をしなければならない。あなたはあのキスで、わたしに、結婚、あるいはお付き合いの申し込みをした。わたしは返事をする。わたしの返事はノーよ。わたしはあんな不可解なキスでは何も意味が分からない。申し込みはちゃんと言葉でしてくれなければ、わたしには分からない。そういうわけでノーよ」
「ノーなのか。ノーって、どういうことだ?」
「ノーっていうのは、嫌だということ。わたしはあなたとお付き合いもしないし、もちろん結婚もしない。ここに来ることも、これがきっと最後になるでしょう」
「どういうことだ。きみはぼくとお付き合いをすることを決めたから、こうしてここにいるんじゃないのか?」
「わたしはまおちゃんに呼ばれたからここに来ただけよ。まおちゃんのいない今、この場所はわたしには何の意味もない」
「意味がないって、昨日ぼくたちは、正妻とか二号さんとかの話をしていたじゃないか。ということは、きみはぼくの正妻になると……」
「誰がそんなこと言いました? あなたはよっぽど失礼な方ね。わたしはまだあなたから正式なお付き合いの申し込みもされていないのに、どうして正妻とかどうとか言われなくてはならないの。まおちゃんがいればともかく、今はもうまおちゃんもいないのよ。あなたのように、フラフラと女の人にキスをしたり、沖縄から女の人を連れて来たりするような人に、実意なんかあるはずがない。このままわたし、こんな所にいたら、今度は北海道からでも女の子を連れて来られかねない。あなたは酔っ払って、道行く女の人たちにキスをして回ればいいのよ。さぞかしおモテになるんだから、誰もかれもみんな、あなたについて来るでしょう。そういうわけで、わたしは必要がないというわけなの。帰りますわね。それから二度とここには来ませんから。ただまおちゃんのことは探し当てて、あそこに住んでもらうつもりよ。そしてあそこになら、わたしは時々遊びに行く。あなたは来ないように。新しい彼女の二十人くらい見つけて、みんな引き連れて町を練り歩いたらいいのよ」
 美穂はそう言って立ち上がり、ショルダーバッグを肩からかけて、そのままドアから外に出て行った。毛沢は敢えて追いかけなかった。そんなことをしても、美穂をより以上に興奮させるだけだと感じたからだ。
 いや、ここで追いかけて、もう一度キスをすれば、彼女は……と一瞬思ったが、それは駄目だろうと、頭の中で却下した。元々のトラブルの始まりがあのキスだったのだから、ここで新たなトラブルの種を蒔く必要はない。
 スマホを取り出してまおちゃんに電話をするが、やはり電源は切れたままだ。この部屋には毛沢以外誰もいなくなった。こうして誰もいなくなった部屋を見回していると、まおちゃんの存在感がとても重要視される。彼には実意が足りない。その通りだ。彼はここでまおちゃんと暮らしていたのだから、まままおちゃんと暮らすと、はっきり態度を明らかにすればよかったのだ。
 態度のはっきりしないところが、女たち二人の心象を悪くしたのだろう。まおちゃんでもいい、美穂でもいい、どっちでもいい、こっちが正妻で、こっちが二号さん、そんな具合に話を進めて遊んでいる場合ではなかった。彼は一度はまおちゃんに決めたのだ。だからこそ沖縄から連れても来たのだ。美穂に何を言われようと、ぼくはまおちゃんに決めたと言明すればよかったのだ。
 何度かまおちゃんに電話をしたが、相変わらずつながらなかった。美穂には電話をしなかった。何故か? 美穂には電話をしたくなかったのだ。まおちゃんには電話をするが、美穂には電話をしない、ここに毛沢の正直な気持ちが現われている。
 翌日は大学に出勤した。毛沢は学生たちに、今日からしっかりと講義に没頭するから、皆さんもついて来て下さいと発表した。学生たちはみんないっせいに拍手をして、毛沢のこれからの頑張りを応援してくれた。
 それからしばらく彼は仕事の鬼となった。美穂やまおちゃんどころではない。家に帰っては入念に講義の構想を練って、翌日は熱心にそれを発表した。
 毛沢の講義を聴きに来る学生の数は、日毎に増えていった。K大学の学長にも呼ばれるようになった。そしてこれからの頑張りを期待すると激励も受けた。
 たとえ美穂が後ろ盾になっていたとしても、彼女ができたのは、せいぜい彼の地位の保全に過ぎない。これだけの人気を誇るようになったのは、一重に毛沢の実力のお陰だ。
 まおちゃんからはやはり連絡はない。まおちゃんのことで美穂からも何も言ってもこない。そして毛沢の方からそれを訊き正すということもしなかった。
そんな風にして一ケ月もたつと、世の中はだんだんと薄ら寒くなってきた。まおちゃんから受け取った、あのかき氷の味も忘れてしまった。もちろん、美穂にしたあのキスのことなんか、彼の頭からきれいさっぱり消えてしまっていた。
 そんなある日、毛沢の研究室のドアをノックする音が響いた。開かれたドアから入って来たのは、友人の遠田だった。
「やあやあ、久しぶりだなあ」と笑いながら入って来る。
「仕事は順調みたいだなあ。きみ、本を出す予定があるそうじゃないか。一挙に出世したね。どういうわけなんだ?」と遠田は相変わらず陽気だ。
「本を出す予定って、まだ原稿を書いてもいないのに、そんなにすぐには出ないさ」毛沢も苦笑いをしながら返事をした。
「しかし俺の大学では、毛沢先生のことで盛り上がっているよ。今のきみなら、何を出してもベストセラーになるだろうって」
「そんなことはない。確かに講義は少し人気は出たけれど、本を書くとなったら、それはまた別のことだからね」
「遠慮しないで、もっと威張りなよ。お土産も持って来たよ、きみの一番喜びそうなやつ」と言って、手に下げていた紙袋を毛沢の机の上に置いた。
「俺の故郷で作っている地酒だ。なかなか有名なんだよ。ゆっくりご賞味あれだ」と言って、遠田はテーブルの脇にあった椅子にドシンと腰をかけた。
「ところで」と言って、遠田は何故か不意に毛沢の研究室を見回した。
「きみは、美穂さんとはお付き合いをしていないのか?」
そこでやっと遠田は本題に入った。彼は明らかにこのことだけを訊きにここに来たのだ。
「していないよ」と毛沢は正直に答えた。彼と美穂との間にはもう何の縁もない。ただまおちゃんのことは気になるから、その点では連絡を欲しいのだが、その連絡もない。
「それはラッキーだ!」遠田はいきなり手を打って喜んだ。彼の無邪気な喜びように、毛沢は思わず微笑んでしまった。
「きみは美穂さんにまだアタックしていなかったのか?」と毛沢は訊ねる。
「していないに決まっているだろう。噂では美穂さんはお前の奥さんになるかも知れないということだったんだ。そんなのに手を出せるはずがない」
「ぼくの奥さんにはならない。だから安心して彼女を口説いたらいい」
「でも、本当は何があったんだ? これも噂なんだが、きみには美穂さんの他にもう一人女の人がいて、二股をかけていたということじゃないか」
「誰がそんなことを言ったんだ?」
「誰でもない。何となく巷の噂ではそうなっていたということだ。だとしたらお前、なかなかやるじゃないか。もうお前には美穂さんはいらないということだな。その女の人に決めたのか?」
「まあ、そういうことかな」と曖昧に胡麻化しておく。今ここで遠田に詳しいことをくだくだしく語る気にはなれない。それに彼はおしゃべりな男だから、また新しい噂のネタを彼に提供するだけになってしまう。
「だとしたら、俺は美穂さんにアタックすればいいわけだけど……物事はそう簡単にはいかない。俺は美穂さんにそんなに好かれているわけじゃないから、今からどうぞお願いしますと申し出ても、はい、そうしますとは応じてはくれない。そこでだ、相談があるんだが、お前、俺と美穂さんの間に立って、一緒になるように取り計らってくれないかな」
 とんでもないことを言う奴だと、毛沢は遠田の顔を思わず厳しく見つめてしまった。遠田はあまり気にする風もなく、毛沢の顔を呑気に眺めている。
 毛沢はひとこと、「そんな役割をするのは嫌だ」と答えた。
「どうして嫌だ」とまだ言ってくるので、
「お前は無神経な奴だな!」と思わず怒鳴りつけてしまった。
「無神経? 俺が無神経? そんなの、分かり切ってるじゃないか。俺はこの無神経さを売りにして、ここまで世間を渡ってきたんだ。何を好んで神経質になる必要があるんだ? お前だって、美穂さんという須田先生の娘さんがいながら、他の女と二股をかけるなんて、よっぽど無神経じゃないか」
 なるほどそうかも知れない。毛沢こそ無神経だ。しかしその償いに遠田と美穂の間柄を取り持つような役割はしたくはない。当たり前だ。
 そのことをはっきり言うと、遠田は急に椅子の中でがっくりと肩を落とした。そして、
「俺には自信がないんだ。須田門下の三羽ガラスと言われたことはあるけれど、俺には利尻やお前みたいな能力はないしな。それに今まで美穂さんとまともにしゃべったこともない。彼女の前に出たら、ガタガタ震えてきて、口が動かなくなるんだ。おい、何とか助けてくれないか。美穂さんとの間柄を取り持つとまではいかなくても、何かちょっとでも助けてくれよ。嫌か?」
「遠田は案外純情なんだな」毛沢の機嫌は簡単に直っていた。しかし彼を助けるといったって、事がこういうことだから、毛沢には何ともしようがない。第一、毛沢こそ美穂に嫌われているに違いない。
「そうなんだぜ、俺は純情なんだ」彼は純情さを強調する。毛沢を見る顔が期待に満ちている。そんなに期待をされても困る。そこで遠田にこう言う。
「ぼくの方はもう、美穂さんの前に姿を見せられない立場なんだ。もしそういうことで助けてもらいたいのなら、利尻に頼んだ方がいい。利尻と美穂さんは離婚はしているが、間柄は険悪ではないみたいだし」
「そうか、利尻か。しかし利尻は俺のことなんか軽蔑しているみたいだからな。なんか、頼みにくい」
「軽蔑してるって、そんなことがあるはずがない。きみはそのように僻みっぽく人のことを考えるのが悪い癖だ。きみだって、ぼくや利尻と変わらないくらいの人間だ。いや、ぼくや利尻がそんなに優れた人間だとは思っていない。二人とも煩悩にまみれた、汚れた人間だよ。変わらないんだ。利尻だって、本当は別に好きな人がいたのに、美穂さんと結婚するような馬鹿なことをした。それで美穂さんを随分傷つけてしまった。ぼくはぼくで、また悪いことをした。美穂さんに対して悪いことを一つもしていないのは、きみだけじゃないか。三人の中で一番美しい人間はきみかも知れないよ」
「俺が美しいのか? 笑わせるなよ。三人の中で顔の出来も劣るしな」と言って遠田は笑っている。否定しながらも、何となく嬉しいようだ。何が美しいにせよ、自分のことを美しいと言われて、腹の立つ人間はいないだろう。
「顔の出来のことなんか言ってるんじゃないってことは、きみだって分かっているよな」と毛沢も笑っている。
 毛沢は普段遠田とはどうも話が合わずに困ることが多かった。二人の気質の違いが、そういう齟齬を産んでいたのだと思う。ところが今日はとてもスラスラと言葉が出る。
 彼は初めて気がついたのだ、遠田という男の美質が。それまではただがさつなだけの男だと見なして、敬遠していた。しかし利尻と彼と遠田の三人を並べて、人間的に一番上等なのは、遠田なのではなかろうかと、気付いたのだ。
「俺みたいな男でも、美穂さんは惚れてくれるかな?」遠田は上目づかいになって、おずおずと訊ねた。
「恋愛に関して言えば、どんな人にでも可能性はある。可能性がある限り、ぼくたち学者は、取り敢えず試してみるというのが学者の常道だろう」
「そうだな。取り敢えず試してみて、駄目だったら、別の手を使うか、諦めるかどちらかにする、というわけだ」と納得したようなことを言いはしたが、顔はまだ憂鬱そうに翳っていた。
「ぼくはこれ以上どうのこうのとは言えない。どうしてもきみと美穂さんに一緒になって欲しいと願っているわけでもないからね。でもそんなに打ち沈む必要はないよ。ふられたって、命まで取られるわけじゃないんだから。何十年もたったら、ああ、あんなこともあったなあって、利尻と三人で笑いながら酒を飲むことができるようになるさ」
「お前は、励ましているのかいないのか、どっちか分からないような言い方をするな」と言って、遠田は口の中で小さく笑った。そして、
「試すのなら、早く試してみたいと思うようになったな。今晩須田先生のお宅に行って、美穂さんにぶつかって行く。そこで玉砕するのならするさ。俺の一世一代の大勝負だ」と言って、椅子から不意に立ち上がった。
 毛沢は遠田の緊張し切った様子を見上げながらも、別に何も言葉を発しなかった。
「おい、頑張れ、の一言もないのか」遠田は苦笑いに顔を歪めながら、毛沢の様子を窺っている。
「うん、そうだな、頑張れよ」と毛沢は口にするが、頭の中では何か別のことを考えている様子だ。
「愛想のない言い方だな。まあいいや、こんな問題は俺一人の力で解決しないといけないのだから。お前は一緒について来てもくれないんだからな。薄情な奴だ」
「薄情って、分かるだろう、ぼくが美穂さんに会うのがどんなに気まずいかが──」と毛沢が途中まで言うと、遠田はそれを遮って、
「分かってる、分かってる。でもこうして話を聞いてくれるだけでも、勇気が湧いてきたよ。ありがとうよな。俺のことを美しい人間だなんて言ってくれたしよ、お前はとてもいい奴だ。利尻は利尻でいいところもあるだろうが、俺もだんだんその良さが分かってくるのだろう。今日は一緒に飲みにでも行こうかと思って来たのだが、俺には大事な仕事がある。今から須田先生のお宅に伺って、美穂さんに体当たりをしに行く。それじゃあな」と手を振ったが、なかなか出て行かない。毛沢の反応が悪いのが気になるようだ。
「おい、お前、何か具合でも悪いのか? いつも愛想はよくないが、今日はより一層愛想が悪いぞ」と心配しているのか怒っているのか分からないような厳しい顔をする。
「いや、具合は悪くない。いたって健康だ。それに人間関係とかのトラブルもない。それどころか、ぼくはこの頃とても人気講師になっていて、ウキウキしているくらいだ」
「そうだってなあ。噂は聞いているよ。しまいにテレビか何かからオファーがあるんじゃないか。そうなったら、お前は俺にとっては、雲の上の人だ」
「そこまで上がることはないさ。それにテレビなんか、怖くてとても出られない。ぼくはただただ地味に生きていきたい。派手に目立つのは嫌だ」
「そう言えば、若い頃、俺たち三人は少し派手に目立っていたなあ。お前たち二人はいいよ、まだ実力があったから。俺なんか実力がないのに、三羽ガラスの中に入れられて困ったよ。色々な人に嫌味も言われたしな」
「そうだ。目立つのはよくない。疲れるだけだ。須田先生だって、あまり目立って忙しくしてらしたから、寿命をお縮めになったのかも知れない。ぼくは目立ちたくない。だから今回人気講師になってウキウキはしても、ちゃんと兜の緒は締めておかないといけないと考えているよ」
「なるほどね。お前はお前で大変なんだ。俺は俺で大変なことがこれから控えている。よし、それなら行くぞ。またな、電話をする」と言って、遠田はドアを開けて今度は本当に出て行った。
 遠田の遠征の成果をここで述べておくと、彼は見事成功した。つまり美穂との結婚にこぎつけることができたのだ。最初その知らせを本人からの電話で聞いた時には、俄かには信じられなかった。遠田一流の冗談かと思ったが、遠田は冗談ではないと言う。その上利尻からも電話がかかってきて、遠田と美穂の結婚を言い立てたものだから、それは歴然とした事実なのだということを実感した。
 季節は寒い冬に突入していたが、毛沢の仕事はとてもホットだった。彼の講義の人気はまだ上がり続けていて、教授からはついに准教授になるように推挙された。そして遠田が予想したように、テレビからのオファーまであった。
 テレビの話は丁重にお断りをしたが、本を書いてくれという出版社からの話は受けることにした。学者にとっては、本を書いて話題になることは、一つの大きな夢でもある。
 まおちゃんからはやはり何も連絡はなかった。時々ふっと部屋でまおちゃんの名前を呼んでしまうことがある。そのたびに、ああ、まおちゃんはもういないのだなあと、がっくりと落ち込んだ。
 人気講師の毛沢も、正月は寂しく一人で過ごしていた。酒を飲んで、わけの分からないテレビを観ていた。するとスマホが鳴って、手に取ってみると、驚いたことに美穂からだった。
 毛沢はおずおずと「もしもし」と返事をしてみた。「明けましておめでとう」などという有り触れた挨拶は割愛した。
 相手も「もしもし」と言ったあと、
「まおちゃん、わたしの買ってあげたマンションに帰っているわよ」と伝えた。
「えっ、まおちゃんが!」毛沢は大きな声を出した。
「そうよ。あの部屋にいる。早く行ってあげなさいよ」と言う美穂の声には、嫌味らしいところは何もなかった。
「ぼくに会いたがっているのかな」自信なさげに毛沢が言うと、美穂は、
「何を言っているのよ、あの子があなたに会わずに一体誰と会うというの? 本当はあなただけが頼りなのよ」と厳しい口調で言った。
「まおちゃんがそう言ったのか?」
「まおちゃんが露骨にそんなことを言うはずがないじゃないの。彼女にだって、恥じらいの気持ちくらいあるわ。それにあなたに対する遠慮もあるし」
「そうか」と呟くように言って、毛沢は口ごもってしまった。あることを訊きたいのだが、どうも訊く勇気を持てないでいる。
 すると美穂がいきなり、
「あなた、知っているのでしょう、わたしと遠田さんが結婚することになったことを」と彼女の口から重大な発表が出た。
「ああ、知ってる……」毛沢は完全に気圧されている。
「そのことを、まおちゃんも知ってるわよ。わたしが言った。とても驚いていた。そして自分のせいでそうなったのかというようなことを訊いてきたけれど、そうじゃないってはっきり言っておいた。わたしはまおちゃんにあなたを譲ろうとして、遠田さんを選んだわけじゃないのよ。あなただって、もしかしてそう思ったんじゃない?」
「確かに……きみと遠田が結婚するという知らせには、ぼくも驚かされた。しかし遠田はいい奴だから、きみと結婚したって、何の不思議もないわけだ」
「と言いながら、内心では、不思議だと思ってるんでしょう」と言って、美穂はフフフと笑った。
「いいのよ、どう思ったって。わたしが遠田さんを選んで結婚することになったのは、確かなことだから。選んだ理由をとやかくみんなで言い合っても仕方がないでしょう」
「そうだな」
「あら、あなた、あんまり嬉しそうじゃないのね。だって、今あなたは、晴れてまおちゃん一人に集中できるようになったのだから、喜ぶべきことでしょう? 早く連絡してあげなさいよ」と言ったあと、電話は間もなく切れた。毛沢はさっそくまおちゃんに電話をかけた。
 するとちゃんとコール音が聞こえてきた。電源は切られていない。やがて「はい」と答えるまおちゃんの声が聞こえた。
「まおちゃんかね?」と間抜けな問いをかけた。
 相手はまた「はい」と答えた。あまり嬉しそうではない。長い間会っていないのだから、遠慮の壁ができているのだろうと、毛沢は考えた。
「今、忙しいのか?」と訊ねてみる。何かの用事中だったらいけないからだ。
「いいえ、別に忙しいことはありません」とはっきりと答えた。
「あれから何をしていたんだ?」と毛沢は問うた。
「あれからですか?」と言って、少し間がある。何をしていたのか、一生懸命思い出しているのだろうか。やがてこう言った。
「何もしていません。ただ街をブラブラしていただけです」
「こんなに長い期間、街をブラブラしていたのか?」
「もちろん、働きました。食堂で住み込みで皿洗いとかをしていました」
「そうか」と答えながら、何かしら妙な感触を覚えるのを避けられなかった。
 まおちゃんの様子がよそよそしいのだ。以前一緒に暮らしていた時などは、電話でしゃべっても、もっとウキウキとした声を出していたものだ。
 そこでちょっと言いにくかったが、思い切って、
「いつかそちらに行ってもいいか」と申し出てみた。
 まおちゃんは「はい、いいです」と答えはしたが、やはりあまり嬉しそうではない。
「いつ行こう」と訊ねるように言ってみるが、まおちゃんからは何の返事も返ってこない。
「明日仕事が終わってから行ってもいいか? 夜になるけれど」と申し出ると、まおちゃんはただ、「はい」と答えただけだった。
 非常に愛想のない返事だ。
 そこで毛沢は少し押してみることにした。
「きみは、ぼくのいるこの部屋に戻って来る気はないか?」と。
 すると何も返事が返ってこない。どういうことだ、このまおちゃんの愛想のなさは、一体どう解釈すればいいんだ。
「おい、ぼくは訊ねているんだ。返事をしたらどうなんだ」毛沢の言い方は少し乱暴になる。
 するとまおちゃんは、
「そちらに帰ることはないと思います。そしてわたしは今こちらにいますが、こちらにもいつまでもいることはないのです。わたしには他に住む場所が決まっているのです」と言った。丁寧な言い方だが、毛沢にはとてもよそよそしく聞こえる。
 それはそうだ。彼女は何か月も行方を晦ましていたのだ。その間に全く住む場所がなくて過ごしたということはあり得ない。そこにすっかり落ち着いてしまっているということはあり得る。
 毛沢は嫌な予感の虜になっていた。まおちゃんは彼とは一緒に暮らす気はないのだ。だとしたら、明日の夜行ったって仕方がないのではないだろうか。しかしどうして彼女の心はこんなにも離れてしまったのだろうか。
 毛沢はすっかり戸惑ってしまって、簡単な挨拶だけをして、電話を切ってしまった。
 美穂は遠田と結婚することが決まってしまった。まおちゃんはもう彼と一緒に暮らす気はないようだ。こうなったら彼は一人になってしまう。何となく寂しい気分になっていると、どこからか電話がかかってきた。
 それは東京の大手の出版社からの電話だった。毛沢の大学での講義が好評なので、それを本に起こして出版したいのだがどうだろうという申し出だった。彼の講義ノートを本に起こす作業は会社の者がする、だから先生は後の校正さえしていただければいいということだった。
 これはいい話だった。パソコンに向かって一から何かを書かなくてはならないこともない。既にノートに書いてあるものを編集するだけなのだ。ただ大学の講義を本にするとなったら、大学に許可を取らなければならないだろうと彼が言ったら、出版社の人は、その辺はちゃんと話を通してありますから、ご心配はいらないとのことだった。とても手回しがいい。
 仕事が順調だというのは、生活者にとってはこの上もない幸せだ。まおちゃんの素っ気なさはとても気になるが、この頃長く会っていなかったのだからそれも仕方がない。
 出版社の人は後日お宅に伺うということで電話を切った。毛沢は口笛でも吹きたいようなウキウキした気分になっていた。
 まおちゃんの住んでいるマンションの部屋に着いたのは、夜の七時前のことだった。ドアベルを押すと、「どなたですか?」とインターホンの声が聞こえたので、毛沢はその機械に向かって「毛沢だ」と名乗った。
 ドアが開いて姿を現わしたのは確かにまおちゃんだった。毛沢を見ても、ほとんど笑顔らしいものは浮かべなかった。どちらかというと困惑している。
 服装は、自分も今帰って来たばかりだというような、緑のコート姿だった。そんなコートは一度も見たことはない。
「こちらにどうぞ」とよそよそしい言い方をされて中に入ると、リビングのソファの一角に、一人の痩せた男が座っている。毛沢の姿を見ると、立ち上がって挨拶をした。「相田です」と名乗った。
 毛沢は相田と名乗った男を見て、その傍らに立つまおちゃんをじっと見た。そして全てを察してしまった。彼はもうまおちゃんにとっては大事な人間ではないのだ。むしろ彼は邪魔者なのだ。このまま「すみません」と言い残して背中を向けて去って行っても、まおちゃんは決して彼を追いかけたりはしないだろう。
 いきなりそんなこともできず、毛沢も相田に対して頭を下げて挨拶をした。痩せていて長身で、同時に気の弱そうな男だった。こんな男に対して気色ばんだりはできない。
 そんな相田の方からこう話は切り出された。
「ぼくは相田聡という者です。年は二十五歳です。何でもない普通のサラリーマンです。金持ちの家に生まれたわけでもありません。貯金もたいして持っていません。でも、真央子さんに対する気持ちだけは誰にも負けません。あなたは真央子さんにとって大事な恩人だと伺っておりますので、一度はこうしてご挨拶をしておかなければならないと思っておりました。真央子さんを魔界から救っていただき、こうして普通の世界に生活させていただいたことは、ぼくからも深々とお礼を申し上げます」と言って、相田は本当に深々と毛沢に対して頭を下げた。そしてさらにこう続ける。
「しかしぼくが彼女と出会った時には、彼女は普通の状態にはいませんでした。大勢の男たちの怒号の中に囲まれておりました。要するに乱暴なことをされかけていたのです。そこへぼくが偶然行き合わせて、その時ちらりと見た彼女の目を見て、『よし、この人だ』と直感したのです。
 ぼくは男たちの中に飛び込んで『やめろ!』と叫びました。男たちは五人ほどいたと思います。みんな顔を見合わせて笑っていました。それはそうでしょう。そんな所にぼくみたいな痩せっぽちの男が飛び込んだところで、勝てるはずがありません。ぼくはさっそくボコボコに殴られました。でも殴られてもぼくは立ち上がりました。命をかけてでもこの女性を救おうと決意していたのです。
 男たちもぼくのこの馬鹿な振る舞いを見て、さすがに呆れたのだと思います。『まあ、今日はやめておこう』とか言って、その場を去って行きました。幸い命は取られはしなかったのだけれど、ぼくはかなりの怪我をしていました。それで真央子さんが救急車に電話をしてくれて、それからずっとぼくに付き添ってくれました。
 一ケ月ほどの入院生活を経て、ぼくと彼女は正式にお付き合いをすることになりました。ぼくの入院中から彼女はもう、ぼくの住んでいるマンションの部屋に住んでいたのです。住む所がないと言われたので、ぼくが是非にと勧めて、部屋に住んでもらったのです。こんなチャンスをふいにしてはもったいないです。彼女の身元が怪しいかどうかとか、そんなことは一切考えていませんでした。この人と一緒に住むことになるのならば、どんなに疚しいことのある人でも構わないと決意していたのです。
 そしてぼくたち二人は晴れて一緒に暮らすことになりました。その時に彼女はそれまでの身の上話をしてくれました。子供の頃からの不幸のこと、魔界に一度落ちたこと、それからもう一度本格的に落ちてしまう寸前に、あなたに救っていただいたこと、そういうことを細かく打ち明けてくれました。
 彼女は、一度魔界に落ちていた女だが、そんなわたしでもいいかと訊くので、ぼくは是非結婚しようと言いました。そしてそうなるとあなたには挨拶しておかなければならないと彼女が言うので、ぼくも一緒に挨拶したいと言って、ここまで来たのです。
 どうでしょうか、ぼくたちの結婚を許して下さいますか? ぼくだって、ただのお坊ちゃんじゃないのだから、あなたと真央子さんとの間には色々なことがあったのだろうくらい、察してはおります。でもぼくたちの決意は固いのです。どうかぼくたちの結婚をお許し下さい。お願いします」
 そう言って相田はまた深々と頭を下げた。痩せっぽちで貧相に見える男だが、気骨はしっかりしているようだ。しかし毛沢はまおちゃんの父親ではないのだ。彼女と結婚したいと言う男が現われて、その申し出に許可を与えるか、拒否をするかの立場にあるわけではない。彼こそまおちゃんと結婚したかった人物なのだ。
 だから『結婚させて下さい、お願いします』と頼まれても、ただ単に虚脱感に襲われるだけだった。
 彼はまおちゃんを見た。彼女の表情は、以前彼を見ていたものとは全く異なっていた。彼女が愛しているのは相田という男であって、決して毛沢ではないということが分かった。
 毛沢だって、若干二十八歳の男なのだ。女性に見限られたら、がっかりする。とてもその女性の保護者のような役になりきって、余裕をもって彼女の恋を祝福するなどということはできない。
 五人もの与太者に囲まれた女性を助けようと飛び込んだ相田の勇気は凄まじい。半死半生という状態まで痛めつけられたことだろう。まおちゃんの性格からすれば、自分のためにそんな目にあった男性を、そのまま放置してはおかないだろう。
 まおちゃんはあの日気まぐれに毛沢の元から離れただけで、すぐに帰るつもりだったのかも知れない。その辺のことは訊いてはいないが、今さらそんな事実を明らかにしても仕方がない。
 彼女は相田という男と結婚する決意をしている。毛沢がどう反対しようが、彼女の決意は変えられない。だとしたら毛沢の言うことはただ一つ、彼ら二人に結婚の許しを与えることだけだろう。
 そこで毛沢は、
「いいよ、結婚しなよ。大体ぼくはまおちゃんに対して不誠実だったんだから。こんな奴に許しを貰う必要すらないんだ。自由に結婚すればいい。まおちゃん、美穂さんには結婚のこと、言っているのか?」毛沢はふと思いついて訊ねた。
「いいえ、何よりもまず毛沢さんの承諾が必要だと思って、美穂さんには何も言っていません」
 なるほど、美穂は何も知らなかったのか。これからはまおちゃんと心置きなく一緒に暮らせるから嬉しいじゃないのという、祝福の言葉も出るわけだ。美穂はそんなことで嫌味を言うような女性ではないので、おかしいと考えていた。
「美穂さんにはぼくが言っておく。わざわざ挨拶に出向くことはないよ」
「いいえ、美穂さんにもちゃんと挨拶はします。──毛沢さん、どうもありがとうございました。あなたから受けた御恩は一生忘れません」と言って、まおちゃんは深々と頭を下げ、相田もまた頭を下げた。
「まあね」と意味のよく分からない言葉を呟いて、毛沢も軽く頭を下げた。
 いつまでもこんな所にいたら、惨めになるだけだと感じたので、彼は、
「それなら帰るわ。二人とも末永くお幸せにね」と祝福の言葉を残して、手を振って、ドアを開けてマンションから出た。
 外に出るとちょうど冷たい風がビューと吹きかかってきた。コートを着ているから寒くはなかったが、その音が彼を寒い気分にした。
 美穂は遠田と結婚することになった。まおちゃんは相田という男と結婚をする。毛沢には誰もいない。結局須田先生の葬儀の日に美穂にいきなりキスをしたことが、こんな破局を招いてしまった。
 しかし今の彼には、結婚よりも楽しみなことがある。彼の講義ノートを元にして、本を作るという話だ。結婚話の一つや二つふいにしても、世に出るチャンスが来たことは幸せだ。有名になりたいとまでは思わない。ただ、生きていて幸せだと思える程度の仕事に恵まれるとしたならば、それはそれでよいことだと、毛沢は考えた。
 するとスマホの通知音が鳴って、見てみると、利尻からのメールだった。
──おい、毛沢の本が出るという噂がぼくまで届いたが、本当のことか?
 毛沢は思わず微笑んで、
──本当のことだ。
と返した。
 今から遠田を呼んで、三人で宴会だ、と利尻は以前三人で飲んだ居酒屋を指定した。毛沢は、もちろん行くと返事をした。
 美穂と結婚することが決まった遠田にも、ちゃんとお祝いを言っておかないといけない。そうしないと、遠田は案外気の弱い奴だから、毛沢に遠慮して、連絡をして来なくなる。
 毛沢にとって、この三人の友情は、何よりも大事だ。女性の友達は同時に何人も作ることはできない。そんなことをしたら、今回の美穂とまおちゃんみたいなトラブルになってしまう。男性の友達ならば、何人作っても、誰にも咎められることはない。毛沢、利尻、遠田の三人が、三角関係になってもめるということもない。
 これからは男の友達だけを大事にして、もしできたら女の友達にも少し手を伸ばして、また手を引っ込める。そしてまた伸ばして、手を引っ込めるということを繰り返して、いつかは、この人なら落ち着けるなあと思えるような人と出会えたら、それでいい。
 毛沢は、電話でタクシーを呼んで、例の居酒屋に向かった。利尻と遠田も同時くらいに居酒屋に着いた。遠慮ぎみにしている遠田に対して、毛沢はさっそく「おめでとう」と力強く声をかけた。遠田は最初はびっくりした顔をしていたが、すぐに笑顔に表情を崩して、「ありがとう」と礼を述べた。
 居酒屋の席で繰り広げられたのは、遠田の結婚のことでもなく、毛沢の女性遍歴のことでもなく、もちろん利尻の妻のことでもない。毛沢がこれから出す本についてだった。
「ことによると、毛沢が三人の中で一番の出世頭になるかも知れないなあ」利尻が日本酒のお猪口を口にしながらしみじみと言った。
「いやいや、ぼくはたいした出世はしないだろう。精々人並くらいの生活ができるようになったら、それでいいんだ」毛沢は欲のないことを言う。
 毛沢は、久しぶりに肩の荷が降りたような気分になっていた。女性と仲良くなるのは刺激的でかつ楽しいことだが、気苦労も多い。これからは女性のことにはそんなに一生懸命にはならず、コツコツと仕事をして生きて行こう。
 そう毛沢安文は考えるのだった。

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