あの日の後悔

文字数 1,612文字

「ひぃちゃん」は、昨年入社したばかりの総務部の女の子である。
もちろん、「ひぃちゃん」というのは愛称で、本名は横田ひかり。人見知りでおとなしい感じがありつつも、愛嬌があり、誰に対しても笑顔で挨拶することから、入社してすぐに「愛されキャラ」になっていた。

彼女が所属している総務部と、私が働いている社内システムの保守・運用を担う社内システム部では、同じ建物内でもフロアが異なるため、実際に会うのは数か月に一度くらいで、しかも廊下ですれ違う程度だったが、そんな私に対しても「おはようございます」と笑顔で挨拶してくれる女性だった。そんなひぃちゃんなので、多くの男性社員から注目されるようになった。しかし、ひぃちゃんには学生時代からお付き合いしている男性がいたので、社内の独身男性たちが「ひぃちゃんの彼氏ってどんな人なんだろう?」、「ひぃちゃんの彼氏が羨ましい」と愚痴をこぼしていたのを覚えている。

ひぃちゃんが入社した年の年末のことだ。僕は珍しく用事があって総務部に行き、久しぶりにひぃちゃんと再会したが、ひぃちゃんのちょっとした変化に気がついた。以前に比べて少しぽっちゃりしていたのだ。このとき僕は「入社したときより、少しぽっちゃりしたかな?」くらいの認識で、あまり気にすることはなかった。

それから数か月後、新年度を迎えた頃には、ひぃちゃんはさらにぽっちゃり・・・ではなく、太っていた。入社した頃の面影がなくなり、見た目は完璧な肥満体型になっていた。あまりに短期間での体型の変化に、さすがの僕も心配になり、「どうしたの?」、「何かあったの?」と言いかけたが、その言葉を口にすることはなかった。どう考えても女性に対して体型のことを話すのはセクハラになるし、あまりに失礼だし・・・何より、周りに言われなくても、ひぃちゃん自身も自覚しているはずで、いきなり男性から体型のことを指摘されたら、きっと傷つくだろうと思ったのだ。

そして、ゴールデンウイークが終わった頃、ひぃちゃんは会社を辞めてしまった。かなり急な退職だったようで、僕は少し残念に思っていた。

夏になり、僕は猛暑で心身共に疲弊する日々を過ごしていた。そんな僕を見かねて、同じ部署の長岡先輩が焼き鳥屋に誘ってくれたので、ご一緒させてもらうことにした。焼き鳥屋ではカウンター席に座り、二人でたわいもない雑談とお酒を楽しんでいたが、ふと長岡先輩がこんな話をしてきた。

「ひぃちゃんの退職の件だけどさぁ、総務部の部長のセクハラとお局様のイジメが原因だったって噂・・・お前、知ってるか?」

「えっ、初耳ですよ」

「セクハラとパワハラで精神的にやられてしまったみたいなんだよね」
「部長のセクハラは日常茶飯事だし、お局様はひぃちゃんに仕事を押し付けて、毎日のように残業させてたらしいんだ」
「そのストレスが原因で、暴飲暴食に走ってしまって激太りしたみたいなんだよね」
「毎日帰りが遅いし、休日出勤もしてたから、彼氏とも疎遠になって別れてしまって・・・」
「そのことで、さらにダメージを受けちゃって、ひぃちゃん怪しい開運セミナーに入会しちゃったみたいなんだ」

「そ、そんな・・・」

「ひぃちゃん、その開運セミナーから高額の開運グッズを買わされてしまって、借金まで背負わされてしまったみたいでさ・・・」
「まぁ、借金は実家のご両親が何とかしてくれたみたいなんだけど、ひぃちゃんは精神科に通院しながら、実家で療養しているみたいなんだよね」

長岡先輩は最後に「まぁ、噂話だから、どこまで本当かは微妙なんだけどさ・・・」と付け加えていたが、僕は酔いが醒めるほどのショックを受けた。

そして、長岡先輩の「ひぃちゃん、元気になってくれるといいけどな」という一言に、僕は「そうですね・・・」と返すのが精一杯だった。

”あのとき、僕はどうすべきだったのだろうか?”

僕は、後悔と懺悔の気持ちが交錯するなか、ジョッキのビールを一気に飲み干した。
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