第1話

文字数 2,226文字

 仕事帰り、風花(ふうか)はATMに寄る。出たところで男友達の匠実(たくみ)と出くわした。
「久しぶり。今帰り?」
「そ。残業放り投げて帰ってやった」
「相変わらず忙しそうね」
 匠実と風花は新卒で入った会社の同期だった。風花が転職して今の会社に移るまでの約四年間、限りなくブラックな環境下、荒波を共に乗り越えてきた仲だった。
「もう帰る?」
「腹減った」
「何か食べよっか? 私もお腹すいた」
「いいね、何食いたい?」
 平日ど真ん中、二人ともくつろいで飲む余裕はなかった。飲み、ではなくごはん系、ファーストフードやフランチャイズのチェーン店では味気ない、そう考えた風花は思い切って聞いてみる。
「背脂チャッチャ系は?」
「まじか」
「気分じゃない?」
「いや、いいね」
「やった」
 風花は一人で食事がとれなかった。ファーストフードやコーヒーショップ、パン屋に併設されたカフェまでなら平気だ。それがいくら一人客が多かろうと、牛丼屋、カレー屋、定食屋になるとテイクアウト一択で、店内飲食は無理になる。イキったレストランやバーなどもってのほかだ。そしてその最上位に君臨するのがラーメン屋だった。
 券売機方式だろうとたいていのラーメン屋では麺の硬さ、ニンニクの有無、背脂の量などを指定しなければならない。まるで呪文のようなそのオーダーは難解で、焦った視線は卓上の説明書きの文字の上っ面をいつも彷徨った。しかし風花はラーメンをこよなく愛する。風花にとってここはラーメンにありつけるまたとないチャンスで、またその相手として匠実は打ってつけだった。
 匠実が慣れた様子でバリカタ、背脂にんにくましましで、と店員に告げる横で、風花はまじまじと説明書きに目を通す。しばし思案した末に、やわ、背脂にんにくましましで、と口にした風花に匠実が「おっ」と目を向いた。
「大丈夫なの? にんにく」
匠実は一日モニターを睨みつける内勤だったが、風花の業務には来客対応も含まれていた。
「欲望には忠実に」
「それは正解」
 お互いの近況をかいつまんで話す。店内はほどよく混んで、ただし並んで待つ客はおらず、麺を茹でる湯気が二人を包み、期待に満ちた胸が高まる。
「はい、おまち」
二人の前に鉢が置かれる。
「いただきます!」
箸を突っ込み、一気に麺を啜り上げた匠実の隣で、風花はまずレンゲですくったスープをのんだ。
「うま」
 しばらく無心で鉢と向き合う。限りなく細いストレートの麺に、とろみのある豚骨スープが絡みつく。
「やっぱおいしい! 私かん水の香りが苦手で」
「それでやわ、か」
匠実は替え玉を頼む。鉢の中に沈めたレンゲに高菜を投入し、風花はスープと共に口に運んだ。飲み込んだ背脂、で思い浮かんだ人の名が口をつく。
「岡田部長は?」
「あの人ちょっと痩せたよ」
「へえ。てか、やっぱ匠実だわ」
 通じ合った気、になる匠実との会話が風花は好きだった。精神の安保のため転職を決意した時も、最も後ろ髪を引かれたのは同期の匠実の存在だった。
「私オデッセイ買ったんだ」
「まじか。やるね、ホンダ?」
「じゃない方」
「マリオ?」
「そ」
「今さらかよ」
笑い声をあげて、ふと何かを思い出したように真顔になって匠実は風花に尋ねる。
「何かあった?」
「ありそうだから、事前に自衛」
風花が目にした「オデッセイをプレイすると鬱症状が緩和される」というネットニュースを匠実も見たのだろう。
「あれはマジで効く」
「ならよかった」
 スープを飲む匠実の横顔を見る。綺麗なまつ毛で、この人の恋人は幸せだろうなと風花は思う。
「玲奈ちゃんによろしく」
 帰り際、匠実の彼女の名前を出した風花に匠実が告げる。
「実は別れた」
申し訳なさげに、それでも気楽を装って風花は聞く。
「あちゃー、聞いて欲しい系?」
「いや」
「オデッセイ貸そうか?」
本気で尋ねる風花に匠実は笑って首を振る。
「いや」
「だね、匠実なら」
皆まで言わずに風花はにっこりと笑顔をつくる。匠実の魅力は十分過ぎるほど知っている風花だった。新しい出会いはいくらでもあるだろう、と思う。
「風花は? なんだっけ、あの細マッチョ」
「あー」
「何、風花も別れた?」
「いや、プロポーズされてて」
「お! めでたい」
「んー」
「何? だからオデッセイ?」
浮かない顔をした風花を前に、一緒に働いていた頃、仕事帰りにちょくちょく浮気の相談を受けていたことを匠実は思い出す。
「そんなとこ」
「なんだ、早く言えよ」
「ラーメンおいしかったからさ。それで帳消し? みたいな」
 ラーメンのおいしさ程度で紛れる悩みならばたいしたことはないのかもしれない、匠実は自分に言い聞かせるようにそう考える。実際、目の前の風花の姿は、あれほどこってりとしたものを最後の一滴まで飲み干したとは思えないほど、匠実の目にはさっぱりと映った。
「付き合ってくれてありがとう、ラーメンおいしかったね」
「こちらこそ。オレも久々に食ったわ」
満たされた腹が自然と二人を笑顔にする。お互いに自分だけがもらってばかり、だと考える関係性はフェアではなく、居心地悪く感じてもおかしくなかった。なのに目の前の満足げな吐息がそれを甘受することを許した。もらって、ありがたく受け取って、喜びを手にするその姿がお返しとなるのだ。たとえそれがにんにく臭さのあまり、誰かの顔をしかめさせたとしても。
「ごちそうさまでした」
「またな」
 寒波がやってきていた雑踏の中、背中から脂、ならぬ湯気が出そうなほどあたたかな気持ちで、二人は手を振り帰路につく。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み