第1話

文字数 9,457文字

 記憶にあるより少し寂れてはいるが、変わったと言うほどではないな。
 久しぶりに立った故郷の地での感想が、これだった。
 この地で幼少期を過ごし、勉強に明け暮れた青年時代を送ったエンだったが、そろそろその歳月よりも、今の生活が長くなってきた頃合いだ。
 それでも、故郷と思えるくらいのその地を見れば、何かしらの感傷が芽生えると思ったのだが、そんな軽い感想しか浮かばなかった。
 仕方がないとは思うが、なんだか寂しいな。
 そうしんみりとしながら、それとなく周囲の様子を見回し、ついでに雑多に置かれた売り物の品を物色する。
 この地を治める国の主が、そろそろ力を弱めてきているせいなのか、方々で反乱分子が集い始めていると言う話はあった。
 この辺りは国の都からは遠く、その煽りを多く受けてしまっているらしく、品の値が昔より大幅に上がっていた。
 売る側も、売れそうなものを何とかかき集めて並べているらしく、その値にしては粗末なものが多い。
 矢張り、酒以外を仕入れるのは、山の幸に頼るしかないようだと心の中で断じ、エンは連れを見下ろした。
「……」
 だが見下ろした先は無人で、慌てて辺りを見回したエンは、一つの露店の前で、その連れを見つけた。
 自分のお下がりのこの国の衣装を身に着けた、小さな体の人物だ。
 傘を深くかぶった連れは、何故か見慣れぬ籠を腕に抱え、露店の前に飾られた巻物の絵を、首をかしげて見つめていた。
 絵を見たことがなかったかと、近づいたエンもそれを覗き込むと、不思議な光景がその絵の中にあった。
 全身に縞模様のある大きな獣が、山林のある川の中で、鯉を銜え込んでいる珍しい絵だ。
「? 虎だったか? 鯉を生け捕りにして食らうのは?」
「川に入って魚を捕るのは、熊だと思ってた。猫も、捕るんだな」
 素直な呟きに返したのは無感情な声だったが、聞きなれたエンの耳には、驚きが混じっているのが分かる。
 素直な感想なのは分かるが、一つだけ間違っている。
「お前、虎を見たことがないのか?」
「虎? 黒い縞の入った獣のことだろう?」
 不思議そうに言われ、エンは改めてその絵を見つめた。
 墨絵で書かれたそれは、縞模様を塗りつぶしていない。
 風景の黒いところや影は、黒く塗られているから、全体的に白い獣に見えた。
「あ、ああ、それな、黄金色の縞模様の猫らしいぞ」
 露店の店主が、何やらどもりながら話に割り込んだ。
 先程まで文句なく連れを立ちつかせていたのは、どうやら連れの容姿に見惚れていたかららしい。
 普通に会話をしているところを見て、我に返った店主は、その間を取り繕うように絵の説明をしてくれた。
「これはな、役所の先の偉い方が、隠居後に安い値で売って下すったものだ。この他にもほれ、これにも同じ色合いの猫が描かれてるだろ? ご隠居の友人が、幼い頃見た猫を、ずっと愛でて描いておられるんだ」
「猫……風景の草木を見ると、随分大きく見えるんだが……」
「小さい頃の記憶を掘り起こして描いたようだと、そうおっしゃっていたよ。その時は、大きく見えたんだろうなあ」
 他の絵の猫は、そう大きくはないのに、なぜその絵の猫だけ虎並みの大きさなのか、疑問に思ったエンに、店主は自分の考えを言って目を細めた。
「怪我で役を退かれたときは、本当に残念だったよ。お子がお子だからなあ。あれを止めてくださってた方が、奥に引っ込んでしまわれたから。それでも時々こうして、こっそりと売り物を、安くで譲ってくれるんだ」
 元役人宅にある、古着や隠居した役人の友人が、手慰みに描いた絵や古くなった家具などが、この辺りの露店では、時々売られていると言う。
 そういう品は、高価なものが多く、それなりの値が付くのだと店主は語った。
「まあ、そろそろ、品は尽きるのではと、心配してるんだがね」
 初老の男は困ったように顔を上げた。
 エンの立つ背後で、喧騒が沸き上がっている。
 権力をかさにしている者が蔓延る地では、耳に馴染む喧騒だが、エンはついついうんざりと溜息を吐いた。
「そのご隠居は、もう力が及ばないんですね?」
「ああ、ご高齢なんだよ。止めるほどのお力が、もうないんだ。だからこの数年、野放し状態だ」
 こちらに売られる予定だった品も、息子二人の手によって、別な場所で使われているようだと、店主は諦め顔だった。
 最近描いた絵も、いつの間にか消えていたと使いに謝られ、ここにある物は下絵程度に描かれていたのを、手直ししたものらしい。
「ご隠居が、きちんと世話をされているのならば、まだ救いがあるのだが。下人の様子を見たら、そうも見えんのだよ」
 このご時世でなくとも珍しく、そのご隠居は慕われているらしい。
 エンがこの辺りに住んでいた時は、今より少しマシ程度だったから、その後から今日ここに来る前のその役人が活躍している間は、この地も落ち着いていたのかもしれない。
 その時の役人の手腕を、見て見たかった気もするが、その程度の感想のみで終える。
 連れが喧騒の方を振り返り、何やら気にし始めたのだ。
 軽く人だかりになっている方に近づくのを見つつ、エンは店主に声をかけた。
「その絵は、いくらだ?」
「へ? いいのかい?」
「ああ。見つけたのも、何かの縁だろう。あの子も、気に入ったようだし」
「それは、助かるが……」
 露店の店主は、躊躇いながら声を潜めた。
「事情があんだろうけど、偶にはあの娘さんにも、綺麗な服の一つ、買ってやれよ。綺麗なのに、勿体ない」
「……考えておく」
 笑顔で答えながら、心底安堵する。
 既に人ごみに紛れて見えない連れが、今の店主の言葉を拾った様子はない。
 余計な騒ぎはごめんだと、礼を言って掛けてあったその絵を受け取る。
 丁寧に巻かれた紙を折らないように気を付けながら、先に行った連れを再び探す。
 些細な喧騒を遠巻きにする野次馬が、連れの周りだけ開けているのは、腕に抱え込んだ荷物を避けてか、その連れの容姿の良さに気付いてか。
 どちらでも、エンが近づきやすいのはありがたく、首を傾げたままそれを見守る連れに、穏やかに声をかけた。
「気になるなら、助けるか?」
「気になるけど、そう言う意味じゃない。でも」
 無感情な答えは、素直な言葉だった。
「助けてもいいなら、ついでに、試してみてもいいか?」
 素直な問いにしばし考え、エンは頷いた。
「何を試すのかは知らないが、ここまで大勢が見守っているなら、何とか誤魔化せるだろう。構わないぞ」
 考えた割にいい加減な返しだったが連れは頷き、籠を抱えたまま一度野次馬の中から抜け出した。
 何をするつもりなのかとついて行くと、酒を量り売りしている露店の前に立った。
 店先においてある、自分の半分くらいの大きさの陶器の甕を見つめ、店主に声をかける。
「それ、甕ごとだといくらでしょうか?」
「へ?」
 無感情な声に、店主は顔を上げたが、その客の顔を見て声を無くした。
 いつまでも答えない店主に、エンが穏やかに声をかける。
「この銀で、足りるかな?」
「お、おおう。こんなに……足りるともっ」
 この辺りの相場よりも多くの銀を渡すと、店主は我に返って慌てて頷く。
「有難う」
 無感情に返した連れが、ひょいとその甕を足で転がして横倒しにした。
「……」
 中身は、ほとんど空だったらしい。
 僅かに酒の匂いの水が地面を濡らしたが、それだけだった。
「……痛い」
 守銭奴の姉を思い浮かべながら、小言を食らう覚悟をして呟いたエンの前で、連れは籠を抱えたまま、甕を足の上で器用に転がして、遊び始めた。

 市場に近い賑わいを見せるそこから戻って来た若い男が、立派な商屋の裏門に入っていくのを見守り、その女は安どの溜息を吐いた。
 長身の人の人好きそうな顔立ちの、一見その服装のせいで男に見える女だ。
 髪の色が白く、一瞬老人にも見えるが、腰も曲がっておらず、皴一つない若々しい顔だ。
「良かったわね」
 その女の後ろにいる男が、ひっそりと呟いて同じように溜息を吐いた。
 こちらは白髪の男より大きい、小麦色の肌の見目のいい美丈夫だった。
 整った顔に手を添えて、しんみりと言う。
「真面目な子だったから、落ちぶれるようなところに引き取られたら、後味悪かったもの」
「ああ。他の子たちも、同じようにまっとうに生きてくれれば、良かったんだがな」
 白髪の女ランは、しんみりと儚い望みを呟いた。
 自分たちは、俗にいう盗賊の集団だ。
 ほぼ皆殺しにするその動きの中で、どうしても取りこぼしたくなる罪のない子供たちは、陰ながら手助けして身寄りを見つけ、見つけきれぬ時は相応の引き取り先を見つけ、その地を後にするのだが、地に落ちた家から救い出されても、子供たちがその後まっとう、かつ幸せに人生を終えることは、滅多にない。
 どんなに手を尽くして悪に染まる根源を取り除いても、本人次第ですぐに転げ落ちてしまうことは、経験上分かっていたから、最近世が乱れる気配があるこの地で出会い、養い先で幸せにしているように見えたその若い男の様子に、少しだけ安堵した。
 十年前に出会った子供たちの中で、たった一人所在がまっとうだった男だ。
 残りは全員、既に世を去っていたり、それこそ自分たちよりも過酷な所にいて、完全に身を持ち崩していた。
 だがこれも、覚悟はしていた。
 寧ろ、一人でもまっとうに生きているのが、珍しいくらいだった。
 だからそれを見届けた二人の心は、少しだけ軽くなったのだ。
「今から合流する奴らに、いい土産が出来た」
「後はお酒でも、調達してきましょうか」
 足取り軽く、二人は露店が並ぶ方へと向かって歩き出した。
 ランの弟も、買い出しに出ていることは知っているから、何処かで行き会うかもしれない。
 荷物持ちでもしよう、と言う気持ちも多少はあったのだが、それは叶わなかった。
 丁度ランの横を通り過ぎた何処かの下女らしき女が、後ろを歩いていた男をぶつかってしまったのだ。
 小さく悲鳴を上げた女に、男が大げさに声を上げる。
「痛えっっ。貴様、何をしやがるっっ」
 振り返ると、ロンよりも縦も横も一回り大きな男が、肩を抑えて騒いでいた。
「お前のせいで、オレの大事な肩の骨が、折れちまったじゃねえかっっ」
「も、申し訳、ございませんっっ」
 振り返ったランは、その様を見つめ、冷静に呟く。
「……あの女の体のどこが、肩に当たるんだ? 飛び上がっても、無理だろう」
「よくある難癖ね。馬鹿馬鹿しい」
 しかもいうに事欠いて、折れたと宣っている。
 流石に、難癖が過ぎると思っていると、男は震え上がって土下座している女に、いやらしい笑みを向けた。
「主人が迎えに来るまで、酒の相手をしろ。話はそれからだ」
「お、お許しくださいっ。お許しくださいっ」
「オレに怪我をさせておいて、ただで済むと思ってはいまいな? 主人を牢にぶち込まれて、路頭に迷いたくはないだろう? 大人しくついてこいっっ」
 ざわつく人々が群がってくるのもものともせず、男は女の腕をつかんで引きづり上げる。
 見ていられないが、力のある役人と繋がっていそうな男は、誰にも咎められることもなく、よそ者の自分たちが首を突っ込むのは、どうかとも思う。
 ここに立ち寄ったのは、単に昔世話をした子供たちの姿を見届けることが目的で、再び仕事をするためではない。
 しかも、ただ通り道だったから気になって立ち寄っただけ、と言う土地だった。
 後ろ髪は引かれるが、ここは見て見ぬ振りがいいだろうと、二人が非情な判断を下した時、後ろの群衆が大きくどよめいた。
 同時に、鈍い音と先の男の悲鳴が響く。
 振り返ると、何処からか飛んできた甕が男の方にぶち当たり、地面を転がったところだった。
 転がったそれには目もくれず、今度こそ肩を痛めた男が怒鳴った。
「誰だっっ。こんなものを投げつけやがって、ただじゃ置かないぞっっ」
 怒り心頭の男が周りを見まわして怒鳴り散らすのに、答えた声があった。
「申し訳ありません」
 大喧嘩に巻き込まれそうな気配に、再びその場を後にしようとしていた二人は、その透き通る声に足を止めた。
 良く通る、しかし何故か無感情に響く、男とも女ともとれる聞きなれた声。
 鋭く振り返り、野次馬をかき分けてその輪の中心に向かった二人は、向かいの人込みからゆっくりと歩み寄る者を見た。

 連れの試したいことは、どうやらうまくいくようだ。
 エンは呆然とする周りの者に紛れたまま、そう察した。
 足元にうまく転がって来た甕を拾いながら、背に当たる連れの声を聞く。
「手が滑って、そちらに飛んでしまいました」
「手? お前が、あの甕を投げて遊んでいただとっっ?」
 当然の驚きだったが、手がふさがっている連れは、別な方に取った。
 しばし考えて、言い直す。
「言葉が間違っておりました。この通り、手はふさがっているので、足でけって遊んでいたところ、つい当たり所を間違えてしまって、そちらに飛んでしまったのです。申し訳ありません」
「そ、そうか」
 その言い分もおかしいのだが、連れの言葉に男は頷いてしまった。
 こうなっては、もう連れの思惑通りだ。
「お怪我は、ありませんか?」
 小首をかしげながら、連れは微笑んで男に尋ねる。
 男だけではなく、この場を見ている者全員が、その笑顔に引き込まれてしまった。
 それをまともに受けた男は、見惚れながらも顔を緩ませて頷いた。
「勿論だとも。オレはそこまで、弱くないからなっ」
 腕を回して見せる男に、エンは素直に感心した。
 この甕は、作りは荒いがそれなりに重い。
 肩に当てたのならば、折れてはいなくても相当痛いだろうに、見栄もあるのか男は豪快に笑って見せた。
 それを見上げて頭を下げた連れは、もう一度詫びの言葉を言って、立ち去ろうとする。
 その一連の動きの影で、絡まれていた下女がこの辺りでは珍しい毛並みの黒い獣に促されて、姿を消しているのだが、男はそれに気づかず連れの動きだけを目で追っていた。
「待て娘。お前、オレの妾になる気はないか?」
 踵を返そうとしていた連れの足が、止まった。
「……ムスメ?」
 表情が完全に無になっているのに気づかず、男は顔を緩めたまま続ける。
「見たところ、随分と貧しい生活をしているようじゃないか。オレの妾になれば、毎日楽させてやるぞ」
 言いながら近づいてくる男を見上げ、連れは無感情で答えた。
「お断りいたします」
「何故だ? ああ、もしや、どこぞの貧乏人の妾なのか? なら安心しろ。オレが買い取ってやる。主人の元に連れていけ」
「……主人など、おりません。兄弟で寄り添って生きておりますので、お気になさらず」
 無感情に、しかしやんわりと答える連れが、男には見栄を張っているように見えたらしい。
 地を震わせるような笑い声を立てると、連れが抱えていた籠を取り上げた。
「あっ」
「こんな重いもんを買い出しさせるような兄弟が、そんなに大事か? まあいい、これを持ってやるから、オレの家に来い。兄弟とやらも呼び出してやるから、そこで今後を話すとしようじゃないか?」
「……そこまでして、その籠の中身が欲しかったのですか?」
 手を伸ばしても届かない高場に持ち上げられ、目を細めた連れは、無感情なまま尋ねた。
「ならば、差し上げます」
「あ?」
「私を侮辱せずとも、きちんと口で言ってくだされば、貰い物なのですから、障りはありません」
「何を言って……」
「その代わり、売り物であったはずの物ですので……」
 突然意味不明なことを言い出しされ、男は唖然としていたが、連れは構わず淡々と品の名と値を諳んじた。
 それは、露店内で売られていた値で、それを正確に言われた店主や売り子は、軽く驚きの声を上げていた。
 そんな中、拾い上げた甕を握り締めていたエンは、静かに動く。
 まずは、酒の量り売りの露店の前に、持っていた甕を置き、穏やかに言った。
「すまない。この甕は返す」
「あ、ああ。なら……」
「銀は返さなくてもいい。あの子が蹴ったことでがたが来ているし、今ちょっと欠けてしまった」
「へ? 今?」
 慌てて見下ろした甕は、縁が拳大、抉られるようになくなっていた。
「それから、あの子が持っていた籠は、何処が貸してくれたのかな?」
「あ、ああ。オレんとこだ」
「だって、手一杯に色々積まれてたから、見かねちゃって……」
 夫婦らしき露店の男女に頷き、エンは穏やかに言った。
「後で、改めてお礼と、籠を返しに伺う。その時に、籠の中身の品の代金は支払う。ああ、口止めの意もあるので、出来れば受け取ってほしい」
 言い返す間も与えずに言い切った頃、連れが籠の中身の値を諳んじ終えた。
「これだけ、お支払い願えますか? 後日、支払うつもりでいただいてしまったので、このまま無償でお渡しするわけには、いかないのです」
 そして、再び微笑んだが、完全にわざとらしい笑顔だった。
「お支払いいただけないのなら、お譲りするわけにはいきませんので、どうかお返しください」
 話についていけず、ぽかんとする男は、元々痛い目に合うことになっていた。
 連れはこの男が、自分くらいの大きさの下女がぶつかっただけで、骨が折れたと騒いだのを見て、そんなに弱いのかと思った。
 ならば、この甕をぶつけたら更に騒がれて、下女をその隙に逃がせるだろうと思っての、先の動きだったのだが、あっさりと許されてしまった。
 騒がれたらそのまま連れていかれ、暫くは大人しくなるように半殺しにしてくるつもりだったのに、拍子抜けだった。
 あのまま立ち去れていれば、おかしな人もいたもんだと不思議に思いながらも、連れが退却するだけで済んだのに、男は大変な失言をした。
 連れは、この場の誰よりも綺麗で、愛らしい容姿をしているが、娘ではない。
 エンのお下がりを着て、男の髪形をしているはずなのに、それでも娘と言われるほどの容姿を、連れはとても気にしており、それを口に出す者は全て敵とみなし、接してしまう。
 無感情な顔の裏で怒り狂い、矢張り先の画策通り、連れ込まれた先で半殺し、そんな思惑で連れは煽り始めていたのだが、男の命運は、先程よりもはるかに険しい終わりに進んでいた。
 その終わりに導くのは、今周りの口留めと根回しをしている、エンだ。
「……誰が、妾だって? あのクズ男、半殺しは温過ぎる」
 穏やかに笑顔を浮かべたままの言葉を聞き咎め、目を見張っている野次馬もいるが、そんな周りに構うつもりなく、徐々に頭に血が上ってくる相手の男が、連れの煽りによって怒り狂うさまを見守っていた。
「随分、躾がなっていないな」
 迫力のある怒気を顔に宿した男が、顔をゆがめながら取り上げた籠を放り出し、連れの手を勢い良くつかんだのを見て、エンは静かに動いた。
 放り投げられた籠を宙で受け取り、その勢いで飛びでた貰い物の数々を、集まる人だかりの足で踏まれる前に、手際よく集める。
「来いっ。しっかりと躾け直してやるっ」
 そして、乱暴に連れをひっぱり、何処かへ連れ込むべく歩き出した男を追おうと、籠を抱えて歩き出す前に、その行く手を遮られた。
 立ちふさがったその男を見上げ、エンは初めて焦りを表情に乗せる。
「……あなたね、どうして止めないのよ。一緒になって怒るにしても、その前のあの子の動きで止めていれば、こんなことにならなかったのに」
 自分より大きな、色黒の男が悩まし気に言うのを見ながら、別な事を思い出す。
「あれ、あなた、一人、ですか?」
「そんなわけ、ないでしょ」
 ロンは、ひたすら呆れていた。
「あたしも、このまま行かせたうえで、あの男の家の者もろとも、と思ったんだけど……秘かに、って考えが浮かばないほどに、さっきの言葉で怒っちゃったのよね」
 誰が、と聞き返すまでも、聞き返す間もなかった。
「どけっっ」
 エンと同じように誰かに立ちふさがれ、怒り心頭のままの男が怒鳴り、それに聞きなれた声が答えたのだ。
「うちの大事な子を、何処に連れて行く気だ?」
 若干低いが若い声の主は、男が連れを強引に掴んで歩くその先で立ちふさがっていた。
 無感情に男の後に続いていた連れが、初めて体を強張らせ、ついで天を仰ぐ。
 エンもだが、この二人がこの辺りをうろついているかもと言う心配を、失念していた。
 怒気をあらわに睨む男は、自分を見上げる白髪の人物を見て、余裕を取り戻した。
「お前が、この女の主人か? 躾がなっていなさすぎるぞっ」
「あいにく、躾けようが躾けまいが、性格までは治らないんだ。それを責められても、困る」
「それを直すのが、主人だろうがっ。オレを怒らせた責は、どう償うっ?」
 上からこき下ろしながら言う男に、ランはにっこりと笑った。
「主人じゃない。兄弟、だ。間違うな。このクズが」
「何っ」
「人の兄弟捕まえて、妾? ふざけるなよ。この子は、お前如きの妾どころか、下人でも勿体ない。大体」
 顔を真っ赤にして体を震わせる男に、ランは笑顔で首をかしげて見せた。
「お前、籠の中身すら買い取れないくせに、この子を買い取れると本気で思ってるのか? もしかして、本当の馬鹿か?」
 完全に頭に血が上り切った男は、小さな手を放し、ランに殴り掛かった。
 恐ろしい勢いに周りから悲鳴が湧いたが、男装の女はその腕を流しながら掴み、男の勢いを殺さぬままに、土の上に転がした。
 軽い振動をものともせず、腹ばいに倒れ込んだ男の背に、そのまま馬乗りになる。
「このまま首をむしり取って、お前の家の前に届けてやろう」
 髪を掴み上げられ、喉元が後ろに反ったところでそう言われ、男は小さな悲鳴を上げる。
 白髪の人物の本気が、声音から滲み出ていた。
 そのまま言葉通りにする前に、その動きが止まった。
 自由になった連れが、背後からランにしがみついたのだ。
「っ」
「ラン……」
 傍目では、目を見開く白髪の人物と、その美しい妹が兄弟愛を見せる場面だが、見知った二人の男には、正しい光景が見えた。
「何、邪魔してくれてるんだよ。あんただったよな? 目立つマネはするなと言ったのは? 目立たぬように、この人の家で事を治める気でいたのに、余計なことをっ」
 無感情に耳元で言った連れは、ランの首に腕を絡ませ、体の重みで締めた。
「せ、セイっ。く、首、締まるっっ」
「当たり前だ、締めてるんだから。ちょっと寝てろ」
 慌てて名を呼んで、周りを気にしてそっと腕を叩くが、痛くもかゆくもないだろう。
 本当に、容赦も欠片もない締めを受け気絶しかかったランの耳に、声が届いた。
「役人が来た」
 途端に、セイと呼ばれた連れの力が緩む。
 その隙に立ち上がり、起きようとする男を踏みつけて完全に沈めると、ランは連れを背負ったまま駆け出した。
「なっ、ランっ」
 降りる間がなかったセイは、振り落とされぬように慌てて、再びランの背にしがみつく。
「このまま、退散だっっ」
 誰にともなく告げながら駆けていくのを見送り、残った二人の男は倒れたままの男に、役人たちが駆け寄るのを見た。
「ワン様っっ」
 倒れて動かないが、役人の扱いから死んではいない。
「……帰りますか」
「そうね。あの二人はもう、山から下りちゃだめね。顔を覚えられちゃったもの」
 ロンの当然の言葉に、エンは溜息を吐いた。
「せっかく、髪を黒くしたのに」
「次の時には、鬘が出来るんでしょ? それまで外出は、お預けね」
 騒動は終ったと、二人はすでに気軽な足取りで帰路に就いたのだが、これは更なる騒動の幕開けだった。

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