第1話

文字数 3,814文字

初めて家出をしたのは、確か6歳のときだったと思う。
夕方、母が買い物に出た隙を盗み、セーラームーン柄のまくらをナップサックに詰め混んだ私は、親戚のおばさんの家へと向かった。
やさしいおばさんの家に、もらってもらう覚悟だった。
道すがら、手のひらに握りしめた500円玉の感触をなんども確かめる―その硬貨の大きかったのを、よく覚えている。
途中腹が減ってどうしようもなくなった私は、マクドナルドに寄りハッピーセットを注文した。当時のマクドナルドではおもちゃを選ぶことが出来ず、紫の軟体動物みたいな奴の人形を渡され失望する。
ひとり席に座って食べ始めた私に、レジの綺麗なお姉さんが心配して何度も「大丈夫?おうちはどこ?」と聞きにきたが、私はだんまりを決め込みただただ必死にポテトを片付けた。
その後、なんとかおばさんのもとにたどり着いたころにはもうすっかり日が暮れていた。
着いて早々おばさんは「あーみっちゃん来た来た!」と言って、すぐうちに電話をいれてしまった。既にあたりをつけた母の手がまわっていたのだ。
紫の軟体動物を握りしめ私は叫んだ、

ひどいよおばさん、なんでうちに電話するんだ!
私はうちなんかにもう帰りたくない!

散々ダダをこねて泣きじゃくると、
おばさんは私の背をしきりにさすりながら
お腹すいたでしょう、なんでもつくってあげると言った。
ゼリー、というとおばさんは頷いて、フルーチェのいちご味を作ってくれた。これはゼリーじゃないと内心思ったが、黙って食べ始める。
おばさんは、じっと頬杖をついて私をみていた。
そのおばさんの表情が、かなしいのかうれしいのかなんなのかその時の私にはさっぱり読み取ることが出来なかった。
おばさんが「おいしい?」と聞いたので、「いつものゼリーの方がよかった」と答える。するとおばさんがやっと笑ったので、私はほっとした。

迎えにやって来た父は、
散々おばさんに礼を言ったあと私を車にのせて、
「探したよ」と言った。
くたびれたその横顔を見ながら、少し反省という心が芽生えてきた私に父が言った。

「弟もうちで心配しているぞ」

その言葉を聞いて、私は喉元まで出かかっていたごめんなさいを押し込めた。
フンと鼻を鳴らし、気づいたらそのまま眠ってしまった。

私には、3つ下の弟がいる。
その弟が生まれた瞬間に、私の天下は終わった。

いままで私が話すことやることになんにでも興味を持ってくれていた父母が、急に現れた小さな「弟」という存在にかかりっきりになってしまって、私がどんどん二の次になっていく。
駄々をこねたり意味のわかっていない弟を叩いたりすると「お姉ちゃんなんだからやめなさい」と言われる。私はなりたくてこいつのお姉ちゃんになったわけじゃない。
弟はニコニコ大福顔の笑うと本当に目がなくなってしまうタイプの奴で、常に仏頂面の私とは対照的に大人たちからの「かわいいね〜」を一心に集めていた。

私は、そんな弟が嫌いだった。
しかしどういうわけか、
弟は私のことを大好きだったのだ。

どんなに邪険に扱っても、姉ちゃん姉ちゃん、とすがりついてくる大福顔の弟が鬱陶しくてたまらなかった。
その純粋さに、私は苛ついた。
なんでこんなにしても、君は気づかないんだ、ばかなんだろうか、と思った。

私が友達と公園に行くというと、どうしてもついていきたいと聞かなかった弟、母は「つれてってあげなさい、あんたの弟なんだから」という。
この日は私が主催するセーラームーンごっこが行われる予定で、私はこのために事前にストーリー展開や小道具まで練りに練っており、そんな急に言われても今から弟に与える役はないと母に直談判するも「タキシード仮面とかあるでしょ」と勝手にキャスティングされる。
タキシード仮面は弟には務まらないとごねるが通らず、渋々承諾した私が弟にその旨を伝えると「嫌だ、ぼく仮面ライダーやる!」とそっちの仮面じゃねぇ発言が飛び出し、結局この日はセーラームーンごっこをしつつたまに割り入ってくる仮面ライダーをあしらい続けるという白けた展開となってしまい、何もかも私のシナリオ通りに進むことはなかった。
しまいには弟のニコニコ大福顔にやられた友人たちがセーラームーンごっこを諦めわぁ〜すごいすごい、なんて弟の仮面ライダーに合いの手を入れ始める始末。
「みっちゃんの弟って、かわいいね」
違うあんたの役はセーラーマーキュリーだ、ちゃんと自分の役を最後まで演じきってくれと私は怒り心頭だった。

弟と遊ぶ友人たちを公園に置いて、私は家に帰った。
ひとりで家に帰って来た私に、唐揚げを揚げていた母は「弟はどこ?」と聞いた。
知らない、というと母は顔を真っ青にして、すぐに家を飛び出していった。
私はすぐ火元がきちんと消されているかを確認し、すでに揚がっていた唐揚げを食べながら待つことにした。
私が悪いのか、いやそんなはずは、と逡巡する脳を唐揚げのジューシーさに専念することで埋めた。

しばらくして、セーラーマーキュリーに手をひかれた弟が泣き腫らした顔で帰ってきた。
母と行き違いになっていたようだった。
みっちゃん弟くんを置いて帰っちゃうのひどい、とマーキュリーも泣いていた。
私にはもはや泣いている彼らに分けてあげる唐揚げすら残っておらず、何もできずただただ黙っていた。
少しして、セーラーマーキュリーの母とうちの母が髪を振り乱して帰ってきて、私はこっぴどく叱られた。

そんなことがあっても、翌日になれば弟は全部すっかり忘れて、お姉ちゃん遊ぼうとまたニコニコ私のあとをついてきた。
それからというもの、
遊びに行くときは弟の目を盗んで家を出たり、何か新しいお菓子を手に入れた時はこっそりひとりでトイレの中で食べたり、
私の楽しみというもの全てには「弟を置き去りにしている」という罪悪感がつきまとうこととなった。

あの家出で、私は父母から逃げたかったのではなく、
本当は弟から逃げたかったのかもしれない。

あの日、私が初めて家を出たとき。
真っ先に私のいないことに気づいた弟が、
ベランダの柵に大福の顔をギュウギュウに押し付けて「お姉ちゃーん」と叫んでいたのを知っていた。
私は一度だけ振り向いて、それからは振り返らずに歩き続けた。
お姉ちゃん、
お姉ちゃん、
と私を呼ぶ声が今でもずっと背中に刺さっている。

その後も私の家出癖は止まず、
高校を出てすぐに実家を出て遠くの大学へ行った。
ひとり関西行きのバスに乗る私を、
見送る父と母の潤んだ顔があった。


あれからもう随分と時が経って、
弟や妹たちも次々と家を出ていき
6人家族だった家には、今や両親と老いた犬だけが残っている。
年に一回、お正月にだけ集まる私たち家族は、まるで昔からずっと仲良しだったみたいに朝から晩まで酒を呑みバカ話をして笑っている。

そんないつもの正月の晩のこと。
おせちだお年玉だと大騒ぎの居間の団欒を離れ、私は一人トイレにたった。
はぁーと笑いの残りを吐き出しながら薄暗い廊下を歩いていたら、
ふと、
柱に残る小さな落書きをみつけた。

なんだろうとじっと目をこらす。

そこには、拙いセーラームーンの絵があった。
胸が騒いだ。

6歳の時の私がいた。


実家はまるで、あの頃の家族の遺跡だ。

当時の面影ばっかりがそこかしこに残っていて、そしてその面影の主はもういない。
私たちはみな一人一人、
あの頃一緒に暮らしていた時とは違うひとになってしまった。

今となっては、私がどうしてあれほど家を出たがっていたのか、もはや理由すら思い出せない。
けど、あの時はそれしかないと思っていた。

すっかり丸くなったいまの私たち家族がいとおしくもあり、しかしもう二度と戻れないあの頃が何度でも蘇ってきては、私は"家族"というものが辿る道のりの長さに愕然とする。
あのころ私たちは毎日飽きもせずにケンカをして、翌朝になればしかめっ面で同じ飯を食べていた。
どんなにお互いが嫌でも当たり前みたいに一緒にいた。
そんな日々が、確かにあった。
一度離れてしまった私たちは、
もうあの頃と同じ熱量でお互いに接することができない。
すべて綺麗にショーケースに並べられて、すっかり熱を失ったそれはただの思い出になっている。

家族とは、一生消えることのない思い出のかたまり。
私が家族をなつかしいとおもう時、
本当になつかしいのは、あの頃の私たちなのかもれない。


私は酔った頭を揺らしうえーいなどと叫びながら居間の団欒に戻り、弟にあの時のセーラームーンごっこの話をした。
そんなことよく覚えてるね、全然覚えてないし、とすっかり先に大人になってしまった弟は相変わらずのニコニコ大福顔で笑った。その腕の中で、幼い頃の弟そっくりの彼の娘がパパーお腹すいたと声をあげている。
私は彼女にあぁかわいいねかわいいね、何が食べたい?一緒にコンビニ行こうかなんでも買ってあげると言う、姉ちゃんそんなに甘やかさないで、と弟に叱られながらも、私はそれをやめられない。もしかしたら私は、何か罪滅ぼしをしているのかもしれない。どこまでも純粋ではない自分に気づき懐かしの痛みに心が疼くが、その感情にエイヤッと蓋をして、私は姪っ子を連れてコンビニに向かう。

夜道をふたり並んで歩く。
その小さな小さな姪っ子のつむじをみていたら妙に切なくて、
おばちゃん、コアラのマーチ欲しい、
とニコニコ私を見上げる大福顔を見つめながら
私はただうんうんとうなづいて、
ずっとずっと 彼女の小さな手を握っていた。
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