学校はもう、向こう側。

文字数 2,249文字

 非常に憂鬱な気持ちで、学校を後にする。もう、今日は絶対に頑張れない。心の中にはヘドロのような気持ちが溜まっていて、胸に詰まった感情が大きくなりすぎて目から溢れ出しそうであった。喉は間違って石を飲み込んだようであり、身体は重かった。

 学校にたどり着いたはいいものの、猛烈に帰りたくなった。正門をくぐったあたりからそのような思いが頭をもたげてきた。重い足を引きずりながら3段ほどの階段を上がり、ガラス張りの昇降口に足を踏み入れる。校舎に入るまでの時間を稼ぐようにゆっくりとしゃがみ、靴を履き替える。そこに担任が通りかかり、おはようございますと声を振り絞って挨拶を交わした。別に体調が悪い訳ではない。ただ、帰りたいのだ。いつもだったら、そんなことは言っていても仕方がないと思いそろそろ諦める。しかし、今日は、今までにない程心が嫌な気持ちでいっぱいでとても耐えきれそうにないのだ。無断で帰ってしまおうとも思ったが、もう先生に挨拶をしてしまったので、あとのことを考えるとひどく面倒である。なので、教室に向かう階段の途中で回れ右をして、廊下の突き当たりにある保健室に駆け込み、今日は具合が悪いので帰ります。と言った。その後早退届を書くために担任を呼ばれ、色々余計なことを言われた後、ようやく学校を後にできた。
「誰も自分を分かってはくれない」
自己憐憫に浸りながらも傍で、冷静な自分は
「こんなことで学校をサボったりしているようじゃ将来ロクな大人になれない」
と言っていた。
 いいや、大人の人だって私と同じ年の時期はあったのだ。大人になるとはいっても、ある日突然大人になる訳ではないのだし、自分がどんな大人になるのかなんて誰にもわからない。頭には次々と憂鬱な考えが浮かんできた。学校から逃げるように無理やり重い足を動かしたし、半ば諦めの気持ちと罪悪感を抱え、市境となる川の橋を渡る。
 欄干に手をかけて川を見下ろすと、カモがたくさん浮かんでいた。十匹以上いるように見える。五月の真っ直ぐな太陽の光が川の水を照らし、キラキラと反射していた。綺麗。
 思わず足を止める。目がキラキラに奪われた。一瞬、帰ってきてよかったかもと思った。
「学校生活をしっかり送れないやつは何も上手くいかないだろう」
目の前に嫌な思いが割り込んできた。うるさい。足元に視線を落とし、自分の中の批判的な考えから逃げるようにまた歩き始める。川を右手に曲がり、橋から川沿いの堤防に入る。車の音を背に、とぼとぼと歩いた。段々に、長い堤防を一人で歩いている孤独感と、大きな世界で誰も自分のことを理解してくれないんじゃないかという不安感が膨らんできた。
何もうまくいっていない。
どうすればいいかもわからない。
誰も助けてくれない。
自分がダメだからだ。
もう、だめだ。
だめだ。
 涙が溢れてきた。アスファルトの上で歩を進めるたびにじわじわと胸の奥から感情が押し出されてきて、めそめそ泣いた。次から次へと溢れてくる涙を手で拭う。
「疲れた」
 しばらく涙を流すと、少し流れ出た分の感情の空きが出た。頬に残った涙を拭き、上を見てみる。ちりじりになった薄い雲が、青い空に浮いていた。飛行機が飛んでいる。暖かい光に照らされて、道の端の黄色い花が笑っているように咲いている。右を向くと、川の乱反射した光と木漏れ日が、複雑に混じり合っていて、とっておきの宝石のように煌いていた。足元を見ると、アスファルトの裂け目から芝生が生えてきていて、夢ある無人島のようになっている。鳥が一匹ピィと言いながら、頭上を飛び去った。
「私はどうしてしまったんだろうか」
 大きく息を吸い込んで、はぁとため息をつく。少し座ろう。そう思い、川の方まで降りていける階段の上から三段目ぐらいに腰をおろした。ぼんやりと川を見る。水がキラキラしている。川の側の木々に住む鳥たちのさえずりが耳に届いてきた。沢山の鳴き声が盛んに話し合っている。そろそろウグイスがなく季節だ。段々日が登ってきて、空気も温められてきたようだった。流れるように吹く風がやや汗ばんだ首元をそっと通り抜ける。草が風に揺られてさらさらと揺れる。もう夜の寒さは残っていない。制服の紺色が日差しを吸収して、背中を熱くした。
「なんか、もうどうでもいいかも」
 突然そう思った。川の向こう側の学校やビルや忙しい施設たちと、こちら側ののどかな草木と鳥たちを見ていたらなんだかそういう気持ちになった。もう学校は川の向こう側にあるのをしっかり見て、ちゃんと逃げられたことに安心したのかもしれない。
 学校をサボって制服のまま砂だらけの階段に座って、何もいいところがないように思えた自分が、綺麗な景色だと感じられたこの気持ちは大事なものかもしれないと思った。いい点数なんて関係ない、誰かによく思われようなんて思っていない、自分は何者でもない、そんな時にしみじみと感じられた嬉しい素敵な感情こそが大切なのかもしれないと思った。
  
「自分は今日、人生の大切なものを見つけたのかもしれない」
 
大袈裟かもしれないが、そう思うと少し心が躍った。自分はそんなに悪くないかもしれないとも思えた。顔をちゃんと拭いて立ち上がり、お尻についた砂を払った。川の方をもう一度見て、この景色を忘れないように大きく吸い込んだ。今日学校で開かれるはずだった教科書達が入ったリュックを背負い、歩き出した。明日の学校のことを思う。でも大丈夫だった。今日のことを思いだせば、頑張れる。 
 そう、思った。    
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