第1話

文字数 1,186文字


 イエス様は自身を見て、復活を信じたトマスに「見ないのに信じる者は、幸いである」と言った。宗教の先生が教えてくれたこの言葉は私に違和感を覚えさせた。なぜなら、見えない存在を信じなさいというイエス様の言葉がものすごく胡散臭く感じたからだ。
 夏になると、私は福島にある、母方の祖母の家に行く。帰省する度に、祖母は祖父の話を教えてくれる。祖父はとても人望があったらしく、多くの人に愛されていたそうだ。ここ1、2年、祖母は祖父から酷い扱いを受けたと愚痴を漏らすことも多くなったが、依然としてお墓参りに行くと、祖母の祖父への愛を感じる。
 そして、祖父は自分のことをとてもよく可愛がってくれたらしい。本当によく可愛いがってくれたらしい。祖父はたくさんのおもちゃを買い与えてくれたり、いろんなところに私を連れて行ってくれたそうだ。祖母は未だに私のことを生まれたての赤子のように可愛がってくれるが、それ以上に祖父は私を可愛がってくれたらしい。
 しかし、私が2歳の時、祖父は亡くなってしまう。最後の2年間に祖父は全ての愛を私に注いでくれたと、母は言う。
 こんな話を聞くと、すごい心が痛む。祖父ともっと時間を過ごしたかった。でも、同時に何か心が救われた思いもする。日々の生活の中で、私は孤独を感じることがよくある。それでも、祖父が私を愛してくれたと思うと、言葉ですべてを言い表すことはできないが、救われた思いになる。
 私は祖父についての記憶はほどんどない。それでも、祖母が教えてくれた祖父の話は決して嘘だとは思わない。
 聖書を見る時、祖母から祖父の話を聞くように、神様の愛も信じることができる。特にそのように感じるのは、自身に死刑を要求するユダヤ人のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」とイエス様が祈った箇所を見る時だ。この話が私にはとても嘘だとは思えない。なぜなら、そこには真実の愛があると思うからだ。その箇所以外にも、イエス様が奇跡を起こして病人を癒したり、罪人と交流する姿が聖書には描かれている。実際に奇跡が起こったかどうか私にはわからないが、イエス様が無条件の愛で、社会的に虐げられていた人たちと接していたのは事実にしか思えない。聖書に描かれているイエス様の姿はただの文字ではなく、生き生きとしていて、それを私は信じることができる。
 私たちは神様を目で見ることはできない。それでも、神様との愛的体験を後世に伝えるために命をかけてそれを述べ伝え、聖書に記した人たちがいる。イエス様の「見ないのに信じる人は、幸いである」という言葉は、その人たちの思いを汲み取り、聖書から神様の愛を感じられることがどれだけ幸せなことであるかを今の私たちに教えてくれているのだと思う。
 私の聖書の好きなところ。それは読む時、見えない神様の愛を信じることができるところだ。
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