第1話

文字数 5,000文字

 『残光』  八谷紬

 姉の最期のことばは「またね」だった。そう言って笑って、彼女は電車の前にかろやかに飛び込んだ。たん、とダンスのようにくるりと回って。
 その瞬間、私の世界から音が消えた。頭の中に、姉の声だけがリフレインする。またね、またね、またね……
 点滅する遮断機の赤いランプ、ブレーキがかけられて急停車する電車、どこからか駆けつけてきたひとたち。私の周りには、たくさんのひとがいて、ものがあって、なのにどれもが音を発さない。色は鮮やかに目に入ってくるのに、誰かの声も、やがてやってきたパトカーや救急車のサイレンも、なにも耳には届いてこない。
 耳に焼きつけられた、姉の声。またね、またね、またね……
 あとのことはあまり覚えていない。とりあえず私はなんども誠実に答えたはずだ。姉は自分の意思で、遮断機を越えたのだと。たぶん警察の人に、もしくは両親に。あとはどうしたんだろう。気がつけば家にいて、いつの間にか、お葬式だった気がする。
 ああでも、ひとつだけとてもよく覚えている。
 誰かが拾い上げていた、姉のうで。肘から下しかないそれは、不自然なほどに白くて、きれいだった。それ以降、姉の身体は見ていない。

 姉は、間違いなく自殺だった。
 けれど、それを認められない両親は事故だと言い張った。
 品行方正、優等生、スポーツも得意で誰からも愛される姉。学校で問題になったことは一度もなく、常にクラスの中心にいる存在。艶のある豊かな髪に白い肌。誰もが羨むような丸くて大きな瞳。多少、鼻が低かったけれど、それがむしろチャームポイントだっただろう。そんな、とてもよくできた姉。
 遺書もなければ理由も思い浮かばない。だから両親は自殺なんて信じられない。
 それは、よくわかる。同時に私は事実を知っている。けれどそれが正しいかどうかは判断できないし、もしかしたら真実は違うのかもしれない。だったら、両親は両親の信じたいようにすればいい。私は、私の知っていることをただ記憶するだけだ。もう二度と、消えることの許されない記憶。
 私たち家族の中から、姉というピースが消えてしまった。それだけは、ほんとうのこと。姉の部屋は、まだそのままだけれども。とてもきれいなまま。姉のように、きれいで清潔なまま。
 姉は今も、私の夢のなかで微笑む。遮断機を越えた先で、驚いて声をかけた私を振り返って。青い空、紺色のスカート。重たいダッフルコート。手にしていた鞄につけられた、小さな兎のストラップ。
 私の耳に焼きついたことばも消えない。いつだって私の側にある。そして囁く。またね、またね、またね……
 それにもうひとつ、記憶の中から掘り起こされた彼女のフレーズがある。
「永遠って、どうしたらなれると思う?」
 それが本心なら、あれはもう、呪いだ。
 

「ただいま」
 冷えた身体をぎゅっと小さくして、扉のすきまに滑り込ませる。家の中は予想通りたいして暖かくない。手袋だけはずして玄関にかけ、ブーツを脱ぐ。
「おかえり」
 中から聞こえる声に、今日も生きてたと安堵する。違う、今日は生きてた、かもしれない。
「肉まん、買ってきた。冷めてるかもだけど」
 ひとつしかない部屋に入ると、彼もまだコートを着たままだった。
「ありがとう。今ちょうど、お茶を淹れていたところ」
 先に暖房をつけようよ、と思ったけれど口にしない。今日はそういうことを言わない日だ。そのかわり私がリモコンを握る。
「昨日作ったおでん、今日も食べようか」
 そう言った彼の鼻が赤かった。私は無言でうなずく。電源を入れられたエアコンが、新しいくせに壊れそうな音をたてる。
 温かい緑茶がたっぷり入ったマグカップを両手に、彼がソファへと座る。私は肉まんの袋を持って、その隣へ腰を下ろす。
 ふたりしてコートを着込んだまま、寒そうな空が見える窓を向いて無言で食べて、飲んだ。

 私は今、姉の恋人だった男の人と住んでいる。彼はもう社会人で、自分でこの部屋を借りて暮らしている。そこに大学生の私が転がり込んでいる形だ。周りには恋人同士だと認知されているだろう。大学生と社会人はありえなくない組み合わせだ。それが一緒に暮らしているのだから、そう思われることに文句はない。
 両親には、正直に話してある。けれどなにも言われなかった。そう、とだけ。まだ学生の娘が男と二人っきりで暮らすというのに冷たい気もするけれど、きっとそんなことどうでも良かったんだろう。あのひとたちは、まだ、姉というピースを無くしたことが受け入れられていない。それとももしかしたら、このひとだから良かったのかもしれない。自分たちと同じ、大切な存在をなくしてしまった同士。
 それも、否定はしない。だから私もここにいることを許されたのだろう。彼は姉以降、ひとりも恋人を作っていない。

 コンビニの肉まんは、ちょっとしょっぱくて冷めていた。それでも胃になにかが入ると身体がすこし、ゆるくなる。温かい緑茶が入ればなおさらで、本気を出してくれたエアコンのおかげで、ようやくコートが脱げるようになる。
「おでん、すぐ食べる?」
 まだコートを着たままの彼が私を見ずに問う。
「ううん、あとでいい」
 どんよりとした空が、もうすぐ夜を迎えにゆく。
 同じ日なのに、今日は一日とても空が暗かった。風も冷たくて、でも雪は降らなくて、ただただ凍える日。あの日はもっと晴れていたのに。姉はきっと、そういう日を選んだんだろうに。
 脱いだコートをハンガーにかけて、もう一度ソファへと沈む。彼の手が、私の手にそっと触れた。
 今日は、特別な日。なにもしない、特別な日。

 初めてこのひとと出会ったのは、姉のいる高校へ入学した日だった。入学式を終えた私を迎えにきてくれた姉の隣にいた、背の高い茶色い髪のひと。一瞬、姉の恋人とは思えない雰囲気に驚いたけれど、丁寧な挨拶をしてくれた姿は悪くなかった。それから幾度となく顔をあわせて、時折三人で出かけたりして、私も、ひととしてとても好きになっていた。
 だけど姉の葬式の後は、しばらく会っていなかった。だって、いつまでも姉のことをひきずらせてしまったら、申し訳なかったから。私たち家族と違って、彼には忘れる権利がある。
 ひさしぶりに会ったのは、私の大学合格通知がきたときだ。どこからかそのことを知って、彼はおめでとうと連絡をくれた。大学生の彼は相変わらず茶色い髪で、とても、丁寧に会話をしてくれていた。
 そこから、すこしずつ、一緒にいる時間ができた。同じではなかったけれど、ふたりの大学は遠くもなく、たまに会って、ご飯を食べたり買い物に行っていたりした。やがて彼が卒業し、あたらしく部屋を借りると、ふたつあった鍵のひとつが私の手元にやってきた。それから、私はそこに住んでいる。いつでも出て行けるだけの、最低限の荷物を置いて。

「寒いね」
 彼はとても、寒がりだった。
「布団、敷こうか」
 私の提案に、彼ははにかんで、うなずいた。
 私は押し入れのふすまに手をかける。彼は静かに立ち上がって、マグカップとゴミを片付ける。
 その背中に、生者とは思えない哀しみがあった。

 このひとのなかに、今もまだ姉が生きていることを、私は知っている。いやというほど。
 そしてたぶん、私のなかにも、彼女はまだ生きている。
 だからこそ私たちは、一緒にいるのだろう。
 中心にいるのは、永遠になった、姉だ。

 ソファの横の、限られたスペースに敷かれたちいさな布団。普段は、ソファを挟んでもう一枚、敷かれる。けれど今日は、ひとつだけ。
 毛布と羽毛布団が広げられると、彼はコートを脱いで先に潜り込んだ。そしてすこしだけ、スペースを空けてくれる。私はそこに、埋まるように滑り込む。
 冷たい布団が温まるのは、まだすこし先だろう。私たちはしばらくそれに耐えるように、頭の上まで毛布をかぶった。
 暗くて狭い、ふたりだけの空間。そこにあるのは、なんだろう。
「また一年、始まるよ」
 彼の胸にそっと触れつつ、私は言う。
「また一年、終わったんだね」
 彼の額が、私の頭にくっついてくる。
 ふたりで静かに笑って、目を閉じる。
 暗くて狭い、ふたりだけの空間。一年に一度だけの、私たちの儀式。

 ずっと、一緒にいても、姉が、いなくなっても。このひとは私のことを、愛しはしない。きっとそれは、これから先もずっとそうだろう。彼のなかに、私が存在するスペースはないのだから。
 私たちが共有しているのは、恋愛感情じゃない。
 朝まで、眠ることなく、ただ私たちはこの狭い空間のなかで、互いにあるものを確かめる。

「忘れてもいいよ」
 今日だけは、言える。このことばも。
「一緒にいれなくなるよ」
 今日だけは、言ってくれる。そのことばも。

 どうしたらいいのかなんて、考えられない。私たちに未来はない。いつまでも過去に生きているのかもしれない。身体だけ、歳を重ねて。周りだけ、進化して。私たちだけずっと、取り残されて行くのかもしれない。
 そうしたのは自分たちだし、あの、完璧な姉だ。
 思い出す、姉の声。繰り返される、またね。点滅する赤いライト。轢かれたはずなのに、とてもきれいだった白い腕。見たことを告げる、自分の声。葬式の、焼香のにおい。すすり泣く、同級生たち。慟哭する両親。焼かれて出てきた、姉の欠片。
 ただただ哀しそうだった、彼の、顔。

 私はあの日以来、姉の顔を見ることができない。姉の顔なら、いやというほど覚えている。「またね」そう言って微笑んだ、無邪気な顔。美しくて、やわらなかな、女の顔。かろやかなステップ。死に向かう者とは思えないほどの、解放されたダンス。
 スマホも買い替えた。写真を消去するだけでは、気持ちは落ち着かなかった。家に帰ればどこかに姉の写真がある。両親なんかはむしろ、写真の姉を眺めては懐かしんでいるのだろう。私は、あの家で生活することが苦痛でしかなかった。だからここに、彼の部屋に逃げ込んだのだ。
 彼も、姉の写真を一枚も持っていなかったから。
 けれどこのひとは、姉を今でも追い求めている。このひとの瞳には、姉の姿が焼きついている。そこに写真なんか必要ないのだろう。だって、私が目の前にいるのだから。
 私の顔は、姉とよく似ていた。
 だから鏡さえ、私はとてもきらいだ。
 またね、そのことばの意味が私はとても怖くて、とても哀しい。

 おめでとう、おねえちゃん。
 あなたは望み通り、永遠になれたんだ。両親も、彼氏も、私も、あなたのことが忘れられなくて、ずっと、ずっとずっと、もがいて生きている。
 またね、なんて。あんな最期のことばったらないよ。
 もしでもまた会えるなら、地獄でも天国でもなんにもないところでも、待っていて、私は言いたいことがたくさんある。ありすぎて、破裂しそう。言いたいのに誰にも言えない想いが、もう重たくてしかたがない。あなたのおかげで、私は彼を愛せないし、彼も私を愛せない。お姉ちゃんは、気づいていたんでしょう。だからそれを選んだ。ほんとうに、それはもう、呪いだ。
 この気持ち、どれだけ言ったら伝わるだろう。
 くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて。
 どれだけ、繰り返せば、この気持ち、なくなるんだろう。
 くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて。
 あなたが望んだ未来は、こういうものだったんだろうか。自分だけ、ずるい。そんなおねえちゃんが、憎くてきらい。
 ねえ、ほんとうに。ほんとうに。
 くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、くるしくて、ねえ、ほんとうに。ほんとうに。いとしくて。おねえちゃん、だいすき。

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