第1話

文字数 2,759文字

「サヨウナラ」
 ボソッと呟く僕。
「はい~、さようなら~」
 大きな声で塾長が挨拶しているのを、他人行儀で聞き流しながら夜も九時、塾を出る。
 そろそろいつもの汚らしい歩道橋が見えてくる。僕は、ゆっくりと階段を上る。下を見ればたくさんの乗用車やトラックが惰性に逆らわずに仕事をこなしている。ここから飛べる肝が据わっていたらどんなに良かったか。果たして、僕にそんな性はないので仕方なくいつも通りに渡りきるだろう。
 橋を渡り始めて少々経つと、僕と同い年くらいの高校生男子三人組が楽しげな雰囲気を隠さず歩いてきた。三人の弾けるような笑顔を見ていると何だか悲哀な感情が湧き上がり喉を潤す。深い殺意すらこみ上げてきて心臓の内側へと押し戻す。
 次にすれ違ったのは、二人して緩いパーマをかけた社会人カップル。これまた今にも弾けそうなスーツと緩まったネクタイがお洒落だこと。目を合わせぬよう、素通りしようとしたところ、社会人男が「僕と結婚してくれ」と社会人女に跪いたものだから、一瞬魂消てしまい立ち止まる。社会人女は「はい!」と言い淀むこともなく、矢継ぎ早に指輪を受け取った。
「そこの君、一枚記念に頼むよ」
 社会人男はセリフを言い終わる前に、僕に一眼レフカメラを渡し、社会人女をお姫様抱っこした。パシャ。
 社会人カップルは僕が撮ったブレブレの写真を見て「有難う。一生忘れない一枚になるよ」と言い軽く僕の手を握って去っていく。
 歩道橋も半ばに来た時、唐草模様の風呂敷を抱えた泥棒が凄まじい勢いで僕の横を通りすぎ闇夜に姿を晦ました。二秒も経たないうちに警棒を振り回しながら警察官が現れ、僕の前で立ち止まり、ゼイゼイ言いながら呼吸を整える。
「ハァハァ、泥棒どっちに逃亡を図ったか分かりますか?」
「えっと、あっちに」
 僕は今通ってきた道の方を指さして言う。当たり前だ。
「ありがとうございます。ご協力に感謝します」
 警察官はペコリとお辞儀を済ませ、また警棒をブンブン振り回しながら泥棒の後を追っかけた。
 警察官の影が街灯の光でも薄薄するまで子細に眺めていると、行き先から叫び声が聞こえてきた。目を凝らして見てみると、今まさに歩道橋から飛び降りようとしている、卑しい身なりの中年の男が一人、その男の足に必死にしがみついて叫んでいる中年の女が一人いる。
「もう何もかも終わりなんだ!楽にさせてくれ」
 中年の男は二歳児が駄々を捏ねるように泣き叫んだ。
「どうして、どうしてこんなことするの、また一からやり直せ……」
 セリフを言いかけた中年の女は、僕に気が付くや否や今度は僕に向かって叫び始めた。
「助けて!夫が死のうとしているの」
 僕は飛び降りる肝が据わっている、勇気ある男に敬意を示し「すみません。僕には無理なようです」と中年の女に返答し、涙する二人を置いて先を急ぐ。
 歩道橋も終わりが見えてきた頃、「ハァハァ」と粗い息遣いが耳に響く。目を細めて見ると声の正体は体中痣だらけの小学生少女だった。横には、頭から血を流している金髪の女が横たわっている。愛愛しい小学生少女は手にしていた血だらけの金槌をボトッ、と落として僕に向いて言った。
「ごめんなさい。わざとじゃないの。もう、もう我慢できなくて」
 ああ、なんて可哀想なんだ。僕は泣いている小学生少女にポケットに入っているぐしゃぐしゃのハンカチーフを渡してあげる。それでも小学生少女が泣き止まないものだから、「強く生きてね」と濡れたハンカチーフを取り上げ呟き、血生臭い現場を後にする。
 ああ、皆なんてドラマチックで壮大な人生を送っているのだろうか。それに比べ僕はなんだ。僕の人生はどうだ。素晴らしいか、羨ましいか、壮大か、ドラマチックか、いや、そんなことはないだろう。僕の人生で映画やドラマの制作意欲を駆り立てるシーンなんて一つもない。
 全人類の中で壮大でドラマチックな人生を歩めるのは、ほんの一握りであろう。では、僕はその一握りに選ばれなかった一人にすぎないのか。だがしかし、一人一人、形は違えど、個性を強く自分の取柄として持ち、歩き方や生き方を自分なりに導き出している。そして、太陽と肩を並べる程に輝いた人生を送ろうとしている。歩道橋の上で出会えた奴らは皆、僕がそれすらしていないと言わんばかりに、全力で否定してきた。もし、仮に、思い出に、歩むべき道に、人生に定義があるとしたら、僕はその定義通りに人生を踊らされているだろう。
 ああ、なんて皮肉なことだろう。たった一握りの人間に、人生を踊らされている僕が全面的に否定されるということは。僕は一体、この小さな歩道橋の上で何をやっているのだろうか。生き方って何だ。人生って、いったい何なんだ。十八の僕にはあまりに巨大な苦悩だ。
 月があくびをしながら登ってくる頃だというのに、僕はこの場を動けないでいる。それでも、時間や明日は僕の人生と一緒になって過ぎていく。
 悔しかったからじゃない。哀しかったからじゃない。つらかったからじゃない。何故だか僕は涙した。唇を噛みしめて。溢れ出る雫は頬を伝い、カラカラに乾いた僕の唇へと向かう。そして、またいっぱいになると顎を伝って歩道橋の上へと落ちた。ポチャ。そしたら、歩道橋の上にいた高校生男子三人組が、弾んでいる会話を手放し僕の方を見た。いつの間にかウェディングドレスとぶかぶかの白いタキシードに身を包んでいる社会人カップルも泣いている僕を見てくる。手錠を掛けられた泥棒も、得意げな顔の警察官も、丁度今、飛び降りた中年の男も、一緒になって落ちていく中年の女も僕を見た。一番近くにいる、泣いていた小学生少女とボコボコに頭が潰れている金髪の女も僕を見る。
 お前らはなんて目で僕を見るんだ。僕の薄っぺらい人生の全てを知っているかのような目だ。内臓まで見透かしているような。
 僕はやっぱり、悔しくて、哀しくて、つらくて、感動して泣いた。
 涙で辺りがぼやけてくる程泣いて、僕はゆっくり目を閉じた。自動車や電車の音、周囲の雑踏とした音を飲み込んで。
 心臓の音が正常音を取り戻したころ、僕はふと気になって後ろを振り返る。
 そこに奴らはいなかった。僕のことを否定していた奴らは、もういなかった。
 ただ、今は薄暗い街灯がつまらなく暗いしけた夜を、月明かりに味方して照らしているだけである。
 きみが悪いほどに、そして、何事も起こってはいなかったかのような静謐な空気が漂う。
 僕は、思う。奴らって、僕の理想や、妄想だったのではないかと。なんだ、結局は全部僕の独り善がりだったんだ。そう思えると少し気が楽になり、また、人生とともに時間や明日を越えられそうだ。そんな心持ちが絶えないうちに速足で、血の付いた金槌と光輝く指輪が転がる歩道橋を後にする。


歩道橋


 
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