第1話

文字数 1,163文字

わたしはキリスト教系の高校に3年間通っていました。毎朝の礼拝や週に数回、聖書の授業があり、聖書のテストでは暗唱聖句などを書かなければなりませんでした。わたしは聖書のテストのためだけに暗唱聖句を覚え、高校を卒業してからは一切聖書を開くことはありませんでした。

それから約10年後、仕事で海外に住むことになり、そこで知り合った現地の方に誘われて教会へ行ってみました。当時はほとんど現地語が分からなかったので、教会でも何を言っているか全く理解できませんでした。しかし、礼拝後に友人たちとハンバーガーを食べに行くのが楽しみで毎週教会に通っていました。ふと、教会に行っているのに聖書がないのはおかしいかなと思い、高校で使っていたあの聖書の存在を思い出し、母親にわざわざ郵送してもらいました。

友人たちが熱心に教会へ通い、神を信じている姿を見て、「聖書には何が書いてあっただろう?」と思い、最初から最後まで読むことにしました。すると、高校入学時、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」の聖句を引用し、校長が話してくれたことを思い出しました。担任教師が「人にしてもらいたいことを人にもしなさい」という聖句で証をしてくれたことを思い出しました。海外で教会へ通い始め、聖書を通読し、自分も神様に導かれた道を歩んでいきたいと思うようになって、日本へ帰国してから日本の教会へ通い、洗礼を受けました。

それから数年後、不妊治療の末、妊娠しました。しかし、娘の誕生を心待ちにしていた頃、体調を崩し、病院へ駆け込むと娘はお腹の中で亡くなっていました。胎盤剥離を起こしてしまい、胎児だけでなく子宮も失ってしまいました。

病院のベッドに横たわり、絶望の中、真っ先に思ったのは「自分のせいかもしれない」でした。妊娠中は胎児のことを考え、食事や行動等には気を付けていたけれど、母親であるわたしの不注意で娘がこんなことになったのかもしれないと自分を責める気持ちが生じました。しかし、わたしはすぐにこの気持ちを封じようと決めました。そうでなければ、わたしは一生、深い穴の中にこもってしまい、笑うこともできなくなるだろうと強く感じたからです。

その思いと同時に「(神は)耐えられないような試練に遭わせることはなさらない」、「あなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられない」などの聖句がどんどん頭をよぎりました。神様がわたしに語り掛けてくれているように感じ、心を平常に保つことができました。

この体験を通して、神様はわたしに歩むべき道を示してくれていると感じ、教会では障害のある子供やその親のサポートをする奉仕をしています。聖書の御言葉があるからこそ、神様の声を聞くことができ、希望を胸に前へ進むことができました。もう聖書を手放すことはできません。
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