第1話

文字数 2,051文字

 暑かった二〇二二年の夏も終わり、一安心したが、寂しいといえば寂しい。夏の間は当然クーラーを稼働しており、電気料金の請求書に頭を悩ませた。十月になると最高が三十度を超えることがなくなり、めっきり涼しくなった。最近は健康のため、ウォーキングを日課としている。歩数計を身に着け、毎日一万歩近く歩いている。
 秋晴れで気持ちがいい。公園のベンチに腰掛け、コンビニエンスストアで缶コーヒーを買っており、がぶがぶと飲んでいた。空を見上げるとカラスが飛び交っており、うるさく鳴いている。私が住んでいる地域はニュータウンだが、少子高齢化が進んでおり、平日の昼間なのに子供はあまり見当たらない。私は二十四歳で、大学卒業後、弱小出版社に就職し、編集の仕事をしていた。しかし信じられないほど給料が安く、おまけに忙しく、このままではいつか倒れてしまい、過労死するだろうと考え、逃げるようにして会社を辞めた。 
 私は現在失業中で、ふらふらしている人間だ。失業手当を支給してもらっているが、求職活動もやる気がなく、しばらく気楽な失業者でいたかった。働きたくないわけではないが、雇われ仕事をしたくない。どうにかして働かず、生活していく方法はないものだろうか? 田舎で自給自足する生活に憧れるが、現実的ではないだろう。考えを巡らせるが、妙案が浮かばない。いっそのことヒモでもいいが、ヒモも才能がいるのは例外ではない。 
 グレーの野良猫が目の前を横切った。無意識に目で追っていると、自由な野良猫が羨ましくなった。風が吹き、急に寒くなり、体が震えたので、パーカーを羽織った。
 社会人になる前は大学生で、キャンパスに通っていた頃は、彼女がいた。彼女の名前は奈加だった。奈加は文学部で大きな目が印象的で、ショートカットがよく似合う女の子だった。奈加は魅力的なので、引く手あまたなはずだが、なぜ私と付き合ったのだろう。案の定半年後に、彼女が他の男と寝ていたのが発覚し、あっけなく自然消滅した。
 会社に勤めていた時は、ストレスを抱え、いらいらして気が狂いそうだった。上司に罵声を浴びせられると、精神的に追い詰められる。会社の人間関係で悩んでおり、ノイローゼになりそうだった。休日になるとぐったりして、一日中寝込んでいた。できるなら山奥でひっそり暮らしたかった。
 会社に出社すると、パニック障害のような症状が現れた。さすがにこのままだとまずいだろう。会社の同僚も、櫛の歯を引くように次々と会社から去っていった。
 やむを得ずメンタルクリニックに通い始めると、主治医からは適応障害と診断された。精神科医は上から目線だし、診療は五分だし、向精神薬は大量に処方されるし、精神科など二度と行くまいと誓った。
 現在は大学の心理教育相談センターに通うようになった。もちろん有料だが、相場に比べて安い値段なので、失業中でもどうにか支払うことができる。
 心理教育相談センターには月一回面接に通っているが、僕の担当のスタッフは、杉山さんという臨床心理士だ。スレンダーだし、女子アナウンサーのようなクールビューティーな女性だ。しかしカウンセリングは、効果があるのかよく分からない。相談料を支払うことに疑問を感じることもある。カウンセリングは詐欺なのだろうか? 結局私は心理教育相談センターに通う動機は、杉山さんに会うためなのかもしれない。
 引き続き緑道を歩いていたが、不意に立ち止まり、辺りに人がいないかを確認し、きょろきょろと見渡した。野良猫にでくわしたときのために、缶詰のキャットフードをスーパーマーケットで買って、ポケットに詰め込んでいる。本当は野良猫に餌をやってはいけないのだろうが、野良猫が飢え死にする可能性があるのでやめられない。
 緑道を歩いていると、あの猫が現れた。真っ白な猫だ。私は「お嬢」というニックネームで呼んでいた。野良猫なのに色っぽく、優雅な仕草なので、まるで水商売の女性のようだ。私は「お嬢」に惚れている。恋愛は障害があるほど燃えるらしいが、生物の種が違うのは、あまりにハードルが高い。
「お嬢」が体を近づけてきた。おそらくマーキングだろう。二人を引き合わせてくれるのは、愛の力だと確信している。彼女はもちろん携帯電話を持っていないから、連絡することもできない。彼女と会うことができるので、十分幸せだ。
 私の現在の恋愛相手は人間ではない。人間の女の子は嫉妬深く、束縛しようとするので、もうこりごりだ。白い猫の彼女は気紛れで、いわゆるツンデレだ。「女心と秋の空」というくらいだから、女心は難しいのだろう。ミステリアスな彼女だ。 
「お嬢」は私にまとわりついている。私は白い猫の背中を撫でてやる。「お嬢」は満足そうな表情を浮かべている。真っ白な猫は、「ニャア」と鳴いた。「お嬢」を見詰めていると、気持ちが満たされる。穏やかな時間が未来永劫流れていればいいのに……、と願った。私は彼女を狂うほど愛している。もう十月なのに季節外れのセミが鳴き始めた。(了)
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