文字数 2,585文字

 ある日、継人は一人で座敷との仕切りを開け放った縁側の軒の影に座り、前日の夜に山下の父が出してきた古いアルバムを見返していた。そこには山下の父がまだ中学のころの写真がきれいに整理してあって、白黒ではあるが今と変わらない座敷の床の間や、これも今と変わらぬ庭の灯籠などを背景に、山下やその家族、親戚、友人たちが写っていた。髪をポマードでまとめた背広の男たちにまじって着物の女性の姿もあり、誰もが体にぴったりと合った服を着ている。昔の人々は、まるで映画の一シーンを見るかのような端正な様子をしていた。
 すると、そこへ山下の父がふと現れた。
「やあ。アルバムをみとるんかい」
 山下の父は継人の隣にどっかりと座り込む。継人は山下の父に対して、まるで肉親のような親しみを感じていて、そのことを少し照れくさく思った。いったい自分は父親というものには無条件に惹かれるようにできているのだろうか。山下の父は継人が膝に広げたアルバムを横からのぞき込むようにして、指で写真を指しながらポツリポツリと解説を始める。そこに写っているのはずいぶん昔の事物にちがいないのに、彼は当時のことを何でもよく覚えていた。継人の父とはちがい、山下の父はよくしゃべった。
 継人の父は、家ではほとんど話をしない。継人にとっては謎めいた父親だ。埼玉の自宅を店舗にして小さなガス工事店を営んでいる。ネットでも注文を受けていて、その丁寧できめ細かな仕事ぶりは、客の評価も高いようだ。給湯器の壊れやすい冬になると、継人の父はほぼ毎日、工具や部品をハイエースに積み込んで、一人で工事へ出かけていく。
 父には親戚もなく、昔の写真もないらしい。母に聞いても知らないと言うばかりだ。あるとき、継人があまりしつこくたずねるので、母は氷のように冷たい無表情の中に閉じこもり、きつく黙り込んでしまった。まるで父の過去など金輪際触れたくもないとでも言わんばかりに。そのような態度を取るのは、やはり何かを知っているからだろうと継人は思う。
 継人は子供のころから父に勉強しろなどと小言を言われたことは一度もない。父はどこかいつも心ここにあらずといった風で、継人には父が何を考えているのかまったく想像もできないまま、この歳まで来てしまったのだ。朝、食卓についた父がときどき継人に投げかけるまなざしは優しかったが、どこか腫れ物にさわるような、遠慮がちなところがあるようにも思えた。食事を済ませると、父はそそくさと自宅内事務所へと去ってしまう。そんな父の態度が感染ってしまったのだろうか、継人の方でも父の心の中に踏み込むことは忌諱に触れるような気がして、父との心の触れ合いに対する強いためらいの気持ちが働いた。継人は父をもっとよく知りたかったし、打ち解けて話をしたかったが、それと同時に、今のままでいい、これ以上父のことを知るのが怖いという気持ちが、どこかにあることも否定できなかった。それに、なぜ父のことをそんなに常に気にかけなくてはならないのか? 自分には自分のやることがある。いつも自分にそう言い聞かせ、継人は食卓をあとにする。

 継人は山下家のアルバムの中の一枚の写真にふと目をとめた。それは運動会の写真で、前景には、まだ中学生の山下の父とその友人らしき三人が、そろいの運動着を来て、笑いはしゃぎながらスクラムを組んでいる。だが継人の目を惹いたのはそこではなくて、三人組のうしろにポツンとつっ立ってこちらを見ている、そびえるように体の大きな男だった。男といっても、他の子供たちと同じ運動着を着ているから中学生にはちがいないのだが。しかしその壁を思わせる人並み外れた体の大きさと、それとは対照的な虚ろな表情とがかもしだす茫洋とした様子は、継人の注意を引くのに十分だった。
「ここに写っているこれは、誰ですか?」
「これ? このうしろの? ああ、これはてっちゃん、確か有城哲人(ありきてつと)といったかな」
「有城哲人……あごの所に傷あとがありますね」
「そう。これは、てっちゃんがまだ小学生のとき、鉛筆で友達に刺されよったんです。その相手も我々の知り合で、富樫泰明といって、とがっちゃん、とみんなからは呼ばれとりました。真面目で穏やかな、その綽名とは裏腹に丸みを帯びた性格の、いいやつでした。でも、とがっちゃんはそのときのケンカでてっちゃんに制裁を受けて、ゲンコで殴られて、前歯を数本へし折られました。それからとがっちゃんはすっかり元気をなくしよりました。不思議なもんで、それまでは明るいやつだったのに、そのケンカを境に、すっかり陰気な性格になってしまいよって……そもそもとがっちゃんは、それまでてっちゃんの唯一と言ってもいい友達で、仲良くしておったのにねえ。とがっちゃんにケンカの訳を訊ねると、とても酷いことを言われたので刺した、と言っておりました。その酷いこととはどんなことかと訊ねても、教えてはくれませなんだ。ただ、我々にもてっちゃんの普段の行動から、そのケンカのいきさつを、なんとなく想像はできました。てっちゃんは、なんというか、いつも何を考えているのか分からんところがありましてな……それまで仲良くしていたはずが、何の理由もなくいきなり態度を変えて、酷いことを言ったりしたりする……どこにでもおりましょう、そんな、自分の人生にはちょっと、関わってきては欲しくないと思わせるような人が。てっちゃんはやはり、どこかそのような所のある人でした……」
「この人は、いまどうしてます?」
「中学卒業とともに町を出て、今は音信不通です。てっちゃんは幼いころに両親を亡くしましてなあ。祖父に育てられたが、その祖父もいまでは亡くなってしもうた。もうずいぶん前になるが、葬式にもてっちゃんは帰ってはきませなんだ。他に身寄りはないはずだが……でも、どうしてそんなことをお聞きなさる? あなたのお知り合いかな?」
「いえ、そういうわけじゃないですが」
 継人はそう答えてその場をごまかした。だが、てっちゃんが自分の知り合いだと言えるかどうかは実際、微妙な問題だった。なぜなら、その写真にあるてっちゃんの顔は、よく見れば見るほど、継人の父親にそっくりだったからである。奇妙な類似はそれだけではなかった。てっちゃんのあごにある傷は、父のあごにある傷とまったく同じ形をしていた……
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