第1話

文字数 7,134文字

 読み終えた文庫本の裏表紙を覗くと簡単なあらすじが載っていることがある。簡潔で要を得た説明にことさら異を唱える気にもならないが、目を通してみるとどこか据わりの悪い感触が過ぎる。具体的に何が拙いというのでもない。自分が要約を書けばもっとひどいものになるだろうとも思う。それでも漠然とした、半ば無意識下の違和感がどうしても拭えない。あるいは、こういう書評などを書いているとしばしば起こる、言い表そうとしているものと書きかけた言葉とが食い違っているように思える事態を例に挙げてもいい。実感に忠実であることを求めるほど文章としては不自然になり、文として自然であることを取ると書きたかったことから離れてしまう。ジレンマの中で自然な文の方が見映えするとは感じつつ、読みやすさを選びたくない気持ちが拭えない。
 どうやらわかりやすさや読みやすさに反感を抱いているらしいのだが、その理由が自分にも判然としなかった。保坂和志の『読書実録』は、この違和感に輪郭を与え、大袈裟に言えば今後の自分の生き方に一つの指針を示してくれた。


 迂回になるかもしれないが、まず一本の補助線を引きたい。
 今年みすず書房から発刊された『フロイディアン・ステップ』によると、ナルシストの由来であるナルシシズムというのはフロイト出典の言葉だが、フロイト自身は俗に言われるような「自己愛」の意味でこの言葉を使っていないそうだ。精神分析を科学として成立させるために理論の模索をつづけた過程でニュアンスや意味合いはずいぶん揺れ動くのだが、少なくとも自己愛としてのナルシシズムはフロイトの意図に反する用法だ。では本来のナルシシズムとは何なのだろうか。
 統合失調症やメランコリーの患者の体から病理の根をさぐる臨床の場で、フロイトは一つの仮説を立てる。それは人の心的欲動=リビードという概念を措定し、このリビードが量的に増加すると不快、減少すると快になるとした上で、後にナルシス神経症と呼ばれるようになる一連の疾患は、患者が外に向けようとしていたリビードが何らかの原因で遮られ、行き場を失した末、自分自身に回帰したために生じるのだという。リビードが対象を失い、自己の中で自家中毒を起こしているこの状態が「ナルシシズム」の意味なのである。
 この定義を受け、自身も精神分析医である著者の十川幸司は、患者との臨床の場でフロイトの理論を更新する。患者は社会人として優秀に働く生真面目な女性なのだが、治療に際にしてパーソナルな領域に踏み込まれることを避けつづけ、著者を逆撫でするような振る舞いをつづける。進捗のない長いカウンセリングの末、著者はようやく彼女が隠していた領域を聞き出すことに成功する。彼女はいわゆるマゾヒストで、特定の相手を持たずに定期的にSMクラブへ通う習慣の持ち主だったのだ。このことから著者は、これまでの治療で彼女が分析のための対話の場という現実を退け、著者の加虐性を引き出そうとしていたのだと気づく。プレイの道具にされていたのだという戸惑いの中に、著者はこの患者の姿にこそナルシシズムの真の姿が示されていると考える。

「 患者の関心は分析家にも、分析家との関係で起きている事柄にも向かない。患者は分析関係において一人であり、分析家も一人にさせられる。このような関係を、分析家の側から見れば、患者との二者関係はなく、分析家は不在の相手とかかわっているような印象を受ける。このような関係の不在を生み出す病理こそが、ナルシシズムの本質である。
(中略)ナルシシズムの臨床形態は、関係の不在生というだけでは不十分であり、関係の不在性と過度に激しい興奮である。しかもこの興奮が、他者との関係に向かうことはないという点を考えあわせるなら、ナルシシズムは、関係性の切断と関係の外部における興奮と定義するのがより正確であろう。」

 ナルシシズムというのは他者と向き合うことなしに、他者をただ欲望の道具として行使する様を指す。自己愛は関係ない。たとえいっさいの自惚れと無縁だったとしても、人はナルシストであり得る。他者と関係を結ぶことのできない者はおしなべてナルシストなのだ。反対に、一見して暴力的で独善的に映ったとしても、ナルシシズムとは無縁の人もいる。こう言って念頭に置いているのは、『こことそこ』(保坂和志『ハレルヤ』収録)の主人公とも言える登場人物、尾崎である。
 横須賀で暴走族のリーダーをやっていた尾崎と語り手は、映画監督である友人の撮影で知り合った。エキストラに暴走族を使うことになり、それを手配できる男として監督が紹介されたのが尾崎だったのだ。彼とは友達と言えるほど親しくしてきたわけではないが、「今度飲みに行こう」という科白が社交辞令にならない程度にはお互いに好感を抱いていた。還暦を迎えた語り手の元にその尾崎の訃報が届き、かつての映画仲間でお別れの会を開くことになった。
 作中、尾崎の人物像について多くは描かれないが、かつてのフィルムを流してみんなで「若い、若い」と猫のようににゃあにゃあ騒いで明るく送ったというエピソードにそれは如実に表れている。葬式における無類の明るさは社会的には顰蹙を買うような振る舞いだが、だからこそ彼にふさわしいものだったのだろう。

 ところで『こことそこ』では酒井隆史という社会学者からの引用がある。それは『通天閣』の注に著者本人も深く考えずに書きつけた一節なのだが、保坂和志はこの一節を著者以上に重視し、『読書実録』の「スラム篇」と題された章の冒頭にも載せる。

「 この社会の核には「悲しみ、懊悩、神経症、無力感」などを伝染させ、人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法がある。日本近代史のある時点で、統治がうまく活用することを学んだ技法である。」

 『フロイディアン・ステップ』の文脈で読むと、この社会は個人の言葉に対してナルシシズムを揮っている。言葉を統治という社会の欲望を満たすための道具として行使し、メディアや世間の雰囲気といった形で、そこに生きる個人を「人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法」というナルシシティックな暴力に曝しているのである。これはロラン・バルトがドグマと呼んで痛烈に批判した言説でもある(『言語のざわめき』)。世間の顰蹙を買うような華々しさで見送られた『こことそこ』の尾崎は、この社会の「統治の技法」から徹底的に反した人物だったわけである。
 一方、「スラム篇」には「統治の技法」の具体例とも言えるような場面が出てくる。それは語り手と友人との会話に表れるのだが、前後の文脈を含めて抜き書きしてみたい。
 語り手は芸術の無計画さを説いた流れで、戦場ジャーナリストや登山家・冒険家と言われる人たちは安全な場所にいると不安になり、危険な場所にいる方が居心地がいいと語る。彼らの言う「不安」とか「居心地がいい」は、社会に適した言葉・概念がないから、間に合わせに同じ言葉を使っているに過ぎず、それを文字通りに受けとって「統治の技法」に属する言葉で考えても解釈できない。そもそも解釈という行為が彼ら個人の実感を殺して社会に統治するためのシステムなのだ。同じ意味で、カフカの小説もまた、解釈することでカフカの小説ではなくなってしまう。
 これを聞いた友達は、解釈しない読み方に意味があるとは思えないと漏らす。「友達がここで使った「……に意味があるとは思えないし」というこの構文の、既定路線で変更しようがないしする必要もないと感じさせる頑強さはどういう語法の効果なんだろうか」と語り手=保坂和志は呟くのだが、「語法の効果」を「統治の技法」と読み替えればそのまま『通天閣』が現れそうだ。
 最初にふれた裏表紙のあらすじもここで言う解釈と同じものである。対象を小説に限らずとも、解釈とはそれを社会に受け入れられやすい別のものに歪曲する行為なのだ。このことが端的に表れているのが日々目にするメディアのニュースで、あれは事件という出来事を「語法の効果」=「統治の技法」によって飲み込みやすく解釈したものだ。『読書実録』ではパレスチナ問題に焦点を当て、二人の先人を導きにこのことを掘り下げていく。
 まず参照されるのはジャン・ジュネの『シャティーラの四時間』という作品だ。この作品は『こことそこ』の終盤でも取り上げられており、フェダイーンと呼ばれる若い兵士たちと暴走族の少年たち、中でも尾崎とが重ねて描かれる。というか『こことそこ』はフェダイーンと尾崎とを融合し得るかに全体重がかかっていると言っても過言ではない。
 フェダイーンとは解放戦士とも言われ、イスラエルによる支配からパレスチナを解き放とうと奮闘した兵士のことである。パレスチナ問題で犠牲になった人々でもあり、彼らはイスラエル軍の後ろ盾があったとも言われるキリスト教系の武装集団に襲撃され、女性や子供も含んだ難民キャンプで無差別に能う限りの殺戮を受ける。ジュネの『シャティーラの四時間』はたまたま現場の近くに居合わせたジュネがジャーナリストを装ってシャティーラの難民キャンプに足を踏み入れたルポタージュになる。ジュネは事件以前にも何度かパレスチナを訪れており、残酷極まる事件とそれ以前のパレスチナとを対象的に描く。『読書実録』ではこの作品と、ジュネと同時期にパレスチナへ行った映画監督、若松孝二のインタビュー記事「パレスチナ報告」とをつきあわせる形で参照していく。若松孝二が訪れたのはジャバル・フセインという難民キャンプで、こちらはヨルダンのフセイン国王によって攻撃され、破壊される。
 股引きになるが、若松孝二の言葉をそのまま引用する。
 ただ、こういう状態にあっても、彼らは不思議に明るいんだ。かつてイスラエルに、ちょっと困っているから雨宿りをさせてくれっていうんで軒下を貸してやったら、ここはおれのウチだからお前ら出ていけって、全部乗っ取られて追い出された。その人たちがみじめな状態におかれている、こんなバカな話があるか、これは許せないじゃないか、と僕は思うんだ。日本でできるなら、パレスチナのために何かやりたいという、そんな形でパレスチナとの出会いがある。しかし、彼らは自分たちのこと、みじめだという風には思っていない、燃えているんだ
 保坂和志が強調するのは次の点だ。ジュネも若松孝二も、難民キャンプの人々が悲惨だとは書かない、むしろ彼らの陽気さは不幸を突き抜けていたと証言する、なけなしの食料を老いたフランス人や血気盛んな東洋人に気前よく分け与え、そのことに誇りや喜びを抱く。尾崎のお別れの会が騒々しく楽しかったのと同じように、社会がどう見做そうとも彼らは幸福だった、というか社会における幸/不幸という概念の埒外にいた。
 「パレスチナ報告」には注がついており、編集者が書いたと思われる事実関係を簡潔に表した文が添えられている。ところがこの注からは保坂和志が強調した点がまったく伝わってこない。何が起きたのか把握しづらい若松孝二の言い方と比べて、整理された注の書き方は「わかることで逆に事態は遠くなっていないか」という疑問を抱かさせる。晩年のジュネが受けたインタビューを引用しつつ、保坂和志はこのことをさらに掘り下げていく。
 八三年のインタビューで質問者が「我々はパレスチナの戦闘のニュースがあたり前になってしまったために、現実でなく非現実と感じているように思う、そのことについてあなたはどう思うか?」と言うと、ジュネは、
「むしろ私にしてみれば、すべてを非現実に変えてしまうあなたがた(マスコミ)のことを強調しておきたい。」と答える、「あなたがたがそうするのは、そのほうが受け入れやすくなるからだ。現実のキャンプに本物の手紙を運ぶ女よりも、非現実的な死者、非現実的な虐殺の方が結局は受け入れやすいものだ。」
 この「非現実」という言葉はフィクションと読み換える方がわかりやすい、テレビや新聞の報道は現実を伝えるのではなく現実をフィクションに変える、さっきの注のわかりやすさはそれと関係しているだろう、「わかる」「わかった」と思った途端に現実はフィクションになる、あるいは伝えるという行為が現実をフィクションに変える、
 ここで語られているのは、わかりやすさという「統治の技法」がいかに暴力的に現実を蝕むかということだ。しかもその暴力は人々の死角に溶け込み、自分が暴力に晒されているとは気づかせない。簡潔なわかりやすさをありがたがるような人も出てくる。そうでなくとも、社会の多くの場ではわかりやすさが正義とされている。ジュネも若松孝二も、この意味での正義とは対極にあった人だ。
 特に若松孝二に関しては、今でこそ国際的に評価された実績ある監督だが、若かりし日にはヤクザの下働きをしたり、チンピラの喧嘩に巻き込まれて逮捕されたりしている。テレビ業界で助監督になるも気性の荒さが災いして馘になり、低予算なピンク映画に行かざるを得なくなったという経歴の持ち主でもある。作品は学生運動に邁進する若者から熱烈に支持され、パレスチナの一件から運動家たちと行動を共にしたこともあった。若松孝二という名前は常にどこかアンタッチャブルな響きを纏っていたのである。

「彼らは自分たちのこと、みじめだという風には思っていない、燃えているんだ」
 パレスチナで出会った彼らを明るく燃やしていた火は若松孝二に移り、映画の世界を熱く濃く駆け抜けていく。その様は『止められるか、俺たちを』(監督 白石和彌)という若松孝二の伝記映画で観ることができる。実は公開当時、テアトル新宿で初日舞台挨拶を観に行ったのだが、その日は登壇しなかった主演の門脇麦が、インタビューで若松孝二について「エネルギーの出方がおかしい」とコメントしていた。映画を観るとそのおかしさが体感できる。彼の言葉は徹底して社会の通念から外れ、バルトがいうドグマと闘い、それを壊そうとして止まない。若松孝二に後ろ暗いような、どこかアンタッチャブルな響きがあるのは、彼がピンク映画の監督だったからでも前科があるからでもなく、パレスチナで燃え移ったアナーキズムの火影によるものだろう。「統治の技法」を揺さぶる者には不穏さがつきまとうのである。
 『止められるか、俺たちを』の若松孝二は、東北なまりを隠そうともせず、ことあるごとに金の話をし、スタッフがミスをすれば「おれの視界に入るな!」と罵声を浴びせる。今でいうブラック企業の経営者めいて見えるときもあるが、同時に弱い立場の者を前にすれば一緒に傷を負うように共感し、本気で涙を流し、助けられないかと必死に悩む。仕事や私生活に迷う同僚を見れば不器用ながらも背中を押さずにはいられない。彼はどこまでも人間臭い魅力に溢れている。周囲の者は彼に否応なしに惹きつけられていくが、同じ魅力がやがては彼らを蝕んでいく。その最大の被害者は映画の主人公でもある吉積めぐみだ。若松プロで助監督になった彼女が敬愛する監督の毒にどう侵されていくのか、映画は丹念にその姿を追っていく。
 この映画の台本には、一ページ目に「映画を武器に世界と闘う」という若松孝二の言葉が書かれていたという。彼という存在は「止まるな、戦え」というメッセージを口ではなくその存在そのものから発しているのだ。激動の時代に悩み、疲弊していく周囲の者たちは息も絶え絶えの中で不断にそのメッセージを浴び、ついには彼に反撥するか黙って離れていくかすることになる。人を巻き込み常に人に囲まれている若松孝二の背中がなぜか淋しげに見えるのは、井浦新の名演もさることながら、実際の監督が有していた雰囲気でもあるのだろう。

 映画を観終わると、こういう人と直に接するとはどういうことだろうかと考えずにはいられない。
 「統治の技法」を揺さぶる人は、正しさや良識を気にかけない。その行動はどこまでも破壊的に映り、苛立ちや憤激を抑えるのは難しい。『フロイディアン・ステップ』の著者で精神科医でもある十川幸司がなかなか治療させてくれない患者へ苛立ちを禁じ得なかったように、職業的に感情をコントロールする術に長けた人ですら、時として「統治の技法」を揺さぶるものに不寛容に振る舞ってしまう。「統治の技法」と闘う以上に、そのような人と接することは苛酷な命懸けのことなのである。それは不快で耐え難い経験だ。しかし耐え難きに耐えることが寛容であり、若松孝二でもジャン・ジュネでもない私たちが「統治の技法」に負けない唯一の方法なのである。
 自分に正義があると思うそのときにこそ、ナルシシズムに陥っていないか警戒しなければならない。ジャック・デリダが言うように、正義は事前の確証が一切ない個人的なものでしかあり得ず、他者に対してそれが暴力になり得るという不安の中でしかなされないものなのだ(『法の力』)。寛容であるとはこの不安に曝されることでもあり、自分自身に対して、苛立ちから己れの野蛮さを直視させられるという形で、「統治の技法」とは別種の暴力を行使する姿勢である。
 重い不快に我を忘れそうになる瞬間も少なくない。しかしそういう他者から逃げて常識的な平穏な世界を選んだとき、人として今まで大切にしてきた何かが死んでしまう。寛容でいられる自信はない。暗い瞬間を予期して絶望的になりもする。それでもこういう不安を自分自身に課すことに意味のないはずはないと、誰にともなく言い張りたいのである。そのような姿勢こそが「統治の技法」を揺さぶると信じて。
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